式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

正平6年(1351年)11月、足利尊氏は、三種の神器の返還、政権返上、北朝天皇上皇を廃すると言う条件で、南朝と和議を結びました。

この和議によって今迄分かれていた南朝北朝が、北朝が消滅する形で統一されました。

これを正平一統と呼びます。

南朝方と結ぶ事に依って尊氏は後顧の憂いを断ち、直義を鎌倉に追い詰め、幽閉します。

翌年の正平7年2月足利直義は鎌倉の幽閉先で急死します。

 

尊氏、将軍罷免

南朝側にとって足利幕府側の内紛は、幕府を倒す好機と映りました。

後村上天皇足利尊氏征夷大将軍の職を罷免し、代わりに宗良(むねよし)親王征夷大将軍に任じます。

この機に、南朝北畠親房は京都と鎌倉を攻める二方面作戦を採り、足利幕府の壊滅を狙います。正平一統の和議は4ヵ月も持たずに早くも破れるのでした。

 

武蔵野合戦

正平7年(1352年)閏2月~3月、新田義興・義宗兄弟(新田義貞の子)、脇屋義治(義貞の甥)、中先代の乱の首謀者・北条時行らが宗良親王を奉じて鎌倉を攻めます。

足利尊氏は鎌倉を一旦引きます。引いている間、南朝方は鎌倉を占拠しますが、尊氏は態勢を立て直して反撃に転じ、関東南部(現神奈川、東京、埼玉)で戦を展開、南朝側を破って鎌倉を奪還します。宗良親王信濃へ落ち延び、新田兄弟も越後へ逃れ、北条時行は処刑されます。

 

第一次京都合戦

正平7年(1352年)閏2月20日、関東と同時作戦で南朝は京都を攻めます。

南朝は、北畠親房が指揮を執り、楠木正儀(まさのり)と北畠顕能(あきよし)、山名時氏が京都を攻め、足利軍を破りしました。足利軍の細川顕氏が討死し、足利義詮は近江へ落ち延びました。

戦乱の中、義詮は光厳上皇を始め北朝の皇族方を置き去りにしてしまいます。その為、光厳上皇や崇光(すこう)上皇南朝側に捕えられ、大和国賀名生(あのう)(現奈良県五條市)に拉致されてしまいます。

 

第二次京都合戦 八幡の戦い

 足利義詮は近江で兵を整えます。傘下に佐々木道誉はじめ土岐氏、赤松氏、細川氏、山名氏、斯波氏などが集まります。

足利義詮は京都を攻撃します。後村上天皇は男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を定めます。

正平7年(1352年)、足利勢は男山八幡を包囲、2ヵ月間の兵糧攻めをしますが、なかなか落ちないので石清水八幡宮に火を掛け総攻撃をします。5月11日八幡宮はついに陥落します。

後村上天皇は脱出し、大和の賀名生に戻りました。

 

第三次京都合戦

正平7年8月から翌年の正平8年3月にかけて、摂津で南朝軍と幕府軍が戦い、南朝が勝ちます。南朝側には尊氏に反発する足利直義派の武将達が付きました。南朝は京都を奪いますが、正平8年7月24日に幕府側から猛攻撃を受け、南朝は京都から撤退します。

 

第四次京都合戦 神南(こいない)の戦い

南朝北畠親房が亡くなります。

足利直冬(ただふゆ)と直義ゆかりの武将達が南朝側に参陣します。

正平10年/文和4年(1355年)2月南朝は再び京都奪還を目指して、楠木正儀はじめ諸将と共に摂津の神南の戦いで幕府軍を破ります。足利尊氏後光厳天皇を伴って近江に退却。その隙に南朝軍は京都に入りました。が、3月、尊氏直々の出陣に、南朝軍は京都から撤退します。南朝側の京都占拠は約一か月で終わりました。

同年、拉致されていた光明上皇は解放され、京都に戻されます。光明上皇は出家しました。

 

第五次京都合戦

正平13年/延文3年(1358年)足利尊氏が亡くなります。

この時とばかり新田義宗北畠顕信が立ちますが不発に終わります。

もうこの頃になると厭戦気分が蔓延してきます。人材も兵站も補給が困難になってきます。都も農村も打ち続く戦で民は疲弊し切っていました。

足利義詮は最後の駄目出しで河内赤坂城を陥落させますが、幕府側からも離脱者が続出。

正平16年/康安元年(1361年)細川清氏(幕府側)が南朝側に寝返り、楠木正儀と共に京都を奪うも、一ヵ月もしない内に幕府側に明け渡してしまいました。

 

和平の兆し

楠木正儀(まさのり)は父・楠木正成に勝るとも劣らぬ勇猛果敢な名将です。戦略・戦術ともに天才的な能力を発揮、数々の戦で勝利を挙げました。彼は南朝の支柱となっていましたが、本人の意思は和平にあり、戦を望んでいませんでした。ただ、仕えていた後村上天皇も次の長慶天皇も、「夢よもう一度」の思いが強く、主戦論者でした。正儀は現状を把握し、冷静に分析していました。そして、南朝を出て北朝側に寝返ります。幕府側も正儀を厚遇し、攻めと和睦の両路線を取りつつ、長きにわたる戦乱を収める方向に動き始めました。

 

 

余談  拉致の上皇その後

光厳上皇は以前から夢想国師の下で禅宗に帰依しておりました。光厳上皇は賀名生で出家します。そして拉致されてから5年後、崇光上皇直仁親王と共に釈放され、京都に戻る事が出来ました。京都に戻ってから光厳上皇は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に師事、京都の常照皇寺で禅の修行生活に入り、54歳で崩御されます。

崇光上皇南朝の拉致から解放されて京都に戻った時、留守中に即位した北朝後光厳天皇がおりました。後光厳天皇の次期天皇に、崇光上皇は自分の息子の即位を望みましたが叶わず、失意の内に65歳で崩御します。崇光上皇の曽孫になってそれが実現します。それが後花園天皇です。