式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

95 応仁の乱(6) 終結への道

全てのものには始まりが有れば終わりが有ります。けれども、何時の世でも、戦争ほど始めるのは易く、終わらせるのが難しいものは他には有りません。

畠山家の家督争いから始まった応仁の乱は、参戦者のそれぞれの思惑が絡んで様々な様相を見せる様になります。

 

利権の争い。

1467年(応仁元年9月)、大内政弘が1万の軍勢と水軍2千隻を率いて上洛しました。

大内氏細川氏は、瀬戸内海と東シナ海制海権を賭けて長年争って来ました。瀬戸内海は海運の要です。また、莫大な利益をもたらす日明貿易をするには、どうしても東シナ海制海権が必要です。両氏は海上利権の対立に加えて、大内政弘の母は宗全の養女、細川勝元正室も宗全の養女と、因縁浅からぬ仲でした。政弘は西軍の宗全側に立って戦います。

幕府は大内政弘の力を削ぐ為、大内氏の国元を突いて慌てさせ、攪乱する策に出ます。

義政は大内氏の留守を預かっている大内教幸(おおうち のりゆき)大内氏の当主と認めます。そして教幸や大内関係者に、又、東軍に居た豊後・筑後守護・大友親繁(おおとも ちかしげ)にも、政弘を討てと命じます。京都に在って軍を展開していた政弘は、急遽家臣の益田貞兼(ますだ さだかね)を国元へ派遣し、国元の陶広(すえ ひろもり)を援(たす)け、鎮圧します。

 

東軍の将、西軍に走る

 戦時で疎(おろそ)かになっていた政権の運営を軌道に乗せようと、義政は文正の政変で失脚していた伊勢貞親(いせ さだちか)を呼び寄せます。東軍の総大将として活躍していた義視(よしみ)は、伊勢貞親の登場を知るや突然東軍を出奔して比叡山に登ってしまいました。それはそうでしょう。貞親は義視の殺害を企てた人物ですから。

かつて勝元は、義視還俗の折り義視の後見を約束していましたが、事ここに至っては態度を変え、義視に対して再び出家して一生無事に過ごす様に勧めます。失意の義視に宗全が近づき、義視を将軍に奉って迎え入れます。

 

下剋上

その頃、大内政弘山城国をほぼ制圧しており、兵火は地方へと移って行きました。

守護の主だった者が京都に集結して戦っている間、留守宅の領国では守護代や国人達が力を付けてきます。彼等は、殿様の留守を預かる守護代としての立場から、何時の間にか守護を凌ぐ実力を発揮し始める者が出てきます。

国元で起き始めいてる変化に、守護もおちおちと京都で戦っていられなくなりました。勝敗も決せず、成果も上がらず、だらだらと長引く戦に厭戦(えんせん)気分が蔓延してきました。

そんな時、西軍の将・斯波義廉(しば よしかど)の一家臣であった朝倉孝景(あさくら たかかげ)が、義政から越前国守護職を約束されて東軍に寝返りました。守護大名・朝倉氏の誕生です。斯波義廉は、家臣に自分の領土を奪われてしまいました。義政はこうして西軍の切り崩しにかかります。

これは幕府主導によって、家臣が主人の地位を覆した下剋上のケースですが、やがて幕府不在の戦国型下剋上になって行きます。

 

和議への模索

1472年(文明4年)、勝元と宗全の間で和議が諮(はか)られましたが、条件の調整で失敗しました。

そんな時、事態が急展開します。

1473年(文明5年3月18日)山名宗全が亡くなりました。その後を追う様に約2ヵ月後の5月11日細川勝元も亡くなります。これを機に和睦交渉が再開されました。が、応仁の乱の着火点でもあった畠山義就(はたけやまよしひろ(orよしなり))畠山政長は、主戦論を強硬に唱え、決裂してしまいます。

1473年1月7日(文明5年12月19日)、義政が隠居し、義尚(よしひさ)が9代将軍になります。そして、

1474年4月19日(文明6年4月3日)、宗全と勝元の跡を継いだ新世代の山名持豊(やまな もちとよ)細川政元の間で、和議が成立します。

戦争を終わらせる為に二人は手を握り、未だ戦っている畠山義就大内政弘を攻撃します。

こうなると矛の納め時を探していた各武将も、続々と東軍に帰順します。

一色直義(いっしき なおよし)の子の義春が義政の下に出仕してきます。

甲斐敏光(かい としみつ)が東軍に投降してきます。

斯波義敏守護代織田敏弘と共に尾張へ向かい、消息を絶ちました。

義政は大内政弘に「これ以上無駄な事は止めなさい」と『世上無為』の御内書を送ります。

西軍に走った義視も義政に恭順しました。義視の罪は問われませんでした。

投降や帰順しても罪を問われず、処分もされなかったので、外の者達もそれを見て後に続きました。こうして西軍は解体されて行きました。

 

富子の手腕

上洛して10年も転戦を続けていた大内政弘は、軍をなかなか引こうとせず、未だ愚図っていました。長い間戦ってきて何の成果も上げられなかった、と言うのでは儂のメンツはどうしてくれる? 政弘は撤収の名目に拘っていました。義政の妻・富子はそれを察し、義尚の名前で周防(すおう)・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・筑前の4か国を安堵して撤退させます。政弘は喜んで降参し、国へ帰って行きました。

 畠山義就へは撤収費用として1千貫を渡して撤退させています。

畠山義統(はたけやま よしむね)土岐成頼も撤収し、それぞれ国に帰ります。美濃へ帰国する土岐成頼と共に、足利義視とその子・義材(よしき)も同行して美濃へ下向します。大物達が京を去り、ようやく「束の間」の平和が訪れました。

 1477年、文明9年11月20日天下静謐の祝宴が開かれました。

戦争で幕府御料国からの収入が途絶えた中、富子は戦費を武将に貸し付けて、利を稼ぎました。京都七口に関所を設けて通行税を取りました。その遣り口に人々は反発、徳政一揆を起こした程でした。悪辣な守銭奴と罵られ、後世に三大悪女の一人と不名誉な名を冠せられました。

けれど、もし、彼女が居なかったら、幕府は疾っくに財政破綻をきたして潰れていたでしょう。将軍とは名ばかり、財力も兵力も失った足利将軍は、やがて漂流し始めます。

富子は悪名を浴びせられつつも、7万貫の蓄財をしたそうです。現在の貨幣価値にすると40億円くらいだそうです。その程度のお金では、戦時の国家を動かすには焼け石に水でした。

富子は焼失した御所の再建に自らの蓄財をはたき、また、春日祭りの復活に力を注いだと聞いています。彼女が亡くなった時、ほとんど手元に財は残っていなかったと聞いています。

 

 

 余録  長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)の大飢饉

1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)にかけて、旱魃(かんばつ)や洪水、虫害が発生、また疫病が流行り、都だけで8万2千人の餓死者が出ました。物乞いや餓死者が都大路に満ち、死者は放置され、悪臭が漂いました。堪(たま)りかねて死者を鴨川に捨てます。時宗の願阿弥と言う僧が救民小屋を作りますが、押し寄せる窮民の数に粟粥などの補給が追い付かず直ぐにパンク。僧は救民を諦めて、川原に穴を掘り、一穴に千体とも二千体ともの死者を埋葬し始めました。

この天候不順による凶作の原因は、南太平洋にある海底火山クワエ山が、1452年から1453年にかけて数回噴火した事に依り、火山の冬が起きた事にあります。ヨーロッパでも酷い冷害と飢饉が発生しました。因みに、クワエ山の爆発の規模は、富士山の宝永噴火の10倍だったそうです。

 

余録  七五三と寿命

婆の祖母が言っておりました。七五三の祝いは命定めの祝いだったと。

昔は幼児の生存率が低く、三歳までが生存の分岐点、五歳を迎えられれば御(おん)の字、七歳になってやっと命定めが出来たと、皆で喜んだと聞いております。七五三はその節目節目の祝いだったそうです。命定めの病が「はしか」で、それを無事に乗り切れればもう大丈夫だと安心したとか。婆の祖母は明治14年生まれです。

疫痢、赤痢、麻疹、天然痘、そういう大層な病気では無く普通の風邪でさえも、昔は命を落としました。義政の兄弟の11人の内、大人になったのがたったの3人だったと言うのを見ても分かります。(参考: 89 趣味天下を制す 足利義政)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

94 応仁の乱(5) 開戦

畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごりょうがっせん))

 

蜜月から破綻へ

ここに至るまでに様々な事がありました。当初、畠山家督を巡る争いで、細川勝元山名宗全は、結束して弥三郎を支持していました。それは弥三郎が政長に代わっても同じでした。

勝元と宗全は、敵対するよりは手を結んだ方が得策と考え、勝元は宗全の養女と結婚したのです。ところが、宗全は政長支持から義就支持に鞍替えします。

宗全は、畠山義就に注目していました。兎に角、義就は強い。彼は嶽山城(だけやまじょう)の戦いの時、幕府軍を相手に孤軍奮闘で2年半も戦い抜いたのです。敵にするにも失うにも惜しい人材でした。

 

斯波義廉(しばよしかど)

1466年(文正(ぶんしょう)元年)、義廉は出仕停止処分を受け、3か国の守護職の返還を命じられました。

義廉は、舅の宗全と猛将・畠山義就が結びつけば得策と、二人の提携に向けて動きます。そんな事もあって、山名宗全は、義就を支援する事にしました。それは政長を見限り、政長を支援する細川勝元と袂を分かつ事でもありました。

 

義就上洛

1467年(文正元年12月)、義就は宗全に促され、大和から河内に回り、政長の城を次々と攻め落として上洛します。義就は義政に拝謁し、そして、将軍・義政に、政長の管領職の剥奪と畠山の家督を要求します。

翌1467年(文正2年1月6日)、義政はこれを呑んで畠山政長管領職を召し上げ、代わりに斯波義廉管領職に任じます。そして、畠山の家督と領国を義就に与えます。

政長はこの仕置に怒り心頭、自邸に火を掛け、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に陣を敷きます。政長は兵を集め、京都の緊張は一気に高まりました。

義就側も手を打ちます。宗全と義就は御所の天皇上皇親王などを室町御所にお連れして避難させ、そのまま自分達もそこに居座ってしまいました。幕府側の細川勝元は、ところてん式に室町御所を追い出されてしまいました。勝元は自邸で指揮を執ります。

 

御霊合戦

1467年(応仁元年1月18日~19日)、京都の上御霊神社畠山義就軍と畠山政長軍が衝突します。義政は宗全と勝元へ、政長と義就の衝突は私闘だからお前達は関わらない様に、と釘を刺します。宗全は義政の命令を守らず義就に加勢します。勝元は命令を守り静観します。この結果、政長は初戦で敗北してしまいます。政長は、上御霊神社に放火して撤退し、勝元邸に逃げ込みます。

この時の陣容は次の通りです。

政長軍 畠山政長、神保長誠(じんぼながのぶ(政長家臣)),遊佐長直(ゆさながなお(畠山家臣))

義就軍 畠山義就山名政豊(宗全の後継ぎ)朝倉孝景(斯波義廉家臣)

 

東軍 対 西軍

御霊合戦後、勝元は細川氏族全員に軍の動員を掛けます。山名も斯波も負けてはいません。国元に動員を掛け、京都は軍勢で溢れかえりました。御霊合戦で都が踏み荒らされた上に加えて、急激な人口の膨張で兵糧不足が発生、細川軍は山名軍の米を略奪し始めます。足利義視は義政と同じ東軍にあって、これらの略奪事件などの調停に当たっていましたが、応仁の乱が始まってから約2年後、義視は突然比叡山に逃げ込んでしまいます。

それは義政が、大赦で許した伊勢貞親を復帰させ、政権に加えたからです。「伊勢貞親」と言えば、義視誅伐を義政に具申した張本人(文正(ぶんしょう)の政変)。義視はそのような人物と同じ陣営で活動する訳には参りません。何時寝首を掻かれるか、毒殺されるか義視にとっては危険極まりない相手です。逃げるのは当然でしょう。

義視が比叡山に登ったと聞いた山名宗全は、大歓迎で義視を西軍の総大将に迎えます。

東西両陣営は次の様になりました。

 

東軍     総兵力16万

総大将    足利義政足利義尚(あしかがよしひさ)

主な武将      細川勝元畠山政長斯波義敏伊勢貞親筒井順永、

       成身院光宣(じょうしんいんこうせん)山名是豊、赤松政則

       京極持清、土岐政康、富樫政親、大内道頓、

       その他諸将多数

 

西軍     総兵力11万

総大将    足利義視(あしかがよしみ)

主な武将    山名宗全畠山義就斯波義廉、伊勢貞藤、

       越智家栄 (おち いえひで)、古市胤栄(ふるいち たねひでorいんえい)、

       一色義直、有馬元家、 京極政光、 石丸利光

       富樫幸千代(とがし こうちよ)大内政弘その他諸将多数

 

御霊合戦が第一ラウンドとすれば、第二ラウンドは同年の5月から始まります。それも、あちこちで同時多発的に起きました。

播磨国で赤松氏と山名氏、若狭国細川氏と一色氏、伊勢国では土岐氏と一色氏が戦い始めます。関東では1455年(享徳3年)関東管領上杉家と鎌倉公方の間で起きた享徳の乱が、応仁の時代になってもまだ続いておりました。

1467年5年26日、各武将それぞれが、敵方が京都に構えているそれぞれの邸宅を攻撃し、潰し合い、火を掛け合いました。邸宅は大きく、火災になれば大火災になり延焼します。翌27日に両軍が一旦引き上げた時には、この合戦で船岡山から二条通り迄焼失したそうです。

新たに西軍に大内政弘が参陣し、戦線は次第に拡大して行きます。武将の館ばかりでなく、三方院、南禅寺相国寺、稲荷社の堂塔伽藍が全て焼亡しました。東軍有利だったのが西軍有利に展開する様になりました。

焼け野原になった京都での陣取り合戦が膠着状態になり、戦闘はむしろ下火になり、その分、戦火は地方に広がって行きました。

 

 

余談  細川勝元正室

細川勝元正室山名宗全の養女です。この養女の本当の父親は嘉吉の乱の時、赤松満祐邸で将軍・義教(よしのり)と共に殺された山名煕貴(やまなひろたか)です。山名煕貴は石見国(いわみのくに)守護大名で、義教の近習でした。彼は赤松邸での事件で即死しています。宗全は遺された二人の姫を引き取り養女にしました。そして、一人を大内教弘正室に、もう一人を細川勝元正室にしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

93 応仁の乱(4) 乱の前夜

室町幕府の政治体制はピラミッドの様な三角形をした支配体制の形ではありません。言うなれば、頂上がなだらかな丘の様になっていて、三管領四職の大名や重臣達の評議制の上に成り立っていました。将軍は一見その上に君臨している様には見えますが、将軍職と言うものは彼等が担いでいる御神輿に過ぎず、弱い存在でした。その最大の原因は、室町幕府の経済的基盤が弱かった事にありました。

 

弱い幕府

鎌倉幕府室町幕府の財政を比べてみると、鎌倉幕府承久の乱で没収した膨大な領地を得る事が出来、関東甲信越8か国を知行国にしました。また、潤沢に御家人達に分け与える事も出来ました。室町幕府建武の親政時に出来た幕府で、後醍醐天皇は公家に手厚く荘園を与え、武家には薄く配分しましたので、鎌倉幕府よりはずっと少なかったのです。

3代将軍・足利義滿の時、勘合貿易で利益を得て、経済的に豊かになり余裕も出てきました。が、4代将軍・義持が明との朝貢貿易を廃し、御料地と土倉(=高利貸・質屋) や酒屋からの税収、関銭(通行料)、津料(港使用料) 等の収入に頼る様になると、途端に歳入が不安定になりました。例えば土一揆で徳政令を出すと、土倉や酒屋が潰れそうになり、幕府の税収が減りました。戦乱と飢饉と疫病に苦しめられていた庶民は徳政令を頻繁に要求しました。

朝鮮使節尹仁保(いんじんほ) が出した朝鮮への報告書には、日本の事を『国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ』と書いてあるそうです。

 

策謀と言う武器

将軍は、経済力で諸大名に対抗できず、威令も蔑(ないがし)ろにされる様になる中、将軍家は様々な手を打って将軍の権威を高めようとしました。その手とは権謀術策の数々です。

1. 将軍家に対抗する可能性のある人物を潰す。 2. 内紛を起こさせて大名の勢力を削(そ)ぐ。 3. 利害が反する国同士を戦わせる。4. 強引に圧伏する・・・などなど。

結果は、将軍の権威は挙がらず却って下がり、世が乱れました。その混乱に大名達の欲と思惑が重なり、てんでんに皮算用をしながら、戦い始めます。

 

畠山氏の後継ぎ問題

畠山持国は、将軍・義教(よしのり)の怒りに触れて家督も領国も弟の持永に替えられてしまいました。

1441年(嘉吉元年6月24日)、義教が暗殺された翌日25日の評定で、義教によって失脚させられた者達の赦免が行われ、持国も赦されました。持国は直ちに弟・持永を攻撃して討ち取り、家督と領地を奪い返します。

1442年(嘉吉2年)、嘉吉の乱の張本人・赤松満祐(あかまつ みつすけ)の討伐が一段落すると、細川持之(ほそかわ もちゆき)管領職を辞し、替わりに畠山持国管領職を引き継ぎます。持国は8代将軍に義政を推し、彼を将軍職に就けます。その功のお蔭で持国は権勢並びのない者になります。

畠山持国は弟の持冨(もちとみ)を後継者に定めていました。ところが、後継者を定めた後に遊女との間に子供が出来ました。彼は心変わりして持冨を廃嫡し、その子を跡取りにしました。

持国を取り込みたい将軍・義政は、この変更を裁可します。その子は名前を義夏と言い、更に義就(よしひろorよしなり)と改めます。持冨は廃嫡されて4年後、失意の内に病気で亡くなってしまいました。(参考:91 応仁の乱(1) お家騒動)

 

弥三郎政久  vs  義就

収まらないのは持冨の家臣達です。元遊女の側室から生まれた義就が、本当に殿の子かどうかを家臣達は疑っていました。その側室には他にも二人子供が居て、二人とも父親が違っていました。家臣達は持豊の遺児・弥三郎政久こそ本来の後継ぎだと言い立てます。

1453年(享徳3年8月21日)、弥三郎支持派が持国の屋敷を襲撃します。義就は伊賀へ逃げます。

1454年(享徳3年4月3日)、持国は弥三郎を支持する家臣・神保国宗(じんぼ くにむね)を誅殺し、弥三郎派を一掃します。が、細川勝元山名宗全などが弥三郎を支持し、弥三郎政久とその弟・政長兄弟を保護します。この件で勝元と宗全は持国の責任を追及し、持国を失脚させます。勝元は宗全の養女を正室に迎えており、勝元と宗全は持国追い落としに結託したのです。

義就が伊賀に逃れている間に弥三郎は復権しますが、義政は、勝元と宗全を牽制する為に伊賀に逃げた義就を呼び寄せ、弥三郎を没落させてしまいます。そして、

1455年(享徳3年3月26日)、畠山持国が亡くなり、畠山義就家督を継ぎます。弥三郎は大和へ逃れます。

 その頃、大和では「大和永享(やまとえいきょう)の乱」と呼ばれる大乱が1429年(永享元年)から25年以上も続いていました。発端は奈良の興福寺の支院・大乗院と、同じく興福寺支院・一乗院の両者の覇権争いでした。興福寺成身院光宣(じょうしんいん こうせん) は6代将軍・義教に援軍を要請、以後義教が死亡した後も泥沼の戦いと化していました。義教死亡で復権した河内国守護・畠山持国が大和への勢力拡大を図っていた、と言う様な歴史がそこにはありました。

1454年、畠山家でお家騒動が発生すると、光宣と弟の筒井順永は弥三郎を支援しましたが、義就側に就いた越智家栄(おち いえひで)に敗れ、光宣は逃亡しました。

その後義就は、義政の上意と嘘をついて大和の弥三郎派の弾圧を開始、軍事行動を起こします。更に義就は上意と嘘をつき細川勝元の所領山城国を攻撃します。勝元は義就の排除に動きます。

上意詐称を何度もする義就は、義政からの信用をすっかり失ってしまいます。義政は、義就を放逐、義就の所領を没収し、更に、義就に協力的だった大和の国人達の所領を没収してしまいます。そして、弥三郎政久は赦されますが、1459年、彼は亡くなってしまいます。

 

政長  vs  義就

 弥三郎が亡くなった後、弟の政長は、畠山家の家臣の遊佐長直(ゆさ ながなお)神保長誠(じんぼ ながのぶ)と、成身院光宣の支持を受けて弥三郎の跡を継ぎます。そして、勝元、光宣、畠山家臣団に擁立されて、畠山家の家督を継ぎます。政長は大和の義就派の残党の一掃に勤めます。幕府は義就追討令を出します。

1460年(長禄4年or 寛正(かんしょう)元年)5月、義就は河内国嶽山城(だけやまじょう)(現大阪府富田林(とんだばやし))に立て籠り、徹底抗戦します。

勝元は細川氏一族、山名氏など諸大名と討伐軍を組んで義就と戦いますが、なかなか決着がつかず、ようやく2年半後に嶽山城は陥落しました。義就は吉野へ逃れました。

勝元は戦いに勝利し、勢いを増しました。ところが、元は協力関係にあった勝元と宗全でしたが、宗全は増大し始めた勝元の派閥を警戒します。これ以上細川勝元を拡大させてはならないと、宗全は勝元を追い落としに掛かります。

畠山政長管領に就任します。

 

義政の子の誕生と義視

1464年12月24日(寛正(かんしょう)5年11月26日)、義政は弟・義視(よしみ)を説き伏せて還俗(げんぞく)させます。

義視は初め説得に応じませんでした。彼は、兄・義政が30代で若く、まだ子供が授かる年齢である事、子供が生まれた場合には自分が家督争いに巻き込まれる事などを懸念、中々承知しなかったのです。義政は自分に子供が生まれても将軍職は子供に継がせず義視に継がせると約束をし、ようやく承諾させたのです。間もなく、義政の妻・富子の妊娠が分かります。富子はそれを承知で、実の妹・良子を義視と結婚させます。

1465年12月11日(寛正6年11月23日)、義政と富子の間に子が生まれます。子の名は義尚(よしひさ)です。義尚は晩年に義煕(よしひろ)と名前を変えます。義政は義尚の養育係に伊勢貞親(いせ さだちか)を付けました。伊勢貞親は、かつて幼少の義政を養育した人物です。義政と貞親の絆は強く、貞親を得て義政は親政の度を深めていきます。

貞親は1466年、斯波氏の家督相続に介入し、山名宗全細川勝元が支持している斯波義廉(しば よしかど) から家督を取り上げ、斯波義敏(しば よしとし)家督を与えました。加えて義敏に越前・尾張遠江(とうとうみ)を与え、更に、義廉を討つ様に命じています。こうして宗全と勝元を牽制しました。

 

文正(ぶんしょう)の政変

1466年、貞親は義視の排除を画策します。貞親が養育している義尚の将来に義視は禍根でしかなく、義尚の安全の為にどうしても義視を殺害しなければならない、と貞親は考えました。貞親は義視に謀反の動き有りと噂を流します。

1466年(文正元年9月6日)、貞親は義政に、義視を誅殺する様に訴えます。義視は勝元の下に逃げ込みます。伊勢貞親は讒言の罪を問われて追われる身となりました。貞親に与(くみ)していた季瓊真蘂(きけい しんずい)斯波義敏赤松正則も失脚しました。義敏の失脚により、斯波家の家督斯波義廉に戻されました。(文正の政変)

1467年(文正元年12月) 畠山義就が軍を率いて上洛、義政に拝謁し、畠山政長管領辞職と畠山邸の明け渡しを要求します。

1467年(応仁元年元日)、義就、義政から赦免され、畠山氏の家督を継ぎます。

1467年(応仁元年1月5日)、畠山政長管領を罷免され、斯波義廉管領になります。

1467年(応仁元年1月18日)、義就と政長は京都の上御霊神社で対峙し、戦いを始めます。(→ 御霊合戦(ごりょうがっせん)or上御霊神社の戦い(かみごりょうじんじゃのたたかい))

義就と政長の両者の戦いに、各守護大名達が参戦します。応仁の乱の勃発です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

92 応仁の乱(3) 序章

(な)れや知る都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)

       あがるを見ても落つる涙は      飯尾常房(いいお つねふさ)

応仁の乱で焼け野原になった都。婆の目には、終戦直後疎開から帰って来た時の東京の景色が、朧気ながら重なって目に浮かびます。

飯尾常房細川成之(ほそかわ しげゆき)の家臣です。彼は青蓮院(しょうれんいん)流書道を究め、飯尾流の書を始めた流祖で、歌人です。その能力を買われ、足利義政の祐筆(ゆうひつ)を務めました。

大乱はいきなり始まるものではありません。そこに至る迄の下地があり、序章があります。応仁の乱の始まりは1467年の、語呂合わせで言えば『人の世空しい』年から始まりますが、ここではいきなり1467年から書き起こすのではなく、足利尊氏から始まる権力闘争に目を向けて、簡単に初めから触れて行きたいと思います。

 

初代将軍・足利尊氏

尊氏には弟・直義(ただよし)が居ました。非常に優秀な弟でした。北条時行の起こした中先代の乱では、尊氏は直義を救援しましたが、高師直と直義が対立して起こした観応の擾乱(じょうらん)の時は、直義を殺し、直義の養子(実は尊氏の実子)・直冬(ただふゆ)も殺します。

 

2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)

南朝北朝の間で揺れ動く家臣が多く、家臣同士の争いも絶えませんでした。尊氏が薨去(こうきょ)すると細川清氏管領になります。清氏は幕閣と摩擦を起こし、仁木義長(にき よしなが)南朝に下ります。義詮は清氏を失脚させ、清氏に追討令を出します。清氏は南朝に下り、更に讃岐(さぬき)に逃げて、従兄弟の細川頼之(ほそかわ よりゆき)によって討たれます。義詮は管領斯波義将(しば よしゆき)を任命、義将が失脚すると細川頼之管領にして、幼少の嫡男・義満を託して薨去します。

 

3代将軍・足利義満

斯波氏や土岐氏に強要され、義満は管領細川頼之を罷免、斯波義将管領になります(康歴(こうりゃく)の政変)。

[守護弱体化策1]  土岐氏を弱体化させる為に、兄弟同士で戦う様に仕向けます。

義満は、3か国領知の土岐康行(とき やすゆき)から尾張一国を召し上げて、康行の弟・滿貞(みつさだ)へ与えました。滿貞は尾張を受け取りに行くも、既に尾張守護代になっていた弟の詮直(あきなお)と合戦になり、滿貞は敗走します。滿貞は康行と詮直の謀反を言い立てます。それを待っていた義満は康行討伐を命じます。康行は負け、尾張守護職は滿貞が就きます。明徳の乱の時、義滿は土岐滿貞の守護職を罷免します。義満は、兄弟喧嘩を誘発させて双方を自滅させました。土岐氏の没落は、やがて美濃守護代・斎藤氏の台頭を招き、斎藤道三へと繋がって行きます。

[守護弱体化策2]  大内氏を崩壊させる為に同族同士で争わせ勢力を削ぎます。

[守護弱体化策3]  山名時煕(やまな ときひろ)山名氏之(やまな うじゆき)を討伐せよと、同族の氏清滿幸に命じます。時煕と氏之は敗走、討手の氏清には但馬(たじま)を、滿幸には伯耆(ほうき)が与えられました(明徳の乱)

しかし、翌年の1391年(明徳2年)、滿幸は上皇の所領を押領した罪で放逐されます。滿幸は氏清を誘い幕府に反抗、氏清は戦死、滿幸は逃亡の末殺害されました。明徳の乱で敗走した時煕と氏之は雌伏後復帰、時煕流が家督を継いで行きます。時煕嫡子・持豊(宗全)の代に、旧領回復の動きが活発になり、更に争いの火種が延焼して行きます。

 

4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)

[対抗馬を潰す]  父・義満は弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛しており、弟の義嗣は義持の将軍位を脅かす存在でした。父没後に関東で上杉禅秀の乱が起きます。義持は鎌倉公方足利持氏(あしかが もちうじ)を援(たす)け、首謀者の一人と見られる義嗣を捕縛、幽閉後殺害します。持氏はその後も関東平定の為、乱に加担したと言う名目で関東扶持衆(将軍直臣)に弾圧や討伐を行い、次第に義持と対立して行きます。義持は持氏討伐軍を発しようとしますが、持氏が謝罪、沙汰止みになりました。

 

5代将軍・足利義量(あしかが よしかず)

足利義量は将軍位に就くも、父・義持よりも早く亡くなりました。享年19歳。

 

6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)

[圧伏]  くじ引き将軍・義教は延暦寺と対立。彼は兵を持って延暦寺を攻め、屈服させます。24人の僧が根本中堂に火を放って焼身自殺。これに抗議します。

[対抗馬を潰す]  先々代義持の時から懸案であった鎌倉公方・持氏の排除に動きます。持氏と関東管領上杉憲実(うえすぎ のりざね)との間に亀裂が入った機を狙い、義教は持氏討伐の軍を発し、持氏を滅ぼします。

[対抗馬を潰す]  大和の国人達の間で争乱が続いており、弟の義昭(よしあき)がこれに関与していると見て義教は討伐軍を派遣、越智(おち)箸尾(はしお)を討ちます。義昭は逃亡し、四国から九州へ逃げますが、薩摩で捕えられ自害しました。

[守護弱体化策]  義教は、有力守護大名家督相続に口を挟み、自分の気に入った者、自分の意の儘になる者を後継者に指名し、混乱を起こさせます。その餌食になったのが、斯波氏、畠山氏、京極氏、富樫氏、今川氏などです。義教の命により土岐持頼は大和出陣中に誅殺され、一色義貫(いっしき よしつら)親子も武田信栄(たけだ のぶひで)に暗殺されます。信栄も2か月後に殺されます。

1441年(嘉吉元年6月24日)、赤松満祐は結城合戦戦勝祝いの宴席を設け、その席で義教を暗殺します。

 

7代将軍・足利義勝

義勝は義教の長庶子で、父死亡後9歳で跡を継ぎます。将軍在位8か月で亡くなります。

 

8代将軍・足利義政

義政は義教の5男、義勝の同母弟です。幼くして将軍職に就きますが、14歳の頃から管領細川勝元の助けを借りながら政務を執り始め、近臣や女房衆が彼の周りを取り囲みます。

[対抗馬を潰す]  鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)関東管領上杉憲忠(うえすぎ  のりただ)を謀殺、義政は討伐軍を派遣し鎌倉を制圧、成氏は古河(こが)に逃れます(享徳の乱)。成氏は古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。

義政は兄・政知(まさとも)鎌倉公方に任命します。が、政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越(ほりごえ)に留まります。政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれます。

[守護弱体化策]  畠山持国庶子・義就(よしひろ)と甥の政久(=弥三郎)家督争いが起きます。義政が義就を家督者にします。細川勝元山名宗全は政久を支持します。義就が義政の命令を聞かず、細川勝元の所領山城国を攻撃し、義就が失脚します。政久死後、弟の政長が義就に代わり畠山の家督を継ぎ、管領に就任します。

さて、これから先、義就の逆襲が始まり、義就と政長の死闘が始まります。また、それぞれの守護大名が抱えているお家の事情や思惑、婚姻による派閥など集合離散の連続になります。

将軍家は人事権を振り回して守護達の力を削ぐ努力をして来ました。義政の先代も先々代も、義政自身もそうして将軍の力を強めようと努力してきました。義政の代になって、その成果を刈り取る時期が来た筈ですが、時すでに遅し、野焼きの火は消し様も無く大きくなり、大森林火災となって日本中を覆い尽くしていたのです。

 

 

余談  還俗(げんぞく)

 還俗はゲンゾクと読みます。カンゾクではありません。普通「還」はカンと読みます。けれども、お寺や仏教に関する用語では特殊な読み方をする場合があります。カンゾクと辞書で引くと、漢族、姦賊、奸賊、官賊、貫属と言う言葉が出てきます。ゲンゾクで引くと「還俗」が出てきます。

婆は今まで字が読めなくて随分恥ずかしい思いをして来ました。例えば「安芸」ですが、50過ぎるまで読めませんでした。「アキノミヤジマ」という言葉は知っていましたが、宮島の紅葉は有名だから「秋の宮島」だと思っておりました。「安芸」とは結び付いていなかったのです。そんな事が沢山ありました。今でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

91 応仁の乱(2) 続・お家騒動

前項で、富樫氏、小笠原氏、六角氏、畠山氏、斯波氏を取り上げました。

ここでは土岐氏、赤松氏、山名氏を取り上げたいと思います。

 

土岐氏の場合

1342年(康永元年) バサラ大名・土岐頼遠(とき よりとお) が、光厳(こうごん)上皇の牛車に無礼を働いて捕らえられ、六条河原で斬首されました。ただ、それまでの幕府への貢献が大でしたので、当主死罪のみでお家断絶を免れ、甥の土岐頼康(とき よりやす)家督が継承されました。

土岐頼康は「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)「男山八幡の戦い」でも常に尊氏側で参戦、足利義詮後光厳天皇を奉じて京都を脱出した時も、美濃に仮御殿を造営して迎えています。そのような事から土岐氏は幕府の宿老として重きをなし、美濃・伊勢・尾張の守護になりました。けれども土岐氏の勢力増大を恐れた義満は、土岐氏を弱めるべく内紛の種を仕掛けます。

1388年(元中(げんちゅう)4年)嘉慶(かけい or かきょう)元年)、土岐頼康が亡くなると、義満は土岐康行(とき やすゆき)が継いだ美濃・伊勢・尾張三国の内の尾張一国を召し上げ、康行の弟・滿貞に与えました。それを不服として康行は挙兵しますが、幕府の討伐軍に負けてしまいます(土岐康行の乱)。結果、康行は美濃・伊勢の領国を失います。そして、美濃は叔父の土岐頼忠(とき よりただ)へ、尾張土岐滿貞(ときみつさだ)へ、伊勢は仁木(にき or にっき)へ与えられました。

 1391年(明徳2年)明徳の乱の時、康行は幕府側で参戦、その戦功で伊勢の守護に復帰します。一方、滿貞は尾張を召し上げられて没落しました。尾張は斯波氏に与えられました。康行が土岐康行の乱で敗けて没落した時、土岐氏の庶流の多くは康行に従いました。その為、美濃国守護になった叔父の土岐頼忠は、外様の斎藤氏富島氏守護代に登用、やがて、彼等は争いを起こし美濃国を戦乱に陥れます。この争いに斎藤氏が勝ちます。斎藤氏は守護の土岐氏を蔑(ないがし)ろにして美濃の実権を握る様になります。

 

赤松氏の場合

赤松則村(あかまつ のりむら(円心))元弘の乱の時、宮方で戦い数々の武功を挙げ、播磨(はりま)の国の守護になりましたが、後醍醐天皇の論功行賞に不満だった彼は、以後足利尊氏側に立って戦う様になります。

九州へ落ちた尊氏を追撃する新田義貞の6万の軍を、則村は僅か2千の兵で迎え撃ち、 2ヵ月間釘付けにしました。尊氏はその間に九州で盛り返し、京都目指して東進します。則村は湊川楠木正成を破り、その功で、播磨摂津(せっつ)の守護になりました。

1391年(明徳2年)、将軍・足利義満の代の時、山名氏明徳の乱を起こします。この反乱の鎮圧に赤松氏も出陣し、功を挙げて、美作(みまさか)の守護の座を手に入れます。

 1427年(応永34年)、将軍・義持赤松満祐(あかまつ みつすけ)播磨国を没収して、愛する赤松持貞(あかまつ もちさだ)へ与えました。満祐は幕府に腹を立て、屋敷に火を放って領国に帰り、籠城します。義持は激怒。満祐の残る二つの領国を取り上げ、美作を赤松貞村(あかまつ さだむら)へ、備前赤松滿弘(あかまつ みつひろ)へ与えます。そして、満祐討伐の命を下します。美作や備前を貰った貞村と満弘は出兵しますが、一色義貫(いっしき よしつら)は出兵を拒否します。

ところが、にわかに持貞と義持の愛妾との密通事件が持ち上がり、持貞は義持の逆鱗に触れ切腹させられました。この為、赤松満祐討伐の件は立ち消えになりました。この事件は、管領畠山滿家が赤松満祐を討伐から救う為に仕組んだ工作だったとか・・・

その後、将軍・義教(よしのり)の代になると、満祐は粛清の影に怯(おび)える様になり、ついに1441年(嘉吉(かきつ)元年)、義教を暗殺します。

赤松満祐は討伐軍を迎え撃つ為、播磨の坂本城に戻ります。世間は、理不尽な理由で追討される赤松氏に同情的で、討伐軍に加わる者達の士気は低く、動きは緩慢でした。逆に赤松氏の領地を狙っていた山名氏一族の軍は意気盛んでした。

討伐軍は坂本城を、摂津、但馬、美作からと、三方から攻めました。

1441年9月、満祐は坂本城を捨て、城山城に籠城しましたが力尽き、嫡子の教康(のりやす)や弟の則繁(のりしげ)義雅(よしまさ)、孫の千代丸など17人を城から脱出させ、満祐自身と残存した69名は自害しました。弟の義雅は城を脱出した後に敵方に居た赤松満政に投降、千代丸を満政に託して義雅は自害します。千代丸は赤松滿政によって匿(かくま)われ、寺に入ります。千代丸は成人して赤松時勝と名乗ります。時勝の子の政則の代になり赤松家は再興され、播磨・美作・備前と加賀半国戦国大名になります。

 

山名氏の場合

山名氏は清和源氏の流れを汲む新田氏の一門です。山名氏は長い間鳴かず飛ばずの時を過ごしましたが、新田義貞が挙兵した時、山名氏は惣領の新田氏に従い討幕運動に身を投じます。山名時氏は初め新田軍で参戦しましたが、箱根竹之下の戦いの途中で足利尊氏に寝返ります。

世渡り上手と申しましょうか、時には南朝方に与(くみ)して京都に攻め入ったり、足利直冬(あしかが ただふゆ)に加担して足利義詮と対抗したりして色々ありましたが、最後は因幡伯耆丹波・丹後・美作を安堵する事を条件に、足利幕府に帰順します。

山名氏は日本全国66ヵ国の内、丹後、伯耆(ほうき)紀伊因幡(いなば)丹波、山城、和泉、美作(みまさか)、但馬、備後(びんご)、播磨(はりま)の11ヵ国を領していました。実に国の六分の一に当たりますので山名氏は別名「六分一殿」と呼ばれていました。

3代将軍・義満は、強大な山名氏の力を削ぐ策を練ります。

 義満は、山名氏清滿幸(みつゆき)に、不遜な時煕(ときひろ)氏幸(うじゆき)を討伐せよとの命令を下します。氏清は甥の氏幸を、滿幸は従兄弟の時煕を討ちに行きます。時煕と氏幸は赦しを乞い、許されますが、義満は更に同族内が不和になる様に仕向けます。

1391年(明徳2年)、氏清滿幸義理(よしただ or よしまさ)と共に、幕府に余りの理不尽な遣り方に反発し、叛旗を翻して明徳の乱(内野(うちの)合戦)を起こします。氏清は討死し、滿幸は敗走、義理は出家しました。

明徳の乱によって、山名氏が持っていた領地は守護大名達の格好の猟場となりました。最終的に山名氏の手元に残ったのは3ヵ国でした。

因みに山名氏の領有していた国は次の様に再配分されました。

丹後 → 一色詮範   紀伊 → 大内義弘   和泉 → 大内義弘

丹波細川頼元   山城 → 畠山基国   美作 → 赤松義則

出雲 → 京極高詮   伯耆 → 山名氏之   因幡 → 山名氏家

但馬 → 山名時煕

1339年(応永6年)、幕府の理不尽な内政干渉に追い詰められた大内義弘は、幕府に対して反乱を起こします。応永の乱が勃発します。

この乱によって山名時煕は功を挙げ、備後・安芸・石見の3か国の守護になりました。

大内氏の勢力拡大を懸念した幕府が、その押さえに山名氏を配置する必要から、山名氏に3か国を与えたのでした。山名氏の勢力を削ぐために明徳の乱を起こさせて山名氏を没落させたのに、今度は大内氏の抑えに山名氏を利用しているのです。

1404年(応永11年)山名時煕に男子が生まれます。後の持豊(もちとよ)(=山名宗全)です。彼は10歳で元服します。長兄を差し置いて次兄・持煕(もちひろ)が後継ぎに指名されます。この指名は将軍・義教自らが決めました。長兄はその後早世します。なので、次兄・持煕がすんなりと家督を継ぐと思われましたが、持煕は義教の勘気を蒙り廃嫡されてしまいます。そこで3男の持豊が父の死後に、父の持っていた備後・安芸・石見の領地と共に家督を継ぐ事になります。廃嫡された持煕がこれに不満を抱き、挙兵しました。持豊は兄を討ち、山城の守護にもなりました。

1441年(嘉吉元年)、赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺する事件が起きます。当日、山名持豊も赤松邸の宴席に居ましたが、いち早く逃げました。

彼は赤松満祐討伐の総大将になります。討伐に出発する前から、持豊は京都で略奪・乱暴を働き顰蹙(ひんしゅく)を買いますが意に介せず、更に討伐軍を動かす前に先遣の守護代を播磨に送り込み、押領してしまいます。この戦いで大功を挙げ、持豊は播磨を獲得。父から相続した3か国と山城と播磨を加えて5か国の守護になりました。また、一族の得た石見、美作、伯耆備前因幡と合わせると10ヵ国になり、以前の勢力をほぼ回復した事になります。

持豊は嘉吉の乱で殺された山名煕貴(やまな ひろたか)の二人の娘を猶子にして、一人を細川勝元に嫁がせ、一人を大内教弘に嫁がせ、縁戚関係を結びます。この様にして押しも押されぬ地位を確保、畠山持国を失脚させます。

将軍・義政山名持豊を討伐しようとしますが、細川勝元のとりなしで持豊が隠居する事で何とか丸く収めました。やがて、再び山名宋全(=持豊)が政治に復帰すると、幕府内の主導権争いが過熱してきます。

 

余談  内野(うちの)、大内

「内野」は野球のナイヤではありません。御所の敷地内の事を指します。大内と言うのも御所の敷地内の事を指します。大内守護は、その敷地内の警護をする役目です。源三位頼政や、承久の乱で討たれた源頼茂も大内守護です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

90 応仁の乱(1) お家騒動

応仁の乱は複雑過ぎて全体像を理解するのがなかなか難しいです。

そこで、こんがらかった糸を解きほぐす為に、それぞれの各守護大名の家庭の事情を集めたいと思います。その上で、それらがどの様に絡み合って行くのかを、見てみたいと思います。

先ずは富樫(とがし)氏から

富樫氏の場合

加賀国守護・富樫氏春が亡くなると遺児・竹童丸が跡を継ぎます。竹童丸はまだ幼く、この機に乗じて佐々木道誉加賀国を斯波氏に与えようとしました。それを細川清氏が抑え込み、竹童丸が受け継いだという経緯があります。竹童丸は元服して富樫昌家(とがし まさいえ)と名乗り、加賀国の守護になりました。これにより、富樫氏は細川氏と密接に結びつきます。

富樫氏は幕命の様々な賦役を真面目にこなし、忠勤に励みました。富樫邸に足利義満の渡御(とぎょ)の栄誉を得た時は、引出物が10万疋に及んだそうです。(※疋は反物や銭の数え方。徒然草の時代では1疋=10銭だったとか。時代によって銭貨が違っています。) 富樫氏は細川氏へも大いに贈物をし、太いパイプをつなぐ様に努力しました。

しかし、1379年、康歴(こうりゃく)の政変が起き細川頼之(ほそかわ よりゆき)が失脚、代わりに斯波義将(しば よしゆき or しばよしまさ)管領になりますと、富樫昌家の立場は途端に弱くなりました。(義将の読みは正式には「よしゆき」です。)

1387年、昌家が亡くなると家督は弟の滿家に継承されましたが、管領斯波義将は、滿家を罷免し、自分の弟の斯波義種(しば よしたね)加賀国の守護に任じました。

富樫滿家の子・滿成(みつなり)は足利将軍・義持の寵愛を受けていました。斯波滿種が義持の勘気を蒙って失脚後、加賀国の半国の守護に任じられ、先祖の土地に返り咲き、勢力を盛り返します。

1416年に上杉禅秀の乱が勃発した時、謀反の疑いで幽閉された足利義嗣を滿成が取り調べ、調書を幕府に報告します。その調書から謀反の大規模な全容が判明、滿成は義持の密命を帯びて義嗣を暗殺しました。が、滿成自身の不祥事が発覚、畠山滿家によって1419年に滿成は殺害されます。(参考:86 足利義持上杉禅秀の乱)

加賀南半国を領していた滿成の土地は、加賀北半国を領していた兄の三春が受け継ぎ、結果的に兄の富樫滿春が加賀一国の守護となりました。

 

小笠原氏の場合 

小笠原氏は清和源氏源頼義を源流とする信濃源氏の祖・小笠原長清から発しています。

安達泰盛平頼綱(=平禅門)の権力闘争で起きた霜月騒動(1285年)の時は、騒動が全国に波及して信濃国も巻き込まれ、伴野彦二郎(小笠原氏)が自害しました。

北条氏の鎌倉幕府討幕運動では足利尊氏側で出陣し、戦功をあげて信濃守護に任じられました。長い間、信濃は北条氏の知行地でしたので北条親派が多く、建武の新政に不満を抱く国人領主らは北条高時の遺児・時行を担いで1335年挙兵、中先代の乱を勃発させます。その時、信濃守護・小笠原貞宗が鎮圧に乗り出しますが形勢不利、北条時行の鎌倉進撃を許してしまいます。守護職は降ろされ、代わりに斯波氏が信濃守護になります。再度小笠原氏が信濃守護になったのは1399年の事でした。しかし、信濃の国人達は小笠原長秀の高圧的な態度に反発、軍を起こして反抗します。「大塔(おおとう)物語」によると、小笠原長秀の軍は800騎、信濃国人衆の軍勢は併せて2,800騎、これに徒士(かち)などを加えれば、約4千余対約1万余の対決になったそうです。小笠原氏は敗北、彼は守護職を解かれ、信濃細川氏を代官として幕府直轄領になりました。この戦いの中に実田(さなだ)氏の名前が見えるそうです。実田氏はその後の真田氏ではないかと、見られているそうです。
信濃は京都の幕府の勢力圏と、鎌倉府の勢力圏の接する所であり、また、信濃国人衆は独立志向が強い地域でもあり、上から支配の難しい所でもあります。

六角氏の場合

六角氏は近江源氏の佐々木氏の流れを汲む嫡流です。「六角氏」の六角は、京都の「六角堂」傍に住んだ事に由来します。後に近江の佐々木庄に移りました。

六角氏は嫡流が六角家、庶流が京極家、大原家、高島家と分かれます。京極佐々木家に高氏(京極高氏佐々木道誉)が出て、そちらの方が栄えて幕府の要職に就き、本家六角家と対立する様になります。佐々木道誉の様に直接幕府に仕えて権勢を誇る者が居て、近江の守護・六角氏の言う事を聞かず、領国経営に苦労します。

六角道綱(ろっかく みちつな) には長男の持綱(もちつな)、次男の時綱(ときつな)、三男の周恩が居ました。

1446年、次男の時綱が国人衆に担がれて父と兄に反逆、道綱と持綱は敗れて自害しました。相国寺の僧侶だった周恩が幕命により還俗して名を久頼(ひさより)と改め、次兄・時綱を討ち滅ぼしました。この時佐々木持清(もちきよ)が久頼を援(たす)けました。久頼はこうして六角家の本家を継ぎましたが、久頼と持清との間に軋轢が生じ、久頼は憤死してしまいます。

久頼の遺児・亀寿丸(後の行高=高頼(たかより))は、六角政堯(ろっかく まさたか)の後見を得て近江守護になります。この六角政堯は、時綱の子です。亀寿丸は守護職を継いだものの幕命により追放され、後釜に六角政堯が座ります。が、2年後、政堯も廃嫡され、家督は再び亀寿丸に戻されました。

応仁の乱の時、政堯と亀寿丸(=高頼)は東軍、西軍に分かれて戦います。

 

畠山氏の場合

 畠山氏は河内、紀伊越中、山城の守護です。1449年管領職も務めます。

1440年、関東の諸将が鎌倉府の足利持氏(あしかが もちうじ)の遺児を擁立し、幕府に叛旗を翻しました。いわゆる結城合戦です。その時、幕府は討伐軍を関東へ差し向けましたが、畠山持国(はたけや まもちくに)は出陣を拒否しました。その為に、将軍・義教が激怒、持国を追放し、弟の持永(もちなが)へ畠山の家督を与えました。

1441年、嘉吉の乱が起こり、将軍・義教(よしのり)が暗殺されてしまいます。持国は直ぐに兵を挙げ、弟・持永を攻めて討ち取ってしまい、家督を奪還します。

義教の遺児・三寅(みつとら)が8歳で将軍に推された時に管領だったのは、畠山持国でした。三寅は14歳の時元服して義政となり、8代将軍を継ぎます。持国はその頃行政手腕を発揮し、権勢を振るいました。 

持国には子供が無かったので、別の弟の持冨(もちとみ)を養子にします。ところがその後、持国の側室に子が出来ました。この側室は「桂女(かつらめ)」と言って、元は春をひさぐ遊女だったのです。(「桂女」は遊女の隠語」) 彼女は他の男との間にも子を成しています。持国は子の母が卑しい身分なので、当初はその子を石清水八幡宮の僧にする積りでしたが、途中で気が変わり、持冨を後継ぎから外し、この子を後継ぎにします。この子が後の義就(よしひろ)です。持冨はこれを受け入れ、従います。持冨はその後病死しました。

持冨の家臣達は、後継ぎが義就に挿し替わるのに納得しませんでした。義就が本当は持国の子なのかどうか疑問が持たれていました。彼等は持冨の子・弥三郎を擁立して反抗、この争いに細川勝元山名宗全、畠山義忠が口を挟みます。

 

斯波氏の場合

斯波(しば)氏は越前、尾張遠江(とおとうみ)守護大名です。斯波氏は古文書などで「斯波」と書かれる事は無殆ど無く、武衛家(ぶえいけ)とか勘解由小路(かでのこうじ)とかで名前が出ています。「志和」の時も有ります。斯波の名前は、鎌倉時代陸奥国斯波郡(岩手県斯波郡)を領していた事に由来します。

「武衛」と言う名の通り、武をもって国を衛(まも)る官職で、元は唐の官職名です。武衛督(ぶえいのかみ)兵衛府の最高長官です。足利尊氏直義(ただよし)、初代鎌倉公方基氏(もとうじ)が武衛督になりましたが、その後は斯波氏が受け継いでいます。斯波氏は足利氏の嫡流です。けれども、時の政権に反抗して庶流にされてしまいました。以後その地位に甘んじていますが、誇りが高く、足利一門筆頭の家格を持ち、他の足利庶流とは別格の扱いになっています。

1452年(享徳元年)、斯波氏本家9代当主・斯波義健(しば よしたけ)が18歳で亡くなりました。そこで、斯波氏の分家・大野持種(おおの もちたね(斯波持種))の子・義敏(よしとし)が10代目を継ぎました。

義敏は父・持種と、守護代甲斐将久(かい ゆきひさ(=甲斐常治(かい じょうち))の補佐を得て守護の務めを果たしていきますが、甲斐将久の横暴が激しく、将久を抑える為に義敏は幕命に背き私的都合で越前に出兵、その為、家督を取り上げられてしまいます。そして、11代目の家督は義敏の子の松王丸に与えられました。2年後、将軍・義政は松王丸を追放、12代目に遠縁の斯波義廉(しば よしかど)を当てます。

義政生母逝去で義敏は恩赦されます。すると義敏は義廉から家督を奪い13代目に就きます。家督を奪われた義廉は舅の山名宗全を頼り、一色氏、土岐氏も味方して14代目当主の座を義敏から義廉が奪取、また更に争い15代目義敏が就きます。この騒動に将軍義政の弟・義視が巻き込まれ、応仁の乱へと発展して行きます。

これを義健から書きますと、下記の様になります。数字は代です。

9 義健―10 義敏―11 松王丸―12 義廉―13 義敏―14義廉―15 義敏

 

余談  勧進帳

勧進帳に出て来る安宅関(あたかのせき)の役人・富樫左衛門泰家(とがし さえもん やすいえ)は、富樫氏6代目と目されています。彼は、源義経を逃がした罪で守護職を剥奪されます。彼は出家し、後に奥州平泉に義経に会いに行ったと言われています。一説には、古文書などからの時代の擦り合わせによると、勧進帳の富樫は泰家ではなく、もう少し前の人物ではないかと言う人も居ます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

89 趣味天下を制す 足利義政

室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、無気力で優柔不断、将軍としての実績を残さなかったばかりか、都を戦火で荒廃させた無能の将軍と誹(そし)られる事が多いのですが、どうしてどうして、彼の創造した「わび」「さび」の世界は、その後の600年に渡り日本文化の基底になってきました。それどころか、「わび」「さび」は世界語にもなり、日本文化を世界に発信し続けております。そういう意味で、彼は室町幕府の産んだ最大の将軍であったかも知れません。

高度の文化を朝貢の諸国の大使に見せ付け、「こんなに凄い国とはとても戦争なんて出来ない」と思わせて相手国を臣従させる事は、戦費を掛けて戦うよりも安価でしかも平和的であると、オスマン帝国の皇帝が言ったとか。トプカプ宮殿の財宝はその為に集められたもの。中国の紫禁城の豪華さも然り。しかし、目を奪う程の豪華絢爛な文物ではなく、その対極にある貧乏を昇華させた文化を義政は華開かせたのです。

「わび」とは侘しい事、「さび」とは寂しい事。うらぶれて寂しい有様を美しいとし、価値あるものとしたもので、全く発想を逆転させた精神文化の華です。

 

7代将軍・足利義勝(あしかが よしかつ)

嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)の嘉吉の乱で、将軍・足利義教(あしかが よしのり)赤松満祐(あかまつ みつすけ)に殺害された時、残された義教の子供は4人おりました。そこで長庶子千也茶丸(せんやちゃまる)が急きょ幕臣達に推されて7代将軍になり、名を義勝と改めます。この時、御年9歳。嘉吉2年(1442年)11月7日の事でした。

翌年6月、室町殿で朝鮮通信使を義勝は謁見します。どうやら無事に謁見は済んだものの、約1か月後の7月21日、義勝は急死してしまいます。享年10歳。将軍在位8か月でした。

 

8代将軍・足利義政 (あしかか よしまさ)

次に将軍になったのが義教の5男で義勝の同母弟・三寅(みつとら)です。その時三寅は8歳でした。政を行なえる年齢ではなく、管領畠山持国(はたけやま もちくに)の後見を得て後継者となります。三寅は名前を三春(みつはる)と替え、以後三春は室町殿と呼ばれました。更に花園天皇より義成(よししげ)の名前を賜り、文安6年(1449年)4月16日に元服します。

文安6年(1449年)4月29日、将軍宣下を受けて義成は13歳で第8代の将軍位に就きます。

 14歳になると政務を執る様になりました。政務と言っても、乳母の今参局(いままいりのつぼね)(=略称お今)、扶育の烏丸資任(からすまる すけとう)や側近の有馬元家(ありま もといえ)の助けを借りて行いました。

享徳2年(1453年)6月13日、義成は義政(よしまさ)と改名します。 

 

将軍家の跡目問題

康正(こうしょう)元年(1455年)8月27日、義政は日野富子と結婚します。富子、この時16歳です。

4年後に第一子が生まれますが、その日の内に亡くなりました。富子はこれを乳母の今参局の呪詛の為だとして、今参局流罪にします。また、義政の側室達も追放してしまいます。その後2人の姫が生まれましたが、結婚9年目になっても男子が生まれませんでした。そこで、義政夫婦は、天台宗浄土寺にいた弟・義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ、養子にします。

義尋は義視(よしみ)と名を改め、富子の妹の良子と結婚しました。ところが、

寛正(かんしょう)6年(1465年)11月23日、義政と富子の間に義尚(よしひさ)が誕生しました。

兄夫婦に子供が出来たので、養子の義視の立場が無くなり、義政と義視の関係が悪化、それが応仁の乱の原因となりましたと、婆は学校で習ったような気がしますが・・・

ですが、婆は疑り深いです。「本当?」どうも納得できないのです。

何故なら、翌年1月、義視は従二位になっています。「文正(ぶんしょう)の政変」後も、義視は、後土御門天皇の大嘗会行幸に際し供奉(ぐぶ)し、義政の代理を立派に務めました。しかも、文正2年(応仁元年)正月11日、義視は正二位に昇進しています。兄の義政がその時従一位でしたから、これは義政の後押しがなければ出来ない事です。義政夫婦は義視を排斥するどころか優遇しているのが分かります。

夭折の家系?

義政の父・義教(よしのり)には正室と側室併せて7人居たそうで、男子だけでも11人生まれたそうです。ただ、義教が暗殺された時に生存していたのはその内の4人だけだったとか。どの子も短命でした。義勝が将軍になりましたが10歳で薨去しています。残ったのは4男政知(まさとも)、5男義政(よしまさ)、10男義視(よしみ)の3人だけです。義政本人を除く残りの二人の内、政知は堀越公方として関東の要でしたので動かせず、残る義視だけが頼りの綱だったのです。

義政夫婦に義尚が生まれると、義視は義尚への中継ぎ的存在になり、且つ、万一義尚が夭折した場合の安全弁的存在になりました。

兄弟達が次々と夭折して行った現実を直視すると、二組の兄弟姉妹夫婦は、足利将軍家の血筋存続を至上命題として結束していた様に、婆には見えます。義政夫婦の子・義尚の下に、義視夫婦の子・義稙(よしたね)が猶子に入り、従兄弟同士ですが、親子の関係を結びます。

文正の政変

文正元年(1466年)8月25日、伊勢貞親)(いせ さだちか)季瓊真蘂(きけい しんずい)等が「文正の政変」を起こします。貞親は義政を養育した人で、政所執事です。義政に義尚が生まれると、今度は義尚の養育係になります。幼君を守る貞親にとって義視の存在は将来の禍根です。彼は義視に謀反の疑い有りと讒訴、義視の処刑を主張します。義視は細川勝元の屋敷に逃げ、無実を訴えます。義視の申し開きが入れられ、貞親達は逃亡します。幕府で絶大な力を持った貞親が失脚し、義政は有能な側近を失います。代わりに山名持豊(=宗全)が台頭、山名持豊細川勝元が対立し、そこに各大名のお家騒動が絡んで応仁の乱へ突入する様になります。

 応仁の乱1467年から1477年まで11年間続きます。

 

 東山山荘造営

足利義政は、戦乱に次ぐ戦乱に嫌気がさし、政治から逃避して東山山荘で隠遁生活を始めた、と言われております。実際は少し違います。

戦争を何年も続けていると全体に厭戦気分が蔓延し始め、終戦の兆しが僅かに見え始めていました。

文明4年(1472年)、細川勝元山名宗全の間で和議の交渉が始まりました。

文明5年(1473年)、山名宗全細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなりました。

文明6年(1474年)1月7日、義政は終戦が間近いと目途を付けて、義尚に将軍の座を譲りました。

応仁の乱が終わったのが1477年、東山山荘の造営に着工したのが1482年です。彼は戦争の終結を見届けてから山荘を作り始めました。

とは言え、幕府は貧乏でした。妻の富子は利殖の道に長け、かなりの銭を持っていましたが、それを夫の義政に回す様な事はしませんでした。彼女は、敵に金を渡して軍を引かせたり、寝返らせたり、幕府の財政を立て直したりして有効活用をしていました。趣味人の夫に渡す金など、びた一文も出さなかったのです。

文明14年(1482年)から東山山荘(東山殿。後の東山慈照寺)の造営に取り掛かります。

彼は、造営を始めてから間もなく山荘に移り住みます。まだ建設が始まったばかりで、土がほじくり返され材木が山と積まれ、職人達が忙しく働いている最中に引っ越して、そこで寝泊まりしながら現場の指揮を執ります。そういう訳で東山山荘は、彼の手造りと言って良く、隅々まで彼の趣味が行き届いていると言っても過言ではありません。

義政は段銭(たんせん)(=税金。臨時の住民税の様なもの。銭による納付)を課したり、夫役(労働)を課したりして東山山荘の費用を捻出しました。

幸いな事に、禅宗は装飾過多を嫌い、単純或いは素朴、静謐な風を尊びます。貧乏な義政に打って付けの世界でした。禅宗の文化や美意識は、武士のそれと軌を一にするものでした。彼は先祖代々蒐集してきた財物を能阿弥・芸阿弥・相阿弥に命じて整理させました。義政の画庫にあるものは殆どが唐物でした。宋元明の絵画や墨蹟でした。それ等は勘合貿易や渡来僧、或いは留学僧などがもたらしたものです。

安物買いの宝物

日本人は舶来ものを喜ぶ、という傾向がありました。商人は日本人好みの水墨画や墨蹟を買い付けたり、留学僧なども帰朝の際に手土産にそう言うものを買って来たりして、随分向こうの文物が日本に入ってきました。現在ではそれらは目の玉が飛び出る程高くなっていて、0 の数を数えるのも難儀しますし、国宝や重要文化財に指定されている物も多いのですが、当時、それらは比較的安く現地で手に入れる事が出来ました。

と言うのも、例えば牧谿の絵などは、神仙思想に裏打ちされた峩々(がが)たる山の山水画とは違って、江南の穏やかな風景が朦朧と描かれていたりするので、中国人の好みには合わなかったのです。また、米芾(べいふつ)のような名筆家の書を尊ぶ現地では、禅坊主の墨蹟は「下手」だったので見向きもされませんでした。何事も需要と供給です。優れた芸術作品でも大衆の好みに合わなければ、安く買い叩かれてしまいます。

今、牧谿の作品の殆どが日本に在る、と言われています。中国の人が口惜しがっている、と噂で聞いたことがあります。

 

参考までに

19 室礼の歴史(4) 武家文化

20 室礼の歴史(5) 同仁斎

21 室礼(6)   床の間

47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗

48 鎌倉文化(4) 禅語

49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

55 鎌倉文化(11) 仏画

56 鎌倉文化(12) 肖像画・宋画

57 鎌倉文化(13) 工芸(織・漆)

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

74 室町文化(1) 庶民の芸能

75 室町文化(2) 世阿弥

77 室町文化(4) 闘茶

78 室町文化(5) 金閣寺

79 室町文化(6) 銀閣

80 室町文化(7) 庭園

81 室町文化(8) 水墨画

82 室町文化(9) 東山御物

 

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 2021年4日3日現在、通し番号は93応仁の乱(4)  乱の前夜」を掲載中。