式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

133 武家茶人 略列伝(3) た行 な行

戦国時代から江戸時代初期までで、武人の茶の湯に限って取り上げますと、その母集団に偏(かたよ)りがある為、古田織部の弟子達の名前が頻繁に挙がる様になります。

今でも社長がゴルフ好きなら、部下達もゴルフをやる様になります。取引先がそうならば、営業担当者もそれに追随する様になります。それと同じで、信長死後、茶の湯の許可制(茶の湯御政道) の箍(たが)が外れ、武士達の間に茶の湯人口がかなり広がって行きました。師匠について茶の湯を習う者もあれば、見よう見まねで始める者もいます。茶の湯は武士の素養として無くてはならないものになって行きました。

た行

高山右近(南坊)(1552-1615) 利休七哲の一人

10歳で洗礼を受ける。洗礼名・ジュストorユスト。摂津高槻城主・和田惟政(わだ これまさ)に仕えた。和田惟政が討死すると、右近は惟政の子・惟長を補佐したが、和田家臣達に疎まれ暗殺の罠にはまる。乱戦で首を斬られる瀕死の重傷を負ったが奇跡的に助かる。和田惟長は逃亡。右近は高槻城の城主となる。生還を神の恩寵(おんちょう)と感じ以後、キリスト教に更に傾倒、領内の神社仏閣を破壊し尽くす。事件後荒木村重に従う。村重の謀反に説得を試みるが失敗、右近は信長に降る。信長没後、羽柴秀吉に就き、各地転戦。右近に影響されて、蒲生氏郷黒田官兵衛牧村利貞などが洗礼を受ける。秀吉の伴天連追放令が出た時、右近は全財産を放棄して前田利家の下へ身を寄せる。小田原征伐の時は前田軍の客将として従軍。徳川家康キリシタン追放令が出ると、家族を連れマニラへ移住。マニラ到着40日後病没。享年63歳。

 

武井助直(夕庵(せきあん))(生年不詳-没年不詳) 足利家の書院茶・利休の侘茶

土岐氏斎藤道三・義龍・龍興3代に右筆(ゆうひつ)として仕え、更に織田信長の右筆になる。重要な案件の発給書などを手掛け、東大寺正倉院蘭奢待(らんじゃたい)の奉行の内の一人になり、又、石山本願寺との講和の際、勅使の奉行を務める。信長の信任極めて厚く、安土城での屋敷は、織田信忠などに次ぐ場所を与えられる。茶人としても活躍していた。

 

竹中重利 (1562‐1615) 古田織部の弟子

軍師・竹中半兵衛(重治)の従兄弟にして義弟(正室が半兵衛の妹)。名を重信、重義、隆重、重隆と幾つも持っている。半兵衛より美濃長松城3千石を分けて貰う。半兵衛亡き後、豊臣秀吉に仕える。小田原征伐では秀吉の馬回役になり、朝鮮両度の役で従軍。豊後高田城13,000石の城主になる。関ケ原では西軍についたが、黒田官兵衛に高田城を攻められ、脅迫じみた説得で東軍になる。これにより所領安堵され、豊後荷揚城(=大分城)35,000石を領する。享年54歳。

 

伊達政宗 (1567-1636) 古田織部の弟子

伊達氏16代・伊達輝宗の嫡男。天然痘により片目失明。18歳の時、小浜城・菊池顕綱を攻撃し、城内皆殺しにした。政宗は南奥州諸侯と戦い、畠山義継との戦闘の時、政宗は敵もろとも父・輝宗を銃撃してしまう。秀吉は私闘の戦争を禁じる惣無事令を発令。しかし、政宗はこれを無視、なお戦を続け奥州に強大な領国を築いた。秀吉は怒り、更に小田原征伐に遅参した政宗を許し難く呼び出したが政宗は白装束で現れる。文禄の役に派手な戦装束を着て京の都をパレード。伊達者と言われる。秀吉薨去後、政宗の娘・五郎八(いろは)姫を徳川の松平忠輝に輿入れさせる。関ケ原では徳川方に味方し、対上杉戦を展開(慶長出羽合戦)、上杉勢が南下して徳川を脅かすのを防いだ。政宗は徳川の許しを貰い仙台に城を築く。また、支倉常長(はぜくら つねなが)など180人をスペイン、ローマに派遣した(慶長遣欧使節団)。大坂夏の陣では真田信繁の攻撃を受けて後退した。また、徳川方の水野配下の神保隊300名を味方討ちにして全滅させた。水野の抗議に対して幕府は政宗に忖度して之を黙殺する。筆まめで知られ、教養人でもある。政宗徳川家光の代まで仕え、食道癌と癌性腹膜炎で死去。享年70歳。

土屋宗俊(つちや そうしゅん) (生年不詳-1671) 古田織部の弟子

剣豪・戸田清元(富田勢源)の免許皆伝の弟子。加賀藩前田家に仕えた後に牢人して古田織部の家に寄宿。関ケ原に出陣し負傷。久留米藩に400石で再就職。藩主・有馬豊氏は茶人であったが、茶の湯に粗略な風があったので、宗利はそこを辞し堺に滞在した。その後、福岡藩に出仕。織部流を伝える。孫弟子に立花実山(南坊流・立花流開祖)がいる。

 

筒井定次(つつい さだつぐ)(1562‐1615)

大和筒井城主・筒井順慶の養嗣子。信長没後伊賀上野に転封。伊賀上野城を築城。豊臣秀長の傘下で、小田原征伐などに参陣、唐攻めの時は名護屋に詰める。会津攻めの時、伊賀上野城を西軍に奪われる。関ケ原は東軍で戦い、戦功により伊賀守に叙任される。茶の湯を好み、古田織部と交流。定次は陶工を呼び戻し(かつての信長の伊賀討伐で伊賀の陶工が離散していた)伊賀焼を保護し奨励した。大坂冬の陣の時、内応の疑いを掛けられ切腹を賜る。享年54歳。

 

妻木頼忠 (1565-1623) 古田織部の弟子

美濃国土岐郡妻木城城主。森長可(もり ながよし)の侵攻を受け、敗色濃くなったので降伏の道を選ぶ。森長可の家臣になり、小牧・長久手の戦いでは秀吉側に就く。関ケ原の時は東軍に立ち、東美濃にいる西軍側の田丸直政を攻略した。関ケ原合戦が東軍の勝利に終わると、田丸氏も交戦を止め、東軍に降った。その功により土岐郡内の8ヵ村を与えられた。大坂夏の陣にも出陣。夏の陣の23年後死去。享年59歳。

土井利勝(1573-1644) 古田織部の弟子

幼名・松千代、甚三郎。父は水野信元。(信元の異母妹・於大(おだい)の方は松平広忠に嫁し、竹千代(後の徳川家康)を生んだ。信元と家康は伯父と甥の関係にある。又、利勝は家康の御落胤である、と言う説もある。)

父・信元は、敵方である武田氏に内通したとの嫌疑が掛けられ殺された。利勝は家康の計らいで土井利昌の養子になる。徳川秀忠が生まれると、安藤重信や青山忠成の傳役(もりやくorふやく)と共に、7歳で傳役を命じられた。関ケ原の時は秀忠に従った。行政手腕に優れ、徐々に禄高が上がって行ったが、大坂の陣後、6万5千石になり、家光が生まれると、再び家光の傳役に就いた。家光が将軍位に就くとさらに幕政に関わる様になる。下総国古河(こが)藩16万2千石に加増される。武家諸法度に参勤交代を組み込み、幕藩体制を盤石なものにした。寛永通宝を鋳造し、経済の基盤を整備。老中職に就くが、晩年は中風を患い実務から遠ざかり、名誉職の大老になる。享年72歳。

 

藤堂高虎 (1556‐1630) 古田織部の弟子

近江の土豪の子として誕生。貧しくて戦場での足軽働きで生活していた。

初め浅井長政(あい ながまさ)足軽として雇われるが、浅井家が滅亡。以後転々と主人を替える内、羽柴秀長に出会い、300石で秀長に仕える。秀長は高虎に学問を勧め、また、宮大工の中井正清、大工棟梁・甲良宗弘(こうら むねひろ)、石工集団の穴太衆(あのうしゅう)とも交流、秀長の代理で安土城普請に携わる。高虎は自分を評価してくれる秀長に出会い、忠節を尽くす様になる。秀長に従い各地を転戦。徐々に禄高を上げた。秀長が没すると養嗣子の羽柴秀保に仕え文禄・慶長の役に出陣、朝鮮の高官・姜沆(きょうこうorかんはん)を捕虜にして日本に連れて来る。帰国後大洲城8万石になる。秀保が亡くなると出家。出家を惜しんだ秀吉に説得され、還俗。

秀吉薨去後、家康が会津征伐を反転させて西征の際、木曽川渡河で福島正則池田輝政等と共に西軍織田秀信と戦い、美濃を制圧。関ケ原でも奮戦し、その功により今治城12万石加増され、伊予宇和島城と合わせて20万石になる。江戸城改築や各地の築城を成し、黒田官兵衛加藤清正と共に藤堂高虎は築城の名手と謳われる。足軽時代の攻城経験や大工達との親交が大いに役に立っている。その後の戦績や築城の功により伊勢津藩に転封、27万石の藩主になり、最終的には32万3千石になる。内政に力を入れ、金春流能楽師を保護、文学や茶の湯を楽しむ。晩年失明。享年75歳。

※ 姜沆は『姜羊録』の著者。日本の内政や生活などの情報を細かく書いている。秀吉の相貌の異常さや職人技が尊重される風土、内政や国土など、内容は多岐にわたっている。

参考: 126 武将の人生(7) 書状 2021(R3).11.30 up

 

徳川秀忠 (1579-1632) 古田織部の弟子

秀忠は徳川家康の三男。この頃は未だ長子相続のルールが定まっていなかったが、ポスト家康の有力候補に秀忠が期待されていた。秀忠は、秀吉の計らいで淀君の妹・於江与(おえよ=お江(ごう))と結婚する。

関ケ原の戦いの時、秀忠が真田攻めに手間取って関ケ原に遅れたとの定説があり、家康は遅参した事に激怒した、と言われている。この秀忠の関ケ原合戦遅参が、秀忠は無能な武将であるとの印象を後世まで与える事になってしまった。

『徳川実記』には(前略)(嫡男、次男、四男を指して) おづれも(いずれも)父君の神武の御性を稟(うけ)させられ、御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に、独り台徳院(秀忠)殿には、後幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給い、(以下略)と書かれている。

武略の人よりも文治の人の方が、天下泰平の世には適材だと家康が判断したと伝えられている。家康が引退し、秀忠が2代将軍を襲位すると、地味ながら秀忠は着実に幕藩体制を整えて行き、その後250年以上続く徳川の基礎を築き上げていく。有能な家臣達に支えられながら、公家諸法度、武家諸法度の整備を行い、天皇家との姻戚関係の構築、寺社統制などを実施した。茶の湯織部に学んだ。織部切腹の後、織部遺愛の品々を用いて茶会を開いた、と言う。

昭和33年(1958年)、台徳院霊廟が増上寺に移築された際、学術調査が行われた。身長158㎝、毛深く、筋肉質の大柄な体格で、血液型O型、胃癌など消化器系の癌で亡くなったと、調査で判明している。享年54歳

※ 家康には8人の男子がいた。長男信康(切腹)。次男秀康(秀吉の人質兼養子になり、後、結城家の養嗣子になる)。三男秀忠(2代将軍)。四男忠吉(無子断絶)。五男忠輝(流罪)。六男義直(尾張徳川家の祖)。七男頼宣(紀州徳川家の祖)。八男頼房(水戸徳川家の祖)。

 

豊臣秀次(1558‐1595) 三好康長(養父)と千利休の弟子

関白左大臣豊臣秀吉の甥。叔父・秀吉の出世に翻弄される。4歳の時に宮部継潤(みやべ けいじゅん)の人質、更に三好康長の人質になる。人質生活を終えた後、小牧長久手の戦いの時に壊滅的な敗北を喫したが、その後は各地の戦いで勝利を収めた。やがて関白に就任するも、秀頼出生により追われ、自害に及ぶ。関白秀次事件として知られ、謎が多い。文武両道。古典の蒐集に力を入れ、茶道や連歌を嗜む教養人。享年28歳。

参考:113 桃山文化7 文学    2021(R3).08.20 up

 

豊臣秀吉(1537‐1598) 千利休の弟子

従一位・関白太政大臣。百姓から身を起こして天下人に成る。秀吉の経歴については多くの人が知っているので、ここでは省略する。

彼は、文化的教養を身に着ける為に大いに努力し、茶の湯千利休に、連歌を里村紹巴(さとむら じょうは)に、文学を細川幽斎に、能楽を金春太夫安照にそれぞれ学び、禅の修養も積んだ。能では自作の曲『明智討ち』や『柴田』を作り、演じた。茶の湯では、黄金の茶室を造り、参内してその茶室を宮中に持つ込み、正親町天皇に披露した。利休の侘茶に批判的で、古田織部武家に相応しい茶の湯を創始せよと命じている。また、利休が行ったルソンの壺をはじめとする雑器などの高額の商売を、快く思っていなかった。

 

な行

内藤政長(信斎) (1568-1634) 古田織部の弟子

小牧・長久手の戦いで戦功をあげ、朝鮮出兵名護屋城に詰める。伏見城攻防戦で父が戦死。関ケ原では東軍に立ち、関東に於いて対上杉戦に備える。功により上総(かずさ)佐貫藩の3万石の藩主になる。大坂冬の陣では安房(あわ)国の守備、夏の陣では江戸城留守居役を務める。他に絶家や改易の時の城受け取り役(安房立山藩・柳川藩熊本藩)を果たし、陸奥(むつ)磐城平(いわきたいら)7万石の藩主に加増移封される。享年67歳。

 

永井尚政 (1587-1668) 千利休古田織部の弟子

永井信濃守尚政。関ケ原合戦に従軍。徳川秀忠付の小姓になる。昇進を重ね、上総潤井戸(かずさ うるいど)藩1万5千石になる。老中本多正純が謀反の疑い(宇都宮釣天井事件)で失脚したあと、老中に選ばれた。父・直勝死後、父の下総 古河(しもふさ こが)藩の家督を相続。後、老中を解任され、山城淀藩10万石に移封加増された。尚政は京都や大阪の治安に努め、民政に力を注いだ。

応仁の乱で焼失廃寺になっていた宇治の仏徳山興聖寺(曹洞宗)を、万安英種を招いて再興。又、小堀遠州松花堂昭乗片桐石州、江月和尚、林羅山本阿弥光悦狩野探幽らと親交する。茶人にして歌人。また、信濃守だった彼の屋敷跡が信濃町(新宿区)の町名に残っている。享年82歳

 

南部利直 (1576-1632) 古田織部の弟子

南部氏26代南部信直の長男として生まれる。烏帽子親は前田利家。父死後、南部藩当主となる。関ケ原の戦いの時は東軍側に立ち、出羽山形藩の最上氏と共闘して上杉と戦う。が、山形に出陣している間に伊達政宗が南部に侵略を画策。止むを得ず許しを得て帰国、南部藩を鎮める。白根金山、西通金山という金鉱山に恵まれ、また南部鉄も産出し、財政が潤う。盛岡城を築く。享年57歳。

西尾光教 (にしお みつのり)(1544‐1616)

斎藤道三に仕え、更に織田信長に仕え、羽柴秀吉に仕える。関ケ原では東軍に与し、岐阜城大垣城で戦う。美濃の地理に明るく、戦況を有利にし、揖斐藩(いびはん)3万石の初代藩祖となる。大坂の陣でも活躍。享年73歳。

 

丹羽長重 (にわ ながしげ)(1571-1637) 古田織部の弟子

織田家重臣丹羽長秀の長男。小牧・長久手の戦いの時、病気の父に代わり出陣。父が病没すると、15歳で若狭・越前・加賀の123万石を相続する。が、佐々成政への越中攻めの内通の疑いで若狭15万石に落とされ、更に九州征伐時の落ち度で加賀松任4万石に減俸移封された。

小田原征伐朝鮮出兵で武功を挙げ、12万石まで回復。しかし、関ケ原で西軍に与し、北陸の関ケ原と言われる浅井畷(あさいなわて)前田利家と激戦。本戦の関ケ原で東軍が勝った事に因り、長重は改易され、無禄の浪人になる。

その後、徳川秀忠に拾われ、常陸(ひたち)国の古渡(ふっと)藩1万石の藩主に就いた事を皮切りに、大坂の陣での武功で常陸国江戸崎2万石、更に陸奥(むつ)国棚倉藩5万石に出世した。会津藩60万石の蒲生忠郷に後継ぎが無く改易されると、そこに加藤嘉明丹羽長重が入り、長重は白河10万700石の藩主となった。長重が城持ちに出世すると丹羽家の旧臣達が集まり始め、彼等を召し抱えて、財政が苦しくなった。享年67歳。

参考: 武将の人生(7) 書状  2021(R3).11.30  up