式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変 

三好三人衆

三好三人衆と言うのは、三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友通(しわなりともみち)の三人を指します。いずれも三好長慶(みよしながよし or みよしちょうけい)の家臣でした。三人衆は、三羽ガラスとかトリオとかの同類の意味です。

三好三人衆が主君と仰いだ三好長慶は、三好之長ー長秀ー元長ー長慶と続く三好本家嫡流の生まれの人です。三好家は代々細川京兆家(ほそかわ けいちょうけ)(細川本家)に仕えて来ましたので、長慶もまた、父・元長亡き後、細川晴元に仕えました。

将軍、晴元、長慶、三人衆の上下関係を>で表すと、将軍>晴元>長慶>三好三人衆と言う形になります。ところが、江口の戦いで、長慶は父の仇の晴元を敗北させ、没落させてしまいました。

晴元は長慶の主君ですが、長慶の父・元長はその晴元によって死に追い遣られたと言う経緯があります。

長慶は主君・晴元を追い払い、将軍>長慶>三好三人衆と言う形に持って行きました。但し、長慶が将軍として推戴していたのは、京都と近江を頻繁に往復していた12代将軍・義輝では無く、堺公方義維でした。

 

義維(よしつな) 

堺公方・義維は、11代将軍・義澄の子で、義晴より2歳年上の異母兄です。何故、長子たる義維が将軍を継がずに、次男の義晴が12代目を継いだのか分かりませんが、義晴の子・義輝から見れば伯父に当たる人です。

武家の習いで義晴は播磨の赤松義村の家で育てられ、後に浦上村宗の手に渡りました。村宗にしてみれば、義晴は戦略上の重要な切り札になります。

一方、義維は阿波の細川之持(ほそかわ ゆきもち)の家で育てられました。細川氏にしてみれば義維は大切な掌中の珠です。

明応の政変で失職した義稙(よしたね)が京に戻り、11代将軍・義澄を近江に追い落として再び将軍になりました。義稙は再任なので12代目とはならず、10代将軍と数えます。

義稙には後継ぎが無かったので、病没した義澄の二人の遺児・義維と義晴を養子にします。

義稙は2回目の将軍職を13年間勤めましたが、管領細川高国と仲が悪くなり京都を出奔,四国の阿波に逃れて病没します。この時、義稙は義維を連れて阿波に落ち延びました。

義維は幼少期に過ごした阿波に戻りました。阿波は義維の故郷の様なものです。そして、細川晴元はじめ三好氏一統や地元の者達から擁立されて、堺に幕府を樹立し、堺公方となります。

 

三好政

義維の家臣・細川晴元は京都政権を打倒すべく、義晴に挑み続けます。晴元の命に従い、三好勢は幾多の合戦に出陣、三好元長討死の跡を継いだ嫡男・三好長慶も、数々の戦に晴元の手足になって働きますが、やがて親の仇が晴元だったと知ります。長慶はかつての敵・細川高国の後継者・細川氏綱の方に寝返り、晴元を攻撃し始めます。江口の戦いで晴元の股肱(ここう)の臣で同族の三好政を討滅します。長慶の追撃を恐れた晴元は、元将軍・足利義晴と13代将軍・義輝を連れて京都を脱出、近江の坂本へ逃亡します。

長慶は主君・細川氏綱を奉じて入洛します。長慶は京都の治安や行政を取り仕切るようになり、次第に京都に足場を築いていきます。その実力は氏綱の影が薄くなるほどでした。長慶は「将軍」と言う旗を立てずに、京都を統治し始めました。

 

義輝 対 長慶

義晴は三好氏の脅威に備えて、銀閣寺の裏山に中尾城を築きます。しかし、義晴は築城途中で病没、その遺志を継いで義輝が受け継ぎ、城を完成させます。

中尾城の戦いは小規模に終わりました。長慶が松永長頼(松永久秀の弟(=内藤宗勝))の別動隊を近江に向かわせ、攪乱しましたので、義輝は中尾城を焼却して撤退します。この戦いで初めて鉄砲が使われ、足軽の一人が死亡したと記録が有ります。

相国寺の戦いでは、長慶・松永軍4万に対して、義輝・晴元側は三好政香西元成を将として3千で向かいます。圧倒的不利の戦いで、義輝・晴元側軍は敗走し、相国寺は炎上してしまいます。

これを見た六角定頼は両者の中に入って和睦交渉を始めます。定頼が亡くなると、その後を息子の六角義賢(ろっかく よしかた)が引き継ぎ、交渉を進めます。

和睦に同意しない晴元はなおも義輝を巻き込んで戦い続け、東山霊山(ひがしやまりょうざん)で戦い、結局、城は陥落、長慶の勝利に終わり、義輝は近江の朽木(くつき)へ落ち延びました。

長慶は、「義輝に従う者の領地は没収する」と通達を出した為、義輝に従った大半の者達は京都に戻ってしまい、義輝に味方する者が無くなってしまいました。長慶の通達に従う者が多かったと言う事は、既に長慶の実効支配がかなり確立していたと言えます。

1558年(弘治4年2月)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)即位に伴う改元は、前例に倣えば幕府との協議で決められていましたが、義輝が朽木に逼塞(ひっそく)していた為にそれがなされず、協議は長慶との間で行われました。近江に居た義輝はそれを知らず蚊帳の外でした。

当時の天下が畿内の範囲を指していた事を思えば、長慶は正に天下取り第一号と言えます。

 

将軍親政

1558年(永楽元年11月)、長慶と義輝の間に和睦が成り、義輝は朽木から5年ぶりに京都に戻りました。義輝は将軍御所に入り、政治に直接関わる様になります。

義輝は三好長慶を幕府の御相伴衆に取り立てました。長慶の嫡男・義長(義興)松永久秀を御供衆に加えました。長慶は政権の中でも中心的役割を果たし、益々権勢は盛んになりましたが、そうなるにつれて旧来の家臣との摩擦も増え、畠山高政六角義賢、伊勢貞孝など、また細川晴元の残党などが反抗しました。三好一族や松永久秀などがそれらを平らげ、幕府に安定をもたらします。

全ては順風満帆の様に見えましたが、長慶に不幸が続き、彼の心が折れてしまいます。長慶の弟・十河一存(そごう かずまさor そごう かずなが)が病死、同じく弟・三好実休(みよしじっきゅう)が戦死し、長慶の一人息子・義興(よしおき(=義長))が22歳で病死してしまいます。長慶は戦死した弟・十河一存の嫡嗣子・重存(しげまさ(=義継))を養子にします。更に主君・細川氏綱が病死、長年ライバルだった晴元も病死し、心のハリを失ってしまいました。

そして、気でも狂ったのか、唯一生き残っていた弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)を長慶の居城・飯森山城に呼び出して自害させ、冬康に随伴して来た家臣も殺害してしまいます。

当時、松永久秀の讒言によって殺したと噂されましたが、今では、その説も含めて、鬱病説や死出の道連れ説、養子・義継の将来の禍根を断つ目的説など多々あります。

長慶は弟殺害を酷く後悔し、その2か月後、冬康の跡を追う様に亡くなりました。享年43歳。

跡を継いだ三好重存、改め義継は、三好長逸三好宗渭岩成友通のいわゆる三好三人衆と、三好家重臣松永久秀の後見を得て三好家を背負って行きます。

 

永禄の変

三好長慶の死によって、将軍親政を目指す義輝にとっては好機が訪れました。義輝は盛んに外交努力を重ね、上杉謙信武田信玄朝倉義景などに上洛を呼びかけました。義輝は又、三好氏や反対勢力を警戒、二条御所の屏や壕などを造り変え要塞化に着手します。

御神輿を担ぐ方としては、御神輿の鳳凰が上に君臨して担ぎ手を指図する様では、担ぎずらくて困ります。大人しく黙って担がれている将軍こそ、彼等が考える最上の将軍です。

三好三人衆にしても、将軍の権威がいや増す義輝よりも、彼等が本来的に擁立しようとしていた堺公方の義維の方を選択しても不思議はありません。

彼等を纏めていた三好長慶、その下で頭角を現してきた松永久秀は、将軍・義輝を頂点とする国内秩序の回復に、幕府と一体になって努力していました。が、彼等三人衆の目には将軍・義輝の懐刀と成り下がったとしか見えませんでした。長慶死後、三人衆の暴発を押えていた重し蓋が外れてしまいました。

1565年6月17日(永禄8年5月19日)、松永久秀が大和に行って京都を留守にしている間に、三好義継松永久道(久秀嫡男)と三好三人衆は1万の軍勢を率いて、義輝の二条御所を襲います。

剣豪将軍と呼ばれたさしもの義輝も、1万の兵を相手には勝ち目がありません。奮戦空しく御所に居た家臣全員が討死、彼もその生涯を閉じました。享年30歳(満29歳)。

 

殺害理由は? 婆流解釈 

義輝殺害については、訴訟のこじれで偶発的に起きた説などの色々な説が出ています。けれど婆は、これは計画的で、初めから義輝の血統を根絶やしにする意図を含んだもの、と見ています。何故なら殺害が女子供まで及んでいるからです。

武家の家では、武士のDNAになる程に骨髄に染みて伝えられている話が有ります。それは平清盛が鬼若丸(=源頼朝)や牛若丸(=源義経)を助命したばかりに、平家が滅亡してしまった、という史実です。

豊臣秀吉が秀次を自害させても未だ飽き足らず、秀次の妻妾と子供や乳母など39名を斬首したのも、秀次の血統を絶やす為です。妊娠していようがいまいが関係無く、それは実行されました。義輝の場合も、子孫根絶やしの考えがあったと、婆は見ています。

そうすれば、彼等が推す堺公方の子・義栄(よしひで)は、安心して将軍職に就くことができますから。