式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

149 信長年表5 包囲網(2) 幕府滅亡・長篠合戦

「式正織部流「茶の湯」の世界」と標榜しながら、武士の歴史ばかりを述べているなんて、表紙と中身が違うではないかと、お叱りを受けそうです。が、式正織部流は武家茶です。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見れば分かる様に、或いは某国の軍事独裁国家の粛清を視れば分かる様に、武家社会のトップと№2の争いは血みどろです。3位4位の争いも、49位と50位の争いも大同小異です。力対力の相剋の歴史にしばらくお付き合い下さい。利休も「武家社会」と言う軍事独裁国家の内政№2の権力者でしたから。

 

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。 〇超有名人は氏を省略する事も有り。織田信長→信長。足利義昭→義昭。武田信玄→信玄。上杉謙信→謙信。徳川家康→家康等々外にも。

 

1572(元亀3.09)     信長、足利義昭17条の異見書を突き付ける。

足利義昭織田信長の後押しを得て1568年に将軍に就いたが、4年後の1572年には二人の蜜月の関係は終わった。切っ掛けは、信長が義昭に突き付けた『異見17ケ条』だと言われている。その意見書は大変長い手紙になっている。内容は簡単に言うと次の様なものである。

1、宮中参内を怠らない様に。  2、諸大名に馬をねだるな。信長が用意する。  3、忠節の者を粗略にするな、新参者を贔屓するな。  4、宝物を二城御所から他所へ移したのは何故か? 折角御所を建ててやったのに残念である。  5、加茂神社の領地を召し上げて、岩成友通に与えるのは良くない。  6、信長に友好的な者を冷たく扱うな。  7、真面目に奉公する者への扶持は増額すべしと具申したが、未だ誰一人加給されていない。  8、若狭の代官への告訴を何時までも放置するな。  9、喧嘩で死んだ者の刀や脇差を将軍が没収したと聞いている。みっともない。 10、「元亀」の改元の費用を滞納するのは良くない。 11、烏丸光康を赦免した際、賄賂を取って許したのは嘆かわしい。  12、諸国から金銀を集めながら、公に役立てないのは何故?   13明智光秀が徴収した税収を、延暦寺領のものだと差し押さえたのは不当である。14、昨年の夏、兵糧米を換金したそうだが、将軍が商売するとは前代未聞。  15、寵童に扶持を与え、職を任じ、訴訟に肩入れすると言う悪評が有る。  16幕臣が武具や兵糧に気を遣わず貯蓄に励んでいる。それは将軍の蓄財ぶりを見て、さては将軍が出奔する積りらしい、と失業の不安に駆られるからである。  17、将軍の事を下々は「悪御所」と呼んでいる。足利義教様の例があるので、よく考える様に。

この17ケ条は公開意見書で、何枚も書写されて方々に配られた。義昭が17条の意見書に激怒した。

1572.11.08(元亀03.10.03) 武田信玄、西上作戦開始 

それ迄矛先を北の信濃へ向けていた信玄は、目を南の遠江駿河三河へ転じた。四方を山に囲まれた甲斐は、上洛するには西に立ちはだかる山脈を避けて北か南に出るしかない。信玄は信長との同盟を破棄。彼は軍を三手に分け、信玄本隊は諏訪から中央構造線上に沿った秋葉街道(塩の道・国道152号線)を南下、先遣隊の山県隊は伊那街道を通って三河へ、別動隊の秋山隊は美濃へと侵攻した。

家康は信長に救援を求めたが、信長は、浅井・朝倉、石山本願寺と対決中で、家康の要請に充分に応じられず、3,000の兵を援軍として送るにと止まった。信長、この危機に上杉謙信と同盟す。

1572.01.22(元亀3..12.19.) 徳川方の遠江北部の二俣城、武田によって陥落。

1572.01.25(元亀3.12.22)   三方ヶ原の戦い

武田信玄徳川家康領に入る。これを阻止せんと浜松城から打って出た家康は、三方ヶ原で命からがら壊走。生涯最大の敗北を喫す

1573(元亀4.02) 足利義昭、信長に対して挙兵。

信長の盟友・徳川家康武田信玄に敗れたのを見て好機到来を確信し、信長に対して挙兵する。義昭側近・細川藤孝が信長にこれを知らせる。これを知り、信長は義昭に和平を求める。

1573.03.16.(元亀4.2.13) 義昭、浅井・朝倉・本願寺・武田に御内書を下し、挙兵を促す。

1573(元亀4.03) 信長、義昭と和平を求むるも、義昭断り、信長と関係を断つ

同年4月、信長、上京に放火して脅しをかけ、義昭に和平を求むるも応じず。信長、洛外に(or上京に)放火し更に和平を求めるも、義昭応じず。ついに信長、二条城を軍勢で取り囲む。下旬、義昭と和平成る。

1573(元亀4.04初旬) 武田軍、進軍停止後甲斐に撤退開始。

1573.05.13(元亀4.04.12) 武田信玄病没。享年53歳。

1573.05.26(元亀4.04.25) 上杉謙信、越後に帰国。

武田信玄が背後の安全を確保する為に、上杉謙信越中に釘付けしていた一向一揆の首領・椎名泰胤、松倉城を1月に開城するも、謙信が帰国の途に就くと忽ち叛旗を翻す。謙信引き返し、これを駆逐、一揆勢敗走する。これより神通川以東は、謙信支配下になった。

1573.07.31(元亀4.07.03) 義昭、槙島城で再び挙兵。

1573.07.09(元亀4.07.12) 二条御所を守っていた三渕藤英、柴田勝家の説得に応じ二条御所を開城。信長、この殿舎を破却す。

1573.08.10(元亀4.07.13) 信長、毛利輝元に義昭の振る舞いを報せる。

信長は、「将軍が挙兵し天下を乱したので、将軍の代わりに自分が天下を鎮めた、将軍家の事に関しては万事相談しながら対処していきたい」と伝える。

1573.08.15(元亀4.07.18) 信長、槙島城を攻める。義昭、子の義尋を人質として投降。

1573.08.15(元亀4.07.18) 足利義昭を追放、室町幕府滅亡

1573.08.16(元亀4.07.19) 義昭、真木島城を退去。

1573.08.18(元亀4.07.21) 義昭、本願寺兵に警護され、三好義嗣の若江城に入る。

1573.08.21(元亀4.07.24) 義昭、毛利輝元吉川元春小早川隆景に援助を要請。

1573.08.25(元亀4/天正1.07.28) 元亀から天正改元

1573(元亀4.08) 謙信、越中へ出陣して、椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破。

上杉謙信、更に加賀国に足を延ばし、一向一揆の朝日山城を攻撃、越中の過半を制圧した。

1573.08.28(元亀4/天正1.08.01) 義昭、毛利輝元に援助を依頼。

1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 朝倉氏滅亡。

8月に入って信長、朝倉攻めに出陣。同月3日信長大勝。同20日朝倉義景、賢松寺で自刃。

1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 義昭、三好義継・三好康長と畠山氏との間で講和を図る。

1573.09.23(天正1.08.27) 浅井氏滅亡。

信長、浅井氏を攻め、小谷城落す。浅井久正・長政父子自害。

1573.10.02(天正1.09.07) 毛利輝元から義昭へ、挙兵拒否の返書が届く。

1573.10.19(天正1.09.24) 信長、伊勢長嶋一向一揆討伐の為岐阜を出陣。

攻撃一ヵ月に及び諸城落すが、伊勢の大湊を抑えられず撤退。岐阜に帰城する。

1573.11.28(天正1.11.04.) 信長、佐久間信盛に命じて、若江城の三好義継を攻める。

1573.11.29(元亀4/天正1.11.05) 義昭、和解の説得に応じず、城を出て堺へ行く。

信長側から羽柴秀吉と朝山日乗が義昭の下に遣わされ、毛利輝元からは安国寺恵瓊と林就長が派遣されて、義昭を和解に動く様に説得するも、和解成立せず。安国寺恵瓊、義昭へ「義昭様の西国下向は、毛利輝元様にとって迷惑である」と伝えて、帰国する。

1573.12.03(元亀4/天正1.11.09) 義昭主従20人、畠山氏の勢力下の紀伊に下る。

1573.12.10(元亀4/天正1.11.16) 信長、光秀・細川藤孝若江城攻撃を命ず。

義継家臣達と織田側が内通。三好義継敗北。義継は一族を殺害し、自害。

1574.01.03(元亀4/天正1.12.11) 義昭、畠山氏の重臣・湯川直治に自分への協力を命ず。

1574.01.04(元亀4/天正1.12.12) 義昭、上杉謙信武田勝頼北条氏政加賀一向一揆と講和し、自分への協力を命ず。

1574(天正2.01) 信長、越前一向一揆討伐の為、羽柴秀吉を派遣。

1574.01.23(天正2.01.01) 信長の重臣達が年始の祝賀の為に岐阜城登城。

1574.02.07(天正02.01.16) 義昭、紀伊への動座を六角義賢に報せ上洛に協力を命ず。

1574(天正02.01下旬)      武田勝頼、美濃明知城を攻める。

1574(天正02.02.) 義昭、熊野本宮の宮司に対し、上洛に協力する様に命ず。

1574(天正02.02) 信長、明知城救援に向うも間に合わず、明知城落城。

1574(天正02.03) 謙信、関東の膳城、女渕城、深沢城、山上城、御覧田城を落とす。

1574(天正02.03) 信長、従三位に叙任する。

1574(天正02.03) 織田信長上杉謙信洛中洛外図屏風を贈る。

1574.04.11(天正02.03.20) 義昭、信長包囲網を画策し、武田勝頼北条氏政上杉謙信三者に対し、講和を呼びかけた。

1574.04.18(天正02.03.27) 信長、勅許を得て、東大寺正倉院の名香・蘭奢待を賜る。

1574.05.04(天正02.04.14) 義昭、島津義久武田勝頼の進出を伝え上洛協力を命ず。

1574.05.04(天正02.04.14) 信長、石山本願寺を攻撃。

1574(天正2.05~2.06.18) 第一次高天神城の戦い。

武田勝頼 vs 小笠原長忠(信興)(徳川方)  信長の救援間に合わず、城は降伏開城。

1574(天正2.06~09)信長、伊勢長嶋一向一揆討伐。一揆勢男女2万人を焼き殺す。

伊勢長嶋は揖斐川木曽川が伊勢湾に注ぐ河口に位置し、両河原に広がる中州のような七つの島(七島)が訛って長嶋と呼ばれる様になった地域である。輪中のこれらの島は一向宗徒で固まっており独立性が強く、信長のような俗世領主に対して反抗的だった。信長は、第一次、第二次と派兵したが、一向一揆勢の武力は強く、信長、6月23日に大動員令を掛け、12万の兵をもって伊勢長嶋の一向一揆征伐に出陣、第三次総攻撃を仕掛けた。進撃開始は7月14日である。陸上・海上ともに蟻の出る隙もない程に取り囲み力攻めをした。幾つもの城を攻め落とし、残るは五つの城になった。攻城と兵糧攻めを併せて行い、餓死者が相当数出るようになった。一揆側は命乞いをし、降伏開城したが、信長は船で退城する門徒衆を一斉に射撃、討ち取った。一揆側はこれに怒り、猛烈な反撃を行い、織田側にも名立たる武将にかなりの戦死者が出た。信長、残る2城を取り囲み四方から火を放った。焼死者2万人と言われている。

1574(天正2.10) 信長、尾張国内の道路・橋・水道等のインフラ整備を命じる。

1574(天正2.12.) 尾張国の分国中の道路・橋・水道などの整備が整う。

これによって領民が暮らし易くなったが、もう一つ重要な事がある。それは、軍事行動を素早く展開できるようになった事である。

1575(天正3) 信長、越前・加賀一向一揆を鎮圧する。

1575(天正3.04.06~) 信長、高屋城(義昭側)の三好康長と石山本願寺の攻略に出陣。

1575(天正3.04) 武田勝頼、大軍を率いて三河に侵攻す。

1575.06.20(天正3.05.12) 信長、長篠城救援の為出陣。その後家康と合流。

1575.06.22(天正3.05.14) 長篠城の500人、救援要請の密使を岡崎城に派遣。

密使・鳥井強右衛門(とりいすねえもん)夜陰に紛れて城脱出。岡崎城で信長・家康軍38,000の出撃寸前を知り、取って返すも敵手中に落ち、死を賭して長篠城に救援到来を伝える。城側意気回復。

1575.06.26(天正3.05.18) 信長軍、設楽原(したらがはら)に着陣。

信長、土塁や馬防柵など野戦用の砦を構築。

1575.06.28(天正3.05.20) 信長、鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を強襲させる。

信長、長篠城を包囲している鳶ケ巣山砦を落す為、酒井忠次を呼び別動隊を組織。武田陣を大きく迂回してその背後に回り、武田陣後方奥にある鳶ケ巣山の砦を全て落とし、長篠城を解放。武田軍は全面に信長・家康連合軍、後方に酒井隊に挟撃される形になる。

1575.06.29.(天正3.05.21)  長篠の戦いで織田・徳川連合軍が圧勝する。 

長篠の戦の主戦場となったのは、長篠城からおよそ3㎞離れた連吾川(れんごがわ)沿いの細長い丘陵地だった。信長は大軍を擁していたにもかかわらず、兵の配置を隠した寡兵弱小を装った作戦により、勝頼は織田・家康軍を一気に潰そうと設楽原におびき出され、術中に嵌って大敗した。

1575(天正3.07) 信長、正親町天皇の昇叙の勧めを辞退。

1575(天正3.08) 信長、越前一向一揆を討伐

1575(天正3.10) 信長、京都妙覚寺で茶会を開く。千利休が茶頭を務める

1575.11.23(天正3.10.21) 石山本願寺光佐、和睦を願う。信長これを承諾。

1575(天正3.11.04) 信長、権大納言に叙任。3日後右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼任。

1575(天正3.11.28) 信長、嫡男・信忠に尾張・美濃を与え、家督を譲る。信長42歳。

1576(天正4.正月) 安土城建設に取り掛かる。信長の京都屋敷の造営が始まる。

1576(天正04.02) 義昭、紀伊を出て毛利輝元を頼り、備後国の鞆(とも)に動座。

1576.03.08(天正04.02.08) 義昭、吉川元春に、輝元が幕府再興をする様に御内書を出す。

1576.03.25(天正4.02.25) 信長、安土城に移る。 

 

 

余談  長篠の戦いの真実は?

長篠の戦いで信長は、武田騎馬軍団に対して3千挺の鉄砲を三段撃ちにして集中砲火を浴びせ、勝利した、と言われております。ところが、最近の研究では、どうも違うらしいという話が出て参りました。そもそも武田騎馬軍団と言われる様な組織化された馬部隊は、武田には無かったそうです。また、織田側にも3千挺の鉄砲は無かったそうで、三段撃ちも後世の創作と言われ始めました。

これ等の話は、江戸時代に書かれた小瀬甫庵(おぜ ほあん)小説信長記」に基ずいたもので、太田牛一の「信長公記」にはそのようには書かれていないそうです。

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「織田信長の歴史年表」「御館様 織田信長の年表」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

148 信長年表4 包囲網(1) 姉川合戦・比叡山焼打

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)  〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

前号で、足利義栄が病没(享年31)し、義昭が将軍就任。義昭就任早々の翌年1569.01.31(永禄12.01.05)に本圀寺の変が起こった事までを記しました。信長はこの為、将軍御所の防備を万全にすべく、二条城を造り直しました。

1568(永禄11) 若狭武田氏、朝倉義景の侵攻を受ける。

若狭武田氏の当主・武田元明は、内紛に乗じて朝倉氏に侵攻され、朝倉義景により越前一乗谷に拉致された。元明の母は足利義昭の妹である。つまり、義昭と元明は伯父と甥の関係になる。義昭は将軍就任前に縁を頼って若狭へ赴いた。が、若狭武田氏の内紛の最中で支援を得られず、止むを得ず越前の朝倉を頼ったと言う経緯がある。信長の朝倉征討は、信長の上洛命令に従わない朝倉氏を討伐すると言う目的もさることながら、義昭の元明救済の願いにも拠っている。

1568~1571(永禄11.12~元亀2.12) 武田信玄駿河侵攻。北条氏と全面戦争。

武田信玄が北条と長期にわたり争った。この為信長包囲網形成の時、武田の一画が手薄となった。信長としては軍事的にも時間的にもこれによって余裕が生まれ助かった面がある。

1569.01.30(永禄12.01.14) 信長、殿中御掟の9ヶ条を義昭に承認させる。

殿中御掟(でんちゅうおんおきて)は1月14日に9ヶ条、更に同月16日に追加7ヶ条、再々度追加5ヶ条が出され、計21ヶ条の政治を行う上での方針が示された。これは、従来から室町幕府が行って来た政府内秩序を保つための規範を纏めたもので、政治初心者の義昭にとって指針となるものであった。

1569(永禄12.03) 上杉謙信と北条氏が同盟。

北条氏と同盟して関東の憂いを除いた上杉謙信は、越中の椎名康胤(しいなやすたね)の城を攻囲する。

1569.03.18(永禄12.03.01) 朝廷は信長を副将軍にする勅旨を下すが信長応えず。

1569.04.30(永禄12.04.14)  室町幕府の政庁の二条城が出来上がる。

1569(永禄12.05.) 家康、今川氏真を降(くだ)

家康、今川氏真を降し、遠江(とおとうみ)を支配下に置いた。

1569(永禄12.10.) 信長、北伊勢を平定する。

伊勢国・大河内城(おかわちじょう)の北畠具徳(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)親子と戦い、信長次男・茶筌丸(信雄)を養嗣子にする事、城を明け渡すことを条件に、義昭の仲介で和睦した。義昭、この条件に不快感を持っていた。(この時より7年後の1576年(天正4年)に、北畠一族は信長と信雄の手により皆殺しにされた。北畠親房を先祖に持つ村上源氏の名門・北畠氏はここに滅亡する。→三瀬の変)

1570(永禄13/元亀1)  上杉政虎、出家して不識庵謙信と号する

1570(永禄13/元亀1) 家康、浜松城を築き、今川氏真を庇護する。

1570.02.08~1570.03.03(永禄13.01.04~13.01.27) 信玄、武田水軍を編成する。

信玄、今川の花沢城 (現焼津市)を降伏させ、海に面した地を手に入れ、水軍を作る。

1570.05.24(永禄13.04.20) 信長、越前の朝倉義景への討伐軍を発す。

信長、朝廷や将軍への御用を務める為に上洛せよと、各大名に命令を出した。朝倉義景はこれを無視した。朝倉氏の不服従行動が波及する事を恐れた信長は、義昭の甥の若狭・武田元明領内の内紛を鎮圧する名目で、越前へ征討軍3万の兵を起こす。

1570.05.27(永禄13.4.2/元亀1.04,23) 改元元号が永禄から元亀(げんき)になる

1570.05.29(元亀1.04.25) 織田・徳川連合軍、越前の朝倉義景領を侵攻し、朝倉側の城を攻撃

1570.05.30(元亀1.04.26) 信長の朝倉攻めに対して六角義賢が挙兵。

1570.05.30(元亀1.04.26) 織田・徳川連合軍、金ケ崎城を降(くだ)す。

信長、落城した金ケ崎城に木下秀吉を入れる。

金ケ崎の戦い

世に名高い「金ケ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」と言われる撤退戦である。信長の若狭攻めは順調に勝ち進んでいた。信長は、妹「お市」が嫁いでいる浅井家と硬い絆で結ばれている、と思い込んでいたが、浅井家の裏切りにより、朝倉と浅井に挟撃される危機に陥った。それと察した信長は、直ちに撤退した。殿(しんがり)を務めたのは木下藤吉郎明智光秀池田勝正と言われている。松永久秀や朽木元網(つくきもとつな)の援護により、信長は4月30日に無事京都に帰還した。

1570.06.24(元亀1.05.21) 信長、21日岐阜到着

兵を立て直す為、信長、京都から更に岐阜を目指す。ルートは六角氏や浅井氏の勢力が及ぶ関ケ原を避け、近江から鈴鹿山脈の雨乞岳を越えで伊勢四日市に出る千種街道を通り、揖斐川長良川沿いに北上、21日に岐阜へ到着する。信長挟撃を朝倉・浅井が琵琶湖東岸で仕掛けようとし、六角軍も待ち構えていたが、信長はそこに柴田勝家佐久間信盛を配置して押さえた。六角軍は柴田や佐久間に攻撃され敗退する。この千種(ちぐさ)街道の山中で、信長は杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)という鉄砲の名手に狙撃されるという事件が起きた。岐阜到着から約1か月後、改めて浅井攻撃のため岐阜を進発し、関ケ原ルートを通って近江に向かう。

1570.07.21(元亀1.06.19) 信長、浅井討伐に出陣。

近江と美濃の国境の城・長比(たけくらべ)城を事前の調略により、進発その日に陥落させた。

1570.07.23(元亀1.06.21) 信長、小谷城の目前の虎御前山(とらごぜやま)に布陣。

城下を焼く。

1570.07.26(元亀1.06.24) 信長、姉川の南にある横山城を包囲。

信長は竜ケ鼻に布陣。徳川家康、竜が鼻に着陣し信長と合流。

1570.07.30(元亀1.06.28) 姉川の合戦 (織田・徳川 vs 浅井・朝倉)

信長・家康連合軍29,000 対 浅井・浅倉連合軍13,000が姉川を挟んで激突。徳川軍は朝倉軍の脇を突いて朝倉軍を敗走させ、織田軍と戦っていた浅井軍も潰走した。横山城も降伏。信長、横山城に木下秀吉を城番として入れる。

1570(元亀1.07) 信長、戦勝報告の為上洛

1570.09.19(元亀1.08.20) 三好三人衆、四国より渡海し、摂津の野田城・福島城で挙兵する。

義昭、この事態に信長に出陣を要請。河内・紀伊・和泉にも動員を掛け、義昭自身も出陣した。

1570.10.11~(元亀1.09.12~) 石山本願寺顕如(けんにょ)、三好三人衆に呼応して蜂起。

1570.10.15~ (元亀1.09.16 ~ ) 志賀の陣。

信長の摂津出兵の留守に乗じて、浅井・朝倉連合軍が、織田の琵琶湖西岸の拠点・宇佐山城に迫った。城将・森可成(もりよしなり)、これを阻止すべく坂本で街道を封鎖。兵千をもって敵軍3万と戦い、これを押し戻すも、石山本願寺の要請で延暦寺の僧兵が連合軍に加勢、奮戦空しく織田信治(信長弟)・森可成(森蘭丸の父)・青地茂綱(蒲生氏郷の叔父)が討死。が、将無くも家臣達が戦いを続行、落城は免れた。

1570.10.15(元亀1.09.23) 信長、志賀の陣の報せを聞き、摂津の戦線を撤収し、坂本に救援に駆けつける。

1570.10.15(元亀1.09.25) 浅井・朝倉軍比叡山に逃げ込む 

1570.11.01(元亀1.10.04) 石山本願寺門徒衆に檄文を飛ばし、その煽動で西岡や宇治で一向一揆発生。義昭、徳政令を出す。

1570(元亀1.11)  伊勢一向一揆が、尾張小木江城を落す。織田信興(信長弟)自害。

1570(元亀1.11.) 浅井・朝倉、比叡山延暦寺に立て籠もる。

1570(元亀1.11.) 信長、敵対勢力と次々と講和する。

11月11日六角氏と講和。 同13日本願寺と講和。 同18日三好三人衆と講和。松永久秀と篠原長房との間で人質交換する。 同28日信長、義昭に朝倉氏へ講和説得を依頼する。

1570(元亀1.12) 正親町天皇勅命により、信長、浅井・朝倉両氏と和解

9月からの志賀の陣は、約3か月で一区切りついたが、火種は依然燻(くす)ぶり続けている。

1571(元亀2) 義昭、各地有力大名に御内書を出す。

1571.01.27(元亀2.01.02) 信長、大坂と越前を結ぶ道と海上の交通路を封鎖する。

1571(元亀2.02) 交通路封鎖により孤立した佐和山城(浅井方)が信長に降伏する。

1571(元亀2.02) 義昭、豊後の大友宗麟に安芸の毛利氏との和睦を命じる。

1571(元亀2.02) 徳川家康、新年を賀して上杉謙信に太刀を贈る。.

1571(元亀2,02~03) 上杉謙信、第五次越中出兵。越中大乱。

上杉謙信越中に出兵し、松倉城、新庄城、富山城、など椎名康胤(しいなやすたね)や一向一揆勢の城を軒並み落し、越中東部・中部・西部まで進撃した。が、武田信玄が再び関東や東海地方に出兵した為、謙信は越後に帰還する事になり、越中攻略は中途半端に終わった。

上杉謙信は、武田信玄のもぐらたたきゲームに付き合わされるような形で、常に振り回されていた。武田が関東に侵略する時は、謙信を越後や越中に釘付けにする必要があった。その為、越中で騒動を起こした。逆に上杉と、越中にいる武田勢力が戦う時は、武田勢力が有利になる様に信玄が関東で戦を始め、上杉を関東に引き付ける、という作戦を採り続けた。

これが可能になったのは、武田信玄石山本願寺の強い結びつきがあったからである。石山本願寺顕如正室・如春尼の実姉は武田信玄正室・三条夫人、つまり、顕如武田信玄は義兄弟である。信玄は石山本願寺一向宗徒を動かし易い立場にあった。

1571(元亀2.02~05) 武田信玄遠江三河侵攻を始める。

1571(元亀2.04) 武田勝頼加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中一揆勢が協力して上杉謙信に反攻する様に求めた。

1571(元亀2.05) 浅井と一向一揆軍が姉川に再び出陣。秀吉、国人領主・堀秀村を援けこれを退ける。 

1571.06.04(元亀2.05.12) 信長、5万の兵を率いて伊勢に出動。長嶋一向一揆の村を焼き払う

1571.07.11(元亀2.06.19) 三好義継・三好三人衆が結託。畠山攻めを開始。義昭から離反する。

1571.08.24(元亀2.08.04) 松永久秀、義昭・信長に叛旗を翻すが、辰市城で筒井氏に大敗す。

1571.09.07(元亀2.08.18) 信長、小谷城浅井長政を攻める。

1571.09.17(元亀2.08.28) 松永久秀三好三人衆、摂津の和田貞興を討ち取る。

1571.09.19(元亀2.09.01) 柴田勝家佐久間信盛に命じて、六角勢と一向一揆勢の拠点の城(志村城・小川城)を攻めさせる。志村城は全滅して落城。小川城は投降。

1571.09.25.(元亀2,09.07) 天台座主・覚恕(かくじょ)(=正親町天皇の弟)、朝廷に参内して相談。

1571.09.27(元亀2,09.09) 覚恕、参内して重陽(ちょうよう)節句に参加。

1571.09.29(元亀2.09.11) 信長、三井寺まで進軍し、三井寺の中に本陣を置く。

 信長と比叡山延暦寺は、寺領を巡って争っており、関係が悪化していた。

1569(永禄12)に比叡山は、信長が寺領を横領したと言って朝廷に訴え、その返還を求めていた。朝廷は寺領を元に戻す様に信長に綸旨を下したが、信長はそれに従わなかった。そんな経緯がある中、浅井・朝倉軍が比叡山に逃げ込んだのである。

信長は延暦寺に浅井・朝倉軍を引き渡す様に要求し、山全体を包囲した。そして、信長は寺側に3つの条件を出し、その内のいずれかを選ぶように申し渡した。その条件とは、1,織田に味方をする。 2.中立を保つ。 3.浅井・朝倉方を支持する。の3つだった。そして、もし、浅井・朝倉を支持するのなら、寺を焼き討ちすると通告した。寺はその通告を無視、返事をしなかった。

1571.09.30(元亀2.09.12) 信長、全軍に比叡山総攻撃を命ずる。

1571.10.01(元亀2.09.13) 午前9時頃、信長、後始末は明智光秀に任せ、自身は現場を離れて上洛する。

 

 

余談  比叡山焼き打ちについて

信長は、比叡山を火の海にして僧俗老若男女の区別なく虐殺した、と言われています。が、実は現代ではその話は盛大に盛られた文学的誇張ではないか、と考えられる様になってきました。

太田牛一の「信長公記」や、「言継(ときつぐ)卿日記」の山科言継や、「御湯殿上(おゆどののうえ)日記」を書いた宮中の女房達にしても、それを書いた人は、野次馬の様に実際に比叡山炎上を現地で見て書いた訳では無く、後々に伝聞したものを書いている訳です。記述の正確さを割り引いて考える必要があります。

最近の発掘調査では、焼土層の状態から信長の時代に焼けたと明確に分かるのは、根本中堂と大講堂だけだそうで、それ以外に信長時代と思われる大規模火災の痕跡は見当たらず、また、人骨などの物的証拠も見つかっていないそうです。その他の地域にある焼土層は時代が更に古い地層だった、と報告されているそうです。

比叡山延暦寺は、宗祖を最澄とする天台宗のお寺です。仏教の大学の様な所で、多くの高僧を輩出してきました。けれども、時が経つに従って、傲慢不遜(ごうまんふそん)の振る舞いが目立ち始め、白河法皇をして「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆かせたほどです。又、延暦寺園城寺(おんじょうじ(=三井寺))と仲が悪く、園城寺延暦寺から攻撃されて数十回も焼き打ちに遭っています。その内、全山焼失したのが10回もあります。

延暦寺も、信長が焼き打ちする前に2度焼失しています。足利義教の時、義教の仕置に抗議して僧侶達が焼身自殺しました。その火が元で全ての堂宇が焼失しました。更に管領細川政元延暦寺を攻めて焼き討ちをしています。その為か、比叡山を発掘すると、三つの焦土の地層が出て来るそうです。

朝廷にも幕府にも従わない延暦寺は、治外法権の独立国家の様な存在でした。信長が、ピラミッド型の武家政権を確立しようとする時、治外法権延暦寺の存在は、支配体制内に出来た癌の様なものです。仏罰を恐れ祟りに震える当時の人々にとって、その問題に手を付ける事は出来ませんでした。信長が現れて初めて可能になりました。彼は比叡山だけでは無く、一向一揆を操(あやつ)石山本願寺も、討滅の対象としました。

因みにこの時の天台座主の覚恕は、重陽節句の行事に参加する為に、たまたま宮中に参内(さんだい)していたので、被害に遭わずに済みました。

 

余談  大規模火災について

大規模火災の場合、例えば、1955年(昭和30年)10月に発生した新潟の大火や、1976年(昭和51年)10月の酒田の大火では、懸命な消火活動のお蔭で大体半日で鎮火しています。最近では2016年(平成28年)12月に発生した糸魚川市大規模火災では、他県の消防隊の応援を得て、消防車235台や様々な支援を投入して、組織的に懸命な消火に当たり、30時間で鎮火しました。

延暦寺焼き打ちでは、積極的な消火活動は行われなかっただろうと思われます。又、山の上で水利が無かったと思われます。巨大な木造建築群の火災であるにもかかわらず、信長が一晩明けたら現場を離れた、という事から考えると、火の範囲は限定的だったのではないかと、婆は考えます。もし、伝承されている様に、比叡山塔頭(たっちゅう)全てに火を放てば、木造建築物だけでは無く、山林にも燃え広がったでしょうし、そうなると、熱で生じた上昇気流が琵琶湖から吹き上げる風を呼び起こし、それこそ大規模な森林火災を引き起こしてしまったでしょう。カルフォルニアの森林火災やオーストラリアの森林火災の様に手が付けられなくなってしまう可能性がありました。

比叡山延暦寺が何日間も燃え続けていたと言う記述が何処にも見当たらないので(婆の検索不足かも知れませんが)、多分、巷で言われている程では無かったかと、勝手に想像しています。

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

147 信長年表3 二つの上洛戦

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります

 

1560(永禄3.) 松平元康、自害を思いとどまる。

松平元康、今川義元桶狭間で討死した後、義元に与した身の前途を悲観し、菩提寺大樹寺で自害に及ぼうとするが、住職に諭されて思いとどまる。

1560(永禄3.06) 信長、美濃に侵攻し斎藤義龍と戦う。

1560(永禄3.08)  信長、再び美濃に侵攻する。

1561(永禄4) 将軍・足利義輝、各地争乱の和睦を求める。

1561(永禄4.02) 信長、三河の松平元康と和睦

1561(永禄4.04) 松平元康、今川から離反して尾張に就く。

1561.06.18(永禄4.05.06) 三好長慶細川晴元と和議に動く。

和議のため細川晴元を京都に迎え、将軍・義輝と晴元が対面した。が、三好長慶はその直後、晴元を捉えて普門寺城に幽閉、更に晴元の長男・昭元も幽閉してしまう。

1561.06.23. (永禄4.05.11) 斎藤義龍、病没。享年33 or 35

1561(永禄4.08) 木下藤吉郎、寧々と結婚。

1561.10.27.~1561.10.28(永禄4.09.09 ~永禄 4.09.10) 第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)

1561年(永禄4.閏3月) 上杉憲政から関東管領職を譲り受けた長尾景虎・改め上杉政虎は、関東各氏族を脅かす北条を討つ為に出陣、北条氏康小田原城を攻囲した。一方、北条は、武田信玄に、上杉の背後を突く様に支援を要請。武田はそれに応えて、信濃の割ケ嶽城(現信濃町)を落し海津城を築いた。この事態に上杉政虎は一旦越後に軍を引き、改めて永禄4年8月に信濃に向け進発し、妻女山に陣取った。信玄は同年8月29日に海津城に入った。同年9月9日、信玄は別動隊を動かして、上杉軍を妻女山から八幡原へ追い立て、「敗走」して来るの上杉軍を八幡原で待ち受けて殲滅するという作戦を立てた。一方、上杉軍は夜陰に乗じて妻女山から八幡原へ動いた。早朝、八幡原で両軍が激突する。結果は勝敗不明。ただ、武田軍の方が指揮官の武田信繁(信玄息)の討死をはじめ、譜代、重臣などの戦死者が多かった。

1561(永禄4.12) 上杉政虎、名を輝虎と改めた。32歳

上杉政虎足利義輝から偏諱(へんき)を賜り輝虎と名を改める。この頃、関東の諸将、風の向き次第で輝虎に靡(なび)いたり、北条に靡いたりしていた。つまり、輝虎が越後へ退いて関東を留守にすると北条に靡いた。輝虎が関東に出兵して来ると、上杉に従うという動きをしていた。

1562(永禄5) 毛利元就石見銀山を手に入れる。

1562(永禄5) 大村純忠は、自領の横瀬浦をポルトガル人に新貿易港として提供。

熱心なキリシタン大名大村純忠は、仏教徒を弾圧。寺社を破壊し、僧侶や神官を殺害した。

1562.02.18(永禄5.01.15) 清須同盟

信長と松平元康、清洲城で会見し,互いに誓詞を交換して正式に同盟を結ぶ。

1562.04.08~1562.06.21(永禄5.03.05.~永禄5.05.20) 久米田の戦い。教興寺の戦い

細川晴元父子幽閉事件に端を発し、戦いが始まる。細川晴元六角義賢(ろっかくよしかた(=承禎(じょうてい))の姉婿(義兄)である。彼は、三好長慶が晴元父子を幽閉した事に激怒。兵を挙げる。三好一族に城を奪われた畠山高政六角義賢に同調。両氏族連携し、三好一族と戦う。久米田(現岸和田市)の戦いでは、三好氏とその一門 対 畠山高政と遊佐氏等+根来鉄砲隊。結果。三好軍総崩れ。総大将・三好実休討死。実休本隊は根来鉄砲隊の集中砲火を浴び全滅する。

教興寺(現八尾市)の戦いでは、三好氏一門+松永久秀等 対 畠山高政+安見宗房+湯川直光+根来鉄砲衆。三好軍は鉄砲の威力を避けて雨の日に戦端を切った。結果は、三好側の大勝利。

三好長慶畿内全域に支配を及ぼし、将軍を凌ぐ勢いだったが、この頃から衰えが見え始めた。久米田の戦いも教興寺の戦いも、長慶自身は出陣しなかった。永禄3年3月に弟の十河一存(そごうかずまさorかずなが)が病没、永禄5年3月に弟の三好実休が戦死、永禄6年8月に唯一の嫡嗣子・義興が22歳で早世し、相次ぐ不幸で鬱病になったと言われており、何を思ったか弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を城に招いて殺害してしまった。鬱病が更に悪化、弟殺害の後悔に苦しみ、2か月後の1564(永禄7.07.04)冬康のあとを追う様に死去した。享年43

1562(永禄5.05)  信長、斎藤龍興と戦う。(この時、信長29歳)

1562(永禄5.06) 毛利元就、出雲侵攻開始。

1563(永禄6) 織田信長、居城を小牧山城に移す。(信長30歳)

1563(永禄6) 松平元康、家康と改名。

1563(永禄6.03) 織田信長の娘・五徳松平家康の嫡男・竹千代(信康)が婚約。

1563~1564(永禄6~7) 将軍・義輝、上杉景虎北条氏政武田晴信等の抗争の調停を図る

1564(永禄7) 三河一向一揆、家康、これを鎮圧。

1564(永禄7) 信長、犬山城を落す。

1565.6.17(永禄8.5.19) 永禄の変。足利義輝暗殺 享年30

三好重存(しげまさ)(=義継)・三好三人衆・松永久通らが、足利義輝を殺害した。松永久秀はこの時大和に居た。久秀は、この報せを受けて義輝の弟で、興福寺一乗院門跡の覚慶を、興福寺に幽閉した。覚慶は元々興福寺の僧侶である。自宅に幽閉された様なものである。久秀は、三好一統の暗殺から覚慶を守る為、厳重な警備を敷いて覚慶を庇護下に置いた。

※1  三好三人衆とは三好長逸(みよしながやす)・三好政康(=宗渭(そうい))・岩成友通(いわなりともみち)の三人である。

1565.07.04(永禄8.06.07)   朝廷、足利義輝従一位左大臣を追贈。正親町(おおぎまち)天皇3日間喪に服す。

1565.08.23(永禄8.7.28) 覚慶(=足利義昭)、興福寺を脱出。

細川藤孝、三渕藤英 (藤孝兄)、和田惟政(わだこれまさ(甲賀七家の内の一人))、一色藤長、米田求政(こめだもとまさ)、仁木義政(六角氏綱の子息)らの手によって、覚慶は奈良を脱出、近江の和田惟政の下に逃れた。これには、朝倉義景、若狭の武田義統(たけだよしずみorよしむね)、織田信長等による松永久秀への根回しがあった。

 

上洛の先陣争い 二つの勢力

 

覚慶支持勢力

第13代将軍・足利義輝が非業の最期を遂げ、将軍位が空位になった。

義輝弟の覚慶は、永禄の変を逃れて近江に身を置いた。彼は兄の跡を継いで将軍になる為に、有力大名に支援を要請した。朝倉、上杉、武田、織田・・・と上洛を促す書状を送ったが、それぞれ内憂外患の事情を抱えており、直ちに上洛できる状態では無かった。織田信長が覚慶の要請に一番応えられる位置に居たが、それでも、美濃の斎藤氏や武田の脅威があった。

足利義栄支持勢力

一方、三好氏は堺公方足利義維(あしかが よしつな)の嫡男・義栄(よしひで(=義親))を庇護していた。義栄の祖父は11代将軍・足利義澄で、実父は義澄次男の義維、義維は10代将軍・義稙(よしたね(=義材(よしき))の養子にもなっている。二重三重の将軍家との繋がりがあり、殺害された足利義輝とは従兄弟同士なのだ。そもそも義輝殺害は、義輝を退け義栄を将軍にする為だったと、山科言継(やましな ときつぐ)や、ルイス・フロイスが見立てて書いている。

三好氏は、家宰の篠原長房が先頭に立って足利義栄を推戴し、上洛作戦を実行し始めた。

 

三好方の上洛作戦

 

1566(永禄9) 松永久秀、三好勢から孤立。足利義栄から追討令が出される。

1566.3.08~08.31(永禄9.02.17~永禄9.08.17) 阿波の三好一族、義栄を推戴し上洛戦を開始。

長慶亡き後、三好氏の本拠地四国に居て氏族を支えていた家宰の篠原長房が、三好勢をまとめあげ、安宅信康(冬康嫡男)に命じて淡路水軍百数十隻の船を出し、軍兵を率いて兵庫に上陸。松永久秀の摂津滝山城を攻囲し、落城させた。松永久秀、大和に退却し、更に堺へ逃亡する。

1566.06.17(永禄9.05.30) 三好軍、堺を包囲。松永久秀は逃亡。一時行方不明になる。

摂津・山城にある松永勢力圏の城、次々と三好方に落とされ、久秀側は劣勢になる。

1566.11.04(永禄9.09.23) 三好軍は、足利義栄を摂津越水城に迎え、主君として遇する

1566.11.14(永禄9.10.03) 義栄、朝廷に太刀や馬を献上した。

1567.02.03(永禄9.12.24) 義栄、朝廷に従五位下・左馬守の叙任を求め、28日に許された。

1567.02.13(永禄10.01.05) 義栄、朝廷から将軍宣下を認められた。

この将軍宣下は消息宣下といって手紙によって認められたもので、略式のもの

1567.03.26(永禄10.02.16) 三好義継、久秀の下へ出奔。

三好義継は三好長慶の後継ぎとして三好氏の旗頭の立場を務めていたが、足利義栄が将軍に推戴されると、何事も義栄を中心に動き出し、彼は居場所を無くして、松永久秀を頼った。

1567.05.26~11.10(永禄10.04.18~永禄10.10.10) 東大寺大仏殿の戦い。

この戦いは、[松永久秀と三好義継]  [三好三人衆筒井順慶池田勝正の連合軍]の戦いである。東大寺近くの松永久秀の居城・多聞山城と、東大寺塔頭に駐屯した三好軍に因り、東大寺境内と市街を戦場にして4月~10月まで戦いが繰り広げられた。その間、畠山高政根来衆などが久秀へ援軍を送った。10月10日夜中、松永軍が東大寺を奇襲、東大寺に火の手が上がり、大仏殿などかなりの範囲が焼け、大仏の仏頭も焼け落ちてしまった。寺で宿営していた三好軍側は総崩れになり、退却した。

1567.06.12(永禄10.05.06) 義栄、将軍として石清水八幡宮の人事に介入、朝廷より制止される。

1567.12.03(永禄10.11.03)、義栄は、正式な将軍宣下を朝廷から拒否された。

朝廷から要求された献金に応じられなかったのが、その原因である。

1568.03.04(永禄11.02.06) 義栄、朝廷に将軍宣下に必要な経費を献上した。

献上した銭に多くの粗悪な銭が混ざっていたので、受け取りの可否を巡って揉めた。

1568.03.06(永禄11.02.08) 足利義栄室町幕府14代将軍に任じられた。

1568.03.11(永禄11.02.13) 足利義栄、将軍宣旨を受け取る。

義栄は上洛することなく、摂津の富田荘(現高槻市)にある普門寺(臨済宗)で宣旨を受け取った。勅使は山科言継である。

1568.03.24(永禄11.02.26.) 三好一族は、堺の津田宗及の屋敷で150人も集まって祝賀会を開いた。

1568.09.27(永禄11.09.07) 信長、足利義昭を奉じて上洛の途に就く。

1568.10.02(永禄11.09.12) 信長、三好勢方だった六角義賢の箕作城(みつくりじょう)1日で落とし、翌13日に義賢居城の観音寺城を、これも1日で落城させた。

三好軍は信長の前にひとたまりもなく敗北を重ね、義栄在所の富田も信長によって焼き払われた。この頃、義栄は病気を患っており、阿波に退いた。

1568(永禄11.10) 義栄病没。享年31。

義栄 将軍在位 1568.03.06.~1568.10.(永禄11.02.08~永禄11.09)   8か月

 

信長上洛までの軌跡

 

1565(永禄8.10.) 武田家嫡男・義信が幽閉される。

義信の正室今川氏真の娘は離縁され、今川に送り返された。

1565.(永禄8.11)   信長、武田信玄と同盟。

信長、養女を武田信玄の息子・勝頼に嫁がせる。

1566(永禄9) 家康松平から徳川姓に改姓。

この頃家康、東三河、奥三河を平定し三河を統一する。

1567(永禄10) 木下藤吉郎竹中半兵衛重治を得る。

斎藤氏滅亡後、藤吉郎は信長へ願い出て、竹中重治牧村利貞・丸毛兼利を与力として得る。

1567(永禄10.) 信長、稲葉山城を落す。稲葉山を岐阜と改める。岐阜城主になる。

1567(永禄10.) 信長、天下布武の印を使い始める。

1567(永禄10) 信長、美濃加納で楽市場の制札を出す。

1567(永禄10)春 信長、滝川一益に北伊勢攻略を命じる。

 1567.03.20(永禄10.02.10) 義輝追善供養の六斎踊りが真如堂で行われる。男女計8万人参加。

1567(永禄10.04) 上杉輝輝虎、厩橋城代の北条高広が謀叛の為、これを破る。

1567(永禄10.05) 徳川家康嫡男・竹千代(信康9)織田信長の娘・徳姫(9)が結婚

1567.09.17(永禄10.08.15) 斎藤龍興、伊勢へ逃れる。

1567.11.19(永禄10.10.19.) 武田義信(武田信玄嫡男)、自害。

1567(永禄10.11) 正親町天皇より信長に皇室領回復を命じる綸旨が届く。

1568(永禄11.02) 北伊勢の神戸具盛(かんべとももり)、信長の三男信孝を養子にする。

1568(永禄11.07.25) 信長、足利義昭を美濃の立政寺(りゅうしょうじ)に迎える。

足利義昭上洛実現の為、越前国朝倉氏の下にいる義昭へ和田惟光らを遣わし、義昭を美濃の立政寺に迎えた。

1568(永禄11.08.) 信長、義昭上洛を援ける様にと、六角義賢に使者を遣わした。

六角義賢、これを拒否。更にもう一度使者を遣わしたが、矢張り拒否。実は、義賢は既に三好氏に通じていた。

1568.09.27(永禄11.09.07) 信長、足利義昭を奉じて京都上洛を開始する。

三好軍と敵対していた松永久秀と三好義継は、信長側に立ち、義昭上洛に協力的に動いた。

1568.10.02(永禄11.09.12~13) 観音寺城の戦い。箕作城(みつくりじょう)の戦い。

六角氏は本陣を観音寺城、主力を和田山城、脇陣を箕作城へと配置した。信長軍は攻め手を三つに分け同時に攻撃した。特に、箕作城を攻撃した信長は、日中の激戦の疲れも癒えぬ内の、その日の夜に火攻めの猛攻を掛けた。城兵はパニックに陥り、落城。箕作城の落城を知った和田山は、戦わずして逃げ出して陥落。観音寺城六角義賢も、夜陰に紛れて逃走してしまった。六角氏の18ある支城は(一つを除いて)ドミノ倒しのように降伏した。降伏しなかった日野城蒲生賢秀は、義兄の神戸具盛の説得に応じて人質を差し出して降伏した。此の人質が蒲生氏郷である。

1568.10.03(永禄11.09.13~) 信長、順調に京都へ進軍。

観音寺城の戦いや箕作城の戦いに於ける信長の圧倒的な勝利が京にまで聞こえ、進軍する先々で戦う前から敵城が降伏すると言う状態が続いた。9月26日には東寺を経て東福寺に着陣。義昭は清水寺に入った。細川藤孝に御所の警備を命じ、治安の回復を図った。三好方も京都周辺から撤退していた。29日、岩成友通が降伏。30日、義昭が芥川城に入り、将軍家の旗を掲げた。同日、細川昭元三好長逸が城を放棄、10月2日篠原長房が城を放棄して淡路へ逃亡。

1568.11.07(永禄11.10.18) 足利義昭、第15代将軍就任

1569.01.31(永禄12.01.05) 本圀寺の変。

足利義昭を将軍に就けた信長は、美濃国に帰った。その隙を突いて三好の残党が本圀寺に居る義昭を襲った。信長は直ちに馳せ参じたが、細川藤孝明智光秀たちの奮戦によって事なきを得た。信長は、義昭の為に将軍御所・二条城の建設を始める。

 

 

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146 信長年表2 初陣~桶狭間

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 ※ 年表表記について

〇  西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇  元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)   〇  年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

年表

1547.01.11(天文15.12.20)    足利義藤(=義輝)、室町幕府13代将軍に就位。

義藤、僅か11歳で将軍宣下を行う。細川家の内紛、細川家家臣で軍事的実力者の三好氏の内紛など、糾合離反、向背の動きが激しく、義晴も、新将軍・義藤(義輝)もその度に逃げ、近江と京を何回も行ったり来たりしている。

1547.08.06.(天文16.07.21)  舎利寺の戦い。

(細川晴元陣営)三好長慶+六角定頼+三好政長 対  (細川氏綱陣営)細川氏綱+畠山政国+遊佐長教(ゆさながのり)の戦いである。大物崩れで自刃した管領細川高国の養子・細川氏綱が、敵将・細川晴元勢力に挑んだ戦いで、三好長慶側が圧勝。

1547(天文16)  信長(14)初陣。

今川勢力下にある西三河の吉良大浜(現愛知県碧南市)の長田重元の留守を狙って、織田側が仕掛けた戦い。今川の侵攻を止める狙いと、大浜の港の権益に食指を動かし、総大将を信長(兵力800)にして攻めたが、長田は織田側の動きにいち早く帰館。長田の兵力は2,000。伏兵などの陣立てをして信長を迎え撃った。信長、大浜に放火をして那古屋に帰るも、死傷者を大勢出し、地元伝承では大敗と伝わる。『信長公記』では無事帰陣とだけ書かれている。

1547.09.15.(天文16.08.02.)  松平竹千代(6歳)、人質になる。

松平竹千代は後の徳川家康である。竹千代は今川氏の人質となったが、護送途中に立ち寄った田原城戸田康光の裏切りにより、尾張織田信秀の下に送られた。その後2年間尾張国熱田の加藤藤盛の屋敷に留め置かれた。

1548(天文16.12) 堺公方足利義維、阿波に逼塞。

足利義維(あしかが よしつな)を推戴していた細川晴元が、主君を足利義晴・義藤に鞍替えした為に、後ろ盾を失った義維は堺から阿波へ没落した。

1548(天文17) 織田信長(16)斎藤道三の娘(濃姫)と結婚

1548(天文17.07)     武田晴信塩尻の戦いで小笠原長時軍を撃破した。

1548(天文17.08.12 ~ ) 三好長慶三好政長討伐に動く。

1532年飯森山城の戦いで、三好元長は、ライバル三好政長と管領細川晴元の策謀に嵌(はま)り敗死。息子の三好長慶はそれを知らず、晴元や三好政長の為に粉骨砕身して戦って来た。ところが、敵の遊佐長教と長慶が和睦し、長慶が遊佐の娘を娶ってから、三好政長こそ長慶の親の仇だと知り、長慶は晴元から離れ、晴元の対抗馬の細川氏綱側に寝返る。長慶は1549年の江口の戦い三好政長を討ち取り、細川晴元を京から追い落とす。長慶は氏綱を奉じて上洛し、京を制圧。三好政権を樹立。畿内を治めて長慶は天下人となる。これが三好長慶派と細川晴元派の争乱の底流となり、やがて将軍・足利義輝の暗殺や、足利義昭の流浪の発端となって行く。

1548(天文17.12.30.) 越後の長尾景虎(19)春日山城主になる。

1549年  キリスト教伝来。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。布教開始

1549(天文18.10.18)     足利義晴、築城に励む。

敵対勢力を警戒した義晴は、慈照寺の裏山に中尾城と将軍山城を、翌年北白川に城砦を築く。

1550(天文19.02,)    長尾景虎(上杉謙信)、越後の守護の代行になる。

越後国守護・上杉定実、嗣子無く死去。将軍・足利義輝長尾景虎に越後守護の代行を命ずる。

1550(天文19.05.04)    足利義晴、水腫の病により薨去。享年40

1550.07.14(天文19.07.1411.21) 中尾城の戦い 

細川晴元、義輝を擁立して京都奪回を試みるも不成功。鉄砲による死者一人記録される。

1550(天文19.09.09.10.01) 信濃砥石(といし)崩れ。

信濃国砥石城(村上義清)での戦い。攻め手の武田晴信(武田信玄)大敗を喫す。

1550(天文20.01) 越後。坂戸城の戦い。

長尾景虎(上杉謙信)、坂戸城長尾政景と戦いこれを制し、越後を統一する。(22歳)

1551(天文20.03) 織田信長(18歳)、父死去に伴い家督を継ぐ。

1552(天文21.01) 三好長慶足利義輝が和睦。義輝上洛。細川晴元出家。細川氏綱が細川京兆家の当主に成る。

1522(天文21.01.) 上杉憲政長尾景虎に庇護を求める。

関東管領上杉憲政北条氏康に攻められて景虎の下に逃げ、長尾と北条が敵対関係になる。

1552.09.04(天文21.08.16) 尾張。萱津(かやづ)の戦い (=海津の戦い)

尾張の当主になった若い信長を不安視する家臣が続出。鳴海城主・山口親子が今川に寝返り(赤塚の戦い)、清洲城家老の酒井大膳らが、松葉城・深田城を占領、叛旗を翻した。信長は叔父織田信光と共に駆け付け、清洲方と海津で激突、別の戦場でも交戦が行われ、清洲城方はほぼ壊滅。信長は清洲城を奪還する。信長19歳

1552(天文21.08.) 長尾景虎、関東に派兵。侵攻した北条軍を押し戻す。

北条方の手に落ちた関東管領上杉憲政の居城・平井城(現群馬県藤岡市)と、平井城詰城の金山城(現群馬県太田市)を、景虎が奪還。北条長綱は上野(こうずけ)国から撤退し、武蔵国松山城へ逃亡。

1552(天文21.11.27) 『甲駿同盟 』が結ばれる

今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)と武田晴信の嫡男・武田義信が結婚。(嶺松院の母は武田信虎の娘で、武田晴信の姉である。つまり晴信の息子義信と嶺松院はいとこ同士になる。 後に、武田晴信により義信が廃嫡される。)

1553(天文22.03.08) 東山霊山城の戦い。(ひがしやま りょうぜんじょう の たたかい)

対抗勢力の脅威に対し、足利義晴と義輝父子は、1549年頃から築城に励んだが、霊山城は築城間も無く三好長慶に攻められ自焼した。1552年、義輝と長慶の間で和睦が成立。義輝は細川晴元に備えて再び霊山城を築城。が、長慶との和睦が決裂して、今度は、義輝は細川晴元と手を結び、1553年に霊山城で長慶と戦う事になる。結果、長慶側勝利。義輝・晴元側壊滅し、近江に逃亡。義輝による京都奪還は不首尾に終わる。

1553(天文22.04) 織田信長斎藤道三尾張国境付近の聖徳寺で会見

この時信長、「うつけ」から大変身する。道三驚嘆。自分の息子達が信長の軍門に降る事を予見する。

1553(天文22.04~) 第一次川中島の戦い

武田軍は村上義清の葛尾(かつらお)城を落すが、5月、更科八幡の戦いで葛尾城を奪還され、9月、武田軍は塩田城を落された。上杉謙信信濃領内に侵攻、荒砥城、虚空蔵山城を落した。

1554.2.25(天文23.01.24) 信長、村木城の戦いに勝利。

西三河知多半島の水野氏は今川勢力と織田勢力の緩衝地帯にあり、元々は織田に与していた。が、織田信秀今川義元の和議の話し合いで、水野氏は今川方に組み入れられた。信秀の跡を継いだ信長はその和議を破棄。今川氏に敵対する。水野氏も織田方に復したので、今川勢が水野を討ちに出陣し、織田方の重原(=鴫原(しぎはら))城を落し、水野信元の近くの村木に城を築く。水野からの救援要請に信長は直ちに行動を起こす。舅・斎藤道三那古屋城の留守を預け、嵐の中、熱田から20里の海路を1時間で渡海。鉄砲攻めで村木城を落す。この報告を聞いた斎藤道三は「恐ろしい男よ。隣に住みたくないものだ」と言ったそうである。

なお、水野信元は、徳川家康の生母・於大の方の異母兄である。

1554(天文23.07) 尾張守護・斯波義統(しば よしむね)暗殺さる。

尾張守護・斯波義統が、清洲城主で守護代織田信友に暗殺された。義統の息・斯波義銀(しばよしかね)は落ち延びて織田信長を頼った。織田信長の家は、守護代織田信友の下位に就く三奉行の一つ・弾正忠(だんじょうちゅう)家である。信長は、信友を「主殺し」としての大義分を得て信友誅殺の為に出陣し、信友一統の重臣達を討つ。

1554(天文23.07) 駿相同盟なる。

今川義元の嫡子・氏真と北条氏康の娘・早川殿が結婚。ここに、1552に結ばれた『甲駿同盟』 と併せて『甲駿相三国同盟』が成る。この同盟は相互不可侵条約であって、軍事同盟ではない。これによって、今川は背後を突かれる憂いが無くなって上洛できるようになり、武田も安心して越後を攻められるようになる。

1555(天文24.03.)   松平竹千代、今川義元の下で元服

竹千代、名を次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・瀬名(築山殿)を娶(めと)る。

1555(天文24/弘治1.04) 第二次川中島の戦い

川中島で武田軍と上杉軍が200日対陣(上杉川の記述では5ヵ月間とも)した。今川義元の仲介で、景虎と晴信は和睦。

1555(弘治1.04) 信長、清洲城城主となる。

織田信友は、1554年に尾張守護・斯波義統暗殺に成功したものの、信長との戦いで敗れた。劣勢を挽回すべく織田信光を新たに清州の城主に傀儡として据え、勢威を存続しようとした。信光は、信友の策に嬉々として乗って手勢を率いて清洲城に入城する。が、信光、ここで主殺しの信友を取り囲んで退路を断ち、切腹させてしまった。これは、事前に信長と信光が謀議して筋書を書き、信友をその気にさせて罠に誘い、嵌めたものである。信長はこうして清洲城を奪取。清洲城を改修して信長の居城とする。那古屋城織田信光に譲る。

1556(弘治2.04) 斎藤道三戦死

信長の舅・美濃の斎藤道三は、嫡子・義龍を嫌い、次男の孫四郎、三男の喜平次を偏愛していた。道三と義龍の関係は険悪化し、ついに義龍は弟二人を殺し、道三に歯向かって挙兵する。道三と義龍は長良川で交戦。道三に従う家臣は少なく、信長が駆けつけた時は討死していた。享年63

1556.09.27.(弘治2. 08.24?) 稲生(いのう)の戦い 

信長23歳の時、信長の同母弟の信勝(=信行)を、織田弾正忠家当主にと願う家臣達が、信長に叛旗を翻した戦いである。信勝軍には柴田勝家林秀貞、林美作(はやし みまさか)(=通具(みちとも)が従い、兵力1,700。対して信長軍は、佐久間盛重、森可成(もり よしなり)、前田利家、織田信房、丹羽長秀を合わせて兵力700。信長側は初め劣勢だったが、盛り返して信勝軍を崩し、敗走させた。

1557(弘治3)     大内氏滅亡 (防長経略)

毛利元就が大内義永を討った。元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を掌中に収めた。

1557(弘治3.04 ) 第三次川中島の戦い

信濃の飯山城主の高梨政頼は、武田の脅威を長尾景虎に訴え、救援を要請していたが、豪雪で景虎は動けなかった。景虎は4月に入って出陣し、武田勢力の城を落しながら善光寺に進んだが、武田晴信景虎との正面衝突を避け続けた。

1557(弘治3) 将軍・足利義輝から甲越和睦のご内書が下る。

1558(弘治4.02)  正親町(おおぎまち)天皇即位。

1558(弘治4/永禄1) 元号を弘治から永禄に改元。義輝これを知らず。

1558(弘治4/永禄1) 信長、弟・織田信勝(=信行)暗殺。

1556年に稲生の戦いで信長に叛旗を翻した同母弟の信勝は、再び信長に謀反する兆しを見せ始めた。信勝付重臣柴田勝家は、稲生の戦いで反信長派の信勝に従い大活躍をしたが、信勝の謀反の動きを察知した勝家は、その事を信長に密告。信長は「病気」になり、清洲城に病気見舞いに来た信勝を暗殺した。

1558~1559(永禄1~2 ) 信長、岩倉城の織田信賢(おだ のぶかた)を破る

織田信賢嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の出身で、弾正忠家出身の信長に対抗していた。信長は1558年、浮野(現愛知県一宮市⦆の戦いで信賢を撃破した。翌1559年、岩倉城に籠城していた信賢を、信長は降伏させ、尾張統一を果たした。

1559(永禄2) 永禄の飢饉発生。

旱魃(だいかんばつ)によって飢饉発生。北条氏政、徳政をもってこれに対処する。他の領主達無策。戦争に明け暮れ、戦費調達の為に重税を課すばかりである。

1559(永禄2) 甲斐国に大規模水害発災

1559(永禄2)  信長(26歳)、上洛して将軍足利義輝に拝謁する。

斎藤義龍長尾景虎も相次いで上洛し義輝に拝謁。長尾景虎正親町天皇にも拝謁している。

1559(永禄2.02) 武田晴信出家。徳栄軒信玄と号す。

1559(永禄2.05) 松永久秀筒井順慶の城を陥落させ、十市(とおちorといち)氏を破る。

1559(永禄2.09) 毛利氏、尼子氏に大敗す。

大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山に手を伸ばし、出雲の尼子晴久と戦った。1558年の忍原(おしばら)(現島根県太田市)で毛利氏は忍原崩れと呼ばれる程の大敗北を喫し、1559年の山吹城(やまぶきじょう)攻略の時、降露坂(ごうろざか)の戦いで、再び毛利は壊滅的な大敗をした。(山吹城は石見銀山の傍にあり、銀山を守る為だけに築かれた城)

1560(永禄3) 松永久秀興福寺を破り、大和国を統一

1560(永禄3.03.29.) 上杉謙信、富山城を陥落させる。

富山城主・神保長職(じんぼうながもと)は、武田信玄と誼(よしみ)を通じながら、一向一揆軍と手を結び、信玄が信濃へ北進する時には、神保は越中で陽動作戦を行って上杉軍の背後を脅かし、上杉が武田軍に集中できない様にしていた。謙信は、その神保を攻め勝利する。神保との戦いはこれで終わらず、数年続くことになる。

 

今川、上洛の機、熟す

『甲駿相三国同盟』は相互不可侵条約である。これにより、今川義元は背後や脇腹を突かれる心配がなくなった。武田は信濃攻略に野心を燃やし、越後の上杉は武田に備えながら越中の神保に気を配らなければならず、南下どころではない。相模の北条と言えば、当面の関心事は内政の充実であり、今川にとって安心して良い相手だった。

 

織田、迎撃態勢道半ば

尾張は、東に三河、北に美濃、西に伊勢に国境を接している。東は今川義元、北は斎藤義龍、西は村上源氏の名門・北畠氏の支配地である。力と力が三方から押し合い、丁度隙間が出来た三角形の土地、それが尾張である。尾張濃尾平野の肥沃な土地であり、木曽川揖斐川長良川の大河を抱え水運の便が良く、伊勢湾に港を幾つも擁している。非常に豊かなこの国に食指を動かさない戦国大名はいないであろう。しかも、上洛に都合のいい街道筋にある。

常に狙われている国を存続させて行くには、先手必勝とばかり、信長の父・信秀は、1532年、謀略を以て今川方の那古屋城を乗っ取った。その後も、松平竹千代人質事件などで見られる様に、絶えず隣国、特に三河と美濃の間で摩擦があった。その解決が無いまま、家督がうつけの信長に継がれ、尾張国内は分裂し、まとまりを欠いた状態になった。

1547年、西三河の長田重元(松平氏方)と戦い、1552年萱津の戦い、1554年の村木城の戦い、1555年、清洲城乗っ取り、1556年稲生の戦いを経て、1558年弟・信勝を暗殺、1558年岩倉城攻めを行い、ようやく尾張を統一する事が出来た。軍制を改革し、鉄砲隊を強化し、親衛隊の馬廻衆を創設して機動力をつけ、敵の迎撃に万全を期す筈であったが、今川軍と対決した時は、後ろ盾だった斎藤道三を失って、防御の壁に想定外の大穴が開いてしまっていた。 

1560(永禄3.05) 今川義元、上洛を決意し、松平元康に先鋒を命ずる。

1560.06.11.(永禄3.05.18) 松平元康、大高城救援の兵糧を運び込む。

松平元康(徳川家康)は、鷲津城と丸根砦の敵地を突破して小荷駄隊を大高城に運び入れ、無事に引き上げた。

1560.06.12(永禄3.05.19.  3:00頃) 今川軍、丸根砦と鷲頭砦に攻撃を開始。

此の時の攻め手は松平元康と朝比奈泰朝である。

1560.06.12(永禄3.05.19.  4:00頃) 信長、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣す。

この時直ぐに従った者は小姓数人のみ。外の者は慌てて主君の後を追った。

1560.06.12(永禄3.05.19.  8:00頃) 信長、熱田神宮に到着。戦勝祈願をする。

1560.06.12(永禄3.05.19. 10:00頃) 信長、善照寺砦に入り、軍勢を整える。

この頃、信長側の丸根砦、鷲津砦が陥落。

1560.06.12(永禄3.05.19. 12:00頃) 信長側の中島砦の部隊敗れる

1560.06.12(永禄3.05.19. 13:00頃) 豪雨

1560.06.12(永禄3.05.19.) 桶狭間の戦い

今川義元、服部一忠と毛利新介によって討ち取られる。義元享年42 

此の時信長は27歳

 

 

 

お断り

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

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145 信長年表 1 誕生前から元服迄

織田信長と言えば、知名度抜群の戦国武将です。学校で習うのは勿論の事、小説で、映画で、テレビのドラマで、そしてゲームで、頻繁に取り上げられています。彼の生涯についてはそれ故、御存じの方が大勢いらっしゃいますので、ここでは敢えてそれを書かず、代わりに彼の人生の年表を記して、それに代えたいと思います。

彼が生まれた時代を知る為に、彼が誕生する2年前からの世の中の動きを書き出します。また、彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども視野に入れながら、彼本人の事績に関係のない事柄であっても、或る程度取り入れていきたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇 西暦年月日を前に、その後に続けて和暦元号年月日を( )内に記します。

〇 西暦年はグレゴリオ暦です。

〇 年月日という漢字表記はピリオドを以て代用します。

〇 元年の場合は1と表記します。(例:弘治元年→弘治1)

〇 年だけが分かり、月日が分からないものについては、年初にまとめて列記します。従って、その年の初めに書かれた事柄であっても、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあり、時系列の順序が、その場合は狂っている場合があります。

 

信長誕生2年前から

1532(享禄(きょうろく)5)  織田信秀、策略をもって那古野城を奪う。(乗っ取りの時期については1533年の蹴鞠大会以降という説も有り)。

尾張勝幡城(しょうばたじょう)主・織田信秀(信長の父)は今川氏豊連歌好きを利用して連歌仲間に入り、信用を得てから氏豊の那古野城にしばらく滞在。信秀は病に倒れ、本国より家臣を呼び寄せ、油断していた氏豊側の隙を見て兵を引き入れて城に火を放ち、これを奪い取った。氏豊は捕らえられるも解放される。

1532(享禄5.05.~ ) 堺公方政権内部の抗争激化。

堺公方足利義維(あしかが よしつな)を擁立していた細川晴元は、対立していた管領細川高国を前年1531年の摂津の大物(だいもつ)で討滅すると(大物崩(だいもつくず)れの戦い)、京都の将軍・足利義晴と和睦する。それまで義維(よしつな)を擁立していた晴元は、これを機に義晴側に接近して行く。

細川晴元と共に、堺公方・義維を盛り立てていた三好元長(みよし もとなが)がこれに激怒。細川晴元 vs 三好元長の争いが始まる。これとは別件で、畠山義堯(はたけやま よしかた) の家臣木沢長政が、主君・義堯(よしかた)から細川晴元へ乗り換えようと晴元に接近。これに義堯が怒り、細川晴元憎しの一点で三好元長と畠山義堯が手を結ぶ。そこに、細川晴元に肩入れしていた本願寺一向宗(浄土真宗)が絡まる。

1532.07.17(享禄5 .06.15) 飯森山城の戦い、堺公方の幕府瓦解を誘発。

木沢長政と細川晴元の援軍が立て籠もる飯森山城(いいもりやまじょう)を、三好元長・畠山義尭が攻囲、その攻囲網の更に外周から一向一揆軍が攻めて挟撃する。三好・畠山連合軍が敗北。畠山義尭自害。三好元長は堺の顕本寺(けんぽんじ(法華宗))まで敗走するも、一向一揆軍は20万の大軍をもって堺を包囲。進退窮まった元長は嫡子・仙熊丸(せんくままる(=長慶(ながよし))などを逃がして、顕本寺で6月20に自害。

堺公方足利義維細川晴元に捕えられる。

1532.08(天文1.07) 将軍・足利義晴近江八幡の桑実寺(くわのみでら)に避難。

管領細川高国は将軍・足利義晴を支えていたが、細川家本家の跡を狙う細川晴元と対立し、高国と晴元は天王寺で衝突 (天王寺の戦い)。結果、高国が敗北し自害する(大物崩(だいもつくずれ))。側近高国の敗死に危機感を募らせた足利義晴は近江の六角定頼を頼り、六角氏の観音寺城山麓にある桑実寺に入り、そこで幕府の政務を行う。

1532.08.28(享禄5.07.28) 改元元号を享禄から天文(てんぶん)に改める。 

1532.08.29(天文1.07.29) 天文元年

1532.09.22.~ (天文1.08.23) 天文法華の乱・山科本願寺合戦

飯森山城で畠山義尭を討ち取り、三好元長を敗走させて堺の顕本寺で自害させた一向一揆勢は、勢いを止む事なく大和に侵入。興福寺春日大社を襲い、京都までも争乱に巻き込みかねない情勢になった。一向一揆軍が法華宗を攻撃すると言う噂が流れ、それに対抗した法華宗徒が蜂起。一向宗を初めに焚きつけた細川晴元も燃え広がった一向一揆に脅威を覚え、これを鎮圧すべく逆に法華宗と手を結んだ。そして、8月23日、法華一揆軍・細川晴元・六角定頼の連合軍が山科本願寺を包囲、攻撃を始める。結果、細川晴元側が勝利し、山科本願寺側は寺院の全てを焼亡した。この戦いはこれで終わらず、長きにわたり尾を引く事になる。

山科本願寺はこれによって寺地を、証如の居た大坂へ移し、石山本願寺へとなって行く。やがて信長は、石山本願寺と戦う事になるが、それは凡そ40年後のことである。

 1532.11.16 (天文1.10.20) 足利義維、阿波に逼塞

細川晴元に捕えられていた堺公方足利義維は堺を脱出、淡路に逃れた後、阿波に渡りその地に逼塞(ひっそく)する。

1532.12.03. (天文1.11.07) 将軍・足利義晴細川晴元の間で和睦が成立する。

1533.07.12.(天文2.06.20) 三好仙熊、一向宗細川晴元の和睦斡旋の労を取る。

細川晴元三好元長・畠山義尭を討つ為に、一向宗を焚きつけて一揆軍を起こさせ、飯森山城攻防戦に利用した。が、目的を果たした後も一揆軍の反乱は勢いを増し、法敵・法華宗徒と衝突を繰り返した。更に、各地に波及、鎮火にてこずった晴元は、一揆討伐に舵を切った。細川晴元一向宗が対立し、戦乱は拡大。一揆に対しては一揆をと、晴元は、今度は法華宗徒に一揆を起こさせ一向一揆を攻撃させた。(「享禄の錯乱」「天文の錯乱」「天分の乱」「天文法華の乱」)

この事態に、三好元長家督を継いだ嫡子・仙熊丸(せんくままる)は、12歳ながら事態収拾に乗り出し、叔父三好康長などを動かして和睦させる。仙熊丸は後の三好長慶(みよしながよし)である。

1533.08.02~(天文2.07.12~) 織田信秀が和睦の蹴鞠(けまり)大会を開く。

織田信秀(信長の父)は、清洲三奉行の一人・織田藤左衛門と争っていたが講和し、講和を記念して蹴鞠(けまり)大会を勝幡城で連日行い、更に清洲城に場を移して続行した。

1533.11(天文2.10) 足利義晴、病に伏す。

義晴の病気で、訴訟などの審議が遅れ幕府の政務が滞る。病名は水腫。

 

信長誕生

1534.06.23(天文3.05.12) 信長誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)

尾張国織田弾正忠家の主・織田信秀と継室との間に、嫡出長子の男子が誕生。吉法師と名付けられる。信秀は正室を離縁した後、継室を迎えた。この継室は土田政久の娘で土田御前と一般的には言われているが、小嶋信房の娘だとも、六角高頼の娘などとも言われ、諸説ある。吉法師が生まれた時には既に庶出の兄・信広がいた。後に兄弟で家督を争う事になる弟の信行(=信勝=達成(みちなり)=信成)は、同母弟である。信秀には正室・継室・側室併せて6人おり、息子は12人、娘は15人居た

1534.07.18(天文3.06.08) 足利義晴近衛尚通の娘と結婚

足利将軍家摂関家から正室を迎えるのは義晴が初めてである。

1534.09.(天文3.08) 足利義晴、政務再開する。

1534.10.(天文3.09) 足利義晴、六角定頼と共に上洛する。

定頼は義晴を上洛させると直ぐ帰国し、在国しながら幕政に参加する道を選ぶ。

1535(天文4)   細川晴元三好長慶、木沢長政などが入洛、幕政に加わる。

1535(天文4)   細川晴元、義晴の偏諱を受けて「晴元」と名乗る。

細川晴元は、足利義晴偏諱を受けるまでは細川六郎と名乗っていた。このブログでは、便宜上知名度の高い「細川晴元」で通してきたが、実は、此の時を以て諱が「晴元」になる。

1535.10.16.(天文4.09.20)  丹羽長秀尾張の丹羽長政の次男として誕生。

1536.3.31(天文5.03.10)      足利義晴と御台所の間に男子誕生。

男児は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた。後の13代将軍・足利義輝である。生まれると直ぐ、義晴は菊幢丸を近衛尚通(このえひさみち(→従一位関白太政大臣))の猶子(ゆうし)にした。近衛尚通は学問や文芸に秀で、日本の「戦国時代」の呼称は、日本の騒乱状態を中国の春秋戦国時代に重ね合わせて、彼が「戦国の世の如し」と言った事から始まっている。

1536.09.12.(天文5.08.27) 義晴、将軍職を菊幢丸に譲る意向示す。

義晴は、菊幢丸を支える8名の年寄衆を指名した。指名された年寄衆は大舘恒興、大舘晴光、摂津元造(せっつ もとなりorもとみち(=摂津晴門の父))、細川高久、海老名高助、本郷光康、荒川氏隆、朽木稙綱(くつき たねつな)の8名である。

1537.03.17.(天文6.02.06) 豊臣秀吉誕生。

秀吉は尾張中村で生まれ、父は木下弥右衛門。幼名日吉丸。と言うのが通説である。が、諸説あり、秀吉の出自には不明な点が多い。下層出身である事は確かだが、日吉丸と言う武家の子の様な○○丸と付く幼名は後世の創作、と言われている。

1537.12.15.(天文6.11.13) 足利義晴に第2子の男子誕生。幼名千歳丸。

千歳丸(ちとせまる)は、菊幢丸の同母弟。後の15代将軍・足利義昭である

1538(天文7)  阿波に逼塞していた元堺公方足利義維に嫡子が誕生する。

幼名不明。初名義親(よしちか)。後の14代将軍・足利義栄(あしかが よしひで)である。義栄は、祖父は11代将軍・足利義澄、父は12代将軍・義晴の実弟・義維(よしつな)である。従って、義晴の子・菊幢丸(=義輝)とは従兄弟に当たる。義親(=義栄)の母は大内義興の娘。

1538年頃からか?  足利義維・三好実休、堺の豪商と交流頻繁。

義維と義栄の側近と三好実休は、しばしば堺の豪商の茶会に出席する。

1540.07.12.(天文9.06.09)  三好長慶の家臣・松永久秀の名が寄進の書状に初めて登場する。

松永久秀は、三好長慶の右筆(ゆうひつ)として活躍し始めていたと見られる

1541.01.23.(天文9.12.27)  松永久秀、堺豪商・樽井甚左衛門尉の購入地安堵添え状を発給。

1542(天文11)            松永久秀、三好軍の指揮官として大和国人残党討伐に携わる

1542.04.02.(天文11.03.17) 太平寺の戦い。木沢長政討死。

幕府の追討軍(三好長慶三好政長・遊左長教(ゆさながのり)連合軍)8,000と、木沢長政7,000が太平寺で対戦。結果、連合軍側が勝利。木沢長政は討死する。

1542.(天文11.03)    木沢長政討死を機に、義晴、近江朽木(くつき)から京へ帰還。

太平寺の戦いが始まる前に義晴は朽木に避難していたが、事態が落ち着いたので戻った

1542.12.26.(天文11.11.20)  千寿丸、興福寺一乗院に入室。法名を覚慶(かくけい)と名乗る。

此の時千寿丸は6歳。入室に当たり、母の実家である近衛尚通の嫡男・近衛種家の猶子に成る。出家理由は、既に兄・菊幢丸(=義輝)が居たので、武家の慣例に従った。

1543.01.31(天文11.12.26) 徳川家康誕生。

三河国松平氏松平広忠の嫡男として岡崎城で誕生。幼名松平竹千代。「徳川」姓は、徳川家康が創始した名字であり、家康直系と御三家のみに許されている。他の松平家は徳川を名乗れない。

1543.08.25.(天文12.07.25)   細川氏綱細川晴元打倒の挙兵をする。

細川氏綱は、元管領細川高国の養子である。1531年(享禄5年)、高国が大物(だいもつ)で細川晴元に敗れ(「大物崩れ」)て敗死した後、養子の氏綱は、養父高国の仇を討つ機会を狙っていた。本来ならば細川京兆家(細川本家)の家督を継ぐべき氏綱は、晴元にその地位を奪われていた。氏綱は、高国実弟達や恩顧の者、反晴元派を糾合して戦ったが、晴元に敵対し得る戦力は無かった。

1543.09.23.(天文12.08.25)  種子島に鉄砲伝来

大隅国種子島に中国船が漂着した。(漂着した時期については、南浦文之(なんぽぶんし)著の鉄炮記(てっぽうき)』による。他にアントニオ・ガルヴァオ著の『新旧世界発見記』とジョアン・ロドリゲス著の『日本教会史』では1542年の事とあり、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』では1544年となっている。)

漂着したその中国船にポルトガル人が3人居て、2挺の火縄銃を持っていた。彼等は島主・種子島時堯(たねがしまときたか)の前で試し打ちの演武をした所、時堯はその威力に驚き、武器としての有効性に着目し、一挺2千両(現在価格約2千万円~1億円か? )でその火縄銃を2挺購入した。そして、家臣・篠川小四郎に火薬の製法を学ばせ、美濃国関から優秀な刀鍛冶・八板金兵衛を招聘(しょうへい)し、銃の複製を命じた。金兵衛は殆どを完成させたが、筒を塞ぐネジの製法が分からなかった。金兵衛の娘・若狭はネジの製法を知る為にポルトガル人と結婚したと言う伝説がある。

1544(天文13)  薩摩で根占(禰寝(ねじめ))戦争

種子島氏は、1542年に薩摩藩の国人・大隅の禰寝氏(ねじめし)に屋久島を略奪されていたが、その屋久島を取り戻すべく、禰寝氏を攻撃した。その時、この火縄銃を使った。種子島氏は禰寝氏を敗北させ、屋久島を取り戻したが、鉄砲の性能は悪く、不発や暴発が相次いだ。とは言え、殺傷能力は旧来の武器に比べて比較にならない程凄かった。

1544.(天文13) 再度、中国船が種子島に漂着。

乗船していた人の中に鉄砲の製法に詳しいポルトガル人が居た。金兵衛は彼から正式な鉄砲工法を学び、ネジの切り方を教わり、国産銃が完成した。年内には数十挺を製造した。

堺の橘屋(たちばなや)又三郎は鋳物工である。また、九州や琉球とも交易をしている貿易商でもあった。又三郎は鉄砲の情報を得ると直ぐ種子島へ赴き、1~2年鉄砲を学んで熟知、その技法を堺へ持ち帰った。

1544(天文13.02) 國友で鉄砲製造が始まる。

種子島時堯から島津義久の手に鉄砲が渡った。島津義久はその鉄砲を将軍・足利義晴に献上した。将軍・義晴は管領細川晴元に銃の複製を命じた。細川晴元は、優れた刀鍛冶集団が居る北近江の国友村へ、銃の製作を命じた。國友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫らが承って、村あげて制作に取り掛かった。幸いな事に、近くを流れる姉川流域は鉄が採れた。「鉄糞岳(かなくそだけ)(→金糞は鋼滓(こうしorこうさいの事。スラグ)」「金居原(かないはら)」「たたら」など鉄にまつわる地名がある程である。若狭湾に近く、海路で出雲の鉄も入手し易くかった。

1544(天文13.08.12)  國友、鉄砲2挺を将軍に献上した。

1545(天文14)   紀州の根来で鉄砲の製作が始まる。

紀州国の吐前城(はんざきじょう)の城主にして、根来寺の僧兵の総帥・津田監物算長(つだけんもつかずながor さんちょう)(=杉ノ坊算長)は、種子島時堯に会いに行き、種子島銃1挺を買い求めた。そして、刀鍛冶の芝辻清右衛門に銃の複製を依頼した。

1546(天文15) 吉法師、古渡城にて13歳で元服。織田三郎信長と名乗る。

元服の後見役は平手政秀。それ迄吉法師の教育係だった沢彦宗恩は信長の参謀となる。吉法師は小さい頃より好奇心旺盛で、科学的であった。合理的なものは積極的に取り入れた。その行動は当時の人々の理解を越え「うつけ」として映った。彼は鷹狩や野駆けで領地の隅々まで地形や植生や農地の状態を把握した。野山を駆け回るのに、若様然の立派な着物を着ていられるか? いや、木に引っ掛けて着物を破き、湿地に足を踏み入れて泥だらけになるのがオチ。鉄砲玉入れの袋や、水筒の瓢箪、食料の干し柿などを荒縄に縛り付け腰に巻く。動き易く、働きやすい格好が何より。決して「うつけ」を演じて敵を油断させていた訳でも、本物の「うつけ」であった訳でもない、彼なりの合理的な振る舞いであったと婆は見ています

 

余談  鉄砲伝来

種子島に漂着した船は密貿易の倭寇で、倭寇の首領の王鋥(おうとう)(=王直(おうちょく))の所有する船だった。王鋥は明の海禁政策の法をかいくぐって密貿易を行い、肥前守・松浦隆信の招きで1542年に日本の平戸に根拠地を移した。その配下の船が台風に遭い、種子島に流れ着いたという事であり、漂着船はポルトガル船では無い。漂着の経緯は、村の地頭と乗船していた明国の五峰と名乗る者との筆談で判明した。彼等は種子島に半年くらい滞在していた。

 

 

 

 

144 信長と天下布武

天下布武」とは穏(おだ)やかではない。全く、信長は自分を何様だと思っているのか、天下を統(す)べるのは俺様だ、俺以外いない、とでも思っているのか、と咬みつきたくなる様なこの言葉。彼の戦歴や成し遂げた事業を列挙してみると、成程そう思っても仕方がない、と納得してしまう所があります。

けれど、本当にそうなのか、と立ち止まって考えますと、そこに腑に落ちないものが有ります。信長が「天下布武」の印章を使い始めたのは、まだ覇業の始まる前の初期の頃です。それは、覇業どころか、周辺国に圧し潰され兼ねない程の小国の信長が、美濃の斎藤龍興を打倒した頃に使い始めた印章なのです。

 

岐阜城

信長が足利義昭の要請を受けて上洛を援ける為には、どうしても美濃を通らなければなりません。通る為には美濃の斎藤龍興を退(ど)かさなければならず、旧来からの紛争も有って、両者は激突します。結果、信長は龍興を討ち倒して勝利します。

信長は義龍の居城の稲葉山城に入り、城の名前も地名も「岐阜」と改称しました。改称の際、どういう名前にしたら良いかを相談したのが、沢彦宗恩(たくげん そうおん)という禅宗のお坊さんでした。沢彦和尚は信長の教育係でした。和尚を教育係に選んだのは、信長の傅役(もりやく)だった平手政秀です。信長から、地名と城の改称の相談を受けた沢彦和尚は、中国古代の周王朝の立国の地・岐山「岐」と、孔子生誕の地である曲阜(きょくふ)から「阜」の文字を採用し、「岐阜」と名付けたと、言われています。そして、更に信長から、発給文書に押印する判子の言葉を何にしたら良いかの相談を受け、天下布武の文字を提案したと言われています。

周の文王(ぶんおうorぶんのう)(紀元前1125‐紀元前1052)は、岐山の麓に「周」を開き、儒教に基づいた仁政を行い、聖王として長く尊敬されている人物です。孔子は言わずもがなの聖人です。聖王、聖人のそれぞれゆかりの地の一字を取り、「岐阜」と名付けた沢彦和尚。それを採用した信長。その二人が善(よ)しとした「天下布武」の四文字が、「天下を征服してやるぞ」の意志表示と受け取るのは、みそ汁にとんかつソースを入れた様な気分になり、どうも不味くて呑み込めません。

(沢彦宗恩は平手政秀の菩提寺・政秀寺の開山。後に、臨済宗妙心寺の第39世住持になります)

 

七徳の「武」

武は戈(ほこ)を止める、と書きます。「武」という漢字は、武器を収めて戦いを止める事を意味します。

天下布武」を、武力を以って天下を制する、と婆は理解していました。ところが、よくよく調べてみると、そうでは無さそうです。

天下布武」は「七徳の武」と一緒にして語られる事が多いようです。「武」には七つの徳があって、「武」を布(し)く事は善政である、と言う風に受け取るのが、本来の意味である、とか・・・えっ本当っ ウソでしょ

という訳で、「七徳の武」の出典とされる『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)『宣公』の章の『12年』を見てみました。

 

『春秋左氏伝』

国立国会図書館デジタルコレクションに『春秋左氏伝』が収められています。

『春秋左氏伝・上』の内、問題の箇所は『宣公12年』の項で、コマ番号にして254、該当文章があるのはコマ番号264です。原文は各頁の上段に、書き下し文は下段に載っています。

さて、そこで『春秋左氏伝』の武の七徳と言われる箇所の書き下し文を、下記に転載します。旧漢字が見つからない場合は、新漢字や平仮名に置き換えています。また、旧仮名遣いで書いてある箇所は( )内に現代仮名遣いを併記しています。ふりがなも( )内に書いているので、煩雑になってしまって、ごめんなさい。

 

紀元前700年頃~紀元前300年頃迄の春秋戦国時代と言われる中国の話です。

が戦争をして、楚が勝ち晋が敗けました。楚子(そし)の家来の潘黨(はんとう)が楚子に聞きました。「どうして敗者の屍を積み上げて塚(京観)にしないのですか? 塚をつくれば敵に勝った証(あかし)を子孫に示す事が出来るのに」と言うと、楚子は「お前の知る所ではない。武と言う文字は戈を止めると書く。昔、周の武王「商」と言う国に勝った時、頌(しょう)を作ったことがある・・・

以下、読み下しの本文(太字)

 

『潘黨曰(いわ)く、君いづくんぞ武軍を築きて晋の尸(し(=屍))を収めて以て京観を為(つく)らざる。臣聞く、敵に克(か)ちては必ず子孫に示して以って武功を忘るヽこと無からしむと。楚子曰く。汝が知る所に非(あら)ざるなり。夫(そ)れ文に戈(くわ(か))を止(とど)むるを武と為す。武王商に克(か)ち、頌を作りて曰く。載(すなわ)ち干戈(かんくわ(かんか))を をさめ、すなは(わ)ち弓矢(きうし(きゅうし))をつつむ。我れ懿徳(いとく(→良い徳))を求めて、つひ(い)に時(ここ)において夏(おほい(おおい)(→盛ん))なり。允(まこと)に王として之(これ)を保てりと。又武を作る。其卒章に曰く、汝の功を定むることをいたすと。其三に曰く、鋪(し)きて時(こ)れ繹(たず)ぬ。我れ徂(ゆ)きて惟(これ)定まらんことを求むと。其六に曰く、萬邦を緩(やす)んじて屢(しばしば)豊年なりと。()れ武は暴を禁じ兵を戢(おさ)め、太(たい)を保ち功を定め、民を安んじ衆を和(やわ)らげ、財を豊にする者なり。 (以下略)

 

アンダーライン部分の原文 夫武禁暴戢兵。保太定功。安民和衆。豊財者也。

 

天下布武」の成語由来は?

上記アンダーラインを基に、「武に七徳あり(武有七徳)」の成語が出来たようです。
1. 暴を禁ず。 2. 兵を戢(おさ)む。 3. 太を保つ 4. 功(こう)を定む。 5. 民を安んず。 6. 衆を和(やわ)らぐ。 7. 財を豊かにす。

この七つの徳目が挙げられています。が、「天下布武」の様な四文字の成語は、春秋左氏伝にはどこにも書かれていませんでした。

戈を止めるという文字を合成すると「武」。ならば、この二文字を並べて書くとどうなるかと調べてみましたら、「止戈(しか)」と読み「戦争を止めること」と、辞書に出ていました。因みに「止」は、歩くのをやめてそこに留まっている足首から下の、足の象形文字だとか。いや、面白いです。「武」が平和的な意味を持つとは、夢にも思いませんでした。コペルニクス的逆転の発想です。

天下布武」の出典を求めてその他を検索してみましたが、「天下布武」の四字熟語そのものを見つける事は出来ませんでした。中国の古典を精査して読めばどこかにあるのかも知れません。が、ここ迄が婆の限界、お手上げです。

 

天下布武とは?

天下布武」の出典元が分からないので、婆は大胆に妄想します。これはきっと、沢彦和尚が「武」の徳目を善しとして、それを天下に広める事を願って造語したのではないかと。

七つの徳目の中で、婆が注目したのは、「保太」です。

「太」って何? 「太」って「大」を二つ重ねた字です。大ヽ←繰り返し記号のチョン点が大の中に入ってしまっている字です。大よりももっと大きい事を表します。太平洋、太陽、太白(=金星)、太河(=黄河)、太極(→宇宙の根源)・・・と辿(たど)って来ると、「太」を保つ、と言う事は、余程大きい事を保つ、維持すると言う事だろうと、想像する訳です。

宇宙や大地を保とうとしても、それは人間がどうのこうのして保てるものではありませんから(治山治水を除いて)、保つものは人間世界の事でしょう。そこから考えられる事は、国を保つ、国家を保つ、体制を維持する、或いは、治安を保つ、乱れた世を正し平和な世を保つなどなど連想ゲーム式に色々な言葉が浮かんできます。

 

天下静謐(てんかせいひつ)

1567に、信長が稲葉山城岐阜城と改め、「天下布武」の印章を用い始めましたが、その時より遡ること90年前の文明9年(1477年)11月20日応仁の乱終結を祝い、「天下静謐の祝宴」室町幕府によって開かれました。西軍の山名宗全が病死、東軍の細川勝元も病死し、次世代の山名政豊細川政元の間で和議が成立しました。厭戦気分の各武将も本国へ引き上げ、乱を起こした首謀者が誰だかうやむやの内に処罰される者も無く、何となく治まった「天下静謐」でした。

足利義尚が政務を執り始め、義政が隠居して東山に山荘を建て、平和が訪れたかに見えましたが、権力闘争はまたぞろ頭を擡(もた)げ始め、争いは止む事を知りません。室町幕府凋落の果てに、最後の将軍となった足利義昭が頼ったのは、織田信長でした。

信長が自分の印章に「天下布武」の文字を用いたのは、天下静謐を願っての事かも知れません。義昭を援(たす)け、足利将軍家を中心にした秩序ある武家社会を打ち立てようと軍務に忙殺されている間に、将軍と信長との間にある権力の二重構造にヒビが入り、義昭は信長に叛旗を翻しました。義昭を駆逐して後の信長は、次第に力の信奉者になって行き、仕舞には自身を「魔王」とまで自称する様になって行きます。

沢彦和尚はひょっとして「武」の持つ平和と武力の二面性を喝破して、天下布武の文字にそれを仕込んだのかも知れません。戈を止めて戦いを無くすには、戈を止める武器が必要です。でなければ、無手勝流の真剣白刃取りで立ち向かうしかありません。人徳で靡(なび)かせ、交渉術で歩み寄り、慰撫して陣営に取り込み、皆の憧れの国を築いて我も我もと押し寄せて来る様な、そういう国を造れば・・・うーん、大変なこっちゃ!

 

 

 

143 会合衆 茶の湯三宗匠

婆が若い頃、会合衆を「えごうしゅう」と読むと学校で習いました。今は、「かいごうしゅう」と読むのですね。検索して初めて知りました。このごろ時々、昔習った言葉が今では通用しなくなったという事態に遭遇します。昭和は昔に成りにけりです。やれやれ、です。

 

会合衆

戦国時代、町の商人達が、寄合によって自分達の地域を治め、領主に頼らず自治を行っている所がありました。や、宇治山田・大湊などの町がそれです。そこの自治を担っていた人達を会合衆と呼びました。会合衆は、その土地に住んでいる者なら誰でも成れるものでは無く、その土地の特権的な有力者などが就いていました。

 

堺の歴史

会合衆で最も有名なのは堺の会合衆です。

堺は鎌倉時代の頃からの漁港として栄えていましたが、室町時代足利義満により勘合貿易が開かれ、博多から遣明船が出る様になりました。外航貿易は主に博多、長崎、平戸など九州の各港が関わっていました。堺もそれに絡まる様に、九州琉球と活発に交易をしました。1474年には室町幕府の命により堺港から遣明船が出航しています。堺は大変な賑わいを見せる様になりました。

1521年室町幕府10代将軍・足利義材(あしかがよしき(=義稙(よしたね))が政争に敗れ都落ちし、堺から沼島へ渡り、1523年阿波国撫養(むや)(現鳴門市)で没します。義稙(=義材)を後押ししていた細川澄元とその家臣の三好一族は、阿波讃岐に地盤を持っていました。三好一族は、11代将軍・足利義澄の実子にして10代将軍の義稙の養子・義維(よしつな)を将軍に推戴(すいたい)し、彼等が四国から都へ上る時の通り道として出入港していた堺に、幕府を打ち立てます。義維は堺公方となり、京都の将軍・足利義晴と対立します。その後の歴史の推移は、明応の政変永正の錯乱流れ公方、大物崩れ(だいもつくずれ)永禄の変と目まぐるしく変わって行きますが、何時でも堺と三好一族は繋がりが深く、堺は彼等の軍事力を頼みにしていました。

交易によって財力を得た堺商人達は、その富を狙われない様に開港口を除いて三方に濠を巡らし、自警団を養い、万全の態勢を備えましたが、世は戦国時代真っ只中。尾張の小国・織田信長が台頭、強大な軍事力を見せ付けながら堺に触手を伸ばして来ました。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568年(永禄11年)織田信長は堺に2万貫の矢銭(=軍用金)を要求してきました。

2万貫は現代ではどの位の金額なのかを調べましたら、人によって算出基準が違い、かなりのバラつきがありました。6億円、24億円、30億円、60億円、500~600億円とあり、中には8000億円、と言うのもありました。

堺の会合衆は、三好一族の力を背景に徹底抗戦を構え、これを断ります。が、今井宗久は密かに堺を抜け出し、信長と面会しました。そして、帰ってから会合衆を説得しました。結局、堺は信長に屈して2万貫を支払い、この難局を乗り超えました。同じ様な要求を受けた尼崎ではこれを拒否して焼き打ちに遭い、代表者達は処刑されてしまいます。

15689月、信長は6万の大軍を率いて足利義昭を奉じて上洛を開始、1569(永楽12年)、三好長逸(みよし ながやす)は織田軍を桂川で迎え撃ち、敗北してしまいます。三好勢は阿波へ退却し、四国で態勢を立て直して信長軍に向かおうとしますが、三好方の松永久秀や三好義嗣などが寝返りし、織田軍側についてしまい、次第に三好勢は衰退して行きました。

堺は信長の直轄領になり、信長の下で繁栄して行きます。

 

茶の湯宗匠

 

茶の湯を語る上でどうしても避けて通れないのが、茶の湯宗匠と呼ばれる津田宗及、今井宗久千宗易(利休)の三人です。いずれも堺の会合衆です。

 

津田宗及(つだ そうぎゅう)(生年不詳-1591)

津田宗及は堺の天王寺屋の4代目です。茶湯の天下三宗匠の一人でもあります。宗及は、堺の豪商・武野紹鴎の弟子であった父・宗達から教えを受けました。

家業は九州や琉球との交易です。又、石山本願寺の御用も務めていました。

彼は、臨済宗大徳寺大林宗套(おおばやしそうとう)が開山した堺の南宗寺(なんしゅうじ)に参禅、茶禅一味を学びました。この南宗寺は三好長慶(みよし ながよし)が父・三好元長の菩提を弔う為に建てた寺です。その点からも、堺と三好氏の繋がりは深く、信長から2万貫の矢銭を要求された会合衆は、三好氏と敵対する信長のどちらに就くか大いに迷いました。会合衆の結論は支払い拒否でしたが、武器商人の今井宗久が密かに信長と面会し、その流れを「支払う」方へ導きます。こうした策が、信長の蹂躙(じゅうりん)を免れて、更に南蛮貿易への発展に繋がりました。堺の商人達はいよいよ儲け、余ったお金が、茶道具類への投機へと向かわせます。

津田宗及も唐物の茶道具を150点ほど所持していたと伝わっています。天王寺屋の屋敷ではしばしば茶会が開かれ、柴田勝家佐久間信盛など百人ほどが招かれ、宴を張った事もあったとか・・・。また、宗及は岐阜城に唯一人招かれ、信長の茶道具を拝見する事が出来、その上ご馳走されたとも伝わっています。天王寺屋初代・津田宗伯は古今伝授を受けたほどの文化人で、子孫の宗及も和歌・連歌香道・華道を究め、刀の鑑定も優れていたそうです。

宗及の嫡男・宗凡(そうぼん)は茶人として活躍していましたが、子が無く、天王寺屋は宗凡を以って断絶してしまいました。宗凡の弟が出家して江月宗玩(こうげつそうがん)と名乗り、大徳寺龍光院に住していました。そして、宗及の遺した茶道具が宗玩に渡りました。その中に後に国宝となった曜変天目茶碗があります。

津田宗達-宗及-宗凡江月宗玩の親子三代にわたって書き綴られた茶会記天王寺屋会記』全16巻は、1548年(天文17年)~1616年(元和2年)まで記録されております。そこには自家茶会のみならず他会記の記録まで含まれており、大変貴重な資料となっています。

 

今井宗久(いまいそうきゅう)(1520-1593)

大和国寺内町今井出身。堺の納屋宗次の家に身を寄せ、商売のコツを学びました。(納屋(なや)と言うのは、倉庫業や金融業を言います)。そして、堺衆の必須の素養として、武野紹鴎に入門し茶の湯を学びます。紹鴎の弟子にはそれなりの人物が大勢いましたが、宗久は紹鴎に気に入られ娘の婿に納まります。

宗久は武野家の商売である皮屋を継ぎ、納屋宗次の下から独立、皮革製品の販売を始めます。皮革製品は軍需物資です。馬具や鎧を作るのになくてはならない物で、これによって大いに儲けました。

種子島鉄砲が伝来すると一早くその有効性を見抜き、鉄砲鍛冶を堺に興しました。当初の鉄砲は非常に高額でしたが性能が極めて低かったことから、宗久は分業による大量生産と品質保持の両立を図りました。努力の甲斐あって、堺産の鉄砲は評判が良く、戦国武将達からの注文を大量に受ける様になりました。信長が堺に2万貫の矢銭を課した時、宗久は信長と手を結びます。信長は堺を直轄領とし、宗久を堺の代官に任命します。

宗久は鉄砲を作ると同時に、火薬の原料である硝石を独占的に輸入する権利を得、硝石と鉄砲を抱き合わせで売りました。信長が堺を直轄領にした為に、武田信玄上杉謙信は鉄砲も硝石も入手困難になり、戦いに不利になりました。

更に生野銀山の開発などの権利や数々の特権を得て、今井宗久は信長と結びついた政商・武器商人として巨万の富を築きました。また、武野紹鴎死後、紹鴎の持っていた茶器類は宗久が受け継ぎました。後に、武野紹鴎嫡子・武野宗瓦(たけの そうが)との間に遺産相続争いが起きます。この争いは信長の裁定により宗久が勝訴。武野宗瓦は徳川家康に見出されるまで歴史に埋もれて行きます。

宗久は、黄梅庵と言う数寄屋造りの茶室を持っていました。八畳敷の広間と小間と水屋からなっています。彼は83回もの茶会を開いたと記録があります。宗久の全盛は信長の本能寺の変で翳(かげ)りを見せ始め、羽柴秀吉が台頭してくると千宗易(利休)が表舞台に立ち、宗久の活躍の場は次第に消えて行きます。

 

千宗易(せん そうえき)(利休)(1522‐1591)

利休は茶湯の天下三宗匠の内の一人で侘茶を大成し、茶聖と言われています。

堺の商人。幼名・田中与四郎。法名千宗易。号は抛筌斎(ほうせんさい)。後に、「利休」の号を朝廷より勅賜されました。

利休の祖父は山城国の出身で、将軍・足利義政同朋衆で、田中専阿弥と名乗っていました(義政の同朋衆だったという点については時代が合わないとの疑問が呈されています)。

その専阿弥が一大決心をして職を辞し、泉州堺にやって来ます。専阿弥の子の与兵衛はこの時名字を専阿弥のセンの音をとって「千」に改め、商売を始めます。塩魚などを扱う問屋(といや)で、屋号を魚屋(ととや)と言いました。堺商人の中では新参者でした。

千与兵衛の子・与四郎(後の利休)は堺商人の倣(なら)いに従い、17歳の時に茶の湯北向道陳(きたむき どうちん)の弟子になって習い始めます。身に合っていたのか彼は茶の湯にのめり込んでいきます。与四郎は更に辻玄哉(つじ げんさい)の下で茶の湯を学び始めます。 

(南方録(なんぼうろく)では宗易は武野紹鴎に師事したとなっていますが、山上宗二は、宗易は辻玄哉に習ったとあります。南方録は利休の100年後に書かれたものと言われていますので、利休の弟子の山上宗二が書いた記録の方を信用して辻玄哉としました。)

ところが与四郎は19歳で父を亡くしました。更にその後を追う様に祖父も亡くなってしまいました。家督を継いだ与四郎は途方に暮れてしまいます。豪商が掃くほど居る堺の町では、与四郎の「魚屋」は中小企業でしかなく、祖父の七回忌の時にお金が無くて法要が出来ず、涙を流しながら墓掃除をした、と日記に残しているそうです。

恐らくこの経験が、与四郎(利休)をして侘茶に向かわせたのだと、婆は考えます。茶道具を投機的に扱い、ビジネスの道具やステイタスの証として茶の湯に奔る人々を、貧乏と言う別の視座から眺めてみると、「お茶って、そうではないだろう。もっと別の何かがある筈だ」という視点が生まれてきます。与四郎が、一国を動かす程の豪商のボンボンだったら、恐らく侘茶は生まれてこなかったと、婆は妄想します。

彼は堺の南宋に参禅し、南宋寺の本山・京都の大徳寺にも参禅して茶の奥義を窮(きわ)める道を進みます。一方、商売も手抜かりなく、堺の大旦那である三好氏を顧客に得て、順調に伸ばして行きます。

1544年(天正13年)2月27日、宗易は堺に奈良の松屋久政などを招き、初めて茶会を開きます。松屋久政は奈良の塗師(ぬし)で、村田珠光侘茶を継承している人です。久政は松屋三名物の「徐熙の鷺の絵」「松屋肩衝」「存星(ぞんせい)の盆」を持っていました。

これを手始めに、宗易は茶会を頻繁に行う様になりました。彼は幾度か珠光茶碗を使って茶会を開いています。この頃には既に与四郎改め宗易と名乗る様になっています。

   (参考:137 村田珠光 2022(R4).02.27   up)

   (参考:139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ 2022(R4).03.15   up)

珠光茶碗は言うなれば出来損ないの青磁の茶碗です。それを三好実休に1000貫で売りつけるなど、商売人の顔をも持った宗易は、茶の人脈を最大限に生かし、堺の会合衆にまで上り詰めます。彼は、津田宗及や今井宗久と並び、信長に茶堂として取り立てられる様になります。宗易は信長の為に鉄砲の玉を用意したりして、何かと信長の便宜を図っていましたが、

天正10年6月2日(1582年6月21日)本能寺の変が勃発し、信長は自刃してしまいました。

天下は、明智光秀を討った羽柴秀吉の手に渡り、宗易も秀吉に仕える様になりました。宗易は秀吉の依頼で茶室「待庵(たいあん)」を作り、更に翌々年、大坂城内に茶室を作ります。

1585年(天正13年)10月、秀吉による正親町天皇へ献茶に、宗易は宮中に上がって奉仕します。この時、無位無官の町人の宗易が宮中に参内(さんだい)するのは如何か、と言う話があり、「利休」居士号を賜ります。黄金の茶室を設計したり、北野大茶湯をプロデュースしたり、大活躍をしますが、突然秀吉の勘気に触れ、閉門蟄居を命ぜられます。北政所や弟子、大名達が助命に動きますが、ついに切腹を命ぜられます。享年70歳。

下記は利休辞世の句です。

遺偈(ゆいげ)

人生七十 力囲希咄   人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)

吾這寳剱 祖佛共殺   吾がこの寳剱 祖佛ともに殺す

堤我得具足一太刀    ひっさぐ我が得具足(えぐそく)の一太刀

今此時天抛       今この時 天に投げ打つ

( 力囲希咄は、エイヤーッ!と言う様な掛け声)

[ずいようぶっ飛び超意訳} 人生70年、エエエーイッ! こん畜生! この宝剣で先祖も仏も何も皆殺しにしてやるわい。手にした武器の一太刀、今、此の時に天に投げ打ってやるーーツ!

遺偈とあるので禅の問答の様です。本当の意味する所はもっと別の事かも知れません。他の方の訳を見ると、解釈が色々あります。切腹に臨んでの利休の心境がなんとなく推し量れるような・・・

 

余談  宇治山田と大湊(おおみなと)会合衆

宇治山田と大湊の会合衆について、前置きで少し触れましたが、宇治山田という所は、宇治の平等院のある京都では無く、伊勢の国に在ります。

宇治と言う地域は伊勢神宮天照大神を祀っている内宮の有る所、山田は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っている外宮(げくう)の有る所です。伊勢神宮は昔からお伊勢参りで大変賑わっておりました。門前町の両地区は、中世の頃から自治を始めていました。

大湊と言う地名は全国に3ヵ所あります。日本海側の青森県北東部と新潟県で、両方とも北前船の寄港地です。残りの一か所の大湊は、伊勢湾の出入り口にあります。太平洋側の沿岸航路の拠点の一つで、伊勢神宮の外港の役割も果たし、廻船問屋達が会合衆による合議制を取り入れていました。大湊は造船業も盛んで、北条早雲などの大名達の軍用船を受注したり、秀吉の朝鮮出兵などにも大量の船を供給したりして、武家社会とも密に関わっておりました。

 

余談  存星の盆

存星」と言うのは黒地や赤地や黄地の漆を塗った上に、別の色漆を使って模様を描き、細い線彫りを施して、その線の溝の中に金泥を埋め込んだもの。(沈金に似ていますが色漆などが使われますので華やかです))