織部百ヶ条と言うものがあります。古田織部が大野修理大夫治長に宛てた巻物と言われております。原本は、あて先が誰だか分らないように削られているそうですが、墨筆なのでその痕跡が残っており、それで大野修理宛と分かったそうです。
噂(うわさ)によれば、織部百ヶ条と言うのは幾つも有るそうです。織部は利休から教えられた茶法をそこに記し、彼自身のやり方も交えて認(したた)めた様ですが、それからそれへと書き継がれて流布して行く内に、少しずつ変化している様です。
変化と言っても内容に大きな違いは無いようです。
① 条の順番が必ずしも同じではない。
② 所により漢字が平仮名になっている部分がある。
③ 解説文が付いているものもある。
④ 中にはキーワードの単語だけになっているものもある。
⑤ 同じ内容でも、表現が違っているものがある。
違い、と言えばそのような所でしょうか。
内容的には、掛け軸の事、床の事、茶入の事、水指の事、道具の置合の事、花の事、客の事、などなど前号、前前号で扱った『宗甫公古織江御尋書』と似通っております。今回は、『織部百ヶ条』と言われるものが幾つも有るようですので、その内のどれを取り上げて話を進めて良いのか分かりませんので、今回は各条について取り上げない事にしました。『織部百ヶ条』の概要だけにしたいと思います。
『織部百ヶ条』は織部自身が付けた表題では無く、後世の人が付けた名前です。
市野千鶴子氏の「古田織部茶書」で「織部百ヶ条」として収載されているのは
2、市野氏本
3、興聖寺本
4、粟田氏本
の4つです。その外に
5、弘前市立図書館本
6、小堀政峯本(ネットオークション出品)
等々があります。
織部百ヶ条は幾つ有る?
東博本について
東京国立博物館のレファレンス協同データベースの事例詳細に、次の様に書かれていました。以下抜粋
『・・・東博本の「古田織部正殿聞書」は外題に「古織伝」と記す」)と合綴されている。この東博本「織部百ヶ条」の内題は、「古田織部正殿百ヶ条」。
世に流布されている形のものであるが、本来の姿であるべき巻子本ではない。
美濃判十枚。一一二条。江戸中期の書写であり、その時点で「茶道百首」により朱書の補訂が付されている。』
※合綴(がってつ)→別々に作られた本などをとじ合わせて、冊子としたもの。
又、市田千鶴子氏の『古田織部茶書』に依れば、東博本の『古織伝』は間違えているそうです。
「古織伝」は、江戸時代の慶長年間に岡村百々之介(おかむらどどのすけ)と言う織部の弟子が、この本を出版したものです。百々之介を未熟者で浅知短才となじる者がいました。ただ、正客を大野治房とした織部の茶会に、次客として百々之介が招かれており、三客以下に針屋宗春などが居る所を見ると、百々之介はそれなりの人物と見る事が出来ます。彼の書いた「古織伝」は後に古田織部作とされ、ベストセラーとなったそうです。彼は大坂方で戦い、大坂冬の陣で討死しました。
「古織伝」を画像検索しましたところ、東博アーカイブスの「古織伝」には巻頭の頁と、奥書の頁、表紙のみの冊子と合わせて5冊分が載っており、その末尾に寛文六年九月十二日 桜山一有と書かれていました。
市野氏本について
市野氏の著書『古田織部茶書』には、東博本、興聖寺本、粟田氏本の外に、もう一つの 『織部百ヶ条』 が収載されております。これは、収載の順番としては二番目に位置しています。
この市野氏本の二番目に載っている 『織部百ヶ条』 の巻末の日付が寛文六年九月十二日となっており、末尾の名前が桜山一有と一致してます。日付が百々之介の『古織伝』と一致している事から、これは百々之介の本から吟味抜粋したものではないかと思っております。抜粋と考える根拠は、巻末日付と名前が一致していながら、出だしの文言が市野氏本と東博アーカイブとは違っている事に依ります。
興聖寺本について
興聖寺本をネットで検索してみましたが、現物の写真が見つけられませんでしたので、市野氏本に記載されているものを頼りました。
興聖寺本の特徴的な事は、一つ書きのメモ調で、極めて簡素です。キーワードの単語だけが書かれています。述語の部分が欠けている条が多いのが目立ちます。
弘前市立図書館本について
インターネットで探してしましたら、『古田織部百ケ条-国書データベース-国文学研究資料館』に行き当たり、弘前市立図書館が『織部百ヶ条』を所蔵している事を発見しました。
小堀政峯本(ネットオークション)
オークションに出品されていた『織部百ヶ条』をネットで発見しました。
それには『小堀政峯 織部百ヶ条巻物 小堀宗友書付 真筆(和書)』と説明がありました。
これがもし本当ならば、『織部百ヶ条』と名乗るものが小堀政峯本として存在している、と言う事になります。
それぞれの織部百ヶ条の比較
条 数
東博本 112条 (市野氏本に収載されているのはその内の69条)
市野氏本 50条 (市野氏本の二番目に収載されている条数)
興聖寺本 107条
粟田氏本 124条
弘前市立図書館 126条
小堀政峯本 115条
最初の書き出し
東博本 一 掛物掛申儀先第一直ニ仕候事
市野氏本 一 床ニ硯置申事、何れの床ニても、右たるべし。
興聖寺本 一 茶入のふた。
粟田氏本 一 客座敷へ入候時、刀かけへ二腰共ニ上候、
弘前本 一 掛物懸申義第一直ニ
奥 書
東博本 奥書
『右者織部殿数寄道不残越前之大野道賀江御伝授也百ヶ条幷聞書道賀ゟ越前宰相殿茶道河野宗休江傳ル宗休ゟ松平出羽守直政之茶道河野清庵江傳ル清庵是ゟ御傳候也
寛文六年九月十二日 桜山一有在判』
※ 越前宰相=結城秀康(家康次男・越前北荘藩初代藩主)
(ずいよう意訳)
右は織部殿が数寄の道(茶の湯)を残らず越前の大野道賀へ伝えたものです。百ヶ条並びに聞き書きを道賀より越前宰相殿の茶道・河野宗休へ伝へました。宗休より松平出羽守直政の茶道・河野清庵へ伝えました。清庵は是を伝えています。
寛文六年九月十二日 (1666年10月10日) 桜山一有在判
市野氏本 奥書
この一巻は、あなたが御執心なので、私としては迷惑であるけれども、お稽古の為に、利休の仰ったことを認(したた)めました。一笑々々、と言う奥書を、4月12日付けで、古織部在判で書かれています。
なお、その後(うしろ)にこれが越前の大野道賀に伝わり、百ヶ条並びに聞き書きを道賀より越前宰相の茶道・河野宗休に伝わりました。宗休より松平出羽守直政の茶道・河野清庵に伝わりました。清庵がこれを伝えました、と伝来の経緯が書かれています。日付は寛文六年九月十二日(1666年10月10日)、署名は桜山一有になっています。
東博本の奥書には「迷惑」の文言はありませんが、日付と署名は、東博本と一致しています。
興聖寺本 奥書
右の一巻は、利休相伝の通りのものです。あなたの御執心から逃げる事が出来ず、それを慮(おもんばか)って書きましたけれど、と述べた上で、これを書いて後々の世の嘲弄を受けるのを恐れる文面が続きます。日付は 三月二日で、大野修理(大野治長)宛で古織部と花押があります。
粟田氏本 奥書
(ずいよう意訳)
右の一書、124条です。貴殿の御執心浅からず、書を持ってお知らせします。我等は年寄ですので、前後失念が多い状態です。全ての茶の湯の道、習い是なく、寸法を定め、道具全般の事、これも無いのですから、初心者や熟達した人には、この様に申し渡しています。元々無一物の道理より全ての法が生まれております。一期の御心中を以って臨めば、万事が済みます。なお、お尋ねの事については、心底残っているものはございません。(全てお伝えいたしました。) 神様にその様に申し上げました。以って、これを他に見せてはいけません。後世を恐れて。(←実際に書かれているのは『可恐後世々候』。これは「恐惶謹言」や「敬具」と同じ結び言葉か)と記しています。日付は慶長17年9月21日(1612年10月15日)。(花押) 宛先は跡部助左衛門殿
弘前市立図書館本 奥書
奥書の所に禁無断転載と有りますので、そっくりそのまま載せる事は避けたいと思います。奥書には、大館の浄應寺から授かったと言う様な事が書かれています。
小堀政峯本(ネットオークション)
ネットオークションに小堀政峯の『織部百ヶ条』が出ていましたので、取り上げてみました。真偽のほどは分かりません。
小堀政峰(1689-1761)は近江国小室藩5代藩主で遠州流茶道5世家元。号は宗香。奥書は、『古織申す百ヶ条政峯書掛人之需□ 應政方書之 方宗友』と書かれています。
織部百ヶ条雑感
織部百ヶ条? ン? なに、それ。そんなものが有るの?
知らないと言うのは恐ろしいもので、お茶を習うのに「〇〇ヶ条」などといって規則を書いたものなど必要ないと、婆は上から目線で無視し続け、長い間関心を持たずに参りました。それは、お茶を習い始めた若い頃、と言っても、お茶を習い始めたのが60代ですから、結構な歳になってからの話です。傲岸不遜(ごうがんふそん)、無知蒙昧(むちもうまい)、誠に恥ずかしい限りです。
恐らく、織部先生のお言葉をお稽古の指針にしようとして、わざわざ書いて貰ったものが伝わるうちに、写本が作られ、写本が更に写本され、今あるように何冊もの伝来になったと思われます。
それにしても、それぞれの奥書を見ると、織部自身が自分の書いたものに対する肯定感が、とても低いのに驚かされます。
奥書については前の方でそれぞれ訳文で紹介していますが、その訳文の元となった文章を見ますと、
市野氏本の奥書は『・・乍迷惑・・愚意筆染候 一笑々々』と言う言葉で結ばれています。
また、興聖寺本の奥書に『・・折而雖斟酌候 依難遁御執心・・』という文言が見えます。そう言って更に言葉を『・・不顧後哲之嘲弄 穢楮面畢・・』と重ねています。(楮面←楮(こうぞ)は紙の事。穢楮面で紙面を穢す又は穢れた紙面)
粟田氏本の奥書には『元来無一物』と言い切り、全てはそこから発しているのだから、心の則一つで全てが済むと言っているのです。
まるで織部が、自分の書いた百ヶ条を鬼っ子でもあるかのように苦々(にがにが)しい思いで見ているように、見受けられます。
織部は、書面に記してまで自分の茶法を後世に伝えるなんてしたくは無かった、と思っていたのではないかと、婆は疑っています。
茶の湯は茶の一服をもって人を持て成すのが第一義です。そして、茶の湯の場に居心地の良い最善の美を演出して、客を持て成すのです。そこに、「どうだ! 凄いだろう! 」的な驕(おご)りがあってはなりません。
茶の湯をする時は、人 (亭主・客・構成)、時 (季節・時分)、状況 (茶会の名目・立場・世相・時流)などの違いで、その都度、場の空気が千変万化するもの。臨機応変の対応力が必要ですし、その中から最善の方法を選び採(と)らねばなりません。条文に捉われて、「織部がこう言ったから、こうします」では茶の奥義への到達は難しいのです。
師・利休は、『人と違う事をせよ』と教えました。利休の衣鉢を継ぐ織部が茶書を残せば、それはこれに則(のっと)って同じことをしていれば、取り敢えず間違いが無いと、指針を示すことになります。そうなれば、吾も吾もと同じことをし始め、とどのつまり人皆同じ状態になってしまいます。そこに茶書を書くことへの矛盾は無いのでしょうか? 織部よ、その辺の思案や如何に、と、後の世の人が問うでしょう。
だから、『穢楮面畢』の覚悟をもって、嘲弄を顧みず書くしかない、儂にとっては甚だ迷惑な事だ・・・
そう答えている織部の姿が浮かんで来るようです。
織部の心情を推し計るのはさて置いて、そうは言っても、基本をきっちり身に着けずに変化させたらぐずぐずに崩れてしまいます。それは鉄筋や鉄骨を入れないでコンクリートのビルを建てるのと同じ事。如何に巨大なビルを建てても地震があれば忽ち崩れてしまいます。自明の理です。見るも無残な有様になって、目も当てられません。
何事も基本の基の字が大切です。ピアノでもヴァイオリンでも、書道でもスポーツでも、どの道であれ全てが基本の基の上に築かれており、そこが出発点です。それには先達の通った道を習うのが一番の早道です。
『人と違う事をせよ』との教えを、婆は言い直したいと思います。
人と同じことをしながらも、常に自分なりの工夫をせよ、と。
努力過程の途中では、外からの見掛けは同じに見えますが、長い修行の後には結果が大いに違ってきます。
余談 お詫びして訂正
前号の [ ブログ№193古田織部茶書(2) 下巻の抜粋解読 ] の中で、『風炉乃数寄に茶立候時ハ畳の真中に居て立候がよき由』の[参考]に、式正織部流でお客様の方に向かって45度ズレて座るのは「炉の太閤点」のみだ、と申し上げましたが、もう一つありました。「炉の平点前」も45度ズレて座ります。ズレて座るのは、従って二つあります。後は全て正面を向いてお点前をします。婆の失念でした。お詫びして訂正いたします。この件につきましては、既に本文を訂正しております。
何時もご愛読くださいまして、ありがとうございました。
来年も宜しくお願い申し上げます。
どうぞ良いお年をお迎え下さいますように。皆さまのご健勝をお祈り申し上げております。
この記事を書くに当たり、下記の様な本やネット情報を参考に致しました。
東京国立博物館 研究情報アーカイブス C0067327古織伝-東京国立博物館 画像検索
古田織部百ケ条-国書データベース-国文学研究資料館 弘前市立図書館 画像
オークファン [探知]小堀政峯 織部百ヶ条巻物 小堀宗友書付 真筆(和書) 画像
角川 書道字典
角川 漢和中辞典
和暦西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan
この外に「ウィキペディア」、「コトバンク」などなど多くの情報を参考にさせていただきました。有難うございました。