式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

79 室町文化(6) 銀閣寺

通称銀閣寺と呼ばれるお寺は、正式には東山(とうざん)慈照寺と言い、相国寺の飛び地にある塔頭(たっちゅう)の一つです。このように飛び地にある塔頭を境外塔頭と呼びます。金閣寺相国寺の境外塔頭です。

銀閣寺の建っている場所は京都市左京区にあり、大文字山の麓です。

北山文化の代表と言われる鹿苑寺金閣。一方、東山文化の代表と言われる慈恩寺銀閣

金閣を建てた足利義満も、銀閣を建てた義政も、禅宗に深く影響を受けている人物ですが、造営した建物の雰囲気はまるで正反対です。(参照:78 室町文化(5) 金閣寺)

金閣は贅美の極みです。銀閣の姿には質実簡素な美が有ります。銀閣には無駄をこそぎ落とした禅宗の精神美が見られます。

 

義政の建築趣味

足利将軍家は、将軍の代が変わる毎に将軍御所を新築する習わしがありました。義政もその例外ではありません。彼は在位中47年間の間に烏丸殿(からすまるでん)、室町殿、小川殿(こがわでん)、東山殿の四か所を造っています。

室町殿は三代将軍・義満の室町第と同じなので、改築位で済ませたのかも知れません。

小川殿は細川勝元の別荘でした。義政は勝元の別荘地を借りて御所を建てます。が、手狭でした。義政は正室日野富子との仲が悪くなり、義政は別居願望が強くなります。彼は東山に延暦寺門跡寺院だった浄土寺の土地を手に入れ、山荘造りを始めます。

足利義政は生来芸術家肌で将軍職には向いていなかったのかも知れません。彼は権力闘争の明け暮れに政治への興味を失っていました。(その癖、実権は最後迄離そうとしませんでした)。正妻からも一刻も早く離れたかったようです。

彼は東山山荘の造営にのめり込み、毎日建設現場に足を運びました。大工や庭師などと話しながら、彼が思い描く理想の山荘を追い求めて行きました。ついには、建設途中の山荘に引っ越してしまい、寝泊まりする様になりました。

彼は芸術に逃避しました。おまけに、財布の紐は正妻の富子に握られていました。日野富子は巨万の富を手にしていましたが、義政自身は貧乏でした。彼は公家領や寺社領から資金を取り立て、また、庶民に税金や労役を課したりしました。家臣の家へ御成りして、饗応接待を受け、お土産を沢山貰ってそれを資金の一部にもしました。

 

部屋の使い回しと固定化

それ迄の将軍御所や上級武士の家の構えは、表向きの客殿は寝殿造でした。

寝殿造りの部屋割りは、御簾や几帳、調度や屏風などで区切ります。客人が来ると、ちょいと設えを動かして、それ用に調えました。(参照:16 室礼(しつらい)の歴史(1) 寝殿造)

それが次第に変わって行き、客用の部屋が生まれました。相手の身分によって上位者であれば主人が下座に座って客を上座に、下位者であれば主人は上座に座ったまま客を下座に迎えると言う形になりました。

その遣り方は時代が経るにつれて更に変わって行きます。

上座は上座で主客入れ替わる事が無くなり、部屋の機能が固定化してきます。接客部屋が固定化してきます。謁見や儀式の間の様な公の間と、主が寛げる私的空間に分かれて行きます。

公の間は会所の広間の変化形と見る事が出来ます。

会所では、壁際全ての面に屏風を並べ立て、長板の上や卓の上に自慢の物を飾り付けて展示しましたが、やがてその飾り付けの場所が固定化し、正面上座の中央に押し板を置き、その分だけ壁を凹ませて、ショーウィンドウ的な効果を演出しました。

禅寺の部屋

世俗の建築がこの様に変化する様に、禅宗の寺も変わって行きます。

禅宗が日本にやってきた時、禅宗寺院では大陸で行われている宋様の諸式に則って全てが運営されていました。必要最低限の荷物を持って、僧侶達は大部屋一つに寝泊まりし、座禅堂で座禅を行い、作務に励みました。

やがて住職の高弟が本寺院の敷地内に塔頭を建て、数人の弟子を預かって指導する様な形が取られて行きます。大寺院では幾つも塔頭が並びます。また、塔頭の住持は自分の個室を持ち、そこで詩作をしたり、読書をしたりの活動をしました。五山文学などの優れた文学も、こういう所から生まれてきています。

武士の部屋

支配層の武士達は禅僧に師事し、学問や行動規範を学びます。

軍事面を除いて、武家と禅家の二者は互いに響き合い、融合した文化を紡ぎ出して行きます。

足利義政は自分が理想とする山荘を建てようと志しました。彼は将軍御所の機能と、自分が独りになれる憩いの場を東山殿に実現しようとします。その憩いの個室こそ書院の始まりになりました。東求堂の同仁斎には文房具を置く付け書院があり、愛玩の文物を置く棚があります。

創建当時は銀閣や東求堂の外に会所、泉殿、常御所、西指庵(禅堂)などなど幾つもの建物が建っていたそうです。これらは慈照寺に受け継がれたそうですが、その後の兵乱で荒れ果てて殆どを失ってしまいました。

(参照:「20 室礼の歴史(5) 同仁斎」)

 

 

余談  日野富子

足利義政正室日野富子は、日本三大悪妻のトップに輝く誉れ高い人物です。

義政との間に出来た初産の子を、即日に亡くした富子は、乳母を流罪にしてしまいます。

義政の側室4人を追放します。

富子に中々男子が生まれなかったので、義政は弟の義視(よしみ)を後継者に指名。その後、富子は男子・義尚(よしひさ)を産みます。富子は我が子を将軍にしようと山名宗全を後見人に指名、細川勝元や斯波氏、畠山氏を巻き込んで応仁の乱を引き起こします。富子は戦費を大名に貸し付け大儲け。米の投機も行い更に儲けます。京都の入り口の七か所に関所を設け、通行税を取り、一揆を頻発させます。

この様な具合で彼女の評判は最悪ですが、芸術オタクの夫・義政を見限って財テクに邁進し、室町幕府の切り盛りをしていた、という見方も出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

78 室町文化(5) 金閣寺

金閣寺

京都の北山にある金閣寺は、元はと言えば足利義満が建てた別荘でしたが、彼の死後、相国寺(しょうこくじ)に寄贈され、同寺の塔頭(たっちゅう)の一つとなりました。相国寺の境内から離れて、飛び地の様な土地に建っているお寺で、山号は北山(ほくざん)、寺名は鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。鹿苑寺の敷地内に建っている金色の舎利殿が余りにも有名なので、通称金閣寺と呼んでいます。

 

金閣は金ピカではなかった?

足利義満が建立したこの舎利殿は三層の楼閣です。

今、婆達が目にする金閣は、二層目、三層目とも眩いばかりの金箔に覆われていますが、洛中洛外図屏風の上杉本を良く見てみると、この屏風が描かれた当時の金閣は、三層目の柱と扉と垂木の端だけが金箔で荘厳されている様に見えます。

壁は一層目、二層目、三層目とも土の白壁。

柱は一層目と二層目が木地のまま。

高欄は二層目と三層目が朱塗りで、三層目の高欄には金色の金具が付いています。

二層目と三層目には花頭窓があり、花頭窓の縁は黒っぽいので黒漆塗りかと?

婆の目はかなり衰えていますので、材質の色別は確かではありません。ただ、清水寺の舞台の床板の色や、民家の柱の色などと比較して、たぶんそうでは無いかなぁ、と見た訳です。創建当時の様子は、今とは大分印象が違う様です。

(上杉本 洛中洛外図 nhkアーカイブスを参考にしました。)

 

内部の設え

往時の金閣は、亀泉集証の書いた『蔭涼軒日録』によると、創建当初、二層目に観音像を安置し、三層目には阿弥陀如来を祀り、その周りに25菩薩像が安置されいたとか・・・あの世からのお迎えは、阿弥陀如来と25菩薩が雲に乗って山越えして来ると信じられていますので、義満は、北山を越えて阿弥陀様がお迎えに来てくれる事を願っていたのかも知れません。

「72 室町時代(1) 義詮と義満」の項の「天皇になりたかった?」で、金閣は義満の野心を表している、と推察する説を載せました。来迎を望んだのか野心なのか、どちらが本当なのか、婆には分かりません。

義満の孫の義政が度々鹿苑寺を参詣していたそうですが、その時には二層に安置されていた筈の当初の観音像が別の観音像に置き換わっており、阿弥陀如来と25菩薩は失われてしまっていた、と『蔭涼軒日録』に書いてあるそうです。

 

放火事件

1950年(昭和25年)7月2日、放火により舎利殿は焼失してしまいました。その後再建し、現在は一層目に宝冠釈迦如来坐像、足利義満座像を安置、二層目に観音菩薩像と四天王像、三層目に舎利が祀られています。

金閣は江戸時代と明治時代、昭和の放火事件以後一度と、三度修理されています。現在の舎利殿は、創建当時の材木では無くなっていますが、不幸中の幸いと申しましょうか、明治39年に解体修理が行われた際に図面が作成されていましたので、明治以前の姿に復元する事が出来ました。

 

鎌倉幕府室町幕府の違い

同じ武家政権でも、鎌倉幕府室町幕府とでは大きな違いが有ります。幕府の姿勢の違いが、鎌倉と室町の文化の差を生んでいます。

鎌倉幕府は、京都から出来るだけ距離を取り、朝廷の権謀術数から離れようとしました。

源義経が鎌倉の意向を伺わずして朝廷から官位を授かったという理由で、謀反人と断じ、討伐しています。それも、京都から離れて武家の独立を保とうとする現れでした。鎌倉幕府は武一辺倒で、芸術や美術品の価値を知りませんでした。

室町幕府は、京都の文化に惹かれ、なお且つ京都で政務を執る利便性に着目していました。

足利政権をそう仕向けたのは南北朝の争乱です。詰り、南朝北朝が京都制圧を目指して何度も戦っている内に、京都を制する者が天下を取る、という認識が出来上がって行ったのです。鎌倉に政庁を置いていては天下を睨む事は出来ません。鎌倉は関東と関東以北の押さえの地方行政庁に過ぎないと、気付いたのです。そして何よりも重要なのは、足利政権は北朝を寄る辺として成立したと言う事です。

 

美術品の価値の発見

足利尊氏は京都に、住居と政庁を兼ねた将軍の御所を構えました。朝廷との交流が密になり、武士達は公家文化に激しく晒されます。

京都と言う土地が持つ文化的雰囲気が、武士達を少しずつ雅の気風に染めて行きます。坂東の荒武者、田舎者、山猿などと京雀に馬鹿にされていましたが、それを財力で威圧する様な派手なバサラが現れ、開いた口が塞がらない内に彼等は京を席捲して行きます。闘茶や香寄合など、遊技にのめり込む者が多くなります。動機がどうであれ、懸物などの値踏みから美術品に金銭的価値がある事を認識し始めます。大陸から輸入した唐物が持て囃され、水墨画が高値で取引される様になります。

足利尊氏は大陸との貿易をしようと明に求めますが、国王とは取引をするが臣下とは取引をしないと言う明国の大前提に阻まれて思う様に出来ません。天皇の臣下が駄目ならば、天皇の臣下を辞めれば良い! つまり、俗世にあるから臣下になる、俗世を辞めて僧侶になれば天皇の臣下では無くなる・・・と考え、尊氏は出家してしまいます。

 

将軍御所の移り変わり

足利尊氏は、初め京都にあった弟・直義の屋敷を住所兼政庁にしていました。

二代将軍・義詮は三条坊門に屋敷を構え、室町家から「花亭」を買って別邸としていました。

三代将軍・義満は「花亭」に隣接する今出川家の「菊亭」も買い取り、大々的に将軍御所の造営を行いました。これを「室町殿」又は「室町第」と呼びました。室町幕府の名前はここから来ています。またこの室町第は花木が沢山あったので「花の御所」とも呼ばれていました。

花の御所は現在の京都御所の北西の隅、今出川交差点の斜め前にありました。

 

義満出家と鹿苑寺

明徳3年(1392年)10月27日、南朝北朝明徳の和約を結び、合一しました。これを成し遂げた義満はこれを丁度良い区切りとして隠居し、出家します。前に書きました様に、この出家は政策上の出家です。出家を機に将軍職を9歳の義持に譲りましたが、新将軍が幼い事もあって実権は義満が握っていました。

義満は隠居所を建てる為、河内の国と交換で、北山にある西園寺家の寺を買い取ります。

そのころ、西園寺家中先代の乱で謀反人となり、その影響で没落していました。お寺も荒れ果てていました。(参考:62建武の新政(3) 中先代の乱)

そのお寺を手に入れた義満は、将軍の居る花の御所にも負けない陣容に整備しました。義満の居室と表舞台を併せた北御所、義満側室の南御所、崇賢門院の御所の三つを敷地内に建て、会所、舎利殿護摩堂等々幾つもの堂宇を造立しました。また、庭は夢想国師が策定した西芳寺に倣って作りました。この様な立派な「山荘」ですので、これを北山殿とか北山第と呼びます。

 

北山第の破却

 義満は政務を北山第で行いました。その義満が1408年に薨去し、22歳になった義持が晴れて将軍らしく実権を振るう事が出来るようになりました。彼は、父の側室が亡くなると、父の遺言に従って北山第を相国寺に寄贈します。山荘は北山鹿苑寺と名を変え、禅宗の寺として再出発をします。その時義持は、舎利殿を残して殆どの建物を移築したり破却したりして壊してしまいます。

義満と義持の間には長い間の確執があり、親子関係は余り良くなかったのです。

 

余談  日本国王・良懐(りょうかい)

南北朝の争乱時、後醍醐天皇は勢力拡大の為、親王達をあちこちに派遣しました。その内の一人・懐良(かねよし)親王は、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)として九州に赴き、九州を南朝方に染め上げて行きます。彼は熊本を足掛かりに、博多や太宰府に拠点を築きました。親王日本国王・良懐と名乗り、明との貿易を始めます。足利義満が明との貿易が出来なかったのも、懐良親王の存在があるからでした。義満は懐良親王を取り除こうと、今川貞世を派遣して九州探題を強化。懐良親王太宰府を追われ、筑後の矢部(現八女市)で病没します。

義満が懐良親王薨去の後、日本国王の名前で貿易を開始しようとするも、すんなりとはいかず、正式に認められるまでは、「良懐」と名前を偽っていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

77 室町文化(4) 闘茶

お茶は、禅宗寺院内の茶礼が源流と言われています。

栄西禅師が宋から茶の種を日本にもたらし、九州の背振山(せふりやま)で栽培しました。それを明恵上人が分けて貰い、京都の栂尾(とがのお)でも栽培を始めました。栂尾での茶の栽培が成功し、次第に全国に茶の栽培と製造が広まって行きました。やがて宇治でも上質な茶が作られる様になり、それまで本茶と言えば栂尾産の茶葉でしたが、本茶に宇治茶も加わる様になりました。それ以外の産地の茶を非茶と呼びました。

(参考:7 明菴栄西禅宗と茶の種を伝える。 8 栄西、第一次渡宋。 9 栄西、第二次渡宋。 10 お茶物語in中国。 13 背振(せふり)の茶。 14 栄西、鎌倉に下る。 15 栄西禅師と明恵上人。)

 

お茶の当てっこクイズ

当時のお茶は碾茶(てんちゃ)というものです。碾茶と言うのは、摘んだ葉を蒸したまま揉まずにそのまま干し海苔の様に広げて乾燥させて作ります。茶葉が幾重にも重なったまま乾くので、分厚くて堅いシート状になります。碾茶は乾燥した青海苔の様な香気があります。

碾茶を砕いて石臼で粉末(抹茶)にし、それにお湯を注いで掻き混ぜて飲むのが、当時の飲み方でした。そうやって出されたお茶を、香りや味などを味わい分け、茶葉の産地を当てっこする遊びが流行りました。

 

闘茶(とうちゃ)

けれど人々はこの単純な当てっこ遊びでは飽き足りませんでした。当たったら景品を出そうよ、という話になります。更に、お茶当ての勝負を行い、賭けをする様になりました。

射幸心は留まるところを知らず、賭ける財物も豪華になり、財産を失う程の破滅の道を歩む様になります。

太平記の中に茶会(当時は茶会と言えば闘茶の事でした)の様子が描かれています。頭人( 賭けに参加した人)が、どういう茶の懸け物(闘茶に賭ける財物)を出すか具体的に書かれています。

以下、その部分を抜粋して載せます。 

太平記

33巻 公家武家栄枯易地事より抜粋

‥又都には佐々木判官入道道誉始めとして在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽くすに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧(よそおい)をして、皆曲■の上に豹・虎の皮を敷き、思々(おもいおもい)の緞子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双(ならび)て坐(おわ)し給えるに不異。(途中略:ここから式三献と饗宴の豪華なご馳走の内容が描かれている)・・・旨酒三献過ぎて、茶の懸物に百物、百の外に又前引きの置物しけるに、初度の頭人は、奥染物各百充(づつ)六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置、三番の頭人は沈(ちん)のほた百両宛て、麝香(じゃこう)の臍(へそ)三充副(そえ)置く。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立(したて)たる鎧一縮(いっしゅく)に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くヽみたる刀に、虎の皮の火打ち袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様(さま)を変え数を尽くして、如山積重ぬ。されば其費(ついえ)幾千万と云事を不知。

ずいよう意訳

・・都には佐々木判官入道道誉を始めとして、京都に居る大名が集まって闘茶の会を日々行っています。異国や日本の宝物を集め、パーティー用の衣装を着て、床に豹や虎の皮を敷いて座っています。それぞれ思い思いの金襴緞子を着て、四人の幹事が並んで座っているのを見れば、床の上に千の仏様が光り輝いて並んで座っているのと変わりありません。(途中略)・・旨い酒の三献式が過ぎて、(胴元が用意した)茶の懸物が百も有り、それ以外に(胴元以外の参加者が用意した)前置きの懸物も沢山あります。最初の頭人が用意したのは、繊維の奥までしっかりと染め上げた染物を各々百ずつ63人の前に積みました。二番目の頭人は小袖を十枚ずつ重ね、三番目の頭人沈香百両、麝香の臍を三つずつ副(そ)え、四番目の頭人は砂金を百両づつ堆朱(ついしゅ)に金を施したお盆に入れて置きました。五番目の頭人は作ったばかりの鎧に鮫皮を掛けた白太刀、柄鞘とも金で作られた刀、虎の皮で作った火打袋を下げ。一様にこれを引いています。以後の頭人20余人、儂は人より勝(まさ)っている物を懸け物にしているぞと、他人様が出している物とは違う物を出し、数を尽くして山の様に積み重ねています。その費用は幾千万になるか、底知れません。

この後、「我こそは勝者ぞ」と意気込むけれども負け、ついには次の様に続きます。

 『手を空にして帰りしかば、窮民孤独の上を資するにも非ず、又供仏施僧の檀施にも非ず。只金を泥に捨て玉を淵に沈めたるに相同じ。』と書き、『一夜の勝負に五六千貫敗くる人のみ有りて百貫とも勝つ人は無し(中略)抑此人々長者の果報有りて、地より物が湧ける歟(か)、天より財が降りけるか、非降非涌、只寺社本所の所領を押さえ取り、土民百姓の資材を責取、論人・訴人の賄賂を取集めたる物供也。』

ずいよう意訳

すってんてんになって帰ると、損したお金は困った人を助ける事もならず、お坊様のお布施にもならず、ただ金を泥に捨て玉を淵に沈めたのと同じことです。一夜の勝負に五六千貫敗ける人ばかりで、百貫も勝つ人は居ません。このような人々は長者の果報で、地から財物が湧いてくるのでしょうか、天から財産が降って来るのでしょうか。いえ、財産は降りもせず、湧きもしません。ただ寺社領地の所領を奪取し、土民百姓の資材を責め取って、論人や訴人から賄賂を集めた物なのです。

 

闘茶禁止令

上記「太平記」から抜粋したのは、佐々木道誉が開いた闘茶の様子です。

太平記」の外にも『光厳天皇宸記』によると、1332年6月28日、光厳天皇が茶会(闘茶)を行なった記録があります。更にそれ以前にも、後醍醐天皇も茶会を開いた形跡があります。(参考:43 後醍醐天皇 余談 茶会(闘茶))

二条河原の落首に『茶香十炷(しゅ)の寄り合いも鎌倉釣りに有鹿と 都はいとと倍増す』とあります。「お茶やお香の寄合も鎌倉と同じ状態らしい(有りしか)と言うけれど、都では大層流行って倍増しています」と言うくらい、みんな賭け事に夢中になっていました。

( 炷(しゅ)はお香などを炷(た)く時に使う字です。例:香点前などで「お香を一炷お聞かせ致します」などと言います。それに対して「焚く」は炎を上げて燃やす時に使う字です。例:「焚火」「お焚き上げ」などです。)

闘茶が非常に盛んになり、破産する者や自殺する者、領地迄賭けて没落する者まで出て来ました。幕府もこれを見過ごす事が出来なくなり、建武式目で闘茶を禁止しています。

 この建武式目に闘茶を禁止する条項を入れたのが、足利直義(ただよし)です。

足利直義は尊氏の同母弟です。直義は政務を担当していました。

「68 南北朝(2) 観応の擾乱」でも述べました様に、直義は真面目で堅く、清廉の人でした。

彼と同じ様に幕府の中枢にいて軍事部門のトップに居たのが、高師直です。前項「婆娑羅」でも取り上げた様に高師直はバサラ。引付頭人評定衆など重要な役職に居たのが佐々木道誉。直義の堅い性格は幕府の中では人気がありませんでした。高師直佐々木道誉の方が人気があり、彼等は大きな派閥を作っていました。幕府内の綱紀粛正を図ろうとする直義に相当の抵抗があったと思われます。直義は高師直を排除しようとしますが、それが幕府内の分裂を生み、観応の擾乱へと発展して、直義は幽閉されてしまいます。最期は殺されたとも噂されています。

 

余談  闘茶

闘茶には次の様な色々な呼び方があります。

茶寄合、茶歌舞伎(ちゃかぶき)、茶香服(ちゃかぶく)、飲茶勝負といったものです。

現代の闘茶は、茶師達の研鑽の場となっており、賭博の要素は全くありません。

 

余談 会所

会所と言うのは集会所の事ですが、迎賓館的な役割を持った建物です。30畳以上の大広間を有した建物で、そこで宴会や展示会や茶会を開きました。

展示会と言うのは館の主が蒐集した美術品を展示して、賓客のご覧に供して持て成すものです。それだけでは無く、実は、闘茶の賭け物を並べる場所でもありました。

壁際に屏風を一面に並べ立て、その前に長板や卓を置き、その長板や卓の上に蒐集品を置いて鑑賞します。この頃は未だ床の間の概念が無く、壁に沿ってずらりと展示物を並べました。なお当時の部屋は、畳敷きではなく、板敷きでした。

 

余談  金糸花(=堆朱(ついしゅ))の盆

堆朱とは、中国で作られた漆の工芸品です。朱漆を何層にも塗り重ね、乾いてから漆の層を活かして彫刻し、文様を彫り出したものです。黒漆で彫漆した堆黒(ついこく)と言うのも有ります。鎌倉彫は堆朱を真似たもので、文様を彫った木地に朱漆を塗って作ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

76 室町文化(3) 婆娑羅(バサラ)

昔々、天竺の国にたくさんの神々がいらっしゃいました。

或る時、神々の王・インドラが、凶暴で邪悪な蛇神を斃そうと ブラフマー(創造神)に相談しました。すると、ブラフマーは、ダディーチャという光り輝く聖人の骨で棍棒を作り、それで打ち砕けば良いと教えてくれました。インドラはその聖人の下に行って訳を話し、あなたの骨が欲しいのですがと申し出ると、聖人は快く引き受けて息を引き取りました。インドラは聖人の骨を工芸の神に託してヴァジュラの杵(金剛杵(こんごうしょ))を作り、それで邪悪な蛇を撃ち殺してしまいました。

この世のあらゆる物の中で最高に硬く、光り輝くというヴァジュラ(婆娑羅(ばさら))は、金剛、つまりダイヤモンドの事です。インドラが手にしている金剛杵は雷撃を発し、あらゆるものを打ち砕きます。仏教ではインドラは帝釈天ブラフマー梵天と置き換えられています。

南北朝時代になると、既成の概念や制度を打ち壊したり、破天荒な振る舞いや身形(みなり)をする者達をバサラと呼ぶようになりました。

 

佐々木道誉(ささきどうよ)

南北朝時代から室町時代にバサラ大名と呼ばれる大名が現れました。その中でも代表的なバサラ大名は、何と言っても佐々木道誉でしょう。道誉は茶道、香道連歌、立花などの達人であり、近江猿楽や芸能の保護を行なった一流の文化人で、しかも室町幕府の陰の立役者でした。

逸話その一 妙法院焼き打ち事件

1340年10月6日佐々木道誉門跡寺院妙法院を焼き打ちにしてしまいます。

事の次第はこうです。妙法院に見事な紅葉を目にした道誉、活花に丁度良いと思い、郎党に命じて紅葉の枝を折らせました。ところが郎党は僧兵に見つかり散々に殴られてしまいます。それを怒った道誉、兵を率いて妙法院を襲撃して寺の伽藍を焼き払ってしまいます。妙法院天台宗比叡山の傘下。宗門が朝廷や幕府に道誉の厳罰を求めます。

幕府は、事態を穏便に済ませる為、道誉を上総の地に流刑にします。さて、道誉は上総の守護職。道誉にとって上総流刑は自宅に帰る様なものです。彼は比叡山の神獣・猿の毛皮を腰に当て、着飾った若衆を数百人も従えて配流地へ向かったとか。宿場に着く度に遊女を総揚げし、そのド派手さに誰もがびっくりしたそうです。

逸話その二 花見争い

道誉は、足利政権実力者・斯波高経(しばたかつね)と花見争いをしました。

発端は佐々木道誉が五条橋の建設を担ったのですが、工事が遅れたので斯波高経が代わりに完成させてしまったのです。道誉の面目丸潰れ。意趣返しに道誉は、将軍邸で高経が仕切って行う花見の宴に出席の返事を出して置きながら、同日、別の場所で花見の会を催します。勿論、将軍邸の花見はドタキャン。道誉は洛中洛外の芸能人を集め、茶会を開き、高価な香木を惜し気もなく炷(た)き、桜の樹の根回りに花瓶に見立てた石を置き、見事な立花を演出。堂上人や有名人をわんさか招いて大賑わいの花見をしたそうです。道誉は高経から見事に一本取りました。その後、道誉は斯波高経をそのポストから追い落としてしまいます。

逸話その三 楠木正儀(くすのきまさのり)とのお持て成し合戦

1361年南北朝の戦いが激しさを増している時、道誉は、南朝方に攻められて京都を退却しました。退却に際して道誉は、自分の館を占領するのは名のある武将に違いないと考え、邸内を立派に整え、花を飾り、酒など宴の用意をしました。そして「敵将が来たらこの酒で持て成す様に」と留守の者に命じました。

その屋敷に入ったのが南朝の大将・楠木正儀でした。正儀は道誉の振る舞いに感じ入って略奪と焼き打ちを禁じ、道誉の持て成しの返礼に、酒と肴を用意し、見事な鎧と太刀一振りを置いて、去って行ったと伝わっています。

 

高師直(こうのもろなお)

高師直の名前は正式には高階師直(たかしなもろなお)と言います。

彼は武名の誉れ高い武将にして優秀な執政官、機を見るに敏であり、急進的な改革者です。彼は、室町幕府を合計15年間に渡って支え、法を整備した名執事です。

逸話その一 好色漢師直

師直は好色漢で、二条兼基の娘を盗み出して子を孕ませました。その子が高師夏です。

師夏は観応の擾乱の時、父・師直と共に殺害されてしまいます。

その他に師直には幾つも浮名が有りますが、塩谷高貞の妻に横恋慕し、吉田兼好(徒然草作者)に恋文を書かせて送った所、拒絶されたとか。師直はこれを恨み、塩谷高貞を謀反人に仕立て上げ、塩谷一族を滅亡に追い込みました。この話は忠臣蔵の話に仮託されています。

逸話その二 神仏無視

1338年7月5日深夜、師直は、南朝方の立て籠もった石清水八幡宮に対して一か月の攻防戦をした後、全堂宇に火を放ち、焼亡させてしまいます。この八幡宮が、清和源氏氏神の八幡様を祀っている聖域で有る事を思えば、あり得ない暴挙です。彼はそれに頓着せず、勝つ為なら何でもしました。

1348年1月26日南朝の吉野にある後醍醐天皇の行宮(あんぐう)を、師直は焼き打ちします。その際、金峰山寺蔵王堂にも火を掛け全焼させてしまいます。

師直が定めた法で「分捕切捨(ぶんどりきりすて)の法」にも合理性が現れています。

それは敵の首を取ったら誰かの証人が居て証明してくれれば、首をその場に討ち捨てても良い、という制度です。これより以前は、取った首を戦奉行に見せて戦功を記録してもらう迄持ち歩いていました。それは全くのお荷物です。肩に背負うか腰にぶら下げるか手に持つか、郎党に持たせるか・・・これでは満足に戦う事など出来ません。これを改善したので戦の効率化が図られました。

高師直は、足利幕府の基礎を築いた功労者ですが、敵も多く、結局観応の擾乱の時に一族皆殺しにされてしまいました。(68南北朝(2) 観応の擾乱 参照)

 

土岐頼遠(ときよりとお)

土岐頼遠北朝方で戦った歴戦の武将で、幕府軍勝利に大いに貢献しました。特に、青野原(関ケ原近く)で北畠顕家と戦って相手にかなりの痛手を与え、戦局の流れを幕府軍有利に変えた事は、特筆されるべきです。

1342年9月6日、頼遠が笠懸に興じた帰り道、光厳上皇の牛車に出会いました。普通ならば君臣の礼を取り、下馬して畏まらなければならないのですが、酔った勢いで彼はそれをしませんでした。上皇の供の者が「無礼者、院の御車であるぞ」と非礼を糺すと、「院と言うたか、犬と言うたか? 犬ならば射落してやろう!」と配下と共に牛車を取り囲み、散々に矢を射かけました。光厳上皇室町幕府成立の寄る辺となった大恩ある上皇様です。幕府は烈火の如く怒り、土岐頼遠を捕縛し、六条河原で斬首してしまいました。

なお幕府は、頼遠一人の罪に留め、土岐家の存続は認めました。

 

余談  佐々木道誉

佐々木道誉の「道誉」は法名です。出家の前は佐々木高氏と名乗っていました。佐々木家は近江に勢力を持ち、高氏は佐々木家の分家の京極家に生まれました。初め京極高氏でしたが、後に、佐々木家に養子に入り、佐々木高氏と名乗る様になりました。

 

余談  バサラの巨魁

バサラ大名の代表的な人物を紹介しましたが、彼等よりもっと巨大なバサラが居ます。巨大過ぎて目に入らない人物、それは後醍醐天皇その人です。と、婆は思います。

武家社会を打ち砕こうとし、体制の改革を志しました。それが旧来に戻す改革であったとしても、日本中を戦乱に巻き込んだ人。諸芸に通じ最高の文化人にして最高の権力者。彼はインドラの金剛杵を握って雷撃を放った人物です。

後醍醐天皇肖像画をよく見ると、右手に真言宗の法具・金剛杵を握り、そのお姿は唐の皇帝の服、冠の上に冠を重ね、空海の袈裟を掛け、まさにバサラのファッション・コーディネートそのものです。

 

 ご挨拶

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨年中はご愛読下さいましてありがとうございました。

今年も牛歩の歩みで参りたいと思いますので

よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

75 室町文化(2) 世阿弥

演劇論

大仰な身振りで、一丁先まで聞こえる様に泣き喚き、如何にも悲劇の真っ只中にあると言わんばかりの、そんな大根役者は願い下げです。また、激情のままに「聞いてくれ!俺の気持ちを」と騒音を撒き散らしながら歌う今時の歌手も、婆は苦手です。

彼等は自分の感情に溺れています。溺れたままの様子を見せれば、観る人はその感動をそっくりそのまま受け取ってくれると勘違いしているようです。演劇や音楽はそういうものではありません。却って、気分が離れて行くものです。勝手に自分自身に溺れていればいいと。

喜劇の場合、華やかな演出や過剰な身振りは祝祭的な彩を添える手段ですが、悲劇性を帯びたものは、出来る限り抑制して演じた方が、より深い悲しみを表出できます。

『秘する花を知ること。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず、となり』

世阿弥の著した『風姿花伝』の言葉です。「秘する」を「隠す」と捉え、隠したものが現れた時の驚きや喜びが「花」である、と解釈する向きがあります。婆は「秘する」は抑制する事だと思います。抑制した感情と抑制した動きが、観客の心の中に真の花を浮かび上がらせるのだと思います。それでなくて、どうして最も感情が現れ易い顔を、面で覆うのでしょう。この世の者ではない「霊」の化身を面で現わすと共に、面は剥き出しの人間の生々しさを押さえる為のものではないかと、思うのですが・・・

能面をよくよく見ると、鼻を中心線にして右側に憂いがあり、左側が晴れやかに見えます。左右非対称に彫られている様に、婆には見えます。気のせいかも知れません。が、それも能の幽玄さを誘う工夫ではないかと、思えてきます。

風姿花伝』は世阿弥が、父・観阿弥の教えをまとめ、自身の考えも述べながら、子孫の為に芸の神髄を伝えようとしたものです。

 

阿弥衆(あみしゅう)・同朋衆(どうぼうしゅう)

世阿弥の「阿弥」は阿弥陀仏の略で、一遍上人の興した時宗の僧侶を意味しています。
「信不信を選ばず、浄不浄を選ばす」南無阿弥陀仏の念仏を唱えれば誰でも極楽往生できると説く一遍上人の教えは、多くの信者を集めました。何時いかなる時もこの一瞬を常に臨終の時と心得て念仏する「臨命終時衆」の時宗は、一遍が言う通り「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなる嬉しさなのだ」と僧も尼僧も踊り狂い、練り歩き、遊行する教団でした。

時宗教団の者は室町幕府から通行自由の許可を受けていましたので、関所などを自由に往来出来ました。また、南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも教団に入れました。有髪でも剃髪でも「阿弥」を名乗れました。通行自由の便から、旅芸人など田楽や猿楽などに携わる人々は「阿弥」を名乗る人が多くいます。芸能ばかりでなく、茶の湯、作庭家、連歌師、鑑定家、能面師、華道家などの中でも、結構「○阿弥」と言っています。

阿弥衆は、時には戦陣に加わる事もありました。戦地慰問の様なものでしょうか。兵士達を慰め、夜伽などにも応じた彼等は、僧侶の側面も持っていましたので、戦死者の弔いなどもしました。足利幕府の執事の細川頼之は、6人の僧形の阿弥衆を将軍に薦め、将軍の身の回りの世話や話し相手、夜伽などをさせました。阿弥衆を同朋衆とも言うのは、将軍のお傍に仕える美少年達の童坊衆から来ていると言われています。

足利義政の代には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥などが出て、唐物・唐絵などの目利きや書院飾りの様式を定めたり、東山御物の制定にも深く関わりました。

 

世阿弥(ぜあみ)

世阿弥の本名は観世三郎元清と言います。世阿弥の生没年ははっきりしていません。多分1363年頃に生まれたと言われています。世阿弥の父・観阿弥は大和猿楽四座の内の結崎座(ゆうざきざ)に所属する猿楽師でした。

世阿弥の幼名は鬼夜叉です。彼は、幼い時から父の英才教育を受けていましたが、やがて、父の観阿弥は大和から京の都に進出し、京都で興行すると大層評判になりました。

熊野神社で開いた猿楽能を将軍・足利義満が見物した時、少年鬼夜叉の類稀な美しさに惚れ、以来観阿弥世阿弥共々、義満の庇護を受ける様になりました。また、時の関白・二条良基からは「藤若」の名を賜りました。

足利義満の寵童になった藤若。義満は夜伽に片時も藤若を手放さず、公式の席にも傍らに侍らせて、公家達の批判を浴びています。芸能を売る阿弥衆は当時、川原乞食として低い地位に見られていました。その者が高貴の席に座るなど以ての外でした。眉をひそめる公家が居る一方で、義満に忖度し、藤若を贔屓にする公家も大勢いました。

世阿弥は上流階級の人達に触れ、彼等の教養に学んでいきます。特に歌人にして連歌の大成者・二条良基に学んだ事が大きかったようです。連歌から言葉の選び方、リズムなどを謡曲に生かし、後世に残る曲を沢山作りました。また、自身の容色や評判に奢る事無く研鑽を積み重ね、その頃一世を風靡していた近江猿楽の犬王道阿弥の優れた所を取り入れたりして、自身の改革を行いました。道阿弥の舞の冷え冷えした幽玄さに対して、観世の猿楽は、物真似が多く面白さを狙う風で、幽玄さに些か欠けている所がありました。それを、物語の演劇性や音楽、舞の要素などを三位一体にして典雅な幽玄さを追求して行ったのです。

父・観阿弥没後、二十歳そこそこの世阿弥は一座を背負い、観世大夫となりました。美少年「藤若」も次第に容色が衰えて行き、他の流派の台頭が目立って来ます。1401年、後小松天皇が義満別邸・北山第に行幸された時に演じられた能も、道阿弥が務めました。世阿弥は排除されてしまったのです。

世阿弥は他者の成功を見て世が求めるものを知り、面白能から夢幻能へと舵を切ります。

此の北山第行幸の直ぐ後、足利義満が病死してしまいます。義満の跡を継いだ義持は、父義満との不仲をそのまま行動に表し、父の遺した建物を破却し、趣味も一掃してしまいます。

不断の努力により世阿弥はその名声を保ったものの、義持は田楽の増阿弥を重んじる様になります。

 

後継者問題

世阿弥にはなかなか子が授からず、弟の子を養子にしました。この甥を観世三郎元重、阿弥名は音阿弥(おんあみorおんなみ)と申します。世阿弥は甥を後継者として育てていました。

ところが、間も無く世阿弥に実子が生まれました。この実子が観世元雅です。

世阿弥は迷った挙句、後継者に嫡男の元雅を指名し、観世大夫の座を実子に譲ります。

一方後継者と目されていた甥の音阿弥は、観世太夫の座を従兄弟の元雅に奪われてしまい、独立志向になります。丁度この頃、世阿弥は義満という最大の庇護者を失い、義持に疎んぜられていた時期でした。

音阿弥は青蓮院(しょうれんいん)門跡・義円の寵愛を受けていました。この義円が還俗して足利6代将軍・義教(よしのり)になりましたので、音阿弥は飛ぶ鳥を落とす勢いになります。

足利義教世阿弥と元雅を冷遇し、圧力を掛けます。世阿弥と元雅が仙洞御所で能を演じようとしも妨害されて中止に追い込まれます。世阿弥醍醐寺の楽頭職を追われ、その代りその職に音阿弥が就任します。様々な嫌がらせを受け、元雅はその活躍の場を大和に移します。

元雅は、大和天河大弁財天社で猿楽能を舞います。元雅はこの後、伊勢安濃津(現津市)で殺されてしまいます。原因や理由は分かっていません。世阿弥は元雅の事を「子ながらも類なき達人」と絶賛し「道の秘伝・奥義ことごとく記しつたへつる」と言っており、彼の突然の死は世阿弥を絶望の淵に落としました。この時の悲しみが能「阿漕(あこぎ)」に投影されているらしいと言う話があります。

息子・元雅の突然の死の2年後、世阿弥佐渡流罪になります。流罪の理由は分かりません。その後、世阿弥がどうなったのか、詳しい事は分かっていません。

世阿弥父子が居なくなった後、音阿弥は足利義教の絶大な庇護を受けて猿楽能の発展と隆盛を牽引して行きます。音阿弥は「希代の名人にして当道無双」と評され70年近い生涯を第一人者として活躍します。彼は世阿弥から『風姿花伝』を相伝されています。

彼は観世大夫を名乗り、観世流の三世となりました。

音阿弥は「阿弥」と名乗っていますが、臨済宗に帰依していました。音阿弥の墓は酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺にあります。

もう一人、世阿弥には義理の息子がおります。娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)です。金春禅竹武田氏信と言い、金春流始祖です。世阿弥は禅竹の将来を嘱望しておりました。

彼は世阿弥から「六義(りくぎ)」と「拾玉得花(しゅうぎょくとっか)」の理論書を受けています。世阿弥佐渡に流されていた時には、禅竹は京都に残された世阿弥の妻・寿椿(じゅちん)を扶養しています。そして、佐渡に居る世阿弥にも送金していたそうです。活躍は地味ですが、理論家で、世阿弥能楽の書を更に深めております。また、能の作者として10数曲を遺しております。

 

余談  泣き手の添え手

式正織部流では「泣き手の添え手」或いは単に「添え手」と言う所作があります。

お能の「泣き手」の仕草をそのまま茶の湯に取り入れたもので、お湯を茶碗に注ぐ時や棗や茶入を扱う時は、必ず片手を泣き手の形にして添えます。

 

余談  男色(なんしょく)、衆道(しゅどう) 

男色とか衆道とかをここで取り上げる事に衝撃を持って受け止められる方がいらっしゃるかも知れません。実は、昔の日本ではそれほど秘め事とは思われておらず、むしろ、おおらかで開けっ広げの世界でした。

有名なのは、織田信長森蘭丸の関係です。信長は他にも相手がいて、前田利家などもその内の一人だったと言われています。徳川家光衆道の人でした。衆道と言うのは男色の事ですが、特に武士の間で行われる事を指します。実は当古田家(古田織部の家と区別する為に、当古田家と言わせて頂きます)の中興の祖も、衆道の人だったようです。なかなか子供が生まれないので家臣が心配した、という記録があります。3代目も衆道に溺れたとか。姫には恵まれましたが、男子に恵まれずお家お取り潰しになってしまいました。身内から養子をとった4代目は、家光の小姓になったと伝わっております。

新井白石の著した「藩翰譜」に当古田家が取り上げられており、きつい批判を戴いております。

上は雲上人から下々に至る迄、そういう話は数えるに暇がありません。特に男ばかりの世界、例えば僧侶の世界などでは常識的に行われております。僧侶と稚児の男色関係について、初夜の灌頂(かんじょう)の儀式なども公然と執り行われた程です。

武将と小姓の男色関係は家臣としての当たり前の忠義だけでは無く、肉体関係を持つ事に依ってより濃密な絆で結ばれ、絶対裏切らない関係、主君の為に死を厭わない関係にまで深められる利点が有ります。

紀元前385年、ギリシャの哲学者プラトンが『饗宴』と言う書を著しました。

『饗宴』は愛について話した対話録です。出席者は、ソクラテス、アガトン、アリストファネス・・・と当時の錚々たる哲学者、知識人達です。ディオティマ(女性哲学者にして巫女)も話題の中に登場します。そこで論じられたのは、プラトニックラブ、男女の愛、男の同性愛、少年愛などについてです。

『饗宴』では様々な愛の形を取り上げて議論が進みます。キリスト教などの道徳がヨーロッパを覆う前に、この様に堂々と議論した時代があった事を申し添えます。因みに饗宴はシンポシオンと言われ、今日のシンポジュウムに当たります。

(『饗宴』翻訳:久保勉、岩波文庫(青帯))

 

お知らせ 年末年始について

いつもご愛読ありがとうございます。

年末年始の間、しばらくお休みさせて頂きます。

コロナ禍の折り、くれぐれもご自愛くださいまして、

どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

皆様のご健勝とご多幸を祈り申し上げております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

74 室町文化(1) 庶民の芸能

『(前略)犬田楽ハ関東ノ ホロブル物ㇳ云イナガラ 田楽ハナホハヤルナリ 茶香十炷ノ寄り合イモ 鎌倉釣リニ有鹿ト(後略)』

犬追いものや田楽は 関東を滅ぼしたものと言いながら 田楽は尚流行っています。お茶やお香の寄り合いも、鎌倉と同じ様な有様です(盛んです)。

上記『 』内の一文は、『此比都二ハヤル物。夜討強盗偽綸旨…』の出だしで有名な二条河原の落首の中頃あたりにある文言です。

ここに書かれている様に、当時「田楽」と言う民間芸能が流行っておりました。

 

田楽

田楽は「田」の字が付く事から分かるように、農耕の際に、田の神様をお招きしたり、喜ばせたり、お慰めしたりする時に行われる耕田儀礼の舞踏と音楽です。これは平安時代よりかなり昔から行われてきましたが、神事や仏教と結びついて次第に格式を整え、芸能として発達してきました。そして、見事に舞ったり音楽を奏でたりする人達の一団が、専門集団を作り、寺社などと結びついて田楽座などと言う一座を形成する様になりました。

華やかな衣装をまとい、化粧をし、飾り立てた笠などを被り踊る姿は、見物人達のやんやの喝さいを浴び、お祭りの花形になりました。

鎌倉時代室町時代になると、笛や太鼓や歌に合わせて踊るだけでは無く、そこに物語の要素が加わる様になりました。

足利義持が田楽一座の増阿弥を贔屓にしましたので、田楽能の深化に繋がって行きます。

 

散楽(さんがく)

散楽と言うのを現代で言うと、大道芸に、決まった旋律などが無い当意即妙の音楽が加わったもので、面白おかしい芸能でした。散楽の起源は中央アジア西アジアギリシャにまで辿り着く事が出来ます。ディオニソス(酒の神(ローマではバッカス))の取り巻きのサティロス達が、酒神を先導して楽器を鳴らして歌って踊って騒いでいました。ディオニソスはインドまで遠征しに行ったとか・・・周や漢の時代に火を吹いたり刀を呑んだり、ジャグリングをしたり、奇抜な芸や音楽や踊りを披露していた芸人も、もしかしてディオニソスの末裔かも知れません。

東大寺大仏開眼供養会には、唐人による唐や新羅の音楽や踊りを聖武天皇がごらんになったと、続日本書紀の記録にあるそうです。天平時代には雅楽寮に散楽戸が置かれましたが、余りにも猥雑なので散楽戸は廃止されました。散楽を演じていた者達は庶民の間に入って行き、田楽や猿楽に吸収されて行きます。

 

猿楽(さるがく)・申学(さるがく)

世阿弥が「風姿花伝」の中で言うには、聖徳太子が「神楽」と言う文字の示す偏を取って「申」という字にしたとの事です。が、どうやらそれは歴史的には誤りの様です。

散楽=猿楽が朝廷の保護から外れた事に依り、演者達は寺社や街角などで芸を披露する様になります。

鎌倉から室町に掛けて、申学の中に翁猿楽が現れます。翁猿楽は寺社などで演じられる申楽の一つで、天下泰平五穀豊穣や延命を願う儀式の舞です。面を付け、舞を舞う人と、歌や音楽を奏でる人が居ます。翁猿楽は能の原形と言われています。

翁猿楽の三番叟(さんばそう)は神事の祝いの舞で、演者は精進潔斎をして臨むそうです。これは三つの構成要素からなっています。

まず面を付けないで舞う千載(露払い)の後、黒い翁の面を付けて天下の安寧と五穀豊穣を祈って舞い、三番は揉みの段と鈴の段を舞います。揉みの段は種蒔き、鈴の段は幾つも付いた鈴を稲の穂に見立てて舞う、と聞いたことがあります。

 

伎楽

推古天皇の時、百済の人が伎楽舞を伝えました。伎楽は儀典楽として、仏教行事や宮廷の外国使節歓迎式などで演じられました。

伎楽の面は木彫か、乾漆で造られています。頭からすっぽり被るので、木製の物はさぞかし重かったことでしょう。現代の獅子舞の中にその片鱗を見る事が出来ます。

やがて伎楽が廃れる様になり、伎楽面が作られない様になりますが、その代り、顔の前だけを覆う面が作られる様になります。能面の始まりです。

東大寺昭和大修理落慶法要に際し、古代の伎楽が復元されました。

呉王、金剛、迦楼羅(かるら)、呉女、崑崙(くろん)、力士、バラモン、大孤(たいこ)、酔胡(すいこ)、等が練り歩き、面白おかしく物語をパントマイムで演技しながら落慶を寿ぐ様子が、テレビで放映されました。

 

念仏踊り

念仏踊り菅原道真が活躍していた頃、讃岐で始まった雨乞いの踊りがその起源とされています。

或る時、法然上人が上皇の怒りを買い、讃岐に流罪になりました。法然上人、この時75歳。彼は四国を布教して回り、雨乞いの踊りに接しました。それにヒントを得て、念仏踊りを始めました。法然念仏踊りは、歌い手と踊り手が別々です。

空也上人はそれを更に工夫して、歌いながら踊る「踊り念仏」を始めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

頼朝は芸術音痴?

源頼朝と言う男は芸術を全く理解しない朴念仁だそうだ、と京雀に嗤われたのは、東大寺大仏殿落慶の後でした。

平氏によって焼亡した大仏殿を、源氏の手によって復興しようと頼朝は決心し、東大寺復興にかなりの資金援助を提供しています。

大旦那である頼朝が大仏復興落慶式の為に上洛した折り、後白河院は頼朝を労って「蓮華王院宝蔵の絵」を下賜しました。頼朝はその賜わり物を開けもしないで、そのまま院にお返ししたそうです。

源氏として当然の事をしたまで、と思ったのか、朝廷の買収を警戒して武家の矜持を示したのか、それとも本当に朴念仁だったのか分かりませんが、院も都人も、頼朝の行動を見て芸術を理解しない奴だと決めつけて、上記の様に蔑んだのです。

都人は坂東武者を未開の野蛮人ぐらいにしか見ておりません。文化度の低さ故に馬鹿にし、武力を持った犬くらいの認識で、公家達が政争の道具に使っていました。

 

京への反発と憧憬

頼朝が武家政権を確立して本拠地を鎌倉に構えたのも、そういう立場を抜け出す為の手段でした。京都には近づくまい、権力の伏魔殿から距離を置く、その上で、彼等を凌駕して行こう、と。

彼は守護・地頭を、公家達の荘園に送り込み、その経済的地盤を侵食して行きます。

武力を養い、経済的基盤を得、組織力を高める、それが鎌倉幕府の基本方針だったように見受けます。

とは言っても、武家政権の政庁や将軍御所の建物は、鎌倉幕府室町幕府寝殿造りで造られていました。当時の侍の住居では武家造りが普及していましたが、立派なものは寝殿造りで、と言う憧れにも似た固定観念があり、そこから抜け出せなかったのでしょう。

 

鎌倉歌壇

歌人将軍・実朝や京都から宮将軍を迎える様になると、次第に公家文化が武士達にも浸透して行き、歌壇が栄えてきます。武将達も勅撰和歌集に入集する様になります。

古今集以後、本歌取や枕詞、掛詞など技巧に走る歌が増えてきますが、侍達の歌は概して率直です。

 

慶派隆盛と造仏活動の低迷

東大寺復興と共に南都の仏師達が京仏師にも増して勢いづきます。武家関与の東大寺の造仏活動は、運慶快慶の様な力強い造形を生み出しました。また、比叡山を中心とした旧来の仏教に対して、新興宗教である禅宗が武士達の心を捉えました。

一方、他の宗派が仏像信仰から念仏信仰に移り変わって行くと、造仏活動は低迷し始めます。仏像造りは僧籍の仏師が担っていましたが、やがて職業彫刻家なども現れてきて型紙を基に作り始め類型化して行きます。

それとは別に、石刻などが始まります。宝篋印塔(ほうきょういんとう)五輪塔、或いは野仏などの素朴な彫刻が生み出されてきます。

石の彫刻などが作られるようになったのは、東大寺大仏殿再建に負うところが大です。

と言うのも、再建に当たって宋から多くの石工が渡ってきました。大仏殿の基壇などを造る為の石を刻む技術などが、供に働く日本人にも伝わり、広がっていたのです。

 

禅宗

鎌倉や室町の時代の武士にとって「死」は観念的な「死」ではなく現実でした。彼等は常に死地に投げ入れられる存在であって、生涯を全うするのが難しい存在でした。

武功があっても疑われれば誅伐の対象になり、権勢は嫉妬を呼んで讒訴の餌食となって一族滅亡の危機に晒されます。剣光一閃の下に生きる彼等は、既存の宗教では救われない何かを、禅宗に求めたのでした。

禅は又、公家衆が誇る文化に対峙し得る新しい世界でもありました。

禅宗寺院での茶礼が茶の湯に発展し、供花が活花に、禅寺での礼法の規則「清規(しんぎ)を範にして武家礼法が編み出されます。弓馬術礼法が生まれたのもこの頃でした。

我等は荒くれ武者ではないぞ、と言うアピールです。

 

京文化への接近

初期の足利政権は独自の軍事力を持ちませんでした。義満の代になって奉公衆と言う将軍直属の軍隊を持つ様になり、強い権力を持つ様になりました。

幕府の本拠地が京都に据えられた事に依って、将軍御所の生活が京風になって行きます。武家棟梁の京風化は、精神的にも物質的にも武家社会に変化をもたらし、公家文化と武家の方式の融合が始まります。

尤も、そうなる前にその兆候は見られました。戦火の京都を避けて地方に下った公家達や、地方から都にやって来た侍達が京都の水に馴染んだりして、文化の攪拌が既に起きていました。

 

美術品への目覚め

南宋貿易や、天竜寺建立の為の資金調達で始まった天龍寺交易船で、大量の宋銭が日本に入って来て、国内に流通し始めます。更に、義満の代に勘合貿易が盛んになると、なお一層明の財物が輸入されるようになります。それまで、美術品などの価値に見向きもしなかった武士達が、美術品の値打ちに気付きます。

佐々木道誉などは、目の玉が飛び出るくらいの高価な宋や明の文物を並べて闘茶の賭け物にした、と伝わっています。

茶の湯の原点はこの頃に在ります。式正織部流は安土桃山時代に創始された茶の湯の流派ですが、侘茶以前の風を残しています。真台子(しんのだいす)の真点てでは唐金皆具(からかねかいぐ)の道具立てで、天目茶碗を使って行います。

 

 

余談  茶の湯の皆具(かいぐ)

 茶の湯に於いて皆具と言う時、水指、杓立、蓋置、建水などの使うお道具がすべて同じ材質、同じ意匠で統一された物を指します。

水指(みずさし)   清潔で綺麗な水を入れて置く器

杓立(しゃくたて)  一輪挿しの様な形をした物で、柄杓を挿し入れて置く物

蓋置(ふたおき)   お釜の蓋を置く物

建水(けんすい)   汚れた水を捨てる器