式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

笏より重いものを持った事の無い優雅な人達から、鎧を着て刀を振り回す武闘系の人達の世に移ると、書の雰囲気も変わってきます。優美で流れるような書体から、力に満ちた書体になって行きます。

元との交流

1293年、鎌倉地震が発生し、建長寺の倒壊炎上を切っ掛けに、資金調達の為、幕府は敵対関係にあった元と交易する様になりました。政経分離と言いますか、経済優先のついでに人の交流も復活し、日本から入元する僧が増えたばかりか、来朝して帰化する元の僧も増えてきました。そうなると、書の世界も、大陸の最新の文化が再び流れ込み始めました。ただ、宋様、元様の書の流れが日本にも影響を及ぼし始めると、尊円法親王(そんえんほっしんのう)などはその影響を苦々しく思われていたようで、その傾向を非難しております。

尊円法親王は書を、藤原(世尊寺)行房と行尹(ゆきただ)に習いました。けれど、行房が後醍醐天皇に従って隠岐へ行ってしまいましたので、その後は行尹に書を習いました。尊円法親王は何よりも日本の古筆を尊び、菅原道真三蹟(小野道風・藤原佐里・藤原行成)を範として習い、やがて彼独自の書風を開いて行きます。

世尊寺流

平安時代三蹟の内、年代的に最後に出た藤原行成(972年~1028年)は、道風と佐里の書風を取り入れて融合させ、行成独自の美しい書風を確立しました。彼は、邸宅内に世尊寺と言うお寺を建て、そこに住んでいましたので、彼の書風を世尊寺流と言う様になりました。宮中の文書の清書などにも世尊寺流が担う様になりましたので、貴族達は挙って世尊寺流を習いました。

時代が下がるにつれ、世尊時流は文字の形や美しさに拘るあまり、生き生きとした書風を失って衰微して行きます。1529年、子孫が絶えたのを機に、遂に失われてしまいます。これを惜しまれた後奈良天皇持明院基春に命じて世尊寺流を復活させ、持明院流としました。

尊円流・青蓮院流(しょうれんいんりゅう)

尊円流は、伏見天皇第六皇子・尊円法親王(1298年~1356年)を流祖としています。尊円は青蓮院(しょうれんいん)に住んでいましたので、青蓮院流とも言います。(江戸時代になると、幕府の公文書にこの書体が用いられ様になり、御家流と呼ばれるようになります。)

法性寺流(ほっしょうじりゅう)

関白太政大臣・藤原忠道(1097年~1164年)の書が基となった流派です。忠道(ただみち)は初め藤原行成に書を習いました。後に出家して法性寺入道と呼ばれたので法性寺流と言われています。

 定家流

法性寺流から分派。藤原定家が祖。非常に個性的です。一代で途絶えるも、冷泉家(れいぜいけ)で復活し、冷泉流となります。

 

断簡

本来巻物や冊子本であったものを切断し、お習字のお手本(手鑑(てかがみ))用に直したり、茶席の床の間を飾る掛物に仕立て直したりしました。このように切断したものを断簡、又は「切(きれ)」と言います。有名な断簡に高野切があります。

高野切(こうやぎれ) 

古今和歌集」が世に出てから150年後に書写されたものを、切断しました。それら断簡を、多くの者達が手本にしてお習字の練習に励み、更に二次書写、三次書写と書き継がれていきました。最初の書写本は断簡にされて散って現存するのは少なくなってしまいましたが、豊臣秀吉が所持していた断簡が高野山に伝わり、これを高野切と呼んでいます。

高野切は三人の書き手が分担して書いています。

藤原行経が書写したと思われるものを第一種高野切、源兼行が写したものを第二種高野切、たぶん藤原公経の手になったものであろうものを第三種高野切と、便宜上読んでおります。

古今和歌集の断簡は高野切ばかりでなく、民部切、顕廣切、了佐切等々他にも色々あります。

 

墨蹟 (ぼくせき)

墨蹟と言うのは、禅僧の書いた「書」の事を指します。他宗の僧侶の字は墨蹟とは言いません。

 大陸との往来で、宋・南宋の文化が日本にも盛んにもたらされましたが、元寇により一時中断してしまいました。しかし、やがてそれも解け、幕府公認の貿易が始まると、かつての文化交流が復活し、それに伴って禅僧の渡海も盛んになりました。

当時、宋では、蘇東坡(そとうば)、黄山谷(こうざんこく)、蔡君謨(さいくんぼ)、米元章(べいげんしょう)の四人が、宋の四大家と言われていました。

禅僧達は、大陸で隆盛を極めていた書を習い、それを日本に伝えました。

明菴栄西は、黄山谷の書を学んで帰ってきました。

南宋最後の書家に張即之(ちょうそくし)と言う能書家が居ました。彼は二王(王義之と王獻氏)を否定し独自の書風を打ち立てます。書聖の二王を否定するなど常識外れと非難されますが、彼は禅林にも交わり、権威を嫌う性質でもありましたので、それを意に介しませんでした。

張即之の書風は、禅僧などの間に受け入れられ、流行ります。

蘭渓道隆の書は張即之の書を継承している、と言われています。

東福寺開山・圓爾(えんに)(聖一国師)も張即之に私淑してその書を体得し、帰朝しました。

字を上手く書こうなどと言う意識は、禅僧にはさらさら無い様ですが、逆にそれが味わい深い趣を出している様に感じます。

一山一寧、無学祖元、大休正念、兀庵普寧、宗峰妙超(大燈国師)、夢想国師、希玄道元・・・・

 

参考

33 執権北条氏(7) 元寇(1)南宋滅亡  8月1日up

36 元寇(4) 弘安の役(前編)       8月11日up 

47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗     9月19日up

48 鎌倉文化(4) 禅語        9月21日up

 

余談  藤原行房

藤原行房は世尊寺家12代当主。南朝後醍醐天皇の側近として仕え、後醍醐帝が隠岐に流された時も千種忠顕(ちぐさただあき)と共に隠岐随行しました。建武の中興後、行房は皇太子・恒良(つねよし)親王、後醍醐帝第一皇子・尊良(たかよし)親王、新田氏と共に軍を率いて北陸道に落ち、金ケ崎城で足利軍と対決、城は落城し、尊良親王と藤原行房・新田義顕は自害しました。これによって困ったのが持明院統光厳(こうごん)天皇で、大事な行事に用いる色紙が用意できなくなり、止む無く弟の行尹が代筆した、と伝わっています。なお、恒良親王の生死は不明。毒殺されたとも・・