式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

190 家父長制度(2) 家系を継ぐ

義父の頑固一徹の根底にあるのは「朝令暮改を戒(いさ)むる」の信念です。将棋の棋譜を読むような塾考熟慮の末に打った一手は、頑として動かさない、それが彼の矜持(きょうじ)でした。

また、こうも申しておりました。「好き嫌いを言ってはならない」とも。その心は次のような理由に依ります。

食べ物の好き嫌いを言えば、材料を調達した者や、調理した者への叱責が及び、場合によっては切腹に至らしめるかも知れない。また、人物に対して好き嫌いを言えば、阿(おもね)る者が出て来る。派閥の種を蒔く事になる。物に対して「これは好い」と言えば、人はそれが上司の好みと思い、そればかりを贈って来る様になる。故に好き嫌いを言ってはならない、と。

切腹云々はまるで時代劇の世界で、パロディーの様な譬(たと)えですが、その奥には殿様教育が潜んでいたように思われます。いわゆる「帝王学」です。自分本位の言動を慎み、周りの者への影響を考えて自身の言動を律する、それが義父の根幹でした。

 

先祖は殿様?

義父が言うには、先祖は殿様だったそうです。

婆はそれを全く信じていませんでした。信じている振りをしました。第一、殿様と言う者は須(すべか)らく禅宗に帰依しているか、その影響を受けていると思っていました。それなのに、義実家は代々他力本願の伝統仏教です。

殿様は、家臣や兵卒を死地に投入する決断を常に迫られます。生死与奪の権を握っている殿様は「電光影裏(でんこうえいり)春風を斬る」覚悟が無ければ、その役は務(つと)まりません。

武将の多くは茶湯を嗜(たしな)んでいます。そして、茶禅一味からでしょうか、禅宗に帰依している人が多いように見受けます。

上杉謙信は幼い時に曹洞宗林泉寺に入り、天室光育から教育を受けています。

武田晴信臨済宗の長禅寺で出家し、信玄と号する様になりました。

徳川家康は人質時代に臨済宗太原雪斎の教えを受けた、と言われています。

古くは、北条時宗無学祖元、兀庵普寧(ごったんふねい)大休正念などの南宋の禅僧から教えを受け、深く禅宗に帰依しており、元との戦いを決断しております。

宗派の違いから、義父の先祖は殿様では無いと考えた婆は、もしかしたら、義父は戦国オタクで、昔物語好きが高じてドン・キホーテになってしまっているのかと考えました。そして、何故殿様でもないのにそんなに義父は威張っているのか、支配的なのか、その正体は何なのかを、知りたくなりました。

義母が気の毒でした。何とか彼女を救いたいと思いました。彼女の人生の最後の最後でもいい、義父の本当の姿が見えたならば、義母も「幽霊の正体見たり枯れ尾花」になって、気持ちが楽になるのではないかと考えたのです。これが義実家のルーツを調べてみようと言う気になった動機の一つです。それに、或る人から「お宅はどういう家なの?」と聞かれた事もその要因の一つでした。

 

獅子身中の虫

婆は義父を疑っておりました。けれど、雷を恐れて黙っていました。そして、義父から家の歴史を聞き出す一方、その陰で図書館に行って色々と裏付けを取り始めたのです。婆も腹黒くて人が悪い。獅子身中の虫かも知れません。

義父はご機嫌で色々と昔話をしてくれました。そんな訳で、婆は義父から気に入られていました。で、分かった事は、義父の話には詳細と曖昧(あいまい)のグラデーションがあり、慶応年間から後の話が多かったのです。つらい時期の話は余りしたがらず、家が盛んな時の話を良くしていました。

明治維新に全てを失い窮乏、その為に売り食いの暮らしになり、太平洋戦争で極貧に沈んだと言う話を義母からそっと聞き出しました。それでも誇り高き過去を捨てなかったそうです。姑は栄養失調で失明したそうです。

 

タブー

義実家は古田織部と同じ美濃出身で古田を名乗っています。古田織部と関係が有るのか無いのかの肝心なところを聞くと、それは分からない、と義父は答えました。その上、織部に触れるのは先祖代々タブーだった、と申しております。代々タブーを守ってきたせいで、家の記憶が抜け落ちてしまい、闇の中に消えてしまった、と言っています。怪しい!!!

徳川の世が続く限り謀叛人「織部」と関わる事は禁忌(きんき)だったそうです。当家はたまたま古田の名前であり、たまたま美濃出身であるというだけであり、それ以上の繋がりは一切無いというのが、歴代が貫いて来たスタンスだそうです。

義父はそれを残念がり、彼自身が色々と調べている、と聞きました。自分の代で家系の全貌を明らかにしたい、と言っていました。

えっ! こりゃぁ不味い、と思いました。何事も「秘せども色に出にけり」です。婆が義父の家系を疑って調べていると分かったら何が起こるか分かりません。彼はプラス思考で調べています。こちらは義父主張の家系を否定する為に調べています。同じ調べるでも、これでは必ず衝突するに違いありません。タグを組むのは危険です。そこで、暫(しばら)く調査を中断する事にしました。再開したのは義父が亡くなってからです。

 

家督のこと

ところで、義父は義兄を勘当した後、次男の夫に「私の亡き後の家督を継ぐ様に」と命じてきました。家督と言っても戦後の法律では消滅してしまった言葉ですので、実効性は全くありません。それに、「武士は食わねど高楊枝」を地で行く義父でしたから、貧乏サラリーマンの典型の様な暮らしぶりでした。家督と言っても何かがある訳ではありません。

婆が夫と結婚した頃の義実家は、住宅街の片隅の、周囲の屋並みに埋もれる様な小さな草屋(そうおく)に過ぎませんでした。これまでの話の展開から、義実家の家の佇まいを、地方にある武家屋敷のような御大層な構えの家を想像なさった方もいらっしゃったでしょう。が、どうしてどうして全く違います。門から玄関までがほんの3歩で済むような、小さな家でした。結局、義実家の家督を継ぐと言うのは、系図の後継者になれという事であり、墓守を受け継ぐ事でした。系図と言っても、義父が亡くなる迄、婆はそれを見せて貰った事がありません。夫が家を継いで初めて目にしました。

 

考えてみれば、次男というのは長男のスペアーなんですね。近頃、そんな名前の書物が出たようですが、昔から武士の家では、次男以下は出家するか、養子に行くか、部屋住みで一生燻(くす)ぶっているかでして、長男が討死か病死した場合の代打要員なのです。

躾も無く、何処の馬の骨とも分からないじゃじゃ馬の身としては、想定外の成り行きに慌てました。御辞退申したき義ではありましたけれど、離婚だなんだも嫌ですし、夫も、スペアーの覚悟を持ち始めた様なので、婆も従う事にしました。今まで通り素のまま飾らず、地金で接して行く事にしました。ま、なるようになるさ、と開き直ったのです。義弟妹達も、この流れを自然に受け入れてくれました。義母は喜んでくれました。

夫は義父に悟られないように義兄と連絡を取り合い、義母と義兄との間が保たれる様にしていました。夫と、格別の瑕疵(かし)も無く勘当された義兄とは共に戦後教育を受けた層です。心情的に理解し合える下地があります。どうやら夫は調整型のタイプの様でして、その辺は上手くやっていました。

 

義実家とわが家は直線距離にして約2㎞離れています。近いので、何かにつけて義実家に足を運びました。人が寄り集まる時などは、ちょいと行って義母と一緒に台所に立ちました。

台所での義母との立ち話、結構楽しかったです。万事アバウトのじゃじゃ馬嫁で、料理の失敗も幾度かありましたが、そんな時、教える出番が出来たと嬉しそうに笑って導いてくれました。彼女に笑顔が増えて行きました。主婦の笑顔はなかなか良いものです。

夫が義兄の代打に立ってから、家風はかなり緩くなりました。

 

家の伝統と伝承問題

話は遡って当方の新婚の頃に戻ります。子供が生まれた時、義両親は祝いの品を持ってやって来ました。祝いの品は「紙・墨・筆」と計算尺です。「?」と見返すと義父は「これが我家の伝統です。文武両道を願って、文房具四宝と守り刀を贈るのが我家の伝統だが、文具四宝の内、硯を除いてある。守り刀は時代にそぐわない。よって、刀を技(わざ)と見立て、現代の技の象徴として計算尺に代替した」との事。へえーと感心して、有難く頂戴いたしました。耳慣れない伝統だと思いながらも由緒が有りそうなので、この「伝統」は婆も引き継ぎました。孫の誕生の時には銀座の鳩居堂で「紙・墨・筆」を整えて贈りました。「技」に相当する物は定規であったり、小さな裁縫セットであったりします。要するに象徴的なお印であればいい訳です。

 

先祖代々伝わって来た家の伝統は他にも色々ありますが、それら全てを次世代に受け継がせて良いものかどうか、考えさせられてしまいます。

時代が違います。家の在り方が違ってきています。家への帰属意識が昔ほどでは無く、御家断絶を恐れる気持ちは殆ど無くなってきています。核家族化が進み、少子高齢化が進み、孤食が増え、孤独死が当たり前になりつつあります。墓仕舞いも盛んにおこなわれる様になりました。2018年には、849万戸の空き家が出ており(国土交通省発表)、現在も勢いよく放置家屋が増え続けています。

日本人の中に脈々と流れてきた子孫繁栄を喜び、家系を尊び、系を繋ぐという形が崩れて来ている現代に、家の伝統を守らせる意義があるのか、否、守らせる術(すべ)があるのか・・・婆には答えが見つかっていません。恐らく、将来的にはこの状況が更に深刻になって行き、「家」では無く「個」の時代になって行くでしょう。

 

余生

義父は退職後毎日写経に励んでいました。一日に何枚も筆で丁寧に書いていました。その為か随分性格が丸くなりました。そんな頃合いを見計らって、式正織部流の家元に娘を入門さてお茶を習わせましたところ、式正織部流に古田の縁を感じたのでしょうか、義父は目を細めて喜び、近所に孫娘を自慢する様になりました。これなら大丈夫そうだと、それよりかなり遅れて婆も習い始めました。

義父は亡くなるまでに般若心経を書きも書いたり3万巻、薄手の仮名用半紙が段ボール7箱分になっていました。棺にそのほんの一部を敷き詰めて上から花で覆い、お別れをしましたが、古武士のような風貌だった義父が好々爺(こうこうや)の顔になっていたのが印象的でした。駆けつけた義兄も心行くまで別れを惜しんでいました。きっと、この時には既に心の中で和解していたのだと思っています。

一周忌の法要の時、それまで書き溜めていたルーツの調査を更に進めて集大成し、義父の墓前に捧げる事が出来ました。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とばかり、真相を暴(あば)こうとした最初の意図とは逆に、証拠固めの結果が出てしまいましたが、義母は「そうだったのか」と納得してくれました。

 

義母は毎朝6時に起きて仏壇にお茶と仏飯(ぶっぱん)を供え、阿弥陀経と般若心経を唱えました。凡そそれが40~50分続きました。仏前に供える仏飯は炊き立ての最初の一掬い、そしておかずは精進料理で昆布だしで作ります。鰹節や煮干しは魚なので一切使いません。ミニトマト位の大きさの里芋一個や人参一片、一茎の菜などの野菜を別鍋で煮て供える訳ですが、そうする為には婆は義母より早く起きて、6時の「お勤め」に間に合わせる様に作り上げます。義母がお勤めしている間に婆は自分達用の朝食を作り、丁度7時くらいに一緒に頂く訳です。義母は仏壇から下げた仏飯と、生身の人間用に作った朝食を取り交ぜて食べていました。人間用の食事は精進の縛りが無いので、鰹節も化学調味料も使いました。勿論、卵・肉なども食卓に上りました。

 

義母が寡婦になった頃には、子供達は巣立ち、夫は定年退職をしていましたので、夫が日曜日から水曜日迄、婆が木曜日から日曜日までと一週間を二分して、交代で義実家に泊まり込み、見守る事にしました。幸いにして夫は家庭科5を自慢にしていましたので、夫担当の日も安心していられました。日曜日は義実家で夫と落ち合い、そこで業務引継ぎをします。義母の体調や変化、食欲の状態や、ご近所の付き合いなどの様子などメモし、報告をします。

義母は若い頃から一度も病気をしたことが無かったのですが、義父の葬儀を終えた頃から体が弱り、帯状疱疹や腸閉塞嵌頓(ちょうへいそくかんとん)などの大病を患い、要介護2になっていました。足腰は弱っていましたが、頭はしっかりしていました。「数独」という数字のパズルを楽しんでおり、難易度の高いものも1時間ぐらいで解くほどでした。

義父亡き後、義母は義父の写経を引き継ぎました。そして、毎日の勤行を怠らず、102歳で見事な大往生を遂げました。

 

 

余談   電光影裏斬春風(でんこうえいり しゅんぷうをきる)

この偈は鎌倉時代北条時宗の時に、南宋からやって来た禅僧・無学祖元(=仏光国師)の詩の一部です。

乾坤(けんこん)、弧(こきょう)を卓(たく)するに地無し

喜び得たり、人空(にんくう)、法も亦(また)

珍重(ちんちよう)す大元三尺の剣

電光影裏に春風を斬る

南宋は元に侵略され、無学祖元の居た能仁寺にも兵卒がやって来ました。他の僧達は皆逃げ出して祖元禅師だけが独りで座禅を組んでおりました。それを見つけた元の兵は、三尺の大剣を振りかざして祖元を斬ろうとします。その時、祖元は「私は空。私を斬ったとて春風を斬る様なものですよ」と句を詠みます。兵卒はその姿に圧倒されて斬らずに去って行きました。

これは「臨剣の頌」とか「臨刃偈(りんじんげ)」と言われています。無学祖元は鎌倉の円覚寺の開山です。

 

 

この記事を書くに当たり、下記のようなネット情報を参考に致しました。

臨黄ネット 禅語「電光影裏斬春風」: 臨済黄檗 禅の公式サイト

臨済宗大本山円覚寺 春風を斬る

ありがとうございました。