式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

72 室町時代(1) 義詮と義満

足利義詮

室町幕府2代将軍・足利義詮と、その息子の義満は育ち方がまるで違います。

義詮は幼い時から戦争に揉まれ、義満は乳母日傘で育ちました。

義詮は、元弘の乱の時に北条氏の人質として鎌倉に留め置かれました。父の尊氏が鎌倉に謀反すると、命の危険に晒され母と共に危うく脱出します。(異母兄の竹若丸は殺されています。)

そして、4歳にして父尊氏の名代として新田義貞と共に戦場に身を投じます。建武の新政の時は、叔父・直義(ただよし)と一緒に鎌倉に在して政務を行い、中先代の乱では北条時行に敗れた直義と共に鎌倉を脱出、京都から救援に来た父に助けられます。

南朝北朝の騒乱が激しくなり、1337年、陸奥将軍・北畠顕家が10万の大軍を率いて上洛した際には、鎌倉は蹴散らされ、8歳の義詮は重臣達と共に房総方面へ逃げます。

観応の擾乱で直義が失脚すると、行政が不得意な父・尊氏に代わり、20歳で幕府の政務に携わります。が、その後、京都市街戦などでは肝心の上皇天皇南朝に奪われたりして、何回も南朝方に撃破されています。義詮はどうも戦が苦手なようです。

当時の戦い方

当時の戦い方は、先ず騎射戦。それから騎馬戦。馬上で薙刀を振り回して敵との距離を取りつつ薙ぎ倒していく、それから太刀もその長さを利用して辺りを切り払って行きます。脇差や短刀は、相手を落馬させてから、首を取る為の道具。この時代の戦い方は、婆がイメージしているチャンバラとは大分違います。

敵の楠木正儀(まさのり)の戦法は市街戦の時、兵を屋根に配置して上から矢を射かけ、路上では槍衾で相手を追い詰めたとか。正儀は兵站や調略も重視していました。その土地を占領しても兵站に不利と見れば、彼はさっさと退却してしまいます。その戦いぶりに義詮は感心していて、正儀を尊敬していたようです。

義詮は、生まれながらにして戦いの洗礼を受け、生涯戦争に関わり続け、戦に明け暮れましたが、幸いな事に畳の上で死ぬ事が出来ました。38歳でした。

 

足利義満

3代目・足利義満は、初代尊氏没後100日目に生まれた孫で、義詮の庶長子です。

義詮嫡嗣子は夭折。庶子の義満が家督相続者と目されて育ちました。生まれた頃、観応の擾乱で世の中が騒がしく、その後の南北朝の騒乱が打ち続く中、家臣に守られて建仁寺に避難、そこから赤松則祐(そくゆう)の居城・播磨白幡城に移り、そこで養育されました。更に、管領・斯波(しば)義将の手で養育されます。貞治(じょうじ)の乱で斯波氏が失脚すると、次の管領細川頼之に守られて育ちます。

義満9歳の時、後光厳天皇より「義満」の名前を賜り、10歳の時に病床の父・義詮より家督を譲られ、11歳の時元服。12歳の時、征夷大将軍に任じられます。(年齢は数え年で書いております。)

父の義詮が幼少より軍馬を駆って戦争に明け暮れていたのとは大違いで、義満は戦争の実体験をしないまま育ちました。彼は、祖父・尊氏と父・義詮が固めた地盤の上に乗って、管領細川頼之の宜しき補佐を得て、政務をこなして行きました。

帝王学

武家棟梁としての戦場での経験は少ないですが、その代わり、細川頼之やお傍に仕える重臣達によって帝王学を身に着けて行きます。

帝王学」と言っても、中身に拠ります。

仁徳を学び民に思いを致すのも帝王学ならば、唯我独尊の我儘で、権力の上に立って人を支配する方法を学ぶ、それも亜流の帝王学です。(覇王学と呼ぶべきでしょうか)

大内義弘が書いた難太平記に義満を評して、こうあります。

『今御所の御沙汰の様、見及び申す如くは、よはきものは罪少なかれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり』

今の将軍様を見ていると、弱い者が犯した罪は小さくても酷く罰せられ、強いものが犯した罪は、上様のご意志に逆らっても罰せられない、これはみんなが知っている事である。と言う意味です。簡単に言えば、弱きをくじき強を助ける、ですね。

守護の粛清

彼は幕府の権威を高める為、守護内部の家督相続の争いを利用して双方の勢いを削ぎ、弱体化させて行きます。時には、争いの種をわざわざ作って双方の間に投げ入れ、自滅させてしまうと言う方法も使ったりしました。

土岐氏尾張・伊勢・美濃を持っていましたが、内紛によって美濃一国に減らされてしまいました。山名氏は日本66ヵ国の内11ヵ国を持っていましたが、3ヵ国になってしまいました。大内氏もこの策に嵌って衰退してしまいます。

天皇になりたかった?

足利家は平清盛の様に、天皇家にも婚姻によって近づき、公家社会に根を降ろし、枝を張って行きます。

義満の義理の叔父に後光厳上皇がおり、後円融天皇は義理の従兄弟です。

義満は自分の息子・頼嗣を溺愛し、彼の元服式を内裏の清涼殿で行います。加冠役は内大臣二条満基伏見宮貞成親王「椿葉記」には親王元服の準拠』と書かれています。

跡取りの義持はこれを面白く思う筈はありません。衆目は義嗣様こそ次の将軍ではと、早とちりする者も出てきます。

その頃、義満は朝廷に、自分に太政天皇の尊号を贈るように要求しています。それを義持は、恐れ多い事だと、辞退しています。義満と義持の父子は犬猿の中でした。

義満は明国に、自分の事を「日本国王」と認めさせ、勘合貿易を始めます。

義満の建てた北山別荘(鹿苑寺)の金閣について、或る研究者が言っております。

金閣は義満の野望の象徴だと。1階が寝殿造り、2階が武家造り、3階が禅風造りで、屋根に鳳凰。という事は、公家の上に武家があり、武家の上に禅があり、3階の禅堂で座禅する義満の頭上に天皇を象徴する鳳凰が止まるように造られている、と。それは、義満が天皇の位を狙っていた証ではないか、と言う推測です。

1408年(応永15年)5月31日、51歳で義満が薨去しました。

その8年後の1416年、正2位まで上り詰めた義嗣は突然出奔し、出家してしまいます。そして、1418年1月24日、殺害されてしまいます。

4代将軍になった義持は、鹿苑寺を、舎利殿を除いて解体し、南禅寺建仁寺に移築してしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

71 南北朝時代の年表

南北朝時代と言うのは、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた事に依り、京都の朝廷と二つに割れた1336年から、明徳の和約で南北合一する1392年までの57年間を指しますが、実際にはそれより3年前の建武の新政から数えた方が、時代区分としては分かり易い様な気がします。と言うのも、南北朝時代の主役の一人・足利尊氏が、次の時代を開いた牽引役でもあるからです。

そこで、これ迄書いて来た南北朝時代の総括を兼ねて、主だった事柄を、取り敢えず足利義満までを年表(西暦年表)にしてみたいと思います。

年表

1331年   元弘の乱後醍醐天皇挙兵

   9月  楠木正成後醍醐天皇に与し、赤坂城で戦うも落城す。

1332年   後醍醐天皇隠岐に配流さる。

       楠木正成、赤坂城奪還。

1333年2月   後醍醐天皇隠岐を脱出。伯耆国船上山に陣を敷く。  

   2月~5月、千早城の戦い楠木正成勝利。

   5月7日、足利連合軍、六波羅探題を攻め落とす。

   5月22日、新田義貞鎌倉幕府を滅ぼす。

           6月   後醍醐天皇、京都に戻る。光厳天皇が廃される。

                       旧領回復令、寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令を発布

   7月  諸国平均安堵令発布。恩賞方と武者所を設置。叙任・除目を行う。

      年内に雑訴決断所拡充。陸奥将軍府鎌倉将軍府を設置。

1334年1月  元号を、元弘から建武改元

1335年7月  中先代の乱。鎌倉、北条時行に襲われ陥落。

   8月  足利尊氏、弟・直義救援の為鎌倉へ出陣し鎌倉奪還。

    11月  後醍醐天皇足利尊氏追討令を新田義貞に下す

       矢作川の合戦と手越河原の合戦で新田軍勝利。

       箱根・竹之下合戦で足利軍勝利。

1336年1月    足利軍京都入り、後醍醐天皇比叡山延暦寺に避難。

         足利軍と南朝軍が京都で激突。足利軍敗北し九州へ逃げる。

   2月29日、光厳上皇元号を延元と改元。   

   3月     九州多々良浜の戦いで足利軍勝利。

   5月     新田義貞後醍醐天皇による足利追討令を受けて、九州へ出動。  

         光厳上皇から足利尊氏に新田軍追討令が届く。

   5月25日、湊川合戦。足利軍勝利。楠木正成自害。

   5月27日、後醍醐天皇三種の神器を持って比叡山に避難。

   5月29日、足利軍、京都占拠。

   6月   尊氏、光厳上皇を奉じて東寺に入る。

   8月   光厳上皇院宣により豊仁(とよひとorゆたひと)親王を即位させる。

          →光明天皇

    10月9日、足利尊氏後醍醐天皇との間に和睦成る

       新田義貞恒良親王尊良親王を奉じて北陸道へ走る。

   11月2日、三種の神器後醍醐天皇より光明天皇に渡る。

          足利尊氏建武式目を制定・

   12月21日、後醍醐天皇、京都から吉野へ脱出。南朝樹立。

1337年 3月 5日、 金ケ崎城陥落。足利軍vs新田軍。新田軍敗北。

1338年 6月      北畠顕家、堺浦石津合戦で討死。

     8月11日、足利尊氏光明天皇より征夷大将軍に任命さる。

1339年     後醍醐天皇崩御南朝後村上天皇即位。

1350年10月   観応の擾乱勃発足利直冬九州で挙兵。足利直義、大和で決起。

        光厳上皇、直義追討令発令。直義、南朝に寝返る。

1351年11月   正平一統足利尊氏南朝と和議し、三種の神器南朝に返還

        南朝後村上天皇足利尊氏征夷大将軍を罷免。

        代わりに宗良親王征夷大将軍に任ず。

1352年     尊氏、直義軍を破って直義を鎌倉に幽閉す。

        南朝宗良親王、鎌倉を攻める。

        南朝方敗北。北条時行処刑。宗良親王など信濃や越後に落ちる。

        第一次、第二次、第三次と南朝北朝、京都で入り乱れて合戦。

1355年2月    神南(こいない)の戦いで尊氏、近江に退却。南朝京都を占拠。

   3月    尊氏、京都攻撃、南朝京都を撤退。

1358年4月   足利尊氏薨去

   12月     足利義詮征夷大将軍になる。

1361年       細川清氏楠木正儀、京都を占拠するも、一か月で退去。

1362年       義詮、斯波義将管領に任命。

1365年       義詮、評定衆引付衆を縮小し、将軍権限の拡大を図る。

1367年         義詮、斯波氏失脚の後、細川頼之管領に任命。

   12月7日、義詮薨去

1368年 4月15日、足利義満元服

1369年12月30日、足利義満征夷大将軍になる。義満この時12歳。

1378年       義満、幕府を室町に移す。

 

南北朝の騒乱は60年も続き、多くの英傑・逸材が斃れました。

時代の濁流は地層の下を削り取り、巻き上げ、新しい活気も生み出しました。

奈良・平安時代を文化の抱卵期とすれば、足利尊氏が開いた室町時代は、日本文化の育雛期でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

70 南北朝(4) 明徳の和約

前項の「南北朝(3)」の「正平一統・和平の兆し」で、楠木正儀北朝に寝返ったと述べましたが、そこに至る迄の間に様々な紆余曲折がありました。

 

南朝後村上天皇即位

延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)後醍醐天皇崩御されました。

後醍醐天皇の跡を、後醍醐天皇の側室・阿野廉子(あのれんしorあのかどこ)が生んだ皇子で第七皇子の義良(よしなが)親王が即位し、後村上天皇となりました。

後村上天皇は、南朝こそ正しい皇統であると主張している主戦派の天皇でした。お上がそうですから、南朝では主戦派が占める様になり、楠木正儀の様に和平を模索する者は次第に孤立して行きました。けれども、南朝の劣勢は隠しようもなく、後村上天皇も次第に柔軟になり、宥和に傾いて行きます。

正平20年/貞治4年(1365年)頃から和平交渉が始まります。この交渉は断続的に続けられ、あともう少しで合意に至ると言うところまでこぎつけました。

正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日)足利義詮薨去します。

正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)後村上天皇崩御されます。

正平23年/応安元年3月南朝長慶天皇が即位します。長慶天皇主戦論者でした。

これ以後、25年間、南朝北朝の間で和平交渉は開かれませんでした。

 

正儀、北朝に降る

長慶天皇は摂津の住吉に行宮を定めますが、河内天野の金剛寺(現大阪府河内長野市)に移ります。正儀は尚も和平の努力をしますが、再び南朝の中で孤立し、冷遇される様になりました。

楠木正儀北朝管領細川頼之の誘いを受け、幕府に帰順しました。幕府は楠木正儀を歓迎し、破格の待遇をしました。

建徳元年/応安3年(1370年)楠木正儀の居城・河内国瓜破(うりわり)城が南朝に攻撃されます。幕府は正義に援軍を送り、南軍を打ち破り勝利します。

文中元年/応安5年(1372年)8月、九州に居た南朝勢が幕府軍に攻められ太宰府が陥落し、懐良(かねよし)親王が落ち延びます。

文中2年/応安6年(1373年)幕府軍は正儀はじめ細川氏、赤松氏などが南朝方の河内天野の金剛寺を攻め、陥落させます。南朝方は敗退し、吉野へ逃れます。

この様に、南朝方は次々と敗北を重ね、ついには反撃の力さえ失ってしまいました。

 

正儀、南朝に帰る

管領細川頼之の配慮で破格の厚遇を受けた正儀でしたが、幕府内にはそれを面白く思わない者もいました。また、橋本正督と言う者が南朝北朝を何度もクルクルと寝返りをして幕府を手古摺らせていたのですが、それの対処で細川頼之が失脚してしまい(暦応の政変)、正儀も幕府内に居難くなりました。正儀は南朝に戻る事にしました。

 

和平交渉本格化

南朝強硬派の長慶天皇にすっかり勢いがなくなり、和平への機運が高まってきました。

長慶天皇は穏健派の弟へ皇位を譲りました。この方が後亀山天皇です。

ここ迄根回しをしてきた正義は、和約を見届ける事無く亡くなりました。

 

明徳の和約

さて、この様にして和議に至ったのですが、問題がありました。

実は、この交渉は南朝足利義満との間で行われていて、北朝方は蚊帳の外だったのです。

和約の条件は

1, 三種の神器の引き渡し  2, 両統迭立(てつりつ)  3, 国衙領(こくがりょう)を大覚寺統の領地にする(国衙領とは国有地の事)  4, 長講堂領を持明院統の領地にする

と言うものでした。

すったもんだの末に、幕府が無理矢理に形を整え、三種の神器の受け渡しを大覚寺で行いました。

明徳3年/元中9年閏10月2日(1392年11月19日)後亀山天皇大覚寺に着き、その3日後に、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種の神器が、北朝後小松天皇に渡されました。

 

 

余談  皇統

皇統は万世一系と言う考え方が有ります。これは正嫡正流という考え方です。

もう一つ、人徳が優れている者が天皇になる、という考え方が有ります。

更に、三種の神器を持った者が天皇である、と言う考え方も有ります。

後醍醐天皇は正嫡正流ではありません。彼は後二条天皇異母弟で、庶子です。

後二条天皇の第一皇子・邦良(くによし or くになが)親王がまだ9歳で、しかも病弱でしたので、邦良親王の代わりに、後二条天皇の異母弟・尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)が条件付きで即位します。その条件とは、後醍醐の皇位は一代限りの中継ぎで、後醍醐の息子には皇位は渡さないと言う条件でした。ところが、後醍醐天皇は一代限りと言う約束を反故にしてしまいます。結果、本来皇位を継ぐべき後二条の皇子には皇位が渡りませんでした。南北朝の騒乱が始まりました。

後醍醐天皇三種の神器を携えて吉野に遷幸し、南朝を打ち立てます。

北朝の京都では持明院統後伏見天皇の第三皇子・量仁(かずひと)親王が、三種の神器が無いまま即位し、光厳天皇になります。

光厳天皇の跡は光厳天皇第九皇子・豊仁(とよひと)親王が即位し、光明天皇となります。

こうして見ると、正嫡正流の考え方からすれば、後醍醐天皇が正統を主張するには自己矛盾していますし、約定を破った点からも非難されます。また一方、三種の神器の有無から見れば、北朝光厳天皇は即位の資格を問われるかも知れません。

三種の神器ってなんでしょうね。平成上皇様も今上天皇様も実物をまだ誰も見ていないそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

正平6年(1351年)11月、足利尊氏は、三種の神器の返還、政権返上、北朝天皇上皇を廃すると言う条件で、南朝と和議を結びました。

この和議によって今迄分かれていた南朝北朝が、北朝が消滅する形で統一されました。

これを正平一統と呼びます。

南朝方と結ぶ事に依って尊氏は後顧の憂いを断ち、直義を鎌倉に追い詰め、幽閉します。

翌年の正平7年2月足利直義は鎌倉の幽閉先で急死します。

 

尊氏、将軍罷免

南朝側にとって足利幕府側の内紛は、幕府を倒す好機と映りました。

後村上天皇足利尊氏征夷大将軍の職を罷免し、代わりに宗良(むねよし)親王征夷大将軍に任じます。

この機に、南朝北畠親房は京都と鎌倉を攻める二方面作戦を採り、足利幕府の壊滅を狙います。正平一統の和議は4ヵ月も持たずに早くも破れるのでした。

 

武蔵野合戦

正平7年(1352年)閏2月~3月、新田義興・義宗兄弟(新田義貞の子)、脇屋義治(義貞の甥)、中先代の乱の首謀者・北条時行らが宗良親王を奉じて鎌倉を攻めます。

足利尊氏は鎌倉を一旦引きます。引いている間、南朝方は鎌倉を占拠しますが、尊氏は態勢を立て直して反撃に転じ、関東南部(現神奈川、東京、埼玉)で戦を展開、南朝側を破って鎌倉を奪還します。宗良親王信濃へ落ち延び、新田兄弟も越後へ逃れ、北条時行は処刑されます。

 

第一次京都合戦

正平7年(1352年)閏2月20日、関東と同時作戦で南朝は京都を攻めます。

南朝は、北畠親房が指揮を執り、楠木正儀(まさのり)と北畠顕能(あきよし)、山名時氏が京都を攻め、足利軍を破りしました。足利軍の細川顕氏が討死し、足利義詮は近江へ落ち延びました。

戦乱の中、義詮は光厳上皇を始め北朝の皇族方を置き去りにしてしまいます。その為、光厳上皇や崇光(すこう)上皇南朝側に捕えられ、大和国賀名生(あのう)(現奈良県五條市)に拉致されてしまいます。

 

第二次京都合戦 八幡の戦い

 足利義詮は近江で兵を整えます。傘下に佐々木道誉はじめ土岐氏、赤松氏、細川氏、山名氏、斯波氏などが集まります。

足利義詮は京都を攻撃します。後村上天皇は男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を定めます。

正平7年(1352年)、足利勢は男山八幡を包囲、2ヵ月間の兵糧攻めをしますが、なかなか落ちないので石清水八幡宮に火を掛け総攻撃をします。5月11日八幡宮はついに陥落します。

後村上天皇は脱出し、大和の賀名生に戻りました。

 

第三次京都合戦

正平7年8月から翌年の正平8年3月にかけて、摂津で南朝軍と幕府軍が戦い、南朝が勝ちます。南朝側には尊氏に反発する足利直義派の武将達が付きました。南朝は京都を奪いますが、正平8年7月24日に幕府側から猛攻撃を受け、南朝は京都から撤退します。

 

第四次京都合戦 神南(こいない)の戦い

南朝北畠親房が亡くなります。

足利直冬(ただふゆ)と直義ゆかりの武将達が南朝側に参陣します。

正平10年/文和4年(1355年)2月南朝は再び京都奪還を目指して、楠木正儀はじめ諸将と共に摂津の神南の戦いで幕府軍を破ります。足利尊氏後光厳天皇を伴って近江に退却。その隙に南朝軍は京都に入りました。が、3月、尊氏直々の出陣に、南朝軍は京都から撤退します。南朝側の京都占拠は約一か月で終わりました。

同年、拉致されていた光明上皇は解放され、京都に戻されます。光明上皇は出家しました。

 

第五次京都合戦

正平13年/延文3年(1358年)足利尊氏が亡くなります。

この時とばかり新田義宗北畠顕信が立ちますが不発に終わります。

もうこの頃になると厭戦気分が蔓延してきます。人材も兵站も補給が困難になってきます。都も農村も打ち続く戦で民は疲弊し切っていました。

足利義詮は最後の駄目出しで河内赤坂城を陥落させますが、幕府側からも離脱者が続出。

正平16年/康安元年(1361年)細川清氏(幕府側)が南朝側に寝返り、楠木正儀と共に京都を奪うも、一ヵ月もしない内に幕府側に明け渡してしまいました。

 

和平の兆し

楠木正儀(まさのり)は父・楠木正成に勝るとも劣らぬ勇猛果敢な名将です。戦略・戦術ともに天才的な能力を発揮、数々の戦で勝利を挙げました。彼は南朝の支柱となっていましたが、本人の意思は和平にあり、戦を望んでいませんでした。ただ、仕えていた後村上天皇も次の長慶天皇も、「夢よもう一度」の思いが強く、主戦論者でした。正儀は現状を把握し、冷静に分析していました。そして、南朝を出て北朝側に寝返ります。幕府側も正儀を厚遇し、攻めと和睦の両路線を取りつつ、長きにわたる戦乱を収める方向に動き始めました。

 

 

余談  拉致の上皇その後

光厳上皇は以前から夢想国師の下で禅宗に帰依しておりました。光厳上皇は賀名生で出家します。そして拉致されてから5年後、崇光上皇直仁親王と共に釈放され、京都に戻る事が出来ました。京都に戻ってから光厳上皇は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に師事、京都の常照皇寺で禅の修行生活に入り、54歳で崩御されます。

崇光上皇南朝の拉致から解放されて京都に戻った時、留守中に即位した北朝後光厳天皇がおりました。後光厳天皇の次期天皇に、崇光上皇は自分の息子の即位を望みましたが叶わず、失意の内に65歳で崩御します。崇光上皇の曽孫になってそれが実現します。それが後花園天皇です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

68 南北朝(2) 観応の擾乱(じょうらん)

後醍醐天皇は吉野に朝廷を開いてからも、まだ覇権への望みは持ち続けます。

新田軍は越前の金ケ崎城で敗北、尊良親王新田義顕は敗死します。新田義貞も藤島(現福井市)で討死、義貞の首は京都に運ばれて獄門に架けられたそうです。

後醍醐帝は懐良(かねよし)親王を西国へ、宗良親王を東国へ、義良(よしなが)親王を奥州へと遣わし、勢力拡大を図りましたが、南朝の勢いは日増しに衰えて行きました。

延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、後醍醐帝が崩御しました。後醍醐帝の跡を義良親王が継ぎ、後村上天皇となります。足利尊氏は後醍醐帝を弔う為に天龍寺を建立します。開山は夢想疎石です。

これで天下も鎮まったかに見えましたが、新たな権力闘争が始まりました。

足利尊氏と直義(ただよし)

足利尊氏はとても気前のいい人でした。自分の所に山の様に来る贈物を全てその日の内に部下に与えてしまい、彼自身の手元には何も残しませんでした。

一方、直義はそんな事をしません。と言うか、彼は自分の所に来る贈物は全て断っていたのです。直義は清廉と言うか真面目と言うか、政務の実務には長けていたのですが、そういう堅い所があり、直義よりも尊氏の方が人気がありました。

兄尊氏と弟直義の性格は随分違っていましたが、兄弟の仲は良く、政権運営も上手くいっていました。

観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)・第一ステージ

ところが政権の中に執事の高師直(こうのもろなお)と言う人物が居ました。彼はバサラ大名。高師直派には傍若無人なバサラが多く、光厳上皇の牛車に矢を射かけた土岐頼遠(よりとう)の様な者もいます。光厳上皇に弓を引くなどとんでもないと直義は激怒、助命嘆願がある中、土岐頼遠を処刑してしまいます。直義は師直から反発を買います。

直義と師直の政治路線の違いがやがて亀裂を生み、対立が激しくなります。

貞和5年/正平4年(1349年)、直義は高師直の執事職を兄に働きかけて罷免します。逆切れした師直は軍を率いて直義を攻め、直義は追われて尊氏の屋敷に逃げ込みますが、師直は屋敷を包囲して兵糧攻めにし、直義の両腕とも言える上杉重能と畠山直宗の引き渡しを要求します。結局、上杉、畠山の流罪と、直義の出家を条件に妥協します。直義の代わりに政務に携わるようになったのは、尊氏嫡男・義詮です。

観応の擾乱・第二ステージ

同年12月、上杉重能と畠山直宗が配流先で高師直の配下に暗殺されてしまいます。

直義の養子・直冬(ただふゆ→実父は尊氏)は義父を助けようと九州で挙兵します。尊氏は、直冬討伐に師直を差し向けます。直冬は敗けて九州に戻りますが、九州にいる南朝方の武士達を味方に付けて再び兵を挙げます。

正平5年/貞和6年/観応元年(1350年)10月28日、尊氏は直冬を討つ為に自ら出陣します。一方、直義は大和に行き、大和の兵力を味方に付けて決起しました。光厳上皇が直義追討令を出すと、直義は今迄敵対していた南朝に帰順しました。

直義は京都を襲い、京都にいた足利義詮を駆逐します。その勢いで西進し、直冬討伐から反転して京都に戻る途中の尊氏とぶつかり激戦。結果、尊氏軍が敗北してしまいます。ここで和議が成立し、高師直・師泰兄弟が出家する形で手打ちになりました。

高兄弟を京都に護送中、上杉重能の養子・能憲の軍勢が親の敵討ちとして高兄弟を襲い、殺してしまいます。この時、高一族も殺されてしまいます。

観応の擾乱・第三ステージ

高一族が滅びても、尊氏と直義の間の溝は修復できませんでした。直義は自分に味方してくれた武士達に恩賞を十分に与えられませんでした。その為、直義に従っていた武将達は次第に離反して行き、尊氏側に寝返って行きました。

尊氏は直義を追い詰める為南朝と和睦し、直義―南朝の結びつきを切る作戦に出ます。

南朝は和睦の条件として、三種の神器の返還、政権返上、北朝崇光天皇、皇太子直仁親王の両名を廃し、関白二条良基更迭、元号南朝の正平にする事などを挙げましたが、尊氏はそれを全て呑みました。その代り、南朝後村上天皇から直義・直冬の追討の綸旨を貰います。

 直義は、一旦は南朝に帰順し、南朝の兵力を利用しましたが、ここにきて北朝と和議を結ぼうとします。けれども、不調に終わりました。

正平7年/観応3年(1352年)、尊氏は直義を破って鎌倉に追い詰め、降伏させます。

 直義は鎌倉の延福寺に幽閉され、翌年2月26日、急死してしまいます。毒殺の噂もありますが、本当の所は分かりません。享年47歳。

 兄弟喧嘩のその後

 尊氏と直義の兄弟喧嘩の後、直義の死をもって終わる筈でした。

ところが、更に戦乱は続きます。南朝北朝の間で和睦が成立したのも束の間、和睦は反故にされてしまうのです。本当の和睦は、双方が戦疲れで疲弊して音を上げるまで、やってきませんでした。

 

 

余談  直冬

直冬は足利尊氏のご落胤です。身分の低い女との間に出来た子で、尊氏は直冬を認知せず、弟の直義へやってしまいます。観応の擾乱の兄弟喧嘩は、兄弟と、親子の戦いでもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

67 南北朝(1) 北畠顕家

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇を批判し、堂々と真正面から諫めた人物です。『顕家諫奏文(あきいえかんそうぶん)』と呼ばれる彼の上奏文は、諸葛孔明の『出師(すいし)の表』に匹敵するのではないかと、婆は思っています。

略歴

顕家は、『神皇正統記』を書いた北畠親房の長男で、文武両道に秀でた公家でした。頭脳明晰、眉目秀麗、早熟の天才です。3歳で叙爵、12歳で従三位参議・左近衛中将になります。15歳で従三位陸奥守に任じられ、翌年、津軽の北条氏残党を征伐、その功により、従二位になり、陸奥鎮守府将軍になります。

京都が兵乱に巻き込まれ後醍醐帝が窮地に陥ると、陸奥から京都へ5万の軍を率いて駆けつけます。それは秀吉の中国大返しの10日間で200㎞を走り抜ける速度を上回って、16日間で600㎞を走る強行軍でした。兵站は全て現地調達の略奪です。顕家の通った道筋は家も草木も残らない程の大変な被害に遭ったと記録されています。

京都を占拠した足利軍を、彼は新田と楠木と組んで京都から駆逐してしまいます。顕家は18歳で鎮守府大将軍に任ぜられます。彼は斯波氏や相馬氏を破り、利根川で足利軍の大軍を壊滅させ、鎌倉の足利義詮上杉憲顕を打ち破って鎌倉を陥落させます。

二度目の上洛の時、顕家は美濃国青野原(現岐阜県大垣市)の戦いで足利軍を破ります。それから伊勢へと進路を転じ、畿内各所で戦いました。しかし、遠征の疲れも有って勝敗は五分五分でした。

延元3年・建武5年5月22日(1338年6月10日)高師直と堺浦の石津で戦い、敗れて顕家軍は潰走。ついに顕家は討死してしまいます。享年21歳。

顕家は死ぬ一週間前の5月15日、後醍醐天皇を諫める文書を陣中で書きました。それが『北畠顕家上奏文』又は『顕家諫奏文』と呼ばれるものです。


顕家諫奏文

『顕家諫奏文』は、最初の出だしが欠落していますが、全部で七条あります。ここでは出だしの文と、6条と、結びの文を載せます。原文は太字で表しました。ふりがな等婆が補完したものは、小さい字で表しました。婆なりに意訳も付けております。

諫奏文

一条

(前文欠落)鎮将各令知分域、政令之出在於五方、因准(いんじゅん)之處似弁(わきまえる)故實、元弘一統之後、此法未周備、東奥之境纔(わずか)(なびく)  皇化、是乃最初置鎮之効也、於西府者更無其人、逆徒敗走之日擅(ほしいまま)(はく)彼地、押領諸軍再陥帝都、利害之間以此可觀、凡(およそ)諸方鼎立(ていりつ)(しこうして)猶有滞於聴断、若於一所決断四方者、萬機紛紜(ふんうん)爭救患乎、分出而封侯者、三代以住之良策也、置鎮而治民者、隋唐以環之権機也、本朝之昔、補八人觀察使、定諸道之節節度使、承前之例、不與(よ)漢家異、方今亂後之天下民心輒(たやすく)難和、速撰其人、發遣西府及東關、若有遲留者、必有噬臍(へいぜい→ほぞを噛む)悔歟、兼於山陽・北陸等各置一人之藩鎮、令領便近之国、宜備非常之虞(おそれ)、當時之急無先自此矣

1条 (意訳) 

鎮守府を置いて各区域を治めて来ましたが、元弘で統一した後はこの法は未整備です。東奥はわずかに皇化しておりますが、これは最初に鎮守府を置いて治めたからです。西(九州)にはそれが無いから逆賊が走り入って勝手に占領し、再び帝都を陥れました。どちらが得策かこれを見れば分かります。地方が鼎(かなえ)の様に立って行政が上手くいったとしても、それでも民の声を聴くのは滞ってしまいます。仮に集権的に一か所で色々なことを決断しようとすれば、よろずのことが紛々として混乱し、患難を救う事が出来るでしょうか。分権して治めるのが良策です。隋唐の昔からやっている事です。本朝も昔は観察使を置き、節度使を置いて民を治めました。漢の国も同じです。今の様に乱の後では、民心が簡単に和する事は難しいです。ですから、速やかに人を選んで西府や関東に派遣しなさい。もし、遅れる様な事が有れば、必ず臍(ほぞ=へそ)を噛むような後悔をするでしょう。ついでに、山陽・北陸に各一人ずつ藩鎮を置いて治めさせ、万一に備えるべきです。これは早急にすべきです。

 

第六条

可被厳法令事

右法者理之権衡(けんこう)、馭民之鞭轡(べんひ)也、近會朝令夕改、民以無所措手足、令出不行者不無法、然則定約三之章兮如堅石之難転、施画一之教兮如流汗之不反者、王事靡鹽民心自服焉

6条 法は厳かにする事

法は国の理(ことわり)で、基準となるものです。それによって民を馭(ぎょ)し、民を統(す)べるものです。ところが近頃では、朝に令を出し夕べにそれを改めています。そのような事をしたら、民は混乱してどうして良いのか分からないではありませんか。法令を出してもそれが行われなければ、法は無いのと同じです。ですから、三つの決まり事のように極めて簡単で良いから、ころころ転がらない様なような盤石の法令を作り、それを衆知すべきです。流れ出た汗は元に戻らないと言います。王の言葉もそうです。矢鱈と出したり引っ込めたりするものではありません。しっかりすれば、民の心は自ずから王に靡き、服するでしょう。

 

結びの言葉

以前条々所言不私、凡厥為政之道治之要、我君久精練之賢臣各潤餝(じゅんしょく)之、如臣者後進末学何敢計議、雖然粗録管見(かんけん)之所及、聊攄(りょうちょ)丹心蓄懐、書不尽言々不尽意、伏冀照 上聖之玄鑒(げんかん)察下愚之懇情焉、謹 奏

延元三年五月十五日従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

結び

これまで述べてきた事は私心からではありません。これは政治をする上で大切な要です。陛下は長らくこれを精錬なさり、賢臣の方々は陛下の事跡を更に豊かに実らせてまいりました。私の様な者は未だ若輩者ですので学問も未熟です。どうして議を計る事が出来ましょうや。とは言え、私の愚見を、赤心(まごころ)をもって胸に抱いていた思いを申し述べます。書は言葉を尽くす事が出来ません。言葉はいくら尽くしても思いの全てを表す事が出来ません。どうぞ、伏して冀(こいねが)います。陛下の何処までも見通す心でご照覧下さいまして、愚かな私の懇情を察して下さいますよう、謹んで奏上申し上げます。

 延元3年5月15日 従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

 

 余談  本文を載せなかった他の条

2条 3年間無税にする事。帝は奢侈を慎み、宮殿造営等は止めるべき事

3条 無能の者はリストラすべし。官位と報償の在り方を検討すべし。

4条 帝に擦り寄り禄を貪る不忠の公家や僧侶が多い。武士や雑兵の中に主人に仕えて死んで行く者がいる。その者達が不遇ならば善政とは言えない。

5条 陛下よ。行幸や宴会は止めなさい。民は苦しんでいる。

7条 人材登用の勧め。能力あるものは引き立てよ。職務を汚す者は退けよ。

 

余談  綸言(りんげん)汗の如し

勅命が一度出れば取り消せない事は、出た汗が再び元に戻らないのと同じだという事。天子には戯れの言葉は無い。

(角川 新版 古語辞典より引用)

 

余談  定約三之章(三つの法律)

6条にある「定約三之章」は『史記』に載っている法令です。

1、人を殺すな  2、人を傷つけるな  3、盗むな

人を殺せば死刑である。人を傷つけたり盗んだりしたら、それなりの罰を受ける。

 

66 建武の新政(7) 南朝樹立

第二次京都合戦

宮方の新田軍が湊川で敗れ、京都に向かって敗走して来る、しかも賊軍の足利がその後を追い駆けて来る と言う報せに、京都は上を下への大混乱に陥りました。

建武3年5月27日後醍醐天皇三種の神器を持って比叡山に避難します。その時、天皇光厳(こうごん)上皇に共に逃げようと誘います。光厳上皇は仮病を使ってそれを断ります。

光厳上皇にとって、後醍醐天皇は自分を帝位から引き摺り下ろした人物、光厳上皇は、密かに足利尊氏に「義貞討つべし」と院宣を出しています。

後醍醐帝は足利尊氏を朝敵にしました。光厳上皇新田義貞を朝敵にしました。天皇上皇の命をそれぞれ受けた二つの「朝敵」が京都でぶつかりました。

建武3年5月29日、足利軍は新田軍を追って京都に入り、都を占拠します。

6月14日足利尊氏光厳上皇を奉じて京都の東寺に入りました。

新田軍と足利軍は都を舞台に死闘を繰り広げます。

楠木正成は既に討死し、名和長年千種忠顕(ちぐさただあき)も次々と討死し、頼みの綱にしていた北畠顕家は別の戦場で足止めを食らっており、新田軍側にとって戦局は次第に不利になってきました。

後醍醐帝、新田を捨てる

足利尊氏は後醍醐帝と密かに連絡を取り、和平工作を始めました。この和平工作は新田側には知らされませんでした。ただ、新田の家臣・江田行義と大舘氏明が後醍醐方に通じていました。

10月9日、江田と大舘の行動に不信を抱いた義貞の部下・堀口貞満が、後醍醐帝に質そうと比叡山に登ると、後醍醐帝は和睦の為に山から都に降りる、正にその時でした。

「あゝ、何故あなた様は長年忠節を守って来た新田をお見捨てになるのですか。今の今まで大逆の朝敵だった尊氏に心を寄せ、あなたの為に戦って来た我らを裏切りなさいますのか」と、涙ながらに堀口は訴えました。

そこへ3000の兵と共に駆け付けた新田義貞は、怒りを懸命に堪えて事の真偽を質しました。すると、帝は新田の労を労い、これは計略であると言い繕って説明しました。

義貞は帝に、恒良親王尊良親王を推戴して北陸道へ行き再起を図りたいと願いました。帝は二人の親王を連れて行く事を許しましたので、義貞は兵を二手に分け、一手は帝の護衛に付け、もう一手は義貞が率いて北陸道を目指しました。

道中、新田義貞一行は足利軍の追撃を受け、猛吹雪にも遭い凍死者を出しながらも、金ケ崎城に入る事が出来ました。義貞側は金ケ崎城から、親王の足利追討の令旨を各地に盛んに送りましたが、反応はいま一つでした。

金ケ崎城落城

足利軍は金ケ崎城を攻撃、何度か渡り合う戦も有りました。新田勢は初めの内は優勢でした。が、やがて6万の兵に包囲されて兵糧攻めにあいます。城中の食糧は底を突き、兵達は餓えに苦しみました。人肉を食べる程の凄惨な様子だったと伝わっています。

延元2年3月5日。足利軍による総攻撃が行われ、翌6日、金ケ崎城は陥落します。尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となってしまいます。

新田義貞はたまたまその時、弟の義助のいる杣山城へ援軍に行っていて、金ケ崎城を留守にしていました。

南朝樹立

後醍醐帝側に就いて新田軍側で戦った有力武将達が次々と討たれ、後醍醐帝の持てる武力は次第に痩せ細っていきました。

2月29日光厳上皇改元し、元号を延元とします。後醍醐帝はこれを認めず建武元号を使います。

延元元年(建武3年)8月15日(西暦1336年9月20日)光厳上皇院宣を出し、弟の豊仁(ゆたひと)親王を即位(光明天皇)させます。

延元元年(建武3年)10月10日、後醍醐帝が花山院に幽閉されます。

11月2日三種の神器が後醍醐帝から光明天皇に渡されます。

11月7日建武式目が制定されます。この制定によって足利政権が一歩前へ踏み出しました。

12月21日後醍醐天皇は幽閉先の花山院を脱出、吉野へ逃れ、そこで吉野朝廷を開きます。南朝の樹立です。

後醍醐天皇は、自分は退位をしていないと退位を否定、光明天皇の存在を否定し、更に、渡した三種の神器は偽物だったと宣言します。

 

 

余談  三種の神器

三種の神器について、後醍醐帝が偽物を北朝に渡したと言う話ですが、後の研究者によって否定され、渡したのは本物であったと言われています。その裏付けとして、正平一統の時、南朝後村上天皇北朝に渡した神器を取り戻した、という事実が有ります。