元弘3年(1333年)6月5日、後醍醐天皇は京都に帰ると、スピード感を持って矢継ぎ早に様々な政策を打ち出します。
現・光厳帝を排し、荘園改革に抵抗勢力になりそうな関白・鷹司冬教(ふゆのり)を解任しました。同時に、先帝が公卿たちに与えた官位なども剥奪し、閑職に居た者を元に戻します。
足利高氏を鎮守府将軍に任命し、13日には自分の息子の護良(もりよし)親王を征夷大将軍にします。武装蜂起に備えた布石と思われます。
6月15日、後醍醐帝は旧領回復令、寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令を発布します。
天皇位に返り咲いて京都に戻ってからわずか10日間にこれらの人事を行い、法令を発布しました。後醍醐帝にとって、土地問題は真っ先に解決したい課題でした。
旧領回復令とは、幕府に敗北して所領を失った者の旧領を回復する、という法律です。
寺領没収令とは、鎌倉幕府が建てたお寺の所領を没収する、という法律です。
朝敵所領没収令とは、鎌倉幕府側で戦った者達の所領を没収すると言う法律です。
誤判再審令とは、かつて鎌倉幕府の時に行われた訴訟の再審をする、という法律です。
訴人殺到
このお触れを知った人々は、我も我もと京都に押しかけてきました。
幕府と戦って失った土地のみならず、爺様の爺様のそのまた爺様の、ずっと昔の話まで持ち出して、訴え出て来る者が居ました。戦いで失った土地だけではありません。借金で土地を失ったり、賭けで敗けて土地をを巻き上げられたりした者も押しかけました。それどころか、偽造した証文を持って、あわよくばとやって来る者もいました。
後醍醐帝は天皇親政を理想としていましたから、既存の事務方を使いながら自分で全てを決済する積りでしたが、訴えの余りの多さに次の一手を打ちます。
改革後退「諸国平均安堵令」
7月、諸国平均安堵令と言う法律を発しました。これは旧領回復令と朝敵所領没収令を大幅修正したものです。幕府側で戦った者と言うと対象が広範囲になります。それでは大変なので、範囲を狭めて、北条氏の所領のみ没収、としたのです。
帝は目先の困難を乗り切る為に、法令を現実に合わせて変えてしまいました。臨機応変と言うか、朝令暮改と言うか、兎に角これは、訴訟現場に更なる混乱を巻き起こしました。
同月、恩賞方を設置します。後醍醐帝は足利高氏にご自身の名前の「尊」を与え、高い官職に任じました。そして、足利尊(高)氏に30ヵ所、弟の直義には15ヵ所の所領を与えました。天皇側について戦った武士達にも、北条氏から召し上げた所領を分け与えました。が、それは払った犠牲に比べると微々たるものでした。
各役所の設置と拡充
8月5日、叙任・除目(じもく or じょもく)を行います。叙任・除目は位階の授与と役職の任官の事です。後醍醐帝は公卿・武士関係なく、また、家柄に関係なく有能な者達を集めます。長年携わって来て仕事を熟知している者達も勿論そのまま任用します。
9月中旬、記録所を設置し、雑訴決断所を拡充します。武者所も設置します。
記録所と言うのは、書類上きちんとした荘園の届け出がなされているかどうか、不正の有無を調べ、不正ならば荘園を没収すると言う仕事をしている役所です。
雑訴決断所と言うのは、土地に関する紛争を扱う役所です。鎌倉幕府が採っていた訴訟専門機関・引付を後醍醐帝もそのまま利用していましたが、訴えの多さに組織を拡充。公卿・法学者・武士合わせて107人の構成にしました。彼等は八つの班(番)に分かれて担当区域を決めました。例えば1番は畿内、2番は東海道と言う具合です。そして、偏りがないように各班(番)とも公・法・武の人員をバランスよく配置しました。
武者所は内裏の警備をする処です。
10月に陸奥将軍府を設置。
12月に鎌倉将軍府も設置して、軍政を整えます。
翌1月29日(西暦1334年)、元号を元弘から建武に改元します。
行政の停滞
全ての行政の決まりごとは綸旨が無ければ効力がない、としましたから、事務方から上がって来た書類は全て後醍醐帝の下に集中します。帝は裁定を与え、綸旨を発します。
けれども、いくら後醍醐帝が優秀であっても、膨大な案件を一人で処理し切れるものではありません。天皇親政を掲げ綸旨万能の方針は、早々に破綻してしまいます。
左遷されたり解任されたりした公卿、殆ど恩賞に与れなかった武士達。彼等の不満は深く静かに沈潜して行きます。
そのような時、正二位中納言・万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が世を儚んで突然出家してしまいます。藤房は雑訴決断所などの要職を務め、重要な人物でした。後醍醐帝には憚る事なく諫言をしていました。けれど、帝は聞き入れる事は殆どありませんでした。万里小路藤房は、平重盛、楠木正成と共に日本三忠臣と言われています。
そういった中で、後醍醐帝と護良親王の間に亀裂が入り始めました。
後醍醐帝は足利尊氏を重用します。護良親王は足利尊氏を信用していません。危険人物と見ています。
源氏の足利尊氏、武士達の間に人気があり、時を得れば幕府を樹立できる実力を持っています。諸国平均安堵令を後醍醐帝に出させたのも、事務処理能力を超えたこともさることながら、尊氏の圧力に屈したから、と親王は見ています。
護良親王は父帝に足利尊氏を遠ざける様に進言します。しかし、父帝は耳を貸しません。
一方尊氏は策略を巡らせ、後醍醐帝の寵妃・阿野廉子(あのれんし)に「護良親王は帝位を狙っている」と吹き込みます。阿野廉子は自分の息子・義良親王(後の後村上天皇)を天皇にしたいと思っていましたので、後醍醐帝に「護良親王は謀反を企てている」と讒言します。帝は烈火の如く憤り、まともに調べないまま親王の征夷大将軍の職を剥奪して捕縛、足利尊氏に身柄を預け、鎌倉に流してしまいます。
世は不穏な動きを始めます。
北条時行が北条氏残党を糾合して乱を起こします。
中先代(なかせんだい)の乱の勃発です。