長い戦国時代のトンネルの向こうに一筋の光を見た時、押さえつけられていた民衆の感情が、お祭りの様に爆発し、はちゃけたのがこの時代の文化の特徴です。
明るく華やかな美術や芸能が新しく興る一方で、何々物語や勅撰和歌集などの公家の手になる文学は衰退し、連歌・俳諧が表舞台に出てきました。
連歌の歴史は古く、倭建命(やまと たけるのみこと)と御火焼(みひたきのおきな)が、歌を遣り取りしたのが最初と言われております。万葉集にも連歌が出てきますが、多くの人がやり始めたのが鎌倉時代で、さらに室町時代になると遊びの様に流行り始め、寺社や公家達の屋敷で連歌会が催される様になりました。(83 室町文化(10) 連歌 参照)
山崎宗鑑(やまざき そうかん)
俳諧の祖と言われる山崎宗鑑(1465年(寛正6年)-1554年(天文23年)は、信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛する以前に活躍した人です。歴史的区分から言えば安土桃山時代より前の時代になりますが、彼は、それ迄詠まれていた俳諧をたくさん集めて整理し、『新撰犬菟玖波集(しんせんいぬつくばしゅう)』を編纂(へんさん)しました。
「新撰犬菟玖波集」は、その後の俳諧のお手本となり、文学とも認められなかった俳諧の地位を向上させました。
彼は瘍(よう)と言うおできを患(わずら)って亡くなりました。
彼の辞世は次の様な歌です。
『宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとようがありてあの世へといへ』
荒木田守武(あらきだ もりたけ)
同じ様に連歌俳諧の祖と言われる人物に、荒木田守武と言う人がいます。
荒木田守武(1473年(文明5年)-1549年(天文18年))は伊勢神宮の宮司です。
彼は、連歌を三条西実隆(さんじょうにし さねたか)に師事し、宗祇(そうぎ)・宗長・宗鑑と親交、『俳諧之連歌独吟千句』『法楽発句集(ほうらくほっくしゅう)』『世の中百首』などを出しています。
千句の奥書に『さて俳諧とて、猥(みだ)りに笑はせむはかりは奈何、花實を具(そな)へ風流にして、しかも一句正しく、さておかしくあらむようにと、世々の好士の教えなり』とあります。
やたらと面白可笑しくするばかりが俳諧では無い、そこには花も実もある風流が求められる、と俳諧論を述べています。
山崎宗鑑と荒木田守武は俳諧の基礎を造り文学性を高めた巨匠です。
閑吟集(かんぎんしゅう)
世の人々が歌っていた小歌の歌詞を集大成したもので、編集者は不明です。多分お坊さんか世捨て人ではないかと言われています。
閑吟集が成ったのは1518年です。時は10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね)が将軍になったばかりで細川澄元・三好之長連合軍が、細川高国軍と熾烈な戦いを展開していました。信長が生まれる15年位前の話です。
閑吟集には恋の歌や四季の歌、厭世の歌や卑猥の歌などが載っています。代表的な歌の一つとして下記の様な歌が載っています。
『何せうぞ くすんで一期(いちご)は夢よ ただ狂へ』
意訳:何をしようって言うの 真面目くさってさ 人生は儚(はかな)い夢なのに 何も考えずにただ遊び惚(ほ)けなよ
運歩色葉集(うんほいろはしゅう)
1548年に成った国語辞書です。イロハ順に編纂し、17,000語を収録。室町時代の語彙を調べるのに重要な資料であり、百科事典の要素も持ちます。
天草版イソホ物語
1593年、天草版イソホ物語が、イエズス会の宣教師ハビアンによって、ラテン語からローマ字で日本語に翻訳され、天草のコレジオ(キリスト教学校)で、南蛮貿易で輸入された印刷機で印刷され、出版されました。70話が収録されています。
イソップ物語には『アリとキリギリス』や『ウサギとカメ』『北風と太陽』など馴染みのある話がいっぱいあります。日本では江戸時代に入ると子供の教化などに活用され、「ウサギとカメ」等の話はすっかり日本昔話化して、溶け込んでいます。
イソップは、ヘロドトスによれば紀元前600年頃に実在したギリシャに連れてこられた奴隷です。本当の名をアイソポスと言います。彼はいつも主人にこき使われていました。彼は寓話の面白い話を創って皆を笑わせたり、主人に気に入られたり して、ネガティブに陥り易い生活をポジティブに変えて暮らしていました。彼の卓越した話術に感服した主人は、やがて彼を奴隷の身分から解放します。彼は語り手としてギリシャ各地を旅しますが、彼の名声を妬んだ者に殺されてしまいます。
天草のコレジオでは、イソップ寓話集の外に、キリシタン教義の解説書、日葡辞書(日本語-ポルトガル語の辞書)、平家物語などをローマ字で印刷・出版しています。
関白・秀次の文化活動
関白・豊臣秀次は一流の文化人です。彼はあの時代に、文化財の保護に力を入れ、散逸している書籍を集めております。文化財保護の考えは、余程の見識の高い人でなければ考え付かない事です。彼は為政者のトップとしてそれに取り組みました。
彼が蒐集した本は、日本書紀30巻、日本後記40巻、続日本後紀20巻、文徳実録10巻、三代実録50巻、類聚三大格の30巻、実了記、百練抄などなどがあり、源氏物語の書写もしています。
彼は集めた本を朝廷に献上しています。
余談 関白秀次事件を思う
太閤秀吉の甥・秀次は、秀吉の後継者に指名されて関白に就任しました。ところがその後、秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉は秀次を謀反の疑いで彼の一族を皆殺しにしてしまいました。1595年(文禄4年)に起こった、いわゆる「関白秀次事件」です。
武家の権力闘争では、殆どの場合「二頭は並び立たず」の原則が貫かれ、二頭の内の一方が殺されます。でなければ、強制的に出家させられてしまいます。
太閤秀吉は、秀頼が将来、秀次によって殺されるかもしれないとの強迫観念に駆られていたのかも知れません。殺(や)るか、殺られるかとなれば、先手を打って秀次を殺した方が勝ちです。殺す理由は謀叛とでも悪行とでも何とでも付けられます。
秀次は、殺生関白の名で後世に伝えられています。が、歴史は勝者が作るもの。それが本当かどうかは怪しいものです。むしろ、それらはとんだ濡れ衣で、彼が優れていたからこそ、優秀さの片鱗が僅かでも漏れ出ない様に、必要以上に悪逆非道の汚名を盛り上げて被せ、山の様な土饅頭の中に葬り去ったのではないかと、逆に婆は勘繰っています。
この事件は、秀次一族の討滅の余りの惨(むご)さと共に、必要以上に処罰の対象が広がりを持ち、根深く、重いものでした。処罰された者は一門・家臣・大名を含めてざっと66名になります。この数字には、秀次に連座して蟄居させられた里村紹巴等の文化人は含まれていません。
参考までに
何時もご愛読いただいて有難うございます。連歌俳諧の段で、(83 室町文化(10) 連歌 参照)と申し上げましたが、次の様にクリックすればその項へたどり着けます。
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