1324年10月7日に、「正中の変」と言う討幕未遂事件が起きました。
幕府は事件の真相を調べましたが証拠が出ず、疑われた後醍醐帝は無罪、首謀者と言われる日野資朝と日野俊基の内、資朝だけが佐渡へ流罪、他はお構いなしの判決になりました。
首謀説と冤罪説
正中の変には二通りの見方があります。
首謀説 太平記の説です。学校の教科書もこの説です。後醍醐帝は討幕計画を立てたが、露見したので日野資朝と俊基に罪を被せ、自分は無罪になったという説。
冤罪説 後二条の第一皇子・邦良親王側、或いは持明院統側の陰謀説です。後醍醐帝を廃し邦良親王を即位させる為に罠を仕掛け、帝に討幕の動き有と密告させ、失脚を図った、という説です。
太平記では、乱痴気騒ぎの酒宴を隠れ蓑にして討幕を相談したとあります。しかし、実際は無礼講の茶会(闘茶)だったそうです。
研究者によると、花園天皇宸記や他の公家達の日記などを精査し、時系列順に並べて調べてみると、時機が逆転して矛盾していたり、史実とは違っている「盛り」が太平記にはかなりあるそうです。
安産祈願
例えば、太平記では、後醍醐帝は中宮禧子(きし)を嫌って触れようともせず子供が出来なかった、それなのに安産祈願の祈祷をしたのは討幕呪詛の為であった、と断じています。
禧子は太政大臣西園寺実兼の娘です。後醍醐は実兼の目を盗んで禧子と逢瀬を重ねた上での出来ちゃった婚です。禧子の恋の歌は「新千載和歌集」「続千載和歌集」に何首も選ばれています。「増鏡」でも後醍醐帝と禧子のアツアツ振りが載っているそうです。
太平記には実録的な態を装いながら様々なフィクションの「盛り」があるので、読み解くのに慎重さが必要です。
西園寺実兼は、幕府との連絡調整をする関東申次と言う役も担っており、実兼と幕府は良好な関係でした。後醍醐帝も「一代限りの中継ぎ」という弱い立場を、幕府の後ろ盾を得て補強したい、と思われていたのか、この頃の両者は対立していません。
覇帝へ
同年6月から後醍醐天皇による禧子の安産祈願(懐胎祈願?)が始まります。
因みに後醍醐帝と禧子との間には二人の内親王がおります。外に、後宮の女性達との間に30人位子供達がいます。ただ、母親が高貴な身分でないと、我が子を皇太子に立候補させる事ができません。
後醍醐帝が安産祈願を熱心に始めた裏に、帝は男子の誕生を望み、その子を皇太子にしたいと思い始めた、と見る事が出来ます。つまり「一代限り中継ぎ」を破棄して両統迭立に終止符を打ち、自分の系が帝位を継ぐ様にしたい・・・と。
当時、皇位の継承は幕府の裁可を得て行われていましたので、これを実現するには、幕府を何とかしなければなりません。
幕府の将軍は朕の臣下。臣下の更に下の家臣・執権が何の権限をもって朕に命ずるや?
後醍醐帝の思いはそこに至ったと思われます。
悪党の出現
元寇以後、御家人達は窮乏、ご恩と奉公で成り立っていた鎌倉幕府の屋台骨は、次第に崩れ始めていました。
将軍がお飾り化し、執権・北条氏が実権を握っていました。ところが、今では執権すらも力を失って内管領が幅を利かせる世の中になっています。
その様な時に、荘園からの束縛も、幕府からの締め付けも受け付けない「悪党」達が各地に生まれ始めていました。
悪党の代表格が楠木正成です。
余談 茶会(闘茶)
この頃行われていた茶会は会所茶会とか闘茶とかいうものです。
美術品などを飾った会場に集まって、お茶を飲み、香りや味から産地を当てる遊びが「闘茶」です。「本茶」は明恵上人が開いた栂尾のお茶の事を言います。それ以外の産地のお茶を「非茶」と言います。やり方は香道に似ています。
初めにその日に出される数種類のお茶を試飲して、与えられた名前(花・鳥・風・月・客)を覚えます。それから、名を隠したお茶を飲んで名を当てる、という趣向です。全問正解は難しいです。婆もお茶の講習会で一度やってみましたが、5つを全部外してしまいました。いやはや難しい!
鎌倉時代や室町時代の闘茶はギャンブル性が高く、銘を当てると賞品が貰えたそうです。中でもバサラ大名・佐々木道誉の茶会では、人々の耳目を驚かす様な唐物の豪華賞品が出たそうで、大変な人気がありました。
室町幕府は闘茶の余りの過熱ぶりに、禁止令を出したほどです。
禅宗寺院の茶礼が茶の湯の黎明期とすれば、闘茶は茶の湯のビックバンと言えましょう。闘茶の弊害が、やがて侘茶誕生の方向へと向かわせていきます。
(参考:77 室町文化(5) 闘茶)