式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

77 室町文化(4) 闘茶

お茶は、禅宗寺院内の茶礼が源流と言われています。

栄西禅師が宋から茶の種を日本にもたらし、九州の背振山(せふりやま)で栽培しました。それを明恵上人が分けて貰い、京都の栂尾(とがのお)でも栽培を始めました。栂尾での茶の栽培が成功し、次第に全国に茶の栽培と製造が広まって行きました。やがて宇治でも上質な茶が作られる様になり、それまで本茶と言えば栂尾産の茶葉でしたが、本茶に宇治茶も加わる様になりました。それ以外の産地の茶を非茶と呼びました。

(参考:7 明菴栄西禅宗と茶の種を伝える。 8 栄西、第一次渡宋。 9 栄西、第二次渡宋。 10 お茶物語in中国。 13 背振(せふり)の茶。 14 栄西、鎌倉に下る。 15 栄西禅師と明恵上人。)

 

お茶の当てっこクイズ

当時のお茶は碾茶(てんちゃ)というものです。碾茶と言うのは、摘んだ葉を蒸したまま揉まずにそのまま干し海苔の様に広げて乾燥させて作ります。茶葉が幾重にも重なったまま乾くので、分厚くて堅いシート状になります。碾茶は乾燥した青海苔の様な香気があります。

碾茶を砕いて石臼で粉末(抹茶)にし、それにお湯を注いで掻き混ぜて飲むのが、当時の飲み方でした。そうやって出されたお茶を、香りや味などを味わい分け、茶葉の産地を当てっこする遊びが流行りました。

 

闘茶(とうちゃ)

けれど人々はこの単純な当てっこ遊びでは飽き足りませんでした。当たったら景品を出そうよ、という話になります。更に、お茶当ての勝負を行い、賭けをする様になりました。

射幸心は留まるところを知らず、賭ける財物も豪華になり、財産を失う程の破滅の道を歩む様になります。

太平記の中に茶会(当時は茶会と言えば闘茶の事でした)の様子が描かれています。頭人( 賭けに参加した人)が、どういう茶の懸け物(闘茶に賭ける財物)を出すか具体的に書かれています。

以下、その部分を抜粋して載せます。 

太平記

33巻 公家武家栄枯易地事より抜粋

‥又都には佐々木判官入道道誉始めとして在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽くすに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧(よそおい)をして、皆曲■の上に豹・虎の皮を敷き、思々(おもいおもい)の緞子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双(ならび)て坐(おわ)し給えるに不異。(途中略:ここから式三献と饗宴の豪華なご馳走の内容が描かれている)・・・旨酒三献過ぎて、茶の懸物に百物、百の外に又前引きの置物しけるに、初度の頭人は、奥染物各百充(づつ)六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置、三番の頭人は沈(ちん)のほた百両宛て、麝香(じゃこう)の臍(へそ)三充副(そえ)置く。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立(したて)たる鎧一縮(いっしゅく)に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くヽみたる刀に、虎の皮の火打ち袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様(さま)を変え数を尽くして、如山積重ぬ。されば其費(ついえ)幾千万と云事を不知。

ずいよう意訳

・・都には佐々木判官入道道誉を始めとして、京都に居る大名が集まって闘茶の会を日々行っています。異国や日本の宝物を集め、パーティー用の衣装を着て、床に豹や虎の皮を敷いて座っています。それぞれ思い思いの金襴緞子を着て、四人の幹事が並んで座っているのを見れば、床の上に千の仏様が光り輝いて並んで座っているのと変わりありません。(途中略)・・旨い酒の三献式が過ぎて、(胴元が用意した)茶の懸物が百も有り、それ以外に(胴元以外の参加者が用意した)前置きの懸物も沢山あります。最初の頭人が用意したのは、繊維の奥までしっかりと染め上げた染物を各々百ずつ63人の前に積みました。二番目の頭人は小袖を十枚ずつ重ね、三番目の頭人沈香百両、麝香の臍を三つずつ副(そ)え、四番目の頭人は砂金を百両づつ堆朱(ついしゅ)に金を施したお盆に入れて置きました。五番目の頭人は作ったばかりの鎧に鮫皮を掛けた白太刀、柄鞘とも金で作られた刀、虎の皮で作った火打袋を下げ。一様にこれを引いています。以後の頭人20余人、儂は人より勝(まさ)っている物を懸け物にしているぞと、他人様が出している物とは違う物を出し、数を尽くして山の様に積み重ねています。その費用は幾千万になるか、底知れません。

この後、「我こそは勝者ぞ」と意気込むけれども負け、ついには次の様に続きます。

 『手を空にして帰りしかば、窮民孤独の上を資するにも非ず、又供仏施僧の檀施にも非ず。只金を泥に捨て玉を淵に沈めたるに相同じ。』と書き、『一夜の勝負に五六千貫敗くる人のみ有りて百貫とも勝つ人は無し(中略)抑此人々長者の果報有りて、地より物が湧ける歟(か)、天より財が降りけるか、非降非涌、只寺社本所の所領を押さえ取り、土民百姓の資材を責取、論人・訴人の賄賂を取集めたる物供也。』

ずいよう意訳

すってんてんになって帰ると、損したお金は困った人を助ける事もならず、お坊様のお布施にもならず、ただ金を泥に捨て玉を淵に沈めたのと同じことです。一夜の勝負に五六千貫敗ける人ばかりで、百貫も勝つ人は居ません。このような人々は長者の果報で、地から財物が湧いてくるのでしょうか、天から財産が降って来るのでしょうか。いえ、財産は降りもせず、湧きもしません。ただ寺社領地の所領を奪取し、土民百姓の資材を責め取って、論人や訴人から賄賂を集めた物なのです。

 

闘茶禁止令

上記「太平記」から抜粋したのは、佐々木道誉が開いた闘茶の様子です。

太平記」の外にも『光厳天皇宸記』によると、1332年6月28日、光厳天皇が茶会(闘茶)を行なった記録があります。更にそれ以前にも、後醍醐天皇も茶会を開いた形跡があります。(参考:43 後醍醐天皇 余談 茶会(闘茶))

二条河原の落首に『茶香十炷(しゅ)の寄り合いも鎌倉釣りに有鹿と 都はいとと倍増す』とあります。「お茶やお香の寄合も鎌倉と同じ状態らしい(有りしか)と言うけれど、都では大層流行って倍増しています」と言うくらい、みんな賭け事に夢中になっていました。

( 炷(しゅ)はお香などを炷(た)く時に使う字です。例:香点前などで「お香を一炷お聞かせ致します」などと言います。それに対して「焚く」は炎を上げて燃やす時に使う字です。例:「焚火」「お焚き上げ」などです。)

闘茶が非常に盛んになり、破産する者や自殺する者、領地迄賭けて没落する者まで出て来ました。幕府もこれを見過ごす事が出来なくなり、建武式目で闘茶を禁止しています。

 この建武式目に闘茶を禁止する条項を入れたのが、足利直義(ただよし)です。

足利直義は尊氏の同母弟です。直義は政務を担当していました。

「68 南北朝(2) 観応の擾乱」でも述べました様に、直義は真面目で堅く、清廉の人でした。

彼と同じ様に幕府の中枢にいて軍事部門のトップに居たのが、高師直です。前項「婆娑羅」でも取り上げた様に高師直はバサラ。引付頭人評定衆など重要な役職に居たのが佐々木道誉。直義の堅い性格は幕府の中では人気がありませんでした。高師直佐々木道誉の方が人気があり、彼等は大きな派閥を作っていました。幕府内の綱紀粛正を図ろうとする直義に相当の抵抗があったと思われます。直義は高師直を排除しようとしますが、それが幕府内の分裂を生み、観応の擾乱へと発展して、直義は幽閉されてしまいます。最期は殺されたとも噂されています。

 

余談  闘茶

闘茶には次の様な色々な呼び方があります。

茶寄合、茶歌舞伎(ちゃかぶき)、茶香服(ちゃかぶく)、飲茶勝負といったものです。

現代の闘茶は、茶師達の研鑽の場となっており、賭博の要素は全くありません。

 

余談 会所

会所と言うのは集会所の事ですが、迎賓館的な役割を持った建物です。30畳以上の大広間を有した建物で、そこで宴会や展示会や茶会を開きました。

展示会と言うのは館の主が蒐集した美術品を展示して、賓客のご覧に供して持て成すものです。それだけでは無く、実は、闘茶の賭け物を並べる場所でもありました。

壁際に屏風を一面に並べ立て、その前に長板や卓を置き、その長板や卓の上に蒐集品を置いて鑑賞します。この頃は未だ床の間の概念が無く、壁に沿ってずらりと展示物を並べました。なお当時の部屋は、畳敷きではなく、板敷きでした。

 

余談  金糸花(=堆朱(ついしゅ))の盆

堆朱とは、中国で作られた漆の工芸品です。朱漆を何層にも塗り重ね、乾いてから漆の層を活かして彫刻し、文様を彫り出したものです。黒漆で彫漆した堆黒(ついこく)と言うのも有ります。鎌倉彫は堆朱を真似たもので、文様を彫った木地に朱漆を塗って作ったものです。