式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

189 家父長制度(1) 義母の涙

婆の義父は武士の末裔(まつえい)を誇りにしていた人です。平成になっても、厳格な家父長制度を具現した様な暮らしを守っていましたので、そういう事などを含めて我家を例に取って語って行けば、武士の暮らしの理解の助けになるかと思って筆を執ってみました。

あなたの家庭のことなど聞きたくないよ、と仰せの方もいらっしゃるでしょうが、まぁ、閑話休題、ちょいと寄り道にも付き合って下さいませ。

 

婆は母子家庭に育ちました。母は仕事に忙しく、子供に対する躾も殆ど行わず、「勉強しろ」と言われた事も有りません。その婆が、厳格な家父長制度を守っている古田の家へ嫁ぎました。

家風の違いは想像以上で、えっ! と思う事ばかり。幸いと申しましょうか、婆の相手は次男坊。家風の嵐にまともにぶつかる事は無く、長男家に比べればずいぶん楽でした。とにかく長男第一主義で、次男以下は物の数の内には入らずでした。

聞けば、義父は義兄を立派に育てようと特別に教育を施したようです。義父は、義兄が幼い時から対面で正座させて書見台論語を乗せ「師曰く・・・」と素読をさせていたとか。その話を夫から聞いて、これはエライ所に嫁に来てしまったと思いました。

長男と次男以下との育て方の違いは歴然としていました。正月などの集まりの時には席次が決まっていたそうで、義父の隣に必ず義兄が座ったそうです。次男の夫は、そういう義兄の扱われ方を横目で見ながら育ち、ちゃっかりと論語を覚え、諸々の躾を自分なりに身に着けて行ったようです。

 

義母の出身は北陸の寒村で11人姉妹の4番目。義母は、働き者で勉強熱心、妹達の面倒を見ながら家を助け、よく働き、南無阿弥陀仏の信仰心も篤く、素直で忍耐強く、評判の娘だったそうです。

或る時、義父の親戚の者が北陸の義母の居る村の近くに赴任し、そういう義母に目を止めたそうです。義父は古田一族本家の嫡嗣子でして、将来当主になる立場だったとか。その嫁選びは一族挙げての課題で、多くの条件が付けられていたそうです。

多産系であること、頑健である事、質実である事、忍耐強い事、働き者である事、家には必ず栄枯盛衰が有るからしてどのような浮沈に遭っても動じない根性がある事、聡明である事、一族の反発が起きない様な人柄である事等々です。そこには血筋や家柄などの条件はありませんでした。資産家とか美人の条件も入っていません。そういう眼鏡に叶ったのが義母だったそうです。やがてその人からの懇請で彼女は親から引き離され、京都のお寺へ行儀見習いに行く事になりました。そのお寺の住職と義父とは血筋が繋がっていたそうです。

村では上を下への大騒ぎだったそうです。その村から京都に行儀見習いに行く等と言う事は前代未聞。村を出発する時は集落の人達がこぞって万歳をしてくれたそうです。

高等小学校を卒業しただけの彼女でしたが、京都の寺ではその後の教育を引き受けてくれたそうです。

でもね、と義母は晩年に話してくれた事があります。それがどんなに重荷だった事かと。

ホームシックにかかっても、つらくて一人で泣いていても、目に浮かぶのは村の人達の万歳の姿。おめおめと帰れなかった、と言っていました。それに京都と実家は余りにも遠かった、と。

義母は「あれは親公認の拉致だったのではないか」と言っていました。そして、「私は口減らしだったのかも知れない」とも話していました。

 

行儀見習い先のお寺は、彼女を花嫁学校に入れました。学費は全てお寺で出してくれたそうです。彼女は学ぶことは嫌いではありませんでした。彼女は寂しさをお稽古に集中して、武芸十八般ならぬ花嫁修業十八般を見事な成績で卒業しました。料理裁縫はもとより、お茶・お花・香道・書などをはじめ和歌、古典などなど女の嗜(たしな)みを収め、晴れて義父と結婚する事になりました。花嫁道具はお寺で整えてくれたそうです。

結婚式までに一度義父と会ったそうですが、その時は顔を見ていないので、どういう人だか分からなかった、と言っていました。

オール古田の支援の下で迎えた結婚でしたが、彼女の苦労はこれからが本番でした。

大姑(おおしゅうとめ)、舅(しゅうと)、姑、小姑3人の大所帯の家庭内の仕事一切が彼女の肩にのしかかりました。しかも、その立場は弱く序列で言えば最下位。財布は姑に握られていました。

そればかりではなく、一族との交際も広く、見ず知らずの遠い遠い親戚とも盆暮の付き合いがあったそうです。

大姑が亡くなり、舅が亡くなり、夫が家督を継ぎ、子供が生まれ、小姑達が結婚して家を出て行きと言う様に家庭の営みも変化して行きましたが、彼女の立場は相変わらず最下位に沈んだままだったそうです。

家族の中に厳然たる序列があり、1位は夫。2位我が子の長男。3位姑。4位が義母だったそうで、小姑達が実家に帰って来ると、順位が下がって、小姑達が4位で義母は5位になったそうです。小姑達にも長幼の序がありました。小姑達が遊びに来ると、義母は兄姉妹が仲睦まじく話している部屋の敷居の手前に座り、「お食事は如何いたしましょう」と尋ねるのが習わしだったそうです。すると、一番上の小姑が「宜しきように」と答えるのだそうです。

宜しきようにと言われて宜しく適当に手抜きでもしたら、後で何を言われるか分かりません。

パワーハラスメントなんて生易しいものではありませんでした。

 

義母は家出を考えたようです。けれども、北陸の実家には帰れない、と悩んでいました。故郷を出る時、村人が総出で万歳をしてくれた光景が目に浮かんで、どうしてもできなかったそうです。そして、婆の母に相談しました。

義母と母は生まれも育ちも考え方も違いましたが、どういう訳かウマが合い、友達の様な関係になっていました。

母は義母の事を尊敬していました。よくぞあの状況に耐えていられる、と。母は義母を見て、とてもではないけれど私だったら1日も持たない、と申しておりました。また逆に義母は母の事を、女が独立して生活している事に羨ましさを感じ、尊敬してくれていました。

母は働いていましたが、それはやむを得ぬ事情があったからこそ。どうシャカリキに働いても、女は号俸給の一番下のランクでしたし、出世など望むべくもありませんでした。

働けば「女だてらに」「女のくせに」「女子供に何ができる」「後妻にでもなれ」それが母に浴びせられる言葉でした。母は「働いても家庭にあっても、男に支配されるのは同じだ」と言ったそうです。

 

ある日、義母は義父にお茶を点てて日頃のご苦労を癒してもらおうとしたそうです。ところが、義父はそれを一服した後、こう言ったそうです。

「家庭を治めるべき一家の主婦が、歌舞音曲やお茶などの類(たぐい)にうつつを抜かすとは何事か。家を滅ぼす元である。今後はしないように」

と。

思わぬ夫の言葉に義母はびっくりし、気もそぞろに片付けた後、物陰に行って泣いたと言っておりました。一度言った事は絶対に引っ込めない夫の性質を良く知っていた彼女は、それ以来お茶をすっかり諦めてしまったそうです。茶道具も押し入れの奥深くにしまい込んでしまった、と言っていました。

婆が嫁に行った時には、婚家(こんか)に茶道具は影も形もありませんでした。

 

何故主婦が茶を習う事が家を滅ぼすことに繋がるのか? 婆は義父に直ぐに訊こうとしました。けれど、義母は、それは止めた方が良いと忠告してくれました。義父の逆鱗に触れる、と言うのです。義父は一度言い出した事は絶対引っ込めないそうです。私の言う事に逆らうのか、と怒り心頭に発し、場合によっては勘当も辞さないとか。

そんな事があってしばらく間を置いてから、婆は義父に聞いてみました。

「お義父さんは信念の人と伺いました。一度決めた事は絶対に変えないと。今時そういう気骨のある人は滅多にいません。凄いな、と思います。何か考えがあってそうなのですか? 」

義父は上機嫌でした。そして、こう言いました。

朝令暮改を戒(いまし)むる、です。上に立つ者は一度決めたらそれを変えてはいけない。突撃と命じて途中で撤退を命じたら、総崩れして多くが討死してしまうでしょ、それですよ」

朝令暮改の話からは、何故お茶がいけないのかの理由に結びつきませんでしたが、義父には義父の考えがあり、何事も一時的な感情で物を言っている訳ではないと察しました。そして、義父から茶道を習う許しを得るのは容易ではないと、改めて思い知らされました。無理に習い始めたら、それこそ逆鱗に触れて離縁され兼ねないかも、と思ったのです。というのも、その頃、何が気に喰わなかったのか義父は義兄を遠ざけ始めたのです。

 

義兄は社会的にも成功しており、義兄嫁も義母を支えていました。嫡嗣子として申し分ない人でした。が、昔、嫡嗣子を立派に育てようと論語素読させていた義父と、戦後教育を受けた義兄の考え方が次第にかけ離れて行ったのは止むを得ない事実でした。そういったあれやこれやの路線対立が、父と子の間を切り裂いて行ったのではないかと、婆は観ています。

義兄は殆ど実家に寄り付かなくなりました。義母は夫と息子の間に挟まれてオロオロとするばかりでした。そしてついに不行跡も何もない義兄を勘当してしまったのです。義母の嘆きはどれほど深かったでしょう。

そんな状態でしたから、婆もその様子を見て、茶道を習いたいと言う話を引っ込めてしまったのです。婆が60過ぎてからお茶を習い始めたと、このブログのプロローグで申し上げましたが、それは義父の軟化を待っていたからです。