式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

10 お茶物語 in 中国

中国では喫茶の風習はかなり昔からありました。

約3世紀の半ばに、魏の張揖(ちょうゆう)と言う人が『広雅(こうが)』という書の中に、湖北省から四川省にかけた地方でお茶を飲んでいる、と書いているそうです。その飲用の仕方も具体的に書かれていて、それによると、ショウガやタマネギやダイダイなどを入れた器に、茶葉を固めたもの(団茶)を砕いて入れ、熱湯を注いで飲んでいた、とか。当時は薬として飲用されていて、主に腫物、膀胱炎、胸の熱(胸焼けか?婆の推測)、渇きなどを治し、眠気覚ましにも用いられていたそうです。

茶はツバキ科の常緑植物で、インドから東アジア一帯が原産地です。気温が年間を通じて12°以上、年間雨量が1,400㎜以上の熱帯から亜熱帯の山で、雲や川霧が発生する谷川の斜面や丘陵地帯の、水はけの良い土地に自生しています。そのような条件が茶の木の適地とされています。

漢が今のベトナム北部や四川省 迄を征服し、野生の茶木の生育地をその版図におさめると、地方的な飲み物であった茶が、次第に中国全土に広まって行きました。

唐の時代、8世紀の頃、陸羽(りくう)が『茶経(ちゃきょう)』を著しました。

茶者南之嘉木也一尺二尺廼至數十尺其巴山峡川有両人合抱者而・・・・

で始まる『茶経』は、お茶の聖典と呼ばれています。

因みに、上記文章の「・・其巴山・・」の「巴」は四川盆地の東部地方を指します。

陸羽は、本の中で産地や収穫方法、淹れ方や茶器などに拘り、お茶そのものを最もおいしく飲むにはどうしたら良いかを追求しています。茶葉以外のもの、ショウガなど薬味的な物を入れて飲んだり、ミルクなどを混ぜて飲むのは良くないと、彼は言っています。当時のお茶は団茶でしたので、現代の淹れ方とは違っています。が、美味しいお茶を飲むという目的に対しての手段は同じ方向性を持っており、茶道に通じる所があります。

お茶の愛飲が広まるにつれ、茶ノ木の栽培が広まって行きます。

お茶は種を蒔く方法と、挿し木・取り木で増やす方法の二通りがあると言います。自生の茶の木から茶葉を収穫するのでは、効率が悪く収量に限りがありますから、やがて茶の木の栽培が始まったと思われます。お茶は秋に開花して実が出来ます。花が落ちたあと実が成熟を始め、1年かかって翌年の秋に実が弾けて種がこぼれます。その種をすぐ秋蒔きします。春まで待って蒔くと、発芽率が悪いそうです。

当時の茶の産地は、陸羽によると、今で言う浙江省湖北省河南省四川省あたりの産が最上質の茶だそうです。これらの地域は長江(→揚子江(揚子江は長江河口付近の名前))流域です。省の名前を見ると、江、湖、河、川の字が含まれており、いずれも水に関係しています。湿度の好きなお茶の木にとって、居心地のよい環境だったのでしょう。

 

訂正しました。

1. 前に書いた「9 栄西、第二次渡宋」の「余談・墨蹟について」で、最初のアップでは書家の名前をランダムに並べてしまいましたが、それを王義之、欧陽詢、虞世南、褚遂良という様に生まれた順に並び替えました。

2. 上記4氏に顔真卿を加えました。

(顔真卿も書道史上重要な人物です。うっかり失念してごめんなさい)

  訂正日時は 2020.05.10   09:11:56  です。