式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

38 鎌倉暗雲

歴史は、ここぞと言う大変な時にそれに相応しい人を遣わすのでしょうか。

北条時宗が執権に就いたのが18歳、文永の役の時は23歳、弘安の役が30歳、そして、

1284年4月4日、死期を悟ったのか、出家したその日に34歳(満32歳)でこの世を去ります。

不動の精神で二つの国難を驀直に突き進んだ彼は、日本の独立を守り通しました。

両度の戦役で亡くなった人々の菩提を、怨親(おんしん)平等の心を持って敵・見方の区別無く冥福を祈る為に、時宗は鎮魂の寺を建てます。それが鎌倉の円覚寺です。開山は無学祖元。瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と言うのが正式名称で、鎌倉五山の第二位の臨済宗大本山です。

時宗が亡くなってから2年後の1286年、彼を導いた無学祖元禅師が、鎌倉の建長寺で示寂(逝去)されます。諡(おくりな)は仏光国師、或いは、円満常照国師 と申し上げます。

時宗は一人子の貞時を残して逝ってしまいました。貞時は13歳で執権に就きます。

貞時の船出は前途多難でした。貞時は、彼を利用しようとする人達に取り囲まれていました。

御内人(みうちびと・みうちにん)と言われる人達と評定衆の有力御家人との間に権力闘争が始まりました。御内人と言うのは得宗家の内々の仕事をやる家司(かし)です。執事のような役割です。評定衆は表の政治を話し合いながら決めていく所です。文永・弘安の役の戦後処理で問題山積しており、内部闘争をしている場合ではないのに、その二つの部署のトップが対立し始めたのです。

最大の問題は恩賞問題でした。

元寇で勝ったものの、外国を侵略して勝った訳ではないので領地が増えず、幕府は御家人達に恩賞で報いる事が出来ませんでした。

織田信長の様に茶器を恩賞にするなどと言う発想は、この時代にはありません。もしそんな事をしたら、御家人達は激怒して忽ち謀反を起こすでしょう。何しろ、東大寺建立に多大な資金を出した源頼朝に対して、後白河院がそれを労って蓮華王院宝蔵の絵を与えた所、一瞥もしないで返してしまったと言う逸話があり、善美の分からぬ者よ、田舎者よと都人に笑われたそうですから、武士に「お宝」は猫に小判なのです。

恩賞で何より欲しいものは土地でした。

土地さえあれば彼等は生活が出来、家の子郎党を養い、生きてい行けました。ところが、家長(惣領)が亡くなり世代交代する毎に土地が分割され、次第に細分化して行きました。分家も出て来ます。やがて喰うに困る御家人も出て来ました。そんな時、元寇による出動命令が出ました。戦費負担も馬鹿になりません。恩賞を得たい一心で彼等は、それこそ一所懸命に働きました。そして、得たものは・・・何もなかったのです。

元寇の役後、ご恩と奉公で結ばれた幕府と御家人の関係が崩れ始めました。

 

余談  一所懸命

「一生懸命」と書く人が多いのですが、正しくは「一所懸命」です。

「一か所に命を懸ける」という意味で、自分の土地を命懸けで守る武士の生き様を表した言葉です。

「一生懸命」だと一生に命を懸けるという事になり、ちょっと変です。もしかして、仕事に命を懸ける「仕事懸命」? それとも、趣味に命懸け?「趣味懸命」うーん、趣味に命懸けだったら、もう、それは趣味ではないですよね。