後醍醐天皇は吉野に朝廷を開いてからも、まだ覇権への望みは持ち続けます。
新田軍は越前の金ケ崎城で敗北、尊良親王と新田義顕は敗死します。新田義貞も藤島(現福井市)で討死、義貞の首は京都に運ばれて獄門に架けられたそうです。
後醍醐帝は懐良(かねよし)親王を西国へ、宗良親王を東国へ、義良(よしなが)親王を奥州へと遣わし、勢力拡大を図りましたが、南朝の勢いは日増しに衰えて行きました。
延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、後醍醐帝が崩御しました。後醍醐帝の跡を義良親王が継ぎ、後村上天皇となります。足利尊氏は後醍醐帝を弔う為に天龍寺を建立します。開山は夢想疎石です。
これで天下も鎮まったかに見えましたが、新たな権力闘争が始まりました。
足利尊氏と直義(ただよし)
足利尊氏はとても気前のいい人でした。自分の所に山の様に来る贈物を全てその日の内に部下に与えてしまい、彼自身の手元には何も残しませんでした。
一方、直義はそんな事をしません。と言うか、彼は自分の所に来る贈物は全て断っていたのです。直義は清廉と言うか真面目と言うか、政務の実務には長けていたのですが、そういう堅い所があり、直義よりも尊氏の方が人気がありました。
兄尊氏と弟直義の性格は随分違っていましたが、兄弟の仲は良く、政権運営も上手くいっていました。
観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)・第一ステージ
ところが政権の中に執事の高師直(こうのもろなお)と言う人物が居ました。彼はバサラ大名。高師直派には傍若無人なバサラが多く、光厳上皇の牛車に矢を射かけた土岐頼遠(よりとう)の様な者もいます。光厳上皇に弓を引くなどとんでもないと直義は激怒、助命嘆願がある中、土岐頼遠を処刑してしまいます。直義は師直から反発を買います。
直義と師直の政治路線の違いがやがて亀裂を生み、対立が激しくなります。
貞和5年/正平4年(1349年)、直義は高師直の執事職を兄に働きかけて罷免します。逆切れした師直は軍を率いて直義を攻め、直義は追われて尊氏の屋敷に逃げ込みますが、師直は屋敷を包囲して兵糧攻めにし、直義の両腕とも言える上杉重能と畠山直宗の引き渡しを要求します。結局、上杉、畠山の流罪と、直義の出家を条件に妥協します。直義の代わりに政務に携わるようになったのは、尊氏嫡男・義詮です。
観応の擾乱・第二ステージ
同年12月、上杉重能と畠山直宗が配流先で高師直の配下に暗殺されてしまいます。
直義の養子・直冬(ただふゆ→実父は尊氏)は義父を助けようと九州で挙兵します。尊氏は、直冬討伐に師直を差し向けます。直冬は敗けて九州に戻りますが、九州にいる南朝方の武士達を味方に付けて再び兵を挙げます。
正平5年/貞和6年/観応元年(1350年)10月28日、尊氏は直冬を討つ為に自ら出陣します。一方、直義は大和に行き、大和の兵力を味方に付けて決起しました。光厳上皇が直義追討令を出すと、直義は今迄敵対していた南朝に帰順しました。
直義は京都を襲い、京都にいた足利義詮を駆逐します。その勢いで西進し、直冬討伐から反転して京都に戻る途中の尊氏とぶつかり激戦。結果、尊氏軍が敗北してしまいます。ここで和議が成立し、高師直・師泰兄弟が出家する形で手打ちになりました。
高兄弟を京都に護送中、上杉重能の養子・能憲の軍勢が親の敵討ちとして高兄弟を襲い、殺してしまいます。この時、高一族も殺されてしまいます。
観応の擾乱・第三ステージ
高一族が滅びても、尊氏と直義の間の溝は修復できませんでした。直義は自分に味方してくれた武士達に恩賞を十分に与えられませんでした。その為、直義に従っていた武将達は次第に離反して行き、尊氏側に寝返って行きました。
尊氏は直義を追い詰める為南朝と和睦し、直義―南朝の結びつきを切る作戦に出ます。
南朝は和睦の条件として、三種の神器の返還、政権返上、北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王の両名を廃し、関白二条良基更迭、元号を南朝の正平にする事などを挙げましたが、尊氏はそれを全て呑みました。その代り、南朝の後村上天皇から直義・直冬の追討の綸旨を貰います。
直義は、一旦は南朝に帰順し、南朝の兵力を利用しましたが、ここにきて北朝と和議を結ぼうとします。けれども、不調に終わりました。
正平7年/観応3年(1352年)、尊氏は直義を破って鎌倉に追い詰め、降伏させます。
直義は鎌倉の延福寺に幽閉され、翌年2月26日、急死してしまいます。毒殺の噂もありますが、本当の所は分かりません。享年47歳。
兄弟喧嘩のその後
尊氏と直義の兄弟喧嘩の後、直義の死をもって終わる筈でした。
ところが、更に戦乱は続きます。南朝と北朝の間で和睦が成立したのも束の間、和睦は反故にされてしまうのです。本当の和睦は、双方が戦疲れで疲弊して音を上げるまで、やってきませんでした。
余談 直冬
直冬は足利尊氏のご落胤です。身分の低い女との間に出来た子で、尊氏は直冬を認知せず、弟の直義へやってしまいます。観応の擾乱の兄弟喧嘩は、兄弟と、親子の戦いでもあります。