式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

191 武士の覚悟 辞世・死のテーマ

武士の死に対する覚悟が、最も分かり易いのが辞世の句ではないでしょうか。そこで、辞世を取り上げてそれを考えると共に、現実に看取った義母の病床から天寿を全うするまでの様子を、重ね合わせて行きたいと思います。

 

かかる時さこそ命の惜しからめ 

     かねて亡き身と 思いしらずば   太田道灌 辞世 享年55

 

道灌(どうかん(=資長(すけなが))のこの歌は、道灌の政治・軍事・文化力などの優れた能力に脅威を感じた主君・上杉定正(=扇谷定正(おおぎがやつ さだまさ))が、彼を罠に嵌めて暗殺した時のものです。

風呂上りの道灌を刺客が槍で刺した時、刺客は道灌の優れた歌の才能を知っていて上の句を詠みました。それが「かかる時さこそ命の惜しからめ(こんな時どんなにか命が惜しいだろうね)」です。道灌はそれに即座に下の句を「かねて亡き身と思い知らずば(もともと命など無いと思っている。もし、そのように悟っていければ、きっと命を惜しいと思ったろうよ)」と詠んだのです。

絶命の時に「当家、滅びたり」と叫んだと言われております。案の定、道灌と言う有能な忠臣を殺した定正は、家臣からの信頼を失って大量の離反を招き、没落していきます。

 

おもひおく言の葉なくてつひに行く 

                  道はまよはじ なるにまかせて   黒田孝高 辞世 享年59

 

黒田孝高(くろだ よしたか)は、言わずと知れた黒田官兵衛、又の名を如水、洗礼名はドン・シメオンです。彼は病死でした。穏やかな最期だったと言われております。仏教徒からキリシタンへと変わり、キリスト教聖堂に埋葬されました。埋葬されてから凡(およ)そ半月後、嫡子長政は仏式での葬儀を行っています。孝高の屋敷は大徳寺に移築され、龍光院(りょうこういん)を建立、特に書院の四畳半台目茶室「密庵席(みったんせき)」は国宝になっています。

道灌の歌には、常に死を覚悟している武人の姿があります。

孝高の歌には、力(りき)みも迷いも無い自然体の姿が有ります。

 

武人達の辞世の句を読む時、何となく義母の姿が思い出されます。

「死」を従容(しょうよう)として受け入れる姿は、武士の「死」に対する態度と同じではないかと、思ってしまうのです。

義母は好むと好まざると武士の妻としての心得を、大姑・舅・姑に囲まれて叩き込まれました。

明治・大正・昭和と時代が変わり、彼女を取り巻いていた人々が鬼籍に入りました。大戦後に大きく世相が変わってもなお、若い時に叩き込まれた「心得」は脈々と彼女の中に生きておりました。

義母が101歳を過ぎてベッドに寝付くようになったある日、枕元に呼ばれて行きますと、頼みが有ると言われました。それは、箪笥の一番下の引き出しの、一番下にある着物をここに持って来て欲しい、という依頼でした。

茶色に変色した畳紙(たとう)(←包み紙)を持っていきますと、懐かしそうに微笑み、

「そう、これよ。中を開けて下さい」

と言いました。何が出て来るかと思って丁寧に開けますと、中から白無地の絹の着物が現れました。心なしか黄色味がかった絹のそれは、死装束だそうです。義父に言われて義母が若い時に自分用に縫ったものだそうです。

「今日は頭が痛くて気分が悪いの。ひょっとしたらお迎えが近いかも知れないから、それを枕元に置いといて下さい。万一の場合は、それを着せてね。」

と言い、更に下着を真新しいものに取り替えたいと言い、シーツ交換も頼まれました。そして、仰臥(ぎょうが)すると、胸の前で合掌して眠りにつきました。

翌朝、ベッドを覗いてみますと、

「また、目が覚めちゃった!」

と、バツが悪そうに、それでいて茶目っ気たっぷりに笑っている義母が、そこにいました。

 確かに100歳を過ぎていれば、何時あの世に旅立ってもおかしくない年齢ですし、そこまで生きれば、ある程度の覚悟は出来上がっているかとは思いますが、彼女は自分の死装束を若い時に縫い上げていたのです。

 

 待てしばし死出山辺の旅の道

                  同じく越えて浮世語らん     北条基時 辞世 享年48

 

この歌は、鎌倉幕府滅亡の東照寺合戦の時に北条基時が詠んだ辞世で、先に討死した嫡男の仲時に呼びかけた歌です。仲時は佐々木道誉に敗れて、父より一足先に討死しておりました。

 

こんな事がありました。

義母は、往診して下さったお医者様をつかまえて「あなたは藪医者だ」と決めつけ、「私は自分の死期が近い事を知っています。それなのに貴方は、まだまだ大丈夫だとおっしゃる。看立て違いですよ」と少々不満げに話しました。

「そんなにあの世に行きたいの? あの世に行くのが嬉しそうで、まるで遠足に行くみたい」と婆が聞くと、

「そりゃぁ、あっちの方が知り合いが多いもの」と答えました。

「私達じゃ駄目?」

「少々物足らない。やっぱりお母さんやお父さんの方がいい」

と答えました。お医者様も笑って「藪医者ですみません」とおっしゃいました

 

梓弓 はりて心は強けれど 

            引手すくなき 身とぞなりぬる       細川澄之 辞世 享年19

 

細川吉兆家の当主の座を争い、戦い勝ってその座に就いたものの、たった40日でライバル細川高国に敗れて殺された澄之の歌です。心細さが滲み出ています。

 

夏草や青野ヶ原に咲く花の 

     身の行衛こそ聞かまほしけれ    足利春王丸 辞世 享年12

身の行衛 定めなければ旅の空 

     命も今日に限ると思へば      足利安王丸 辞世 享年11

 

この2首は、室町幕府将軍・足利義教(あしかが よしのり)に反抗して敗れた足利持氏の二人の子供の歌で、捕らえられて京都護送中に殺された時の辞世です。これからどうなるか分からない運命の行く末に、不安で一杯になっていた胸の内が窺(うかが)えます。

 

死出の旅路の不安を義母も吐露(とろ)していました。

ね、と義母から呼ばれ、枕元に行った時の事でした。

むけいげ、むけいげこって言うでしょ? でもね、むけいげではないの、本当は。死ぬのが怖いの。自分が無くなるってことが怖いの。どういうことか分からないの。寂しいの。そこにいくまでに痛かったり、苦しんだりするが怖い。苦しみたくないなって思う。阿弥陀様におすがりしているのだけど、お坊様が言ってきた事が、今、みんな、嘘に思えてきている」
「大丈夫よ。お義母さんは今迄一所懸命にお経を詠んできたでしょ。写経もいっぱいしてきたでしょ。ご先祖さまの供養も心を込めてやって来た。仏様が見捨てる訳はないよ。」

「違うのよ。写経をすればするほど、おかしなことになる」

お経の中のお経、最高のお経と言われる般若心経(はんにゃしんぎょう)では、全てが無だと説いている、眼も耳も鼻も舌も無く、苦痛も無く何もかも無いと言うならば、火焔地獄だろうが針山地獄だろうが何の痛みも痒(かゆ)みも感じないのだから、地獄なんてあったって意味が無い。なのに、なぜ、お坊様は地獄の話をするのだろう、地獄がそうならば、極楽へ行っても喜びも悲しみも何も感じないのではないかと、重ねて聞いて来ます。

義母は寝た切りになるまでに3千巻の般若心経の写経を成し遂げていました。この問いはとても重く、生半可に応える訳にはいきませんでした。

 

(かばね)をば岩谷の苔に埋(うず)めてぞ 

     雲井の空に名をとどむべき   高橋紹運 辞世 享年39

 

高橋紹運(たかはしじょううん)は、九州の大友宗麟の家臣で、西国無双と言われた立花宗茂の父です。紹運は783名の将兵と共に岩谷城に立て籠り、島津軍2万余(5万とも)の軍勢を迎え打って戦いました。半月持ち堪(こた)えて、全員討死しましたが、その間、島津軍は消耗戦を強いられ戦死者4,500にもなりました。この岩谷城の戦いは、島津の九州制覇の夢を打ち砕く切っ掛けになり、秀吉の九州統一を容易にならしめた一戦でもあります。

幾多(いくた)の戦場を駆け廻(めぐ)って来た歴戦の猛将の脳裏には、山河に累々(るいるい)と打ち捨てられた死体の惨臭を放って朽ち果てて行く有様が、脳裏に浮かんでいたに違いありません。

 

柳沢桂子著「われわれはなぜ死ぬのか」という本の話を、義母の問に答える形で話をしました。内容は科学的で現実的で、九相図(くそうず)のようなかなりショッキングな描写も有ります。般若心経三昧に暮らして紙背に到達している様な義母に、上っ面の極楽浄土を説くなど、出来ませんでした。

九相図の目を覆う様な場面は、今まさに死の床に就いている人に話すべきでは無いと、それとなく避けて話していますと、義母は子供の頃に、村のお寺のお坊様が九相図の絵解きをしながらお説教してくれたことを話し出し、そうやって地獄にいくのだろうか、と聞いて来ました。

婆は不意を突かれてぐっと詰まりました。そして、こう申しました。

「死んで土に返り、植物を育て、虫達や動物達を養い、そうやって巡り巡る形での転生は信じています。死んで畜生に生まれるなどと言うような突飛(とっぴ)な輪廻では無く、周りの自然を潤していくような穏やかな輪廻ならば、信じても良いと思っています。だから、形は変わっても、決して消滅してしまう訳では無い」と。

「でもね、死ぬと焼かれて灰になるでしょ? 骨壺に入れられて墓に納められるでしょ? そうしたら、壺から出られないから草にもお花にもなれない」

「あ、そうか。それは困った。どうしよう」

義母と顔を見合わせて笑いました。

「じゃ、骨壺に入れないでカロートの中に蒔く?」

「実家のお墓は骨壺に入れないでお骨のままカロートの中に蒔くけど、それだって、カロートの中に閉じ込められて外に出られないでしょ? 雑草を生やす力にもなれない」

「鳥辺山? それはちょっとね、お骨が砂埃りになって飛んで行ってしまうから不味いよ」と言った後で、はたと思い付きました。

「分かった。じゃ、お義母さんの悩みは解決できないけど、寂しくない様に三途の川まで付き添うね。でも、一緒に川を渡るのは嫌よ。こっちの岸からお見送りする。だからそれまで何も悩まないで安心して眠ってね。ずっと傍に居るから」

「淀川で千利休を見送った織部もそうだったのかしらね」

「そうかも知れない。あの川は三途の川だったのかも知れない」

一休宗純が遷化(せんげ)(=臨終)の時に「死にとうない」と言ったそうです。

 

人生七十 力囲希訥   (じんせいななじゅう りきいきとつ)  (希訥→気合。エイッヤッ)

吾這宝剣 祖仏共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)

堤我得具足一太刀  (ひっさぐるわがえぐそくのひとたち) (得具足→得意の武器)

今此時天抛      (いまこのときぞてんになげうつ)   千利休  辞世  享年70

 

これは千利休の辞世の遺偈(ゆいげ/いげ)です。辞世には「月」「雲」「夢」や、「澄む」「清らか」「静か」などを詠み込んだ歌が大変多いです。ところが利休の辞世はそれ等とは違って非常にアクティブな詩です。力が漲(みなぎ)り、肩を怒(いか)らせ、まるで東大寺の仁王様の様な形相(ぎょうそう)さえも想像してしまう様な、そういう雰囲気があります。逆に、それが利休の弱さに、婆は見えます。彼は精一杯強がっているのではないかと。つまり、武士は日常的に「死」と隣り合わせなのに対し、利休は町人故に「日常的な死」とは無縁であり、「死」に自ら赴くには余程強い思いで飛び込まなければならなかったのではないかと・・・

彼は武士ではありません。商人です。けれど、武士の礼を以って死を賜りました。それで、武士の覚悟の項に彼の辞世を収めました。

(とが)を受けて淀川を下る千利休を、細川三斎(忠興)古田織部二人が淀川で見送ったという逸話があります。その21年後、今度は古田織部が大坂方内通の嫌疑で切腹させられました。彼は、なんの言い訳もせず、自刃してしまいました。

織部が釈明をしなかったのは武士として潔い態度ではありますが、なぜ辞世すらも詠まずに黙ったまま自刃してしまったのか、どう考えても分かりません。

もしかして、沈黙こそ彼の辞世だったのかもしれません。

「無~~~~ッ」

と。

 

五月雨は露か涙かホトトギス 

    わが名をあげよ雲の上まで    足利義輝 辞世 享年30

 

室町幕府の13代将軍・足利義輝は、足利義栄(あしかがよしひで)を将軍に擁立する三好三人衆の軍勢1万に二条御所を襲われ、奮戦空しく殺害されてしまいました。この歌は、もはやこれまでと最後の酒宴を開き、詠んだものです。

 

朧なる月もほのかに雲かすみ 

     晴れて行衛の西の山の端(は)   武田勝頼 辞世 享年37

 

武田勝頼は、織田・徳川・北条軍の三方から攻められ、甲斐の田野で嫡男・信勝正室と共に自害いしました。

 

何を惜しみ何を恨みん元よりも 

       この有様に定まれる身に    (陶晴賢 辞世 享年35)

 

陶晴賢(すえはるかた)は「厳島(いつくしま)の戦い」で毛利元就(もうり もとなり)と戦い、敗れて自害しました。晴賢の句は自分の運命を俯瞰(ふかん)するような歌です。織部の辞世の「沈黙」も、やはり全てを見切っての沈黙なのでしょうか。

 

よわりける心の闇に迷はねば 

       いで物見せん後の世にこそ   (波多野秀治 辞世)

波多野秀治明智光秀丹波攻略に抵抗、籠城戦の末力尽きて捕らえられました。そして、安土に送られて磔に処せられました。死を目前にした絶望的な状況の中で、死して後もなお働いて一矢報いようとする執念が感じられます。

如何に生き、如何に生き切るかを常に模索しているのが、侍の様な気がします。

 

殺人未遂

義母がまだ足腰が立ち、寝たり起きたりできる頃の話です。寝疲れたと言って、ベッドから起きて居間のソファに座っていた時の事です。その時、家に居たのは婆一人でした。義母は頼みがある、と言って婆を呼び寄せ、

「殺して欲しい」

ととんでもないことを言い出し、手を合わせました。

「なぜ? そんなこと嫌ですよ」と拒否すると、

「死にたい」と言うのです。

「痛いの?」と聞くと首を横に振ります。「苦しくてつらいの? 」と聞いても違うと言います。

帯状疱疹の痛みは残っています。何年経ってもまるで生きている証の様にいつもじわっと疼(うず)いています。でも、それにはもう慣れました。」

「じゃあ何? 私達の介護が至らないから?」

「違う。そうでは無い。みんなの迷惑になるのが嫌なの」

「そんな事で?」

「そんな事って言うけれど、それが苦しいの」

「嫌だ」と断り続けても義母の願いは執拗でした。根負けして、進退極まって、とうとう、婆は義母の首に両手の指を掛けました。義母は静かに首を伸ばし、南無阿弥陀仏と唱えながら合掌しました。

 

義母の首の温かさが手の平に伝わりました。その瞬間、わぁっと両腕で義母を抱き、

「お義母さんのバカ!」と罵(ののし)りました。

「そんな事してご先祖様が喜ぶと思ってるの?  お義母さんが死んであの世に行って、どう、重勝様に申し開きするの? 私だって死んだ時に、この不届き者!  って即刻 磔獄門じゃ、って言われちゃうよ。どうしてくれるの」

と叱りました。義母は首をうなだれ、泣き出しました。

「あのね、役に立たなくてもいい。そこに存在するだけで役に立っているの。おヘソがそうでしょ。用が済めば役に立たなくなるけど、おヘソが無ければ蛙になっちゃうでしょ。」

「蛙?」

「そうよ、蛙よ。おヘソが無ければ蛙になっちゃうよ。役立とうが立つまいが誰でもおヘソを持っているでしょ。おヘソの役目が終わってもおヘソは消えて無くならないでしょ。それはね、おヘソってとっても大切なものだから消えないの。誰でもみんなおヘソなの。お義母さんも古田家のおヘソ。堂々と家の真ん中に黙って座って居ればいいの。そこに居るだけで役に立ってるんだから。」

「そんな事は無い。慰めてくれるのは有難いです。でも、みんなの足手まといになっているのもホントの事。それが辛(つら)い。死ぬほど辛い。」

「あなたの息子さん、見てごらんなさい。退職して何もしないで家でぶらぶらしていたら、忽(たちま)ちボケてしまってます。母親の役に立ちたいと思っているからこそ、彼は今、自分を活かせる場所を知り、一所懸命生き生きと介護しているんですよ。それにね、母親が長生きすれば、それは子供の励みになる。親が若死にすれば、子供は自分もその年齢で死ぬんじゃないかと不安になる。親が長生きしていれば、自分も長生きできると希望が持てる。親の年齢を超えられる様に生きようと励む。節制もする。だから、お義母さんが何もしないでいても、お義母さんらしくそこに居るだけで役に立っている。お義母さんはおヘソなの。」

と。

「それにね、昔、母さんから言われたことがある。人はみんなおぎぁと生まれておむつをして育てられた、そのおむつをしていた年月は、親の下(しも)の世話をしなきゃいけないって。順繰りなんだって」

 

祈るぞよ子の子のすへの末までも 

    まもれあふみの国津神々   (井伊直政 辞世 享年42)

 

この子供達を子々孫々まで末永く守って欲しい、近江(おうみ)の国の神々よ、と祈る直政の歌です。直政は徳川三傑、或いは徳川四天王と称された人物です。関ケ原の戦いの時、島津を猛追中に鉄砲で撃たれ落馬、即死には至らずその後も戦後処理に活躍していましたが、銃創が悪化し、彦根城を築城している最中に傷口からの感染症により死亡しました。

この歌には、わが子のみならず、その子のその子の、又その子までもずーっと恙(つつが)無くあれ、と願う親心が滲み出ています。井伊の赤鬼と言われた猛将も、矢張り人の子でした。

 

旅立ち

1年ばかり寝付いて後の冬、義母の様体が急変しました。

往診して下さったお医者様からあと2週間だと言われました。

夫は兄弟妹達にその事を伝え、お定まりの「母危篤すぐ来い」的な連絡はしないから、何時でも良い、何度でも良いから会いに来いと伝えました。会った日が最後と思って来て欲しいと申しました。幸いにして、夫の兄弟妹達はみな現役を退き悠々自適に暮らしておりましたので、毎日誰かが間断なくやって来ました。孫も曾孫もやってきて賑やかになりました。遠い所からも頻繁にやってきて、昔話をしたり現況報告をしたりして、義母はとても喜んでいました。

 

義母は自然死を望んでおりました。義母は点滴や酸素や胃瘻(いろう)どを拒否、阿弥陀様の御心に任せたいと言っておりました。目を開いている時は訪ねて来てくれた子供達や孫達と話を交わすことが出来ました。何時も、「ありがとう、ありがとう」と言って手を合わせていました。

夫と婆は義母の寝室を開け放し、隣の部屋に寝ました。ちょっとした変化も見逃すまいと臨戦態勢を取って注意していましたが、呼吸が非常に穏やかで、それこそ生きているのか死んでいるか分からない位でした。時々不安になり、夫と二人で代わる代わる義母の胸に直接耳を当てて心音を確認し合いました。

 

食事が摂れなくなりました。重湯(おもゆ)もプリンも呑み込めなくなり、吸い口で水を飲ませるのもやっとになりました。

間も無く、お医者様から、お水を飲ませるのを止めなさいと禁止されました。何故?と伺うと、呑み込む力が無く、無理に飲ませると肺に入ってしまうと言うのです。そこで、脱脂綿に水を湿らせ、喉の渇きを癒(いや)そうとしました。唇も舌もカラカラに渇いてひび割れし始めました。全身の皮膚から水気が失われ、少し黒ずんできました。そのくせ、浮腫が酷くなりました。むくみを解消しようと、手足のマッサージをしましたが、それも、先生から止められました。若ければマッサージは有効ですが、血管がボロボロに弱っているので、マッサージをすると血管が破れてしまう、と言うのです。

どんなに喉が渇いているだろうかと思うと、居ても立っても居られなくなりました。どんなにお腹が空いているだろうかと思っても、どうする事も出来なくなりました。

次第に打つ手が無くなってきました。背中側に褥瘡(じょくそう)(=床擦れ)が出来始めました。

次第に痩せて、骨が出て来ました。皮膚が骨にまとわりつき、皮膚が擦れて血が滲んできました。体位を横にして背中側に座布団を当て、頻繁に寝返りを打たせるのですが、その進行は止められません。看護師さんが背中に軟膏を塗り、ガーゼを当てて下さいます。その都度顔を顰(しか)めて痛そうな表情をします。婆もやり方を教わり、薬を塗り、「ごめんね、ごめんね」を連発しながらガーゼ交換をしました。

ヘルパーさんも週に2回来て体を拭いて下さいました。お医者様、看護師さん、ヘルパーさん達の連係プレーで、なんとか日々持ち堪(こた)え、あと2週間と言われてから更に生きながらえました。

 

夫の兄弟妹達も頻繁にやってきました。義母の意識が朦朧(もうろう)としていても積極的に話しかけて下さい、とお願いしました。他の感覚器官が働いていなくても、耳だけは最後迄聞こえるという話を、聞いた事があります。義兄弟妹達は、あたかも義母が聞いているかのように話しかけてくれました。時には、本当に聞こえていたのか微笑んだりしていました。目が覚めている時もあり、その時は「ありがとう」と聞こえるか聞こえないかの小さな声で言うこともありました。

 

浮腫が酷くなり、そして、排泄の様子も少し変化してきました。排泄すると浮腫が和らぎました。和らぐとまた浮腫が始まりました。それが繰り返されました。

あと2週間と言われてから2ヵ月が経ちました。体はすっかり骨と皮になってしまいました。お医者様に、なんとか痛み止めを打って頂けないでしょうか、とお願いしました。お医者様は、今は殆ど痛覚を感じていませんと仰いました。

 

それから間もなくして、ふっと義母の顔を見た時、異変に気付きました。顔の色に違和感がありました。

死相? 夫も気付いたようです。皮膚の色が何時もと違うのです。何色? と聞かれても具体的に何の色と言えない様な、僅かな変化です。

それから、排便の色が黒い色に変わりました。何も食べていないのに、どうしてこんなに多いのかと思う程でした。黒い便が何回も出ました。尿も頻繁でした。婆は義母の手を握り締めて「傍に居るからね。大丈夫だよ」と何べんも声を掛けました。

死相が表われてから2日後の未明3時ごろ、夜中の世話をする為に夫と共に起きて義母の様子を見ました。どうも呼吸をしていない様でした。胸に耳を当てても心音が聞こえません。鏡を持って来て鼻の前にかざしましたが、鏡は曇りませんでした。体はまだ温かったです。

夫が、未だ柔らかい義母の手を握り、その手を胸の上に組ませて合掌させました。そして、2人で般若心経を唱えてお見送りしました。

義母は静かに旅立って行きました。102歳でした。

その姿は、即身成仏そのままでした。ガンダーラの釈迦苦行像の生き写しでした。

空が明るくなってからお医者様をお呼びしました。

お医者様は仰いました。

「私は2,000人以上の人を看取ってきましたが、この様に亡くなった方は初めてです。」

 

葬儀

葬儀は身内だけで行いました。

義父がまだ健在の頃、先祖のお墓を墓仕舞いして住所地近くの公園墓地に遷墓しておりました関係で、法事がある時などは、菩提寺のご住職様にその都度ご来駕(らいが)をお願いして執り行って頂いておりました。ところが、時代の流れでしょうか、ご住職様がお亡くなりになった後、後継者が居らず、そのまま廃寺になってしまいました。葬儀場の方が、代わりのお坊様を紹介しましょうか、と言って下さいましたが、それを断り、自分達で葬式を執り行いました。

法名は、義父母が結婚した時に生前法名を頂いていましたので、それをそのまま使いました。仏事に篤い家でしたので、門前の小僧よろしく夫が輪袈裟を掛けて導師の代わりを勤めて読経し、最後に皆で般若心経を唱えました。子供達夫婦、孫達夫婦、曾孫達と言う様に、故人を心から愛していた人達だけが集まっての葬式でしたから、それがとても清々しくて義母も喜んだと思います。

なお、家の宗派は、明治時代以前は臨済宗でした。維新の時、江戸から牧之原へ移住して入植しましたが離農、山を下りて西に向かう途中病に倒れてしまい、その土地で世話になったのが浄土宗のお寺でした。以後ずっと浄土宗で続いてきました。

 

 

余談  むけいげ むけいげこ

「むけいげ」とは、般若心経の後半に出て来る一節で、漢字で「無罣礙」と書きます。

「罣」と言う字は、妨げる、邪魔をする、かかるなどの意味があります。

「礙」と云う字は、さえぎる、さまたげる、邪魔をする、ささえる、等の意味があります。

「罣礙」で、邪魔をする、障害物があるなどの意味になり、「無罣礙」で、邪魔をするものが無い状態を表します。ざっくばらんに意訳すれば「なんの障害も無いから心配ご無用」とでもなります。

「こ」は「故」で、それゆえの意味です。

 

余談  鳥辺山(とりべやま)

鳥辺野とも言う。平安の昔からの葬地。ここに遺体を運んで荼毘(だび)(=火葬)に付した。鳥辺山は数々の物語に登場したり、下記のように、歌に詠まれたりしています。

鳥辺山 谷に煙の燃え立たば はかなく見えし 我と知らなむ  

                   拾遺和歌集 よみ人知らず

 (ずいよう意訳) 鳥辺山の谷に煙が見えたなら それは幸せ薄かった私の煙だと思って下さい

 

余談  九相図(くそうず)

九相図とは、死体がどの様に変化して土に帰るかを表わした仏教画です。

1.  腐敗して体にガスがたまり膨らむ。 2.  腐乱し始める。 3.  体液が流れ出す。 4.  溶け始める。 5.  体の色が変わる。 6. 動物に食べられたり蛆がわいたりする。 7. 骨だけになる 8. 散乱する。9. 土になる。

 

余談  カロート

カロートは、お墓の下に作った空間で、そこにお骨を納めて安置する設備です。

 

余談  ガンダーラの釈迦苦行像

ガンダーラパキスタン北部にあるペシャワールを中心とした地域の名前です。インドから仏教が伝わり、アレキサンダー大王の東方遠征によりギリシャ文化が流入、仏教の教えを説いた釈迦の姿が初めて彫刻される様になりました。それまでインドでは釈迦が余りにも尊く、その姿をそのまま表すことが恐れ多くて誰も絵に描いたり、彫刻にしたりしませんでした。その代り、釈迦を車輪(法輪)や仏足の形で表していました。そこにギリシャ人がやって来て、車輪や足で象徴的に表されていた釈迦を、「人間」の姿に彫刻したのです。これが仏像の始まりです。初期の仏像は、お顔がギリシャ彫刻の様な顔をしています。

ガンダーラで発掘された釈迦苦行像はパキスタンの国宝です。ラホール国立美術館に収蔵されています。

 

 

 

 この記事を書くに当たり、下記のようなものを参考に致しました。

摩訶般若波羅蜜多心経

ウィキペディア

戦国武将の名言から学ぶビジネスマンの生き方

歴史専門サイト「レキシル」

西遊旅行 仏陀苦行像-DISCOVER PAKISTAN

ココログ 釈迦苦行像~パキスタンガンダーラ美術展より

パキスタン館~釈迦苦行像-万博を歩こう

ありがとうございました。