連歌の始まり
倭建命(やまとたけるのみこと)が東北の遠征から帰る途中、供の者にお訊ねになりました。
『新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』(新治 筑波を過ぎて何日経ったのだろうか?)
御火焼(みひたき=篝火を焚く人)の翁が歌ってこう申し上げました。
『かがなべて夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を』(日々を数えてみますと、夜は九日、昼は十日でございます)
倭建命の歌の問い掛けに、翁が5.7.5の歌で答えました。二人で一つの歌に成したこの故事が、連歌の始まりと伝えられています。
『菟玖波集(つくばしゅう)』の名前は、関白太政大臣・二条良基がこの故事に因んで付けたものです。
『菟玖波集』
二条良基は、連歌師の救済(くさいorぐさいorきゅうせいorきゅうぜい)と協力して連歌を編纂し、1356年(正平11年(延文元年)に『菟玖波集』を出しました。翌年、佐々木道誉の尽力で准勅撰に昇格しました。
1356年と言えば、前年に南朝と北朝が京都奪還を巡って攻守入り乱れて戦っており、南朝に拉致されていた光明上皇が解放され、京都に戻って来た時期でもありました。
『菟玖波集』は、二条良基と言う時の関白の後ろ盾を得、准勅撰集になった事で連歌の地位が上がりました。当時、連歌はとても盛んでしたが、和歌より下に見られていました。これにより連歌が独立した文学のジャンルに認められる様になったのです。
連歌の仕組み
連歌と言うのは、一言で言えば二人以上でする和歌の連想ゲームです。
しりとり遊びですと、例えば春ーるりーりすーすずめーメダカ・・・と続いていきますが、連想ゲームですと、春ー鶯ー梅ー匂いー思い出ー物思いー恋・・・と、末尾の発音には捉われずに、印象の連想が広がって行きます。これを和歌でやるのが連歌です。
連歌には色々な式目(規則)があります。
和歌の5.7.5ー7.7の始めの5.7.5の前句と7.7の後句を別々の人が詠みます。5.7.5に付ける後ろの句の7.7を付句と言います。付け句を詠んだ後ろの次の人が再び前句の5.7.5を詠みます。こうして次から次へと歌が詠まれて行きます。句を100回詠むのを百韻(ひゃくいん)と言います。千回続けるのを千韻と言います。50回や36回(歌仙)と言うのも有ります。
実際にどうなっているのかを菟玖波集巻第一から抜粋してみます。
最初に百韻連歌と銘打って御嵯峨院御製の句が出てきます。菟玖波集に記載されているのは、その内のほんの一部です。「春はまた・・薄霞」の次に続く「山の・・」は別の連歌会で詠われたものです。このように、百韻連歌といっても、その全文を載せているのでは無く、良いとこ取りの数句が入集(にっしゅう)されているだけです。
そういう数え方で菟玖波集の全20巻に収められている句は2,190句です。
原文
菟玖波集巻第一
宝治元年八月十五日夜百韻連歌に
山陰(やまかげ)しるき雪の村消えと侍るに
後嵯峨院御製
新玉(あらたま)の年の越えける道なれや
絶えぬ烟と立ちのほる哉
前大納言為家
春はまた浅間のたけ(岳)の薄霞
山の梶井の坊にて百韻連歌侍りけるに
猶(なお)も氷るは しか(志賀)の浦波
二品法親王(にほんほっしんのう)
雲間より道有山と成りぬるに
月かけ寒く夜こと更(ふ)けぬれ
前大納言尊氏(=足利尊氏)
山の陰にある雪の村消えは新年が山を越えて来た足跡でしょう。家々も賑わい竈の煙も立ち昇っています。烟と言えば、浅間の岳の烟は薄霞の様です。(山の・・以下の意訳は略)
三句をずいよう流に超意訳してみました。合っているかどうか不安です。
菟玖波集はこのように、ずらずらと区切りなく続いています。良く読み込めばその区切りが分かるでしょうが、婆には分からない事の方が大きく、参ってしまいました。
菟玖波集に出て来る作者
菟玖波集に入集(にっしゅう)されている作者で上位5者は次の通りです。
救済127句、二品法親王90句、二条良基87句、佐々木道誉81句、足利尊氏68句。
その他に藤原為家、善阿、藤原家隆、後嵯峨院、周阿、足利義詮など合わせて500名以上に及びますが、名前が分かっている人は450名くらいです。
連歌は二人以上で行う歌の会です。連歌の付き合いは、皇、公、武、僧の広くに渡っていました。それ故、単に文学的サロン、と言うばかりでなく、皇公武僧の縦断的かつ横断的な交流の場であり、政治的に非常に重要な役割を果たしていました。
猫また騒動
『奥山に猫またといふものありて』で始まる『徒然草』第89段にこんな話があります。
奥山に「猫また」という化け物がいて、人を喰うそうだという噂がありました。何阿弥陀仏と言う連歌の僧が、或る時、連歌の会が遅くなって夜になってしまいました。びくびくして夜道を歩いてようやく我が家の前に来たところ、急に化け物に襲われて首の所を喰いつかれそうになり、慌てて防ごうとしますが、なおも飛びついて来ます。「助けてくれーッ!」と叫んで小川に転げ落ちた所、連歌の賞品を落して濡らしてしまいました。不思議にも命拾いをしたのですが、後で、それが飼っていた愛犬だったと分かった、というお話です。
『徒然草』の著者・吉田兼好は二条良基の和歌の弟子です。二条派の和歌の四天王の一人に数えられています。四天王というのは浄弁、頓阿、慶運、兼好です。良基は「吉田兼好は歌が上手ではあるけれど、イマイチだ」と評しています。