式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

118 桃山文化13 焼物(4)・織部焼

織部焼きと言うと、先ず緑色の陶器が思い浮かびます。

以前、お茶を習いたての頃、デパートの茶道具売り場で緑釉の菓子皿を探した事がありました。その時、店員さんが珍しく近寄って来て「織部をお探しですか?」と声を掛けられました。デパートでは、客が何を見ていようと店員さんは放っといて下さるのですが、その時はたまたまそれを切っ掛けに話が弾みまして、その店員さんから色々な知識を得る事が出来ました。

緑色の釉薬織部釉と言って、その織部釉のかかった陶器を「織部焼き」と一般的に言うのだそうです。その後、織部展などに足を運び、織部焼きにも黒い茶碗や茶色い花生けなどが有るのを知り、緑釉=織部焼きと直ぐに断定できない事も知りました。彼のどの作品も、個性的で、野性的で、縄文土器の様な力強さがあります。

 

織部焼きは織部が焼いた?

織部焼きは織部が直接手を出して粘土を捏(こ)ね、窯に火を入れて窯焚きの番をしながら焼いたものではありません。殆どの物が、彼が職人達に「こういう物を・・・」と指導して焼かせたものです。そして、それが評判を呼び、高値で売れるようになったので、それに影響を受けた職人達が織部に続けと、更に自由な発想で作陶する様になりました。

この動きは窯業(ようぎょう)各地に広がりました。釉(うわぐすり)を掛けて作る美濃焼瀬戸焼唐津焼のそれぞれの産地や、釉を使わないで焼き締めて作る伊賀焼信楽焼(しがらきやき)丹波立杭焼(たんば たちくいやき)備前焼などの産地が織部の指導を仰ぎ、各地なりの技術の特性を活かしながら、工夫して新しい創作に挑んで行きました。

戦国時代の陰鬱な空気を払いのけたかの様な、派手好きの秀吉の登場によって、民衆の間にお祭り気分が爆発しました。いざ、狂え! とばかりに傾奇者(かぶきもの)が流行りました。唐物一辺倒だった茶の湯にも風穴があき、侘茶の普及も相まって安価な和物の陶器が躍り出て来ました。それを牽引したのが織部です。彼は次々と新しい意匠の陶器を世に送り出しました。

利休は「侘び」「寂び」の美の世界を求める求道者(ぐどうしゃ)でした。利休の茶は修行僧の茶です。それに対して織部はバサラの美を追い求めました。織部は創造の世界に生きる芸術家でした。

 

織部茶碗の特徴

織部の茶碗はどの茶碗も、「土」の味わいを十二分に引き出している焼物です。そして、真面(まとも)な形で無いのが特徴と言えば特徴です。口縁が円形などと言う事は先ず有り得ません。必ず何処か歪(ゆが)んでいます。展覧会で見ただけなので、偉そうなことは言えませんが、そこに何か織部の意志の様な気配を感じます。

この茶碗でお茶を点てたら点て易いか、手に持ったら手に馴染むか、お茶を服し易いかなどとそんな事を考えながら拝見していると、二つの点に気付きました。

一つは、茶碗の大きさから言って男性向きである事です。茶の湯は男の世界の物だったのだ、と改めて思います。

もう一つは、メインの絵柄がある正面手前を時計の6時に譬(たと)えると、3時か4時ぐらいの位置に、少し外に反り返った歪みが有る事です。

お茶を服する時、茶碗を少し左に回して正面を避けて服します。すると丁度そこに歪みが来ます。口を当て、唇を茶碗の縁に接してお茶を頂こうとする時、飲みやすい形になっています。

緑釉だけでは無く、又、破壊的で力強い形と言うだけでは無く、そこに客への心配りが感じられるのは、婆だけでしょうか。

用の美と造形の面白さを兼ね備えているのが織部茶碗の様な気がします。

 

織部の指導

人の評価は何を以って基準にするかで、全く意見が割れてしまう事があります。古田織部もそう言う人物の一人です。

侘茶の創始者である武野紹鴎(たけの じょうおう)、侘茶の完成者の千利休、侘茶の革新者の古田織部の三人を、天下一の宗匠と呼びます。が、古田織部については異論もあります。織部よりも細川幽斎小堀遠州を推す人も居ます。或いは、武野紹鴎千利休の二人を以って天下一とする人も居ます。ともあれ、織部は秀吉に認められ、利休の後を継いで秀吉や家康の茶頭になり、徳川秀忠の指南役にもなりました。その権威たるや大したもので、織部が良いとした物は忽(たちま)ち値段が上がり、世の中の美の視点が織部の目を借りて判断する様になりました。

 

美濃焼

焼き物が盛んになって来ると、昔から窯業の地として栄えていた日本六古窯の一つ・瀬戸(愛知県)の近くに、美濃(岐阜県)にも陶工が移り住む様になり、窯を構える様になりました。

新興窯業地・美濃は次々と実験的な試みを始めます。

瀬戸黒(鉄釉をかけて焼き、急冷させて真っ黒に発色させたもの)、 黄瀬戸(淡黄色の釉薬を掛けた物)、 志野(白釉を使った焼物で赤志野、鼠志野、志野織部など他にも幾種類かあります)、 織部(緑釉などをかけ、鉄絵などを施し、量産されていながら一つとして全く同じ形・同じ模様の物はありません)、などが生み出されました。

美濃の陶工の中に、加藤景延(かとう かげのぶ)と言う人がおりました。景延は妻木氏に仕え、屋敷を拝領してそこで陶器を焼いていました。彼は名人と言われ、正親町(おおぎまち)上皇後陽成天皇へ茶碗を献上し、筑前守の名を賜りました。

或る時、景延は森善右衛門と言う浪人から唐津の焼き物の事を聞き、唐津焼を学びに唐津へ修行に出かけます。そこで彼は連房式登窯を知ります。美濃に帰ってから、彼はその連房式登窯を築き(元屋敷窯)、織部焼きを始めます。織部焼きの中でも、この元屋敷窯で焼かれたものが最も優れている、と言われています。