南北朝の動乱の中、足利家で一つの悲劇が同時進行しておりました。それは、日本史最大の兄弟喧嘩とも言える「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」の始まりです。
室町幕府初代将軍・足利尊氏には正室との間に生まれた義詮(よしあきら)と言う男子と、無筋目の女性の間にもうけた直冬(ただふゆ)と言う男子がおりました。尊氏は直冬を認知しようとはせず、その子を寺に入れます。子供の無い尊氏の弟・直義(ただよし)は直冬を引き取り、養父となって育てます。
尊氏と直義兄弟は、尊氏が軍事を、直義が内政を担(にな)い、車の両輪の如く機能して幕府を運営しますが、やがて足利家の執事・高師直が台頭し、幕政に強い権限を発揮します。
直義と師直は対立して抗争が激化。尊氏が師直の肩を持ち、ついに直義は失脚します。これが1349年に起きた「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)です。
直義は師直と戦い高一族を討滅しますが、尊氏によって直義は毒殺されてしまいます。直冬は、養父・直義の敵討ちと実父・尊氏への憎しみで南朝に与(くみ)し、軍をもって戦いを挑(いど)み続け、室町幕府を脅(おびや)かす存在になって行きます。
この項で扱う人物
足利義詮 足利直冬 北条時行 楠木正儀 細川清氏 畠山国清 細川頼之
足利義詮(あしかが よしあきら)(1330-1367)
室町幕府2代将軍。幼名千寿丸。父・尊氏、北条氏に背(そむ)き後醍醐天皇に寝返る時、千寿丸と母は鎌倉で人質になるも、家臣に助けられ脱出、挙兵した新田義貞軍に合流す。千寿丸(4歳)、父・尊氏の名代として家臣の補佐を受け、軍忠状を発給す。新田義貞、鎌倉に攻め入り、北条氏を東勝寺合戦で討滅す。
千寿丸、鎌倉将軍府で成長。観応の擾乱で叔父・直義失脚を機に、義詮(=千寿丸)、父より京都に呼び戻され内政を担当。が、直義の反撃に遭い、義詮は北陸に逃亡。その際、京都に光厳、光明、崇光天皇などを置き去り、失策。直義より京都奪還後、三種の神器無しで後光厳天皇の即位を実施。尊氏没後二代将軍に就任す。斯波義将(しば よしゆき)を管領に任命し、幕政安定化を図る。観応の擾乱で南朝方に離反の諸将も帰参。南朝との和議も進展。管領・斯波義将の後釜に細川頼之を任命し(貞治の変(じょうじのへん))、嫡男・義満を託して没す。享年38歳。病没。
足利直冬(あしかが ただふゆ)(推定1327?-推定1400?)
養父・直義は、尊氏と共に兄弟二頭による幕府運営を図るも、執事・高師直(こう の もろなお)と路線が対立。直冬を政争圏外に置く為、直義は直冬を長門探題に派遣。直冬、中国と九州で勢力を張る。
直義、師直との政争に負け、失脚。直冬は軍を率いて長門を進発。これに激怒の尊氏「直冬討伐令」を発す。一方、直義は南朝に奔(はし)り挙兵。直義、足利義詮を北陸へ駆逐、尊氏軍を破り、高師直一族を殺害。尊氏と和睦するも、直義毒殺さる。直義死後、直冬、南朝方に帰順。南朝の武将の後援を得て一時期京都の尊氏を追い落とすが、尊氏軍の猛攻を受けて敗走。以後消息不明。一説によれば、中国各地を放浪。74歳で没すとか・・・
北条時行(ほうじょう ときゆき or ほうじょう ときつら)(推定1325?以降-1353)
鎌倉幕府14代執権・得宗家北条高時の次男。新田義貞の攻めにより、北条氏一門は東勝寺合戦で滅亡。時行は家臣に守られて死地を脱出、信濃国に逃れる。
1334年、公卿・西園寺公宗(さいおんじきんむね)による後醍醐天皇暗殺未遂事件を機に、建武の親政に不満の武士達が各地で反乱、それらを糾合して時行、信濃で挙兵。鎌倉へ侵攻す。鎌倉府の足利直義の迎撃を時行は各地で撃破、父祖の都・鎌倉を奪還す。直義、鎌倉に幽閉中の護良親王を殺害し、千寿王(=義詮)を連れ京へ敗走。守邦親王将軍は取り残されるも、時行、危害を加えず。親王出家す。この後、北畠顕家と手を結び青野ヶ原で高師冬や土岐頼遠など足利軍側に勝利しながら、尊氏側と鎌倉を巡り攻防を繰り広げ、三度鎌倉を掌中に収めるも、足利側に捕えられ鎌倉龍の口で処刑さる。享年推定28歳かそれ以下。
楠木正儀(くすのきまさのり)(推定1333?-推定1388?)
楠木正成(くすのきまさしげ)の三男。父正成、兄・正行(まさつら)と正時の三人、いずれも南朝方で戦い討死。
正儀は南朝の武将。幾度も北朝軍と交戦。観応の擾乱の時、正儀と直義間で和議が話し合われるも、和議破談。足利尊氏が直義を討つ為南朝に降(くだ)るを機に、南朝・北朝別使用の年号を「正平」に統一(正平一統)。
正儀、和平を望みつつも、硬軟両刀を使い分け南朝有利を目指し、1352年、京都侵攻。足利義詮を北陸へ追い落し、光厳(こうごん)院、光明院、崇光(すこう)天皇などを拘束し、三種の神器を奪還、南朝の大和賀名生(やまとあのう)(現奈良県五條市)に連行し軟禁す。その後、南朝・北朝入り乱れて都合4度の京都攻防戦が続く。長引く戦いに厭戦気分が蔓延。両陣営とも疲弊す。南朝の後村上天皇、41歳で崩御。後継の長慶(ちょうけい)天皇は主戦派。故に、和平派の正儀は南朝内で孤立し、北朝に出奔す。管領・細川頼之、正儀を武衛最高の官位と河内・和泉・摂津の守護の地位を用意して歓迎。南朝、正儀の居城瓜破城(うりわりじょう)(現大阪市平野区)を攻撃。細川頼之は将軍・義満を説得し瓜破城に援軍を送る。正儀勝利す。正儀、細川氏春と共に南朝の天野行宮(あまのあんぐう)を攻撃、陥落さす。南朝著しく戦力低下、正儀同族の南朝武将・橋本正督、これを見て正儀に従い北朝に降るも正督向背変転して信無く、却(かえ)って正儀糾弾の的になる。これを庇(かば)う細川頼之失脚す(康暦(こうりゃく)の政変)。
正儀、頼之の後ろ盾を失い北朝で再び孤立。北朝を出て南朝に帰参す。正儀と幕府側との交戦など紆余曲折の末、南朝主戦派の長慶天皇が譲位、代わりに和平派の後亀山天皇が即位し、和平への機運が高まる。この譲位、正儀の根回しの功による、との説あり。正義、和議を見ずに卒とも・・・享年不明。
細川清氏(?-1362)
観応の擾乱の時、細川頼之と共に四国軍を率いて足利直義と戦う。清氏と頼之は従兄弟同士。清氏、義詮の初代執事となる。強硬策により政敵多し。河内赤坂城を攻略・落城さす。政争に敗れ、南朝に降る(康安の変)。従兄弟の細川頼之と戦い討死。
畠山国清(?-1362)
観応の擾乱で足利直義に与(くみ)し尊氏と戦う。後、尊氏に従う。新田義貞の次男・義興を謀殺。関東管領に就く。軍務違反で失脚、鎌倉公方・足利基氏に攻められ、連戦連敗。居城修善寺城陥落。基氏に降伏。その後生死不明。
細川頼之(1329-1392)
観応の擾乱の時、讃岐軍を率いて足利直冬討伐軍に参陣。直冬の京都奪還の事態に、義詮を援(たす)け、神南(こうない)合戦で直冬を東寺に追い込む。直冬、東寺合戦で敗北逃走。南朝に降った同族・細川清氏討伐の幕命に従い、これを討つ。四国・中国平定。「貞治(じょうじ)の変」で執事の斯波義将(しば よしゆき)が失脚。義詮、死の直前に頼之に管領就任を要請。反斯波派の支持を得てこれに就任。幼い将軍・義満を補佐す。半済令(はんぜいれい)、倹約令、婆沙羅規制など内政に力を入れ、天皇継承問題についても意見具申。頼之養子・頼元を総大将にして南朝討伐を行うも、失敗。頼之の、旧南朝の武将・楠木正儀に対する厚遇への反感も相まって、諸将、頼之の罷免を求む。頼之、失脚し(康暦の政変)出家。失脚後復帰。斯波・畠山と共に三管領の一角を占める。享年64歳。
仁木義長(?-1376)
仁木氏は足利氏の一族で清和源氏の流れを汲む。尊氏旗揚げ当初より家臣団の一人。中先代の乱の時、北条時行に侵攻され足利直義共々鎌倉から敗走。また、尊氏が九州に没落の時、義長それに従う。尊氏上京の折り、義長と一色範氏を九州の抑えとして残留。
義長、観応の擾乱では一貫して尊氏方に就く。高師直死亡後、兄、仁木頼章が尊氏の執事に就任。義長、兄の威を借り権勢を誇り傲慢。諸将の反目を買う。尊氏と兄・頼章両名相次いで没後、勢力失墜。罷免され没落。
斯波義将 (しば よしゆき)(1350-1410)
13歳で管領就任。細川頼之&佐々木道誉の画策により失脚。越中守護。越中は直義・直冬を擁護する抵抗勢力・桃井氏の地盤。これを討滅し越中平定。細川頼之と対立。頼之を罷免させ、管領になる(康暦の政変)。後に、細川頼之養子・頼元と斯波義将と交互に三度管領を務む。
義満没後、義満長男・義持を差し置いて次男の義嗣の将軍推戴の動きを封じ、義持4代将軍に推し、実現。義持を補佐す。春屋妙葩を任用し禅僧統括を図る。越前・越中・信濃守護。人物高潔・寛大にして公正、文化人。義満没後、朝廷より義満に太政天皇尊号遺贈の動き有るも、義持に辞退を進言。又、「日本国王」詐称して行う義満の日明貿易を恥じる義持に賛同。貿易を中止。享年61歳。人々その死を悼む。
正儀、京都市街戦の時に新戦術を編み出しました。
射手を屋根に登らせ街路に侵入する敵兵を上空から攻撃、動きを封じられた敵を騎兵が挟撃、更に槍を持たせた徒士に攻撃させると言う戦術で、これにより敵将・細川頼春が武士でもない徒士に討ち取られると言う、前代未聞の戦いが展開します。この時討死した細川頼春の嫡子が後の管領・細川頼之です。頼之は正儀の戦術に驚嘆し、正儀に心酔。ここにライバルながら正儀・頼之の堅い友情が生まれます。この友情が、正儀の南朝離反を誘い、南北和平への道に繋がります。
余談 義持と義嗣
足利義満は次男の義嗣(よしつぐ)を溺愛し、長男の義持を蔑(ないがし)ろにしていました。義嗣の元服式は皇太子に勝るとも劣らない立派なもので、内裏の清涼殿で行った程です。全てがそのような状態だったので、義持は父・義満に反発。義満の建てた北山第を、金閣を除いて全て破却してしまいました。また、義満の政策路線を引き継がず、見直していきます。
余談 参考までに
何時もご愛読ありがとうございます。このシリーズでは、今回の項目に関連した記事を以前にも扱っておりますので、下記の様にご案内申し上げます。
44 鎌倉幕府滅亡
64 建武の親政(5) 箱根・竹之下合戦
71 南北朝時代の年表
72 室町時代(1) 義詮と義満
120 武将の人生(1)
上記の記事を開く場合、次の様にして頂ければその項に飛ぶことが出来ます。
このシリーズのメインタイトルは「式正織部流「茶の湯」の世界で、各記事毎にサブタイトルがあります。各サブタイトルには通し番号を付けております。
この記事の場合は121です。121の番号の下にある小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出て参ります。(薄青色の「茶の湯」は見落とし易い程小さいです。)
但し、前項の120 武将の人生(1)については、この記事の右欄の「最新記事」から移動できます。