式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

101 戦国乱世(1) 大物崩れ

大物崩れ(だいもつくずれ)

大物崩れの大物は「だいもつ」と読みます。大物(だいもつ)という地名に由来しています。大物町は兵庫県尼崎市に在ります。昔は海に面した大物浦(だいもつうら)と言う港でした。ここは細川高国が壊滅的敗北を喫して自刃した地でもあります。

さて、これからその高国滅亡までの軌跡を辿ります。

 

将軍・義稙の出奔

田中城の戦い、越水城(こしみずじょう)の戦いのいずれも高国が敗け、三好之長に追われて近江坂本まで落ちたのを機に、将軍・義稙(よしたね)は高国から澄元支持に鞍替えしました。ところが、等持院の戦いでは逆に高国が勝ち、之長を討ち取ったので、高国と義稙の関係は一気に悪化しました。

 1521年(永正18年3月7日)、義稙は後柏原天皇即位式をすっぽかして京都を出奔、堺へ下向します。これを見て高国は義稙の将軍職を剥奪。代わりに前将軍・義澄の遺児・亀王丸(=義晴)を将軍として迎えます。

以前、1513年(永正10年)に、義稙は高国と意見が合わず近江へ家出したことがありました。その時は、重臣達が連名で服従を誓う起請文を差し出しましたので、義稙も機嫌を直して京都に戻りました。でも、今回は違いました。重臣達は彼を無視。新将軍・義晴に従います。義稙の挙兵の呼びかけに応える者はいません。失意の彼は、阿波国撫養(むや)(現鳴門市)まで落ち、病を得て亡くなりました。享年58歳。

 

香西元盛(こうざい もともり)、讒言に死す   

細川高国の従兄弟の細川尹賢(ほそかわ ただかた)は羽振りを利かせていました。

1526年(大永6年)、彼は、目障りな香西元盛を陥れる為に、元盛の偽の手紙を書き、謀反の証拠として讒訴します。高国は碌に調べもせずに元盛を自害させてしまいます。

彼は無学で読み書きが出来ませんでした。「証拠」の手紙とやらも読めず、何が何やら分からない内に死に追い遣られたのです。

 

報復

事情を知った波多野元清(=稙通(たねみち))と柳本賢治 (やなぎもと かたはる)は復讐に立ち上がります。元清と賢治は香西元盛の実の兄弟でした。元清と賢治は八上城(やがみ じょう)神尾山城(かんのおさん じょう)に立て籠って叛旗を翻します。

1526年(大永6年10月23日)、高国は尹賢や瓦林(かわらばやし)氏、池田氏を両城に派兵しますが、戦は硬直状態。包囲網を敷いた諸将も、殺された香西元盛に同情的で、内藤国貞は陣を払って帰国、赤井氏は3千の兵で包囲陣の背後を衝きこれを破ります。池田氏は瓦林軍に矢を射かけ、敗走させてしまいます。

この時を狙って、細川晴元は打倒義晴&高国に動きます。晴元は11代将軍・義澄の遺児で再任将軍・義稙を養父に持つ義維(よしつな)を擁立して、三好政に出陣を命令します。

高国側も六角氏赤松氏斯波氏に援軍を要請しましたが、六角氏は部下を出陣させるだけで消極的でした。赤松、斯波両氏は動きませんでした。

 

桂川原の戦い

柳本賢治軍は摂津の諸城を次々と陥落させ、大山崎で三好軍と合流、桂川の川原で高国軍と対峙します。武田元光は後詰、将軍・義晴は桂川から離れた6条に陣を敷きました。

 1527年2月13日(大永7年2月12日)の夜、両陣営は桂川で会戦します。

三好軍は桂川を渡河、武田軍の背後に回り攻撃します。意表を突かれた後詰の武田軍が崩れ、高国が救援に駆けつけた時はすでに遅く、武田軍は敗れて敗走、それを立て直す暇も無く、高国軍も潰走します。敗走兵に巻き込まれて、後方の義晴達も算を乱して逃げ始め、そのまま近江まで落ち延びました。義晴はこの時、幕府の評定衆などを引き連れていましたので、彼等も一緒になって近江に逃げてしまい、京都の幕府の機能が失われてしまいました。

 

 堺公方・義維(よしつな)

 三好政長や細川晴元達が桂川原の合戦で高国軍に勝ったので、阿波に居た三好元長は義維を奉じて堺にやって来ました。彼等は堺で義維を推戴して幕府を開きました。養父・義稙が阿波に落ちた時、供奉した数人の幕府の要人がそのまま義維に従っていましたので、幕府の仕事を司るのが可能でした。大永7年に朝廷から従五位下・左馬頭に任じられました。官位を得て、御内書の発給など将軍の仕事などをしたので、堺の義維を、人々は堺公方、あるいは堺大樹と呼びました。 大樹とは将軍の事です。

 とは言え、実際は近江の義晴の方が朝廷や公卿達との結び付きが強く、又、幕府の人材・陣容とも厚みがあり、人々は義晴の方を将軍と見ていた様です。

 

高国、浦上村宗を得る

桂川の戦いで敗れ、将軍・義晴ともども近江に逃れた高国は、救援してくれる大名を探しましたが、どの大名からも断られました。その中で唯一協力を申し出たのが、備前守護代浦上村宗(うらがみむらむね)でした。

村宗は赤松義村の家臣で守護代です。主家・赤松氏を凌ぐ力を持っていました。義村は村宗を討とうとしますが敗北してしまいます。村宗は、和睦の席で主君・赤松義村を捕らえ、そして、赤松家の家督を8歳の義村の嫡子・才松丸に譲らせて、義村を隠居させます。自分は才松丸の後見になって政を牛耳りました。更に義村を幽閉、暗殺してしまいます。才松丸は長じて政祐(まさすけ)(初名は政村、最終的に義晴の偏諱を受けて晴政)と名を改めます。

政祐は村宗に反抗し、戦いを挑みます。けれど政祐の力及ばす負けてしまいます。不思議な事に、そういう二人でしたが、二人は外敵に対しては協力関係にあり、手を結んでいました。

 

退勢の晴元軍

浦上村宗は、高国の力を借りて播磨一国を統一しました。次に、高国と村宗の連合軍は、堺公方側の勢力圏に侵攻し、堺公方・義維や細川晴元達一派を孤立させる作戦に出ます。

1530年(享禄(きょうろく)3年)、村宗の家臣が、柳本賢治の寝込みを襲い暗殺。

1531年4月3日(享禄4年3月6日)、高国・村宗軍は、晴元側の摂津の池田城を陥落させます。小寺氏御着城(ごちゃくじょう)別所氏三木城などの居城を次々と落とします。この勢いに恐れをなして京都を警護していた木沢長政が京都から逃げ出しのたので、高国が京都を奪還、入京を果たします。
 破竹の勢いの高国・村宗軍に押されっ放しの細川晴元は、三好元長に援軍を頼みます。晴元は軍を再編成し、元長を総大将にし、晴元自身は義維の守備に回り、阿波から駆け付けた細川持隆等の新たな援軍も加えて義維側の軍は勢いを盛り返します。

 

大物崩れ

1531年(享禄4年6月2日)、赤松政祐が神呪寺城(かんのうじじょう)に、高国・村宗の後詰として着陣、それまで中嶋天王寺付近で一進一退を繰り返していた両軍は、膠着の局面が一気に動きます。

翌々日の6月4日、赤松政祐は背後から高国・村宗軍を猛攻します。政祐は事前に晴元側に人質を送って、必ず村宗から寝返りすると約束し、村宗には面従腹背していたのです。

高国軍は、正面から三好軍、背後から赤松軍に挟撃され、 総崩れしました。高国軍の名だたる武将は全滅、辛うじて死地を脱した高国は、大物城へ逃げこもうとしましたが警戒が厳しくて叶わず、町の藍染屋の甕を伏せ置きしてその中に隠れました。けれど子供達に見つかり捕縛され、6月8日に尼崎の広徳寺で自害させられました。享年48歳でした。

村宗軍も戦死者を累々と出し潰走します。赤松軍はそれを追撃、要所に伏兵を置いて逃げる将兵を漏らさず討ち取り、ほぼ全滅させてしまいます。

こうして、細川政元の養子の澄之、澄元、高国の三人は、争いの果てに滅びてしまいました。

 (参照:99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱) (参照:100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還) 

 

 

余談  まくわ瓜

大物崩れの時、逃亡した高国を探索していた三好一秀は、まくわ瓜を手に一杯にして、子供達にこう言いました。

「高国と言う人の隠れ場所を教えてくれたら、この瓜を全部上げるよ」

高国はこうして子供達によって発見されてしまいました。

 

 

余談  高国辞世

高国は辞世の歌を何首か詠んでおります。その内の一つが下記の歌です。

絵にうつし石につくりし海山を 後の世までも目かれずや見む

彼は作庭家でした。彼の作った庭園は武家書院式庭園です。杉や苔や岩を自然に見える様に配置して深山を思わせる雰囲気を湛えています。如何にも庭を造りました、という人工的な主張はそこには見られません。以下4庭園がそれです。

北畠氏館跡庭園    三重県津市美杉町

旧玄成院庭園     福井県越前大野

龍潭寺(りょうたんじ)        京都府亀岡市

旧秀隣寺庭園(興聖寺)    滋賀県鷹島市朽木