式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

124 武将の人生(5) 足利将軍家2

お茶会が始まる時「お床拝見」をします。その時、他の流派では床の間の正面に座り、膝前に扇子を置いて拝礼し、拝見しますが、式正織部流では、拝礼はしますが膝前に扇子を置きません。

利休は床の間を「神聖な場所」或いは「冥界」と見立てています。ですから、そこに踏み込まない様に、床の間との間に結界を設けます。結界の印が扇子です。冥界と一線を画す為に扇子を置きます。

武士にとって「死」は非日常では無く、あの世は地続き。ひょいと一歩向こう側へ踏み出して行く日常です。「死」は他所事では無く自分事です。多くの普通の人が「死」を他所事として捉え、冥界と一線を画す為に扇子を置こうとする所作は、武士には無用です。お茶席の所作の一つにも、武家茶にはこのように武士の生き様が投影されています。

式正織部流の「茶の湯」の背景にある世界を、武将達が歩んだ「死」のナイフエッジの道を通して、もう少し、探って行きたいと思います。

この項で扱う人物

足利義晴、  足利義輝・義藤、  足利義栄(あしかがよしひで)義親(よしちか)、    

足利義昭・義秋 

 

足利義晴 (あしかが よしはる)(1511-1550)

室町幕府12代将軍。父は11代将軍・足利義澄。弟(or 兄?)に義維(よしつな)が居る。

父・義澄が将軍位を追われて近江にいた時に、義晴誕生。父、再起を図るも、志を果たせず病没す。父死没の年誕生の義晴は播磨の赤松義村に預けられ、義維(義維の誕生年は不詳)は阿波の細川澄元の下に送られ、兄弟別々に育つ。

父が近江に没落している間に再任された(元10代)将軍・義稙(よしたね)管領細川高国と対立して破れ、阿波に逃亡。その時義稙、阿波の細川氏に預けられていた義維を養子にとる。義稙没後、細川晴元三好元長らは義維を推戴して堺に堺公方を樹立する。

1522年(大永元年)、義晴、朝廷より将軍宣下を受け12代将軍襲位。時に11歳。管領細川高国や父の遺臣達の助けを得て政務を執る。堺公方・義維を擁する細川晴元に度々京都侵攻を受け、その都度近江坂本などに亡命するも、幕臣達の支えで亡命政府としての機能を保つ。朝廷も義晴を正統の将軍として遇する。高国と晴元の京都をめぐる攻防激しく、義晴、京都ー近江を中心として避難、逃亡の引っ越し動座21回。

細川家内紛混沌。細川家家臣三好氏も内紛、向背、戦死等相乱れ、ついに義晴が高国を見限り、「大物崩れ(だいもつくずれ)で高国戦死。三好氏が主家・細川家に背き、三好長慶(みよしながよし)が実権を握る。義晴、三好長慶に対抗すべく中尾城を築き、北白川にも城を築く。が、義晴、病が悪化、穴太(あのう)で薨去。将軍在位25年。享年40歳(満39歳)。

   参考:99戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

      100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還

      101 戦国乱世(1) 大物崩れ

 

足利義輝・義藤 (1536-1565)

室町幕府13代将軍。父は12代将軍足利義晴。京都の南禅寺で誕生。朝廷より義藤の名を賜る。後に義輝と改名。

1546年(天文15年12月20日)、義藤、近江坂本にて将軍宣下を受ける。時に11歳。

義藤が将軍職を継いだ頃、細川京兆家(ほそかわ きょうちょうけ)内部で権力闘争があり、京兆家の家臣・三好氏も二派に割れて闘争。管領細川晴元、義藤弟・義維を旗印にして堺公方府を樹立。細川一族内部の私闘に、幕府も巻き込まれる。為に、将軍義藤も幾度も近江へ動座。

1554年(天文23年)、義藤、朽木(くつき)滞在中に名を義輝に改める。将軍の権威を上げる為、諸大名の調停に積極的に取り組み、偏諱(へんき)を与え、役職を任ず。織田信長斎藤龍興長尾景虎等が上洛、謁見。

細川氏内紛を制して頭角を現した三好長慶、主君の細川晴元を没落させ、強大な軍事力と巧みな政治力を以って実権を握り近畿一円を支配。京都の治安を維持す。朝廷の元号改元の相談に与(あずか)る程になる。初めて源氏流に拠らない武家政権を確立。が、順調満帆に見えた三好政権、長慶を襲った身内の不幸に脆くも崩れる。

長慶弟・十河一存(そごう かずまさ or かずなが)病気による急死。弟・三好実休(みよし じっきゅう)、久米田の戦いで戦死。嫡子三好義興(みよしよしおき)22歳で早世。と立て続けに失い、弟・一存の息子・重存(しげまさ)を養子にとるも気鬱になり、精神を病む。唯一残った弟・安宅冬彦を呼び出して殺害 (謀反の讒言が原因との説有るが真相不明)。長慶、絶望のあまりその約二か月後の1564年(永禄7年7月4日)に病死。長慶死後、三好三人衆を制御する者無し。

過去に攻防繰り広げながらも、義輝の長慶厚遇政策に懐柔されていた三好氏、長慶亡き後、将軍親政を推し進める義輝に、傀儡将軍を望む三好重存、三好三人衆 (三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友道(いわなりともみち))松永久通の不満が爆発。義輝を討つ。(尚、松永久秀は加わらず)

1565年6月17日(永禄8年5月19日)、三好軍1万を以って二条御所を攻撃。義輝自ら迎え撃ち、刀を取って奮戦するも討死。家臣殆ど全滅 (永禄の変)。上は天皇から大名、庶民までその死を惜しむ。将軍在位18年5ヵ月。享年30歳。(満29歳)

   参考:102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)

               103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)

                104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変

 

足利義栄(あしかが よしひで)義親(1538-1568)

室町幕府14代将軍。祖父は11代将軍足利義晴、父は堺公方足利義維(よしつな)。義栄は阿波で誕生。初名は義親(よしちか)

父・義維、一時堺公方なるも没落し、阿波に逼塞(ひっそく)。義親、父に従い、阿波の平島館(ひらしまやかた)(現徳島県阿南市)で穏やかな日々を暮らす(平島公方)

やがて、三好本家が、意のままになる新たな将軍を推戴しようと、義維・義栄親子に接近、事態が動き出し、身辺が慌ただしくなる。義維その時中風。若い義栄が将軍にと担がれる。

1565年、永禄の変で13代将軍・義輝が殺害さる。殺害首謀者の一人で三好長慶の跡取養子・三好重存(みよししげまさ)、直ちに改名し、義継(よしつぐ)と名乗る。「義」は足利将軍家の通字。「義」の通字を以って「継ぐ」とは、将軍に取って代わるとの意思表示と見る研究者有り。義輝を殺害してその地位に登らんとした義継なるも、貴種尊重の流れの前に、将軍の血筋を持つ義栄が優位に立つ。松永久秀・久通親子三好三人衆と袂を分かち、義輝の弟・足利義昭の側に立つ。義昭の後ろには織田信長朝倉義景らが居る。

義栄を旗印に迎えた三好陣営、三好義継を疎外。義継、いたたまれず義昭側に寝返る。

義栄、朝廷に太刀や馬を献上し、将軍就任活動をする。三好三人衆  vs  松永・義継、東大寺で戦う。この時、東大寺大仏殿炎上。義栄、将軍宣下を朝廷に乞うも、献金不足で却下さる。更に義栄努力し、旧義輝政権で干された伊勢為貞を幕府政所執事に据え、幕府内の態勢を整え、ようやく将軍就任に成る。これを祝い、堺の津田宗及(つだ そうぎゅう)屋敷で大宴会を催すも、足利義昭を奉ずる織田信長、次々と義栄陣営の城を攻略、落城させ、進撃の勢い止められず、ついに義栄、自身の病発症の事も有り、阿波へ退却。1568年(永禄11年)死去。将軍在位8か月。享年29歳。

 

足利義昭・義秋(1537-1597)

室町幕府15代将軍。父は12代将軍・足利義晴。13代将軍・足利義輝は同母兄。14代将軍義栄は従兄弟。義昭の幼名千歳丸法名覚慶(かくけい)。還俗初名義秋元服義昭昌山道休

 

[ 1期 将軍への道 ]

4歳で、興福寺塔頭・一乗院に入り出家。覚慶と名乗り、門跡となる。1565年(永禄8年)、兄、義輝殺逆(しぎゃく)されるの時(永禄の変)、覚慶も捕縛され、興福寺に幽閉さる。

幕臣細川藤孝、三渕藤秀(みつぶち ふじひで(→細川藤孝異母弟))米田求政(こめだ もとまさ(☆藤孝の家臣))、一色藤長(☆妹が義晴側室)仁木義政(☆伊賀の豪族)、和田惟政(わだ これまさ(☆甲賀21家の中の一人))などの連携により脱出に成功。惟政の居城・和田城に入る。覚慶、将軍になる覚悟を決め、和田城にて諸国大名に幕府再興への支援を呼びかける。更に、和田(現滋賀県甲賀市)よりも京都に近い矢島(現滋賀県守山市)に移り還俗。義秋と改名。

興福寺脱走約1年余、諸将、義昭上洛支援の具体的動きの気配無く、義秋、矢島から義弟・武田義統(たけだよしずみorよしむね)を頼って若狭へ移動し、名を義昭に改名。が、武田氏内紛による衰退につき、1566年(永禄9年9月)朝倉氏を頼って一乗谷へ移る。朝倉義景、詩歌遊芸に耽(ふけ)り腰を上げる兆し無し。義昭、一乗谷滞在の間に、足利義栄が将軍宣下を受け、14代将軍に就任す。

 

[ 2期 幕府樹立へ]

義昭、織田信長の上洛を促し、信長の後顧の憂いを取り除く為、尾張と美濃の講和を勧め和睦成功するも、信長、それを破棄。稲葉山城の戦い斎藤龍興と一戦を交え信長勝利す。

1568年(永禄11年7月25日)、義昭、岐阜の立政寺(りゅうしょうじ)で信長と対面。

1568年(永禄11年9月7日)、信長、義昭を奉じて上洛を開始。

上洛途次の六角氏を攻撃。六角氏の箕作城(みつくりじょう)を1日で落とす。以降、六角氏の18支城ドミノ倒しに落つ。城兵逃亡、投降など落城の状況様々。この報に京都の三好氏、戦わずして京を退却。

1568年(永禄11年9月26日)、信長、義昭を奉じて入洛し(この頃、平島公方義栄、死去)、10月18日に義昭、第15代征夷大将軍に就任す。

義昭、信長を「御父(おんちち)」と呼び、信長に管領や副将軍のポストを用意するも、信長これを拒否。義昭、諸将の論功行賞などを行い、各職掌を整える。幕府成立の達成感により警備油断。三好氏、そこを突き、義昭を急襲(1569年(永禄12年1月)本圀寺の変)。近隣諸将急ぎ救援、信長も岐阜より駆けつけるも、義昭、手勢で辛くも危機を脱す。二条城を再建し防御を強化す。

信長、義昭に「殿中御掟」の9ヶ条を示し、更に7ヶ条、5ヶ条と追加。計21ヶ条の掟を示す。何事も信長の許可なく行うべからず、等々の条々。義昭の行動を制限する内容也。

 

[3期 信長との連携]

1569年(永禄12年8月)、信長、北畠氏討伐に出陣するも攻城不調で戦況不利に傾くを、義昭、信長を援け和議斡旋に動く。同年10月、信長有利の条件で和睦成立。

義昭の義弟・若狭の武田義統朝倉氏に併呑(へいどん)さる。当主・武田元明一乗谷に居住、朝倉監視下に置かれる。義昭、若狭武田氏再興を望む。

1570年(元亀元年4月)、信長、朝倉氏討伐の為、織田・徳川軍を主軸にした幕府軍を率いて越前へ出陣。信長と浅井長政、信長妹お市の方の輿入れにより義兄弟の同盟を結ぶも、長政、朝倉に与(くみ)す。更に六角義賢(ろっかく よしかた)蜂起。金ケ崎城での合戦、信長優位に進むも、浅井叛旗により挟撃の恐れ生じ、信長直ちに退却す。(金ケ崎の戦い。金ケ崎の退口(のきぐち))

同年6月、信長、改めて浅井・朝倉攻めに出陣。義昭、織田方に味方する様に畿内に動員令を発す。織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で激突(姉川の戦い)、織田・徳川連合軍、これに勝利す。

同年7月、三好三人衆((三好長逸(みよし ながやす)・三好宗渭(みよし そうい)・岩成友道(いわなり ともみち))と細川昭元が挙兵。義昭方の城を攻撃(野田城の戦い・福島城の戦い)。義昭、河内、紀伊、和泉に動員令を掛け、信長にも参陣を要請。義昭、自ら出陣し、幕府軍3万、織田軍3万を率いて三好軍側と睨み合う中、石山本願寺が蜂起。続いて浅井・朝倉が連動して蜂起。比叡山延暦寺が浅井・朝倉側に就く。

義昭・信長、和議に動く。信長、六角氏と本願寺三好三人衆と講和。義昭と関白・二条晴良、浅井・朝倉・延暦寺と和議交渉。最終的に勅命が出て勅命講和が成る。

 

[4期 信長と対決]

義昭と信長の蜜月の連携に陰り生ず。各地で合戦多発、調略激化。疑心暗鬼の世になる。

義昭、畠山秋高と遊佐信教に義昭から離反しない様にとの書状を出す。松永久秀、義昭に叛旗を翻し、三好三人衆側に奔る。更に、浅井・朝倉の残存勢力、比叡山に逃げ込み延暦寺と手を結ぶ。信長、怒り心頭、延暦寺を焼討す。

1572年(元亀3年9月)、信長、義昭に「異見十七ヶ条」を送付。義昭の振る舞いに注意を与える。

同年10月武田信玄、甲斐を進発し、三河の三方ヶ原で徳川家康を破る。

信玄に与するか否か、幕府内の意見割れ親信長派の義昭次第に孤立。ついに、

1573年(元亀4年/天正元年2月13日)、義昭、信長討伐令を下す。

信長大いに驚き、息子を人質に講和を申し入れるも、義昭応じず。幾度の交渉も功を奏さず。一方、義昭、朝倉義景に上洛を命じるも、上洛せず。信玄も動かず。義昭、近隣の国衆に動員を掛けるも、既に信長先手を打って彼等の城を攻め落とし済。義昭の兵力数千、対する信長1万。信長講和を求めるも義昭応じず。信長洛中洛外に放火を命じ、市中混乱。信長最後の手段で勅命和議に持ち込む。義昭、この時、未だ信玄の死を知らぬ形跡あり。

同年7月2日、義昭、宇治の槙島城に入城し、再挙兵す。

信長上洛。二条御所の義昭の家臣達、無血開城し信長に降伏。信長、二条御所を破却、二条御所の宝物略奪勝手放題を人々に許す。

7月18日、信長、槙島城を攻撃。義昭、1歳の息子・義尋(ぎじん)を人質に差し出し、信長に降伏す。

この時を以て室町幕府滅亡と言われる。が・・・

 

[5期 蠢(うごめ)く将軍]

槙島城(まきしまじょう)で敗北した義昭、信長に追放され、三好義嗣の居城・若江城に身を寄す。義昭、若江城にて信長討伐令を乱発。義昭を庇護した義嗣に信長怒り、若江城から義昭を追い出した後、佐久間信盛に命じて若江城を攻撃す。

1573年(天正元年11月)、三好義嗣奮戦するも敗北し落城、自害。

義昭、若江城を退城してより後も、放浪の旅の先々で幕府復活の悲願を達成すべく、これぞと思う大名に御内書を下し、上洛援助を命令す。頼みの大名、朝倉義景浅井長政、信長に討滅さる。上杉謙信北条氏政六角義賢へも上洛命令を下し、島津義久へも協力を命ず。

義昭、毛利輝元を頼り備後の鞆(とも)に移り、鞆幕府を開く。義昭、毛利輝元へ信長討伐を命令す。

輝元、織田信長と事を構えるを嫌うも、信長、羽柴秀吉を中国地方攻略に派遣するを見て、信長打倒に起つ。義昭、これを喜び、毛利輝元を副将軍とし、毛利軍を幕府軍と成す。義昭、輝元の後顧の憂いを除く為、島津氏に使者を遣わして大友氏牽制を命じ、更に、島津氏へ毛利氏への援軍を求む。が、大友氏が動き、毛利氏内部を調略し、重臣謀叛。毛利氏の出陣、無期延期となる。

更に義昭、武田勝頼徳川家康を攻撃する様に命じ、織田軍の兵力分散を画策。

1574年(天正2年5月21日)、織田・徳川連合軍、長篠の戦で武田勝頼を破る。

1578年(天正10年3月)上杉謙信死去。

同年6月2日本能寺の変織田信長明智光秀に討たる。

 

[6期 晩年]

本能寺の変の7日後の6月9日、義昭、毛利輝元に入洛の供奉出兵を命ずるも、輝元動かず。

6月13日、秀吉、山崎の合戦で明智光秀を破る。

羽柴秀吉柴田勝家の戦いの時、義昭、柴田勝家を応援、結果、勝家敗北に伴い義昭、敗者側に没落す。羽柴秀吉、関白太政大臣豊臣秀吉となり、義昭より上位に立つ。義昭、朝廷に正式に将軍位を返上。これにより、室町幕府完全に消滅す。

秀吉の計らいにより、義昭、准三宮になり、槙島に1万石の領地を得る。文禄の役の時、3千の兵を率いて肥前名護屋に出陣。無理が祟ったのか帰洛後病に伏し、

1597年(慶長2年8月28日)、薨去。葬儀は極めて簡素。享年61歳。

     参考:106 平蜘蛛の釜

        109 信長、茶の湯御政道

 

 

余談  ナイフエッジ

ナイフエッジとは登山用語です。ナイフの刃の上を歩くような、両側が切り立った崖の稜線の事を言います。

 

余談  覚慶(義昭)幽閉と松永久秀

永禄の変の時、松永久秀が覚慶を興福寺に幽閉し厳重に監視したと言われています。これは、逆の見方をすれば、襲撃犯から覚慶を守る為に保護したとも取れます。幽閉された場所は元々覚慶が居た興福寺です。自宅に監禁する様なものです。監視の厳重さは暗殺者の侵入を防ぐ為とも取れます。

後に、覚慶に脱走されてしまった不始末を三好義継や三好三人衆に糾問されて、松永久秀は息子・久通と共に彼等から離れ、信長側に帰順します。

 

 

参考までに

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