式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

82 室町文化(9) 東山御物

東山御物(ひがしやまごもつ)と言うのは、室町幕府八代将軍・足利義政が東山山荘に集めた書画文物の事を言います。これ等の蒐集品は義政が集めた物ばかりでなく、歴代の将軍達が集めた物も入っております。

東山御物の蒐集品群は、宋・元・明との交易によって集めた唐物が中心になっております。

これ等の書画は将軍家に仕えていた同朋衆の能阿弥、芸阿弥、相阿弥の親子三代によって管理されていました。どれも皆、国宝や重要文化財級の至宝の数々です。

その中でもお茶に関して言えば、大名物(おおめいぶつ)と呼ばれる茶器類があります。

大名物の中には数奇な運命を辿っているのが少なくありません。

例えば、銘「初花」という唐物肩衝茶入(からものかたつきちゃいれ)は、名だたる所有者の手を経て今日に至っています。

「初花」は南宋で焼かれた物です。それが日本に輸入されて足利義政の手に入ります。それから次の様に所有者が変わります。足利義政→(茶人二人を経由)→織田信長→(本能寺の変で一時不明)→徳川家康羽柴秀吉宇喜多秀家徳川家康→(松平忠直の子孫に伝承)→徳川幕府→徳川記念財団

その外にも、大名物には窯変(曜変)天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)などがあります。窯変天目茶碗は、漆黒の夜空に星が輝いている様な美しい茶碗で、世界に三盌しかありません。

 

『御物御畫目録(ごもつおんがもくろく)

 『御物御画目録』と言うのは、足利将軍家が所有している書画をリストアップしたものです。

書画の名前と内容と作者が一行ごとに記録されています。

例えば『圓石観音 韋駄天 竜 牧谿和尚』と言う具合です。

目録に載っているのが90点。その内牧谿のが36点あります。徽宗皇帝の作品が3点収められています。牧谿の作品がかなりの割合を占めている所を見ると、牧谿がよほど気に入っていたのでしょう。末尾に『鹿苑院殿已来御物 能阿弥撰之』とあります。鹿苑院足利義満法名です。

 

『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)

『君台観左右帳記』は、作品をただ列挙するのではなく、上の部の作品、中の部の作品、下の部の作品と、作品の善し悪しを分類して整理し、記載しています。

本の構成としては、初めに絵の分類別リストがあります。その後に書院飾りの項目があります。軸の掛け方、花瓶の位置、燭台、香炉の位置などが図で示されています。棚飾りも、どの棚に何を置くかが具体的に描かれております。

『君台観左右帳記』が国立国会図書館デジタルコレクションに載っていましたので、開いて読んでみましたら、婆が習った床の間飾りとほとんど同じでしたので、びっくりしました。

残念な事に東山御物は、その後、足利将軍家の衰退と共にちゃんとした管理が行われなかったこともあり、かなりのものが散逸したり失われたりしてしまっています。

 

唐物趣味

鎌倉、南北朝、室町と時代が下がるにつれ武家は、政治や軍事、果ては経済まで世の中を牛耳る様になり、我が物顔に振る舞う様になりました。けれども、彼等がどうしても公家に敵わないものが有りました。それは、公家達が築き上げてきた文化に対してです。

確かに武士の上層部の人達の中には、和歌を詠み、連歌を楽しみ、茶の湯を嗜む「文武に優れた人」と評判をとる人達も居ました。が、それはほんの一握りでした。文化の背景というか、その深さや広がりの点に於いて、公家に比べて武家は圧倒的に劣っていました。

武家は公家に、破壊と新潮流をもってそれに対抗します。それがバサラと禅宗です。

腕力に任せ、財力に任せ「どうだ、凄いだろう」と言わんばかりに傍若無人に振る舞うバサラ族。ゼニ・カネで闊歩する彼等は、大陸から輸入した高価な唐物で身の回りを飾り、悦に入っていました。鎧の下に唐織物の胴服を着て、陣羽織を羽織って戦に出陣しました。闘茶の賭け物に唐物の絵画、墨蹟、骨董、什器、織物などを並べました。

そうなると、日本の職人達も負けられません。唐織物に追いつこうと、蜀江錦や緞子などを見様見真似で工夫しながら織物を作り始めます。染織技術の工夫は一段と進み、やがてそれが西陣織に発展して行きます。豪華な能衣装などにも使われ始めます。

 

侘びと華やぎ

禅宗では人間生来無一物と言い、執着心を捨てる様に説いています。簡素な生活を勧めています。面白い事に、そうは言いながら、高僧達の袈裟は金襴・錦などの超高級品で作られています。それは頂相図等から推察できます。山水画、道釈図、禅会図などの掛け物は、見事な裂(きれ)で表具されています。幽玄を演じる能の衣装は、染織の粋を集めた華麗な織物で出来ています。

禅宗的な侘びと、金満家的な華やぎが同居している文化、それが室町文化の特徴の様に思えます。一見チグハグに見える取り合わせが、妙に調和しているのです。

 

工芸品

鎌倉の円覚寺に残る『仏日庵公物目録(ぶつにちあんこうもつもくろく)』によると、堂坊で使う什器は全て中国からの輸入品でした。

茶の湯が盛んになると唐物の茶碗が輸入される様になりました。それにつれて国産の茶碗作りも上向いて来ました。禅宗寺院で使う什器も初めは日本で生産できませんでしたが、やがてそれも出来るようになりました。刀剣や鎧の金工細工の腕がそれを支えました。

侘びとバサラが出会ったこの時代、混乱の中から新しい文化が生まれてきました。

 

 

余談  能阿弥、芸阿弥、相阿弥 

 能阿弥(のうあみ)は、元は武士で中尾真能(なかおさねよし or しんのう)と言いました。六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と八代将軍・義政に同朋衆として仕え、足利家が初代から蒐集してきた書画骨董の鑑定や管理を行って来ました。将軍からは絶大な信頼を得て、書画庫に自由に出入りし、東山御物の制定を行いました。また、優れた作品に日常的に触れられたお蔭で、彼も一流の水墨画の絵師になりました。茶人にして連歌師表具師でもあります。

芸阿弥は能阿弥の息子です。名前は真芸(しんげい)。父と同じ様に足利義政同朋衆として仕え、絵師にして連歌師。鑑定家で表具師です。書画庫の管理を任されていました。彼は座敷飾りに通じ、書院飾りの指導などを行っています。
相阿弥(そうあみ)は芸阿弥の息子です。つまり、能阿弥の孫です。父祖と同じ様に足利将軍家に仕え、書画の管理や鑑定を行いました。連歌や茶道に通じ、絵も一流で、彼は狩野正信やその子の狩野元信に絵の指導を行っています。

 

余談  中興名物・名物

大名物に対して、「中興名物」や「名物」と言うのがあります。それ等は千利休やそれ以後の茶人・松平不昧(まつだいらふまい)などが「これは良いものだ」と太鼓判を押したもの(極め)を指します。

 

余談  御物(ぎょぶつ)と御物(ごもつ)

同じ文字を書きながら「ぎょぶつ」と読んだり「ごもつ」と読んだりします。読み方の使い分けは、皇室の宝物は「ぎょぶつ」。それ以外の宝物は「ごもつ」と読みます。

正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)

東山御物(ひがしやまごもつ)

柳営御物(りゅうえいごもつ) 柳営→将軍家の事。柳営御物と言った場合は徳川将軍家の宝物を指します。