式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲

1543年(天文12年)、中国の船(後期倭寇)が嵐に流されて種子島に漂着しました。船長は明国の五峰と名乗り、船には100人ばかりの客が乗っており、その中に異人が3人いる、と言いました。その異人がポルトガル人でした。その船長とのやり取りは全て筆談で行われました。砂浜に杖で文字を書いて行われたそうです。

 

後期倭寇

上記で中国の船と書きましたが、この船は密貿易もする、海賊もする、という「倭寇」の船です。南北朝時代の初期の倭寇は日本人でしたが、中期以降になると中国人、朝鮮人、日本人など様々な人達が、倭寇を偽装して中国沿岸や東シナ海を荒らし回っていました。

明国は、倭寇を防ぐため、海賊行為や密貿易防止を目的とした「海禁」という法律を作って対処していました。そういった中で、日本側の勘合貿易の相手だった大内氏が、1551年に陶隆房(すえ たかふさ)の謀反にあって滅亡してしまうと、勘合貿易も途絶えてしまいます。

当時、明では「北慮南倭(ほくりょなんわ)」といって、北のモンゴル、南の倭寇に悩まされていました。1550年、アルタン・ハン率いるモンゴル軍の侵攻によって軍費が嵩(かさ)み、財政難に陥っていました。そこで、貿易によって収入を得ようと、海禁が緩和され、関税を掛け、停泊料を取る貿易にシフトする様になります。

 

漂着中国船の話の続き

さて、島の主・種子島時堯(たねがしま ときたか)ポルトガル商人が持っていた火縄銃に興味を持ち、実演させます。そして、その威力を知り、3挺を買い求めます。

3挺の内、1挺を刀鍛冶・八板金兵衛(やいた きんべえ)に与えて鉄砲製造を命じ、火薬の調合を家臣・笹川小四郎にポルトガル人から学ばせます。また、1挺を、島津氏を通して室町幕府将軍・足利義晴に献上します。残りの1挺は自身の習熟用に使いました。
1545年春、金兵衛はネジ作りに苦労しましたが、ようやく火縄銃を完成させました。金兵衛の銃は堺にも伝わりました。

鉄砲を献上された将軍は、同じものを作る様に国友鍛冶に命じました。国友の鍛冶集団も早速総力上げて造り始めます。紀州根来寺もこの鉄砲を求めて来ました。こうして国友、堺、根来という鉄砲の三大生産地が生まれました。

種子島に鉄砲が伝来してからわずか6年後、織田信長は国友へ500挺の鉄砲を発注しています。その頃すでに、それに応えられる程の生産体制が出来上がっていました。

 

鉄砲を使った戦

1575年、織田信長が長篠の戦で武田騎馬軍団と対決した時に、大量に鉄砲を投入したのは有名な話です。そこで、鉄砲伝来初期の代表的な戦がどうだったかを幾つか紹介します。

1550.08.26(天文19.07.14) 東山の戦い(現京都市左京区北白川)

東山の戦いは中尾城の戦い(中尾城は東山銀閣の裏山に築かれた城)の前哨戦。市街戦で小規模。足利義輝三好長慶が交戦。銃撃による死者は1名。 

1562.04.08.(永禄5.03.05) 久米田の戦い(現大阪府岸和田) 

三好実休(みよし じっきゅう)軍7千~2万と畠山高政軍1~3万が久米田で激突。三好軍前線不利と見て実休は救援の為、右翼・左翼・中堅の兵を投入。故に実休本陣手薄となり、根来衆(畠山軍側)に囲まれ、騎馬兵100名全滅。実休も銃弾に斃れる。畠山軍側の勝利。

1562.06.20(永禄5.05.19~20) 教興寺の戦い(現大阪府八尾市教興寺)

三好長慶軍6万と、畠山高政軍4万(根来衆の4,000挺の鉄砲隊を含む)の衝突。三好長慶は弟・実休の敗戦を踏まえ、鉄砲を封じるべく雨の日に攻撃開始。故に根来の火縄銃4千挺の火は吹かず、三好軍の勝利。

 

南蛮貿易周辺事情

 ポルトガルマカオやマラッカを拠点に、スペインはマニラを拠点に中継貿易を行いました。

拠点づくりは例によって攻撃によって占拠すると言う方式でした。ポルトガルマラッカ王国支配下に置くと、ムスリム商人全員の殺害を命じましたので、ムスリム達は東南アジア各地に逃げ出しました。この情報は明にも琉球にも伝わりました。ポルトガルが明に交易を求め、琉球にも働きかけましたが、その所業を知っていましたので、明も琉球も交易を拒否します。結局、ポルトガルは正規の貿易が出来ず、密貿易に走ります。これが、東シナ海を跋扈(ばっこ)していた後期倭寇と結びつきます。

 種子島に鉄砲が伝わってから6年後の1549年、フランシスコ・ザビエルが布教を目的に来日します。欧州ではキリスト教カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)の二派に分裂し、争っていました。ザビエルはカトリックを欧州以外にも広めようと、日本までやって来たのです。

 

商・教一体 

ザビエルは九州の坊津に上陸、それから平戸へ行き、山口から豊後へと布教を始めます。

ポルトガル商人と宣教師は協力し合い商売と布教を始めます。海賊や密貿易を取り締まるポルトガル王室艦隊なども派遣され、ポルトガルと明との信頼関係も築かれる様になりました。

1557年、明はマカオでのポルトガル商人の居住を認めます。そうなると日本とマカオの定期便が開かれる様になり、カピタン・モール(指揮官・行政長官の意)が派遣され、管理貿易が始まりました。これに加えて個人商船や中国のジャンク船などが日本に来航する様になり、一層賑やかになりました。

 

 長崎開港

 大名の大村純忠(おおむら すみただ)は、宮の前事件で平戸に居ずらくなったポルトガル人を自領の横瀬(よこせうら(現長崎県西海市横瀬郷))に招致、イエズス会に住居などを提供しました。

純忠は洗礼を受け、熱心な信者になります。熱心過ぎて問題を起こします。仏教徒を強制的に改宗させ、改宗しない者は殺害しました。寺や先祖の墓を破壊し僧侶や神官を殺害しました。

大村純忠は、肥前国の領主・大村純前(おおむら すみさき)の養子です。実は純前には実子が居ました。貴明と言います。長らく男子に恵まれなかった純前が、純忠を養子に貰った後から生まれた子が貴明です。本来ならば貴明が大村家を継ぐべき身です。彼は、純忠の遣り方に不満を持つ家臣団を率いて反乱を起こします。1563年、彼等は横瀬浦を焼き払います。

そこで純忠は横瀬浦の代わりに長崎の地をイエズス会に教会領として寄進します。これが、植民地化の危険性を察知した秀吉が禁教令を出す原因の一つになりますが、それは後々の事。この時は九州の大名達は積極的に交易を望み、また、信長も南蛮貿易を推奨していました。

 

キリシタン大名

港は平戸と長崎、堺が使われました。長崎にイエズス会の拠点が出来た様に、堺にもポルトガル商館が建てられ、信長や秀吉の財政を支える様になりました。

何よりも、交易は儲かりました。キリスト教の善し悪しは思考の外に置いて、利益を目当てにキリスト教に改宗する大名が幾人も出ました。信心の深浅は別にして、キリシタン大名と呼ばれる人々には、次の様な人がいます。(武将を含む)

有馬晴信、大友義鎮(よししげ(宗麟))、大村純忠織田秀信蒲生氏郷黒田長政小西行長、宋義智、高山右近筒井定次内藤如安支倉常長畠山高政細川興元、松浦隆信、毛利高政六角義賢・・・他に多数

 

交易品

 日本が輸入したのは主に次の様なものです。

鉄砲(火縄銃)、火薬、硝石。

生糸、絹織物、毛織物、更紗、メリヤス、絨毯

時計、メガネ、ガラス、陶磁器、オルガン、ビオラ、オルゴール、工芸品

かぼちゃ、スイカ、トウモロコシ、葡萄酒、タバコ

麝香(じゃこう)、香木、アラビア馬、孔雀

南蛮文化の影響が及んだもの

医学、技術、哲学、天文学、暦学、数学、地質学、地球儀、世界地図

音楽、油絵、銅版画、カルタ、シャボン、金平糖、パン、カステラ

一夫一婦制

日本から輸出したもの

銀、銅、硫黄、日本刀、漆器、海産物

 奴隷(人身売買。女、戦で捕虜にした者など。)

 

余談  宮の前事件

平戸商人とポルトガル商人の間で生糸の取引が始まりましたが、交渉が決裂しました。話がこじれて喧嘩になり、大乱闘になりました。そこへ仲裁に入った武士が居たのですが、武士が出て来た事により、ポルトガル側も船に戻って武装してきます。益々エスカレートして武器を交えての戦いになりました。ポルトガル側は船長以下14名の死傷者を出しました。なお、宮の前事件とは、神社の前の露店で起きた事件から名付けられました。

 

余談  セミナリオ(神学校)の画工

カトリックでは、布教の為に絵を用いてキリストの生涯やマリアの事を信者に教えています。仏教で絵解きの絵巻を使って、経典の読めない庶民に仏の教えを説いているのと同じです。

日本での布教に絵画が必要と、宣教師達は絵画を送れと本国へ依頼しますが、途中の寄港地の教会がそれらを取ってしまいますので、代わりに油絵具を送ってもらい、日本のセミナリオで聖画の描き方を教える様になりました。画工達は聖母子像などを沢山描き、布教に役立てました。「泰西王侯騎馬図屏風」「婦女弾琴図」等はこうした影響下で制作されました。