式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

頼朝は芸術音痴?

源頼朝と言う男は芸術を全く理解しない朴念仁だそうだ、と京雀に嗤われたのは、東大寺大仏殿落慶の後でした。

平氏によって焼亡した大仏殿を、源氏の手によって復興しようと頼朝は決心し、東大寺復興にかなりの資金援助を提供しています。

大旦那である頼朝が大仏復興落慶式の為に上洛した折り、後白河院は頼朝を労って「蓮華王院宝蔵の絵」を下賜しました。頼朝はその賜わり物を開けもしないで、そのまま院にお返ししたそうです。

源氏として当然の事をしたまで、と思ったのか、朝廷の買収を警戒して武家の矜持を示したのか、それとも本当に朴念仁だったのか分かりませんが、院も都人も、頼朝の行動を見て芸術を理解しない奴だと決めつけて、上記の様に蔑んだのです。

都人は坂東武者を未開の野蛮人ぐらいにしか見ておりません。文化度の低さ故に馬鹿にし、武力を持った犬くらいの認識で、公家達が政争の道具に使っていました。

 

京への反発と憧憬

頼朝が武家政権を確立して本拠地を鎌倉に構えたのも、そういう立場を抜け出す為の手段でした。京都には近づくまい、権力の伏魔殿から距離を置く、その上で、彼等を凌駕して行こう、と。

彼は守護・地頭を、公家達の荘園に送り込み、その経済的地盤を侵食して行きます。

武力を養い、経済的基盤を得、組織力を高める、それが鎌倉幕府の基本方針だったように見受けます。

とは言っても、武家政権の政庁や将軍御所の建物は、鎌倉幕府室町幕府寝殿造りで造られていました。当時の侍の住居では武家造りが普及していましたが、立派なものは寝殿造りで、と言う憧れにも似た固定観念があり、そこから抜け出せなかったのでしょう。

 

鎌倉歌壇

歌人将軍・実朝や京都から宮将軍を迎える様になると、次第に公家文化が武士達にも浸透して行き、歌壇が栄えてきます。武将達も勅撰和歌集に入集する様になります。

古今集以後、本歌取や枕詞、掛詞など技巧に走る歌が増えてきますが、侍達の歌は概して率直です。

 

慶派隆盛と造仏活動の低迷

東大寺復興と共に南都の仏師達が京仏師にも増して勢いづきます。武家関与の東大寺の造仏活動は、運慶快慶の様な力強い造形を生み出しました。また、比叡山を中心とした旧来の仏教に対して、新興宗教である禅宗が武士達の心を捉えました。

一方、他の宗派が仏像信仰から念仏信仰に移り変わって行くと、造仏活動は低迷し始めます。仏像造りは僧籍の仏師が担っていましたが、やがて職業彫刻家なども現れてきて型紙を基に作り始め類型化して行きます。

それとは別に、石刻などが始まります。宝篋印塔(ほうきょういんとう)五輪塔、或いは野仏などの素朴な彫刻が生み出されてきます。

石の彫刻などが作られるようになったのは、東大寺大仏殿再建に負うところが大です。

と言うのも、再建に当たって宋から多くの石工が渡ってきました。大仏殿の基壇などを造る為の石を刻む技術などが、供に働く日本人にも伝わり、広がっていたのです。

 

禅宗

鎌倉や室町の時代の武士にとって「死」は観念的な「死」ではなく現実でした。彼等は常に死地に投げ入れられる存在であって、生涯を全うするのが難しい存在でした。

武功があっても疑われれば誅伐の対象になり、権勢は嫉妬を呼んで讒訴の餌食となって一族滅亡の危機に晒されます。剣光一閃の下に生きる彼等は、既存の宗教では救われない何かを、禅宗に求めたのでした。

禅は又、公家衆が誇る文化に対峙し得る新しい世界でもありました。

禅宗寺院での茶礼が茶の湯に発展し、供花が活花に、禅寺での礼法の規則「清規(しんぎ)を範にして武家礼法が編み出されます。弓馬術礼法が生まれたのもこの頃でした。

我等は荒くれ武者ではないぞ、と言うアピールです。

 

京文化への接近

初期の足利政権は独自の軍事力を持ちませんでした。義満の代になって奉公衆と言う将軍直属の軍隊を持つ様になり、強い権力を持つ様になりました。

幕府の本拠地が京都に据えられた事に依って、将軍御所の生活が京風になって行きます。武家棟梁の京風化は、精神的にも物質的にも武家社会に変化をもたらし、公家文化と武家の方式の融合が始まります。

尤も、そうなる前にその兆候は見られました。戦火の京都を避けて地方に下った公家達や、地方から都にやって来た侍達が京都の水に馴染んだりして、文化の攪拌が既に起きていました。

 

美術品への目覚め

南宋貿易や、天竜寺建立の為の資金調達で始まった天龍寺交易船で、大量の宋銭が日本に入って来て、国内に流通し始めます。更に、義満の代に勘合貿易が盛んになると、なお一層明の財物が輸入されるようになります。それまで、美術品などの価値に見向きもしなかった武士達が、美術品の値打ちに気付きます。

佐々木道誉などは、目の玉が飛び出るくらいの高価な宋や明の文物を並べて闘茶の賭け物にした、と伝わっています。

茶の湯の原点はこの頃に在ります。式正織部流は安土桃山時代に創始された茶の湯の流派ですが、侘茶以前の風を残しています。真台子(しんのだいす)の真点てでは唐金皆具(からかねかいぐ)の道具立てで、天目茶碗を使って行います。

 

 

余談  茶の湯の皆具(かいぐ)

 茶の湯に於いて皆具と言う時、水指、杓立、蓋置、建水などの使うお道具がすべて同じ材質、同じ意匠で統一された物を指します。

水指(みずさし)   清潔で綺麗な水を入れて置く器

杓立(しゃくたて)  一輪挿しの様な形をした物で、柄杓を挿し入れて置く物

蓋置(ふたおき)   お釜の蓋を置く物

建水(けんすい)   汚れた水を捨てる器