式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

130 茶色のお茶から緑のお茶へ

昔々のその昔・・・

昔々のその昔、お茶の色は茶色でした。それが今では緑色に代わっています。そこには茶葉の製造方法に大きな変化がありました。

唐の時代、8世紀の頃、茶祖・陸羽(りくう)がその著書『茶経(ちゃきょう)の中で、お茶は滋養や体調回復に良い薬と書いております。その頃の中国の茶は、団茶と言うものでした。

団茶と言うのは、茶葉を蒸してから搗(つ)き固め、それから型に入れて形を整え、日干しして乾燥させて作ったものです。

飲む時は、焙(あぶ)って、飲む量だけ削り取り、臼や薬研(やげん(漢方薬を作る道具))や擂鉢(すりばち)で粉砕して細かい粉茶にし、それから煮出して頂きます。或いは熱湯を注いで頂きます。当時の人達は、粉末茶に塩やネギ、ショウガ、橘皮(きっぴ)、ハッカなどを入れて飲んでいましたが、陸羽は、それらの「薬味」を入れて飲むのは良くないと批判しており、純粋に茶だけを味わう事を推奨しています。この頃のお茶の水(すいしょく)は茶色でした。

団茶には次の様な形のものがあります。

餅茶(びんちゃ or へいちゃ or もちちゃ)  直径20cm位の円盤形で鏡餅の一段目の様な形。

沱茶(とうちゃ or だちゃ)      お饅頭の様な形。或いは瓜や南瓜のような形等。

磚茶(じゅあんちゃ or せんちゃ or とうちゃ or ひちゃ)   煉瓦状の四角い形。

今でも、中国茶は団茶の形で販売されているものが有ります。

 

釜炒り茶

鎌倉時代臨済宗の開祖・明菴栄西(みょうあん  えいさい or ようさい)(1141‐1215)は、南宋へ留学して茶の種を日本に伝えました。

その頃、大陸では上記に述べた様に団茶を粉にしてお茶を飲んでいました。禅宗寺院では清規(しんぎ)という生活習慣のルールがあり、大陸の習慣をそのまま日本に持ち込んでいましたので、禅林でのお茶の飲み方も大陸の遣り方と同じ様にしていたと、思われます。

唐-五代十国-遼(りょう)北宋南宋-金-元と時代が下り、洪武帝(=朱元璋)が元を倒してを打ち立てた時、団茶は転機を迎えます。余りにも高額になった団茶を、洪武帝が禁止したのです。団茶の中でも超高級茶は金2両出しても買えなかったそうです。また、茶商が私腹を肥やし、賄賂がはびこり、政界に腐敗が蔓延したのも禁止の理由でした。(参考:「85  元滅亡と朱元璋 2021(R3).2.18 up)

そこで、団茶の製造に急ブレーキがかかり一時お茶が衰退します。その代りに新たに興きたのが「散茶」と言うお茶でした。散茶は、蒸してから、搗き固める工程を抜かしたもので、茶葉が一枚一枚ばらけているお茶の葉の事を言います。

お茶の葉は、木から摘み取ると直ぐ酸化 (発酵) が始まります。その酸化を止める為に蒸していたのですが、それを釜で炒る方法に変えました。この散茶も浸出液の色は茶系の色でした。

 

隠元禅師、散茶を伝える

江戸幕府の3代将軍・徳川家光の治世の頃、明の禅僧・隠元隆琦(いんげん りゅうき)(1592年―1673年) が1650年に渡来し、日本に明の臨済宗を伝えました。

隠元禅師は京都府宇治市黄檗萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)を開き、黄檗宗という禅宗を開きました。

隠元禅師は日本にインゲン豆普茶料理などを伝え、また、釜炒り法による散茶をも伝えました。散茶が伝わったことにより、お茶が手軽く飲めるようになりました。茶葉を急須に入れて湯呑に注ぐ、今に通ずる茶の淹れ方の始まりです。隠元禅師は煎茶道の開祖でもあります。散茶によるお茶の水色は、やはり焙じ茶の様な茶色でした。

お茶の色が爽やかな緑色系になるのは、江戸時代の中頃、8代将軍・徳川吉宗の頃まで待たねばなりませんでした。

 

永谷宗圓、緑の茶に挑戦

1738年(元文3年)、宇治の農民・永谷宗円(1682-1778)が新たな製茶法「青製煎茶製法」を編み出しました。その頃、身分の高い人達や富裕層の人達は、碾茶(てんちゃ)を抹茶にして飲んでいました。値段が高く、到底庶民の手の届くものではありませんでした。庶民は釜炒り茶の、茶色い煎じ薬の様なお茶を飲んでいました。

永谷宗円は、茶葉の発酵を抑え、豊かな旨味のある、美しく爽やかな緑色の浸出液を求めて、栽培方法を研究しました。干鰯(ほしか)や油粕など窒素や養分の多い肥料を使い、炒る代わりに蒸して乾燥させるなど、苦節15年の工夫を経て、ようやく「青製煎茶製法」を完成させたのです。永谷宗圓は、この方法を独占する事無く、一般に公開しました。そして、江戸の取引先である山本嘉兵衛に卸した所、大いに評判になりました。こうして「宇治の煎茶」は日本を代表するお茶になりました。明治時代になっても工夫が続き、蒸し上がった茶葉を熱い鉄板の上で揉みながら乾かすなどの工程が加わりました。

因みに、永谷宗圓は現在の「永谷園」の祖です。また、山本嘉兵衛は、現在の「山本山」の先祖です。

 

碾茶(てんちゃ)とは

碾茶の碾とは石臼の事です。碾茶とは、石臼で碾(ひ)く為に作られた茶葉の事を言います。つまり、抹茶用の茶葉の事です。

抹茶用の茶葉は、収穫20日くらい前に藁や葦簀(よしず)で覆って光を遮断して育てます。光が当たると苦み成分が出てきてしまいますので、光合成をさせない為です。これを覆い下栽培と言います。玉露もそうして育てますが、覆うタイミングや期間が違います。

(参考: 「11お茶を知る(1) 旨味成分」2020(R2).5.16up 。 「12 お茶を知る(2) 渋味成分」2020(R2).5.19.up)

そうして育てた若葉を摘み、蒸します。蒸して乾燥させます。その工程で、茎などを取り除き、良葉を選んで仕上げたのが碾茶です。揉む事はしません。葉は広がったままで緑色を色濃く残しています。碾茶は、青海苔の様ないい香りがします。

覆い下栽培は安土桃山時代に行われるようになったそうです。覆いに使う藁や葦簀が、今では寒冷紗になり、蒸しや乾燥の作業が機械化されていますが、やっている事は、昔と変わらないそうです。

 

 

余談  『喫茶養生記』による製法

栄西が著した喫茶養生記には、茶の製法が書かれています。

以下の文は、喫茶養生記の上巻「五、採茶様」と、同じく上巻の「六、調茶様」から抜粋したものです。

原文

五、採茶様

茶經曰。雨下不採茶。雖不雨雨又有雲不採。不焙。不蒸。用力弱故也。

六、調茶様

宋朝焙茶様。則朝採卽蒸即焙之。懈倦怠慢之者。不可為事也。焙棚敷紙。紙不燋様。誘火工夫而焙之。不緩不怠。竟夜不眠。夜内可焙畢也。卽盛好瓶。以竹葉堅封瓶口。不令風入内。則經年歳而不損矣

ずいようぶっとび超意訳

5、採茶する方法

(陸羽が)茶經の中で言っております。雨が降っている時は茶摘みをしてはいけない。雨が降らない時でも雲があったならば採茶してはいけない。焙(あぶ)れず、蒸せず、(天気が悪く湿度が多いと)焙る力も弱く蒸す力も弱くなってしまうから。

6、お茶を作る時の方法

宋の国での茶を焙るところを見ていると、則ち、朝に茶摘みをして即刻に蒸し、それから蒸したものを焙ります。怠け者はこの作業をしてはなりません。焙る棚には紙を敷きます。紙が焦(こ)げない様に火を誘導し、工夫してこれを焙ります。緩(ゆる)めず、怠らず、夜っぴて眠らず、夜の内に焙り終えます。終えたら直ぐ好(よ)い瓶(かめ)に盛り入れます。そして、竹の葉でもってしっかりと口に封をし、中に風が入らない様にすれば、歳月が経っても損なわれる事はありません。

 

 

 

 

129 名馬の条件

前項、前前項の「絵で見る茶の湯」の中で、馬の絵をダシにして茶の湯の話へ進めました。

馬と言えば、武士と切っても切れない縁があります。馬の善し悪しは、武士の生死を左右すると言ってもいい程ですので、もう少し馬の話をしてみましょう。

 

三大始祖

婆達がよく知っている名馬と言うのは、大体がサラブレッドの競走馬です。ハイセイコーシンボリルドルフディープインパクトなどは競馬界の一世を風靡した名馬でした。

全てのサラブレッドの父方のご先祖様を辿って行くと、ダーレーアラビアンという名前の馬か、ゴドルフィンアラビアンと言う馬か、バイアリータークと言う馬かの、どれかの馬に行きつくそうです。その三頭はいずれも「アラブ」と言う馬種です。アラビアのベトウィン族が馬を交配させながら管理を徹底し、作り出した馬です。

「アラブ」は、肩までの高さが140~150cmくらいで、耐久性があります。その馬をイギリスなどヨーロッパに連れて来て、速さに特化して選びに選び、300年以上交配を重ねて完成させた馬種がサラブレッドです。血統重視で長年の血縁交配の結果、病気に弱く、骨折し易いと言う宿命を負ってしまっています。

 

速いばかりが名馬では無い

サラブレッドは速さを誇りますが、馬場馬術には不向きです。

馬場馬術や障害物競技では、跳躍力を含めた運動能力全般が求められ、しかも、賢さや勇気や従順さが要求されます。儀典用の馬では賢さや、物事に動じない冷静さ、忍耐強さが必要とされ、見た目の「容姿」や「気品」なども重要なポイントになってきます。

トルクメニスタン原産の「アハルテケ」と言う種類の馬は、乳白色に輝く色です。「黄金の馬」と呼ばれるほど非常に美しい光沢を放つ被毛に覆われており、運動能力と持久力が優れているそうです。この馬は三国志に出て来る「汗血馬(かんけつば)ではないかと考えられています。アハルテケは4,152㎞を84日間で走破したと言う記録があるそうです。「アハルテケ」はトルクメニスタンの国章になっています。

「リピッツァナー」という馬種も、オーストリア王室御用達だったそうで、今では馬場馬術や、馬の集団演技などにその能力を発揮しているそうです。プロイセンでは優秀な軍馬育成牧場を作り、「トラケナー」という馬種を創り出しました。軍馬の必要が無くなった今では馬場馬術用に活躍しています。スペイン産の「アンダルシアン」という馬種も運動能力抜群で従順、馬術の高等演技もこなす品種だそうです。オリンピックの馬術競技には、これらの馬が活躍しています。

 

日本在来馬

日本在来馬はサラブレッドとは見た目が大分違います。どの生息地域の馬も背は低く、体高(肩までの高さ) は大体100cm~135cmの範囲に収まっています。足が太いです。全体的にずんぐりむっくりで、馬体はがっちりしています。力が強く、持久力があり、忍耐強く、従順で農耕や軍馬に向いています。

在来馬としては南部馬、木曽馬などが有名ですが、その外に、北海道の和種馬・いわゆる道産子、対州馬(対馬)、野間馬(今治市野間)、御崎馬(都井岬)、トカラ馬(鹿児島県)、与那国馬(沖縄県与那国島)、宮古馬(沖縄県宮古島)などがあります。

この中で、武士が主に騎乗した馬種と言えば、やはり南部馬か木曽馬でしょう。

源義経は南部駒を最高の馬と褒め讃えています。

明治天皇が愛された御料馬「金華山号」も南部馬です。「金華山号」は賢明で沈着、豪胆な気質を持ち、数々のエピソードを持っています。明治天皇が北陸巡幸の時、或る橋の手前で金華山号が立ち止まり動かなくなったそうです。不審に思い調べてみると橋の一部に朽木があったので、そこを修繕したら金華山号は安心して渡った、と言う逸話があります。また、近衛師団の大演習の時、大砲の音に驚いた馬達が騎兵を振り落としたり、駆け出したりして大混乱に陥ったそうですが、明治天皇がお乗りになった金華山号だけは泰然自若として動かなかった、と言われています。金華山号は公務を130回も務め、死後剥製にされて聖徳記念絵画館に収められているそうです。

けれども残念ながら、南部馬に限らず、在来種はすっかり数を減らしてしまいました。

日清・日露・太平洋戦争など戦争に駆り出されたのもその原因の一つです。それから国策で優秀な軍馬に改良すべく、体格の大きい外国種の馬と掛け合わせ、更に日本の牡馬(ぼば(オス))を去勢してしまいました。これも、数を減らした大きな原因です。この去勢は全国的に行われました。その難を逃れたのは、住民の努力によって、軍部の目の届かない山の奥地に密かに隠された馬と、離島の馬などです。

南部馬は外国産馬と交雑され、純血種が失われてしまいました。今では南部馬と呼ばれる馬は存在しません。

 

木曽馬

何時だったかテレビで聞いた話ですが、木曽の黒駒は重量に耐え、長距離行軍にへこたれず、急発進、急停止、急旋回に俊敏に反応する、と言っておりました。これは武士にとって大変重要な能力です。何しろ、馬上で存分に戦う為には、馬が、乗り手の思う様に瞬時に反応してくれなければなりません。そうでなければ生死に直結します。意のままに動かない様な駄馬に騎乗していては、命が幾つあっても足りません。

山之内一豊の妻が、夫の為に持参金10両を出して名馬を買った、という逸話があります。『仙台より馬売りに参り候』と表現されている事から、これは南部馬だったと推定されますが、馬は命を託すものですから、名馬は喉から手が出るほど欲しいものです。

明治時代以前は、日本には数十万頭の馬がいたそうですが、令和2年の在来馬は、木曽馬や道産子、御崎馬など全種類合わせて1,683頭のみになってしまったそうです。

 

伝説の名馬

赤兎馬(せきとば)

三国志演義に出て来る「赤兎馬」は、名馬中の名馬と言われています。

元は蕫卓(とうたく)の持ち馬でしたが、呂布(りょふ)に与えられます。赤兎馬は手に負えない暴れ馬でしたが、呂布はそれを乗りこなし、数々の武勲を挙げました。呂布曹操(そうそう)に討たれ、赤兎馬曹操の手に渡ります。ところが、赤兎馬を乗りこなせる者がおりません。

その頃、曹操劉備玄徳(りゅうびげんとく)の義兄弟・関羽(かんう)を捕虜にしていました。曹操は、関羽劉備から寝返らせ何とか自分の部下にしようと説得を試みていましたが、関羽は靡(なび)きませんでした。そこで、曹操関羽赤兎馬を贈り、彼の心を掴もうとしました。関羽赤兎馬を受け取ると大いに喜び、早速それに騎乗しました。驚いたことに、赤兎馬呂布以外に人を脊に乗せない馬でしたのに、関羽には大人しく従いました。関羽赤兎馬に跨(またが)ると「赤兎馬は1日に千里を走ると言う。この馬に乗って兄貴(劉備)の所へ行く」と言って走り去ってしまいました。曹操は地団駄踏んで悔しがりました。

この物語は『三国志演義の創作と言われています。けれど、歴史書後漢書三国志にその名前が出てきますので、赤兎馬は実在した馬です。赤兎馬は汗血馬だったと言われており、前述した「アハルテケ」だったのではないかと推察する人も居ます。アハルテケは気難しい馬で、乗り手は一人しか許さず、気に入った人でないと寄せ付けないと言われています。また、赤兎馬は馬個体の名前では無く、馬種の名前だと言う人も居ます。

 

ブケパロス

ブケパロスはアレキサンドロス大王(紀元前356年―紀元前323年)の愛馬です。

ブケパロスは悍馬(かんば(暴れ馬))で誰も乗りこなす人がいませんでした。アレクサンドロス王子は、ブケパロスを観察すると馬が自分の影に怯えているのを知り、影が馬の視界に入らない様に向きを工夫しながら乗りこなしました。これを見た父王ヒリッポス2世は、アレキサンドロス王子の非凡さを知り、恐れ、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言った、と伝わっています。

父王は王子に、アリストテレスという最高の学者を家庭教師に付けます。アリストテレスの学識や哲学、帝王学などを生涯にわたって学びながら、アレキサンドロスは父王の跡を継ぎ、マケドニアの王となります。それから小アジア、エジプト、ペルシャ、インドへの一大遠征を行います。その間連戦連勝を続け、征服地はかつて無い様な広大な領地に広がりました。

この大遠征は、世界史上に大きな変化をもたらし、日本にも影響を強く及ぼしました。

例えば、仏像ですが、これはアレキサンドロス大王の賜物と言えるでしょう。それまで、仏教ではお釈迦様の像を作るなどと言う事は、とても畏れ多い事で、誰も成し得ませんでした。インドでは、釈迦の偉大さを仏足や法輪という車輪の様な形をもって表していました。ところが、大王は、アリストテレスの教えに従って、征服地の文化融合を図りました。遠征軍に兵士のみならず、技師や彫刻家、詩人や文化人などを連れて行ったのです。

ギリシャの彫刻家達はパキスタン西北部にあるガンダーラに達した時、仏教の話を知り、早速、ギリシャ神話の神々を彫る様に仏像を彫り始めました。もともとガンダーラには西方民族が住んでいましたので、そう言う文化的土壌がありました。ガンダーラの仏像はインドに広まり、中国を経て日本にやって来ました。

また、ギリシャではコスモ(宇宙・秩序)の考え方があり、一つ一つの独立したものが一つに連合して秩序を保つのを理想の世界としていました。一つ一つの都市国家が中央に集まって平和な世界を作る姿を、コスモの複数形コスモスとし、それに似ているコスモスの花が喜ばれました。コスモスは菊の花に通じ、菊の花は高貴な花としてペルシャ帝国に伝わりました。菊の図柄は中国を経て日本に入り、やがて皇室の花として定着します。

このアレキサンドロス大王の遠征に、終始付き従っていたのがブケパロスです。ブケパロスの馬はアハルテケだったと言われています。

 

余談  馬の色

馬の色には次の様なものが有ります。

鹿毛(かげ)                     赤茶色、鬣(たてがみ)や尾や四肢は褐色や黒。

黒鹿毛(くろかげ)           褐色。鬣や尻尾や足が黒っぽい。

青鹿毛(あおかげ)         青光りする程黒に近い。目や鼻の周りが褐色。

青毛(あおげ)                  全身真っ黒。季節により茶色になる事もある。

栗毛(くりげ)                   黄茶色。鬣や尾は濃い色から淡白色まで有り。

尾花栗毛(おばなくりげ) 栗毛の鬣が白く透き通った馬。

栃栗毛(とちくりげ)          濃い茶色。鬣・尾も茶色。四肢の先は白い。

芦毛(あしげ)                    灰色や茶色に生まれ成長するにつれ白くなる。

佐目毛(さめげ)                象牙色。ほんのりピンク。目は青。

河原毛(かわらげ)             クリーム色、亜麻色、淡い黄褐色。

薄墨毛(うすずみげ)           灰色っぽい色。薄墨色。

月毛 (つきげ)                    クリーム色、淡い黄褐色、目は茶色。

白毛 (しろげ)                    生まれた時から全身白。目は茶色や黒。稀に青。

粕毛 (かすげ)                     白っぽい茶色。所々に白が混ざる。

白墨毛 (しろすみげ)             白茶色に灰鼠色を混ぜた様な色。鬣や尾は茶系。

駁毛(ぶちげ)                       茶色と白、褐色と白、黒と白など色がブチている。

 

余談  アレキサンドロスの名前

アレキサンドロスはギリシャ語読みの名前です。ドイツ語読みではアレサンダー とかアレサンダーと読みます。アラビア語読みやペルシャ語読みではイスカンダルと読みます。なんだか、宇宙戦艦ヤマトイスカンダルを連想してしまいませんか。

 

年の瀬も押し詰まり、あと数日で来年になってしまいます。

締めに、干支の今年の牛の話や、来年の虎の話になれば良かったのですが、馬の話になってしまいました。これにガッカリしないで、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

どうぞ、よいお年をお迎え下さいませ。

 

128 絵で見る茶の湯(2) 調馬図

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『調馬図』

滋賀県多賀大社(たがたいしゃ)という神社があります。そこに重要文化財の六曲一双の屏風があります。

『調馬図・厩馬図(ちょうばず・きゅうばず)』と言って、左隻に厩舎に繋がれている六頭の馬が描かれており、右隻には騎乗して馬を走らせている侍とそれを部屋から眺めているお殿様が描かれています。その場面にお茶を点てている宗匠が居ますので、ちょいと取り上げてみました。

上図がその部分です。下手を顧みず、再び婆が模写しました (お笑い下さい)。

お殿様が八畳間の縁側近くにお座りになって、馬場を走る家来達の様子をご覧になっています。片膝立を崩して座り、脇息(きょうそく)にもたれかかり、如何にも寛(くつろ)いでいる様子。傍(かたわ)らには太刀持ちの小姓が侍(はべ)り、もう一人の小姓が「あれを御覧(ごろう)じ下さいませ」とでも言いたげに、お殿様のご機嫌を取っています。

次の間に家臣達が控えて座っています。小姓が一人、手に茶碗を持って歩いています。家臣が控えている同じ部屋の、お殿様の視野に入らないような襖の陰に、茶の宗匠らしい人物が居ます。宗匠は後ろ向きに座ってお点前の仕舞い支度をしています。

何故、仕舞い支度だと分かるのかと言いますと、この場面でお茶を召し上がるのはお殿様お一人です。家臣にはお茶を供さないでしょう。お殿様には、宗匠が点てたお茶を小姓が既に運んでいますので、その後に次々と点てる事は無いと判断しました。

宗匠の手元を見ると、茶碗の中に茶筅(ちゃせん)を立てて入れて、何やらしています。これは茶筅濯ぎと言って、仕舞い茶碗に新しい水を汲み、その中に汚れた茶筅を入れてシャカシャカと振るい、濯(すす)いでいる所と、婆は見ました。

宗匠が点てたお茶は薄茶です。ネット画像をかなり拡大しないと分からないのですが、画像をよく見ると、台子の前に棗(なつめ)が置いてあり、茶杓(ちゃしやく)がその蓋の上に載せてあります。棗を使う時は、薄茶を入れると決まっています。(茶入れを使う時は濃茶を点てると決まっています。)

 

道具立て

宗匠が点てているお茶の道具立ては、真台子(しんのだいす)の様です。

黒漆塗りの地板にこれも黒漆塗りの4本の支柱を立てています。その上に天井板がある筈ですが、天井板の部分は建物の屋根の下に隠れていて見えません。

風炉はどうやら三本足のついた朝鮮風炉鬼面風炉鐶付きが無いので多分朝鮮風炉でしょう。茶釜と風炉は、釜の底面と風炉の口径のサイズがぴったりと一致している作りの様です。

杓立(しゃくたて)水指(みずさし)は、焦げ茶色の様な色をしています。なので、背景の黒漆の台子にかなり融け込んでいます。良く見ないと分からないのですが、二つは同じ材質の様です。多分、備前などの陶器では無く、唐銅(からがね)作りではないかと・・・

杓立と言うのは、花瓶の様な形をした物で、柄杓を挿しておくものです。水指は、お水を入れておく器です。杓立・水指・蓋置を同じ材質でおなじ意匠で作ったものを皆具(かいぐ)と言って、格付けが高いお点前に使います。皆具の格付け順位は陶器製<磁器製<唐銅製となります。

杓立の前に、丸いお皿の上に白い小さなものが有ります。恐らく、茶巾台と茶巾でしょう。茶巾と言うのは細い麻布で出来ていて、布巾と同じ役割をするものです。

これ等の道具立てを見ると、式正織部流の真台子を使って行うお点前とそっくりです。

 

直進・直角

お小姓が持っている茶碗は黒い色をした茶碗です。侘茶でよく用いる黒楽茶碗に似ています。茶碗台はありません。真台子を使っての「侘び点て」の様です。

さて、お小姓。前項で取り上げた「厩図」のお小姓はしずしずと歩んでいましたが、「調馬図」のお小姓は、足首が出る短めの袴で、結構大股で歩いています。

あらあら、ちょいと待ちなさい。お小姓さん、真っ直ぐ行ったら家来の前に行ってしまうでしょうに。お殿様を差し置いて、先に家来へお茶を供したら「無礼者!」って手打ちにされ・・・いやいや、これは武士の作法。進む時は畳幅の真ん中を直進し、曲がる時は直角に曲がるのが決まりです。敷居を斜めに跨(また)いだり、畳を斜めに横切る事はありません。式正織部流の作法もそうしています。お小姓が進行方向へまっすぐ進み、それから、くるっと90度曲がって敷居を跨ぎ、其の儘進むと丁度具合よく殿様の御前に出ます。

 

帯刀

この建物の中にいる武士達は全員が帯刀しています。羽織や衣服に隠れて刀を差しているかどうか分からない御仁もいますが、原則刀は常に腰に差しています。「敵襲」「謀叛」「暗殺」等々いつ何時、緊急事態が発生しないとも限りません。お殿様が寛いでいる時でも、家来は常住武備です。

千利休が大成した侘茶の茶室では、刀を腰に差していない状態で席に臨みますが、城中では誰も無腰にはなりません。これと同じで、武家茶の、書院の式正のお茶では、刀は差したまま行います。客も差したままです。(現代は違います。刀の替わりに扇子を差します。)

従って、侘茶では袱紗を左腰に付けますが、武家茶の式正織部流では袱紗を右腰に付けます。左腰には刀。左腰に手をやると言う事は、刀に手を掛けると同じ動作です。その様に誤解されたら、忽ち修羅場に成り兼ねません。なので、左腰には袱紗を付けないのです。

 

調馬図から見える茶の湯

お茶のお点前が客の目の前で行われる様になったのは、恐らくこの調馬図が描かれた頃かと思われます。この絵の中の宗匠は、開け放たれた襖の陰という半ば裏、半ば表の中途半端な位置に居ます。唐物の道具立てでお茶を点てながら、用いる茶碗は天目茶碗や青磁の茶碗では無く、侘茶で用いる和物の黒茶碗を使っています。これはお茶のお点前が陰点てから表点て(婆の造語です)に移行する過渡期のスタイルかも知れません。

お茶は、元来お茶を飲む為だけのもの。お点前の手順も所作も関係ありません。ですから、『厩図』の様に、お茶を水屋(みずや(=台所))か庫裏(くり(=台所))から運んできて供する遣り方になっています。

ところが、侘茶が発達し始め、狭い部屋で親しい人とお茶を飲むとなると、それなら一層の事お茶を点てる時間の流れを共に楽しもう、と言う事になります。「飲む」事が主だったお茶に「見せる」要素が加わってきます。パフォーマンス度が上がり、動きの手順、所作の美しさ、お道具の配置の美的センスが追及され、より洗練された「お点前」が現れる様になります。

と、まあ、ここまでは陰点てから表点てへの、一本筋の流れの様に書きました。が、実はそれ程単純な流れでは無く、幾筋もの流れが並行したり絡み合ったりしていて、一概にこれはこうだと断定できません。室町幕府8代将軍・足利義政が東山に山荘を築き、趣味三昧に耽(ふけ)っていた頃は既に、侘茶の原形が出来ていました。

書院の走りと言われる東山銀閣の同仁斎は、非常に簡素な室内です。付け書院に違い棚のある四畳半です。将軍の居間としては金碧障壁画も無く、建具の金具も特に無く、内装そのものは質素で、これをして「侘び」と称するのかも知れません。けれど、義政がそこで行ったであろうお茶は、後世に国宝となる様な超一級の品々を用いて行っていました。それらのお道具は金銀極彩色の対極に有り、静謐で地味な雰囲気を湛(たた)えていますが、これぞ贅美を尽くしたお道具類で、うらぶれて侘しく、冷え枯れて寂しいものでは決してないのです。大陸の物であれ日本の物であれ、それらは時代が渾身の力を込めて作った傑作の芸術作品群です。

清規(しんぎ)、闘茶、淋汗茶の湯、書院のお茶、草庵のお茶、縁側のお茶など多彩な形のお茶がありますが、やがて「侘茶」一つに集約されて行きます。お茶と言えば侘茶。侘茶以外は考えられない、という世の中になって来ています。

式正織部流は、古田織部がそうであったように、利休の「侘茶」の影響を受けつつも、なお独自の道を歩んでいると言えましょう。

 

毒殺回避

陰点てから表点てに代わる事によって、詰り、お点前を人の視線に晒す事によって、パフォーマンス性に磨きが掛かると同時に、毒殺の危険が軽減される、という利点も生まれました。

式正織部流に「六曲屏風点て」というお点前があります。毒を盛られない様に屏風で囲って鍵を掛けて置くもので、お点前開始の時に鍵を開けて使用します。歌舞伎で伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の乳母の政岡が、命を狙われている幼君・鶴千代君の為に、この六曲屏風を使ってご飯を炊く場面があります。

お茶は、時には毒殺などの手段に使われる事もありました。六曲屏風に限らず、毒殺を防ぐ手段に、仕覆(しふくor(仕服))の緒を華やかに結ぶ方法を採るようになりました。棗や茶入れに着せる仕覆(袋状のカバー)の緒(閉じ紐)を、梅や桜、蝶などの形に結びます。当事者以外の人が一度ほどいたら、元に戻せなくなるような複雑な結び方です。封印代わりです。

 

 

余談  お道具説明

茶筅・茶筌(ちゃせん)  

竹で出来た物で、湯に入れた抹茶を掻き混ぜる道具。茶筅は一般名詞。茶筌は和歌山県生駒市高山町で生産された物に対して限定的に使います。

仕舞い茶碗

仕舞い茶碗は全てのお点前が終わった後に、茶筅濯ぎの為にだけ使う茶碗です。仕舞茶碗はお客様にお出ししません。

茶巾台・茶筅

茶巾台と茶筅台は同じものです。侘茶では茶筅を畳に直に置き、茶巾は釜蓋の上に直接置いたりしますが、式正の茶では、清潔を保つ為、或いは漆塗りのお道具などを湿気で痛めない為、台子点てでは陶器製の小皿の上に茶巾や茶筅を載せて使います。

朝鮮風炉と鬼面風炉  

朝鮮風炉も鬼面風炉もいわゆる風炉の一種で、足が三本あります(→鼎(かなえ)。鼎立(ていりつ))。

鬼面風炉は鐶付きと言って、持ち運びに便利なように両脇に金具の輪っか(=鐶)が付いています。その輪っかが通っている穴があり、その穴に鬼の顔や、龍などの装飾が施されています。それで鬼面風炉と呼びます。

真台子

真台子とはお点前の中でも最も格式の高いお点前です。式正織部流のお稽古では入門から奥伝まで次のような流れになります。

平点前(風炉・炉それぞれに普通の点て方の外に、太閤点てや畳紙点てなど幾種類もの点て方があります。) → 棚点前(四方棚(よほうだな)・二重棚・三重棚・高麗卓(こうらいじょく)等々それぞれ風炉点てと炉点てがあります。) → 長板(風炉を使用・普通点てと天目点て等々) → 袋棚(炉を使用・普通点てと天目点て等々) → 竹台子(風炉を使用・普通点てと天目点て等々) → 真台子(風炉を使用・主に天目点てで、一天目から六天目迄あります。六天目は秘伝。献茶様式や正月用の歳旦点て六曲屏風点てなども真台子を使って行われます。) 特殊なものに弓箭台子(きゅうせんだいす)や、鎧櫃(よろいびつ)を使っての点て方(立礼)も有ります。全て式正で行い、茶碗台を使います。

 

127 絵で見る茶の湯(1) 厩図

何時の時代でも何々自慢と言う者はいるもので、武士であれば先ず自慢するのが「馬」。刀剣自慢も「馬」に劣らずおりますが、絵画に描かれているのは圧倒的に「馬」です。厩(うまや)図屏風は数多く描かれています。神社にある「絵馬」も馬ですし、加茂神社の流鏑馬(やぶさめ)神事も「馬」抜きには語れません。

 

厩図屏風(うまやず びょうぶ)

室町時代の頃、武士達は自慢の馬を厩(うまや)に連れて来て集い、馬の披露かたがた社交の場にしていました。今で言うなら、馬主クラブのクラブハウスの様なものでしょうか。

下図は、室町時代に描かれた『と言う六曲一双の左隻の、その一部分を婆が写し取ったものです。本物は東京国立博物館に収蔵されていて、重要文化財になっています。拙い絵で申し訳ないですが、話の都合上、載せました。

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馬とお茶。この絵の何処にその繋がりが有るかと申しますと、一番右端に居る前髪姿のお小姓に注目して下さい。

彼は、躓(つまず)きそうなほど袴の裾をずるずる引いて、畳廊下をしずしずと歩んでいます。肩衣を着て、美しく装った彼は、両手に天目茶碗台を捧げ持って、お客様にお茶を運ぼうとしています。茶碗台の上にはお茶碗が載っています。お茶碗の縁が二重線で描かれているので、この茶碗は覆輪を持つ天目茶碗だと分かります。

足元に、小姓の方に手を伸ばして寄って来る猿が居ます。これから小姓に抱き着こうとしているのか、悪戯しようとしているのか、赤いちゃんちゃんこを着た猿は無邪気に「土足」で廊下に上っています。えっ? 何でここに猿? 檻に入れておかなければいけないじゃないの。

いやいや、御心配なく。猿は日枝神社のお使い、馬の守り神です。それ故、猿は厩に無くてはならぬ動物で、武士の家では大切にされています。牧谿猿猴(えんこうず)をはじめ長谷川等伯狩野山雪、雪村周継、狩野興以(かのうこうい)などなど、名だたる絵師が猿を絵にしています。『猿猴捉月(えんこうそくげつ)』の戒めを込めての意も有りますが、もっと単純に、馬を大切にする→馬の守護神は猿→猿の絵を飾る→という流れで、猿の絵は武士の間で持て囃されておりました。上記の様な有名な絵師の作品ばかりでなく、無名の絵師達が世の需要に応えて数多くの猿絵を描いております。

それにしても、猿に跳びかかられたら、天目茶碗を落してしまうじゃないの。危ないねぇ。天目茶碗って舶来物で、高いのよ。なんで、こんな厩で天目茶碗でお茶を出すの。もっと安物でお茶を出したっていいのに。それとも、この館の主人は、割れても気にしない程の財力を持っている人物なのかしら。客人は天目茶碗に相応しい程の身分の高い人なのかしら。

 

茶室無しの茶の湯

第一、厩舎(きゅうしゃ)でお茶とは何事ですか! お茶は茶室で頂くものです。こんな、むさい所で・・・失礼、立派な厩で、しかも、馬房続きの廊下で、臭くありませんか? 馬糞や尿の臭いとか、藁の臭いとか・・・普通ならそこで飲み食いするなんて、耐えられない筈ですが・・・あれ、まぁ! 気が付きませんでした。この厩、見れば見る程立派ですね。まるで御殿みたいです。(全体像を見るには東京国立博物館所蔵の「厩図」を検索してみて下さい。)第一、屋根が檜皮葺(ひわだぶき)。馬房は厚い板敷き。分厚い板敷きの馬房は清潔そのもので、藁屑や馬糞一つも落ちていません。現代競馬場の厩舎は、コンクリート打ちの地面に直接藁を敷いて馬房としていますが、時代が違えば景色も変わるようで・・・

庭に石を組み、泉水を巡らし、右隻の厩には松を、左隻の厩には桜を配し、鶴亀が遊び、これは大本山寺院の庭か、将軍家の館かと思われるような造り。こういう場所に、自慢の馬を引いて来て、見せびらかして、日がな一日将棋や双六に打ち興じるなんて、中々優雅です。と考えると、この厩は馬の住居では無く、駐車場ならぬ来客用の駐馬場の様です。

 

お茶は陰で点てるもの?

ところで、この画面には茶室がありません。水屋らしきものも見当たりません。別棟でお茶を点てたものを、お小姓が庭伝いに歩いて廊下に上がって運んだ様子でもなさそうです。多分、廊下伝いに奥の部屋から運んできたのでしょう。お茶を点てた亭主は何処に居るのやら。

「お客人、ここで存分に寛(くつろ)いで楽しんでいかれよ。お茶でも進ぜよう」と、館の主は顔を出さず、訪ねて来た人達の気ままにさせているのでしょうか。それとも、「お茶を持て参れ」と小姓に命じ、自分は客人と一緒になって将棋や双六に興じているのか・・・

ただ、事情はどうであれ、お茶は陰点(かげだて)(=お客様の見えない所(別室など)でお茶を点てる事)されている事は確かです。

当時の茶の湯は、客人の前でお点前をお見せしながらお茶を振る舞うのではなく、別室でお茶を点てて出していたようです。多賀大社の『調馬図』も襖の陰で茶頭がお茶を点ておりますし、淋汗茶の湯の絵図を見てもお茶は別室で点てて客人に運んでいます。思うに、水屋は今でいう台所。お持て成しの楽屋裏は見せないのがスマートな遣り方だったのかも知れません。

 

茶の湯にも色々ありまして

楽屋裏を見せない茶の湯に対して、客人の目の前で茶を点てるやり方も有ったようです。

東山の銀閣寺境内に同仁斎という四畳半の書院があります。且つてそこに炉が切られており、そこで足利義政がお茶を嗜んでいた、と言われています。少人数の友と炉を囲みながらお茶を点てる・・・そんな光景が繰り広げられていた事でしょう。

火と水が部屋の中にあれば、台所で無くてもお茶は点てられます。その為に炉があります。火と水の設備が無かった場合、「風炉」という火鉢の様な道具を使って茶の湯を愉しみます。

鎌倉時代から武士の嗜(たしな)みとしてきた茶の湯。初期には禅宗寺院で行われていた清規(しんぎ)に沿っての作法が行われてきましたが、次第に様々に変化してきました。

『厩図』で描かれているのは茶室のお茶ではありません。書院のお茶でもありません。むろん闘茶でもありません。縁側のお茶です。気楽なお茶です。この絵を見ると、こういうお茶もあったのかと、知る事が出来ます。

当時、抹茶のお値段は高かっただろうと思われます。その高いお茶を使ってお持て成しを受けている侍達。きっといい気分になった事でしょう。極上のワインを振る舞われたみたいに。

 

厩図の人物像は

厩図に登場する人物達はどういう人達なのでしょう。右端に描かれている馬具掛けを見ると、馬の鐙(あぶみ)や、房の付いた胸飾り(胸繋(むながい))や尻飾り(鞦(しりがい))などから、かなり偉い侍の物の様に見受けます。鞍の前側(前輪(まえわ))に武田菱の紋が付いていますので、武田氏の物と分かります。武田信玄? いえ、信玄は上洛していませんから、信玄ではないでしょう。武田氏は、甲斐武田氏の外に京都武田氏、安芸武田氏、若狭武田氏と幾つも流に分かれており、いずれも清和源氏の流れを汲みます。ついでながら、茶の湯の大家・武野紹鴎(たけのじょうおう)も若狭武田氏の出身です。厩図の登場人物の中に武野紹鴎がいるかと言うと、彼は、父が武士を止めて商人になったのに従っているので、この場面に馬に乗って登場する事はありますまい。

将棋をしているお坊様は、後ろ襟を高々と三角に上げているので、大僧正様かしら? 。 彼等の着ている衣服、烏帽子の形等々から推察しますと、この厩の縁側に集う面々は、それ相当のエライ人達の様です。寵童や従者も侍(はべ)っています。

お茶を運ぶ小姓は、奥の水屋と厩を何度も往復して、この人達全員にお茶を運ぶのでしょうか。いやはや、大変ですね。ご苦労様です。

 

 

余談  猿猴捉月(えんこうそくげつ)

猿猴は猿の事です。捉月とは月を捉(とら)えると言う事です。猿猴が月を取る、と言う意味で、禅の教えの一つです。

人間界で暮らしていた猿が、或る月夜の時に井戸を覗いてみました。井戸にはお月様が映っていました。「大変だ、お月様が井戸に落っこちている!」と思い、500の猿を集めてお月様救出作戦を開始します。互いの手を握り合い、井戸の中のお月様に手を伸ばしますが・・・

木の枝が折れて、猿全員が井戸の中に落ちてしまい、死んでしまいました。

猿猴捉月』とは、人間の愚かさを戒め、実力不相応な望みや欲望を持つと身を亡ぼすという教えです。

 

126 武将の人生(7) 書状(手紙)

近頃では、ペンを取って便箋に手紙を書く、と言う行為はすっかり廃(すた)れてしまっています。スマホに顔文字や記号を駆使して伝えるのが今の流行ですが、婆の若い頃は、遠くにいる相手に伝えるのは固定電話や手紙が主流。少しでも良い印象を与えようと、言葉遣いや筆跡の美しさに拘(こだわ)ったものです。それはさて置き、ここで紹介するのは武将の書状(手紙)です。

書状には人柄や人生が滲み出ますので、なかなか興味深いものが有ります。

この項で扱うのは、丹羽長秀  豊臣秀吉  です。

 

丹羽長秀   (1535-1585)

長秀より秀吉宛ての書状(遺書)

(わずら)いの儀二ついて、度々仰せ下さるるの趣(おもむき)、承り届き候。先書に申し上げ候ごとく、煩(わずらい)(つい)に験(げん)これなきにつきて、罷上(まかりのぼ)り候事、遠慮いたし候。殊に五三日(ごさんにち)以前は、此の頃罷上るべしと申し上げ候へ共、二三日いよいよおもり、枕もいさヽかあがらず候条、猶(なお)五三日見合わせ、路次にて相果て候とも罷上るべきと存じ候。誠に日来は、自余(じよ)に相替わり御目にかけられ、いか程の国をも仰せ付けられ候ところ、御用にも立ち候はで口惜しく候へ共、それもはや是非に及ばず候。跡目の儀は、せがれ共、ならびに家中の者共などをも御覧じ合わされ、其れに随(したが)って仰せ付けられ候て下さるべく候。此の式如何に候へ共、あらみ藤四郎の脇差、大かうの刀、市絵、進上仕り候。我等と思召候様こと存じ候。委細、成田弥左衛門、長塚藤兵衛申し上げるべく候。恐惶(きょうこう)

   卯月十四日             惟住(これずみ)越前守長秀

秀吉様

  参る人々御中

(ずいよう意訳)

私の病気の事について、度々ご心配下さり周りの方々にお訊ね下さっているご様子を、伺って知っております。前の書状で申し上げました様に、病気はついに薬効の験が無く、参上して秀吉様にお目にかかるのを遠慮いたします。殊に5~3日以前は、参上いたしますと申し上げましたが、2~3日いよいよ病が重くなり、枕も上げられない状態になりました。なお、5~3日見合わせ休んでから、途中で死んでもいいから罷り上るべきと思います。誠に今までは、身に余る程にお目にかけて頂き、どのような大国の領地をも仰せ付けられて参りましたのに、お役に立てず、悔しく思いますが、それももはや致し方ない事でございます。私が亡くなった後の跡目につきましては、息子共、並びに家臣の者達などをご覧になって、秀吉様のご判断に従って差配して下さいませ。この式、どのようになりましょうとも、新見藤四郎の脇差、大剛の刀、市絵を秀吉様に進上致します。私(の形見)と思って下さいませ。詳しい事は成田弥左衛門、長塚藤兵衛が申し上げます。   恐惶(謹言)

  卯月14日             惟住越前守長秀

秀吉様

  お傍に仕える皆々様御中

 

この書状を書いた二日後、長秀は長い間の腹の激痛に耐えかねて、ついに自ら腹に刀を当て(切腹。但し介錯はせず、しばらく存命)、病巣を取り出したそうです。病名は積聚(しゃくじゅ)といって、寄生虫(回虫)だったそうです。他にも胃癌説が有力です。胆石説もあります。長い間、激痛に苦しめられた長秀は、取り出した病巣を秀吉に送ったそうです。それは石亀の様に硬く、鳥のような嘴(くちばし)を持った白い塊だったとか・・

 

長秀と秀吉の関係

幼名は万千代。丹羽長秀。羽柴筑前守長秀。惟住(これずみ)長秀。あだ名は、鬼五郎左(おにごろうざ)米五郎左(こめごろうざ)。

秀吉が天下を手にする時には、清須会議で秀吉の為に動き、それを実現しました。一方秀吉は長秀を父の様にも思って何くれとなく気を使い、そして、全幅の信頼を置いて頼っていました。が、それは秀吉の本心では無い、と婆は深く疑っています。信頼していたのではなく、利用していただけなのだと。これは婆の個人的な意見です。以下は婆の想像です。

 

秀吉の丹羽長秀対策

信長亡き後、信長の二人の遺臣・丹羽長秀柴田勝家。信長の跡を襲った秀吉にとって、自分の真の政権を樹立するには二人の信長の遺臣は邪魔な存在です。秀吉は、先ず柴田勝家を攻め滅ぼしました。残る一人の長秀をどう料理するか・・・丹羽長秀は温厚で思慮深く、人望があり、しかも勇猛果敢。信長や秀吉、家康からも絶大な信頼を得ていた人物で、安土城築城の総奉行を務める程の有能な人物。その彼を追い落とすにはどうすればよいのか。

秀吉の立場に立って考えてみると、一番の上策は「褒め殺し」です。

「その方は儂の身内と思っている。どうだ、儂の「羽柴」の名前を上げよう」

「そちは今まで戦で敗けた事が無い。だから是非とも今度の大事な戦に出陣して貰いたい」

秀吉は他の大名にも、これはと思う大名に「羽柴」の姓を与えています。けれども、丹羽長秀にとって「羽柴」には特別の想いがあります。上から目線で「羽柴」の名前を授与して長秀の誇りを奪い、丹羽軍を激戦地の真っ只中に次々と投入して消耗させて行く秀吉の戦略は、長秀の身心を蝕んで行ったに違いありません。賤ケ岳の戦いからは、病気で出陣できず、嫡男の長重(12歳)が父名代で出陣します。小牧長久手の戦いも、越中佐々成政討伐戦も長重の出陣です。秀吉にとって、長秀は既に「役立たず」の域に入っていました。

 

加賀百万石の誕生

秀吉は長秀に何くれと見舞いの品を届けさせたり、優しい言葉を掛けたりしていましたが、

1585年(天正13年4月16日)に長秀が自害しました。嫡男の長重が14歳でその家督を継ぎます。が、その同じ年、秀吉は、越中佐々成政攻撃中に、丹羽家家臣の中に成政に内通した者が居たと疑いをかけ、丹羽長重から越前国加賀国を没収し、更にその2年後には若狭国を召し上げて、松任(現白山市)4万石にまで落としてしまいます。そして、丹羽家から没収した越前・加賀・若狭の123万石を秀吉は、竹馬の友とも言うべき前田利家に与えます。前田の加賀百万石はこうして生まれました。減封されると言う事は、大量の失業者が出る事を意味します。主家没落で職を失った家臣の中に、上田重安(宗箇)が居ます。

上田重安は通称佐太郎。出家して宗箇と名乗ります。千利休に学び、古田織部の弟子となり、武家茶の上田宗箇流の流祖となります。丹羽家から放出された有能な家臣達は秀吉に抱えられる事になります。秀吉は丹羽家から土地と人材を奪いました。

その後、長重は関ケ原の合戦で西軍側に就き敗北。改易され、牢人になります。彼は地道に努力を重ねて、ついには陸奥白川藩10万石の大名にまで復帰します。

 

豊臣秀吉  (1537-1598)

豊臣秀吉より秀頼宛の手紙

文給候御うれしくおもひまいらせ候 昨日も状をもて申入候ごとく こヽもとふしん申つけ候に 仍存(じょうぞん)ながら 不申候 やがてさいまつに参候て可申候 そのときくちをすい申まいらせ候 たれたれにもすこしも御すわせ候まじく候 そなたの事こなたへ一だんとよく見え申候 かへすかへす御ゆかしさ申候 御かかさまへも文にて可申候へとも 御心もて給候へく候

めでたくかしく

   十二月二日    秀吉  (花押)

                  秀よりさま        とヽ

 

(ずいようぶっ飛び意訳)

お手紙有難う。昨日もお手紙でお知らせした様に、私は(伏見城)普請を申し付けています。だから(仍)そういう事があ(存)るので(あなたに会って)お話も出来ません。やがて、歳末にそちらへ参り、お話ししようと思います。その時キスしたいです。誰にも誰にも絶対にキスさせてはいけません。あなたの事、私には一段と可愛く見えます。返す返すあなたがゆかしく思えています。お母様(おかかさま→淀君)へも文で申し渡しますが、あなたも心してください (あなたも用心してかか様にもキスをさせてはなりません。あなたは私だけのものですから、の意か?)。

めでたく かしく

   十二月二日   秀吉(花押)

     秀頼さま      父

 

この書状は秀吉が62歳の時、5歳の秀頼に宛てたものです。62歳と言えば、秀吉の死の前年です。いずれも数え年なので、秀頼は満年齢で言うと4歳。年取ってから出来た子なので、目に入れても痛くないような溺愛ぶりが目に浮かびます。微笑ましい限りの文面ですが、地位も富も天下も思いのままに手に入れた秀吉も、子供だけは思い通りになりませんでした。正に、秀吉の人生の集大成は子供にかかっていた、と申せましょう。

秀吉は若い頃「猿」と呼ばれ、美男とは言い難い面相だったようです。

ルイス・フロイスの手記によれば、『身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった、目が飛び出しており・・・』とあり、朝鮮使節の記録では、『秀吉は顔が小さく色黒で猿に似ている』とあります。信長からは「禿鼠」だの「六つめ」とも呼ばれていました。身長はおそらく140㎝位だったと言います。忖度抜きの外国人の観察は、信じていいように思います。

一方、秀頼の成人した様子は、身長180cmの偉丈夫。立派で品があり、見るからに君子然としている秀頼に、家康は、警戒を一層強めたと言われています。

父と子で、これほど違う外見であっても、秀吉は一途に秀頼を我が子と思っていました。と言うか、自分の血を受け継いでいようがいまいが、憧れの「お市様」の血を引く茶々が生んだ子ならば、種は誰であれ、もうそれだけで満足だったのではないでしょうか。「お市」は主君の妹君で絶世の美女。いくら秀吉が懇望しても、普通に考えれば、家臣の「猿」と呼ばれる男の側室(既に秀吉には正室の寧々がいたので側室のポストしか空いていないと言う事情がありました。)に成る筈もありません。ましてや、「お市様」の娘・茶々ならば、父母を殺した「猿」の閨所(ねや)に入るなど、悍(おぞ)ましい限りと思う筈ですが・・・秀吉は、あらゆる手を尽くして不可能を可能にし、茶々を手に入れました。

昔は、側室が生んだ子は全て正室の子と遇していました。正室の子ならば、秀吉の子でもあります。それに、秀頼を我が子では無い、と否定すれば、養子の秀次を殺害した今となっては、豊臣政権は秀吉一代で滅びる事になります。何としてもそれは避けなければならず、天下大乱を招かない為にも、又、自分が打ち立てた事業の後継者を保護する為にも、秀頼は失ってはならない掌中の珠でした。

彼は、二人の親子関係を揶揄するような落書に激昂し、犯人を探し出して関連した人達も含めて老若男女70人を磔にし、さらに100人を超える人達を処罰しました。異常なまでの執念で残酷な処刑をしたのは、秀吉の心の奥底に潜む黒い琴線に触れたからだと、婆は見ています。

 

 

余談  書状の読み方

昔の紙は和紙で、紙を漉くのに手間暇がかかり、大変貴重な物でした。そこで、書状などでは特殊な書き方をしていました。普通は縦書きで右から左へ文面が移って行きますが、書き切れなくなって紙が足りなくなった場合、元に戻って、最初に書き出した文章の間に書いて行きます。詰り、行間に書き綴って行きます。それでも、書き終わらない時は、最初の文章の出だしの前の開いた空間に、返し書きをします。形としては下記の様になります。番号は読む順番です。

  7       〇〇〇・・・・ (返し書き)

  8       〇〇〇・・・・ (返し書き)

  1   〇〇〇(以下略)・・・・ (本文書き出し。一行目)

  4  〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字位上から書く。文字は小さめ)

  2   〇〇〇(以下略)・・・・ (二行目)

  5  〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字上から書く。文字は小さめ)

  3   〇〇〇(以下略)・・・・ (三行目)

  6  〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字上から書く。文字は小さめ)

  9        恐惶謹言  or  かしくなど                          

       10   月日

  11          署名(花押)

  12    宛名

 

 

余談  書状の記号

書状では、良く使われる言葉は記号化されています。

例えば「申す」は英語の「P」に似た文字を使います。また、「申し候」は英語の「P」と平仮名の「し」が合体した様な文字です。「P」の先っぽが少し右に丸まった様な形です。筆が走って早い時には、チョンと点が棒にくっついたようなものもあれば、異様に短く、文字のハネにしか見えない場合もあります。「し」と読んだら「候」だったなんて事も有ります。「恐惶謹言」等も、草書を越えてもはや記号化しており、一見柳の枝の様に見える事も有ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

125 武将の人生(6) 出る杭は打たれる

七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

鷹狩の時に俄雨にあい、近くにあった貧しい家に立ち寄り、雨具を貸して欲しいと頼んだ太田道灌。その家の女は黙って八重咲の山吹の一枝を差し出しました。その意味が分からず腹を立てた道灌は、館に帰ってから家臣に尋ねました。すると、家臣がこう答えます。拾遺和歌集兼明親王(かねあきらしんのう)の歌があり、それには

七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき

とあります。それを知っていた女が、実と蓑(みの)を掛けたこの歌に託して「蓑が無いので悲しゅうございます」と伝えたかったのでは・・・と。道灌は歌に暗かった己を大いに愧(は)じ、和歌の道に励んだと伝わっています。

この項で扱う人物は太田道灌  三好元長   佐々成政  です。

 

 

太田道灌(おおたどうかん)資長(すけなが)(1432-1486)

室町時代、太田氏は関東管領・山内(やまのうち)上杉氏を支えている上杉分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏重臣。図式で言うと

鎌倉公方(後に古河公方)足利氏(臣下)関東管領山内上杉氏(補佐)←分家扇谷上杉氏(臣下)扇谷上杉氏家宰・太田氏

道灌の幼名・鶴千代元服して資長法名道灌江戸城を築いた名将。

父・太田資清、扇谷上杉氏の家宰(家の中の運営を一手に引き受ける人・執事・家老・重臣など)なるが故に、室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉公方関東管領の対立(享徳の乱)、上杉内紛、本家上杉家家宰の反乱(長尾景春の乱)等々、関東の騒乱の真っ只中に立つ。道灌も然り。

道灌、扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとも)、上杉政真(うえすぎ まさざね)、上杉定正の三代に仕える。道灌、父と共に河越城(埼玉県川越市)江戸城(東京都千代田区)馬橋城(千葉県松戸市)など各地に築城。江戸城は1457年に完成。(因みに道灌築城の130年後、徳川家康がこの江戸城を基に大規模に天下普請の拡張工事を行う)。

戦に於いて、従来の騎馬武者主体から足軽主体の集団戦法に替え、江戸城内で兵の訓練を日々行う。駆り集めの農民兵から訓練を受けた兵卒に脱皮。生涯30数度の合戦に於いて敗戦一度も経験せず。道灌の粉骨砕身の働きにより、関東に平安がもたらされ、主家・扇谷上杉家は、上杉本家の関東管領山内上杉家を凌ぐほどになる。大いに称賛されるべき所、主君・上杉定正、道灌の余りの有能振りに恐れを抱き、いつか自分の地位を脅かすのではないかと疑心暗鬼。道灌を館に招き、風呂に誘い、暗殺。随行の家臣達も皆殺しにする。享年55歳。

なお、道灌、死に際に「当方滅亡」と言う。この言葉は「当家は滅ぶ」の予言と解釈されている。また、討ち手が、道灌が歌の名人と知っていて、歌の上の句を

かかる時さこそ命の惜しからめ    

(こんな時、さぞかし命が惜しいだろうよ)と詠むと、道灌それに下の句をつけて

かねてなき身と思い知らずば     

(以前から我が身は無いものと悟っているので、命を惜しいは思わない。もし、それを悟っていなかったならば、命を惜しいと思ったであろう)と返し、絶命。

なお、道灌、上杉定正の心の動きを察知、事前に嫡男・資康(すけやす)を人質の名目で公方・足利成氏に預け、避難させている。道灌暗殺した定正はと言えば、忠勇有能なる臣を殺害した行為に、家臣達が一斉に逃げ出し、本家山内上杉家に身を寄せ、定正衰亡の道を辿る。再び関東に戦乱が呼び戻される。

 

 

三好元長 (1501-1532)

細川氏の分家である細川讃州家の代々の家臣。祖父は三好之長(みよしゆきなが)細川高国と戦い敗北、偽りの和睦により処刑さる。父は三好長秀。長秀、細川高国と如意が嶽の合戦で敗走。伊勢山田で北畠材親(きたばたけ きちか)と交戦し、自害。元長、父戦死後三好氏の総帥に就き、父祖が主筋としてきた細川讃州家の幼い当主・細川晴元(=六郎)を守り、仕える。

時の管領・細川本家・京兆家(きょうちょうけ)の細川高国、将軍の首を挿(す)げ替えるなど専横の振る舞い多く、不満の者多数。高国、重臣香西元盛(こうざい もともり)を無実の罪で誅殺するを機に、元盛兄弟をはじめ反高国派が挙兵。三好元長、主君・細川晴元を援け、11代将軍・足利義澄の遺児にして10代将軍義稙(よしたね)の養子・義維(よしつな)を擁し堺公方を樹立、反高国派の挙兵に合流。堺公方側、三好元長を総大将にして各地で激戦の末、1531年(享禄4年6月8日)、高国を自害さす(大物崩れ(だいもつくずれ))。

高国を滅ぼし、堺公方、いよいよ正式将軍就任かと思う時、細川六郎、近江に逃走中の将軍・足利義晴に接近、堺公方義維を捨て義晴側に就く。梯子を外された形の元長、畠山義尭(はたけやまよしたか)と共に主君細川晴元を諫めるも溝は埋まらず、路線対立で次第に関係悪化。

かねてより元長、六郎の臣・柳本賢治(やなぎもとかたはる)と不仲。賢治急死の跡を継いだその子・甚次郎の城を攻撃して落城さす。甚次郎討死。更に、権謀術数多く向背危うい木沢長政が晴元に取り入るのを善しとせず、長政の元主君・義尭と共に元長これを攻撃。長政、晴元に讒言したが為に、晴元、元長討伐に動く。長政、事に備えて三好元長に対抗意識を持つ三好政と手を組む。

義尭と元長、木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲し優位に立つ所、突如一向一揆に挟撃され潰走。畠山義尭自刃。三好元長、和泉本願寺まで敗走するも、そこで自害す。堺府も消滅。元長享年32歳。

一向一揆軍の蜂起、黒幕は細川晴元なり。元長討伐の為、山科(やましな)本願寺飯盛山城支援を要請。三好元長法華宗庇護者なれば一向宗の宗敵也と吹き込み、襲わせる。宗敵打倒の火が着いた一揆軍の勢いは燎原の火の如くに広がり、最終的には10万もの大群に膨れ上がったと言う。

後年、元長の嫡男・三好長慶(みよし ながよし)細川政権を打倒し、三好政長、木沢長政を討つ。

 

 

佐々成政(さっさなりまさ)(1536?-1588)

織田家家臣。猛将で知られ、織田信長の黒母衣衆のリーダー的存在。数々の武功を挙げ、北陸方面軍の柴田勝家の下に、成政前田利家、不破光春(府中三人衆)と共に組み入れられる。

成政、富山城城主となる。一向一揆や越後の上杉景勝の脅威に対処しつつ、常願寺川の治水工事(佐々堤)などを行う。時には北陸を離れ、石山合戦有岡城の戦いなどにも出陣。

1582年(天正10年6月)、本能寺の変勃発。

上杉景勝春日山城を攻略中の柴田勝家以下諸将身動きならず、秀吉に天下取りの先を越される。

1583年(天正11年)、羽柴秀吉柴田勝家賤ケ岳の合戦で、成政、勝家に与(くみ)するも、勝家敗北。翌年3月~11月に掛けて小牧・長久手の戦い(羽柴軍 対 徳川・織田連合軍)では、織田信雄(おだ のぶかつ)の誘いを受けて、成政、徳川軍に与す。前田利家に末森城を攻撃され敗北。突如秀吉と信雄の間で和議が成る。結果として、越中の成政、今は敵方となった越前の利家と、越後の上杉に挟撃される形になる。成政、密かに十数人(?)の家臣と共に城を抜け、浜松の家康に再起を促すべく説得に赴く。越前、越後の敵地を避け、ルートを北アルプス越えに取る。厳冬のさらさら越え(ザラ峠)や針ノ木峠を経て浜松に行くも、家康、成政を相手にせず。空しく帰国。成政、秀吉の軍門に降る。織田信雄の仲介により助命さる。

秀吉の九州征伐の時、功を上げ、為に肥後国を領す。秀吉より急激な改革を慎むべしと厳命されるも、急いで検地に着手。国人の蜂起に遭い収拾できず。責任を取らされ切腹を命ぜらる。享年49歳~52歳くらいか?

織田軍団の武将として全く孫色の無い猛将なるも、信長-信雄への忠誠心故に、新たな支配者・秀吉に従順になれず、秀吉の指示無視による出過ぎた振る舞いが懲罰対象か・・・

 

 

余談  太田道灌(資長)

幼少より聡明で知られ、父資清(すけきよ)、それを案じ「驕者不久(きょうしゃふきゅう)(驕れる者久しからず)」と諭すと、資長「不驕者又不久(ふきょうしゃまたふきゅう)(驕らざる者又久しからず)と即答しました。又、父資清が「障子は真っ直ぐ立ってこそ役に立つ」と教えると、「屏風は真っ直ぐ立っては役立たない。曲がってこそ役に立つ」と反論します。建長寺で禅を学び、足利学校で学問を治めました。日本有数の学者。文化人。歌人

江戸城を築城(現東京都千代田区)。皇居に「道灌濠(どうかんぼり)」、荒川区日暮里(にっぽり)道灌山の地名を残しています。都内・埼玉・神奈川各所に銅像が立っています。名将の誉れ高く、築城の名手です。

 

余談  岩佐又兵衛

絵師の岩佐又兵衛荒木村重の子です。有岡城落城の時、赤ん坊の又兵衛は乳母に抱かれて脱出。石山本願寺に保護されました。「岩佐」は母方の姓です。長ずるに及んで絵師などの技を以って織田信雄に仕えましたが、信雄が改易されて出家すると、又兵衛は京都や北の荘、江戸などで絵師として活躍します。

 

余談  さらさら越え

さらさら越えと言うのは、ザラ峠を越える事をいいます。ザラ峠は立山の室堂(むろどう)近くにある峠で、標高2,348mです。

鉢の木峠と言うのは、後立山連峰の針の木岳と蓮華岳の間にある標高2,536mの峠です。佐々成政が富山から浜松まで厳冬の北アルプスを通って行ったと言うのは史実です。が、登山装備も満足にない昔の人が、冬のアルプスをさらさら越えするなど無理だとする登山家も居て、他にもルートが幾つかあり、実際には高山を経て、より標高の低い安房峠(あぼうとうげ)(1,790m)を通ったのではないか、と言う説もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

124 武将の人生(5) 足利将軍家2

お茶会が始まる時「お床拝見」をします。その時、他の流派では床の間の正面に座り、膝前に扇子を置いて拝礼し、拝見しますが、式正織部流では、拝礼はしますが膝前に扇子を置きません。

利休は床の間を「神聖な場所」或いは「冥界」と見立てています。ですから、そこに踏み込まない様に、床の間との間に結界を設けます。結界の印が扇子です。冥界と一線を画す為に扇子を置きます。

武士にとって「死」は非日常では無く、あの世は地続き。ひょいと一歩向こう側へ踏み出して行く日常です。「死」は他所事では無く自分事です。多くの普通の人が「死」を他所事として捉え、冥界と一線を画す為に扇子を置こうとする所作は、武士には無用です。お茶席の所作の一つにも、武家茶にはこのように武士の生き様が投影されています。

式正織部流の「茶の湯」の背景にある世界を、武将達が歩んだ「死」のナイフエッジの道を通して、もう少し、探って行きたいと思います。

この項で扱う人物

足利義晴、  足利義輝・義藤、  足利義栄(あしかがよしひで)義親(よしちか)、    

足利義昭・義秋 

 

足利義晴 (あしかが よしはる)(1511-1550)

室町幕府12代将軍。父は11代将軍・足利義澄。弟(or 兄?)に義維(よしつな)が居る。

父・義澄が将軍位を追われて近江にいた時に、義晴誕生。父、再起を図るも、志を果たせず病没す。父死没の年誕生の義晴は播磨の赤松義村に預けられ、義維(義維の誕生年は不詳)は阿波の細川澄元の下に送られ、兄弟別々に育つ。

父が近江に没落している間に再任された(元10代)将軍・義稙(よしたね)管領細川高国と対立して破れ、阿波に逃亡。その時義稙、阿波の細川氏に預けられていた義維を養子にとる。義稙没後、細川晴元三好元長らは義維を推戴して堺に堺公方を樹立する。

1522年(大永元年)、義晴、朝廷より将軍宣下を受け12代将軍襲位。時に11歳。管領細川高国や父の遺臣達の助けを得て政務を執る。堺公方・義維を擁する細川晴元に度々京都侵攻を受け、その都度近江坂本などに亡命するも、幕臣達の支えで亡命政府としての機能を保つ。朝廷も義晴を正統の将軍として遇する。高国と晴元の京都をめぐる攻防激しく、義晴、京都ー近江を中心として避難、逃亡の引っ越し動座21回。

細川家内紛混沌。細川家家臣三好氏も内紛、向背、戦死等相乱れ、ついに義晴が高国を見限り、「大物崩れ(だいもつくずれ)で高国戦死。三好氏が主家・細川家に背き、三好長慶(みよしながよし)が実権を握る。義晴、三好長慶に対抗すべく中尾城を築き、北白川にも城を築く。が、義晴、病が悪化、穴太(あのう)で薨去。将軍在位25年。享年40歳(満39歳)。

   参考:99戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

      100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還

      101 戦国乱世(1) 大物崩れ

 

足利義輝・義藤 (1536-1565)

室町幕府13代将軍。父は12代将軍足利義晴。京都の南禅寺で誕生。朝廷より義藤の名を賜る。後に義輝と改名。

1546年(天文15年12月20日)、義藤、近江坂本にて将軍宣下を受ける。時に11歳。

義藤が将軍職を継いだ頃、細川京兆家(ほそかわ きょうちょうけ)内部で権力闘争があり、京兆家の家臣・三好氏も二派に割れて闘争。管領細川晴元、義藤弟・義維を旗印にして堺公方府を樹立。細川一族内部の私闘に、幕府も巻き込まれる。為に、将軍義藤も幾度も近江へ動座。

1554年(天文23年)、義藤、朽木(くつき)滞在中に名を義輝に改める。将軍の権威を上げる為、諸大名の調停に積極的に取り組み、偏諱(へんき)を与え、役職を任ず。織田信長斎藤龍興長尾景虎等が上洛、謁見。

細川氏内紛を制して頭角を現した三好長慶、主君の細川晴元を没落させ、強大な軍事力と巧みな政治力を以って実権を握り近畿一円を支配。京都の治安を維持す。朝廷の元号改元の相談に与(あずか)る程になる。初めて源氏流に拠らない武家政権を確立。が、順調満帆に見えた三好政権、長慶を襲った身内の不幸に脆くも崩れる。

長慶弟・十河一存(そごう かずまさ or かずなが)病気による急死。弟・三好実休(みよし じっきゅう)、久米田の戦いで戦死。嫡子三好義興(みよしよしおき)22歳で早世。と立て続けに失い、弟・一存の息子・重存(しげまさ)を養子にとるも気鬱になり、精神を病む。唯一残った弟・安宅冬彦を呼び出して殺害 (謀反の讒言が原因との説有るが真相不明)。長慶、絶望のあまりその約二か月後の1564年(永禄7年7月4日)に病死。長慶死後、三好三人衆を制御する者無し。

過去に攻防繰り広げながらも、義輝の長慶厚遇政策に懐柔されていた三好氏、長慶亡き後、将軍親政を推し進める義輝に、傀儡将軍を望む三好重存、三好三人衆 (三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友道(いわなりともみち))松永久通の不満が爆発。義輝を討つ。(尚、松永久秀は加わらず)

1565年6月17日(永禄8年5月19日)、三好軍1万を以って二条御所を攻撃。義輝自ら迎え撃ち、刀を取って奮戦するも討死。家臣殆ど全滅 (永禄の変)。上は天皇から大名、庶民までその死を惜しむ。将軍在位18年5ヵ月。享年30歳。(満29歳)

   参考:102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)

               103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)

                104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変

 

足利義栄(あしかが よしひで)義親(1538-1568)

室町幕府14代将軍。祖父は11代将軍足利義晴、父は堺公方足利義維(よしつな)。義栄は阿波で誕生。初名は義親(よしちか)

父・義維、一時堺公方なるも没落し、阿波に逼塞(ひっそく)。義親、父に従い、阿波の平島館(ひらしまやかた)(現徳島県阿南市)で穏やかな日々を暮らす(平島公方)

やがて、三好本家が、意のままになる新たな将軍を推戴しようと、義維・義栄親子に接近、事態が動き出し、身辺が慌ただしくなる。義維その時中風。若い義栄が将軍にと担がれる。

1565年、永禄の変で13代将軍・義輝が殺害さる。殺害首謀者の一人で三好長慶の跡取養子・三好重存(みよししげまさ)、直ちに改名し、義継(よしつぐ)と名乗る。「義」は足利将軍家の通字。「義」の通字を以って「継ぐ」とは、将軍に取って代わるとの意思表示と見る研究者有り。義輝を殺害してその地位に登らんとした義継なるも、貴種尊重の流れの前に、将軍の血筋を持つ義栄が優位に立つ。松永久秀・久通親子三好三人衆と袂を分かち、義輝の弟・足利義昭の側に立つ。義昭の後ろには織田信長朝倉義景らが居る。

義栄を旗印に迎えた三好陣営、三好義継を疎外。義継、いたたまれず義昭側に寝返る。

義栄、朝廷に太刀や馬を献上し、将軍就任活動をする。三好三人衆  vs  松永・義継、東大寺で戦う。この時、東大寺大仏殿炎上。義栄、将軍宣下を朝廷に乞うも、献金不足で却下さる。更に義栄努力し、旧義輝政権で干された伊勢為貞を幕府政所執事に据え、幕府内の態勢を整え、ようやく将軍就任に成る。これを祝い、堺の津田宗及(つだ そうぎゅう)屋敷で大宴会を催すも、足利義昭を奉ずる織田信長、次々と義栄陣営の城を攻略、落城させ、進撃の勢い止められず、ついに義栄、自身の病発症の事も有り、阿波へ退却。1568年(永禄11年)死去。将軍在位8か月。享年29歳。

 

足利義昭・義秋(1537-1597)

室町幕府15代将軍。父は12代将軍・足利義晴。13代将軍・足利義輝は同母兄。14代将軍義栄は従兄弟。義昭の幼名千歳丸法名覚慶(かくけい)。還俗初名義秋元服義昭昌山道休

 

[ 1期 将軍への道 ]

4歳で、興福寺塔頭・一乗院に入り出家。覚慶と名乗り、門跡となる。1565年(永禄8年)、兄、義輝殺逆(しぎゃく)されるの時(永禄の変)、覚慶も捕縛され、興福寺に幽閉さる。

幕臣細川藤孝、三渕藤秀(みつぶち ふじひで(→細川藤孝異母弟))米田求政(こめだ もとまさ(☆藤孝の家臣))、一色藤長(☆妹が義晴側室)仁木義政(☆伊賀の豪族)、和田惟政(わだ これまさ(☆甲賀21家の中の一人))などの連携により脱出に成功。惟政の居城・和田城に入る。覚慶、将軍になる覚悟を決め、和田城にて諸国大名に幕府再興への支援を呼びかける。更に、和田(現滋賀県甲賀市)よりも京都に近い矢島(現滋賀県守山市)に移り還俗。義秋と改名。

興福寺脱走約1年余、諸将、義昭上洛支援の具体的動きの気配無く、義秋、矢島から義弟・武田義統(たけだよしずみorよしむね)を頼って若狭へ移動し、名を義昭に改名。が、武田氏内紛による衰退につき、1566年(永禄9年9月)朝倉氏を頼って一乗谷へ移る。朝倉義景、詩歌遊芸に耽(ふけ)り腰を上げる兆し無し。義昭、一乗谷滞在の間に、足利義栄が将軍宣下を受け、14代将軍に就任す。

 

[ 2期 幕府樹立へ]

義昭、織田信長の上洛を促し、信長の後顧の憂いを取り除く為、尾張と美濃の講和を勧め和睦成功するも、信長、それを破棄。稲葉山城の戦い斎藤龍興と一戦を交え信長勝利す。

1568年(永禄11年7月25日)、義昭、岐阜の立政寺(りゅうしょうじ)で信長と対面。

1568年(永禄11年9月7日)、信長、義昭を奉じて上洛を開始。

上洛途次の六角氏を攻撃。六角氏の箕作城(みつくりじょう)を1日で落とす。以降、六角氏の18支城ドミノ倒しに落つ。城兵逃亡、投降など落城の状況様々。この報に京都の三好氏、戦わずして京を退却。

1568年(永禄11年9月26日)、信長、義昭を奉じて入洛し(この頃、平島公方義栄、死去)、10月18日に義昭、第15代征夷大将軍に就任す。

義昭、信長を「御父(おんちち)」と呼び、信長に管領や副将軍のポストを用意するも、信長これを拒否。義昭、諸将の論功行賞などを行い、各職掌を整える。幕府成立の達成感により警備油断。三好氏、そこを突き、義昭を急襲(1569年(永禄12年1月)本圀寺の変)。近隣諸将急ぎ救援、信長も岐阜より駆けつけるも、義昭、手勢で辛くも危機を脱す。二条城を再建し防御を強化す。

信長、義昭に「殿中御掟」の9ヶ条を示し、更に7ヶ条、5ヶ条と追加。計21ヶ条の掟を示す。何事も信長の許可なく行うべからず、等々の条々。義昭の行動を制限する内容也。

 

[3期 信長との連携]

1569年(永禄12年8月)、信長、北畠氏討伐に出陣するも攻城不調で戦況不利に傾くを、義昭、信長を援け和議斡旋に動く。同年10月、信長有利の条件で和睦成立。

義昭の義弟・若狭の武田義統朝倉氏に併呑(へいどん)さる。当主・武田元明一乗谷に居住、朝倉監視下に置かれる。義昭、若狭武田氏再興を望む。

1570年(元亀元年4月)、信長、朝倉氏討伐の為、織田・徳川軍を主軸にした幕府軍を率いて越前へ出陣。信長と浅井長政、信長妹お市の方の輿入れにより義兄弟の同盟を結ぶも、長政、朝倉に与(くみ)す。更に六角義賢(ろっかく よしかた)蜂起。金ケ崎城での合戦、信長優位に進むも、浅井叛旗により挟撃の恐れ生じ、信長直ちに退却す。(金ケ崎の戦い。金ケ崎の退口(のきぐち))

同年6月、信長、改めて浅井・朝倉攻めに出陣。義昭、織田方に味方する様に畿内に動員令を発す。織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で激突(姉川の戦い)、織田・徳川連合軍、これに勝利す。

同年7月、三好三人衆((三好長逸(みよし ながやす)・三好宗渭(みよし そうい)・岩成友道(いわなり ともみち))と細川昭元が挙兵。義昭方の城を攻撃(野田城の戦い・福島城の戦い)。義昭、河内、紀伊、和泉に動員令を掛け、信長にも参陣を要請。義昭、自ら出陣し、幕府軍3万、織田軍3万を率いて三好軍側と睨み合う中、石山本願寺が蜂起。続いて浅井・朝倉が連動して蜂起。比叡山延暦寺が浅井・朝倉側に就く。

義昭・信長、和議に動く。信長、六角氏と本願寺三好三人衆と講和。義昭と関白・二条晴良、浅井・朝倉・延暦寺と和議交渉。最終的に勅命が出て勅命講和が成る。

 

[4期 信長と対決]

義昭と信長の蜜月の連携に陰り生ず。各地で合戦多発、調略激化。疑心暗鬼の世になる。

義昭、畠山秋高と遊佐信教に義昭から離反しない様にとの書状を出す。松永久秀、義昭に叛旗を翻し、三好三人衆側に奔る。更に、浅井・朝倉の残存勢力、比叡山に逃げ込み延暦寺と手を結ぶ。信長、怒り心頭、延暦寺を焼討す。

1572年(元亀3年9月)、信長、義昭に「異見十七ヶ条」を送付。義昭の振る舞いに注意を与える。

同年10月武田信玄、甲斐を進発し、三河の三方ヶ原で徳川家康を破る。

信玄に与するか否か、幕府内の意見割れ親信長派の義昭次第に孤立。ついに、

1573年(元亀4年/天正元年2月13日)、義昭、信長討伐令を下す。

信長大いに驚き、息子を人質に講和を申し入れるも、義昭応じず。幾度の交渉も功を奏さず。一方、義昭、朝倉義景に上洛を命じるも、上洛せず。信玄も動かず。義昭、近隣の国衆に動員を掛けるも、既に信長先手を打って彼等の城を攻め落とし済。義昭の兵力数千、対する信長1万。信長講和を求めるも義昭応じず。信長洛中洛外に放火を命じ、市中混乱。信長最後の手段で勅命和議に持ち込む。義昭、この時、未だ信玄の死を知らぬ形跡あり。

同年7月2日、義昭、宇治の槙島城に入城し、再挙兵す。

信長上洛。二条御所の義昭の家臣達、無血開城し信長に降伏。信長、二条御所を破却、二条御所の宝物略奪勝手放題を人々に許す。

7月18日、信長、槙島城を攻撃。義昭、1歳の息子・義尋(ぎじん)を人質に差し出し、信長に降伏す。

この時を以て室町幕府滅亡と言われる。が・・・

 

[5期 蠢(うごめ)く将軍]

槙島城(まきしまじょう)で敗北した義昭、信長に追放され、三好義嗣の居城・若江城に身を寄す。義昭、若江城にて信長討伐令を乱発。義昭を庇護した義嗣に信長怒り、若江城から義昭を追い出した後、佐久間信盛に命じて若江城を攻撃す。

1573年(天正元年11月)、三好義嗣奮戦するも敗北し落城、自害。

義昭、若江城を退城してより後も、放浪の旅の先々で幕府復活の悲願を達成すべく、これぞと思う大名に御内書を下し、上洛援助を命令す。頼みの大名、朝倉義景浅井長政、信長に討滅さる。上杉謙信北条氏政六角義賢へも上洛命令を下し、島津義久へも協力を命ず。

義昭、毛利輝元を頼り備後の鞆(とも)に移り、鞆幕府を開く。義昭、毛利輝元へ信長討伐を命令す。

輝元、織田信長と事を構えるを嫌うも、信長、羽柴秀吉を中国地方攻略に派遣するを見て、信長打倒に起つ。義昭、これを喜び、毛利輝元を副将軍とし、毛利軍を幕府軍と成す。義昭、輝元の後顧の憂いを除く為、島津氏に使者を遣わして大友氏牽制を命じ、更に、島津氏へ毛利氏への援軍を求む。が、大友氏が動き、毛利氏内部を調略し、重臣謀叛。毛利氏の出陣、無期延期となる。

更に義昭、武田勝頼徳川家康を攻撃する様に命じ、織田軍の兵力分散を画策。

1574年(天正2年5月21日)、織田・徳川連合軍、長篠の戦で武田勝頼を破る。

1578年(天正10年3月)上杉謙信死去。

同年6月2日本能寺の変織田信長明智光秀に討たる。

 

[6期 晩年]

本能寺の変の7日後の6月9日、義昭、毛利輝元に入洛の供奉出兵を命ずるも、輝元動かず。

6月13日、秀吉、山崎の合戦で明智光秀を破る。

羽柴秀吉柴田勝家の戦いの時、義昭、柴田勝家を応援、結果、勝家敗北に伴い義昭、敗者側に没落す。羽柴秀吉、関白太政大臣豊臣秀吉となり、義昭より上位に立つ。義昭、朝廷に正式に将軍位を返上。これにより、室町幕府完全に消滅す。

秀吉の計らいにより、義昭、准三宮になり、槙島に1万石の領地を得る。文禄の役の時、3千の兵を率いて肥前名護屋に出陣。無理が祟ったのか帰洛後病に伏し、

1597年(慶長2年8月28日)、薨去。葬儀は極めて簡素。享年61歳。

     参考:106 平蜘蛛の釜

        109 信長、茶の湯御政道

 

 

余談  ナイフエッジ

ナイフエッジとは登山用語です。ナイフの刃の上を歩くような、両側が切り立った崖の稜線の事を言います。

 

余談  覚慶(義昭)幽閉と松永久秀

永禄の変の時、松永久秀が覚慶を興福寺に幽閉し厳重に監視したと言われています。これは、逆の見方をすれば、襲撃犯から覚慶を守る為に保護したとも取れます。幽閉された場所は元々覚慶が居た興福寺です。自宅に監禁する様なものです。監視の厳重さは暗殺者の侵入を防ぐ為とも取れます。

後に、覚慶に脱走されてしまった不始末を三好義継や三好三人衆に糾問されて、松永久秀は息子・久通と共に彼等から離れ、信長側に帰順します。

 

 

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