式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

185 桂離宮(1) 親王と古書院

桂離宮は数寄屋書院の最高傑作と言われています。

タテ・ヨコ直角に交わる幾つもの柱と梁、それが紡(つむ)ぎ出す方形の面の数々。研ぎ澄まされた線と、その緊張をいや増す四角い壁や障子が、心地よいリズムを奏でています。そして、柔らかさを醸し出す杮(こけら)葺きの屋根と庭の緩やかな起伏の曲面に包まれて、池、庭石の配置、樹木などの不規則な構成が、直角と四角の世界に融和して、これ以上ない完璧な立体の抽象絵画を見ている様です。それにしても、なんて具象なのでしょう。なんて自然なのでしょう。これ以上なく簡素で素朴で美しい。

残念ながら、一度は桂離宮を訪れてみたいと思っていながら、未だその機会を得ておりません。いつかは、いつかはと思いながら何時の間にか80を超えた婆になってしまいました。

言い訳をするならば、個人的に申し込んで参観できたとしても、古書院・中書院・新書院などの内部は一般人は見せて貰えないそうです。嘘だか本当だか知りませんが、風聞に依れば、大学の建築科の研究者とか、宮内庁から許可を得た報道関係者というような特別の人だけが、内部を見る事が出来るそうです。婆はそういう方達が引いた図面や撮った写真、映像などに加えて、一般の方達にも撮影が許された茶亭や庭の写真などをネットで見ながら、この項を書き起こしています。

 

                       桂 離 宮 物 語

 

桂離宮の在る場所

桂離宮は、京都の渡月橋から桂川をおよそ5㎞下流に下った所に有ります。

17世紀初頭の元和(げんな)のころ、八条宮智仁(はちじょうのみや としひと)親王が、ご自分の領地のこの地に別荘を建てました。その頃は離宮とは呼ばず、桂別業と呼んでいたそうです。智仁親王桂離宮の中でも「古書院」「月波楼」「瓜畑の御茶屋(現存せず)」「竹林亭(現存せず)を造営しました。二代目の智忠(としただ)親王「中書院」「新書院」「松琴亭」「笑意軒」などその外の建物を増営し、建物の補修や、更なる造園整備などが施され、三代穏仁(やすひと)親王へと受け継がれて行きました。

 

離宮建設の祖・智仁(としひと)親王のあゆみ

智仁親王は、1579(天正7)年に生ま1629(寛永6)年に51歳で薨去された方です。

智仁親王正親町天皇を祖父に持ち、父は・誠仁(さねひと)親王と言って、正親町天皇の唯一の男子、つまり東宮(皇太子)だった人です。

正親町天皇が御年50代を超えた頃、天皇誠仁親王に譲位したいと望んでおりました。が、朝廷には儀式を執り行うだけの財力がありません。資金を信長に頼らざるを得ない状況の中で、信長は戦争にかまけてばかりいます。そうこうしている内に、本能寺の変を迎えてしまいました。

 

誠仁親王信長から贈られた二条新御所にお住まいでした。親王はここを下御所の第二政庁として住まい、正親町天皇の政務を援(たす)けておりました。

本能寺の変の時、信長嫡男の信忠は京都の宿所の妙覚寺を捨て、防備に優れていた二条新御所に入ります。驚天動地の事態に戸惑う中、明智が二条新御所に押し寄せて来ました。親王は、自分は切腹しなければならないのかと明智側に問いました。そして、誠仁親王と妻子、宿直(とのい)の公家達は許され、攻囲の二条御所を徒歩で脱出する事が出来ました。

信長が消え、光秀秀吉に討たれ、秀吉が着々と天下統一へ向かって歩を進めます。そして、秀吉は関白にまでになります。

秀吉は信長と違って、積極的に朝廷に関わりました。秀吉は、正親町天皇の御意思を奉じて譲位が執り行える道筋を付けましたが、そんな矢先の1586.9.7(天正14.7.24)に、誠仁親王は突然お亡くなりになってしまいます。34歳でした。

唯一の皇子を失った正親町天皇は、やがて、誠仁親王の遺児で孫の第一王子・和仁(かずひと)親王に譲位、親王はそれを受けて後陽成天皇となりました。1586(天正14)年の事です。

秀吉には実子が居ませんでしたので、養子や養女、猶子(ゆうし)を沢山(たくさん)とりました。誠仁親王の第6王子・智仁親王も1586(天正14)年の7歳の時、秀吉の猶子になりました。

ところが、1589(天正17)年秀吉と淀殿間に男子が生まれて事情が一変。智仁親王の猶子の縁も解消されました。秀吉は、智仁親王に京都の桂の地に3,000石の領地を献上します。智仁親王はここに別荘を建てました。これが桂離宮の始まりです。

 

武家勢力の横暴

1588(天正16)年、時の関白・秀吉は、聚楽第後陽成天皇行幸を仰ぎ、盛大な饗応を行います。天皇を迎えて最大級の持て成しをした秀吉。得意満面の彼の野望は更に暴走して大陸へ食指を動かします。

秀吉は朝鮮へ出兵をします。彼は大陸の明を征服したならば、後陽成天皇を北京に遷座(せんざ)させて明の皇帝とし、後陽成天皇の第一皇子・良仁(かたひと/ながひと)か、天皇の弟の智仁親王のどちらかを日本の天皇にすると言う、途方もない妄想を実現させようとしていました。

後陽成天皇は病気勝ちになり、弟宮の智仁親王を次の天皇に推し、譲位を秀吉に打診します。

後陽成天皇は秀吉の朝鮮出兵を快く思っておりません。ご自身のお子・第一王子の良仁親王はまだ幼く、秀吉の意のままになる可能性があり、天皇はそれを恐れ、それで、弟の智仁親王を次期天皇にと望まれたのだと思われます。

 

智仁親王古今伝授(こきんでんじゅ)

1598 (慶長3)年夏、豊臣秀吉がこの世から去り大陸への妄想は霧消しました。その代り豊臣と徳川の二大勢力が衝突し全国規模で内戦が再発します。

主戦場は関ケ原。それぞれの傘下の武将達は続々と関ケ原に集結します。しかし、その戦火は日本中に広がりました。丹後国も例外ではありませんでした。

丹後国細川幽斎(藤孝)(=長岡幽斎)は文武両道の達人です。

彼は、家康が会津征伐に赴(おもむ)いた時、息子の細川忠興に細川家の主力を率(ひき)いさせて家康に従わせて出陣させていました。自身は500の手勢で丹後田辺城(現京都府舞鶴市)を守っていたのですが、西軍15,000に囲まれて、籠城戦になってしまいました。

1600年8月27日(慶長5年7月19日)から始まった田辺城の籠城戦は、兵力の圧倒的な差により10日も経たない内に落城寸前にまで追い詰められてしまいます。

幽斎は一流の文化人で、歌道の師であり、大勢の弟子を持っておりました。攻囲している武将の中にも弟子が何人も居て、攻める矛先が鈍っていました。何しろ、幽斎は三条西実枝(さんじょうにし さねき)から古今伝授(こきんでんじゅ)相伝された日本で唯一の人物です。幽斎を失ってしまうと日本の歌の奥義も失われてしまうという、大変な事が起きてしまうのです。幽斎の弟子の八条宮智仁親王はそれを憂慮し、幽斎に開城する様に勧める使者を2度にわたり送りました。ところが幽斎は討死を覚悟していると言い、古今集証明状』智仁親王に贈り、『源氏抄』『二十一代和歌集』を朝廷に和歌を添えて献上しました。

その歌とは

いにしへも今も変はらぬ世の中に こころの種を残す言の葉

というものでした。

これを読んだ智仁親王は事態が切迫している事を察知、緊急手段を取ります。この歌からは死を覚悟した人の心が読み取れます。この歌はいわば辞世の句。智仁親王は兄帝を動かし、大納言・三条西実条(さんじょうにしさねえだ)中納言中院通勝(なかのいん みちかつ)、中将・烏丸光弘(からすまる みつひろ)の三名を勅使として遣わし、勅命を以って停戦させました。そして、開城させて幽斎を救います。

 

禁中公家諸法度(公家諸法度)

1615大坂城が落城し、豊臣が滅亡しました。同年9月9日(慶長20年7月17日)、二条城で徳川幕府による「禁中公家諸法度」が公布されました。同じ年、それに先駆けて武家諸法度秀忠の名で公布されています。

幕府は力の論理の下に、天皇も朝廷も配下に組み込み支配権を拡大しましたので、幕府の言いなりになるよりほか何も出来なくなりました。

後陽成天皇が次期天皇智仁親王を推しておられましたが、支配者が豊臣から徳川に代わった途端、それは反故(ほご)にされました。智仁親王が秀吉の猶子だった事が阻害要因でした。また、良仁親王も秀吉推しの候補だった事も有ってこれも退(しりぞ)けられ、結局、幕府は後陽成天皇の三番目の皇子・政仁(ことひと)親王を擁立して次期天皇にします。この方が後水尾天皇です。

家康は後水尾天皇に自分の孫娘・和子(まさこ)を入内(じゅだい)(天皇の后にする事)させます。

1627(寛永4)年、紫衣(しえ)事件が起きます。宗教界の高僧に紫の衣を許すというのは天皇の専権事項。それを幕府は奪い取り、幕府の許諾を得なければならない、として関係者達を捕まえ流罪などに処しました。徳川秀忠の娘・和子(=東福門院)を無理矢理入内させたり、徳川の高圧的な数々の振る舞いに逆らう事が出来ず、言いなりになるしかない立場をお怒りになった後水尾天皇は、突然次女の興子(おきこ)内親王に譲位をしてしまいます。この方が女帝・明正(めいしょう)天皇です。

 

後陽成天皇から次期天皇へと望まれていた智仁親王は、政争の圏外に出て、桂の地に別荘を建てます。そこで心行くまで学問や和歌や趣味の世界に没入して行きます。

 

                            桂離宮の建築・古書院

 

加飾の美 捨離の美 数寄の美

お花を飾る時、色々な花をできるだけ多く盛り合わせて花瓶に飾る事も有れば、一枝一花を活ける場合もあります。また、ロココ建築の様に、壁と言わず柱と言わず隙間なく装飾を施して、豪華さを演出する様式も有れば、伊勢神宮のように何の飾りも無い白木の小屋に素朴なるが故の神々しい清々しさが宿る事も有ります。美しさとは不思議なものです。

二条城や日光の東照宮の様に、もっと良いものを、もっと美しいものをと考えて、それからそれへと善美なる飾りを足し、大いにアピールを増して行くのが加飾の美です。

待庵のように、物事の本質を磨き出そうと、余計な装飾や付属物を一切取り払ってしまうのが捨離の美です。捨離の美の行き着くところが「侘び」「寂び」の世界です。

そして、その中間にあるのが、捨離の美に自分の好みを加えたものを数寄(すき)の美と、婆は位置付けております。

 

数寄の美の傑作と言われる桂離宮を造った人は、どういう人なのでしょう。

笑い話に、大坂城は秀吉が造ったのではない、大工が造った、というのがありますが、その伝で行けば、桂離宮は大工が造ったと言えます。が、大工は施主の思いを技(わざ)をもって形にする専門職の人なので、その論は脇に置いておきます。

古文書の『桂御別業之記』には、作事に携わった人物の名前が挙げられています。小堀遠州没後100年余の後に書かれたと推定されるその古文書に依れば、次の様に書かれています。

 

『桂御別業之記』

豊太閤より小堀遠州政一に命じて造進し給ふ、庭作古書院等是也 其の御門弟大蔵少輔山科出雲守倉光日向守玉淵坊之輩遠州の指図を受けてしつらいぬ御茶屋は瓜畑の御茶屋  今は無し を始めとして月波楼  梅の御茶屋又月梅の御茶屋と云う  竹林亭  挽河台とも云今はなし  続いて御二代智忠親王造増有しも遠州に  伏見在役中度々参上  仰せられて悉く作らしめ給ふ中にも妙蓮寺の玉淵坊まされり

 

とあります。ただ、この記述には問題があります。

「豊太閤より小堀遠州政一に命じて造進し給う」という記述には、明らかに時代に食い違いが見られますので、鵜呑みは禁物です。何故なら、造進とは、造って進呈する事。という事は、秀吉が智仁親王に造進したという事になりますが、それは不可能だからです。秀吉1598(慶長3)年に亡くなっております。桂離宮の古書院が建てられたのが1615年頃。秀吉が亡くなってから17年後の事なのですから。

今では、作事については小堀遠州の義兄弟・中沼左京(松花堂昭乗の兄、茶人)や、妙蓮寺の玉淵坊((ぎょくえんぼう))普門寺の庭園などを作庭)などが、桂離宮の作庭に関わっていた、とされています。

 

八条宮智仁親王は、ご自分の領地の桂の地に、自分好みの別荘を建てました。それが桂別業、今で言う桂離宮です。

桂の地は月見の名所。宮は別荘の造営に当たり、「月」をテーマに据えました。

宮は、「月」を鑑賞するのに最も相応しい場をつくろうと、庭と言わず建物と言わず隅々まで細かい気配りをしました。

古書院は池の前に建っており、その向きは東から南へ約30°傾いております。中秋の名月の月の出が丁度古書院の一の間の真正面になる様になっています。部屋の間取りもそれに合わせております。月の光の取り入れ方、襖や壁が月光にどう映えるかまで、計算され尽くされています。

 

例えば古書院の一の間の襖です。襖に用いている唐紙の模様は、五七の桐紋を襖一面に散らしたものです。刷った顔料は胡粉に黄土と雲母(キラ)の粉末を混ぜたもの。冴えわたる月の光を雲母が受け、明るい闇に仄白い桐の葉が浮かび上がる、という趣向です。

また、古書院から張り出している月見台は、栗の木の台の上に百本の竹を簀の子にして敷き延べたものだとか。今でこそ写真で見ると草臥れた竹の簀の子ですが、作り立ての頃はきっと、つやつやとした白竹の肌を明月に晒していた事でしょう。空を見上げてのお月見、池に映してのお月見、そして、月の光が地上に降り注いで描き出す陰影の、静寂とした美しさ。竹の丸い管を敷き並べた床に、不規則に浮かぶ竹節の影、それらが縮緬シボの様な優しい光沢を放っている月見台。池の水面(みなも)に立つ細(こま)やかなさざ波が、そのまま月見台に寄せて来て、部屋の中まで誘(いざな)う様な、そんな錯覚を起こしてしまいそうです。きっと、そのような晩にかぐや姫が降臨して来るのでしょう。

そう言えば、桂離宮の建築素材に随分と竹が多用されています。

 

造営過程

桂離宮の書院群でも古書院と呼ばれる建物は、池に一番近い位置に在ります。古書院は智仁親王が最初に建てた建物です。桂離宮は一度に一斉に建てられたものでは無く、凡(およ)そ50年の歳月を掛けて順次整えられて行きました。

智仁(としひと)親王が最初に古書院と月波楼を建て始めたのが第一期だとすれば、二代目・智忠(としただ)親王が中書院を建て増しした時が二期目になります。一期目と二期目の間にはしばらく空白の時がありました。というのも、智忠親王家督を継いだ時は11歳でしたので、造営や補修はまだ無理でした。親王が成人するに及び、手入れや増築が開始されました。中書院を古書院につなげる様に建て増しし、その頃までには5つの茶屋が建ち揃い、庭は更に整備されて、凡(およ)その完成形を見るに至りました。

智忠親王は、父が貫いた「月」のテーマをそのままに継承し、更に流行りの「きれい寂び」を取り入れて磨きをかけたものを造ります。中書院は古書院に比べて、装飾性が増し、少し華やかになります。この二つの新旧の建物は、全く破綻なく見事に融和したものになっています。

三期目は、新御殿と言われる棟の建設です。これは三代目・穏仁(やすひと)親王後水尾上皇をお迎えする為に増築したものです。これも中書院に連ねて建てられました。結局、古書院・中書院・新御殿が雁行する様な配置になり、カク・カク・カクと屏風を折り立てたような、桂離宮独特の美しいリズムが出現しました。

新御殿は部屋数が多く、格式も一段と上がっています。数寄具合もかなり工夫が凝らされ、新御殿の一の間に桂棚と言う棚の設(しつら)えが造られました。

 

古書院

古書院は、御輿(おこし)寄せの玄関から入って奥に進むと、部屋は南東向きの開口部、即ち池に面した一の間に出ます。

御輿寄せ(玄関)に4畳の畳敷きの上がり框(かまち)があり、続いて鑓(やり)の間があります。鑓の間は玄関の間で、10畳の広さがあります。4畳の上がり框に続いて縁側に畳を敷いた掾(えん)座敷7畳があります。鑓の間と掾座敷でⅬ字に囲まれた二の間が14畳、更にその奥に9畳の一の間があります。一の間には1帖の床(とこ)があります。

さて、古書院と名付けられたこの部屋々、どうも、書院の様式からは外れているように思えてなりません。古書院の内部を撮った写真、特に婆が欲しいと思う様な細部の情報を写した写真が無いので、多くを語ることが出来ませんが、どうも、「書院」と呼ぶに必要な三点セット、即ち、「床・棚・付書院」の内、床だけがあって、外の2点が見当たらないのです。

武家様式の格式張った書院では、「床・棚・付書院」の三点セットは必ず揃っており、床柱も含めて柱は杉か檜の角柱を用います。角柱に面取りが施されている場合もあります。どういう面取りなのかによっては又、格式が違ってきます。床柱だけが面取りで、その他の柱は全て角柱の場合もあります。面取りが浅いのか深いのか、直線的にスッキリとした面取りなのか、丸味を帯びているのか、面皮柱(めんかわばしら(柱の四隅の角に樹の皮が残っているもの))なのか、それとも樹皮をそのままつけている丸柱なのか、曲がっているのかいないのか、杉か檜以外の柿や柳や竹等々の木材なのか、木材の種類によって格式が違ってきます。柱が丸味を帯びていればいる程、節があればあるほど、樹皮が付いていればいる程、遊び心が増し、数寄の度合いが上がり、格式の度は下がります。

そういう目で見ると、写真に写し出されている柱の様子は、歯がゆい程不鮮明です。床框も材の様子が分かりません。

分からないなりに頑張って推測してみると、当時の書院に要求されている約束事を、桂離宮の古書院は軽やかに無視しています。囚われない心で自由に別荘生活を楽しもうとする当主の心意気が感じられます。

一の間に続いて広掾、広縁から張り出す様に月見の台があります。月見の台の幅は4m、奥行き2.9m。その先に池が広がっています。

月見台には手摺がありません。手摺を付ければ台と池に境界が出来てしまいます。それでは無粋と言うもの。

そこに座ればきっと池と台が地続きに繋がっている様に見えるでしょう。

名月 水面(みなも)に揺らぎ、ひたひたと寄せる光の波は月見台を超えて膝を濡らすでしょう。清らかな天空の明かりを全身に浴びて、一献 弾弦 また善き哉

 

余談  桂(カツラ)と桂(ケイ)

ひさかたの月の桂も秋はなほ 

    紅葉すればや照りまさるらむ     (古今集 壬生忠岑(みぶのただみね))

(歌意は、月の桂が紅葉しているから、こんなに月が明るいのだなぁ)

 で詠まれている桂(カツラ)は、分類上では被子植物 真正双子葉類 ユキノシタ目 カツラ科カツラで、香りが高く、秋に紅葉して落葉します。

中国の桂林という地名で知られる桂(ケイ)は、木犀(モクセイ)の事を指し、銀木犀、金木犀のように香りが高い木です。分類は被子植物 真正双子葉類 キク類シソ目モクセイ科でライラックレンギョウと同じ仲間です。

桂冠詩人やオリンピックの勝者に与えられる月桂樹の冠は、桂の文字が入っていますが、桂(カツラ)とは違います。芳香のある常緑樹で、被子植物モクレンクスノキクスノキ科ゲッケイジュ屬ゲッケイジュで、紅葉も落葉もしません。月桂樹は明治時代になって日本に伝えられた植物で、江戸時代には無い樹木です。

 

余談  折桂(せっけい)

伝説によると、月には桂の樹が生(は)えていると言われており、桂は聖樹として尊ばれています。桂の枝を折る「折桂」と言う言葉があります。手の届かない所にある月の桂の枝を折るという意味で、唐の進士の試験に首席で合格する事を指しています。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記のように色々な本やネット情報を参考にしました。

世界美術全集9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

桂離宮御写真及実測図-NDL Digital Collections 国立国会図書館

      著者川上邦基編 古建築及庭園研究会 出版日昭和7

桂御別業之記に就いて  高橋英男

桂離宮御殿の造営過程における設計者の意図 建築デザイン研究所 舩橋耕太郎

桂離宮 月波楼-けんちく探訪 写真 Observing the Architecture

観 宮内庁 桂離宮 古書院と月見台

宮内庁 桂離宮の写真

桂離宮を巡る (7) 室内の装飾と内からの景色 藤原道夫

造形礼賛桂離宮

Linea-  桂離宮修学院離宮を訪ねて(日本・京都)№39   

たびこふれ [美意識の結晶 「桂離宮」を堪能!~最古の回遊式庭園

おにわさん 桂離宮-日本庭園の最高傑作・・!京都市西京区の庭園

You Tube 桂離宮~建築と庭園が美しく融合した日本庭園の最高傑作

桂離宮の画像検索  平面 高画質 茶室・・・

wikiwand 誠仁親王

Weblio辞書 

Japanese Wiki Corpus  八条宮智仁親王

senjp.com 後陽成天皇 乱世を生き抜く処世術で皇室を生き残らせる

田辺城 細川幽斎舞鶴市

落語あらすじ事典 Web千字寄席 しょうぐんせんげ[将軍宣下]ことば江戸覗き

過酷! 夏の京都、建築散歩-桂離宮-大和工務店

京都市 桂離宮の美(その1-建造物等

京都・桂離宮とは? 日本庭園の見どころと歴史は

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「Weblio 辞書」「刀剣ワールド」、観光案内、自治体のパンフレット、動画、ネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。

 

 

184 小堀遠州

公の茶、書院の茶と言われる式正織部流。私の茶・草庵の茶と言われる利休の侘茶。その二つにはどんな違いがあるのですか?

簡単に言えば、「公の茶」「書院の茶」と言われる式正の茶は、儀式で執り行われる茶湯(ちゃのゆ)です。将軍御成りなどの公式行事に組み込まれた歓迎式典の一環で、そこで供される茶湯の事を指します。

「公」の字には大勢の人々を対象にしたイメージがあります。公園とか公開講座とか、そこから、大寄せ茶会の様に多くのお客様をお招きして茶会を催すのも「公」の部類に入ると思いがちです。ところが「公」は、政府や国家、朝廷、幕府、役所などを表す言葉ですので、いくら大人数を集めた大寄せ茶会でも、その茶会を「公の茶会」とは呼びません。

「公」の茶会とは、将軍が臣下の家を訪ねて君臣の固めを行うような、政治的行事の茶会なのです。

 

将軍御成りを行うに当たり、それを受ける側は大変な準備が必要だったと言われています。

将軍・秀忠は生涯に29回の御成をしたそうです。家光などは300回を超えたとか。最初の内は家光も秀忠に倣(なら)って御大層な格式で御成をしたのでしようが、300回ともなると、当初の主従の固めの目的は無くなり、単なる遊び、鷹狩の帰りにちょっと休憩に立ち寄るとかいった軽い訪問になって行ったようです。東京の品川駅そばにある御殿山は御成御殿があった事から名付けられたものだそうです。

 

それはさて置き、江戸時代初期は、政権がまだしっかりと固まっていませんでした。それ故、将軍が大名の江戸屋敷を訪ねて臣下の礼を取らせ、服従させたと天下に見せつける必要がありました。

豊臣政権では徳川と肩を並べた五大老の一人・上杉景勝。彼は関ケ原の戦いで徳川に敵対して破れ、徳川に帰順しました。その様な過去があり、上杉の米沢藩は、「服従させた」を見せつける為の格好の標的にされてしまいます。

将軍秀忠の家臣・本多正信が上杉家に赴(おもむ)き、御成りの内示を伝えます。上杉家は内示された半年後の時期・12月を目指して突貫工事を行い、御成御殿を建てました。

加賀藩は将軍家光の御成りの為に3年の歳月を掛けて御成御殿を造ったそうです。あの東京大学にある三四郎池は、その時に加賀藩邸に造成された庭園の名残りと聞いています。

薩摩の島津藩は御成御殿を造るのに2年かかったそうです。

御成御殿を新築し、数寄屋書院を建て、茶庭を造園し、能舞台を造り、将軍への饗応の食材の産地・品質の吟味に取り掛かり、将軍に付き従う直臣や陪臣・共揃えの従者達ざっと数百人分、御成りの規模によっては数千人分の食事を手配しなければなりません。御成は何十万両もの莫大な費用が掛かりました。

献上品・御下賜品の遣り取りの儀式や、三献の儀、能楽、椀飯振舞(おうばんふるまい)、別座敷へ移動して高ぶった気持ちをクールダウンした後、外露地・中露地を経て数寄屋書院へ行き、茶湯を振る舞い・・・という歓待フルコース。こうなると御成は迷惑至極の筈ですが、それを名誉と捉え、将軍の信頼を勝ち得てお家存続に繋がるとの思いから、大名達は全力を挙げてこの行事に取り組みました。

 

茶湯は、その中でもお能などと共に御成りの式次第に重要な役割を占めています。

式正茶湯はそれ故、室町時代の柳営茶湯を土台にして、利休の茶の理念を取り入れつつ、さて、それ以上の持て成しをどうするのかに、その本領があります。

そういうことを考えると、規模の大きさから言って、狭小の茶室で行う侘茶の作法をそのまま儀式の茶に当て嵌(は)めるには無理があります。秀吉古田織部に、武家に相応しい茶を創始せよと命じたのは、その辺に事情もあったのではないかと思われます。

(にじ)り口から腰をかがめて頭を下げて入るなどと言う事を、例えば正親町天皇の禁裏での茶湯で行えましょうか。わざわざ黄金の躙り口を設置したとしても、出来ますまい。例えば信長明智光秀に命じて家康を歓待させた時に、家康に頭を下げさせ、腰刀を外させられましょうか?

侘茶の作法を、歓待饗応の茶湯の席にそのまま求めるのは、不適切と申せましょう。公式の茶湯は、外交の戦場。些(いささ)かも礼儀に歪(ひずみ)があってはならないのです。

 

武家茶の伝承者達

武家に相応しい茶湯を創始せよ」と命ぜられた古田織部は、幕府より内通の科(とが)を受けて自刃してしまいました。その為に、世間を憚(はばか)織部の茶は無名となって深く武家社会に沈潜(ちんせん)して行きます。

織部の下(もと)からは優れた弟子達が数多(あまた)輩出しました。彼等は利休に習い、更に織部に習い、直弟子・孫弟子とその近縁などなど枝葉は広がり、今に繋がる流派を形作っていきます。

上田宗箇(重安(上田宗箇流))織田有楽斎(おだ うらくさい)(長益(→有楽流))片桐石州(貞昌(→石州流))金森宗和(重近(→宗和流))小堀遠州(政一(遠州流)) 佐久間将監(実勝・宗可(→宗可流))清水道(→石州清水流・仙台藩茶堂)、服部道巴(はっとりどうは)(熊本藩茶堂)細川宗立(忠興・三斎(→三斎流))などなどが、それぞれの思いに工夫を託しながら衣鉢(いはつ)を受け継いでいきます。

その影響力は様々ですが、中でも、作事奉行だった小堀遠州は卓越した力量を作庭に発揮しました。また、利休の侘び茶を基にして織部武家茶を取り入れた流派を興しました。利休ほど侘び枯れてはおらず、端正(たんせい)で美しい茶風は一世を風靡(ふうび)しました。

 

小堀政一(こぼり まさかず)(遠州)(1579-1647)

小堀政一は、1579年(天正7年)、小堀正次の嫡男に生まれました。幼名は作助、後に政一(正一)と改めます。遠州は通称で、遠江(とおとうみのかみ)になった事からその様に呼ばれております。彼の父は豊臣秀長に仕えていました。

政一の父・正次は、主君が大和郡山城に入城すると、それに従って大和に移住し、家老になります。息子の政一はこの時7歳、彼も一緒に大和郡山へ移り住みました。そして、ここで10年間過ごすことになります。少年から青年への最も多感な時期に、彼は優れた人物達に接し、その才能が育まれて行きます。

 

大和国と茶湯 (ちゃのゆ)

大和国は昔から茶湯が盛んです。茶葉の栽培も弘法大師の頃から始まりました。

茶人と言えば、まず第一に奈良出身の侘茶の先達(せんだつ)村田珠光が挙げられます。珠光は武野紹鴎今井宗久千利休に多大な影響を与えました。もし、珠光が居なかったならば利休は侘茶に嵌(はま)らなかった、と言っても過言ではないでしょう。

その珠光一の弟子が興福寺古市澄胤(ふるいち ちょういん)です。澄胤は元々淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)を行っていましたが、師の珠光から『心の文(ふみ)』を送られ侘茶へ傾倒していきます。

松屋会記』を書いた奈良の豪商漆屋の松屋は代々茶人であり、三代120年間にわたって茶会記を記録しています。それは茶史の貴重な一級資料になっています。

大和国戦国大名松永久秀武野紹鴎に師事していますし、古田織部は奈良衆との茶会を頻繁に行っていました。大和国は堺や京に負けず劣らず茶湯の盛んな土地でした。

 

小堀政一が仕えていた主君・秀長も茶湯に熱心でした。秀長は千利休と親しく、茶湯を利休に習っています。利休の弟子・山上宗二1586年(天正14年)、秀長に呼ばれて大和郡山で茶会を開いています。

政一は、少年の頃、秀長の推しで秀吉の茶会の給仕を務めて、大いに面目を施しました。彼は茶湯に親しむ機会に恵まれていました。

 

勇将の下(もと)に弱卒(じゃくそつ)無し

秀長は、兄・秀吉の傍に居て多くを学びました。軍師・竹中半兵衛黒田官兵衛に身近に接して軍略を学び、兄の人使いの巧みさを学び、何時の間にか百姓の倅(せがれ)で秀吉の弟という立場から大化けに化けて、不敗の武将に成長します。彼は奢(おご)ることなく謙虚で温和、人の話をよく聞き、忍耐強く、表向きの事は秀長に、内々の事は利休に聞けと言われるほどであり、他の大名達から絶大な信頼を得ていました。

秀長の下には優秀な家臣が集まります。築城の名手・藤堂高虎中井正清などもその内です。

中井正清は大工の棟梁です。大建築を建てる時は区画別に棟梁を置き、作事奉行も数人居て、プロジェクトチームを組んで取り掛かりますが、中井はその中でも総合リーダー的役割を果たしていました。正清は二条城、江戸城駿府城名古屋城知恩院方広寺増上寺久能山東照宮日光東照宮春日神社、それから内裏など、天下普請の作事に大いに関わっていました。その外に茶室や数寄屋書院なども沢山作っております。

 

政一、主君変転

政一は、秀長が没した後、その養嗣子・秀保に仕えます。が、秀保も17歳で亡くなってしまった為、その後は秀吉に仕えました。政一は大和郡山を離れ、伏見に引っ越します。そこで、古田織部に師事し、茶湯を習いました。また、黒田官兵衛(如水)・長政父子とも生涯の交流が始まりました。

秀吉が薨去(こうきょ)すると政一は父・正次と共に徳川家康に仕えました。父は関ケ原の功で備中松山城城主になります。政一は父亡き跡その遺領を継ぎました。政一29歳の時、駿府城普請奉行になり、1609年(慶長14年)、従五位下遠江(とおとうみのかみ)に任じられます。以後、次々と役職を歴任、多くの作事を成ました。

後陽成天皇御所の造営をはじめ、将軍上洛時の宿所御殿や、妙心寺南禅寺大覚寺大徳寺などなどの大寺院の塔頭(たっちゅう)、茶室、庭園を数多く手がけました。中でも、金地院東照宮茶室(重文)、大徳寺塔頭龍光院(りょうこういん)密庵席(みったんせき)(国宝)が有名です。同じ大徳寺塔頭孤蓬庵(こほうあん)の庭や修学院離宮の庭などに優れた建築や庭を数多く残しました。

(※ 龍光院黒田如水(孝高・官兵衛)の菩提寺です。ここにも遠州と如水の親交が伺えます。)

 

 

余談  城郭建築

ブログ№183の大阪戦後の世相で、城郭建築などは造られなくなり・・と書きましたが、それは大名達の武備に通じるものは建造されなくなっただけで、大名達の財を削減させる為の建築・例えば天下普請や、政治的思惑の絡んだ御成御殿などは大いに造られました。また、御成りの対象でない様な小藩の大名家でも、江戸藩邸には持て成しの外交の場として、茶室や数寄屋書院などを建てるのがブームの様になって、盛んに建てられました。

残念な事に、それらは明暦の大火でかなりが焼失。江戸の華は火事と喧嘩と言われる様な土地柄でしたので、その後、新たに建て直される事は余りありませんでした。

それに、大名達の懐具合が寒くなっていたのと、幕府の倹約令が行き渡っていた為でもあります。

 

 

余談  定家流の書

小堀遠州定家流の書を能(よ)くした、と言われています。下記の書状は小堀遠州里村昌琢(さとむら しょうたく)に宛てた書状です。その書状は定家流という書き方で書かれています。

連歌の発句の添削をお願いしている文面で、御手隙きならば25日には必ず必ずお出で下さるようお持ち申し上げております、と結んでいます。文章の最後に出て来る式部と言うのは松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)の事です。

これを見ても分かる様に、小堀遠州は多様な文化人達との交流がありました。

 

たち花のうた之事、やすき御事、懸御目候。

併御添削頼存候。次手なから発句懸御目申候。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

初巻にもなり可申様ニ候ハヽ、重テ被仰テ可給候。

あし曳の山たちはなれゆくくもの

やとりさためぬ世にこそありけれ

発句

夏の日に色こき山や雲のかけ

お隙に候ハヽ、廿五日ニハかならす(繰り返し記号)御入来待申候。

一會申度候。式部も被参候。恐惶謹言。

十五日

昌琢様御報 小堀遠江

 

[注釈]

※ 里村昌琢:里村紹巴の孫。連歌界の重鎮。古今伝授継承者

※ 式部(松花堂昭乗):真言宗の僧侶。寛永の三筆。書道・絵画・茶道に優れる。

松花堂弁当の名前は彼の名を冠して付けられたもの。

※ 語句;『次手なから』 → ついでながら  『山たちはなれゆくくもの』→ 山 立ち離れ行く雲の  『やとりさためぬ』→ 宿り定めぬ  『雲のかけ』→ 雲の影  『候ハヽ』→ 候(そうら)はば  『かならす』→ 必ず

 

定家流は藤原定家始めた字の書き方で、書道の流派の一つです。

藤原定家はお公家さんです。けれど彼の書く字は、お公家さんが得意とする連綿書(れんめんがき)という、壁を伝う雨水の様に曲がりくねって何処までも続いていく書体とは違っています。高野切(こうやぎれ)源氏物語などの書は、如何に美しく芸術的な作品に仕上げるかという事に眼目が置かれています。三筆・三蹟などは手習いのお手本中のお手本です。それらと定家の書いた『明月記』を比べると、定家流は今で言う「ヘタウマ」です。定家流は、形を気にせず、一字一字分離していて分かり易い草書体で書かれています。なんとなく禅僧の墨蹟に近いように見えます。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

世界美術全集9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

書道全集  平凡社22 日本9 江戸Ⅰ

寛永7年島津邸御成における御殿の構成と式次第 藤川昌樹 日本建築学会計画系論文集

鈴木亘著『書院造と数寄屋考』 川本重雄

近世武家住宅における数寄屋風書院について 大名屋敷の殿舎構成と数寄屋風書院 北野隆

近世武家住宅における数寄屋風書院について 大名屋敷の数寄屋風書院の平面と機能 北野隆

建築業界ニュース 数寄屋建築を解説します[京都に残る古い数寄屋や現代の事例も紹介]

大名屋敷への「将軍の御成」と庭園の造成。それは政治的イベントだった! 安藤優一郎

遠州流茶堂 秀長

数寄屋大工の技術とは? 大貫雄二郎一級建築士事務所

goobl0b 窯元日記復活

戦国日本の津々浦々 山上宗二薩摩屋宗二)

品川歴史館開設シート 品川御殿      

インテリアのナンたるか 数寄屋造とは?代表的な特徴と書院造との違いを画像で解説

好奇心散歩考古学「将軍御成」とは?前田家「御成御殿建造費未払」水戸家「音絵里抜け御成」・・

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」、ネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。

 

 

183 大坂戦役後の世相 

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」」

 

魔王と呼ばれ、合理的で新しもの好きで、芸術や茶を政治に利用した信長が退場しました。

派手好きの秀吉は、桃山文化を花咲かせました。

その跡を受けた家康、彼は芸術や茶に興味が無く、黙々と天下沈静に努め、盤石の組織作りに励みました。

天下人の三者三様の在(あ)り様(よう)が、時代の空気に大きな影響を与えました。

 

変化

1615年8月7日(慶長20年/元和元年閏6月13日)、2代将軍徳川秀忠は全国の諸大名に対し、一国一城令を発しました。

一つの国の中では、城は政務を執り行う主城一つだけを残し、他の支城は全て取り壊す様にとのお達しです。1615年と言えば、大坂城が落城した年です。落城してからおよそ2ヵ月経った頃の話です。更に同年7月(和暦)武家諸法度を発布して、江戸幕府は大名の統制を強めます。幕府は、大名達へ天下普請を命じてその財力を奪い、彼等の城を削減させて戦闘力を奪いました。武家諸法度を出して大名達の行動を規制します。

これにより城の破却が一気に進みました。

 

城の破却

武力によって天下を取った徳川家康。その命令に従わないと謀反の疑いを受けて改易されてしまうかも知れないと言う恐怖。力で逆らえない悲しさ。大名達は命令を受けたその日から我も我もと城を破却しました。数日の内に400城を越える城が潰されたそうです。

築城は皆無(かいむ)になり、豪壮な城郭建築が新たに建てられる事は無くなりました。寺院や日光東照宮などの霊廟は造られましたが、大名達は城を修復するにもいちいち幕府にお伺いを立てなければなりません。台風や落雷で損壊しても思うように復旧ができなくなりました。内装も質素になりました。彫刻や色漆で飾る華麗な欄間などは作られなくなりました。

「どうだ! これでもか!」と、見せる気満々の二条城の様な書院造りの代わりに、無駄な装飾を排し、風雅で落ち着きのある書院作りが生まれてきます。その代表作が桂離宮です。桂離宮が造営されたのが、これも1615年頃と言われています。

大規模建築の需要が減ると、大工も絵師も彫師も失業です。彼等は糊口(ここう)を凌(しの)ぐために彼等の腕を町の中に生かす様になります。豪商は勿論の事、ちょっとした商家や、庄屋の建築などを手掛けたり、床の間を飾る絵や屏風などを描いたりして、彼等は仕事を掘り起こしました。こうして、川の水が上流から下流に流れる様に、庶民の間にも徐々に文化的な様々なものが広がって行きました。

 

政治史と文化史

幕府は太平の世を造ろうと、次々と手を打って行きます。先に述べた一国一城令武家諸法度などの法令の外、外様大名を狙い撃ちにして取り潰しにかかったりしましたので、浪人や大坂の陣の敗残兵などが巷(ちまた)に溢れ出て来ました。これが世情不安の一因になりました。

硝煙の煙幕を吹き払い泰平を拓くには、大きな副作用を伴います。単に坐して餅を喰らうだけの無為無策では、到底成し得ない事業なのです。

商工業者が生き残りを賭けて新たな道を歩み出し、刀狩りや検地で士農工商の分離が進み身分の固定化が図られ、浪人が溢れ、そんな中でも何のその、したたかに生きている庶民が居ます。

支配者が変わったら直ちに安土桃山文化が終了して江戸文化が始まったと言う訳では無く、安土桃山の破天荒なバサラの活気は沸々と残っております。

政治区分は何年何月に幕府が開かれたと言うようなハッキリとした区切りを付け易いです。ですが、文化となると、どこからどこまでの期間が何々文化で、それより後は別の文化が始まると云う様な線引きを、切り餅のように切り分ける事は出来ません。それはまるでコーヒーにミルクを入れて掻き混ぜた後と同じ状態だからです。

コーヒーの味は残ります。ミルクの味も加わります。そして、色は変化します。

安土桃山文化は、やがて熟(こな)れて江戸の庶民文化に融け込んで行きます。

 

茶の湯の潮流

利休や織部が彼岸へ旅立った後、跡に残された弟子達は、師の教えを守りながらも彼らなりに工夫を凝らし、新しい道を模索して行きます。

前衛革新の旗手・古田織部の死後、彼のカリスマ性が絶大だったが故に、織部ロスの穴を埋める人物は現れません。そこに在るのは革新への熱気よりも、受け継いだものを磨いて行こうとする真面目(まじめ)な姿勢でした。そして、その代わりに、祖師利休の「人と違う事をせよ」の遺訓が再び頭をもたげ、色々な流派が湧き興(おこ)ってきます。

侘茶の井戸の中で侘茶を守って来たのとは違って、ひとたび侘び以外の織部という斬新な外気に触れた茶人達は、利休の厳しい修行僧の様な侘びの世界では無く、それを緩(ゆる)め、穏(おだ)やかに洗練されたものへと昇華させて行きます。

小堀遠州「きれい寂び」、それが新たな茶の湯の潮流となって行きます。

 

織部よさらば

利休は究極の侘びを追求して田舎屋や山家の茶室を作りました。が、余りにもそれが行き過ぎると、冷たく研ぎ澄まされた空間になってしまい、冥界を想起させる修行道場の様になってしまいます。温もりのある鄙(ひな)びた空気を演出するには、ちょっと笑みがこぼれる様な茶道具を一つでも置いて、不完全さを演出する方が和(なご)やかさが生まれます。織部の歪んだ焼き物が持て囃されたのは、恐らくそのような効果があったからでしょう。

数寄者達はそこに興趣を見つけました。「面白い」「変わっている」「味がある」という視点で道具類を見つめ直し、評価を与えました。

内通の罪で織部切腹という事件は人々に衝撃を与えました。巻き込まれるのを恐れて人々は織部から遠ざかり、織部が創り出した世界をも敬遠し、面白いと思っていた彼の造形も、一時の徒花(あだばな)の様に捨て去られました。織部焼きに見られる数々の作品群は、その後長い間歴史に埋もれてしまいます。

 

織部は革新者か?

織部の造形は型破りでした。けれども、常識的ではないからと言って、それだけで革新と言えるのかどうか、疑問です。彼の生み出した焼物は確かに前代未聞の姿をしていました。が、彼の編み出した武家茶の点茶法は、真面(まとも)です。

式正織部流は、彼の武家茶の点前をほぼ正確に伝えていると言われています(伝承する内に一部失われた部分もあり、それについては、秋元瑞阿弥が古文書などを基に復元したものもあるそうです)。

そこで、当流の点茶法をよくよく観察してみると、織部の完全な創作では無く、その範を足利義政の代に活躍した能阿弥に拠っている様に見えます。つまり、織部は昔の茶の湯を発掘して復活させ、現代風(桃山風)に改良しただけなのではないかと、思えて来るのです。

能阿弥・相阿弥が著した『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)に載っている茶湯棚の図と、当流の秘伝・真台子六天目点てのお道具の配置の様子が非常に良く似ています。 

(参照:「ブログ№138 東山殿のお茶」 2022(R4).03.07 up)

千利休の侘茶が一世を風靡(ふうび)していた頃、柳営茶湯系統が目立たなくなっていましたが、斎藤道三松永久秀、武井夕庵(たけいせきあん)、細川幽斎など室町幕府に縁のあった茶人達は、柳営茶湯を心得ており、彼等を通じて東山山荘での点茶法が受け継がれていたと、想像できます。織部は、伝承されてきた柳営茶湯を取り入れて、秀吉の要求する武家茶を創り上げたのでは、と思っております。

 

支配ピラミッド構築

大坂両度の戦いが徳川の一方的な勝利で終わった事も有って、多少ギクシャクしたものの天下を震撼させるような大きな波乱も無く、順調に徳川の世が滑り出しました。今迄武将や兵卒だった者達は戦への出番がなくなりました。その代りお城勤めに精を出す様になりました。武士が次第に公務員化していきました。

江戸に幕府を開いた徳川氏は、しっかりした行政組織の構築に着手します。

豊臣政権では五大老五奉行という役職がありました。ただ、有力大大名の中から5名を撰んで大老として政権の舵取りをさせ、秀吉家臣の中から能力のある者を五奉行に任じて事務方を担わせると言う、極めて大雑把な線引きがあるのみでした。彼等の管轄部署は曖昧でした。能力がある者か、或いは手透きの者かがその都度太閤の命令で兵站を用意したり、交渉役をしたり、司法に携わったり、鶴の一声で決まったり、全く行政の形を成していませんでした。江戸幕府はその改革に手を付け、将軍を頂点とする組織を作り、国家としての態を整(ととの)えました。

大老は幕府存亡の時の臨時職とし、通常は老中が全てを掌握しました。今で言えば内閣のようなものです。老中の下に側衆・御三家・高家などをはじめ、大目付・大番頭・禁裏付・町奉行勘定奉行勘定吟味役・作事奉行・大阪奉行・長崎奉行・・・と50余の部署が並び、更に老中とは独立して若年寄を設置。若年寄には書院番小姓組・鉄砲方・定火消役・納戸組・右筆組・天文方、面白い部署では馬方・馬医などもあり、若年寄管轄下の部署も、これまた70近くありました。老中や若年寄と肩を並べて奏者番寺社奉行京都所司代・政治総裁・陸軍総裁・海軍総裁などもあります。そして、さらに今挙げたそれらの部署の下に、細分化された担当部署が置かれました。

1617年(元和3年)、参勤交代が制度化されました。これにより人の動きが激しくなりました。中央と地方の事務連絡や引継ぎ、関係各部署への顔つなぎ、会議などあれやこれやの会合が多くなりました。茶湯の席も人対人の交流の場の重要な意味を持つ様になります。

大名・家老など上級職の武士は無論の事、平侍でも茶湯の心得は必須となりました。かつて茶湯は上流階級のものでしたが、この頃になると茶湯はすっかり解放されて、多くの者が嗜(たしな)むようになっていました。武士には武士なりの武家茶が広がって行きました。

その流れは武士階級だけでは無く、武士と接触する商人達にも広がりました。そして、長屋の大家など一般の庶民にも浸透して行き、庶民に茶が流行る様になりました。豪華な茶道具は要らないと言う侘茶は、その点打って付けでした。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

小堀遠州武家の茶湯    八尾嘉男

お点前の研究 茶の湯44流派の比較と分析  廣田吉(ひろたよしたか)

角川新版 古語辞典 久松潜一・佐藤謙三編

世界美術全集 9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンクネット情報などなどここには

書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。

 

 

182 二人織部(4) 戦国残照

織部内通の件に関して、もう一つ気になることが有ります。それは、織部の古田家と重勝流古田家の間に何かしらの交流があったのではないか、と言う疑念です。何度も申し上げました様に、重勝流古田は東西に分かれて戦っていますので、どうしてもその点が気になってしまうのです。前号では、織部の弟子を中心に、東西勢力にどう分布しているか的な視点で考えてみましたが、今回は、同族と思われる二つの古田の関わり合いを探ってみます。尤も、婆の手元にそれに関する資料は乏しく、コアになる事実はブログ№179 「二人織部(1) 重勝のこと」の中の基本情報を基にして、事実と空想を交えながら婆の勝手流推理物語になります。

 

武士の家では、男子を殊のほか重要視しております。今ならば、女性蔑視だと抗議を受けるでしょう。が、待って下さい。よくよく考えてみれば、逆にこれは男子軽視の表れなのです。

男子は戦闘要員、消耗品扱いです。嗣子だけは大切に育てますが、他の男子は出家させるか養子に出します。兄弟間争いを無くす為です。もし、嗣子が病死や戦死をした場合、寺にプールしておいた男子を還俗させて、その後釜を補充すればよい。これは家を存続させる為の仕組みです。家が絶えてしまえば、一族郎党端女(はしため)に至るまで失業してしまうのですから、何としても跡継ぎが必要でした。ですから殿様は戦争に勝つ事、繁殖の役目を果たす事、つまり種牡馬(しゅぼば(→種馬))である事が最大の仕事でした。 

馬上から凛冽な声を放って「掛かれぇーっ!」と命ずる漢(おとこ)の、何と凛々しいことか。80過ぎた婆でさえ惚れてしまいます。でもね、本当を言えば、殿様なんて成るもんじゃありません。これほど「きつい」「きたない」「きけん」の3Kが揃っている職業って、外には有りません。ブログ№136の「武士の生死報告書」で申し述べました様に、何しろ武士と言う職業の致死率は37.7%です。戦になれば殿様は真っ先に首を狙われます。しかも、種牡馬(しゅぼば)の勤めもあります。側室を沢山持てると言って頭がお花畑になるようでは、立派な子孫を残す種牡馬になるのは難しいでしょう。平和時ならともかく下剋上の世では、頭に蝶々が舞っている様な殿様は、隣国に潰されるか、下剋上に遭うか、讒訴に遭い左遷されるか、「上様」から切腹を命ぜられるか、いずれ碌な目にあいません。不行跡・統治未熟なら猶更です。殿様はつらいよ、です。

 

戦国のこの殺伐とした風潮に逆らう一人の大名がおりました。彼の名を古田重治と言います。

彼は重勝流古田三兄弟の末弟で、石見国浜田藩の初代藩主になった人物です。その稀有(けう)な生き方に家康は大いに感服し、今の世で稀に見る人物よと誉めそやしました。彼は地位も名誉も城も財産も全てのしがらみを放棄して、我が子へでは無く、兄の重勝の遺児・重恒に3代目を譲り、江戸市中でひっそりと暮らして息を引き取った、と聞きます。

彼は茶人という名の席に列していません。けれど、家督を甥の重恒に譲った時、兄重勝から受け継いだ茶道具を全て目録に書き出して引き渡したそうです。これで、重治が茶の湯を嗜んでいたことが分かります。「人間元来無一物」「茶禅一味」と言って禅寺に参禅しながらも、世俗に執着していた武野紹鴎千利休の様な茶の巨匠達に、この話を言って聞かせたい気がします。

 

桐一葉、落ちて天下の秋を知る、とか。ここで、乱世の夕暮れに映えた一人の大名を、彼の生い立ちから物語風に紹介したいと思います。

 

これまでの経緯

古田重治重勝流古田三兄弟の末弟です。彼の長兄・重勝と次兄・重忠については、ブログ№179 の「二人織部(1) 重勝の事」と、同180の「二人織部(2) 関ケ原の戦い」で既に述べております。これらを今回の項につなげる為に、彼等の今までを掻い摘んで振り返ってみます。

 

古田兵部少輔重勝(ふるた ひょうぶしょうゆう しげかつ)文禄の役など数々の戦績を重ねておりました。その頃、関白秀吉は隠居して太閤になっており、関白職を豊臣秀次が継いでいました。ところが、秀吉側室淀殿秀頼を出産。秀次が切腹を命ぜられてしまいます。所謂(いわゆる)関白秀次事件です。この事件に連座した松坂藩の服部一忠切腹を命ぜられてしまいます。重勝は、空白になった松坂城に入る様にとの太閤の仰せを受け、松坂藩の藩主になります。

慶長の役の最中、太閤が薨去(こうきょ)。残された秀頼の政治体制は盤石ではなく、徳川家康の台頭と共に風雲急を告げる様になりました。何時、何が起こる分からない時代の闇に、重勝に後継ぎがいない事が重大な問題になってきました。家臣一同が心配する中、三人兄弟の内、真ん中の重忠が自分の長男を重勝の養子に出します。加えて、次男も、末弟の重治に養子に出します。これで万事安泰、と思った矢先、重勝に実子・希代丸(まれよまる)が生まれます。ここに豊臣家の秀次と秀頼の関係と全く同じ構図の相似形が形成されてしまいました。さて、困った!・・・と言う所までが、ブログ№179と180迄の話です。

 

武士は何よりも家が大事。自分の家を継ぐ者を必ず確保するのが武士の家の習いです。子供二人の内二人とも手放すなんて、絶対有り得ません。長男か次男のどちらか一人を養子に出し、残った一人を自分の後継ぎにするのが賢明なやり方です。と、前に申し上げました。そして、それをしない重忠の動きを怪しみました。

此の不自然な動きを、納得できる様な自然な動きに捕らえるにはどう考えたらよいか思案している内に、婆は自分の間違いに気付きました。養子に出したのは同時ではなく、時間差があったのではないか、と思い至ったのです。

 

豊臣と徳川に緊張が高まり、重勝流古田では跡継ぎ問題を解決して万一に備えなければならない必要に迫られていました。重忠は自分の長男を長兄・重勝のもとに養子に出しました。後継ぎが決まっていれば重勝が戦死しても家の存続が約束される筈です。それに、内勤の重忠は武功を上げて出世する手立てを余り持っていません。それ故、重忠にとってもこれは悪い話ではありません。兄の跡を我が子が継げれば、城持ち大名になる道が開けます。

1614年(慶長19年) 方広寺の鐘銘問題の失策と大坂城内の不穏の動きの責めを負わせて、秀頼片桐且元に隠居を命じて執政の任務を解きました。且元が手勢を引き連れて大坂城を去ると、織田長益はじめ織田信雄、織田信則、石川貞政など多くの豊臣の重臣達が大坂城を出て行きました。重忠も恐らく進退を迷ったと思います。織部の長男で秀頼に仕えていた同僚の古田重行(九郎八)や、頻繁に茶の湯大坂城に出入りしている織部と意見を交わして情勢分析をしたかもしれません。これは婆の想像です。こういう事があって、それが「内通」と疑われたのかも、と思うのです。想像の域を出ない話ですが、有り得るシーンです。

淀殿周辺で行われている統治の乱れから、彼は豊臣方の敗色を見通したでしょう。負けるかも知れないと分かっても、彼は豊臣方に従います。そして、重臣達が去っていく機会を捉えて、重忠は次男を手放して、弟の重治に託したのではないか・・・重忠は大坂城を枕に討死する覚悟だったと思われます。

なぜ兄の重勝ではなく、弟の重治に託したのか、と言いますと、重勝関ケ原の戦い6年後の1606年(慶長11年)に、江戸城石垣普請に携わっている最中に亡くなってしまっていました。享年47歳でした。

 

本家嫡嗣子と預かった養子と養子と実子と・・

長兄の重勝の所に子供が無い時に、重忠は自分の嫡男・重良(兵九郎)(寛政譜では重直)を重勝の所に養子に出しました。ほどなくして重勝の所に実子希代丸が生まれました。重勝に実子ができた以上、養子の重良(重直)は立場が弱くなってしまい、場合によっては排除されてしまう運命になるかもと、皆は気を揉みました。そうです。同じ城に嗣子は並び立たないのです。

その時、末弟の重治が重良を自分の屋敷に避難させました。重治はこの頃20代半ばになっていて結婚もしており(正室丹羽長秀の娘)、充分に重良の面倒を見る事が出来ました。これで納まりが良くなり、やれやれ良かった! と思ったのも束の間、今度は古田家の当主・重勝が亡くなってしまったのです。遺(のこ)された希代丸はわずか3歳、家督を継ぐには幼過ぎる年齢でした。

ここで大御所・徳川家康が乗り出し、松坂藩は重治が継ぐ様にと仰せ事を下します。

重治は家康に家督を継ぐに当たって一つの願いを申し出ます。

 

 兄・重勝の兵部少輔のポストは希代丸が継ぐべきものであるから、私は兵部少輔のポストを受け取れない。私・重治に対しては兵部少輔以外の役を賜りたい、と。

 

こうして重治は2代松坂藩主となり、従五位下大膳大夫となります。

重勝が背負っていた普請等の数々の労役を今度は重治が背負う様になりました。

駿府城の普請、名古屋城の普請、松平伯耆守改易による領地の接収と仕置、米子城の守衛と、東奔西走の日々が始まりました。

 

そんな生活を続けている重治に、重忠から養子の話が舞い込みました。

「次男重昌(平三郎)(寛政譜では重弘)をお前の養子に出したい」

豊臣政権の中枢部に近侍していた重忠は、大坂方の内部が一本化しておらず、浪人の寄せ集め部隊に過ぎない事を痛感していました。この状態では戦になれば討死するだろうと予測し、身辺整理を始めます。この時次男重昌は2歳。重昌が父と共に大坂城内に居たか、城下の屋敷に居たか、或いは伏見屋敷に居たか分かりません。けれど、いずれ豊臣・徳川決戦になった時、2歳の息子を落ち延びさせるのは非常に困難になります。それこそ、荒木村重の子・岩佐又兵衛の様な目に遭い兼ねません。危機は今。時機は逸してはならないのです。重治は事情を察し、重忠の申し出を受け、重昌を自分の養子にします。

こうして、気付いてみれば重治は、2代目松坂藩主になったものの、重勝の嫡子・希代丸(重恒)を預かり、長兄重勝が養子にした重良(重直)を預かり、そして、今また、自身も次兄の次男・重昌(重弘)を養子にする仕儀となりました。重治自身にも娘と左京と重延と言う実子も居たのです。

 

1615.06.03(慶長20/元和1.05.07) 大坂城が落城しました。

重忠は大坂方で戦い、城内で戦死しました。

重忠が戦死してしまい、織部との繋がりが分からなくなりました。重忠が日記や消息(便り)を残して置いてくれたらなぁと、それを思うと残念でなりません。

もし、重忠が息子を東軍の身内に養子に出す事について、織部に相談して居たら・・・

もし、織部の息子・重行と仲が良く、互いに情報を交換し合い、情勢分析をしていたりして密に関わっているとしたら・・・

もし、重忠が息子を養子に出す際、騒擾状態を創り出してそれに紛れて城から落ちる様に画策していたら・・・

もし・・・もし・・・と幾つもの仮定が浮かび上がっては消えて行きます。

織部は何も釈明せずに切腹してしまいました。

もし織部が、重勝流古田との接触を疑われ、それを以って「内通」を追求されたら、

「言い訳するのもばかばかしい」と、疑われた事こと自体を恥じて切腹してしまったのかもしれません。

或いは、重勝流古田に類が及ぶかも知れないと見て沈黙してしまったのかも知れません。

武士は死に臨んで必ずと言っていい程辞世の句を残します。織部はそれすらしなかった!

織部享年72。「見るべきものは見つ」とこの世に未練も無く、どうせ天寿を全うしてもあと数年の命、それならば今ここで死ぬのも悪くはないわい、とおさらばしてしまったのでしょうか。

それとも、織部は木村宗喜が伏見放火を企てた事を全く知らなかったけれども、部下の責任は上司の責任と思って死んでしまったのでしょうか。

もし、重忠と織部側が何らかの接触をしていたとしても、それと伏見放火未遂事件とは様相が違います。織部の茶堂・木村宗喜が織部の心中を忖度して、お先走って余計な事をしたとしても、一方は家族内の養子の話、一方は騒乱状態を作り出す話しです。全く背景が異なっています。

薩摩の連歌師如玄との関わり合いも気になります。薩摩以外のどこかに、織部が絶対に口に出せない様な黒幕が居たのかも知れません。

ここまで書いて来て、なお真実が掴めないのが悔しいです。

 

重治のこと

重治は大坂両度の陣で軍功があり、石見国(いわみのくに)の濱田(現島根県浜田市)の5万石と、丹波に5千石を賜り、合わせて5万5千石の大名になりました。重治は濱田の初代藩主になりました。

彼は濱田の亀山という海に面した小高い山に城を築きます。重治は攻城が得意の家臣と、守りが得意の家臣に競わせて城の縄張りをさせたとか。城下町を整え、ある程度形が整った頃、成人した希代丸に家督を譲りたいと、2代将軍・徳川秀忠に願い出ます。

願いは早速認められ、希代丸改め重恒(しげつね)は濱田藩の2代目藩主・古田兵部少輔重恒となります。

そして、重治自身は一切を捨てて濱田を離れ、江戸へ行き、そこでひっそりと生涯を閉じました。

 

後日談

重忠の嫡男で重勝の養子になっていた重良(重直)は、秀忠に召されてお小姓組として仕える事になり、上総国の内に500石の知行地を賜りました。

重忠の次男で重治の養子になった重昌(重弘)は、丹羽五郎座衛門尉酒井雅楽頭、酒井讃岐守の推薦を受け、15歳の時家光にお目通りし、御書院番になります。彼は古田騒動が起きた時、上使として濱田に赴き、目付・横目付などと共に領地収納と古田家臣達への仕置などの指揮を執り、城明け渡しなどを無事に済ませました。

 

重治の娘は従兄弟の重恒に嫁ぎました。

重治の嫡男・左京は後に古田騒動を起こします。

重治の次男・重延は侍の道を捨て蘭方の外科医になります。そして、甲府藩主・徳川綱重桜田屋敷に召されて、藩医となります。子孫は代々医者を家業とし、江戸城の奥医も輩出しています。

 

古田騒動

重勝の嫡嗣子・重恒は、叔父重治より家督を譲られ2代浜田藩主となりました。が、彼には中々子供が出来ませんでした。衆道(男色)だったそうです。後世の評判も余り芳しくありません。

古田左京は自分の孫の万吉を、重恒を廃してその後釜にと画策しますが、重恒に筒抜けになります。重恒は病を装って江戸城典医・玄春を呼び密かに老中と連絡を取ります。玄春も藩邸内の不穏な空気を感じ取り、事情を月番老中・阿部豊後守に伝えます。この報せは秘密裏に老中に謀られ、「その儀ならば成敗は心のままに」と言う許可がおります。重恒は許しを得ると左京一派の粛清を断行します。病室で殺害されたものが2名、江戸で処刑されたものが4名、濱田で処刑されたものが18名、室の津で捕え姫路城主の許可を得て船上で切腹させたものが7名おりました。

そして、阿部豊後守、阿部対馬守、松平伊豆守連署で全国に逃亡者の指名手配が行われました。古田騒動と呼ばれるこの一連の事件は、粛清を持って収束しました。

けれど、その後も相変わらず嗣子が生まれないまま重恒が亡くなってしまいましたので、古田家は嗣子無くして絶家となり、改易になってしまいました。

濱田藩初代藩主・重治が亡くなってから23年後の1648年(正保5年/慶安元年)の事です。

 

 

余談  古田大膳大夫

小瀬甫庵(おぜほあん)太閤記太閤記諸士之伝記(巻十八目録)』と言うのが有り、そこに『古田大膳大夫』と言うのが有ります。それをここに紹介します。

太閤記より抜粋

『秀吉公播州三木之城を打囲(うちかこみ)たまふ比(ころ)、古田吉左衛門と云(いい)し小将有しが、三木より夜討入し時討死してけり。其子古田兵部少輔、同大膳大夫とて二人有。慶長五年勢州松坂之城主として六万石を領しけり。其後兵部少輔身まかりぬ。三歳の孤(みなしご)有。前将軍家康公より大膳大夫兄之跡を相続し、則(すなわち)兵部少輔となのるべき旨御諚(むね  ごじょう)有りしかば、忝(かたじけなき)御事此上有るべしとも覚え奉(たてまつ)らず、孤を長(ひと)となし、父の名なれば兵部少輔となのらせ申度由(もうし たき よし)(のぞみ)けり。家康公今世(きんせい)まれなる者かなと感じ給ふ。孤漸(みなしご  ようよう)(ひと)となりしかば、父が茶の具不残目録(ちゃのぐ  のこらず  もくろく)を以(も)って元和六年の比(ころ)相渡し、勿論六万石之地も附与し、其身は物さびしきさまにて在江戸し侍(はべり)き。潔白なる事誰か此上に立たんや。稲葉内蔵人助・一柳監物なども兄之跡を名代として相続せしが、いづれも武市・古田に反しけり。

板倉豊後守評して曰(いわく)。大膳大夫甥に知行幷(ならびに)家財等渡し侍りし事、その身病弱なれば隠居し夜を静かに暮らすべき事にや。尤もなる裁判也と思いし処に、今亦(いままた)在江戸世にあかぬさま(→埒(らち)が明かず苦労している様子)に見えぬ。爰(ここ)に至りて大膳信(→大膳への信頼)や弥(いよいよ)高き事いと限りなく思はれにけり。さも有ぬべき評なりと、在同席分部(わけべ)左京亮・小倉忠右衛門・野々口彦助、此の評尤も深く有し旨感じあへりき。』

(ずいよう意訳)

秀吉公が播州三木城を包囲していた頃、田吉左衛門という少将がいましたが、三木城からの夜打ちに遭い討死してしまいました。古田吉左衛門の子に古田兵部少輔と同じく大膳大夫という二人が居ました。慶長5年伊勢の松坂城の城主として6万石を領していました。その後、兵部少輔は亡くなりました。彼には3歳の児がおりました。前の将軍家康公から、大膳大夫が兄の跡目を相続し、すなわち兵部少輔と名乗るべきだとご諚が有ったのですが、それはとてもかたじけないお言葉で、この様に素晴らしい事は今後再びあるとは思えないものの、兵部少輔という名はこの子の父・重勝のものなので、この子を成人させた上でその時にこの子に名乗らせたく存じます。家康公、このような心配りをする者は、近世希(まれ)に見る者だと感じ入ってしまいます。やがて重勝遺児がようやく一人前に成人したので、子の父・重勝が持っていた茶道具など、残らず目録にして元和6年にその子に渡し、勿論6万石の領地も付けて渡し、自分は貧乏になって物寂しい様子で江戸に住まっておりました。この様にさっぱりと身辺を身綺麗にした話は、重治以上の人が居るでしょうか。稲葉内蔵人助・一柳監物なども兄の名代として跡を継ぎましたが、稲葉も一橋も家督を甥に渡しませんでした。武市・古田とは真逆の振る舞いをしたのです。

板倉豊後守がこれを評して言うには、大膳大夫が甥に知行並びに家財を渡した事、彼が病弱だったので隠居して静かに暮らしたい、という願いももっともな判断だと思うのですが、今また江戸で暮らしている様子を見ると、苦労している様に見えます。それを見ても、大膳大夫への信頼はいよいよいや増して限りがないのです、と言うと、全くその通りの評価だと、同席していた分部(わけべ)左京亮や、小倉忠左衛門、野々口彦助が深く同意したのであります。

 

余談  稲葉内蔵人助

上記余談の中で噂に出て来る稲葉内蔵人助は、織部とも重勝とも面識の有る人物です。

ブログ№178「茶史 (6) 織部全盛~切腹」項で

1603.02.23(慶長8.01.13) 古田重勝古田重然(織部)の茶会に正客で招待される。

とありますが、その時に相客になったのが稲葉蔵人道通(いなば くろうどのすけ みちとう)です。道通は長兄の牧村利貞が亡くなった時、利貞の嫡男・牛之助が幼かったため代わりに家督を継ぎ2万300石を領しました。その後軍忠に励み、4万5700石になりました。ただ、牛之助が15歳になっても家督を牛之助に返そうとせず、我が子の紀通へ譲ろうとしたので、それに反抗した牛之助を殺害してしまいました。その半年後、道通は病死。紀通は幕府に問責されて自害しました。

 

余談  一柳監物(ひとつやなぎ けんもつ)

一柳監物は一柳直盛と言って美濃出身の尾張国黒田城城主。後に伊勢国の神戸(かんべ)藩の領主。古田重治と一柳監物とは共に松平伯耆改易による領地の接収と仕置をし、米子城の守衛を務めた仲です。従って互いによく知っている間柄です。

小田原征伐の時、一柳直盛は兄一柳直末と共に出陣しましたが、兄直末は討死してしまいました。直末には松千という幼い嫡男がおりました。直盛は兄の遺領3万石を継ぎましたが、その後松千代に返還されたと言う話は聞きません。この3万石について「父の遺領を叔父直盛に預けた」「いや、兄直末からその遺領を貰った」との主張合戦が起き、うやむやのまま、松千代は母の兄の黒田孝高(くろだ よしたか)に引き取られました。

 

余談  武市(たけち)

板倉豊後守の話に出て来る武市とは、武市常三の事です。常三は兄の善兵衛が討死した時、3歳の遺児を養育して成人させ、父の名前・善兵衛をその子に継がせました。兄の家を修理し、知行所や家財を全て引き渡し、己は燗鍋(かんなべ)(お酒をお燗する鍋)と手槍(短い槍)一本を持って、家を出て行きました。

 

余談  処刑について

江戸時代、主君が家臣を討つには幕府の許可が必要でした。社会の安定と秩序を目指した幕府は、やたらの上意討ちを禁じていました。時代劇でよく見られる藩主の虫の居所や都合で家臣を斬ったりしたならば、直ちにお家御取り潰しの対象になりました。これは旗本の様に知行地を持つ領主でも同じで、領民を訳無く処刑する事は禁じられておりました。領民を処刑する時は、処刑人を領主側から出すのではなく、幕府の手に委(ゆだ)ねられました。藩主や領主の司法には、かなり厳しい制限が加えられていました。

 

余談  指名手配書

幕府が古田騒動で全国に指名手配をしましたが、下記がその文書です。

『今度古田兵部少輔家来不儀有之候而、令死罪之處、彼妻子於在所聞

之欠落候、右之通及上聞、可尋出旨被仰出候付、兵部少輔家中之輩、

諸国在々所々へ相廻候間、見出之、聞出届於有之者、急度捕之可相渡

者也  

                                                              阿部豊後守 忠秋在判 

                                                              阿部対馬守 重次在判 

                                                              松平伊豆守 信綱在判 

  諸国在々所々

    御領内                                                    』 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

寛政重修諸家譜  堀田正教・林述斎他 国立国会図書館所蔵

重勝流古田家系図  個人所有

徳川実記  黒板勝美 國史大系編集会 吉川弘文館

太閤記  小瀬甫庵

戦国人名辞典  高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館

戦国人名事典  阿部猛・西村圭子編 新人物往来社

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「戦国武将列伝wiki」「刀剣ワールド」や、浜田市、浜田城に関するネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。

 

 

 

 

181 二人織部(3) 内通の嫌疑

二人織部古田重然と古田重勝。「古田重 」までは名前が同じですが、その人生は違っています。古田織部は大坂方に内通した嫌疑で捕えられ、切腹を命ぜられました。

内通と言うからには、そこには必ず人との接触が有る筈です。

「類は友を呼ぶ」「友達を見ればその人が分かる」などなど、人に関する諺が数多くあります。関ケ原から大坂の陣までの期間限定で、織部の周りにいた人々から彼の属性を探ってみたいと思います。

 

織部の周囲

織部には弟子が沢山いました。

下記に記載した人達は、織部の弟子で、それなりに茶人として名を成しております。ここでは、関ケ原合戦の時と大坂冬の陣・夏の陣の時に、東軍か西軍かどちらに属していたかを中心にまとめています。

職業は、大名・武将・武士・僧侶・公家・町衆などの頭文字をもって表しています。大名ならば、武将なら、武士なら、公家なと言う具合いです。

関ケ原合戦で、東軍で戦ったら、西軍なら西、幼少で出陣していなかったら、その時既に死亡して居たら、不明と不出陣の場合は。戦闘中に西軍から東軍へ寝返りすると東返、戦闘中に東軍から西軍へ寝返りすれば西返。出陣しても戦闘をしなかった場合は、旗色を( )で囲っています。例えば(西)と言う風です。

冬陣は大坂冬の陣の略です。東西陣営の区別は関ケ原の合戦の表記に準じます。

夏陣は大坂夏の陣の略です。東西陣営の区別は関ケ原の合戦の表記に準じます。

        職 関原 冬陣 夏陣   備考

浅野幸長    大    東   東  東   『茶道長問織答抄』著

安楽庵策伝   僧      -         -       -        落語の祖。

石川貞通       将    西   西  西 

板倉重宗       大    東   東       東  京都所司代

猪子一時          将    東   東  東    秀忠お伽衆

上田重安(宗箇) 大    西       東        東    上田宗箇流流祖

大久保忠隣    大    東     -  -  改易故に大坂出陣不能

大久保藤十郎   武    東       東   東  大久保長安嫡男・切腹

大野治長     大    東     西   西       穏健派  大坂落城時自害

大野治房     武    西     西  西  主戦派 大阪落城時逃亡

岡部宣勝     大    幼     東  東   織部流第一の門弟

金森可重            大     東     東  東   嫡男に金森宗和

江月宗玩    僧   -    -  -   孤蓬庵開山

小早川秀秋   大   東返   亡  亡   肝硬変糖尿病享年21

小堀政一(遠州)   大    東     東  東         遠州流祖 きれいさび

近衛信尋            公      -        -       -     後陽成天皇第四皇子 

佐久間勝之   大  東     東  東  

佐久間実勝   武  東  東  東   呼称将監 宗可流祖

佐竹義宣    大  東     東  東     石田三成上杉景勝と親交有

島津義弘    大  西  -  -     大坂の陣は不参加 

清水道閑    町       -     -  -      石州流清水派祖

常胤法親王   僧    -   -     -     天台座主正親町天皇猶子

角倉素庵            町  -   -  -       京の豪商・書道角倉流祖

大文字屋宗味  町  -   -     -     京の豪商

伊達政宗    大       -         東  東   関時慶長出羽合戦

徳川秀忠    大        東   東  東   将軍

永井尚政    大        東        東   東  永井信濃守屋敷跡が信濃町

中野笑雲     ?         -   -  -   柳営茶道頭 御数寄屋頭

南部利直    大        -   東  東   関時慶長出羽合戦

服部道巴     ?         -   -  -   織部高弟   加藤清正茶堂

原田宗馭    武  -    -  -   柳営茶道 御数寄屋頭

針屋宗春    町  -    -  -  「宗春翁茶道聞書」針屋金襴

広橋兼勝    公  -    -  -    従一位 武家伝奏 歌人

船越永景    将  幼    幼  幼     武将・江戸時代旗本

本阿弥光悦   町  -    -  -    芸術家 刀研師

本阿弥光益   町  -    -  -    芸術家 刀研師 灰屋紹益父

本願寺教如  僧  -   -  -    親東派 織部茶会に8回も正客

松屋久好    町       -     -  -    奈良豪商漆屋 松屋会記

毛利秀元    大  (西)    (西)   (西)  宰相殿空弁当(出陣不戦闘)

 

目算外れ

関ケ原合戦から大坂城落城、そして織部切腹に至るまでの期間限定で、織部と触れ合った人達を、茶会記や書状から数えてみると、実に多士済々です。

「内通」というキーワードを念頭に、交際範囲が西軍側に偏っているかと思い、それを仮定してリストアップしましたら、むしろ東軍側の人が多いので、目論見が外れてしまいました。

特に頻繁に交流していた人の名を挙げれば、上田重安(宗箇)、浅野幸長毛利秀元島津義弘などがいます。

 この四人に就いて、少し見て行きたいと思います。

 

上田重安(=宗箇(そうこ))

上田重安は丹羽長秀に仕えていました。本能寺の変の時は丁度主君・丹羽長秀大坂城の守将の時でした。重安は大阪城千貫櫓の守りに就いていた津田信澄を単独攻撃して討ち取ってしまいました。津田信澄は信長の甥です。信澄の正室明智光秀の娘。光秀に呼応して大坂城内から信澄が謀反の狼煙を上げたら、という懸念がありました。

この様に重安は猛将の聞こえが高かったのですが、丹羽長秀の跡を長重が継ぐと、主家は123万石から15万石に、更に4万石までに減らされてしまいました。此の大幅減封によって、家臣は殆ど失業してしまいました。勇者の誉れ高い重安も例外ではありません。失業した彼を秀吉が1万石で再雇用します。

上田重安は関ケ原合戦では丹羽長重の城に入り西軍として戦いましたが、敗戦。その後、蜂須賀家の客将になり、四国に移り住みました。重安の正室北政所・ねね(高台院)の従弟の娘で、紀州藩主・浅野長政・幸長と親戚関係にあり、その縁で、宗箇は紀州藩に仕える様になりました。

宗箇(重安)は千利休古田織部茶の湯を学んでいます。そして、彼の主君・浅野幸長(あさの よしなが)も又茶人です。幸長は織部に熱心に指導を仰ぎ、宗箇を助手にして『茶道長問織答抄(さどう ちょうもん しょくとう しょう)』と言う本を著(あらわ)しました。長問とは幸い、織答は部がえる、と言う意味です。

織部と宗箇は、非常に緊密な師弟関係を結んでおります。宗箇は関ケ原では西軍に所属し、大坂の陣では東軍に与(くみ)しています。彼は西軍から東軍に鞍替えしていますので、ここに織部との接触を通して東軍の情報を西軍に流したという疑惑が生じるかも知れません。ただ、常識的に言って、西軍を去った者が、わざわざ東軍の情報を西軍に流す様な事は有り得ないので、織部-宗箇-大坂方という情報ラインは無かったと婆は考えています。

 

浅野幸長 (あさの よしなが)(1576‐1613)

浅野長勝には子供がいませんでした。そこで、親戚の杉原家利から二人の女の子を養女に貰いました。姉妹は「ねね」「やや」と言いました。「ねね」は親の反対を押し切って木下藤吉郎と言う足軽と結婚してしまいました。「やや」は婿養子をとりました。その婿養子が浅野長政です。ややと長政の間に生まれたのが、幸長・長晟・長重の3人の男子と3人の娘です。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)浅野長政は、ねねとややを通して義理の兄弟になります。

幸長の初陣は15歳で小田原征伐の時です。文禄の役では朝鮮にも渡海、加藤清正と共に朝鮮半島各地を転戦しました。帰国して関白秀次事件に首を突っ込み、秀次を弁護した為に秀吉の怒りを買い、能登流罪になりました。1年後に許されて復帰、慶長の役で再び渡海します。しかし、蔚山(うるさんじょう)で苦戦。兵糧攻めにあい、生死の淵に追い込まれました。やがて、秀吉薨去(こうきょ)により朝鮮半島から帰国。文治派の石田三成と、渡海して辛酸を舐めて来た武闘派との間に亀裂が入り、鋭く対立する様になります。

幸長を加えて七将と言われる福島正則加藤清正池田輝政細川忠興加藤嘉明黒田長政石田三成襲撃事件を起こします。

関ケ原の戦いの時、浅野長政・幸長父子徳川に与して東軍で戦います。やがて、父・長政が亡くなり、1613年(慶長8年)幸長も病死してしまいました。享年38でした。

1615年織部の家老・木村宗喜による京都放火未遂事件が起き、宗喜は板倉勝重に捕縛されます。

この件で織部は内通の嫌疑を掛けられましたが、もし、内通を織部-幸長ラインで疑われたとしたら、それは全くの見当違いです。豊臣秀吉と縁浅からぬ浅野幸長ですが、何しろ、大坂城落城の2年前に既に浅野幸長は亡くなっていたのですから。

 

毛利秀元(1579‐1650)

毛利秀元の父は穂井田元清(ほいだ もときよ)と言って毛利元就の四男です。

毛利宗家の三代目・輝元に子供がなかったので、輝元は秀元を養子にとります。

1592年(文禄4年)秀元が14歳の時、文禄の役に従軍、これが彼の初陣になります。

1597年(慶長2年)慶長の役の時、秀元は病気の輝元に代わって3万の毛利軍を率いて渡海。14万を擁する日本軍は釜山に上陸、右軍の総大将は弱冠19歳の秀元、加藤清正黒田長政鍋島直茂など歴戦の猛将達を指揮して慶尚道から侵攻、漢城(ソウル)に迫ります。が、秀吉の死と共に戦は終結し、撤収します。

秀元は、宗家・輝元に男子(秀就(ひでなり))が生まれたのを機に、毛利家の跡継ぎを辞し、別家を立てます。秀元は豊臣秀長の養女と結婚しました。

1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いの時、毛利輝元は西軍の総大将になり大坂城に入ります。当然の様に秀元も西軍になり、関ケ原の現場に出陣し、南宮山に陣取りますが・・・補佐役の吉川広家(きっかわ ひろいえ)は西軍が敗けると予測。広家は事前に徳川方と協議を行い、西軍を装って出陣するが戦わないから、東軍が勝った暁には毛利の所領を安堵すると密約を交わします。南宮山の麓に陣取った吉川広家、頑として動かないので山の上に居た秀元は下に降りられず、本戦が始まっても動けません。大坂方の使者が督促に来ましたが、秀元は「只今兵に弁当をつかわしている」と誤魔化して時間を稼ぎ、結局戦いませんでした。(宰相殿の空弁当)。大坂城にいた毛利輝元も敗戦を知って戦わずして退去しました。毛利は徳川との約束を守りましたが、家康は毛利を大幅減封しました。

戦後、秀元は家康の養女と再婚、大坂の陣で今度は東軍に属しました。しかし、関ケ原でそうであったように、毛利は両面作戦を密かに採り、内藤元盛(変名して佐野道可(元盛実母が輝元の叔母))に軍資金と兵糧を与えて大坂城へ潜入させます。大阪城落城後、城から逃亡した元盛は毛利一門である事が徳川に露見、京都で捕縛されました。

輝元は、我が藩と関係ないと申し開きの為、元盛の嫡男と次男を家康の下に遣わし、父が豊臣家に恩義を感じて勝手に大坂方に行ったので我等とは関係ないと釈明させます。家康にそれを認めさせて毛利は事なきを得ましたが、元盛は切腹を命じられました。

徳川から更なる追求を恐れた輝元は、口封じに元盛の嫡男と次男も自刃させてしまいます。この大坂城潜入の特命を元盛に下したのは、輝元と秀元でした。

内藤元盛切腹したのが1615.06.17(慶長20年5月21日)です。

古田織部切腹したのが1615.07.06(慶長20年6月11日)です。

日付が接近しています。内藤元盛と似たような事件の構造が、織部にもあったのでしょうか。織部の沈黙の硬さは何を意味しているのか、ますます闇が深くなりそうです。

 

島津義弘(1533-1611)

島津家中興の祖・島津貴久は、義久・義弘・歳久・家久という4人の男子に恵まれました。

4人の男子はそれぞれ優れた特質を持ち、島津の屋台骨を結束して支えて行くようになります。彼等は最強の軍団を作り、九州南端の薩摩から北上し、九州全域に版図を広げる勢いになりました。島津の拡大路線を止めさせる為に、秀吉は20~27万とも言われる大軍を率いて九州に下向、島津はそれに抗し切れず、秀吉の軍門に下ります。

義弘は猛将の中の猛将と言われています。彼は、文禄・慶長の役で「鬼石曼子(ぐいしーまんず)(鬼島津)」と呼ばれて敵に恐れられました。関ケ原の戦いの時、「島津の退(の)口」と言われる壮絶な退却戦を敢行したのも、彼です。

一方文化人の顔も持ち、学問や茶の湯にも熱心でした。明の医師・許儀後(きょぎご)について医術も習っていました。

義弘は、朝鮮に出陣した際、多くの朝鮮の陶工達を連行しました。義弘は自身の茶の湯の嗜好と共に藩の殖産興業の目的もあり、彼等に焼き物作りを始めさせます。義弘は師の織部へ出来上がった作品を送り、指導を仰ぎます。この様な繋がりで、織部と義久の間にはかなり密な交流が有りました。

関ケ原の時、島津義弘は西側に参陣しています。

ただ、島津の実力からすれば申し訳程度の僅か300名位の手勢でした。前哨戦の伏見城攻撃で消耗していたと言う事情もありまして、とても島津の主力とは言えない軍勢でした。そして、彼は前述した「島津の退き口」と言われる壮絶な戦場離脱戦を展開したのです。

3万とも言われる主力を温存したまま家康を威嚇する様にして島津は交渉し、関ケ原は義弘個人の単独参加であり島津宗家は関りが無かったと言う事になり、その罪は不問にされて本領安堵されました。その後、内政事情もあって薩摩は西側に立っては居たものの、鳴りを潜めておりました。

 

古田織部は、関ケ原の戦いの後も何事も無かったように大坂城に出入りし、茶会を開いています。勿論秀忠の茶の師匠でもありますので、徳川にも出入りしています。両陣営にいい顔をして、ひょいひょいと東西を行き来する織部を、家康はかなり注視していたと思います。

薩摩の連歌師如玄と、織部の家老・木村宗喜と結びついていたと言われており、如玄が薩摩の意思をどの程度奉じていたか、気になります。

 

夏の陣の時、大阪側に立って戦った者の中に木村宗明(木村重成の甥・前田利常と豊臣秀頼の家臣)という武士がいます。織部の家老・木村宗喜とこの宗明の間に関係有るのか無いのか引っ掛かります。単なる名前の偶然か、縁戚関係か、それとも大徳寺関係の茶人に付与される「宗」の一字繋がりの関係か、分かりません。

また、夏の陣に大坂方で戦った島津義弘は、「島津の退き口」をやってのけたあの島津義弘ではなく、播磨国布施郷(現兵庫県たつの市)を本拠としていた播磨島津島津義弘です。薩摩島津は遅刻して夏の陣に間に合わず、戦場に顔を出していません。

 

総じて戦国時代の大名は権謀術数に長(た)けております。そうやって生き抜いていきました。中でも毛利も薩摩も謀(はかりごと)の多い国です。一筋縄ではいきません。義弘の医術の師でもある明の医師・許儀後が、秀吉の唐入りの意図を事前に知り、その知らせを密かに母国に知らせた時も、島津は知らぬ顔の半兵衛を決め込みました。島津は明と手を結び、秀吉を潰しにかかったのではないか、という噂もあります。秀吉は許儀後を処刑しようとしましたが、家康の執り成しにより救われました。

連歌師と言う仕事は、和歌や古典や各地の情勢に明るく無ければ務まりません。そこに、単なる文化人としての職業ではなく、情報屋としての裏稼業の側面がありました。要するにスパイです。この頃、連歌師は、大名からの連歌会のお座敷の誘いが盛んにかかっていました。

 

 

余談  強制連行

文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮の人々にどれだけ酷い事をしたのか、聞くだけでも恐ろしい事ですが、耳を塞ぎ、目を背ける事があってはなりません。しっかりと心に留めておかなければならない事実です。

豊臣秀吉は明を征服する為に、およそ16万の兵をもって経由地の朝鮮に侵攻しました。

日本軍は戦国の世を経てきており戦には百戦錬磨の兵達を擁しておりました。しかも当時の日本はヨーロッパを遥かに凌ぐ世界最大の鉄砲保有国でした。攻城戦も日常的に実戦で経験を積んでおり、最強の軍事国家だったのです。その日本が朝鮮を侵略。朝鮮はなす術もなく敗退を重ねました。

侍達は戦果を数える為に、殺した人の鼻を削ぎ落としました。首を取るのは嵩があって大変なのでそうしたのです。そうして集めた鼻を塩漬けにして船に積んで秀吉に送りました。これで、何人殺したか分かります。戦功の証(あかし)になりました。秀吉は鼻の塩漬けの樽がどんどん増えるのに満足し、方広寺の近くに塚を築いて「供養」しました。

戦争には陣地を作ったり、荷物を運んだり、様々な陣役が有ります。それらに日本の農民が駆り出されたので田畑の仕事が手薄になりました。彼等の代わりに朝鮮の人々を捕虜にして日本に送り、奴隷として使役しました。労働力にもならない様な人間は奴隷として外国に売り飛ばしました。捕虜で「値打ち」のあったのはまず、朱子学者でした。彼等を日本人は尊敬しました。次に陶工でした。陶工は役に立つ捕虜でした。大名達は競って陶工達を生け捕りにしました。技術を持った者は歓迎されました。日本に連れてこられた陶工達は、囲われた地域に押し込められ、強制的に焼き物を作らされました。お蔭で、日本の焼き物の質は格段に上がりました。日本の焼き物界を大いに刺激し、その後の発展に多大な貢献をしましたが、彼等の日本での暮らしは食うに困る程の極貧の中にありました。

 

 

 

  この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

古田織部の茶道 桑田忠親

没後400年 古田織部展 編集NHKプロモーション

秀吉・織部と上田宗箇 編集広島県立美術館 秀吉・織部と上田宗箇展実行委員会

日韓文化交流基金 文禄・慶長の役(壬辰倭乱) 六反田豊/田代和生吉田光男・伊藤幸司・橋本雄・米谷均・北島万次

九州の朝鮮陶工たち 故郷忘じがたく候

島津義弘茶の湯と茶陶製作   深港恭子

BTG「大陸西遊記豊臣秀吉朝鮮出兵と倭城

和楽 連歌師とは何者? 連歌会とはどんな場? 戦国時代の不思議な職業の秘密とは?

日本初の歴史戦国ポータルサイト BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

この外に「ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「戦国武将列伝wiki」「刀剣ワールド」「名刀幻想辞典 毛利秀元」「戦国ヒストリー」「漢字検索」

などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。ありがとうございます。

 

 

 

180 二人織部(2) 関ケ原の戦い

豊臣 対 徳川の戦いの時、真田家は家の存続を賭けて、どちらかが生き残れば良いという考えの下、意図的に敵味方に分かれたと言われています。織田家長益(=有楽=如庵(信長弟))が徳川方につき、織田秀信(=三法師(信長嫡孫))・信包(のぶかね(信長弟))が豊臣側に就きました。織田家の場合は意図的に割れたと言うよりも、信条に基づいて分かれたのかも知れません。

重勝流古田家の三兄弟の場合ではどうかと言いますと、時の流れに従って東西に分かれた、と言う方が当たっているでしょう。

 

行きはよいよい 帰りは・・・

簡単に言えば、家康上杉討伐軍を率いて会津に向かった時、古田重勝もそれに従って従軍しました。重忠大坂城に居て「兄上、行ってらっしゃい」と見送りましたが、東征した筈の徳川軍が小山評定から昨日の敵は上杉で、今日の敵は石田三成と、矛先を真逆に変えて引き返して来たので、上杉討伐軍に居た重勝は、東軍所属になってしまいました。と、まあ、簡略化して言えばそういう事なのです。

ただ、この話には誇張があります。

重勝は単騎で東征軍に参加した訳では無く、自軍を率いての参陣ですから、松坂で軍勢を整えて征かなければなりません。そして、徳川軍に合流した筈です。という流れを考えれば、重忠は大坂城の窓から手を振って「兄上、行ってらっしゃい」と見送ったと言うのは、あくまで理解の手助けにと、図になる様に描いた話です。

 

重勝、出陣か or 籠城か

重勝徳川家康の号令に従って会津へ出陣した様に書きましたが、これには異説が有ります。実は重勝は出陣せず、松坂城に籠城していたという話です。

『戦国合戦大辞典(5)岐阜・滋賀・福井』に載っている関ケ原合戦布陣圖を見ますと、古田重勝徳川家康本陣が置かれた桃配山の前衛に、織田有楽、金森長近、生駒一正と共に轡(つくわ)を並べて陣取っております。ところがその異説によりますと、桃配山前衛にいる古田重勝は実は重勝ではなく、重然(織部)だと言うのです。

ここでも、織部重勝との混同が見られます。

異説の論拠は、関ケ原の時に重勝松坂城で籠城していたから、本戦に参陣できる筈もない、というものです。

確かに、古文書に「籠る」と言う言葉が出てきますが、籠城していたのは津城の富田信高。重勝の項に「籠城」の言葉はありません。

婆が最も信頼している幕府の公式記録寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)を見ますと、重勝は外出(外征)先から急を聞いて駆けつけ、敵掌中に落ちた自城を攻撃して奪取しています。古田重勝の項の、その時に当たる部分にはこう書かれています。

 

寛政重修諸家譜

『(前略) 東照宮上杉景勝御征伐のときしたかいたてまつり下野国小山にいたるのところ石田三成叛逆のきこへあたるにより暇たまハりて領地に帰る居城に敵いまた寄さりしかハ富田信濃守信高か籠れる津城に500余の兵を分けてこれを援けしはしは賊徒を挑戦して軍忠を抽のち二万石を加へ賜ハりて(後略)』

ずいよう超意訳

(東照宮(家康)、上杉景勝御征伐の時、従い奉り下野国小山に至ったところ、石田三成が謀反したと報告が有ったので、(家康から)お許しを得て(皆様よりお先に)暇を頂き、(小山から)松坂の領地に帰りました。(敵掌中に落ちた我が)居城を攻撃し、また、(その城を奪取して)寄って(依拠して)安濃津城の富田信濃守信高が籠城している津城に兵を500ばかり分けて富田信高を援け、幾度も賊徒(西軍)に戦いを挑んで忠義を表しました。この軍忠により2万石を加増して頂きました・・・)

 

重勝流古田家の系図には、重勝の当時を次の様に書いております。

 

重勝流古田家家系図抜粋

(前略) 慶長五年石田三成企叛逆仍西國之魁首九鬼大隅守等来勢州襲津城肆重勝遣雑兵五百餘人為津城後詰既得逢彼手厥后於濃州関ケ原御合戦猶抽忠戰依其功従 源家康公加給二萬石之地都合五萬五千石領知焉(後略)

ずいよう超意訳

(慶長五年、石田三成謀叛を企て西国の魁首((かいしゅ)=首領)の九鬼大隅守などが伊勢国に来て津城を襲い勝手放題の肆(ほしいまま)にした。重勝、雑兵500余りを津城の為に遣わして後詰し、彼の手に城を取り戻した。その後、美濃の関ケ原の合戦になお参陣し忠戰を表した。その功に従い、源家康公は二万石の地を給い、今迄の分と併せて五万五千石を領知した。

 

2万石の加増

寛政譜には重勝関ケ原に参陣した記述はありません。一方、重勝流古田の記録には関ケ原に行った事に言及しております。

重勝は家康に従って下野国(栃木県)小山(おやま)まで行きました。そこで家康は石田三成挙兵を知り、小山で評定を開き、諸将団結して徳川に従い豊臣に反旗を翻します。

石田三成側が伊勢松坂を攻めたとの知らせに、重勝は家康の許しを得て急遽伊勢の松坂に戻りました。皆が結束して団体行動をしている時に先行してそこを離脱し、西に奔(はし)って帰ったのですから、見方を替えれば、徳川に離反して豊臣側へ逃げたとも受け止められます。叛意を疑われても仕方のない状況です。重勝には秀頼付の弟・重忠がいるのですから、猶更です。

東海道を行く家康と、真田と言う難敵の居る中山道を行く秀忠が、関ケ原で合流するまでにはかなり時間がかかるだろうと思われ、それ迄になんとか松坂の事態を解決しなければ、と重勝は先を急ぎました。彼が皆と別れて先行して走った分だけ時間の余裕が出来、また、家康が江戸に何日も滞在して動かなかった事、秀忠が真田に手古摺って時間を浪費した事も幸いして、彼は松坂城を攻撃してわが手に奪還する事が出来ました。

重勝が自城を奪還した後、関ケ原に行くには、再び自城を留守にしなければなりません。それでは再度城を敵に奪われる危険があります。しかし、小山をいち早く離れた時、別心ありと勘繰られたかも知れない状況下で、寝返り疑惑を放置して自城に固執するよりも「家康様御為」と動いた方が、叛意の疑惑は払拭(ふっしょく)される筈です。武将にとって疑われる事は討死する事よりも危険で怖い事なのです。討死には名誉が有ります。謀反の疑惑で処刑されれば、末代までの恥がつき纏(まと)います。

重勝は、本戦で徳川方が勝てば松坂が安堵されると踏んで、賭けに出たのではないでしょうか。彼は関ケ原に行ったと思います。その戰功が恩賞2万石の加増になって表れたと婆は推測しています。

 

織部のポジション

織部関ケ原の功で2千石の加増を頂き、従来と併せて1万石になりました。恩賞の軽重で全てを判断する事はできませんが、恩賞の高はそれなりの公平さを保っていると思われます。あれやこれやの状況から、関ケ原の本戦の時、家康の馬前に織田有楽らと共に布陣していたのは、古田織部ではなく、古田重勝だったと婆は結論づけています。

では、関ケ原で東軍に居たという織部は、何処にいたのか・・・

用兵の要(かなめ)は適材適所。家康は交渉事や調略を得意とする織部を、家康本陣の傍らに置いたのかも知れません。或いは、茶人の細川忠興金森長近、織田有楽の部隊に混ざったのかも知れません。古田重勝部隊ならば、その隣に織田有楽の部隊や金森長近の部隊がいるので、そこに混ざればおさまりが良いようにも見えます。

家康は織部をどこに配置したのか、家康の身になって作戦を立て、布陣図を書いてみるのも面白いと思います。

 

仮面の平和

1600年(慶長5年)、東西勢力が関ケ原で激突し、家康が勝利しました。

この時、家康が戦った相手はあくまでも石田三成です。家康が関ケ原の戦いを制して凱旋したとしても、表向きは秀頼に謀叛を起こした訳では無く、秀頼の忠実なる臣下として心得違いの三成を排除しただけの話、という筋書きになります。

家康は、石田三成安国寺恵瓊小西行長を葬(ほうむ)り、 彼らに与(くみ)した多くの大名の所領を減額した上で、 その分を戰功の在った大名達に恩賞として再配分しました。こうして、家康は秀頼寄りの一派を没落させました。

3年後の1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に就任します。征夷大将軍武家の棟梁。こうなると、武士たる者すべては将軍の言う事に従わなければなりません。家康の専横化が次第に露(あらわ)になってきます。

表向きには、家康は秀頼の御為に忠戰を尽くした形になっています。とは言え、秀頼を将軍の下に置いて統制しようとする家康に、大坂城内では次第に反発の気運が高まってきます。こういう微妙な空気の中でも、此の頃は古田重勝と弟・重忠は敵味方に分かれていた訳ではありませんでした。何故なら、家康が秀頼さま御為に三成を成敗したのならば、それに動員された重勝も秀頼さま御為に働いたことになりますから。

ごまかしの論法であれ正論であれ、天下分け目の戦いで家康が勝ったという事実は動かしようもなく、表面上平穏が保たれていました。

 

天下統一への道

家康は次々と天下統一の布石を打ち始めます。

先ず、天下普請を始めます。

伏見城、二条城、名古屋城江戸城、姫路城などなど多くの城の普請を各大名に割り当て、大名が所有している財力を削ぎ落としにかかります。5万5千石の小藩・古田重勝も、佐和山城の普請を命ぜられた後、それが出来上がると更に江戸城の石垣を割り当てられています。

豊臣方へは、以前から秀吉追善供養の為に神社仏閣の作事をしていた淀殿や秀頼に、「それは良い事だ」と大いに容認しています。その時、手掛けた寺や神社には東寺金堂、延暦寺横川中堂、熱田神宮石清水八幡宮方広寺大仏殿などがあります。

そして、家康は秀次切腹により空位になっていた関白職に、五摂家の一つである九条兼孝を就けてしまいます。農民の秀吉が関白に就いたという異常事態が、ようやく平安時代からの伝統に戻りました。関ケ原の合戦の翌年の1601年(慶長5年)の事です。

これによって秀吉→秀次と続いた関白職を秀頼が継承する道は閉ざされてしまいました。おまけに秀吉の出身が出身だけに秀頼が源氏の棟梁になれる訳は無く、秀頼は征夷大将軍になる道も失いました。

(もし、秀頼が関白職を継いていたならば、その権力を使い、財力を投入し、系図を改ざんすれば、将軍に成れる可能性はあったかも知れません。家康も源氏に繋がるように系図改ざんしていますので)

家康は秀頼の将軍への道を閉ざした上で、1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に就任しました。

酷い仕打ち! と家康のマウント取りを非難するのは容易です。しかし、民主主義の無い時代、支配のピラミッドを盤石にするには止むを得ない行程ではなかったかと、思います。

足利義昭織田信長は、義昭が将軍と言う上位に在った為に、信長は義昭による信長包囲網という煮え湯を飲まされ続けました。

義昭豊臣秀吉の関係性はというと、秀吉が義昭より上位の関白に就いた途端、義昭は秀吉に擦り寄り、猫の様に大人しくなりました。九州平定では義昭は島津との間に立って和平への交渉役を買って出、はたまた煌びやかな軍装を整えて唐入りの拠点・名護屋まで出陣し、君前の労を取ろうとアピールしています。

 

しかし、こうした家康のやり方を、大坂方が是認していた訳ではありません。

無理筋の圧力に対して秀頼側の応力が次第に限界に近づき、様々なひずみを引き起こしました。そのひずみが百家争鳴の意見となって、大坂方は四分五裂して行きます。

 

 

余談   寛政重修諸家譜

寛政重修諸家譜は、寛政11年から文化9年(1799年―1812年)の14年間かけて、徳川幕府が国家事業として若年寄堀田正教に命じて作らせたものです。

初め、1620年代の寛永年間に、幕府は大名・旗本から家系譜を提出させ、それを集大成したものを作りました。これが寛永諸家系図伝です。その後、寛政の年に続編を編纂する事になりましたが、『寛永諸家系図伝』を見直す内、元々が自己申告の呈譜で作られていた為、かなり信頼度に疑問が出て来る様になり、全面的改定を迫られる様になりました。

堀田正教は、大学頭の林述斎屋代弘賢などの学者をはじめ専任スタッフ50人を集め、編纂に取り組みました。『寛永諸家系図伝』の前例が有るので、事実の吟味に重点が置かれ、江戸幕府成立後の記述は極めて正確だと言われています。

ただ、その時々に同時性をもって書かれた日記とは違って、年月が経ってからの編纂事業だった為、残念ながら一級の一次資料としての評価は得られていません。

 

 

余談  移動速度

今なら東京 ― 大坂2時間半  昔なら何日間かかるかと思って調べてみました。

東海道中膝栗毛(弥次さん・北さん)  江戸―伊勢                  14日間

徳川家康、江戸から関ケ原迄行軍  江戸―赤坂(岐阜県大垣市)   13日間

足利尊氏、討伐軍を率いて東下り  京都―遠江橋本(静岡県湖西市)  7日間

北畠顕家足利尊氏を追撃。途中合戦有り 奥州―鎌倉―近江愛知川 20日

幕府公用継飛脚 宿場でリレー式  江戸―京都 492㎞      3~4日間

古田重勝が小山を先発してから関ケ原開戦まで50日間の余裕が有るので、これならば松坂城を奪還してから関ケ原に駆けつける余裕はありそうです。

 

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

系図研究の基礎知識 第三巻近世・近代  近藤安太郎著

寛政重修諸家譜 堀田正教 林述斎他 徳川幕府 国立国会図書館

重勝流古田家家系図

織田信長家臣人名辞典 吉川弘文館(株)  高木昭作監修 谷口克広著

三百藩藩主人名辞典(4) 新人物往来社

姓氏家系歴史伝説大辞典

『戦国合戦大辞典(5)岐阜・滋賀・福井』 戦国合戦史研究会編 新人物往来社

「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川関ケ原でまけていた 本郷和人

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「漢字検索」「地図」「地域の出している情報」「観光案内」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。

 

 

 

 

179 二人織部(1) 重勝のこと

古田織部には二人の人物が居ます。一人は皆さまが良くご存知の茶人・本物の古田織部正重然(ふるた おりべのかみ しげなり)、もう一人は、松坂藩藩主・古田兵部少輔重勝(ふるた ひょうぶしょうゆう しげかつ)です。司馬遼太郎もこの二人を混同しておりまして、話が少しややこしくなっております。当ブログでは時々目立たない様に松坂藩の重勝をチラッチラッとチョイ出しておりまして、それとなく露出させておりました。

何故そのような余計な事を?と思われるかもしれません。実は、当時の重勝流古田家には三人の兄弟が居りまして、それが豊臣方と徳川方に二つに割れ、身内同士で戦っております。

前のブログ「茶史(6) 織部全盛~切腹」の項で

1603.02.23(慶長8.01.13) 古田重勝古田重然(織部)の茶会に正客で招待される。

と述べました。二人が会ったと言う記録があるのはこの時のたった1回だけです。記録に無い接触があったのかどうかは分かりません。二人が会ってから約3年5ヵ月後の1606年に重勝は46歳で病没しました。織部切腹したのは重勝病没より更に9年後の1615年です。この時織部73歳です。

 

古田織部と古田重勝は従兄弟同士と言われ(叔父と甥の関係との説も有り)ます。織部が豊臣側に内通の嫌疑を受けて切腹したと言う事実と、重勝流古田家が東西二手に分かれて戦った、と言う事実があります。婆はこの二つの関連性に興味があり、すこし、立ち入って触れてみたいと思います。

これから述べる婆の話には、一次資料や二次資料に基づく学術的な裏付けはありません。ただ、そうは申しましても全くの虚構では無く、事実の事も多々あります。事実と事実の間を空想で繋ぎ合わせながら物語ろうと思います。

その前に、記録として残っている基本情報は、下記の通りに押さえておきたいと思います。

              基  本  情  報

 

古田重然(織部)                   

①戦国時代後期-江戸時代初期   ②生没年  1543‐1615   ③名前   景安、左介、通称・織部 通字は「重」  ④出身   美濃   ⑤戒名   金甫宗屋禅人    ⑥墓所   京都三玄院/興聖寺   ⑦官位   従五位下織部正(or 織部助)   ⑧主君   信長-秀吉―秀頼―家康-秀忠   ⑨領地   南山城古河市大和 10,000石   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋   丸に三引両   ⑫父母   古田重定・養父古田重安、母不明   ⑬兄弟   重然   ⑭妻   中川清秀妹・せん   ⑮子   重行(九郎八)、重広、重尚、小三郎、重久、古田重次室、鈴木左馬介室、新宮行朝室   ⑯その他   茶の宗匠         

 

重勝流古田三兄弟

古田重勝

① 戦国時代後期・江戸時代初期  ②生没年  1560 ‐1606   ③名前   吉左衛門 通字は「重」   ④出身   美濃   ⑤戒名   國泰寺殿天関道運大居士   ⑥ 墓所   江戸の泉岳寺/正覚院   ⑦官位   従五位下・兵部少輔   ⑧主君   秀吉-秀頼-家康   ⑨藩    伊勢松坂藩藩主 55,000石   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋 表紋は丸に三引両、奥紋は五三桐   ⑫父母   古田重則 母無筋目   ⑬兄弟   重勝・重忠・重治   ⑭妻   石河杢兵衛光政の女(むすめ)   ⑮子   重恒と養子の重良(重忠長男)   ⑯その他 朝鮮戦役で渡海。関ケ原の戦いでは東軍

 

重忠 (重則次男・重勝)

①戦国時代 ②生没年  ?-1615   ③名前   半左エ門 通字は「重」   ④出身 美濃  ⑤戒名   古剳玄霜   ⑥墓所    -   ⑦官位 ?   ⑧主君   秀吉-秀頼   ⑨藩 -   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋   表紋は丸に三引両、奥紋は五三桐   ⑫父母   古田重則・母無筋目   ⑬兄弟   重勝重忠、重治   ⑭妻   滝川豊前守法忠の女(むすめ)   ⑮子   重良(重直)、重昌(重広)   ⑯その他   秀頼に仕え大坂城落城の際、城内で戦死

 

重治 (重則三男・重勝)

安土桃山時代・江戸時代前期   ②生没年  1578‐1625   ③名前  -   通字は「重」   ④出身 美濃   ⑤戒名   江雲院殿古山道輝大居士   ⑥墓所   江戸の海禅寺   ⑦官位   従五位下・大膳大夫   ⑧主君   家康-秀忠   ⑨藩   伊勢松坂藩藩主、石見浜田藩初代藩主   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋   表紋は丸に三引両、奥紋は五三桐   ⑫父母   古田重則・母無筋目   ⑬兄弟   重勝、重忠、重治   ⑭妻   丹羽長秀(むすめ)(円光院)   ⑮子   養子の重昌(重忠次男)、古田重恒正室、重延、青木直澄正室   ⑯その他   大坂冬・夏両度の陣で徳川方につく

 

 表紋(おもてもん)は男子装束の紋。旗印・幕紋など。 奥紋(おくもん)は女性の紋。

 

寛政重修諸家譜 (かんせいちょうしゅうしょかふ)

江戸時代の大名や旗本を調べるには、寛政重修諸家譜と言う本を頼るのが一番確実です。『寛政重修諸家譜』は徳川幕府が編纂した職員名簿です。そこには、幕府を構成する全ての家の系譜が蒐集されており、全部で1,535巻もある、という膨大なものです。

寛政重修諸家譜』は、御三家(尾張・水戸・紀州)、御三卿(田安・一橋・清水)、御家門(徳川氏の分家)を除く、全国の大名と旗本の系譜を全て網羅しています。古田家の系図はこの中の938巻目に載っています。但し、そこに載っているのは古田織部の家の系図ではありません。古田重勝系図です。

寛政重修諸家譜』はその名の通り寛政11年から文化9年迄の14年間を掛けて編纂されたものですので、江戸初期に断絶してしまった織部系図は収録されなかったのでしょう。その代り、古田織部系図田畑喜右衛門吉正が著した『断家譜』の方に収録されています。さて、『寛政重修諸家譜』を基に、重勝流古田家に伝わる系図も参考にしながら、古田三兄弟が東西に分かれて戦った経緯を辿ってみたいと思います。

 

                         重勝流古田三兄弟の物語

 

古田重則のこと

古田家には重勝、重忠、重治という三兄弟がおりました。彼等の父は重則と言って、若い時に美濃を出て近江へ行き、羽柴秀吉長浜城下で仕官の口を求めます。彼は幸いにも秀吉の直属の旗本として採用されました。

重則の主君・羽柴秀吉は、織田信長の下知の通りに各地を転戦、重則も席を温める暇もなく戦いに明け暮れしていました。

播磨の三木城を攻囲していた1579年9月29日(天正7年9月9日)の夜のこと、毛利の大将・生石中務少輔雑賀衆を率いて秀吉側の平田砦を急襲、大混乱に陥りました(平田砦の戦い)。明けて翌10日、戦場は三木城により近い大村で合戦が始まります(大村合戦)。秀吉はすぐ駆け付けましたが、重則は乱戦の中で討死しました。享年51。法名は道乾です。三木城の戦いには、古田重然(織部)も従軍しておりました。

 

重勝のこと

父の訃報を受け取った時、長男の重勝は、前野将右衛門(前将)に随(したが)い、姫路城下に居ました。織田信長征西御動座に備え、秀吉の命により路次の宿駅の整備、宿所手配、兵糧の備えなどの準備に働いていました。三木城が落ち、備中高松城の水攻めがそろそろ仕上げに入る頃、姫路に本能寺の変の急報が届きました。前野隊に動揺が走りますが、中国大返しで戻って来る羽柴秀吉軍を迎えます。そして、山崎の合戦へと突入します。重勝は山崎合戦の功により秀吉から近江国の日野に所領を得ました。

秀吉が明智光秀を斃して天下を取ったとはいえ、まだ道半ば。秀吉は更なる国内統一を目指して戦い続けます。中国攻めの後、大きなものだけでも賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・紀州攻・富山役・九州征伐とありました。小さなものを挙げれば、切りがありません。重勝は数々の戦績を重ね、佐和山城の守将なども任せて貰える様になりました。小田原征伐の時も軍功を挙げました。秀吉の野望は暴走し始めます。秀吉は唐攻めへと突き進んでいきます。

1592(天正20/文禄1)年、文禄の役が始まりました。織部名護屋に出陣、同地で守備に当たります。重勝は渡海し、彼の地で奮戦して戦功を挙げます。帰国してから後、1595年(文禄4年)、秀吉より恩賞として伊勢国松坂に封を与えられ、3万5千石を領し、重勝松坂城城主になりました。その上、霊昭女花籠(れいしょうじょの はなかご)驢馬香爐(ろばこうろ)を賜りました。

この年は関白秀次切腹すると言う大変な事件が勃発した年です。松坂城の前任城主・服部一忠は、桶狭間の戦いの時、今川義元に一番槍を付けた剛の者で、信長の代にも秀吉の時にも紛れもなく忠臣でしたが、関白秀次事件に連座して上杉家にお預けになり、賜死により切腹しました。重勝はその後釜に据えられたのでした。この時重勝34歳です。

 

重忠のこと

重勝のすぐ下の弟・重忠は、兄と同じく秀吉に仕えていました。彼の仕事は軍事では無く、内勤でした。戦功を挙げて出世すると言うポジションではありませんでした。

朝鮮戦役の最中の1593年(文禄2年)、淀殿お拾い様(後の秀頼)が誕生しました。すると、人事異動が発せられ、重忠はお拾い様付の近習になりました。太閤様のご嫡子付き、と言う晴れがましいポストに抜擢され一層勤務に励んでおりました。同じ様に、お拾い様近習になった古田九八郎という者が居りました。九八郎は古田織部の長男でした。同族で同輩の二人、かなり親しく交流していたのではないかと思われます。

淀殿が秀頼を産んだのは1593年です。重忠の没年と享年から逆算して重治はこの時26歳になっていたと思われます。秀吉付から秀頼付へと人事異動があったのが何時だったのか分かりませんが、少なくとも立派な成人男子になっています。

(当初、重忠が秀頼に近侍したのが何歳の頃だったか見当がつきません、と申し上げましたが、色々調べて年齢がわかりましたので、お詫びして訂正いたします。訂正年月日2023.06.10)

太閤様御嫡子付になって、喜んだのも束の間、怪しい雲行きになってきました。既に太閤の後継者として活躍している関白秀次と、太閤実子の秀頼の間に権力闘争の様な動きが起こり始めました。原因は、太閤の心変わりです。実子が可愛くて、関白職を秀次にくれてやったのを後悔し始めたのです。

 

関白秀次の存在

秀吉の甥・秀次は、幼い頃から叔父の秀吉によって、たらい回しの様に人質に出されました。初めは浅井長政の家臣・宮部継潤の人質です。次に三好康長の養嗣子となりました。そして、最後に子供のいなかった秀吉の養子になります。幸いな事に、継潤も康長も相当な文化人でしたので秀次はその薫陶を受け、高い教養を身に着けていました。

秀次は日頃、古典の蒐集に努め日本文化の保存と継承に心を砕いていました。日本書紀』『日本後紀』『続日本後紀などの歴史書『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)の様に平安時代初期の弘仁から延喜までの三つの法令集などなど多くの書籍を朝廷に献上し、また源氏物語の写本なども持っていました。茶の湯連歌能楽にも秀でていました。そして、秀次の事を「万人から愛される性格」で「穏やかで思慮深い性質である」とルイス・フロイスが評していた様に、彼を慕う多くの人々がおりました。

秀次が極悪非道の悪人という後世の評価は、秀次一族を滅ぼした理由を正当化する為に、彼を徹底的に貶(おとし)めようとした結果だと思われます。そういう色眼鏡を掛けていない外国人の評価の方が、むしろ真の秀次の姿ではないかと、婆は思います。

秀次は、関白の職責として官位・叙任の専権事項の人事権を持っていました。彼は、その権利を使って、人事を行いました。栄華の権力者に娘を献上する親も続出しました。そういう秀次の下に人が群れ集まって来るのは世の常。いつしか、秀次の周りに大きな派閥が出来ていました。それが、秀吉の勘に触りました。「儂の許しを得ずして勝手に人事権を行使するな。いい気になりおって!」と。

秀吉は次第に秀次に脅威を感じる様になっていました。お拾い(秀頼)は余りにも幼く、か弱い存在でした。それに比べて秀次の勢力は肥大化し、公家にも大名にも深く根を張り、ちょっとやそっとでは倒せそうもないほどの勢いを持っていました。

 

秀次切腹

秀吉は焦りました。儂が亡くなった後、秀頼はひとたまりもなく捻り潰されてしまうだろう、と。老人の疑心暗鬼は留まる所を知らず、ついに、秀次排除へと舵を切ります。

秀次は切腹しました。近頃では、彼は賜死を受けて切腹したのではなく、死を以って身の潔白を証明する為に切腹した、と言う説が有力になっています。

もしかしたら、自分の人生をいいように操って来た叔父への抗議であり、最後の抵抗だったのかも知れません。更に勘繰れば、自殺して秀吉を罰したかったのかもしれません。無実の罪の者を死に追いやったという自責の念で、一生後悔し続ける地獄の責め苦を与えたかったのかも知れません。それが、秀次なりの復讐だったのかも・・・

老人は目先の事象に目を奪われて、秀吉は秀次の種を根絶やしにしようとしました。正に、洪武帝(=朱元璋(しゅげんしょう))と同じです。彼は皇太孫・朱允炆(しゅいんぶん)可愛さの余り身内も忠臣も将来強敵になりそうな者の全てを、粛清か追放してしまい、無能なイエスマンばかり朱允炆の周りに残したのです。結局、朱允炆は帝位を維持できず朱棣(しゅてい)(=永楽帝)に簒奪(さんだつ)されてしまいます。

秀吉は、秀次の妻妾や子供達併せて39人を皆処刑してしまいます。更に、秀次により取り立てられた大名達を粛清してしまいます。服部一忠もその一人でした。彼は松坂城主に抜擢されて3万5千石を与えられ、秀次麾下に組み入れられました。彼は連座の罪で所領没収の上、上杉家にお預けの身となり、切腹を命ぜられました。

服部一忠と同じ運命の大名が他にも居ました。熊谷直澄、前野長康景定父子、木村重玆(きむらしげこれ)父子など16名、改易や流罪・追放など16名、蟄居など5名と言う大規模な処断になったのです。殉死も5名いました。秀次切腹と言う事件は、秀次一人の切腹で済んだ訳では無く、想像以上に根深く広がっていました。

秀次事件によって、秀次のみならず将来秀頼を支えるべき秀次の子供達までをも秀吉は一掃してしまいました。もし、秀吉が権力の継承に執着せず、秀頼が秀次の風下に立ってもそれで善(よし)と構えて、文化人の道でも長閑(のどか)に歩ませていれば、後の悲劇は起きなかったでしょう。間が悪い事に、豊臣秀長加藤清正前田利長などの重臣も次々と病死してしまい、気が付けば、秀頼は激流に揉まれる一本の葦の様に、心許ない状況に追い込まれてしまっていたのです。

 

重勝流古田家の跡継ぎ問題

豊臣家の跡継ぎ問題が関白秀次事件へと発展し、世を震撼させましたが、重勝流古田でも跡継ぎ問題は深刻でした。

何時まで経っても、重勝夫婦に子供が出来ませんでした。

重勝は戦、戦、いくさに明け暮れて家を留守にし続けます。留守がちの重勝にもう一つ問題が有って、どうも女性に興味が無い様な・・・うむぅ~~と家臣一同が困っていました。嗣子が無いとお家の存続は危うくなります。後継ぎの男子が生まれなければ、絶家です。絶家、改易、家臣一同失業の憂き目と、悪い妄想は次第に膨らんできます。

ついに真ん中の重忠が動きます。

「兄上、私の息子を兄上の養子に差し上げましょう」

と。

重忠はしかも、2人の息子を二人とも養子に出すと言うのです。長男重良(寛政譜では重直)を兄の重勝へ、次男の重昌(寛政譜では重弘)を弟の重治へと分けて養子に出すと言うのです。

えッ? 何故? 本家の重勝の家が絶家して仕舞えば、それはそれで大変な事態になります。が、重忠にも分家としての存続が必要です。二人の息子を両方とも養子に出してしまえば、重忠の嗣子が居なくなり重忠流の分家支流は途絶えてしまいます。それは有り得ないです。武士は何よりも家が大事。自分の家を継ぐ者を必ず確保するのが武士の家の習いです。子供二人の内二人とも手放すなんて、絶対有り得ません。長男か次男のどちらか一人を養子に出し、残った一人を自分の後継ぎにするのが賢明なやり方です。

この重勝流古田家のやり方をみていると、ある疑念が湧いてきます。

重忠は何故自分の系を断とうとしたのか、と。二人の息子を養子に出してしまえば、自分の系はそこで途絶えてしまうのに、何故そんな事をしたのか?

 

重忠は、秀頼の近くに仕え、淀殿はじめ豊臣政権の中枢部に居て、その実態を良く知っていたのではないか、と思います。穏健派に武闘派、淀殿を取り巻く近江派とそれ以外の人達との確執、一枚岩に見えて実は何枚にも割れている岩の脆さを、重忠は冷静に分析していたのではないでしょうか。そして、東西戦った場合に、豊臣には未来が無いと見通して、我が子二人を徳川方の兄と弟に託したのではないかと考える次第です。

この養子の案は実行されました。

重忠長男は重勝の養子になり、次男は重治の養子になりました。これで重勝家に後継ぎが決まり、家臣達は皆ほっと一安心したのですが、しかし・・・・

養子を迎えてすぐに、重勝家に男子が生まれました。なんてこったッ!!!!!

秀吉と秀次と秀頼の相似形が、古田家にも生まれてしまったのです。

その子は希代丸(まれよまる)と言います。後の3代古田重恒(しげつね)です。

 

 

余談   霊昭女花籠(れいしょうじょのはなかご)

中国は唐の時代に霊昭という貧しい娘がおりました。彼女の家は竹篭を編んで、それを売り歩いて生計を立てていました。実は、霊昭女の家は元々大富豪の家でした。ところが、彼女の父が禅宗に凝ってしまい、「人間本来無一物」「執着を捨てよ」の教えに従い、全ての財産を投げ出してしまったのです。そのお蔭で極貧に陥ったのですが、霊昭女はそれに文句を言う事なく父に随い、生計を立てる為に親子共々竹の花籠を編んでそれを売り歩いていました。花籠は丁寧に編まれていてとても評判でした。その花籠の形は、一度にいっぱい持ち運べるように、持ち手を大きく弧にしており、その弧に腕を通して運ぶと言う、そういう作りでした。

或る時、いつもの様に父と一緒に花籠を売り捌(さば)いて家路についた時、父はあぜ道で転んでしまい、下に落ちて泥だらけになりました。霊昭はそこでおかしな行動を取ります。彼女は父に手を差し伸べて助け起こそうとはせず、彼女も父の傍らにゴロンと横になったのです。親子はそこで一緒に道端で横になりながら空を見上げ、顔を見合わせて拈華微笑(ねんげみしょう)したとか。拈華微笑とは言わず語らず以心伝心で悟り合い、微笑むことですが・・・なぜ、霊昭女は父を助け起こさずに一緒になって寝転んだのか、これは禅問答の一つです。

霊昭女の絵は美しい女性の立ち姿として禅画に良く描かれています。霊昭女も父も禅を極めていました。

霊昭女の花籠を模(かたど)った花籠は、お茶席でも使われます。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

寛政重修諸家譜  堀田正教・林述斎 徳川幕府  国立国会図書館

断家譜  続群書類従完成会

重勝流古田家家系図

豊臣時代の聯句  国立研究開発法人 科学技術振興機構 小高敏郎

この外に「ウィキペディア」「コトバンク」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。