式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

183 大坂戦役後の世相 

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」」

 

魔王と呼ばれ、合理的で新しもの好きで、芸術や茶を政治に利用した信長が退場しました。

派手好きの秀吉は、桃山文化を花咲かせました。

その跡を受けた家康、彼は芸術や茶に興味が無く、黙々と天下沈静に努め、盤石の組織作りに励みました。

天下人の三者三様の在(あ)り様(よう)が、時代の空気に大きな影響を与えました。

 

変化

1615年8月7日(慶長20年/元和元年閏6月13日)、2代将軍徳川秀忠は全国の諸大名に対し、一国一城令を発しました。

一つの国の中では、城は政務を執り行う主城一つだけを残し、他の支城は全て取り壊す様にとのお達しです。1615年と言えば、大坂城が落城した年です。落城してからおよそ2ヵ月経った頃の話です。更に同年7月(和暦)武家諸法度を発布して、江戸幕府は大名の統制を強めます。幕府は、大名達へ天下普請を命じてその財力を奪い、彼等の城を削減させて戦闘力を奪いました。武家諸法度を出して大名達の行動を規制します。

これにより城の破却が一気に進みました。

 

城の破却

武力によって天下を取った徳川家康。その命令に従わないと謀反の疑いを受けて改易されてしまうかも知れないと言う恐怖。力で逆らえない悲しさ。大名達は命令を受けたその日から我も我もと城を破却しました。数日の内に400城を越える城が潰されたそうです。

築城は皆無(かいむ)になり、豪壮な城郭建築が新たに建てられる事は無くなりました。寺院や日光東照宮などの霊廟は造られましたが、大名達は城を修復するにもいちいち幕府にお伺いを立てなければなりません。台風や落雷で損壊しても思うように復旧ができなくなりました。内装も質素になりました。彫刻や色漆で飾る華麗な欄間などは作られなくなりました。

「どうだ! これでもか!」と、見せる気満々の二条城の様な書院造りの代わりに、無駄な装飾を排し、風雅で落ち着きのある書院作りが生まれてきます。その代表作が桂離宮です。桂離宮が造営されたのが、これも1615年頃と言われています。

大規模建築の需要が減ると、大工も絵師も彫師も失業です。彼等は糊口(ここう)を凌(しの)ぐために彼等の腕を町の中に生かす様になります。豪商は勿論の事、ちょっとした商家や、庄屋の建築などを手掛けたり、床の間を飾る絵や屏風などを描いたりして、彼等は仕事を掘り起こしました。こうして、川の水が上流から下流に流れる様に、庶民の間にも徐々に文化的な様々なものが広がって行きました。

 

政治史と文化史

幕府は太平の世を造ろうと、次々と手を打って行きます。先に述べた一国一城令武家諸法度などの法令の外、外様大名を狙い撃ちにして取り潰しにかかったりしましたので、浪人や大坂の陣の敗残兵などが巷(ちまた)に溢れ出て来ました。これが世情不安の一因になりました。

硝煙の煙幕を吹き払い泰平を拓くには、大きな副作用を伴います。単に坐して餅を喰らうだけの無為無策では、到底成し得ない事業なのです。

商工業者が生き残りを賭けて新たな道を歩み出し、刀狩りや検地で士農工商の分離が進み身分の固定化が図られ、浪人が溢れ、そんな中でも何のその、したたかに生きている庶民が居ます。

支配者が変わったら直ちに安土桃山文化が終了して江戸文化が始まったと言う訳では無く、安土桃山の破天荒なバサラの活気は沸々と残っております。

政治区分は何年何月に幕府が開かれたと言うようなハッキリとした区切りを付け易いです。ですが、文化となると、どこからどこまでの期間が何々文化で、それより後は別の文化が始まると云う様な線引きを、切り餅のように切り分ける事は出来ません。それはまるでコーヒーにミルクを入れて掻き混ぜた後と同じ状態だからです。

コーヒーの味は残ります。ミルクの味も加わります。そして、色は変化します。

安土桃山文化は、やがて熟(こな)れて江戸の庶民文化に融け込んで行きます。

 

茶の湯の潮流

利休や織部が彼岸へ旅立った後、跡に残された弟子達は、師の教えを守りながらも彼らなりに工夫を凝らし、新しい道を模索して行きます。

前衛革新の旗手・古田織部の死後、彼のカリスマ性が絶大だったが故に、織部ロスの穴を埋める人物は現れません。そこに在るのは革新への熱気よりも、受け継いだものを磨いて行こうとする真面目(まじめ)な姿勢でした。そして、その代わりに、祖師利休の「人と違う事をせよ」の遺訓が再び頭をもたげ、色々な流派が湧き興(おこ)ってきます。

侘茶の井戸の中で侘茶を守って来たのとは違って、ひとたび侘び以外の織部という斬新な外気に触れた茶人達は、利休の厳しい修行僧の様な侘びの世界では無く、それを緩(ゆる)め、穏(おだ)やかに洗練されたものへと昇華させて行きます。

小堀遠州「きれい寂び」、それが新たな茶の湯の潮流となって行きます。

 

織部よさらば

利休は究極の侘びを追求して田舎屋や山家の茶室を作りました。が、余りにもそれが行き過ぎると、冷たく研ぎ澄まされた空間になってしまい、冥界を想起させる修行道場の様になってしまいます。温もりのある鄙(ひな)びた空気を演出するには、ちょっと笑みがこぼれる様な茶道具を一つでも置いて、不完全さを演出する方が和(なご)やかさが生まれます。織部の歪んだ焼き物が持て囃されたのは、恐らくそのような効果があったからでしょう。

数寄者達はそこに興趣を見つけました。「面白い」「変わっている」「味がある」という視点で道具類を見つめ直し、評価を与えました。

内通の罪で織部切腹という事件は人々に衝撃を与えました。巻き込まれるのを恐れて人々は織部から遠ざかり、織部が創り出した世界をも敬遠し、面白いと思っていた彼の造形も、一時の徒花(あだばな)の様に捨て去られました。織部焼きに見られる数々の作品群は、その後長い間歴史に埋もれてしまいます。

 

織部は革新者か?

織部の造形は型破りでした。けれども、常識的ではないからと言って、それだけで革新と言えるのかどうか、疑問です。彼の生み出した焼物は確かに前代未聞の姿をしていました。が、彼の編み出した武家茶の点茶法は、真面(まとも)です。

式正織部流は、彼の武家茶の点前をほぼ正確に伝えていると言われています(伝承する内に一部失われた部分もあり、それについては、秋元瑞阿弥が古文書などを基に復元したものもあるそうです)。

そこで、当流の点茶法をよくよく観察してみると、織部の完全な創作では無く、その範を足利義政の代に活躍した能阿弥に拠っている様に見えます。つまり、織部は昔の茶の湯を発掘して復活させ、現代風(桃山風)に改良しただけなのではないかと、思えて来るのです。

能阿弥・相阿弥が著した『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)に載っている茶湯棚の図と、当流の秘伝・真台子六天目点てのお道具の配置の様子が非常に良く似ています。 

(参照:「ブログ№138 東山殿のお茶」 2022(R4).03.07 up)

千利休の侘茶が一世を風靡(ふうび)していた頃、柳営茶湯系統が目立たなくなっていましたが、斎藤道三松永久秀、武井夕庵(たけいせきあん)、細川幽斎など室町幕府に縁のあった茶人達は、柳営茶湯を心得ており、彼等を通じて東山山荘での点茶法が受け継がれていたと、想像できます。織部は、伝承されてきた柳営茶湯を取り入れて、秀吉の要求する武家茶を創り上げたのでは、と思っております。

 

支配ピラミッド構築

大坂両度の戦いが徳川の一方的な勝利で終わった事も有って、多少ギクシャクしたものの天下を震撼させるような大きな波乱も無く、順調に徳川の世が滑り出しました。今迄武将や兵卒だった者達は戦への出番がなくなりました。その代りお城勤めに精を出す様になりました。武士が次第に公務員化していきました。

江戸に幕府を開いた徳川氏は、しっかりした行政組織の構築に着手します。

豊臣政権では五大老五奉行という役職がありました。ただ、有力大大名の中から5名を撰んで大老として政権の舵取りをさせ、秀吉家臣の中から能力のある者を五奉行に任じて事務方を担わせると言う、極めて大雑把な線引きがあるのみでした。彼等の管轄部署は曖昧でした。能力がある者か、或いは手透きの者かがその都度太閤の命令で兵站を用意したり、交渉役をしたり、司法に携わったり、鶴の一声で決まったり、全く行政の形を成していませんでした。江戸幕府はその改革に手を付け、将軍を頂点とする組織を作り、国家としての態を整(ととの)えました。

大老は幕府存亡の時の臨時職とし、通常は老中が全てを掌握しました。今で言えば内閣のようなものです。老中の下に側衆・御三家・高家などをはじめ、大目付・大番頭・禁裏付・町奉行勘定奉行勘定吟味役・作事奉行・大阪奉行・長崎奉行・・・と50余の部署が並び、更に老中とは独立して若年寄を設置。若年寄には書院番小姓組・鉄砲方・定火消役・納戸組・右筆組・天文方、面白い部署では馬方・馬医などもあり、若年寄管轄下の部署も、これまた70近くありました。老中や若年寄と肩を並べて奏者番寺社奉行京都所司代・政治総裁・陸軍総裁・海軍総裁などもあります。そして、さらに今挙げたそれらの部署の下に、細分化された担当部署が置かれました。

1617年(元和3年)、参勤交代が制度化されました。これにより人の動きが激しくなりました。中央と地方の事務連絡や引継ぎ、関係各部署への顔つなぎ、会議などあれやこれやの会合が多くなりました。茶湯の席も人対人の交流の場の重要な意味を持つ様になります。

大名・家老など上級職の武士は無論の事、平侍でも茶湯の心得は必須となりました。かつて茶湯は上流階級のものでしたが、この頃になると茶湯はすっかり解放されて、多くの者が嗜(たしな)むようになっていました。武士には武士なりの武家茶が広がって行きました。

その流れは武士階級だけでは無く、武士と接触する商人達にも広がりました。そして、長屋の大家など一般の庶民にも浸透して行き、庶民に茶が流行る様になりました。豪華な茶道具は要らないと言う侘茶は、その点打って付けでした。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

小堀遠州武家の茶湯    八尾嘉男

お点前の研究 茶の湯44流派の比較と分析  廣田吉(ひろたよしたか)

角川新版 古語辞典 久松潜一・佐藤謙三編

世界美術全集 9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンクネット情報などなどここには

書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。