式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

81 室町文化(8) 水墨画

空山不見人   空山人を見ず

但聞人語響   ただ聞く 人語の響き

返景入深林   返景 深林に入り

復照青苔上   また青苔の上を照らす

この詩は、王維が作った『鹿柴(ろくさい)』という有名な詩です。教科書か何かで一度は目にした事があるのではないでしょうか。王維は自然を詩に写し取り、幽玄な世界を描き出しました。彼の『香積寺(こうしゃくじ)に過(よぎ)る』という詩など、正に水墨画の世界です。

王維は詩人です。しかも南宋画(又は南画)の祖と言われる程の絵の大家です。王維の『偶然作六首』という詩の中に『前身應畫師』という一節があります。自ら畫師(画師)である事を認めています。

 

文人

文人と言えば、隋や唐の昔からずっと中国の歴史の文化を担って来た人達です。彼等は学問(主に儒教)などを深く身に着け、詩作に耽り、書を能くする書斎人でした。

詩と書に卓越した人を詩書双絶の人と称します。これに畫(が)が加わると詩書畫三絶の人と称賛しました。意外な事に書聖・王義之、王献之も三絶の人でした。ただ、二人とも書が傑出し過ぎていましたので、絵の才能は霞んでいました。また、絵は画工職人が描くものと思われていましたので、誇り高き文人や士大夫(したいふ)から、詩や書よりも畫は下に見られていました。

こういう話があります。

唐の閻立本(えんりっぽん)は、母が武帝の娘という家柄抜群の文人でした。或る時、皇帝・太宗の命令で呼び出され、皆の前で絵を描く様に命じられました。立本は命令に背けず絵を描いたのですが、これをとても愧(は)じました。なまじ絵が上手な為にこの様な目に遭ったと言って、子供達に絵の習得を禁じました。とは言いながら、彼自身は生涯を宮廷画家として過ごし、歴代帝王の肖像画を描いて後世に名を残しています。

 

絵画

唐代頃から盛んに描かれたのは、聖人や帝王の肖像画、宮廷の人達の群像など人物中心の絵でした。又、花などの絵も多くの人に好まれました。絵は彩色してこそ完成品と思われていました。輪郭線のみで描かれた白描画(はくびょうが)の人物画もありましたが、それが受け入れられるのはずっと後になってからです。 

白描画でも無く、彩色画でも無く、筆一本で自在に描ける墨筆の奥深さに気付いた宋代の文人達は、水墨画に手を染める様になります。人物画など衣の襞や袖が風に翻(ひるがえ)ったりする様は、草書の運筆の緩急自在の筆運びに似ています。花鳥画に於いても、蘭・竹・梅が好まれました。蘭の葉の柔らかな弧線、表葉と裏葉の返り、梅の絵のごつごつした勁(つよ)い枝の線と花の清々しさなど、文人達を魅了するものでした。

宋元の梅墨図が鎌倉時代の中期から日本に輸入される様になり、日本人の梅好みもあって大いに持て囃されました。それらを絵手本にして日本人も梅墨図を描く様になりました。

 

道釈図(どうしゃくず)禅会図(ぜんねず)

梅墨図ばかりでなく、禅僧の渡来と共に、道釈図も日本にもたらされます。道釈図と言うのは、道教や仏教に関係した人物の絵を描いたものを言います。例えば、布袋や達磨、羅漢、仙人、頂相図(ちんそうずorちょうそうず)などの人物画です。

禅会図と言うのは、禅の悟りを助けるような、公案的な絵の事を指します。十牛図(じゅうぎゅうず)寒山拾得(かんざんじっとくず)などがその代表です。(参照:鎌倉文化(12)肖像画・宋画)

 

気韻生動(きいんせいどう)

山水画と言えば水墨画と言うイメージが有りますが、彩色された山水画も有ります。

日本に沢山入って来たのは墨一色で描かれた水墨山水画の方です。特に禅僧達は彩色画よりもモノクロームの絵に禅気を感じていたようです。色は本質を掴むのに邪魔だったのかも知れません。

画工達の描く絵は、正式には彩色を施した絵が多かったのですが、それに対して水墨山水画はどちらかと言うと、文人達の手遊(てすさ)びでした。

どういう訳か水墨山水画は描く人の品位が問題にされました。出自が立派で学があり人徳優れた人物が描くものだ、という変な思い込みが当時にあり、画業をもって生活する画工は、それに値しないと考えていた風があります。高潔風雅の人間が描いてこそ、山水画の神韻が表現できる、と言うのです。謝赫(しゃかく)の絵画論の『画の六法』第一に挙げられているのが、『気韻生動』です。(横山大観流に言えば、『絵にはその人の人格が現れる、人品が良ければその絵に品格が出る。人品卑しければその絵は貧しいものになる』と言うことでしょうか)

 

神仙思想

気韻生動の考えが良いか悪いかの論議はさて置いて、中国の水墨山水画は神仙思想に基づいています。

岩山が空高く聳え、雲が巻き、樹々が生え、渓谷が山間を走り、小さい庵が川の畔(ほとり)に結ばれている・・・そんな風景の山水画。(これ以降山水画と言えば水墨山水画の事を指す事にします)

桂林や黄山、廬山などの景色をテレビで見て、あゝ、さすが山水画の故郷だと、婆は感動しました。日本にはこの様な地形は見当たりませんもの。でも、しかし、あの山水画は、現代の画家がする様に、屋外にイーゼルを立てて写生するのとは違って、こんな所に住んで悠々自適に暮らせたら仙人の気分になれるだろうになぁ、という文人達の憧れの世界を描いたものなのです。詩の世界からインスピレーションを得て描いたり、或いは、且つて旅に遊んだ土地の景色を思い出しながら、頭の中で景色を再構成して仙境を描いたりしたものです。白居易の様に廬山の麓に引っ越す人もいました。天台山に登って禅の修行をした僧も数知れず。ですから、全く空想の絵だとは申し上げませんが、本当の写生とは違ったものなのです。

 

米芾(べいふつ)

米芾(米元章(べいげんしょう))という書家がおりました。宋の四大書家に数えられる程の書の大家ですが、彼は絵の大家でもありました。また、鑑識眼も高く、徽宗の蒐集物の鑑定に当たり、書画学博士にもなりました。彼は米法山水画と呼ばれる山水様式を生み、雲や霧など湿潤な空気観を表す画法を編み出しました。墨筆の水の含み具合によって描き分けたり、輪郭線を描かなかったりする方法ですが、これによっていよいよ深山幽谷の景色が可能になりました。彼の息子の米友仁(べいゆうじん)も書家で画家です。(参考:49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟)

 

牧谿(もっけい)

牧谿南宋から元の時代にかけての僧です。無準師範の弟子で、同門に無学祖元兀庵普寧(ごったんふねい)など日本に渡って来た禅僧がおります。日宋交流で、宋の色々な文物が日本に輸入されましたが、特に、牧谿水墨画は人気が高く、その作品の多くが日本に有ります。

牧谿は中国本土では余り人気が無く、評判も良くありませんでした。婆が思うに、多分彼は西湖の風光明媚な穏やかな景色に囲まれて住んでいましたので、画風も穏やかだったからでしょう。景色にしても動物や仏画にしても彼の絵は、文人達が峨々とした仙境を描き出そうとしたのとは違っていたので、宋では日の目を見ず、日本に作品が伝わって初めてその良さが理解されたのだと思います。日本には桂林だの黄山の様な景色はありませんもの。

牧谿が日本の画家達に与えた影響は大きく、長谷川等伯『松林図屏風』もその一つと言われております。

 

雪舟(せっしゅう)

室町時代の画僧で備中の国に生まれました。10歳で相国寺に入り、春林周藤の下で禅の修行を励み、天章周文について絵を学びました。30歳を過ぎた頃、周防(すおう)の国の大名・大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護を受けます。その後明へ渡航。中国各地を2年間巡り水墨画を学ぶと共に、写生を重ねました。この点、中国の山水画が観念的なものであるのに対し、雪舟山水画は写生を基にしています。国宝天橋立図』を含めて国宝6点、重要文化財13点あります。

 

余談  国宝・瓢鮎図(ひょうねんず)

如拙作『瓢鮎図』は禅会図です。画題は、足利義持が出題したものです。コロコロした瓢箪(ひょうたん)でヌルヌルしたナマズを捕まえるにはどうしたら良いか、という禅の公案で、不可能なものを可能にする工夫を問うています。これに対して31人の日本のトップクラスの禅僧達が詩文で答えています。

うわっはっはっは!できる訳が無かろうが、という答えや、ナマズが竹に登ったら捕まえるかのぅ、とか、面白い答えもあります。鮎はアユではなくナマズの事です。