式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

正平6年(1351年)11月、足利尊氏は、三種の神器の返還、政権返上、北朝天皇上皇を廃すると言う条件で、南朝と和議を結びました。

この和議によって今迄分かれていた南朝北朝が、北朝が消滅する形で統一されました。

これを正平一統と呼びます。

南朝方と結ぶ事に依って尊氏は後顧の憂いを断ち、直義を鎌倉に追い詰め、幽閉します。

翌年の正平7年2月足利直義は鎌倉の幽閉先で急死します。

 

尊氏、将軍罷免

南朝側にとって足利幕府側の内紛は、幕府を倒す好機と映りました。

後村上天皇足利尊氏征夷大将軍の職を罷免し、代わりに宗良(むねよし)親王征夷大将軍に任じます。

この機に、南朝北畠親房は京都と鎌倉を攻める二方面作戦を採り、足利幕府の壊滅を狙います。正平一統の和議は4ヵ月も持たずに早くも破れるのでした。

 

武蔵野合戦

正平7年(1352年)閏2月~3月、新田義興・義宗兄弟(新田義貞の子)、脇屋義治(義貞の甥)、中先代の乱の首謀者・北条時行らが宗良親王を奉じて鎌倉を攻めます。

足利尊氏は鎌倉を一旦引きます。引いている間、南朝方は鎌倉を占拠しますが、尊氏は態勢を立て直して反撃に転じ、関東南部(現神奈川、東京、埼玉)で戦を展開、南朝側を破って鎌倉を奪還します。宗良親王信濃へ落ち延び、新田兄弟も越後へ逃れ、北条時行は処刑されます。

 

第一次京都合戦

正平7年(1352年)閏2月20日、関東と同時作戦で南朝は京都を攻めます。

南朝は、北畠親房が指揮を執り、楠木正儀(まさのり)と北畠顕能(あきよし)、山名時氏が京都を攻め、足利軍を破りしました。足利軍の細川顕氏が討死し、足利義詮は近江へ落ち延びました。

戦乱の中、義詮は光厳上皇を始め北朝の皇族方を置き去りにしてしまいます。その為、光厳上皇や崇光(すこう)上皇南朝側に捕えられ、大和国賀名生(あのう)(現奈良県五條市)に拉致されてしまいます。

 

第二次京都合戦 八幡の戦い

 足利義詮は近江で兵を整えます。傘下に佐々木道誉はじめ土岐氏、赤松氏、細川氏、山名氏、斯波氏などが集まります。

足利義詮は京都を攻撃します。後村上天皇は男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を定めます。

正平7年(1352年)、足利勢は男山八幡を包囲、2ヵ月間の兵糧攻めをしますが、なかなか落ちないので石清水八幡宮に火を掛け総攻撃をします。5月11日八幡宮はついに陥落します。

後村上天皇は脱出し、大和の賀名生に戻りました。

 

第三次京都合戦

正平7年8月から翌年の正平8年3月にかけて、摂津で南朝軍と幕府軍が戦い、南朝が勝ちます。南朝側には尊氏に反発する足利直義派の武将達が付きました。南朝は京都を奪いますが、正平8年7月24日に幕府側から猛攻撃を受け、南朝は京都から撤退します。

 

第四次京都合戦 神南(こいない)の戦い

南朝北畠親房が亡くなります。

足利直冬(ただふゆ)と直義ゆかりの武将達が南朝側に参陣します。

正平10年/文和4年(1355年)2月南朝は再び京都奪還を目指して、楠木正儀はじめ諸将と共に摂津の神南の戦いで幕府軍を破ります。足利尊氏後光厳天皇を伴って近江に退却。その隙に南朝軍は京都に入りました。が、3月、尊氏直々の出陣に、南朝軍は京都から撤退します。南朝側の京都占拠は約一か月で終わりました。

同年、拉致されていた光明上皇は解放され、京都に戻されます。光明上皇は出家しました。

 

第五次京都合戦

正平13年/延文3年(1358年)足利尊氏が亡くなります。

この時とばかり新田義宗北畠顕信が立ちますが不発に終わります。

もうこの頃になると厭戦気分が蔓延してきます。人材も兵站も補給が困難になってきます。都も農村も打ち続く戦で民は疲弊し切っていました。

足利義詮は最後の駄目出しで河内赤坂城を陥落させますが、幕府側からも離脱者が続出。

正平16年/康安元年(1361年)細川清氏(幕府側)が南朝側に寝返り、楠木正儀と共に京都を奪うも、一ヵ月もしない内に幕府側に明け渡してしまいました。

 

和平の兆し

楠木正儀(まさのり)は父・楠木正成に勝るとも劣らぬ勇猛果敢な名将です。戦略・戦術ともに天才的な能力を発揮、数々の戦で勝利を挙げました。彼は南朝の支柱となっていましたが、本人の意思は和平にあり、戦を望んでいませんでした。ただ、仕えていた後村上天皇も次の長慶天皇も、「夢よもう一度」の思いが強く、主戦論者でした。正儀は現状を把握し、冷静に分析していました。そして、南朝を出て北朝側に寝返ります。幕府側も正儀を厚遇し、攻めと和睦の両路線を取りつつ、長きにわたる戦乱を収める方向に動き始めました。

 

 

余談  拉致の上皇その後

光厳上皇は以前から夢想国師の下で禅宗に帰依しておりました。光厳上皇は賀名生で出家します。そして拉致されてから5年後、崇光上皇直仁親王と共に釈放され、京都に戻る事が出来ました。京都に戻ってから光厳上皇は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に師事、京都の常照皇寺で禅の修行生活に入り、54歳で崩御されます。

崇光上皇南朝の拉致から解放されて京都に戻った時、留守中に即位した北朝後光厳天皇がおりました。後光厳天皇の次期天皇に、崇光上皇は自分の息子の即位を望みましたが叶わず、失意の内に65歳で崩御します。崇光上皇の曽孫になってそれが実現します。それが後花園天皇です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

68 南北朝(2) 観応の擾乱(じょうらん)

後醍醐天皇は吉野に朝廷を開いてからも、まだ覇権への望みは持ち続けます。

新田軍は越前の金ケ崎城で敗北、尊良親王新田義顕は敗死します。新田義貞も藤島(現福井市)で討死、義貞の首は京都に運ばれて獄門に架けられたそうです。

後醍醐帝は懐良(かねよし)親王を西国へ、宗良親王を東国へ、義良(よしなが)親王を奥州へと遣わし、勢力拡大を図りましたが、南朝の勢いは日増しに衰えて行きました。

延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、後醍醐帝が崩御しました。後醍醐帝の跡を義良親王が継ぎ、後村上天皇となります。足利尊氏は後醍醐帝を弔う為に天龍寺を建立します。開山は夢想疎石です。

これで天下も鎮まったかに見えましたが、新たな権力闘争が始まりました。

足利尊氏と直義(ただよし)

足利尊氏はとても気前のいい人でした。自分の所に山の様に来る贈物を全てその日の内に部下に与えてしまい、彼自身の手元には何も残しませんでした。

一方、直義はそんな事をしません。と言うか、彼は自分の所に来る贈物は全て断っていたのです。直義は清廉と言うか真面目と言うか、政務の実務には長けていたのですが、そういう堅い所があり、直義よりも尊氏の方が人気がありました。

兄尊氏と弟直義の性格は随分違っていましたが、兄弟の仲は良く、政権運営も上手くいっていました。

観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)・第一ステージ

ところが政権の中に執事の高師直(こうのもろなお)と言う人物が居ました。彼はバサラ大名。高師直派には傍若無人なバサラが多く、光厳上皇の牛車に矢を射かけた土岐頼遠(よりとう)の様な者もいます。光厳上皇に弓を引くなどとんでもないと直義は激怒、助命嘆願がある中、土岐頼遠を処刑してしまいます。直義は師直から反発を買います。

直義と師直の政治路線の違いがやがて亀裂を生み、対立が激しくなります。

貞和5年/正平4年(1349年)、直義は高師直の執事職を兄に働きかけて罷免します。逆切れした師直は軍を率いて直義を攻め、直義は追われて尊氏の屋敷に逃げ込みますが、師直は屋敷を包囲して兵糧攻めにし、直義の両腕とも言える上杉重能と畠山直宗の引き渡しを要求します。結局、上杉、畠山の流罪と、直義の出家を条件に妥協します。直義の代わりに政務に携わるようになったのは、尊氏嫡男・義詮です。

観応の擾乱・第二ステージ

同年12月、上杉重能と畠山直宗が配流先で高師直の配下に暗殺されてしまいます。

直義の養子・直冬(ただふゆ→実父は尊氏)は義父を助けようと九州で挙兵します。尊氏は、直冬討伐に師直を差し向けます。直冬は敗けて九州に戻りますが、九州にいる南朝方の武士達を味方に付けて再び兵を挙げます。

正平5年/貞和6年/観応元年(1350年)10月28日、尊氏は直冬を討つ為に自ら出陣します。一方、直義は大和に行き、大和の兵力を味方に付けて決起しました。光厳上皇が直義追討令を出すと、直義は今迄敵対していた南朝に帰順しました。

直義は京都を襲い、京都にいた足利義詮を駆逐します。その勢いで西進し、直冬討伐から反転して京都に戻る途中の尊氏とぶつかり激戦。結果、尊氏軍が敗北してしまいます。ここで和議が成立し、高師直・師泰兄弟が出家する形で手打ちになりました。

高兄弟を京都に護送中、上杉重能の養子・能憲の軍勢が親の敵討ちとして高兄弟を襲い、殺してしまいます。この時、高一族も殺されてしまいます。

観応の擾乱・第三ステージ

高一族が滅びても、尊氏と直義の間の溝は修復できませんでした。直義は自分に味方してくれた武士達に恩賞を十分に与えられませんでした。その為、直義に従っていた武将達は次第に離反して行き、尊氏側に寝返って行きました。

尊氏は直義を追い詰める為南朝と和睦し、直義―南朝の結びつきを切る作戦に出ます。

南朝は和睦の条件として、三種の神器の返還、政権返上、北朝崇光天皇、皇太子直仁親王の両名を廃し、関白二条良基更迭、元号南朝の正平にする事などを挙げましたが、尊氏はそれを全て呑みました。その代り、南朝後村上天皇から直義・直冬の追討の綸旨を貰います。

 直義は、一旦は南朝に帰順し、南朝の兵力を利用しましたが、ここにきて北朝と和議を結ぼうとします。けれども、不調に終わりました。

正平7年/観応3年(1352年)、尊氏は直義を破って鎌倉に追い詰め、降伏させます。

 直義は鎌倉の延福寺に幽閉され、翌年2月26日、急死してしまいます。毒殺の噂もありますが、本当の所は分かりません。享年47歳。

 兄弟喧嘩のその後

 尊氏と直義の兄弟喧嘩の後、直義の死をもって終わる筈でした。

ところが、更に戦乱は続きます。南朝北朝の間で和睦が成立したのも束の間、和睦は反故にされてしまうのです。本当の和睦は、双方が戦疲れで疲弊して音を上げるまで、やってきませんでした。

 

 

余談  直冬

直冬は足利尊氏のご落胤です。身分の低い女との間に出来た子で、尊氏は直冬を認知せず、弟の直義へやってしまいます。観応の擾乱の兄弟喧嘩は、兄弟と、親子の戦いでもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

67 南北朝(1) 北畠顕家

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇を批判し、堂々と真正面から諫めた人物です。『顕家諫奏文(あきいえかんそうぶん)』と呼ばれる彼の上奏文は、諸葛孔明の『出師(すいし)の表』に匹敵するのではないかと、婆は思っています。

略歴

顕家は、『神皇正統記』を書いた北畠親房の長男で、文武両道に秀でた公家でした。頭脳明晰、眉目秀麗、早熟の天才です。3歳で叙爵、12歳で従三位参議・左近衛中将になります。15歳で従三位陸奥守に任じられ、翌年、津軽の北条氏残党を征伐、その功により、従二位になり、陸奥鎮守府将軍になります。

京都が兵乱に巻き込まれ後醍醐帝が窮地に陥ると、陸奥から京都へ5万の軍を率いて駆けつけます。それは秀吉の中国大返しの10日間で200㎞を走り抜ける速度を上回って、16日間で600㎞を走る強行軍でした。兵站は全て現地調達の略奪です。顕家の通った道筋は家も草木も残らない程の大変な被害に遭ったと記録されています。

京都を占拠した足利軍を、彼は新田と楠木と組んで京都から駆逐してしまいます。顕家は18歳で鎮守府大将軍に任ぜられます。彼は斯波氏や相馬氏を破り、利根川で足利軍の大軍を壊滅させ、鎌倉の足利義詮上杉憲顕を打ち破って鎌倉を陥落させます。

二度目の上洛の時、顕家は美濃国青野原(現岐阜県大垣市)の戦いで足利軍を破ります。それから伊勢へと進路を転じ、畿内各所で戦いました。しかし、遠征の疲れも有って勝敗は五分五分でした。

延元3年・建武5年5月22日(1338年6月10日)高師直と堺浦の石津で戦い、敗れて顕家軍は潰走。ついに顕家は討死してしまいます。享年21歳。

顕家は死ぬ一週間前の5月15日、後醍醐天皇を諫める文書を陣中で書きました。それが『北畠顕家上奏文』又は『顕家諫奏文』と呼ばれるものです。


顕家諫奏文

『顕家諫奏文』は、最初の出だしが欠落していますが、全部で七条あります。ここでは出だしの文と、6条と、結びの文を載せます。原文は太字で表しました。ふりがな等婆が補完したものは、小さい字で表しました。婆なりに意訳も付けております。

諫奏文

一条

(前文欠落)鎮将各令知分域、政令之出在於五方、因准(いんじゅん)之處似弁(わきまえる)故實、元弘一統之後、此法未周備、東奥之境纔(わずか)(なびく)  皇化、是乃最初置鎮之効也、於西府者更無其人、逆徒敗走之日擅(ほしいまま)(はく)彼地、押領諸軍再陥帝都、利害之間以此可觀、凡(およそ)諸方鼎立(ていりつ)(しこうして)猶有滞於聴断、若於一所決断四方者、萬機紛紜(ふんうん)爭救患乎、分出而封侯者、三代以住之良策也、置鎮而治民者、隋唐以環之権機也、本朝之昔、補八人觀察使、定諸道之節節度使、承前之例、不與(よ)漢家異、方今亂後之天下民心輒(たやすく)難和、速撰其人、發遣西府及東關、若有遲留者、必有噬臍(へいぜい→ほぞを噛む)悔歟、兼於山陽・北陸等各置一人之藩鎮、令領便近之国、宜備非常之虞(おそれ)、當時之急無先自此矣

1条 (意訳) 

鎮守府を置いて各区域を治めて来ましたが、元弘で統一した後はこの法は未整備です。東奥はわずかに皇化しておりますが、これは最初に鎮守府を置いて治めたからです。西(九州)にはそれが無いから逆賊が走り入って勝手に占領し、再び帝都を陥れました。どちらが得策かこれを見れば分かります。地方が鼎(かなえ)の様に立って行政が上手くいったとしても、それでも民の声を聴くのは滞ってしまいます。仮に集権的に一か所で色々なことを決断しようとすれば、よろずのことが紛々として混乱し、患難を救う事が出来るでしょうか。分権して治めるのが良策です。隋唐の昔からやっている事です。本朝も昔は観察使を置き、節度使を置いて民を治めました。漢の国も同じです。今の様に乱の後では、民心が簡単に和する事は難しいです。ですから、速やかに人を選んで西府や関東に派遣しなさい。もし、遅れる様な事が有れば、必ず臍(ほぞ=へそ)を噛むような後悔をするでしょう。ついでに、山陽・北陸に各一人ずつ藩鎮を置いて治めさせ、万一に備えるべきです。これは早急にすべきです。

 

第六条

可被厳法令事

右法者理之権衡(けんこう)、馭民之鞭轡(べんひ)也、近會朝令夕改、民以無所措手足、令出不行者不無法、然則定約三之章兮如堅石之難転、施画一之教兮如流汗之不反者、王事靡鹽民心自服焉

6条 法は厳かにする事

法は国の理(ことわり)で、基準となるものです。それによって民を馭(ぎょ)し、民を統(す)べるものです。ところが近頃では、朝に令を出し夕べにそれを改めています。そのような事をしたら、民は混乱してどうして良いのか分からないではありませんか。法令を出してもそれが行われなければ、法は無いのと同じです。ですから、三つの決まり事のように極めて簡単で良いから、ころころ転がらない様なような盤石の法令を作り、それを衆知すべきです。流れ出た汗は元に戻らないと言います。王の言葉もそうです。矢鱈と出したり引っ込めたりするものではありません。しっかりすれば、民の心は自ずから王に靡き、服するでしょう。

 

結びの言葉

以前条々所言不私、凡厥為政之道治之要、我君久精練之賢臣各潤餝(じゅんしょく)之、如臣者後進末学何敢計議、雖然粗録管見(かんけん)之所及、聊攄(りょうちょ)丹心蓄懐、書不尽言々不尽意、伏冀照 上聖之玄鑒(げんかん)察下愚之懇情焉、謹 奏

延元三年五月十五日従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

結び

これまで述べてきた事は私心からではありません。これは政治をする上で大切な要です。陛下は長らくこれを精錬なさり、賢臣の方々は陛下の事跡を更に豊かに実らせてまいりました。私の様な者は未だ若輩者ですので学問も未熟です。どうして議を計る事が出来ましょうや。とは言え、私の愚見を、赤心(まごころ)をもって胸に抱いていた思いを申し述べます。書は言葉を尽くす事が出来ません。言葉はいくら尽くしても思いの全てを表す事が出来ません。どうぞ、伏して冀(こいねが)います。陛下の何処までも見通す心でご照覧下さいまして、愚かな私の懇情を察して下さいますよう、謹んで奏上申し上げます。

 延元3年5月15日 従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

 

 余談  本文を載せなかった他の条

2条 3年間無税にする事。帝は奢侈を慎み、宮殿造営等は止めるべき事

3条 無能の者はリストラすべし。官位と報償の在り方を検討すべし。

4条 帝に擦り寄り禄を貪る不忠の公家や僧侶が多い。武士や雑兵の中に主人に仕えて死んで行く者がいる。その者達が不遇ならば善政とは言えない。

5条 陛下よ。行幸や宴会は止めなさい。民は苦しんでいる。

7条 人材登用の勧め。能力あるものは引き立てよ。職務を汚す者は退けよ。

 

余談  綸言(りんげん)汗の如し

勅命が一度出れば取り消せない事は、出た汗が再び元に戻らないのと同じだという事。天子には戯れの言葉は無い。

(角川 新版 古語辞典より引用)

 

余談  定約三之章(三つの法律)

6条にある「定約三之章」は『史記』に載っている法令です。

1、人を殺すな  2、人を傷つけるな  3、盗むな

人を殺せば死刑である。人を傷つけたり盗んだりしたら、それなりの罰を受ける。

 

66 建武の新政(7) 南朝樹立

第二次京都合戦

宮方の新田軍が湊川で敗れ、京都に向かって敗走して来る、しかも賊軍の足利がその後を追い駆けて来る と言う報せに、京都は上を下への大混乱に陥りました。

建武3年5月27日後醍醐天皇三種の神器を持って比叡山に避難します。その時、天皇光厳(こうごん)上皇に共に逃げようと誘います。光厳上皇は仮病を使ってそれを断ります。

光厳上皇にとって、後醍醐天皇は自分を帝位から引き摺り下ろした人物、光厳上皇は、密かに足利尊氏に「義貞討つべし」と院宣を出しています。

後醍醐帝は足利尊氏を朝敵にしました。光厳上皇新田義貞を朝敵にしました。天皇上皇の命をそれぞれ受けた二つの「朝敵」が京都でぶつかりました。

建武3年5月29日、足利軍は新田軍を追って京都に入り、都を占拠します。

6月14日足利尊氏光厳上皇を奉じて京都の東寺に入りました。

新田軍と足利軍は都を舞台に死闘を繰り広げます。

楠木正成は既に討死し、名和長年千種忠顕(ちぐさただあき)も次々と討死し、頼みの綱にしていた北畠顕家は別の戦場で足止めを食らっており、新田軍側にとって戦局は次第に不利になってきました。

後醍醐帝、新田を捨てる

足利尊氏は後醍醐帝と密かに連絡を取り、和平工作を始めました。この和平工作は新田側には知らされませんでした。ただ、新田の家臣・江田行義と大舘氏明が後醍醐方に通じていました。

10月9日、江田と大舘の行動に不信を抱いた義貞の部下・堀口貞満が、後醍醐帝に質そうと比叡山に登ると、後醍醐帝は和睦の為に山から都に降りる、正にその時でした。

「あゝ、何故あなた様は長年忠節を守って来た新田をお見捨てになるのですか。今の今まで大逆の朝敵だった尊氏に心を寄せ、あなたの為に戦って来た我らを裏切りなさいますのか」と、涙ながらに堀口は訴えました。

そこへ3000の兵と共に駆け付けた新田義貞は、怒りを懸命に堪えて事の真偽を質しました。すると、帝は新田の労を労い、これは計略であると言い繕って説明しました。

義貞は帝に、恒良親王尊良親王を推戴して北陸道へ行き再起を図りたいと願いました。帝は二人の親王を連れて行く事を許しましたので、義貞は兵を二手に分け、一手は帝の護衛に付け、もう一手は義貞が率いて北陸道を目指しました。

道中、新田義貞一行は足利軍の追撃を受け、猛吹雪にも遭い凍死者を出しながらも、金ケ崎城に入る事が出来ました。義貞側は金ケ崎城から、親王の足利追討の令旨を各地に盛んに送りましたが、反応はいま一つでした。

金ケ崎城落城

足利軍は金ケ崎城を攻撃、何度か渡り合う戦も有りました。新田勢は初めの内は優勢でした。が、やがて6万の兵に包囲されて兵糧攻めにあいます。城中の食糧は底を突き、兵達は餓えに苦しみました。人肉を食べる程の凄惨な様子だったと伝わっています。

延元2年3月5日。足利軍による総攻撃が行われ、翌6日、金ケ崎城は陥落します。尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となってしまいます。

新田義貞はたまたまその時、弟の義助のいる杣山城へ援軍に行っていて、金ケ崎城を留守にしていました。

南朝樹立

後醍醐帝側に就いて新田軍側で戦った有力武将達が次々と討たれ、後醍醐帝の持てる武力は次第に痩せ細っていきました。

2月29日光厳上皇改元し、元号を延元とします。後醍醐帝はこれを認めず建武元号を使います。

延元元年(建武3年)8月15日(西暦1336年9月20日)光厳上皇院宣を出し、弟の豊仁(ゆたひと)親王を即位(光明天皇)させます。

延元元年(建武3年)10月10日、後醍醐帝が花山院に幽閉されます。

11月2日三種の神器が後醍醐帝から光明天皇に渡されます。

11月7日建武式目が制定されます。この制定によって足利政権が一歩前へ踏み出しました。

12月21日後醍醐天皇は幽閉先の花山院を脱出、吉野へ逃れ、そこで吉野朝廷を開きます。南朝の樹立です。

後醍醐天皇は、自分は退位をしていないと退位を否定、光明天皇の存在を否定し、更に、渡した三種の神器は偽物だったと宣言します。

 

 

余談  三種の神器

三種の神器について、後醍醐帝が偽物を北朝に渡したと言う話ですが、後の研究者によって否定され、渡したのは本物であったと言われています。その裏付けとして、正平一統の時、南朝後村上天皇北朝に渡した神器を取り戻した、という事実が有ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

65 建武の新政(6) 楠木正成と湊川合戦

当時の御家人は「利」を求めて走り、「利」が薄いと見るや忽ち離れます。「利」は恩賞。「恩賞」は土地。「土地」を得て一族郎党を養って行くのが生活の全てです。

その為には「利」の多い方に付くのは当然と考え、寝返りは日常茶飯事。戦の敗色が濃くなれば、勝ち馬に乗り換えるのが彼等の流儀です。

箱根・竹之下で大物武将が何人も寝返ったのも、足利尊氏に加担して武士の世を再び立ち上げた方が、恩賞が手厚くなるとの読みから。元弘の乱の時、後醍醐帝の恩賞の配分が余りにも不公平だった為に、武士達の心は帝から離れてしまいました。

 

第一次京都合戦

建武3年1月新田義貞を追って京都に来た足利軍は、園城寺(おんじょうじ)(=三井寺)に入り、そこを京都攻略の拠点とします。

後醍醐帝は難を避けて比叡山延暦寺に入ります。

延暦寺園城寺は昔から犬猿の仲です。延暦寺僧兵による園城寺焼き打ちは主なものだけでも10回も有りました。後に、織田信長延暦寺焼き打ちをした際、信長は本陣を坂本の園城寺に置いたと聞いています。

それはさて置き、尊氏を追って西進してきた北畠顕家と、態勢を立て直した新田軍、そして楠正成(くすのきまさしげ)軍の三軍が連携をとって足利軍を攻撃します。足利軍は敗北し、園城寺は焼き打ちされてしまいます。この時の兵火は園城寺ばかりで無く、後醍醐帝の二条富小路内裏も焼失、京都での市街戦は凡そ20日間続き、都は灰燼と化します。

宮方の軍は京都から足利軍を駆逐しましたが、北畠、新田、楠木の三軍はなおも抵抗する足利軍を豊島河原(現大阪府箕面市池田市)で破ります。

足利軍は九州へ敗走します。

 

九州多々良浜の合戦 

九州に入った足利軍は、少弐頼尚(しょうによりひさ)に迎えられます。が、宮方に付いた地元の筑前筑後・肥後の諸豪族から抵抗に遭います。その軍勢凡そ2万騎。対する足利軍は2千騎。

建武3年3月2日(西暦1336年4月13日)両軍は多々良浜(たたらはま)(現福岡市)で衝突します。足利軍が絶望的な戦力差にもかかわらず、宮方の九州勢の中から足利軍に寝返る者が続出、九州の宮方は総崩れになり、足利軍が圧勝してしまいます。

 

楠木正成

河内国の悪党と呼ばれた楠木正成は稀に見る戦巧者でした。彼の出自・出身には諸説あります。得宗被官だったらしいと言われております。

楠木正成は、幕府に反抗的な態度をとっていた渡辺党、湯浅氏、越智氏(おちし)などを平らげ、その軍事的手腕が高く評価されました。やがて彼は、幕府よりも地元の人々の暮らしに寄り添う様になり、人々からも慕われる様になります。ついには彼自身が「悪党楠木兵衛尉」と幕府側から呼ばれる様になっていました。

 

和睦の献策

後醍醐帝が討幕の狼煙を挙げてからずっと、楠木正成は宮方で戦って来ました。

彼は戦の天才でした。全く人が思いつかないような奇策を次から次へと繰り出しました。石や材木を崖から落としたり、糞尿を浴びせたり、かと思えば藁人形に鎧兜を着せた偽装兵を並べて、その陰から矢を射たりと、敵の大軍を手玉に取って大損害を与えました。

その戦上手の彼が、京都合戦で討ち漏らした足利尊氏を非常に危険視していました。

尊氏には、血筋と人間的魅力と武家棟梁としての力量の三拍子が揃っていました。その尊氏を九州に追い落としたのは、虎を野に放つ様なものでした。

楠木正成は帝に献策します。新田義貞を打ち、足利尊氏と和睦するべきだ、と。

正成のこの仰天献策は公家達に一蹴されてしまいます。彼等は言います。宮方は勝利し、敵は九州に逃げてしまったではないか、と。敗北した朝敵と何故和睦しなければならないのか?

 

新田軍苦戦

3月、後醍醐帝は新田義貞を総大将として足利尊氏追討の軍を九州に差し向けます。

新田軍は播磨国で、足利側の赤松則村を攻めますが、なかなか勝敗はつかず長引いてしまいました。そんなこんなで時間を取られている間に、九州から足利軍が攻め上ってきました。勢いづく赤松軍。新田軍は撤退を始めます。撤退を始めると早速寝返りが大量に出て来ました。新田軍はその数を急速に減らしてしまいます。

尊氏が京都に攻め上って来る、宮方の新田軍は押されて敗退している、という報せが帝の下に届きます。帝は楠木を呼び出し、新田軍の救援に向かう様命じます。

 

湊川(みなとがわ)の決戦

正成はそこで提案します。敵軍を都に誘い入れ、新田、北畠、楠木の三軍や、宮方に付く者達と共に都を包囲し、四方より攻めれば足利軍を殲滅できる、と。その間、帝には比叡山に難を逃れていて欲しい・・・しかし、この提案は退けられてしまいます。正成は止む無く出陣します。

建武3年5月3日、九州から東進して厳島まで来た足利尊氏の下に、光厳上皇から使者が到着し、「新田義貞追討令」の院宣が伝えられました。これは、箱根・竹之下で勝利した尊氏が密かに光厳上皇と連絡を取り合って実現したものです。これで、尊氏は朝敵の汚名を逃れる事が出来るようになりました。こうなると現金なもので、足利軍に我も我もと加わる者が増えてきます。

建武3年5月24日新田義貞楠木正成は兵庫で合流します。その晩二人は、どう考えても勝ち目の無い戦を前に、酒を酌み交わしながら話し合います。

建武3年5月25日、足利軍は九州・四国の水軍10万を引き連れ、湊川に着きます。陸路から東進してきた足利直義軍もそこに加わります。総勢30万とも50万とも・・・

対する新田軍は約4万、楠木正成軍は身内で固めた700騎。

開戦は午前8時頃、船と陸からの矢合わせから始まりました。上陸してくる雲霞の様な敵。衆寡敵せず、果敢な突撃を繰り返しても正成は味方の数を減らすばかりでした。ついに、正成軍は73騎にまで減ってしまいました。正成は弟・正季(まさすえ)らと共に村の民家に入り、そこで刺し違えて自害し、家臣達も皆自害しました。

新田軍からは、敵方への投降やお定まりの寝返りが続出。新田義貞は残る兵を纏めて激戦の死地から退却し、京都へ戻ります。

後醍醐帝は官軍敗北の報せに、三種の神器をもって比叡山に登りました。

 

 

余談  楠木正成の旗印

楠木正成の旗印は『非理法権天』です。理よりも法が勝り、法よりも権が勝り、権よりも天が勝るという意味だそうです。

 

余談  桜井の別れ

楠木正成が子の正行(まさつら)と桜井で分かれた話は有名です。何人もの画家が桜井の別れを画題にして描いていますし、銅像も建っている様ですが・・・実は太平記の創作だったのではないかと言われています。正成の子・正行はその頃は既に青年だったと言う話です。正行は、当時は余り考慮されなかった戦争の基本・兵站、情報などにも力を入れ、父に勝るとも劣らない武将になったとか。彼は父と同じ様に南朝方で戦っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

64 建武の新政(5) 箱根・竹之下合戦

新田軍は後醍醐帝の宣旨を奉じ、錦旗を掲げて 鎌倉の足利尊氏討伐に向かいました。

一方、朝敵になるのを恐れて尊氏は出家してしまいます。これに対して尊氏の弟・直義は交戦を主張、自ら軍を率いて京都に向かい西進します。

後醍醐帝側の新田軍は足利を討つべく東進し、矢矧川(愛知県)で直義軍とまみえ、これを撃破。更に手越河原(静岡県)で足利軍を破り、敗走する直義軍を追尾して、新田軍は三島(静岡県)に到着します。義貞は行軍で伸びた戦列を三島で整え集結させます。

追い詰められた足利尊氏は、弟・直義の説得も有り、出家を辞めて出陣します。尊氏が出陣する、と聞いて足利軍の士気が高まりました。

天下の嶮での布陣

新田義貞は軍を二手に分けます。

弟・脇屋義助(よしすけ)を副将軍にして、尊良親王や公家達など7千騎を付けて足柄峠に向かわせ、義貞自身は7万騎を率いて箱根に布陣します。

義貞が軍を二手に分けた理由はこうです。義貞軍主力が足利軍主力の正面に立ち向かい、弟・義助軍が足利軍の搦手(からめて(弱点))の背後に回って攻める作戦でした。

他方足利軍は、足利直義が主力軍を率いて箱根に向かい、足利尊氏が足柄山に控えて後方を守るという陣形です。

箱根・竹之下合戦

12月11日、両軍は箱根と竹之下の二ヵ所で向き合い、戦端を開きます。

新田義貞軍(官軍)は足利直義軍に対して優勢に戦いを進め、箱根の戦いで大勝します。

弟・義助軍と足利尊氏軍は足柄山の麓、芦ノ湖の北にある開けた平地・竹之下で激突。尊氏参戦で士気が上がった足利軍は勢いを増し、義助軍は苦戦を強いられます。

義助軍には名目上の総大将・尊良親王や中将の二条為冬、武官の公家や北面の武士達が居ます。義助が上将を差し置いて指揮を執るのはかなり難儀だったでしょう。誇りばかり高い公家達は、快進撃してきた延長戦のまま搦手攻めを担当したので、楽勝気分だったかも知れません。義貞にしても、一品の君の尊良親王や公家達を、激戦が予想される正面攻めに投入するのは遠慮があったと思われます。

12月12日、竹之下の戦場では、思わぬ事態が発生します。義助軍から大友貞載(さだとしorさだのり)と塩屋高貞(えんやたかさだ)の二人が、足利軍に寝返ったのです。義助軍は総崩れになり、敗走します。二条為冬も討死しました。

この報せが義貞に届くと、義貞はすぐ箱根口を退きます。

義貞はこの時大勝していましたが、義助の敗走を追って足利軍が来た場合、潰走して雪崩れて来る軍を支えるのは大変です。一旦後退して態勢を立て直そうと引いたのですが、更に思わぬ誤算が生じます。

新田軍に敗色が出ると、義貞と共に戦っていた佐々木道誉が、新田軍の形勢不利と見て足利軍側に寝返りました。義貞軍は混乱、総崩れになってしまいます。

軍を立て直す暇も無く新田軍は敗走し、其のまま東海道を西進、京都まで逃げ帰ってしまいました。

太平記

『箱根・竹之下合戦の事』(抜粋) 

『(前略)義貞の兵の中に、杉原下総守、高田薩摩守義遠、葦堀七郎、藤田六郎左衛門、川波新左衛門、藤田三郎左衛門、同じき四郎左衛門、栗生左衛門、篠塚伊賀守、難波備前守、川越三河守、長浜六郎左衛門、高山遠江守、園田四郎左衛門、青木五郎左衛門、山上六郎左衛門とて、党を結んだる精兵の射手16人有り、一様に笠符(かさじるし)を付けて、進むにも同じく進み、また引く時もともに引けるあひだ、世の人これを16騎が党とぞ申しける。

(途中省略) 馬の蹄を浸す血は、混々として洪河の流るるが如くなり。死骸を積める地は、累々として屠所の如くなり。無慙と言うもおろかなり』

 

 

余談  古田氏の始まりは・・・

古田織部の古田氏は、上記の太平記に出て来る高田薩摩守義遠の子孫ではないかと、婆は思うのですが・・・この高田義遠の子孫に、美濃に在所して古田を名乗る武将が出て来ます。以下その系図です。

源頼政   従三位上 大内守護 兵庫頭 美濃守 治承四庚子五月廿六日高倉宮奉勧合戦負於宇治平等院扇芝自害歳七十六

頼兼 大内守護 住于美濃国高田庄故号高田 高田四郎 源蔵人大夫 

頼茂 従五位下 大内守護 後鳥羽院ノ勅勘ヲ蒙テ仁壽殿二走入火ヲ放チ自害ス (承久の乱) 高田右馬頭 

頼氏 大内守護 父ㇳ一所二自害ス於此嫡流 (承久の乱) 

頼保 従五位下 高田兵庫頭 依君命相續祖頼政或有之賜上野國甘楽郡

頼明 従五位下 高田民部少輔

頼遠 従五位下 高田弾正少弼 在鎌倉 

政春 従五位下 高田伊豆守 

義遠 従四位下少将 高田薩摩守 元弘ノ乱屬宮方度々有軍功焉 

遠春 従五位下 高田美濃守 建武ノ乱足利新田取合ノ刻於遠州白坂同薩埵山三州矢矧或駿河竹下相州箱根山富士川岩淵等合戦何レモ得利運矣 元弘以来永和年中四十八箇年間一度無二心為 宮方勵忠勤而無隠天下

政行 従五位下 高田飛騨守

頼春 従五位下 高田下野守

友春 古田靭員佐 住于濃州古田郷依子孫為名字 

重頼(古田大膳亮) → 重隆(古田左衛門尉) → 重次(古田吉内将監) → 重則(古田吉左衛門・秀吉公登庸之士) → 重勝(古田重勝・松坂藩藩主) → 重治(古田重治・浜田藩藩主) → 重恒(古田重恒・浜田藩藩主) → 御家改易 (以下略)

これによると、源頼兼の時に高田を号し、友春の時に名字を古田に変えています。

上記系図は婆が嫁いだ先の古田家の系図です。ただ、重則以前の系図が本当かどうか確かめようがありません。

『尊卑文脈』では、承久の乱の時、頼茂(よりもち)の息子・頼氏で系が絶えています。

太平記に出て来る高田義遠は建武の乱での活躍なのに、古田系図では義遠は元弘の乱での活躍になっています。そして、建武の乱の箱根で活躍したのは義遠ではなく、古田系図では息子の遠春になっています。

友春の代から名字を古田にしています。この時から名前の通字(とおりじ)が「」に変わっています。それ迄は頼政の「」が通字、或いは親や先祖の一字などを貰って付けています。何故友春の代から「」に変わったか謎ですが、多分、友春の時に官位を失っていますので、それを恥て先祖の名を通字にしなかったのかと、これは婆の推測です。

古田織部然は安土桃山時代に活躍した美濃の人です。ひょっとしたら古田織部は「住于濃州古田郷依為名字」の流れかもしれません。違うかも知れません。本当は分りません。

 

余談  『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』

『尊卑文脈』は左大臣洞院公定が著した家系図です。そこには各公家・各武家嫡流と支流の血筋が書かれております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

63 建武の新政(4) 矢作川合戦 

新しい御代が始まり意気盛んな帝を戴いて、陽気にお祭り騒ぎと思いきや、綸旨に追われて右往左往。世間様を上から下まで、聖から俗まで見渡して、鋭いまなこで軽やかに笑い飛ばして描き切る当世風刺の傑作の、二条河原に落首が一つ。この頃都にはやるもの夜討ち 強盗 にせ綸旨・・・そんな無頼の世の中に大乱軍馬の音が迫ります。

尊氏、鎌倉を動かず

足利尊氏は鎌倉から北条時行を駆逐したまま鎌倉に居座ってしまいました。

そして、鎌倉に御所を建て、軍功の者に恩賞を与えるなど勝手な振る舞いを始めました。なんと、尊氏が与えた恩賞の中には、新田義貞の所領も含まれていました。尊氏は義貞の領地の一部を勝手に取り上げて恩賞にしてしまったのです。

讒訴(ざんそ)合戦

恩賞授与は後醍醐帝の専権事項です。尊氏の振る舞いは越権行為そのもの。帝の怒りは頂点に達します。帝は、足利尊氏に京都に帰還する様に命じます。尊氏はそれを無視。逆に尊氏は新田義貞を讒訴します。北条時行を成敗したのは足利であり、新田義貞は戦功も無いのに功を横取りしている奸臣だ、故に義貞を討伐すべきだ、と。そして、尊氏は全国に檄を飛ばし、兵を集めます。

新田義貞は尊氏の讒訴に対して直ちに反論。護良親王を殺害したのは足利直義である事など個々の具体例を挙げて帝に訴えます。

尊氏は、護良親王殺害の罪を義貞になすり付けようとしましたが、目撃証人が現れて嘘がバレてしまいます。

足利討伐軍進発

建武2年11月9日、後醍醐帝は足利尊氏追討を新田義貞に命じ、錦旗を授けます。

帝は新田義貞尊良親王(たかよししんのう)を付けます。尊良親王後醍醐天皇の第一皇子で一品(いっぽん)の君。次期皇太子候補でしたが、持明院統量仁(かずひと)親王(後の光厳天皇)とポストを争い、破れてしまいました。その尊良親王が足利討伐軍の上将軍(総大将)になります。新田義貞はその下に位置する将軍です。戦いに疎い公家の上将軍と実戦経験豊富な武家将軍の組み合わせが、やがて作戦と指揮命令系統に支障をきたす様になります。

征討軍は三手に分けられました。

新田義貞尊良親王を戴いて京都から鎌倉へ向かって東海道を東進します。

洞院実世(とういんさねよ)による追討軍が同じく京都から東山道を通って鎌倉に向かいます。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)が北の陸奥将軍府から南進して鎌倉に向かいます。

三軍の挟撃によって鎌倉に居る足利尊氏を攻撃する手筈でした。

矢作川(やはぎがわ)の戦い

建武2年11月25 日新田義貞率いる官軍と足利軍(足利直義高師泰(こうのもろやす))が、三河国矢作川(現愛知県岡崎市にある川)を挟んで対峙します。新田義貞は川の西岸に陣を構えます。足利軍は東岸に布陣します。義貞は、長浜六郎左衛門を呼んで大軍が渡河できそうな浅瀬を探させます。彼はただ一騎で最適な場所を探します。そして、丁度良い場所は三か所あるが何処も対岸が屏風の様に立っていて、しかも敵が矢を揃えて狙っている、と報告します。

義貞は作戦を変え、敵を川におびき出す事にします。彼は中州に射手を配置し、矢を盛ん射かけます。敵はその手に乗って上流の浅瀬を渡河し始めます。義貞は渡河中の彼等を狙って襲います。

以下、太平記から矢作川の合戦を抜粋します。

 

太平記 (矢作川合戦抜粋)

さる程に、11月25日の卯の刻に、新田左兵衛督義貞。脇屋右衛門佐義助、6万余騎にて、矢矧川(やはぎがわ)に押し寄せ、敵の陣を見渡せば、その勢20~30万騎もあるらんとおぼしくて川より東、橋上下30余町に打ち囲みて、雲霞の如く充ち満ちたり。左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼びて「この川いづくか渡りつべき所ある。くはしく見て参れ」とのたまひければ、長浜六郎左衛門ただ一騎、川の上下を打ち回り、やがて馳せ帰って申しけるは、「このかわの様を見候に、渡りつべき所は三箇所候へども、向かひの岸高くして、屏風を立てるが如くなるに、敵鏃(やじり)をそろへて支へて候ふ。」(途中略)

わざと、敵に川を渡させんと、河原面に馬の懸け場を残し、西の宿の端に南北20余町にひかへて、射手を川中の洲崎へ出だし、遠矢を射させてぞおびきける。案に違はず吉良左兵衛佐、土岐弾正少弼頼遠佐々木佐渡判官入道、かれこれその勢6千騎、上の瀬を打ち渡って、義貞の左将軍、堀口、桃井、山名、里見の人々に討って懸かる。

作戦が当たり、新田軍(官軍)は足利軍に快勝します。敗走する足利軍を追って新田軍は更に東へ進撃します。

建武2年12月5日昼、安部川河口の手越河原(現静岡県静岡市)で再度足利直義新田義貞は激突。新田は夜襲を仕掛けて成功し、足利軍を潰走させます。この時、淵辺義博(護良親王を殺したと言う人物)が足利直義の身代わりとなって殺されます。その隙に直義は逃げる事が出来ました。

 

 

 余談  佐々木佐渡判官入道

太平記に出て来る佐々木佐渡判官入道は、佐々木道誉の事です。彼はバサラで有名です。華道、香道、茶道などでも達人と知られています。この手越河原の戦で足利軍側で戦っていましたが、負けると官軍側に寝返り、鎌倉攻めに加わります。

 余談  土岐弾正少弼頼遠

土岐弾正少弼頼遠は土岐家系図の人ですが、当古田家系図にも出てくる人物です。当古田家系図の頼遠は、土岐系図と同じ弾正少弼と言う役職で、在鎌倉と書かれています。ただ、頼遠の父親の名前が、古田家系図では頼明、土岐系図では頼貞、尊卑文脈では別の名前になっています。

余談  新田義貞の家格

新田義貞の家は足利尊氏より低い家柄だったと言われています。けれど、足利尊氏新田義貞も、同じ源頼国を祖としています。新田は頼国の嫡流です。足利は頼国の次男の流です。ただ、新田は軍役を課せられても静観する事が多く、諸事不運にも見舞われ、頼朝から疎んぜられていました。結局無位無官。常に足利氏の後塵を拝し、建武の頃は、完全に足利氏に従属していました。