式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

60 建武の新政(1) 荘園制度からの考察

国衙領(こくがりょう)と荘園

権力者は富を欲し、富者は権力を望みます。

上皇摂関家をはじめ貴族達は荘園を沢山持っていました。有力者の荘園は税金を免れていましたので、少しでも土地を持っている者達は税金を逃れようと、有力荘園に自分の土地を寄進しました。こうして寄進地系荘園が日本中に広がりました。

と言う事は、税金を納めない土地が増え、国庫の財政が痩せ細って行く事になります。

朝廷は国衙領(国有地)に受領を派遣し、その土地から上がる収穫や収益を集めさせ、朝廷に送らせていました。この仕事は「22  源氏の諸流」の項で述べた様に、結構副収入が期待でき、旨い汁を吸える仕事でした。

一方、荘園領では、領主が都に留まりながら、信頼のおける人物を派遣して管理を任せていました。信頼のおける人物と言うのが、臣籍降下した者達で、清和源氏桓武平氏達などがそれに当たります。

臣籍降下は口減らしとリクルート

子孫繁栄を願うのは誰しもの事です。天皇家にしても同じです。けれど、財産を減らさない為にも、将来的に権力闘争になりそうな芽を摘んでおく為にも、皇太子以外のその他大勢の子供達を排除しなければなりません。そこで、子供達を臣籍降下させます。彼等を失業させない為に、出家させたり荘園の監督官にしたりします。荘園の監督官になれば、そこに住み着きながら、収入を得られるので、彼等にとっても悪い話ではありません。

荘園の蚕食

源頼朝臣籍降下した源氏の子孫の一人です。同じく臣籍降下した平氏を頼朝は滅ぼしました。彼は鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立します。

源頼朝は、源平合戦で一緒に戦った御家人達に恩賞を与えなければなりません。彼は謀反人探索と治安維持の為だからと言って、強引に朝廷に掛け合って守護と地頭を各地の荘園に送り込みました。そのお蔭で御家人達は土地を得る事が出来ました。彼等は与えられた土地の治安と収穫物の収納を担いました。

そこで働く農民たちは領主に納める年貢と、守護・地頭に納める「みかじめ料」の両方を納めさせられました。二重支配の始まりです。(「29 執権北条氏(3) 北条泰時御成敗式目」の項の「余談『吾妻鑑』の内、高田郷地頭重隆公領妨害の事』を参照)

やがて、守護・地頭達は荘園領主達の実入りを掠め取り、私腹を肥やす様になりました。私腹を肥やして武力を増強しました。髄虫(ずいむし)が稲を食害して枯らしてしまう様に、彼等は荘園に巣食い、実質的な支配力を増しました。それに反比例して、都に居る荘園領主達の懐事情は寒くなりました。

八条院

「42 南北朝への序曲」の項の「余談 長講堂領と八条院領」でも述べました様に、後白河法皇が所有していた長講堂領と、美福門院が所有していた八条院領の二つの荘園を合せると、日本の有効利用できる土地の半分近くの面積になります。

八条院領は代々大覚寺統が相続してきました。後醍醐天皇大覚寺統ですから、八条院領を受け継いだ訳です。莫大な財産です。ところが、実際には守護・地頭の武士達に蚕食されており、期待していた通りの財産ではありませんでした。おまけに「両統迭立」の名の下に、天皇の位まで武士達の指図に従わなければならない状況に陥っていました。

これって何なのだ! 天皇は国を統べるべきものなのに、何もかも武士の言いなりになっているではないか!

両統迭立天皇になる順番が回って来た時、後醍醐帝がそう考えたとしても不思議ではありません。武士を排除すべし。巣食っている荘園から彼等を追い出し、日本中の土地所有を一旦チャラにして改めて貴族達に分配すべし。その為に幕府を倒すのだ、と。朕がやらなきゃ誰がやる?

後醍醐天皇の討幕への異常なまでの執着と情熱は、その辺に動機があるのではないかと、婆は見ています。

1333年6月、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が京都に戻って最初にしたことがあります。

それは、幕府によって帝位に就いた光厳(こうごん)天皇廃帝にし、自分が復帝する事でした。彼は復帝とは思っていません。たまたま討幕運動で留守にしていただけで、自宅に戻ればそのまま続きをしていると言う感覚でした。彼は、留守中に帝位に就いていた光厳天皇を無かった事にしたのです。

彼は、天皇としての権力と威徳を以って土地私有の権利を全て取り上げてしまい、改めて、土地を天皇の綸旨によって自ら分け与える事にしました。

さあ、大混乱が始まりました。