式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

156 武野紹鴎と今井宗久

人間万事金の世の中と申しましょうか、戦に次ぐ戦で戦費増大する中、結局勝つのは経済力のある陣営です。勝つ為に、富を手に入れる、その富が堺に蓄積されている・・・信長は真っ先に堺に注目します。

1557(弘治3.09.15) 織田信長津田宗及の茶会席に初めて使者を遣わします。それは、信長がまだ海のものとも山のものともつかない尾張の「うつけ」の時代でした。その頃、信長は弟・信行との確執がくすぶっておりました。茶会に使者を派遣した2ヵ月後、信長は弟を清洲城に呼び寄せ殺害します。桶狭間の戦いはその茶会席の約2年半後の1560年です。そんな早い時期から堺を意識していた信長は、恐るべき慧眼の持ち主です。この時の堺の代官が松永久秀。堺は三好一族支配下に在り、三好氏に推戴されていた堺公方(平島公方)・足利義維(あしかが よしつな)の幕下にありました。また、信長が堺に2万貫の矢銭を課したのは11年先の1568(永禄11)年の事です。

(ブログ「143 会合衆 茶の湯宗匠」2022(R4).04.14upで取り上げた内容とかなり重なる部分がありますが、少し視点を変えてお金の面から考えてみたいと思います。)

 

武野 紹鴎 (たけのじょうおう)

武野紹鴎(1502-1555)が大和国に生まれた時は、将軍・足利義澄管領細川政元が対立し、極めて政局が不安定な時期でした。細川政元自身が修験道に凝り、女人を遠ざけた為に子が出来ず、三人の養子を取ったのですが、政元が「永生(えいしょう)の錯乱」で暗殺されてしまいましたので、これにより養子三人による後継者争いが勃発し、より一層の戦乱の世に突入してしまいます。

若狭武田の流れを汲む紹鴎の祖父は戦死、父は放浪し、武田の名を汚さぬ為に改姓します。武田を下野したとの意味で、武野と名乗りました。放浪の末、堺に辿り着き、そこで皮屋(皮革商)を営みます。時あたかも戦時。鎧などの武具・馬具に使用する皮革は必須の軍需物資です。商売が当たり、紹鴎の父は巨万の富を築きます。

紹鴎は、連歌師をしながら茶の湯藤田宗里に習い、その後、宗里の師である村田宗珠(むらた そうしゅ)に習いました。ブログ№137で紹介した侘茶の始祖・村田珠光(むらた じゅこう)の養子、それが宗珠です。そういう訳で、紹鴎は珠光の孫弟子に当たります。

やがて、紹鴎は父の商売の隆盛をバックに京都に上り、そこで学問と趣味の世界に入ります。趣味と言っても単なるお遊びではなく、京都での地歩を固め、上昇する為の手掛かりをそこに求めます。紹鴎は、父祖の地に縁がある若狭国守護・武田元信と親交のあった三条西実隆(さんじょうにし さねたか)に入門し、和歌・古典・連歌・茶などを学びます。

当時の三条西家は、戦乱と言う事も有り荘園からの実入りは少なく、経済的に困窮していました。古典の書写や指導で細々と暮らしを立てていましたが、紹鴎が来る度に持ってくる十分過ぎる礼銭や立派な手土産は、他の多くの公家達が貧窮に追われて地方へ都落ちする中で、それをせずに京都で暮らして行けるだけのものがありました。紹鴎は、実隆を通じて人脈を広げて行きます。朝廷にも近づいて献金を行い、因幡守に任ぜられました。

紹鴎は父亡きあと堺に戻り、大徳寺大林宗套(だいりん そうとう)が開山した南宗寺(なんしゅうじ)で禅の修行に励み、茶禅一味の茶の湯を実践して行きます。

当時の「わび茶」は新興の茶の湯。正統派と言われて京都で行われていたのは、足利義政が東山山荘で行っていた台子点前の書院茶・東山殿の様式でした。

紹鴎は名物を60種も持っていました。侘茶は、紹鴎が広めたと言われていますが、紹鴎の侘茶は本格的なものでは無く、東山殿様式に、唐物では無く和物の高価な名物茶道具を取り合わせた折衷(せっちゅう)型のもの「侘茶もどき」だったと思われます。

 

鉄砲の伝来

1543(天文12.08.25)年、種子島倭寇所有の中国船が漂着し、乗船していたポルトガル人からマラッカ式火縄銃がもたらされました。島の主・種子島時堯(たねがしま ときたか)は1挺2千両で2挺買い求め、鍛冶職人の八板金兵衛に鉄砲を、笹川小四郎に火薬の製造を命じます。

それからわずか半年後に近江国国友で鉄砲の研究が始まり、1544年7月には国友鍛冶が鉄砲2挺を将軍に献上しました。更に1545年には紀伊国根来(ねごろ)で鉄砲が製造され始め、伝来から2年後には種子島で鉄砲の作り方を学んだ堺の商人・橘屋又三郎が国元に戻り、堺で鉄砲製造を始めました。こうして瞬く間に全国に広がり、上記の国友・根来・堺の外、阿波、備前、薩摩、米沢、仙台でも鉄砲鍛冶が興りました。勿論、種子島も製造を始めます。

 

今井 宗久

今井宗久(1520-1593) が生まれたのは、細川京兆家 (ほそかわ けいちょうけ(=細川本家) 家督管領職を巡って、細川高国細川澄元が争い、京都で等持院の戦い」という市街戦が勃発している時期でした。

宗久は大和国の今井村で生まれました。彼は出世を夢見てこの村を出て堺に行きます。堺で倉庫業を営んでいる豪商・納屋宗次宅に身を寄せます。そして、仕事を覚える傍ら、武野紹鴎に茶湯を習います。堺で商人としてやって行くには、茶湯は必須の教養でした。

やがて、宗久は納屋宗次から独立して薬種業を始めると共に、茶の師匠・紹鴎に気に入られて紹鴎の娘婿(じょせい or むすめむこ)になります。

薬種と言うとすぐ漢方薬を思い浮かべます。国内産の薬草ばかりではなく、外国から輸入する動物の角や骨、朝鮮ニンジンなどの植物系の薬など様々あります。中でも重要だったのは、鉄砲の火薬に使う硝石、玉に使うでした。硝石は日本では採れない原料です。どうしても輸入に頼らざるを得ませんでした。

宗久は、戦国の世の需要を見込んで積極的に商売に打って出ます。

1548年、宗久は硝石の独占買占めをします。

1552年、宗久は鋳物師を集めて鉄砲の分業生産を開始、品質にバラツキのない火縄銃を大量生産します。その為、種子島時堯の時は1挺2千両(現代価格にして1,000万円ぐらい(ネット「刀剣ワールド」より))したものが、量産により1挺9石(約100万円(「刀剣ワールド」より))ぐらいまで下がりました。堺の銃は安定した性能を持っており、大名達の注目を集めました。時流を見抜き、打つ手の素早さと的確さが富を呼び寄せ、茶会を通じての人脈作りも功を奏して、会合衆(えごうしゅう or かいごうしゅう)の仲間入りを果たします。

1555(天文24/弘治1.10.29)年、宗久の師でもあり、義父でもあった武野紹鴎は、6歳の嫡子(後の宗瓦(そうが))を遺して54歳で世を去りました。宗久は義弟に当たるこの子の後見人になり、養育します。そして、紹鴎の茶道具類やその他の遺産を管理します。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568(永禄11)年、信長は堺に2万貫の矢銭(軍資金)を課しました。矢銭を課したのは堺ばかりではありませんでした。石山本願寺に5,000貫や法隆寺に1,000貫を課しました。( 2万貫について、現代の価値に直すと幾らになるかと調べてみましたら、人によってそれぞれ条件や換算率が違い、20億円から60億円まで幅があり、はっきりとは分かりませんでした。)

堺では信長の理不尽なこの要求を呑むべきではない、との意見が会合衆の大勢になります。堺には元々町を防衛する為の自前の武力を持っており、更に浪人を雇い入れて強化。壕を深くして信長の侵攻に備えました。それに加えて、昔から縁の有った三好一族の武力を借りて信長に徹底抗戦すれば、信長なぞ撥ねつけられる、と結論づけました。

ところが、その2万貫を要求してきた時期は、丁度信長が義昭を奉戴して上洛を開始した1568(永禄11)年に重なり、破竹の勢いは誰も止める術がありません。

同年9月7日に進軍開始からわずか18日後の9月25日、信長が大津まで進軍すると、大和に進駐していた三好三人衆の内、先ず岩成友通 (いわなり ともみち)が信長に降伏。同じく同月30日には細川昭元三好長逸(みよし ながやす)が城を放棄。10月2日篠原長房阿波国へ落ち延び、池田勝正も信長に降伏する、と言う具合で、バタバタと敗退し、三好軍の強さは信長の前では歯が立たなかったのです。

信長と戦ったら敗ける、と今井宗久は見たのでしょう。1568(永禄11.10.02)信長が上洛した機を捉えて、宗久も単身上洛して信長に会い、名物の茶入れ「紹鴎茄子」と茶壷「松島」を献上して信長と話し合います。講和への道筋をつけ、宗久は堺に戻って会合衆達を説得し、2万貫支払いを受け入れて堺滅亡の危機を回避します。

年を越して翌1569(永禄12)年の1月5日、三好三人衆は京都に入った義昭を襲撃します。「本圀寺(ほんこくじ)の変」です。これは信長に対する三好氏の反撃です。

1569(永禄12)年1月9日、「本圀寺の変」の4日後、堺は信長へ2万貫を支払います。

これにより、今井宗久は信長に気に入られ、多くの特権を手にしました。堺北荘と堺南荘の代官を務めていた今井宗久の代官職をそのまま安堵、摂津の塩の徴収権淀川の通行権、生野銀山の支配(長谷川宗仁と共同)などが、その特権の中身です。そして、今井宗久津田宗及(つだ そうぎゅう)千利休と共に信長の茶頭を務めました。

 

武野宗瓦(たけの そうが)について

今井宗久から養育されていた武野紹鴎の嫡子・武野宗瓦は、長ずるに及んで父・紹鴎の財産を返還する様に宗久に要求しました。紹鴎の茶道具も何もかも宗久が管理しており、と言うより私物化しており、奪われたも同然の状態になっておりました。

宗瓦は父・紹鴎の遺産を巡って姉婿の宗久と争い、信長に裁定して貰いました。ところが、信長と宗久の結び付きは強く、ずぶずぶの関係です。宗瓦は敗訴し、おまけに信長の意に背いたと言う理由で追放されてしまいます。信長亡き後も秀吉からは石山本願寺に内通していたとの嫌疑で追放され(宗瓦の室が石山本願寺の縁者)、不遇は続きました。最晩年の1611(慶長16)年家康の命で豊臣秀頼に仕えましたが、その3年後亡くなります。享年64。

 

宗久、戦場の趨勢を握る

1548年、宗久は硝石の独占買占めをしたと前述しましたが、これはとても重要な出来事です。戦いの仕方が弓矢から鉄砲に移り、火縄銃の性能、その数、使いこなしの熟練度、用兵の仕方などで、随分と軍隊の強さが違って参ります。

堺が2万貫を支払って信長の軍門に下り、堺の火縄銃が信長の掌中に握られた時、信長に敵対する大名達は火縄銃の火薬に不可欠な硝石を入手出来なくなってしまいました。何故なら、硝石は今井宗久が独占輸入しており、宗久と信長の強い互恵関係から、信長のみに硝石が納められる様になってしまったのです。この為、他の大名達は別のルートを開拓して硝石を得るか、自前で生産するしかありませんでした。

日本では硝石は産出されません。ではどうするかと言うと、古土法、培養法、硝石丘法などと言う方法で、糞尿などに含まれる窒素と土壌のバクテリア、灰に含まれるカリウムを反応させて硝酸カリウムKNO₃(硝石)を作り出していました。

古土法は、古い家の床下の土と木灰を水に溶いて煮出し、溶液を煮詰めて硝酸カリウムの結晶を取り出す方法です。(硝石は水に溶けやすいので雨がかからない床下の土が良い、と言われています)

培養法は、蚕小屋の床下に蚕の糞と草を混ぜて何年も寝かせ、土と灰汁を混ぜて作る方法です。

硝石丘法は、人間や家畜の糞尿を野外に積み上げて何年も寝かせ、土と灰汁で反応させて作ります。

硝石を入手できなかった武将は、この様な方法で硝石を手に入れざるを得ませんでした。

1548年以降、宗久の硝石の取引先は宗久の胸三寸にあり、1569年信長が堺を制圧すると、更に入手困難になりました。1570年姉川の合戦、1575年の長篠の戦など大きな合戦だけでなく、大小様々な戦いが、日を空ける事無く続いていた時代、甲斐武田は硝石の入手にかなり苦労していたようです。火薬は戦場で使うだけでなく、訓練用の試し打ちにも必要です。潤沢な火薬があってこそ、練度も上がると言うものです。

 

北野大茶湯

1582(天正10.06.02)年本能寺の変で信長が自害すると、世の主役は羽柴秀吉に移ります。

秀吉は今井宗久を茶人として遇しますが、力を持ち過ぎた宗久をそのまま重用する、と言う事はしませんでした。時の権力者に深入りした者は、次の権力者で失脚するのが世の習い。茶の湯という拠り所を持っていた宗久は、御伽衆として秀吉に仕える事が出来ましたが、主たる茶堂は千利休に代わり、あからさまな冷遇は受けなかったものの、かつての権勢は在りませんでした。

1587.11.01(天正15.10.01)、 秀吉は北野天満宮北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を催しました。老若男女、貴賤卑賤問わず、衣服の善し悪し問わず、唐人などの国籍問わず、しかるべき茶道具無き者は代替悪しからず、と言う触れを出したものですから、大盛況になりました。

この時、千利休、津田宗及(つだ そうぎゅう)今井宗久の3人が茶堂を務めました。

今井宗久の人生にとって一番華やかな一幕だった事でしょう。

1593年、その生涯を閉じました。享年73。

 

余談   今井村

今井宗久の出身の大和国高市郡今井村は、堺と同じく自治を行っていた特殊な村でした。巾3間の壕を3重に巡らし、掘り上げた土で土塁を築き、9つの門を設け、浪人を養って武力を蓄えていました。幾多の戦乱に抗して耐え、破壊を免れて現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されております。

  

余談   土壌と窒素肥料

当ブログの「11 お茶を知る(1) 旨味成分」(2020(R2).05.16 up)で、お茶の旨味には窒素肥料が関係している、と書きました。同時に、窒素肥料による硝酸性窒素亜硝酸性窒素の生成の弊害も述べました。硝石の生産は、この現象と似ています。

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「年表」「地形図」「古地図」「戦国期のお金に関するこぼれ話」「Kyoto Love. Kyoto伝えたい京都、知りたい京都」「Wedge ONLIN 織田信長の資金調達法 家計は火の車でも上洛できる」「なにわ大坂をつくった100人・足跡を訪ねて」「地域の出している情報」「観光案内」等々。その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

155 日吉丸

末は博士か大臣かと、男の子だったら期待もされたでしょうに、オギャーと生まれて「何だ、また女か」と言われた婆。お生憎(あいにく)様、女で悪かったねぇと、心の中で啖呵(たんか)を切りながら、それなら男の子になってやろうと、お小遣いで金槌と鋸を買って木工作をしたり、お転婆して得意がったり、男の子の振る舞いを婆は真似たものです。

今の世の中はいいですね。男女共同参画の時代。まだまだ完全な男女平等ではありませんが、婆の時代と比べると隔世の感があります。金槌と鋸で男の子に成ろうとした少女時代の勘違いは御愛嬌ですが、安土桃山時代まで遡ると、男と女の差別どころか、身分や門地、格式の差別があって、最下層に生まれた者が伸し上がって行くのは並大抵な努力では出来ませんでした。ガラスの天井どころか、鋼(はがね)の天井でした。

歴史上断トツの出世頭・豊臣秀吉はその鋼の天井をぶち破った男です

 

不詳の出自

彼の幼名は日吉丸。ところが、この「日吉丸」、実は名前が違うらしいのです。卑賎出身の秀吉が「丸」の付く名前である筈がない、と言う説があります。牛若丸(義経)や森蘭丸といったような「丸」の付く名前は、身分の有る人や侍の子に許された名前だそうです。当時の名付けのルールから言って、下賤の子にその名前は有り得ない、と言う訳です。

貧農の子、失職した足軽の子、身分ある人の御落胤説、生母「なか」が最初に結婚した木下弥右衛門との間に出来た子、そうでは無く再婚相手の竹阿弥との間にできた子、いやいや「なか」は何度も男と結ばれているので父親は誰だか分からない説など、日吉丸の父親からしてあやふやなのだそうです。

通説では、秀吉の生母「なか」が、最初の夫・木下弥右衛門との間に「秀吉」と「とも」を産んで、その後、弥右衛門が亡くなったので、子連れで二番目の夫「竹阿弥」と再婚、再婚相手との間に「秀長」と「朝日」が産まれた、となっています。これも怪しい説で、よくよく時系列に並べて研究してみると、矛盾点が出て来るのだとか・・・

 

虐待されて

秀吉の少年時代は、継父からかなり邪魔者扱いにされていたようです。

日吉丸は(秀吉の本当の名前が分からないので、ここでは講談でお馴染みの日吉丸にします)、顔が猿に似ていて、赤ら顔で、醜くて、右手の指が6本あって、背が低くてという様な異形の子供でした。竹阿弥は日吉丸を「こいつは俺の子じゃない。先夫の子だ」と思うと、変顔の日吉丸に一層憎らしさが募り、いじめ抜きました。そういう継父・継子の関係は良好な筈もなく、日吉丸は新しい父親に反抗します。日吉丸の扱いに手を焼いた竹阿弥は、近所のお寺に日吉丸を放り込んでしまいました。出家して学問をすれば、少しは増しな人間になるだろうという思惑があったのかどうか分かりませんが、日吉丸から見れば、それは継父から捨てられたも同然の仕打ちでした。そっちがそう来るならこっちだって考えがある、坊主なんかになるもんか、侍になりたいと、お寺を直ぐに飛び出してしまいます。彼は亡くなった実父の遺産を母から幾らか貰い、家出をしました。

継父から虐待されて捨てられて、まるで仁王の足の下の邪鬼のように、踏みつけられていた少年・日吉丸。彼は顔を地べたに押し付けられながら、上目遣いに上を見上げました。彼が見たものは相手の顔では無く、顔の向こうにある無限の青い空でした。

彼が恃(たの)むのは裸一貫の身一つ。知恵と才覚と健康と強気、僅かばかりの餞別を元手に、商売の旅に出ます。針を売り歩いたのもその一つです。売り歩きながら、世の中の情報を集め、自分を活かせる雇い主を探し求めました。

 

処世術

世渡りを上手にしていくには何よりも笑顔が大切です。

世間に於いて身に降りかかる危機のかなりの部分は、笑顔によって回避できます。なぜなら、笑顔に出会って、悪い気になる人が少ないからです。それも、本物の笑顔で無ければなりません。冷笑や侮蔑の笑い、少しでも翳りの有る笑いだと、危機を回避するどころか、身の安全を脅かす事態を招きかねません。

日吉丸は行商をしながら、そういう人の心を敏感に学んで行ったと思われます。また、その裏返しに、満面の笑みで擦(す)り寄って来る人物の危険性も、皮膚感覚で読み取ったと思います。彼は自分の本心を隠すために、ピエロを演じました。相手の心を鷲掴みにする為に、マウントを取らず、従属的な態度を取りながら相手を三方(さんぽう)の上に載せました。そして、その三方を両手で恭しく捧げながら思う方向に持って行く術を身に着けました。

( ※「三方」は神様に捧げ物をする時にお供え物を載せる台。正月の鏡餅を載せる台)

 

就職

日吉丸は放浪をしながら世間情勢を見極め、今川氏ならば就職先に申し分ないだろうと、今川領にやってきます。彼は、今川氏の家臣の、そのまた家臣の松下嘉兵衛之綱に仕える事になります。彼は腰を低くしマメに働きました。どのような仕事でも嫌がらず、創意工夫を凝らして成果を上げました。主君の嘉兵衛もそういう彼を愛で、読み書きやら何やら何かと面倒を見たようです。この時期に、嘉兵衛の手により元服をして、木下藤吉郎と名前を変えました。

この様に、主人から可愛がられれば可愛がられる程、朋輩の妬みを買い、居難くなり、結局そこを辞めてしまいました。

彼は、織田信長に出会い、信長の草履取りという仕事にありつきました。彼は陰日向なく全力でその仕事を努め、信長から重宝されました。そこからが彼の出世の始まりです。周りにはひょうきんな態度で笑いを取り、愛されキャラを演出し、頭の良さを隠し、敵を作らない様に一層の気配りをします。身に染み着いた演技は、持って生まれた性質の如くに彼の「人格」を作り上げました。

 

劣等感

彼の晩年は、善人の好々爺然として語り継がれています。が、彼が心の奥底に隠している出自に関する劣等感、その黒い琴線に触れた者は、皆、悲惨な目に遭っています。

1587(天正15)年、秀吉の異父兄弟と名乗る男が家来を何人も従えて、秀吉に面会を求めて大坂城にやって来ました。秀吉は母の大政所に「こういう人物を知っているか」と尋ね、大政所が「知らない」と言うと、直ちに一行全員の首を撥ね、晒し首にしました。その年内に、今度はわざわざ尾張の国まで行って異父姉妹を探索させ、「秀吉が大出世したから、大阪に行けばいい目にあえる」とだまし、そのつもりで大阪に来た異父姉妹とその身内の女性達を、これも直ちに斬首しました。彼は、貧民の出である事実を完全に隠蔽しようとしたのです。

 

秀吉と明の洪武帝(こうぶてい)

秀吉の人生を見る時、或る人物と非常に似ている事に気付かされます。

それは、明の初代皇帝・洪武帝(こうぶてい)(=朱元璋(しゅげんしょう)です。洪武帝も極貧の生まれで顔が極めて特異でした。彼の肖像画は、威厳に満ちて描かれたタイプと、奇妙にバランスを欠いた顔の、二通りのタイプがあります。

彼の父親は洪水で命を落とし、残された母親や家族は極貧に喘いで飢え死にしてしまいます。彼はお寺に入り、乞食(こつじき)(=托鉢)をしながら各地を放浪します。時あたかも紅巾の乱が吹き荒れ、彼はこの乱に身を投じて頭角を現して出世、ついに皇帝にまで上り詰めます。

 

朱元璋の後継者

朱元璋(洪武帝)には王子が26人居ました。彼は皇太子を長男の朱標(しゅひょう)に定めましたが、38歳で急逝してしまいます。洪武帝は朱標の子・朱 允炆(しゅ いんぶん)を皇太孫に定めます。幼い皇太孫を心配した洪武帝は、将来皇太孫の脅威になる様な人物達を粛清、丞相を務めた様な経験豊富な大臣や、建国の大将軍、有能な官吏などを何らかの理由を付けて一族諸共皆殺しにし、その数は3万を超えたと言われています。

朱允炆が帝位に着き、建文帝となった時、建文帝の手元に残ったのは事なかれ主義の凡庸な廷臣と、無能な軍人ばかりでした。

洪武帝が皇太孫の脅威になりそうな臣下をことごとく殺してしまった結果、建文帝の周りには有能な人材が居なくなってしまいました。その弱点を突き、洪武帝の4男で、北方の「燕」を治めていた燕王・朱棣(しゅてい)が、やすやすと甥の建文帝を攻め滅ぼしてしまったのです。これが3代皇帝・永楽帝(=朱棣)です。

 

秀吉の場合

秀吉は、一粒種の秀頼を心配し、将来の禍根となり得る関白秀次の妻妾や子供達を皆殺しにしてしまいました。その上、この関白秀次と親しくしていた者や、関白と言う仕事上の付き合いで関係していた者達にも連座の罪が及び、大名や公家、町人の中に、死罪や改易、流罪。追放、蟄居などかなりの数の処分が出たのです。関白秀次事件はとても根が深い事件です。

これによって、豊臣政権の永続性が秀頼一本の細い糸に集約されてしまい、結局秀頼の死によって豊臣の世は短く終わったのでした。

この場合、秀次を生かしておいた方が豊臣政権としての命脈は長続きしたかも知れません。ただ、秀次か秀頼かのどちらかが片方に大人しく従っていれば長命政権でいられたかもしれませんが、そうでなかった場合、それぞれの勢力が拮抗しているので、将来的には両者の間での戦は必須だったと思われます。そうなると、天下分け目の大戦になり、漁夫の利は誰の手に落ちるのやら・・・

 

 

154 名物狩りと松井友閑

生きるか死ぬかは運次第の戦国乱世。きつい・汚い・危険の3Kの最たる職業の武士達。

血塗られている日常で得られるわずかな平穏の中に、己を取り戻そうとする時、彼等はそこに心の平安を求めるのでした。それが禅であり、茶の湯であり、能や連歌や諸芸の世界でした。

よく、「明日地球が滅亡すると分かった時、あなたはそれまでの時間に何をしますか?」と言う問いが出される事があります。その様な前提で作られた映画やドラマが数多くあります。それぞれの状況で答えは千差万別ですが、戦国武将達にとって、その問いは常に喉元に突き付けられている刃の切っ先でした。

藤堂高虎「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。」と言ったそうです。

そういう人達にとって、平安の時は至高の一瞬でなければなりません。

 

真善美の茶の湯

大名の茶の湯と言うのは、唐物趣味で、高価な茶道具を集めて自分の財力と権力を誇示し、およそ茶の精神とはかけ離れた成金趣味と、誹(そし)られる風があります。もっと言えば、道具自慢の茶の湯であって、名物を見せびらかして自慢し合っているだけだ、と。そこに精神性も奥深さも何も無い。秀吉の黄金の茶室などその最たるものだ、キンキラキンのピッカピカではないか、と言われます。特に「侘茶が命」の方々にはその傾向が強いです。

が、少し立ち止まって考えてみて下さい。その時代が産んだもの、その国が一国の精華として世に送り出したものを集めて、生死の合間に愛玩したいと思う心は、決して成金趣味ではありません。彼等はその為に作法を磨き、無駄の無い美しい挙措(きょそ)に心を砕き、それらの道具類に相応(ふさわ)しい態度を養おうと自分を律して修練して、真善美の極致に身を置こうとします。

大名茶(書院茶武家茶)は「侘び」「寂び」とは無縁の茶の湯です。そこにあるのは「善美」の喜びです。良いものに触れて喜び、眼福を愉しみ、明日の死を忘れて夢中になれる様な一刻を求める茶なのです。

加藤泰と言う槍術自慢の殿様が、金森重近(=宗和→宗和流茶道の創始者)に茶会を開いて欲しいと頼み、茶席に臨(のぞ)みました。隙あらば・・・と点前の綻(ほころ)びを窺(うかが)っておりましたが、最後まで一点の隙も無く、その見事さに感服したと言う話が伝わっています。

 

謎の人物・松井友閑

信長に「人間五十年・・」の幸若舞を教えた松井友閑は、明智光秀がそうであったように、信長に仕えて頭角を現すまでの前半生は謎に包まれています。友閑は後に信長の懐刀として辣腕を振るい、優れた鑑定眼によって名物狩りの主導的役割を果たしました。

ウィキペディアでは、『友閑は、京都郊外の松井城で生まれ(中略)、12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、(中略)永禄の変で義輝が三好三人衆らによって殺害されると、後に信長の家臣になった』と紹介されています。Japanese Wiki Corpusでは信長公記の記載により尾張国清洲の町人出身と推定されている。しかしルイス・フロイスは友閑のことを「以前に仏僧であり」と記しており・・』と書かれており、また、能楽師だったと言う説も有ります。

 

友閑とは何者?

幕臣、僧侶、町人、能楽師という四つの言葉のどれが本当の友閑の経歴なのか、分かりません。が、永禄の変の時、将軍義輝と共に討死した侍の中に、松井新三郎と言う武士が居て、新三郎の兄に友閑と言う名前がありますので、松井家が幕臣だった、というのは間違い無い様です。

友閑が元は僧侶であった、と言うルイス・フロイスを信じれば、松井家が幕臣だった事と考え併せて、義政の時代の三阿弥の様に、芸術・芸能の分野で幕府を支えていたのかも知れません。或いは文官として事務方を担っていたとも考えられます。(※ 三阿弥は能阿弥・芸阿弥・相阿弥の父子孫三代で、芸能を持って幕府に仕えた人達)

どの様な経緯で友閑と信長が結びついたのか、その辺の事情は想像を働かせる外は在りませんが、多分、友閑は三好長慶が支配している京都を逃れ、尾張清洲に流れ着いたのではないかと思います。彼はそこで、市井(しせい)に身を置きながら茶の湯能楽を教えて暮らしていたのではないかと、婆は想像しています。

 

「うつけ」と友閑

そういう友閑に、年がら年中領内をほっつき歩いていた「うつけ」の信長が目を止めます。二人は意気投合。信長は友閑から幸若舞を習いながら彼の深い教養に惚れこみ、急接近したのではないかと、話を組み立ててみました。

信長の父・信秀も、傅役(ふやくorもりやく)平手政秀も一流の文化人で、茶の湯や能、連歌などに達者な人でした。そういう環境に育った信長は、親を見てそれなりの下地が出来ていた、と思いたいのですが、いやいやどうして、彼は親や傅役の言う通りに育つような素直な子では無く、反抗期真っ盛り、傅役の政秀が諌死(かんし)する程のうつけ者でした。

それが、1553年(天文22年4月)、尾張国境付近の聖徳寺斎藤道三と会見の時、信長はそれまでの異様な風体を脱皮して、いきなり威儀を正し、他を圧倒する様な立ち居振る舞いをしました。普通の人では出来ない事です。付け焼刃の礼儀など、5分もすれば馬脚を現します。信長の変身は本物でした。だからこそ人物を見抜く目をもった道三を唸らせたのだと思います。その礼儀作法は友閑仕込みだったに違いありません。もし、婆の想像通りなら、友閑は幕府中枢の将軍御所にいた筈ですから、本家本元の礼儀作法を信長に伝授していたのでしょう。

 

友閑登用

信長が桶狭間の戦いで名を上げ、更に、足利義昭を奉じて京都に入洛するという意思を表明すると、足利幕府再興を願っていた友閑は、舞の師匠と弟子の関係を家臣と主君という関係に改め、彼は全力で信長を支える様になりました。

義昭の上洛を成功させた信長は、一躍注目を浴び、多くの人が信長の下に寄ってきました。彼等は、信長が茶の湯に傾倒していると知ると、進んで茶道具を献上しました。また、信長に恭順を示す証(あかし)に秘蔵の茶器を差し出す者もいました。それは信長の茶道具愛を更に増長させ、ついには「あの人は名物を持っている」と噂があると、その者達へも触手を伸ばす様になりました。

信長は、松井友閑と丹羽長秀を堺へ派遣し、大文字屋宗観から「初花」の茶入れを、祐乗坊所持の茶入れ「富士茄子」をと言う具合に、堺の豪商達から幾つもの茶道具を強引に手に入れて行きます。勿論、タダで巻き上げたのでは無く、金・銀・米などで対価を払ったのですが、このように盛んに名物狩りを行いましたので、信長の下に茶道具が一極集中。なので、市中で茶道具が品薄になり、道具の高騰を招きました。

それらの品を鑑定したのが松井友閑です。友閑は信長の御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)の推進役でした。信長はそれを土地の代わりの恩賞として武将達に与えました。

 

信長の懐刀

松井友閑は、信長に右筆(ゆうひつ)に任じられました。文書発給などの政務に携わる傍ら、信長政権の財務を担当し、堺の代官にも任じられています。また、敵対している勢力との外交交渉などにも当たっています。

例えば、石山本願寺との戦いの一環で高屋城の攻防の時、三好康長の降伏を仲介し、許されています。信長は石山本願寺攻めをなおも継続しますが、武田勝頼が西進して長篠に迫ったとの報に接し、信長は戦を中止して長篠へと向かいました。その時を捉えて本願寺側は松井友閑と三好康長に頼んで和睦を申し入れ、これを成立させます。尤も、この和睦はすぐ破られ天王寺の戦いへと続きます。本願寺戦の最中、荒木村重松永久秀の謀反が勃発、友閑はその説得も携わっています。

有岡城荒木村重を説得しに行ったのは、1回目は福富直勝佐久間信盛2回目に説得に赴いたのは村重の妻が明智光秀の娘だったので、明智光秀羽柴秀吉、万見重元、そして松井友閑。それでも駄目だったので黒田官兵衛が単独説得に向かいます。結局この時の説得は成功しませんでした。松永久秀の時も上手くいきませんでした。

そういった政務の合間に信長が開く茶会の茶頭を務めたり、東大寺蘭奢待の切り取りの時の9人の奉行の内の一人になりました。

(※ 蘭奢待9人の奉行:松井友閑(宮内卿法印・正四位下)、武井夕庵((たけい せきあん)助直:二位法印)、菅谷長頼(すがや ながより)塙直政(ばん なおまさ=原田直政)、佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀、蜂谷頼隆、荒木村重。以上に加えて外に津田坊)

堺の代官に任じられたことから、堺の豪商や茶人達とも交流があり、津田宗及とも親しく交わっていました。

本能寺の変の時は堺で徳川家康一行を接待しておりました。本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えました。が、1586年(天正14年)突然「不正」を理由に秀吉から罷免され、政治の表舞台から消えてしまいます。その後の消息は不明です。

そして、それから5年後、またもや一人の傑出した茶人がこの世から退場させられました。千利休です。利休が秀吉から切腹を命じられたのは、1591年4月21日(天正19年2月28日)のことでした。

 

 

余談  松井友閑と武井夕庵 (たけい せきあん)

松井友閑をNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出て来る人物に譬(たと)えれば、将軍・源頼朝を文官として支えた大江広元に相当します。広元は頼朝に次ぐ官位の正四位下に任じられており、13人の御家人達の誰よりも位が上でした。

松井友閑の官位も正四位下で信長に次ぐ位であり、織田信忠と同等です。他の家臣の追随を許していません。ただ、信長が友閑に全幅の信頼を置いていたか、という視点で見ると、どうもそうでは無い様な気が、婆はしています。

友閑と同じ右筆で、武井夕庵と言う人物がいます。

夕庵が仕えた主君は、土岐氏斎藤道三、義龍、龍興、織田信長の5人です。信長の右筆であり、茶人です。毛利氏との交渉や朝廷との取次など重要な案件を任されました。蘭奢待を切り取る勅許を得て、正倉院に赴いた奉行の一人でもあります。二位法印となり、安土城の夕庵邸は織田信忠に次ぐ好立地を与えられました。

また、茶席の席次では信忠(正客)の隣(次客の席)に夕庵が座りました。この時に点前をしたのが松井友閑ですから、友閑が次客席に座る事は出来ませんが、功臣綺羅星の如くの席で、次客席に座ると言うのは、厚遇この上ない事です。

夕庵は癇癖性の信長に恐れも無く諫言できる唯一の人物であり、信長から絶大な信頼を得ていました。本能寺の変後は隠退し、逼塞しました。

 

余談  宮内間道(くないかんとう)

宮内間道とは、裂地(きれじ)の模様の名前です。間道と言うのは縞模様の事を言います。

宮内間道は幅広の縞と細い筋の縞が交互に織り出されており、幅広の縞は細かい幾何学模様や唐草模様が織り込まれ、赤・茶・緑・黄色など多彩な色糸が使われているにもかかわらず、全体的に見ると落ち着いた赤茶色系に纏められています。この裂地は堺奉行・宮内法印・松井友閑が所持していたので、裂地銘に宮内間道と言う名前が付けられました。

 

 

153 人間五十年 下天の内を・・・

人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 

一度(ひとたび)生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか

 

ご存知、信長の愛した幸若舞「敦盛」の一節です。

桶狭間への出陣を前にして、人の寿命は五十年、この世にオギァーと生まれたからには、必ず死ななければならない、と謡い、人生の儚(はかな)さを舞う信長に、齢80の婆が痺れてしまうのですが・・・ちょいと待て! そう単純ではないと押し止(とど)める声が聞こえてきます。

 

「にんげん」と「じんかん」

冒頭の「人間」を「にんげん」と読むか、「じんかん」と読むかで、諸説分かれています。

普通は「にんげん」と読んでいます。「じんかん」と読んだら、それは間違いだと訂正され兼ねません。漢音読みと呉音読みの違いだから別に拘(こだわ)る必要など無いと考える方もいらっしゃいます。皆んな「にんげん」って言っているから、「にんげん」って読めばいいじゃないか、考える必要ないよ、と言う人も居ます。けれど、「人」と表現する場合と、「にんげんと読む「人間」」と「じんかんと読む「人間」」とでは意味合いが違ってきます。

「あの人は・・」「この人は・・」と話し始める時と、「あの人間(にんげん)は・・」「この人間(にんげん)は・・」と話し始める時では、その後に続く話の内容が違って来るように思います。発音の響きが「人間(にんげん)」と言った方が少し堅苦しく、ちょっと学が有りそうに聞こえます。加えて、「あの人」は個人を指しているのに対し、「あの人間は」と言った場合、その人の個性や人格をステレオタイプ化して、或る属性に嵌め込もうとする心が見え隠れしますし、話す人と噂される人との間の親密度に距離を感じます。

では、「人間(じんかん)」と言った場合、何が違うのか、と言いますと、「人」個人を指しているのでは無く、「人」と「人」との間、間合い、つまり人が構成している世の中、人間関係、社会、或いは人間世界を指して言っていることになります。

 

下天(げてん)

天上界には六道と言う世界があるそうです。六道と言うのは、天上界(人間の世界より苦が少ない)人間界(四苦八苦がある世界)修羅界(怒りと争いの世界)畜生界(獣や鳥、虫等の弱肉強食の世界)餓鬼界(嫉妬や我執や欲望の世界)地獄界(もっとも苦しみの多い世界)という世界です。下天と言うのは、その中の最下層の地獄の世界を指すそうです。

人は死ぬと、閻魔様の裁判を受け、その罪に応じて天界のどれかの世界に振り分けられるそうです。そして、そこで一生を終えます。終えたらそれで輪廻転生の無い極楽浄土に行けるか、と言うとそうでは無いそうです。又、別の六道の世界に生まれ変わる、と仏教では説いております。これが、六道輪廻です。

例えば仮に、人が死んで閻魔様によって修羅道の世界に振り分けられたとします。修羅道で「つとめ」を終えて寿命が尽きたら(あの世でも死ぬそうです)、次には餓鬼道や地獄道などの別の世界に転生するそうです。そこでも「つとめ」終えて、やれやれいよいよ極楽浄土に行けるかと言うと、更に別の世界に生まれ変わるそうです。そうやって、ランダムに、ぐるぐると六道を回って永遠にそこから抜け出せないのが輪廻の世界だそうです。唯一、そこから救い出してくれるのが地蔵菩薩だと、聞いたことがあります。

 

あの世の時間

浦島太郎は竜宮城で楽しく3日間を過ごしました。彼が竜宮城から地上に戻ってみたら、住んでいた家も村も無く、知らない人ばかりの世の中になっていました。竜宮城の3日間は、地上では300年に相当したのです。十年一日どころか百年一日だったのです。

下天の1日は人間界の50年で、しかも下天での寿命は500年と言われています。この伝で行くと下天で500歳になり転生の時を迎えたならば、人間界では何百万年も経っている事になります。

これが下から二番目の化天(けてん)餓鬼界(欲の世界)になると、1日が人間界の800年になるそうで、そこの寿命が8,000歳だそうですから、1日800年で1年365日として8,000歳まで計算すると、人間に直すと何十億歳になるのかなぁ・・・

永遠に輪廻転生を繰り返すあの世の時間に比べれば、人間界に生きている50年と言う時間はほんのわずかにしか過ぎません。

こう考えて来ますと、人間を「にんげん」か「じんかん」かの読みを考える時、「下天」の時間に比べて人間に流れる時間を言っているのですから、対する言葉は個々人の寿命を言っているのでは無く、「人の世」、つまり、「じんかん」の言葉の方が、文脈としては合っています。

輪廻転生の生と死を永遠に繰り返して行くのが、生きとし生けるものの定めならば、人間に転生したその時間はほんの一瞬。ならば、その一瞬を生き切って見せようと、信長はこの一節を愛したのかも知れません。

人生五十年だから、何時死んでも五十歩百歩、そう諦観し切って桶狭間に出陣したのではなく、人間の姿をして生きている時間は一瞬だからこそ、全力投球して戦いに臨んだのだと、婆は思います。

 

 

 

152 本能寺に消えた茶道具

形あるものは壊れ、生きるものは滅し、会うは別れの始まりとか。

俗人の悲しさ、この教えに頷くも執着を拭い去れず、本能寺の猛火に消えた数々の茶道具が、今もし目にする事が出来るならば、どれほどの眼福に浸れるものかと、唯々残念でなりません。

信長が京都で茶会を開く目的で、安土から本能寺に運び込んだ茶道具類は、『仙茶集』に記録されております。その数38点。焼け跡から助け出された茶道具はたったの二点ですが、『仙茶集』に挙がった茶道具の銘を辿りながら、どのような物だったのか空想してみたいと思います。

茶道具の銘

1. 九十九茄子(つくもなす) or 附藻茄子(つくもなす)

茄子と言うのは茄子の形をした茶入の事を言います。茶入れは抹茶を入れる陶器製の小さい壺型の容器です。九十九茄子と言う茶入は唐物の茶入れです。「九十九」の銘の由来は伊勢物語から来ています。

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも(九十九)髪 

                                                    われを恋うらし面影に見ゆ

百から一引くと白になり九十九(つくも)。白髪のおばあさんが私に恋しているようだの意。

本能寺の変で九十九茄子は火を浴びて肌が荒れて見るも無残になりました。焼け跡から見つけ出した後、秀吉に献上されますが、大坂城落城の時に再び炎に包まれて破損。家康の命により探し出され、破片を拾い集めて繋ぎ合わせ、漆で地肌を整えて元の姿に戻します。修復したのは藤重藤元。家康は藤元にこの九十九茄子を与えました。現在は静嘉堂美術館が所蔵しています。

    (参照 ブログ№106「信長、茶の湯御政道」  2021(R3).06.30up )

 

2. 珠光茄子(じゅこうなす)

村田珠光が愛した茄子形の茶入です。九十九茄子よりも少し小ぶりだったようです。滝川一益が、甲斐武田征伐の時の恩賞に珠光茄子を望んだところ、願いが聞き届けられず、代わりに関東管領を命じられた、と言う事で、がっかりしたという話が伝わっています。

(参照  ブログ№137 「村田珠光」  2022(R4).02.27 up)

 

3. 円座肩衝(えんざ かたつき)

肩衝(かたつき)と言うのは、肩が張っている壺の様な形のものを言います。

円座と言うのは、丸く編んだ敷物の事を指します。ここで言う、円座肩衝とは、円座の上に乗った様な形をした茶入という意味になります。畳に置いた所を見ると、茶入れの底、つまり畳付(盆付)が、本体の底の直径より僅かにはみ出していて、それが円座の上に据えた様に見える事から円座肩衝と呼んでいます。

 

4. 勢高肩衝 (せいたか かたつき)

勢高(=背高)肩衝は唐物大名物です。背が高い肩衝茶入の意味で、高さが8.8cmあります。本能寺の炎に焼かれて地肌が荒れてしまいましたが、焼け跡から救い出されました。

最初の持ち主は畠山家臣・飯盛山城主・安見宗房(=遊佐宗房)。それから住吉屋の手に渡り、織田信長所有となります。信長から秀吉へ、更に利休七哲と呼ばれた武将・芝山監物(=宗綱)が所持。その後古田織部が手にし、織部はこの茶入を愛用したそうです。織部から家康に移り、徳川将軍家に代々に伝承されました。8代将軍徳川吉宗の代の時、伊勢神戸藩主にして茶人の本多忠統(ほんだただむね)が勢高の持ち主になります。明治以後、藤田財閥の総帥・藤田傳三郎(=香雪)が蒐集。その後、大阪の幸福銀行の穎川(えいかわ)徳助が穎川美術館を設立し、そこにこの茶入が収められました。が、銀行が経営破綻し、美術館は解散しました。現在は兵庫県立美術館西宮穎川分館に移管されている筈です。

 

5. 万歳大海(ばんぜいたいかい)

大海と言うのは、大ぶりな陶器製の茶入れの事です。形は、扁平の球体で、およそ直径が8.5cm~9.5cm、高さがおよそ4.5cm~5.5cm位で、丁度温州みかんの様な形をしています。万歳大海もこの様な形をしていたと思われます。

 

6. 紹鴎白天目(じょうおう しろてんもく)

紹鴎と言うのは堺の茶人・武野紹鴎の名前から来ています。紹鴎が所持していた白天目茶盌という意味です。

天目茶碗には、禾目(のぎめ)天目、油滴(ゆてき)天目、曜変(ようへん)天目等があり、べっ甲天目(飴色)、木の葉天目等もあります。日本では瀬戸の菊花天目や、美濃の白天目があります。

白い色は清浄の象徴ですので、白天目茶碗は神仏への献茶の時に用いる事が多いようです。龍刻堆朱の天目茶碗台に白色天目茶盌を載せる、と想うだけで、華やかな気分になります。

  (参照: ブログ№117 「桃山文化11焼物(2)・茶の湯」 2021(R3).09.17 up)

 

7. 犬山灰被(いぬやま はいかつぎ)

灰被と言うのは、灰被天目茶盌の事と思われます。灰被天目と言うのは、茶盌を焼く時、薪の灰を被ってしまい、それが茶盌の地肌に付着して雪のむら消えのような独特な模様を創り出し、侘び茶の世界では珍重されています。「犬山」と冠しているので、美濃の産と思われます。

 

8. 珠光茶盌(じゅこうちゃわん)

珠光茶碗は村田珠光が愛用していた茶盌で、「わび」茶の典型的な素朴な茶盌だったと思われます。珠光は貧乏だったので、銘碗など極上の茶盌などは買えず、格落ちして撥ねられた茶碗を買って愛用していました。ただ後になると、「珠光が使った」茶碗と言う事で、値段は目の飛び出る程高くなったようです。

   (参照  ブログ№137 「村田珠光」  2022(R4).02.27 up)

 

9. 松本茶盌(まつもとちゃわん)

最初の所持者は松本珠報です。それから大内義興・義隆へ行き、京都の町衆茶人・藤田宗理の手へと渡って行きます。それから何人かの手を経て安宅冬康、天王寺屋宗伯(津田宗伯)、住吉屋宗無と経て、織田信長が入手します。そして、本能寺の変で焼失してしまいます。

 

10. 宗無茶盌

宗無茶碗は、住吉屋宗無(すみよしやそうむ)が持っていた茶碗です。

宗無は堺の商人の一人で、名は久永と言います。信貴山城城主・松永久秀庶子と言われております。茶は武野紹鴎、剣を上泉伊勢守秀綱に学び、信長・秀吉とも深い交流を持っていました。

 

11. 高麗茶盌(こうらいちゃわん)

高麗茶碗は朝鮮半島で焼かれた茶碗で、庶民が日常で使っていた茶碗の事を言います。当時の朝鮮の貴族は、庶民向けに作られた茶碗などには見向きもせず、中国から輸入した青磁など姿かたちが整った食器を使っていました。それに対して、日本では侘茶の流行が相まって、高麗茶碗の素朴で力強い造形が持て囃される様になりました。中でも、井戸茶碗が珍重され、他に三島、粉引(こひき)、刷毛目(はけめ)などがあり、日本からの発注で作られた御所丸や伊羅保(いらぼ)などがあります。

 

12. 数の台二つ

恐らく、数ある台の内の二つ、と言う意味でしょう。台とは、茶碗を載せる茶碗台(茶托の様なもの)の事と思われます。大寄せ茶会などで大勢のお客様にお出しする「数茶碗」と同じで、「数の台」と言ったのだと思います。

 

13. 堆朱(ついしゅ)の龍の台

堆朱(ついしゅ)の龍の台も、茶碗台の事と思われます。ただ、造りが堆朱で出来ていると言う事ですので、超豪華な茶碗台だった事でしょう。堆朱と言うのは、朱漆を厚く塗り重ねてから模様を彫り出したものです。彫られている絵が「龍」。龍の爪が5本指ならば、中国皇帝専用のもの。3本指ならば、皇帝以外の貴人用か、単なる目出度い文様。白色天目茶碗を堆朱の茶碗台に載せて、客人にお茶を勧めるシーンが目に浮かびます。白と朱の、大変華やかな茶席の雰囲気が伝わって来るようです。

   (参照:ブログ№115「桃山文化9 漆工芸」 2021(R3).09.01 up )

   (参照:ブログ№119「式正の茶碗」    2021(R3).10.01 up )

 

14. 趙昌(ちょうしょう)筆の菓子の絵

趙昌は五代・北宋の画家で、花鳥画を得意とし、写生に新しい描写法を確立し、後の世の画風に多大な影響を与えた人物です。ただ、『君台観左右帳記(くんだいかん そうちょうき)にその名を探しましたが見つからず、東山御物には入っていない様です。なお、『君台観左右帳記』に乗っている絵画の殆どが、山水や花鳥や人物画で、「菓子」を描いたものはありません。日本には重要文化財として趙昌筆「竹虫図」東京国立博物館に収蔵されております。また、畠山記念館に収蔵されている同画家の「林檎花図」が国宝に指定されています。趙昌が描いたお菓子の絵と言うのはどのような物だったのか、今となっては知る由もありません。

 

15. 古木(こぼく)の絵

古木と言って思い浮かぶのは松か梅です。室町時代になると、梅図が持て囃され随分と輸入されました。また、日本人絵師も好んで梅の図を描きました。そんなこんなを思い合せて、「古木」は梅ではないかと思ったり、旧暦6月の季節を考えると、松の図かなぁ~と迷う所です。

「松樹千年翠(しょうじゅ せんねんのみどり)」や「松無古今色(まつに ここんのいろなし)」などの禅語があることですし・・・火焔の中に消えた古木の絵は何の木だったのでしょう。

 

16. 小玉澗(しょうぎょくかん)の絵

玉澗と言う画家は何人か居るらしいです。一番有名なのが『君台観左右帳記』にも載っている画僧の玉澗若芬(ぎょくかん じゃくふん)です。猛玉澗と言う名前もそこに載っておりますが、猛の絵は下の部に分類されております。

『君台観左右帳記』の面白い所は、作品の出来不出来を上中下に分類して評価している点で、玉澗若芬の『山水草花竹』図は上の部に入っております。本能寺に持ち込まれたのはこの絵かもしれません。左右帳に載っている絵で上の部に入っている絵は、現在、国宝や重文に指定されているものが多いので、もしそうならば、国宝級の作品を失った事になります。

 

17. 牧谿(もっけい)筆くはいの絵

18. 牧谿筆ぬれ烏の絵

牧谿南宋から元にかけての画僧です。彼は臨済宗の高僧・無準師範の膝下で画業に励み、数々の優れた水墨画を世に送り出しました。牧谿の画風は日本の水墨画界に多大な影響を与え、長谷川等伯などもその例に漏れません。

ところが日本での高い評価にもかかわらず、本国・中国では見向きもされませんでした。原因は、宋や元では水墨画と言えば神仙思想に裏打ちされた、深山幽谷の峩々(がが)とした山に仙人が住む構図が持て囃されていたからです。牧谿の絵は、それとは対照的に、穏やかな、湖水や丘陵地帯の、どちらかと言うと日常的な風景を写生したものが多く、人々に受け入れられませんでした。で、価格も安かったのです。留学僧や渡来僧達が手土産にそういう安い牧谿などの絵を日本に持って来ました。湿潤で穏やかな空気感を漂わす彼の風景画が、日本人の心を掴んだのは言うまでもありません。侘び茶の勃興も相まって、牧谿は日本の水墨画の神様的存在になりました。今、中国では牧谿の作品は一点も無く、殆どが日本に在るそうです。

牧谿筆の『柿図』『栗図』の二図(重要文化財)から、『くわい図』を想像するに、さぞかし美味しそうに生き生きと描かれていた、と思わずにはいられません。また、雨に濡れたカラスを想像するだけで、しょぼくれながらも凛とした野生の姿が目に浮かぶようです。

なお、『君台観左右帳記』には上の部に僧牧渓『山水人物龍虎花鳥』がリストアップされています。

(参照:ブログ№56「鎌倉文化(12)肖像画・宗画」  2020(R2).10.19   up )

(参照:ブログ№81「室町文化(8)水墨画」  2021(R3).01.30  up )

 

19. 千鳥香炉

千鳥香炉と言うのは、聞香(もんこう)用の香炉で、その足に特徴があります。

聞香と言うのは、俗っぽく言えば匂いを嗅ぐ事です。香道では、「嗅ぐ」を「聞く」と言います。香炉を掌の上に載せて、鼻を近づけてくんくん嗅ぐ事ですが、それでは余りにも身も蓋も無い表現です。心静かにしてお香が醸し出す世界と対話し、お香が語り掛けて来る話に耳を傾ける、そう言う意味で、お香を嗅ぐ事を「香を聞く」と申します。

で、千鳥香炉の事ですが、香炉の高台が、香炉を支えるべき足より背高に作られており、足は地に着いておりません。宙に浮いております。つまり、足は飾りです。足が着いていない事から、千鳥が片足を上げて浮かせている姿に似ているので、こういう型式の香炉を千鳥香炉と呼びます。徳川美術館にある『銘・千鳥』という千鳥香炉は青磁の香炉で、南宋の龍泉窯の産です。今川氏真から秀吉へ、秀吉から家康へ受け継がれたものです。

この千鳥香炉には面白いエピソードが有ります。石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだ時、千鳥香炉の蓋にあしらわれていた千鳥が鳴いて発覚、捕らえられて釜茹での刑になってしまった、という話です。

本能寺で焼失した千鳥香炉は、徳川美術館に収蔵されている銘「千鳥」とは別物でしょう。(ところで、現在本能寺の宝物館に「三足(みつあし)の蛙」香炉が展示されています。この香炉にも、蛙が鳴いて変事を知らせたという伝説があります。)

 

20. 二銘の茶杓

二銘の茶杓と言うのは、二つの名前を持った一本の茶杓という事でしょうか。

それとも、「二銘」と言う名の一本の茶杓でしょうか。

それとも、それぞれ銘を持った二本の茶杓と言う事なのでしょうか。はてさて、ややこしい。

多分、二本の茶杓だと思うのですが・・・

 

21. 珠徳作の浅茅茶杓

珠徳は村田珠光の弟子です。その珠徳が作った茶杓です。山上宗二記によれば、珠徳の茶杓は惣見殿(=織田信長)の時に火災に遭って失われた、と書かれています。茶杓の材質は「竹」だとか。銘は「浅茅」かと推察します。宗二記によれば、その茶杓の値は千貫だったとか。

 

22. 相良高麗火筋(ひばし)同鉄筋(てっぱし)

 

23. 開山五徳の蓋置

五徳は、火鉢や炉などで炭を扱う時に必要な器具です。炭火に縁がない生活をしていても、ガスコンロに使われている四角や丸型の4~6本足(爪)の器具が五徳ですので、馴染みがあるかと思います。開山五徳の蓋置と言うのは、本能寺を開山した時から使われていた五徳の形をした蓋置、と言う意味でしょうか。詳しくは分かりません。

 

24. 開山火屋(ほや)香炉

火屋と言うのは、篝火(かがりび)を入れる鉄製の笊(ざる)のようなものです。映像などで、戦の時に城や砦の庭に火屋を何基も置いて、盛大に篝火を焚く場面が出てきますが、あれが火屋です。火屋香炉とは、火屋の形をした香炉という意味です。勿論、茶席に使う香炉ですから、あの様な武骨な姿では無く、もっと芸術的です。

 

25. 天王寺屋宗及旧蔵の炭斗(すみとり)

炭斗は、炭や火箸や釜敷など、炉や風炉周りに必要な物を一纏めに入れて置く箱や笊です。

 

26. 貨狄(かてき)の舟花入

貨狄とは、中国の神話に出て来る舟の神様です。彼は中国の伝説上の黄帝(こうてい)に舟を造って献上しました。その貨狄の舟を模した花入れという事でしょう。

なお、貨狄尊者と言って、栃木県佐野市にオランダの人文学者・エラスムスの木像があります。国宝です。これは、ウイリアム・アダムス(=三浦按針)が乗って来たリーフデ号の船尾を飾っていた木像です。リーフデ号が日本に到達したのは1600年です。信長が本能寺に斃れたのが1582年の事ですから、信長死後18年後の事になります。なので、貨狄の舟花入れはエラスムス木像とは関係ありません。

 

27. 蕪(かぶら)なし花入

蕪無の花入れというのは、中国の青銅器の酒器・觚(こorくorかどorさかずき)を模した形の花入れで、室町の頃は古銅(金属)製でしたが、後に青磁器製も使われる様になりました。形は、上に向かって開いたラッパ型をしています。花瓶の首が上に向かって素直に曲線を描いて開いており、根本や途中で膨らんでおりません。もし、蕪の様にまるく膨らんでいれば、それは「蕪有り」です。ただ、重心を安定させる為に、畳付辺りが少し末広がりになっています。

 

28. 玉泉和尚旧蔵の筒瓶(つつへい)青磁花入

玉泉和尚が持っていた筒形の青磁の花瓶で、読んで字の通りのものだと思います。

 

29. 切桶の水指

水指とは、お点前の時に使う水を入れて置く器です。水指には色々な形の物が有り、又、材質も唐銅(からかね)・磁器・陶器・木製など色々です。

さて、「桶」と言うと木製の桶を想像しますが、懐桶(だきおけ)といって銅の桶や、鬼桶といって陶器製の水指もあります。これ等を見ると、もしかして「桶」と言うのは木製とは限らず、瓶や壺、盥(たらい)や樽の様な形状で、水を入れる容器の事を言うのかも知れません。

 

30. かへり花水指

返り花? 狂い咲きの花の事? 遊女の出戻り? それとも、仏様の蓮華座の事かしら? 蓮華座の一番下の反り返った蓮の花びらを返り花と言うらしいけれど、それと水指の形状と結びつかないのですが・・・お手上げです。ごめんなさい。どういう物か分かりません。

 

31. 占切水指(しめきりみずさし)

占切と言うのは南蛮渡来の器で、焼き締めて作られたものです。赤茶色に焼けた土肌で、釉薬は掛かっていません。また、胴回り全周に細い糸状の線が刻まれています。レコード盤の様な模様です。

 

32. 柑子口(こうじぐち)の柄杓立(ひしゃくたて)

柑子(こうじ)と言うのは、古来からあったミカンの一種で、温州みかんより小さく、種が多く、酸味が強いミカンです。

柑子口の柄杓立と言うのは、鶴首の花瓶の天辺が丸く膨らんでいて、その様子が丁度柑子を鶴首の瓶の上に載せた様な格好に見えるので、そう呼びます。花瓶を柄杓立に見立てています。

 

33. 天釜

天釜は、下野国佐野郡天明で作られた天明(てんみょうがま)の略でしょうか。確信は持てません。(天明釜は天命釜とも天猫釜とも書きます。発音は同じです)。もし、天釜が天明釜ならば、九州で作られた蘆屋釜(あしやがま)と並び称される程の名品中の名品です。

   (参照:ブログ№106「平蜘蛛の釜」  2021(R3).06.25 up)

 

34. 田口釜

お釜の形状の名前です。田口釜というのは、釜口の周辺の肩が張っているのですが、水平に張っているのではなく、少し凹んで張っています。

 

35. 宮王釜

さて、宮王釜ってどんなお釜なのか・・・ごめんなさい。これも分かりません。

 

36. 天下一合子水翻(みずこぼし)

合子と言うのは、小さい蓋付の入れ物の事です。大体が手の平に載る位の大きさです。香合や、京紅などの化粧品入れに使われます。

けれども、こと茶道に於いて言う合子建水(=水翻)は、それとは違います。蓋はありません。大きさは小振りの南瓜(かぼちゃ)位です。材質は、唐銅、佐波理、陶磁器、木製などです。「天下一」と謳われた建水ですから、唐銅に精緻な象嵌が施されている様な物ではないかなぁと、想像を逞しくしています。

 

37. 立布袋(たちほてい)香合

香合と言うのは、お香を入れて置く合子の事です。

「立ち布袋」と有りますので、その香合の蓋に立った布袋様が描かれているか、或いは、蓋の上に立った布袋像が乗っているかのどちらかだと思います。婆的には、布袋像が蓋の上に載っている方が面白そうだ、と思うのですが・・・

 

38. 藍香合

藍色の香合です。染付で絵柄が描かれているものなのか、細かい柄で全体的に藍色に見えるのか、その辺は分りません。

 

 

余談  茶碗の「碗」と「盌」

「ちゃわん」には「茶碗」と言う字と「茶盌」と言う字があります。「碗」と「盌」のどちらが正しいかと言うと、どちらも正しいです。一般的には石へんの「碗」が用いられることが多いのですが、漢字の謂れから言えば、石へんの無い「盌」が元の字で、「碗」はその異字体です。

 

 

 

151 姫路の狼狽(本能寺の変)

「光秀謀反」「上様討死」の驚天動地の報せは、全国に激震をもたらしました。

戦国期から江戸時代初期までの様子を著した本に「武功夜話(ぶこうやわ)」があります。その中に「明智日向守謀反の事」という条があり、その混乱振りが書かれています。

その部分は或る任務を帯びて姫路城下に滞在していた一隊の記録です。彼等は姫路城下で兵糧、馬草の準備をし、宿所の手配を行い、凸凹道が無い様に道普請などに励み、信長公動座が円滑に進むように、秀吉の命によって派遣された先遣隊でした。もし、中国大返しが無かったならば問題視しないのですが、秀吉の電光石火の大返しにそれが何らかの役に立っていたとしたら・・・仮に事前に変事を見越してそのような手を打っていたのだとしたら・・・そこにきな臭さを感じてしまいます。

ここに、新人物往来社発行 『武功夜話』前野家文書 吉田蒼生全訳の内の「明智日向守謀反の事」の条を引用します。

 

明智日向守謀反の事』

『一、天正壬午六月二日、亥の刻四つ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部殿(前野長康)、兵部大輔よりの密書を見られ候いて、愕然として声無し。その場に居合い候者、前野三太夫(宗高)、石崎頼母、武藤惣佐衛門、上坂勘解由左衛門、二宮右近大夫、前野清助門(義詮)丹波より夜中の御使者に候えば、上方において異変の出来如何なる急変なるや一座罷り居り候衆、およそ測り難く前将様の顔色を窺い暫時の間聞き糺す者とて無く候。前将様また無言蒼顔なりややあって気息相調え、兵部少輔(細川藤孝)よりの一書の趣申し語られ候なり。「明智日向守(光秀)逆心、洛中の御宿所本能寺に人数差し向け不意を討ち、御運拙く御最期の注進に候なり」、一座の者天下の大事、気転倒して徒に戸惑いなす術を知らずなり。思わず三太夫(前野宗高)口早に謂曰く、「明智の大軍日を追って播州乱入は必定、これを支うるに相抱えの人数慮るに播州これなく候。筑前様は備中表に罷り在り、姫路在番の人数と我等一千足らず、播州の進退殿には如何に御思案候哉」と、膝乗り出し詰め寄り候。その場の御詰めの者他に意見申す者これなく候。ただ魂魄を奪われ呆然、自らを失い様体浅間敷く候なり。この場において下知候事。

一、「兵部少輔殿よりの注進、よもや相違いある間敷く候。明智日向殿へ同心これなきの覚悟明白、斯くなる上は悪戯に逡巡して、天下後世にそしりを招く、これ武者の本意にあらざるなり。本能寺の出来、急度備中陣の筑前様に注進の事」

一つ、直ちに此処に散在の者ともを呼び寄せ、陣用申し付けるべき事。

一つ、姫路御在番、真野右近(助宗)の元までこの旨至急注進の事。

一つ、手利(てきき)の者撰び摂津表へ罷り立ち、諸将の動き細作候て、上方の明智日向の進退見究めの事。

一つ、右の如く前将様御指図なされ、御具足を御守備先罷り出で候者、明けて三日寅七ツ半の頃合いに候なり。素走りの前野九郎兵衛(行宗)、古田吉左衛門備中おもてへ罷り立ち候は卯六ツ刻に候。酉四ツ刻までには御馬場先に参集の人数、二百有余人急変出来に付き眠る事も能わず詰め居り候。

一、大坂摂津表罷り立ち候者。

上坂勘解由左衛門   児玉左衛門

小野木重之衛門    前野伝左衛門

田尻右近大夫

右の者ども首(かしら)にて十三人、身支度調え卯の下刻出で立ち候。

                              (以下略)』      

※ なお、「出来」は「しゅったい」と読みます。

 

この後、摂津表に放った上坂勘解由左衛門はじめ斥候達が戻って来て現地の報告があったり、前将様が指示を出そうにも、陪臣の身で勝手に動くわけにもいかず、筑前様へご注進したもののその返事を待つまでの間、徒(いたずら)に時間が過ぎて行くのを口惜しがったりしている描写が続きます。又、国元の領国に一揆蜂起があったらどうしようとか、播州一千の人数では明智軍の侵攻を支えきれないが、兎にも角にも武備を怠らず警戒を最大限にと・・・切羽詰まった様相が書き綴られています。

 

武功夜話」について   

武功夜話』は、研究者の中には偽書の疑いの目で見る人も有り、第一級資料としては見なされていない様です。

武功夜話』は、尾張国丹羽郡前野村の庄屋・吉田雄翟(よしだ かつかね)が、家に伝えられてきた前野家文書を整理・編集したもので、織田信長豊臣秀吉の頃の事情が書かれています。

雄翟(かつかね)の祖父は、元の名を前野宗吉と言っていましたが、母の実家である吉田城主・小坂家の跡を継いで小坂孫九郎宗吉と名乗りました。その後、織田信雄(のぶかつ)に仕え、雄の偏諱(へんき)を賜って雄吉(かつよしorおよし)となります。雄吉は、太田孫左衛門(=太田牛一(『信長公記』の著者))とも昵懇の間柄だったそうです。

雄翟の父は、小坂助六雄善(こさか すけろく かつまさ)と言って、織田信雄に仕えていました。その後、松平家に仕えますが浪人します。浪人の身分を恥じ、武門の名を汚さない為に名前を小坂から吉田に変えます。父・雄吉(かつよし)が書き残した覚書、伝記、系図、証文などを子の雄善(かつまさ)が整理し纏めますが、完成を見ず志半ばで倒れ、その志を孫の雄翟(かつかね)が受け継ぎました。家に残された「前野家文書」を子々孫々に伝えるべきものとして編集し、纏めたのが「武功夜話」です。まだ、家に仕えていた古老が存命だった事も有り、夜物語に聞いた彼等の話なども取り入れたりなどしたので、「夜話」という表題になったと思われます。

この作業は関ケ原の戦いから34年後の1634年(寛永11年)に、雄善が着手し、雄翟に受け継がれました。公家の日記と違い、その日に書いたという同時制がありませんが、祖父がその時々の覚書や証文などを書いたものを基に、子孫が「武功夜話」として纏めたと言われていますので、元になった基礎資料には同時制があったと思われます。

編集作業は年月が経ってから行われたという点、編纂の過程で創作的な加筆が有ったらしいという疑点などで、信頼度が今一つ足りないと言われています。「武功夜話」の資料的価値について否定的な意見もあれば、肯定的な意見も有り、研究者の間で、侃々諤々(かんかんがくがく)の様相を呈しています。

 

光秀、なぜ謀反を?

本能寺の変のおよそ1年前から直近までの日本中の動きを見てみますと、信長麾下の武将達の動きや対抗勢力の動きなどは一刻として留まっておらず、同時多発的に、実に複雑に流動しています。この全体像を把握し、人員の配置などの指令を次々と飛ばして統括している信長って、なんて凄い人なのだろうと、感心してしまいます。

光秀は、初め将軍義昭に仕えていました。彼は義昭の「信長を倒せ」の檄に呼応して信長を討ったのでしようか? 婆はそうとは思いません。何故なら、光秀が義昭から信長へ主君替えをした時に、既に彼は義昭を見切っていたと、婆は見ています。信長の出した17ヶ条の意見書の話半分だとしても、到底義昭が将軍の器に値するとは思えません。義昭は旧習に固執した名誉欲の塊です。御神輿の鳳凰に祭り上げるには打って付けですが、統治能力は皆無に近いのです。義昭を傀儡政権にして光秀が力を伸ばしたとしても、いずれは将軍の我欲と能吏の光秀は衝突します。義昭と信長が敵対した様に、同じ権力の相剋が再現されたでしょう。

この事件には、恨み説、野望説などを基にした単独犯説、主犯が何処かに居て彼等に踊らされた黒幕説、共謀説等々諸説50を超えるほどあり、謎の解明は未だもって成し遂げられていません。

 

もしも婆が光秀ならば・・・彼の心を探って

光秀は、本能寺の変を起こす丁度1年前の6月2日、明智家の「明智家法」の後書きに「信長様への奉公を忘れてはならない」と書いているそうです。と言う事は、1年前までは謀叛を考えていなかった、と言う事になります。尤も、それを忘れそうになるから戒めとしてスローガンの様に提示する場合も有りますが・・・婆が注目したのはそう書いてから2か月後に「御ツマキ」が亡くなった事です。「御ツマキ」とは「御妻木の方」或いは「御妻木殿」と呼ばれていた信長の愛妾で、光秀の妹 or 義妹です。彼女は奥向きでかなりの力を持っていたらしいです。光秀と共に興福寺東大寺の争いを調停したり、公家衆も彼女に贈り物などをしています。信長と光秀の間がギクシャクしても、彼女が潤滑油か接着剤の役目をして上手くバランスを保っていたのではないかと思います。

ところが、彼女が亡くなってしまいます。『言経(ときつね)卿日記』によると、光秀は彼女の死に「比類なく力を落した」そうです。「いたく悲しむ」なら理解できますが「比類なく」と言う表現は尋常ではありません。光秀は重大な精神的ショックを受け、全てを悲観的に捉える様になってしまったのではないでしょうか。三好長慶が良い例です。長慶は肉親を立て続けに3人失い、鬱病に罹り、気が狂って弟を城に呼び出して殺してしまいました。自分の罪に自暴自棄になり、落胆の余りその一か月半後病死してしまいます。

四国攻めの時、長曾我部を調略するにも和平に持ち込むにも、必要欠くべからざる手駒として斎藤利三(さいとう としみつ)を、稲葉一鉄から引き抜いて自分の家臣にします。ところが、一鉄はそれに抗議して信長に訴えます。信長は利三を一鉄に返す様に命じますが、光秀はそれを拒否します。光秀は内心こう思ったでしょう。「四国攻めに最適の人材を得たのに、それを手放せと言うのか?それが出来ぬのなら、利三を殺せと? 利三を抜擢したのはこの儂だ。利三に何の顔向けができようか?」光秀の拒否が信長の逆鱗に触れ、信長は利三に切腹を命じてしまいます。しかも、光秀が命ぜられたのは四国攻めではなく、備中に居る秀吉への援軍です。

斎藤利三の異父妹は長曾我部元親の正室です。四国征伐の渡海の予定日が6月2日。事態は切迫していました。事態を悪い方へ悪い方へとネガティブ思考に転がり落ちる光秀。逃げ場のない隘路(あいろ)の先に見たのは、信長の身辺の軍事的空白・・・万に一つも無い奇跡のエアポケットの出現です。

 

戦場の棋譜

戦国時代の武将と言うものは、戦場を将棋の盤面を見る如くに何十手先を読んだ上で、今の一手を打ちます。例えば、武田信玄上杉謙信が戦った川中島の妻女山の戦いです。相手の心理を読み、その裏を搔いて行動しています。三方ヶ原の戦いの末に家康が「空城の計」をもって信玄を翻弄させた話などはそのいい例です。

秀吉は、乱世を生き抜き天下の頂点に立った人物です。AIコンピューターの棋士の様に、先のあらゆる手筋を読んでいたでしょう。

信長が僅かな供回りで京都にやってきて京都に軍事的空白が生まれました。そのエアポケットの危険性を秀吉は十二分に承知していたと思われます。何しろ義昭が狙われた「本圀寺(ほんこくじ)の変」という前例があります。義昭の兄・義輝が殺された「永禄の変」もあります。将軍の警備が手薄だった、と言う点では万人恐怖の義教の「嘉吉の乱」があります。光秀特定でなくても、三好氏、六角氏、一向宗丹波衆など、虎視眈々と狙っている勢力がありました。

京都の信長に万一があった場合にすぐ備中から引き返せるように、姫路城下に兵糧などの備蓄をさせたり、道路工事をさせたりしたのかも知れません。いやいや、もっと秀吉の腹の中を探れば、エアポケットの罠を仕掛け、そこに誰かが嵌る事を念頭に、次の一手でソイツを倒すことくらい考えていたかもしれません。謀反人襲撃に持ち堪(こた)えて上様がご無事ならば、一番に駆けつけた秀吉は「でかした!」と褒められるでしょう。もし上様御最期ならば、ソイツをやっつければ天下を望む事が出来ます。また、何事もなく平穏無事ならば、上様御動座恙なく誠に大慶至極で「愛(う)い奴」と覚え目出度い事でしょう。秀吉は、両面作戦どころか多方面作戦を打ったのではないかと、婆は邪推しています。

 

秀吉は腹黒

秀吉は腹黒い人物です。稀代(きだい)の「人たらし」と呼ばれる程腹は真っ黒です。人たらしは、つまり表面はお人よしで真面目で如才無く見えますが、腹の中は極上の策士です。そして、策士は名優も驚くほどの名演技をします。

「敵の総大将・毛利輝元が間も無く出陣」と信長に報告し、秀吉は信長の出陣を要請しました。つまり、動座を促して京都に軍事的空白を創り出したのは秀吉です。その空白の罠に嵌ったのが光秀。秀吉は教唆(きょうさ)も何もせずに、光秀を自発的に動かしました。勿論、光秀が謀反に動くかどうかは確率の問題。全く動かなかったとしても、秀吉にとっては何の痛痒(つうよう)も無く、目出たい事なのです。

と、まあ、これは婆が妄想して描いたシナリオです。感情面だけで推理したものなので、論拠は穴だらけ。お笑い下さい。

 

余談  春日局

斎藤利三本能寺の変の後、捕らえられ、処刑されました。利三の娘・福は、稲葉一鉄(良通)の外孫です。利三が処刑された後、稲葉家は福を引き取り育てました。後に、稲葉家の親戚の三条西家に預けられ、公家の教養を積みます。そして、徳川竹千代(=家光)乳母として出仕し、竹千代を三代将軍に就ける様に努力します。徳川幕府盤石の礎を築いた功は大きく、朝廷から春日の局の名号を賜ります。

 

150 信長年表6 本能寺の変

前号では、室町幕府滅亡、浅井・朝倉滅亡、伊勢長嶋一向一揆討伐、長篠の戦いで織田・徳川連合軍勝利、そして、1576年3月25日(天正4年2月25日)に信長が安土城に入ったところまでを年表にしました。

今号は、手取川の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦い、高松城の水攻め、四国攻め、そして、本能寺の変までを扱います。

信長は、毛利と天下統一に向けて協力関係を築いていましたが、天正3年以降、膨張する毛利氏を抑える為に、毛利包囲網を構築する方向に動きます。

信長は、毛利勢力圏と織田勢力圏の境界にある緩衝地帯・播磨地方に手を伸ばします。二者に挟まれて揺れ動く播磨地方に割拠する小国領主達。オセロゲームの様に向背が変わります。そんな中で起きた上月城の戦いで秀吉側が勝利します。が、言う事を聞かなかったらどうなるか、見せしめのために秀吉が行った降伏した城兵皆殺しと、女達の磔、子供らの串刺しなどの凄惨な虐殺が、播磨人を凍り付かせ、却って織田からの離反に拍車を掛けます。領民に一向宗徒を抱える三木城の別所長治も、有岡城荒木村重も、織田のやり方に従えませんでした。

 

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:天正元年→天正01)  〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。 〇超有名人は氏を省略する事も有り。織田信長→信長。足利義昭→義昭。羽柴秀吉→秀吉。毛利輝元→輝元等々外にも。

 

年表

1576(天正04.05) 信長、本願寺討伐の為出陣、四天王寺一向一揆衆を破る。

1576(天正04.05中旬) 上杉謙信、義昭の要請により石山本願寺と講和する。

これにより、謙信、上洛の道が開け、謙信と信長の同盟は破綻する。

1576(天正04.09) 謙信、一向一揆支配下の諸城を攻め落とし、越中を平定する。

1576.10.05(天正04.09.13) 義昭の求めにより武田勝頼が上杉氏と講和する。

1576(天正04.11) 信長、正三位に叙せられ、内大臣になる。

1576(天正04.11) 上杉謙信能登に侵攻し七尾城を攻囲。(第一次七尾城の戦い)

1576.12.14(天正04.11.24) 義昭、毛利輝元に足利家の家紋の桐紋を与える。

1576.12.15(天正04.11.25) [三瀬の変] 信長、伊勢の北畠氏を乗っ取る。

信長は次男・信雄(のぶかつ)を伊勢の北畠氏に婿養子として送り込む。後に信雄は、義父・具教(とものり)と義兄弟を殺害、更に北畠氏家臣達を供応し謀殺。北畠氏を乗っとる。

1577,03.20(天正5.03.01) 信長、雑賀・鈴木孫一の居城を攻撃。孫一ら一揆勢降伏。

1577(天正5.06) 信長、安土城下に13ヶ条の掟書を出し、安土城下の繁栄を図る。

1577.07.21(天正5.07.06)  信長、新造の二条屋敷に正式に入居する。

1577.11.03(天正5.09.23) [手取川の戦い] 織田vs上杉。織田大敗北。

能登の守護・畠山義隆の跡を継いだのは幼児の嫡男・畠山春王丸である。実権は重臣の長続連(ちょう つぐつら)と綱連(つなつら)父子が握っていた。家中は親織田派と親上杉派とに分かれていた。上洛を意図する謙信は、親織田派の長父子の存在は排除すべき勢力だったが、七尾城は難攻不落の城で攻め落とせなかった。関東の北条の動きも有り、謙信は一旦春日山城に戻った。その間、畠山軍は上杉方の城を次々と落とした。謙信、再度七尾城に出陣し攻囲する。長氏、信長に救援を求め、七尾城に籠城する。同年8月、織田軍は、総大将・柴田勝家の下、滝川一益丹羽長秀前田利家佐々成政、など錚々たる武将達が4万の兵を率いて出陣する。途中、羽柴秀吉、戦列を離れ、引き上げてしまう。

一方、七尾城内に疫病が蔓延し、城主・春王丸は病死。謙信は遊佐続光(ゆさ つぐみつ)と内通して、長一族を皆殺しにし、落城させる。織田軍、同年9月23日手取川を渡河。織田軍が七尾城落城を知った時には、いきなり上杉軍とぶつかり、陣形を立て直す暇も無く算を乱して退却。折から増水していた手取川に足を取られ、討死する者や溺死する兵が多く出た。

1577(天正05.08) 松永久秀、信長に背き、信貴山城に立て籠る。

1577.11.19(天正05.10.10) 織田信忠信貴山城を落す。松永久秀・息子と共に自害。

1577.01.30(天正05.12.23) 謙信、次の遠征に向けて、大動員令を発した。

1578(天正06.01) 信長、正二位に叙せられる。

1578.04.19(天正06.03.13)  上杉謙信、病没。享年49

1578.04.20以降(天正06.03.14以降) 「御舘の乱」上杉謙信死去に伴い、後継者争いが起きる。

御舘の乱に乗じて、武田勝頼、北信濃へ出兵し、乱に介入する。

1578(天正06.06) 九鬼嘉隆、信長の命により鉄船造船、雑賀の水軍を破る。

鋼鉄船を手にした事に拠り、信長、大阪湾の制海権を握り、本願寺の補給路を完全遮断に成功。

1578.09.12(天正06.08.11) 細川忠興明智たま、勝竜寺城で結婚する。

1578.12.04(天正06.11.06) 九鬼嘉隆、甲鉄船6隻が、毛利水軍600隻を木津川河口で破る。

1578(天正06.12) 輝元、出陣を決意。出陣は天正7年1月16日と定めた。

輝元、武田勝頼徳川家康を攻撃し、織田の兵力を惹き付ける様に要請するも、毛利家臣・市川元教と松山藩主・杉重良の謀反が勃発。毛利氏、出陣を取り消し、上洛を断念する。その後の輝元は、義昭の再三の督促を無視。動かなかった。

1579(天正07) 秀吉、美作(みまさか)宇喜多直家を毛利から離反させ、織田側に服属させた。

1579(天正07) 安土城天守、竣工。

1579(天正07)  長曾我部元親、十河軍(十河存保そごう まさやすorながやす)に大勝。三好康俊も降伏。

1579(天正07.06) 光秀、丹波八上(やがみ)城を攻撃し、落す。

信長の命により、光秀、天正3年より丹波を攻略。堅城の八上城を光秀は完全に包囲し、兵糧攻めにする。天正7年6月、ついに落城。城主・波多野秀治とその兄弟3人は安土に連行され、処刑される。なお、光秀の母が波多野側の人質になり、波多野兄弟が処刑された時に磔にされて殺されたという悲劇の物語がある。が、史実では無い、と言われている。

1579(天正07.01) 毛利氏の重臣・杉重良が大友氏の調略で謀反。

杉氏、毛利氏の背後を脅かした。

1579.02.26(天正07.02.01) 上杉家の後継者争い、景勝に定まる。

景勝(長尾家血筋)が、御館の景虎(北条氏の血筋)に総攻撃を掛けた。北条方が雪に阻まれて救援困難の中、上杉憲政上杉景虎、道満丸が和議を求めて出頭する途中捉えられ、殺害された。

1579(天正07.05) 安土城天守閣完成。

1579(天正07.05) 浄土宗と法華宗による安土宗論が行われる。

1579(正7.08) 柴田勝家、加賀へ侵攻す

1579(天正07.09.) 伯耆の南条元続(なんじょう もとつぐ)、輝元に叛旗を翻す。

1579(天正7.09) 家康、北条氏と同盟を結ぶ。

1579.10.05(天正7.09.15) 家康嫡男・信康、切腹

1580(天正8) 有子山城の山名尭煕(やまな あきひろorたかひろ)父と意見が対立し逃亡。

尭煕、秀吉の陣営に赴き、帰順する。父の山名祐豊(やまな すけとよ)、秀吉に降伏後死去。自刃とも病死とも言われている

1580(天正8) 光秀、丹波平定の功で、丹波一国29万石を加増されて、計34万石を領する。

1580(天正8) 長曾我部元親、阿波・讃岐の両国をほぼ制圧する。

1580(天正8) 信長、長曾我部元親に臣従を迫る。元親、これを拒絶。

 

三木城の戦い (三木の干殺(ひごろ)し)

 1580.02.02(天正8.01.17) 羽柴秀吉、播磨の三木城を落す。三木城の別所長治が自害する。

三木城の戦いとそれに関連した動きを、過去に遡って辿り、落城迄をここに纏める。

[経過]

三木城の干殺しと呼ばれる籠城戦は1年10ヵ月に及んで落城、城主・別所長治の自害をもって終止符が打たれた。信長は毛利膨張に歯止めをかけるべく、毛利との協力関係を見直し、政策を毛利封じ込めに転換、1574(天正1)年に、浦上宗景備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出した。これは毛利勢力圏に織田の楔(くさび)を打ち込むようなものである。毛利氏と宇喜多氏これに反発し、浦上氏と敵対。そして、

1576.06.09(天正04.05.13)に、輝元、領国の諸将に、義昭の「信長打倒の挙兵」の命令を受ける事を伝える。

義昭は、毛利軍を幕府軍と位置付けた。

1576.08.07(天正04.07.13)、毛利、織田水軍を破って本願寺に兵糧搬入に成功。反織田の旗色を鮮明に出す。

1577.12.02(天正5.10.23) 信長、羽柴秀吉に、山陽道山陰道の攻略を命ず。

姫路城代・小寺孝高(こでらよしたか)(=黒田官兵衛)、姫路城を秀吉の軍事拠点に提供する。

1577(天正5.12) 羽柴秀吉宇喜多直家の支城・播磨国上月城(こうづきじょう)攻略。

上月城が落城した時、秀吉は降伏した城内の将兵や婦女子に対して、残酷な虐殺を行い、皆殺しにする。落城後、秀吉は上月城尼子勝久と幸盛を入れる。

1578(天正06.02) 別所長治が織田から離反し、毛利氏に付く。

東播磨の諸勢力がこれに同調。

1578.05.05(天正6.03.29) ~1580.02.02(天正8.01.17) 秀吉、三木城包囲を始める。

1578(天正6.04) 輝元、吉川・小早川と共に播磨に進軍。輝元も備中高松城に入る。

1578.05.07(天正6.04.01)  別所長治、織田に協力的だった細川庄の領主・冷泉為純・為勝を攻撃。秀吉からの援軍が来ず、冷泉父子自害。

1578.05.09~1578.05.12(天正6.04.03~6.04.06) 秀吉、別所支城の野口城を落とす。

1578.05.24~1578.08.06(天正6.04.18~6.07.03) 毛利氏、尼子氏残党が籠城する上月城を包囲。

毛利軍(30,000)と尼子(2,300)+秀吉(10,000)で戦い、尼子・織田側敗北、上月城落城。

1578.08.09(天正06,07,06)、尼子氏残党、降伏。尼子勝久と弟・氏久は切腹

この戦いで輝元は、安芸・周防・長門備前・備中・備後・美作・因幡伯耆・出雲・隠岐・石見・讃岐・但馬・播磨・豊前の領土を支配するようになる。

1578.06.04(天正6.04.29) 光秀、播磨へ派遣され、神吉(かんき)城攻めに加わる。

1578(天正6.10) 摂津有岡城荒木村重が、信長に謀反。[有岡城の戦い]

村重の領国・摂津国の南側は瀬戸内海に面していて良港があり、海上輸送の便がある。ここから三木城への補給路を繋げば、三木城へ兵糧搬入が可能になる。その重要な交通の要衝にいる荒木村重が毛利へ寝返った。

謀叛を起こした村重に、高山右近中川清秀、塩川国満、能勢頼道、吹田村氏等が与し、小寺氏、櫛橋氏、在田氏、宇野氏らも毛利方に就く。高山右近には宣教師のオルガンティノなどが説得に当たり、中川清秀には古田織部が説得に当たった。説得工作の結果、同年11月16日に高山右近が降伏し高槻城を開城、同月24日に中川清秀が降伏して茨木城を開城、安部仁右衛門の大和田常も開城した。

1578(天正6.11) 荒木村重黒田官兵衛の説得も効果無く、逆に官兵衛が幽閉される。

1579(天正07.05) 宇喜多直家、東美作の後藤勝基などを、信長方内応の理由で滅ぼした。

1579(天正07.06) 宇喜多直家、毛利氏に対して叛旗を翻し、信長に従った

1578.12.12(天正6.11.14) 信長、5万の兵で有岡城を取り囲み、総攻撃を命ずる。

中川清秀と、古田重然(=織部)はこの戦いに参陣、原田砦に配置される。

1579(天正7.05.02) 山科言経(やましな ときつね)、御ツマキに贈物をする。

(※ 御ツマキは明智光秀実妹or義妹にして信長の愛妾)

1579.09.29(天正07.09.10) 平田砦の戦い(三木城包囲砦の一つ。織田側が構築したもの)

織田軍の鉄壁の包囲網に、三木城では兵糧が尽きた。毛利側の食糧補給の作戦はことごとく失敗。毛利の大将・生石中務少輔が雑賀衆を率いて夜陰に乗じて平田砦を襲撃、大混乱になり、守備隊の将兵の多くが討死している。一夜明けて翌日、城に更に近い大村砦に戦場が移った。食料受け渡しの為に城から打って出てきた別所義親軍は、毛利と合流をしたが、駆けつけてきた秀吉軍と衝突。数の上では別所・毛利軍の方が上だったが、別所軍の餓えた兵の体力が持たず劣勢に転じ、別所側が大敗北をした。この時、平田砦で古田重則(秀吉側)も討死。(古田重則は古田織部の伯父と言われている。重則嫡男に重勝がおり、重勝は重然(=織部)と混同される事がある。)

1579(天正07.10) 宇喜多直家が毛利から離れる。

1579.09.22(天正07.09.02) 荒木村重有岡城から脱出し、嫡男・村次の居城・尼崎城に行き、雑賀衆などに救援をも求めるも、成功せず。

1579(天正7.09.25) 吉田兼見明智光秀館訪問の際、御ツマキに酒と食籠(じきろう)を渡す

1579.11.03(天正07.10.15) 織田軍、有岡城に総攻撃を掛ける。

1579(天正07.11) 荒木村重に与していた高山右近中川清秀、小岸存之やその他幾つかの城が織田方に帰順、村重孤立する。

1579.12.07(天正07.11.19) 有岡城、城守備の荒木久左衛門により開城す。

1579(天正07.12) 荒木村重、花隈城へ移り、なおも戦闘を続ける。

1579.12.30(天正07.12.13) 有岡城の家臣の妻子122名磔の上、銃殺。更に、男124名、女388名を4軒の農家に押し込め、火を放って焼き殺した。

1579.01.02(天正07.12.16) 村重一族と重臣の家族36人京都市中引き回しの上斬首。

1580.01.07(天正07.12.21) 信長、播磨から京都へと帰陣する。

1580.02.02(天正8.01.17) 別所長治とその一族、切腹

 

別所長治辞世

  今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちにかわる 我が身と思へば

 

1580(天正08.07) 荒木村重、万策尽き毛利へ亡命。

 

 

1580(天正08.閏3.05)      顕如が信長と勅命講和に応じ、大坂退去。石山合戦終結

1580(天正08.05) 但馬と播磨の毛利方勢力、織田に降伏。

1580(天正08.06) 長曾我部元親、阿波岩倉城の三好康俊を服属させた事を信長に報告する。また、康俊の父・三好康長が長曾我部に対して敵対しないよう、信長に依頼。信長了解す。交渉役は明智光秀が担当。

1580(天正08.08) 信長、丹波明智光秀に、丹後を細川藤孝に与える。

1580(天正08.08) 本願寺顕如、退城。その後石山本願寺焼失。

1580(天正08.08) 信長、近衛前久を頼り、島津・大友と和平を図る。

1580(天正8.08) 信長、林通克親子・佐久間信盛親子を追放

1580(天正8.10) 光秀、大和検知奉行として奈良に派遣される。

津田宗久と光秀の交流有り。

1580(天正8.11) 柴田勝家加賀一向一揆を平定

1581(天正9) 信長、京都で馬揃えを行う。光秀、馬揃えの運営責任者を任される。

1581(天正9.) 家康、高天神城を奪還する。徳川家康 vs 武田勝頼

1581(天正09) 秀吉、淡路侵攻。岩谷城落城

1581(天正09.02) 長曾我部元親、土佐国主・一条内政を追放。

この頃、秀吉と三好康長が接近。秀吉は三好氏の水軍と連携し、毛利水軍に対抗しようとしていた。

1581(天正09後半) 光秀、1580(天正08)年、信長から発せられた「信長に臣従せよ」の命令に、長曾我部元親を従わせることが出来ず、説得失敗する。

1581(天正09.02) 信長、天覧・馬揃えを行なう

1581(天正09.02) 宣教師ヴァリニャーノ、黒人従者を連れて信長と謁見

1581.03.18(天正9.02.14) 宇喜多直家岡山城で病死。死は伏せられた。

1581(天正09.03) 再度馬揃えを行なう。

1581(天正09.03) 長曾我部元親、信長の支援を受けた三好康長・十河存保から反攻を受ける。元親に服属していた三好康俊(康長の嫡男)、元親から離反する。

1581(天正09.06) 羽柴秀吉因幡へ侵攻

1581.07.02(天正9.06.02) 光秀、「明智家法」の後書きに、「信長様への奉公を忘れてはならない」との感謝の文を書く。

1581(天正09.08) 信長、前田利家能登国を与える。

1581(天正09.08)  信長、安土城で馬揃えをする

1581(天正09.08)  信長、西国平定を決意し、細川藤孝明智光秀に兵糧の準備をさせ、鳥取川に停泊させる。

1581(天正09.09) 織田信雄ら伊賀平定

1581.09.04 or 05(天正9.08.07 or 08) 光秀の実妹or義妹の御ツマキが死去。

この時「光秀比類なく力を落す也」と「言経(ときつね)卿記」に書かれている。

 

鳥取城の戦い(鳥取の渇(かつ)え殺し)

1581.11.21(天正09.10.25) [鳥取城の戦い] 羽柴秀吉(織田軍)vs吉川経家(毛利軍)

(経過)

前年の1580(天正8年6月)、信長の命により中国攻略に出陣した羽柴秀吉は、この月因幡に侵攻、鳥取城を3か月にわたり攻囲した。鳥取城内では徹底抗戦派が支配的だったが、城主・山名豊国だけが降伏を主張。ついに家臣達によって追放され、豊国単身で秀吉陣営に赴き、同年9月に降伏した。翌年1581年(天正9年3月)、家臣達は新しい城主に毛利家から吉川経家を迎え、戦争継続する。

「第二次鳥取城攻め」秀吉は商人に指示して、因幡国周辺の米を高値で買い取り、更に、経済封鎖をする為70か所以上に砦を構築、12㎞に及ぶ封鎖線を張る。また、海上より物資搬入を阻止すべく、港も封鎖。港から鳥取城に至るルート上の城も落とし、万全の備えをしていた。吉川経家鳥取城に入った時、第一次鳥取籠城戦3か月の後だったので食糧備蓄は底を尽き掛けており、経家が更なる備蓄を増やそうとした時には、既に秀吉の包囲網が完成していて、叶わなかった。毛利が海上から支援しようと、鳥取城近くまで物資を運んだが、秀吉の無敵の防備に阻まれてしまった。

秀吉は次の一手でダメ押しをした。それは、領民を攻撃して無傷のまま城に追い込んだのである。城内の備蓄はたちまち空になり、飢餓が始まった。鳥取城の渇(かつ)え殺し」として歴史に有名なこの兵糧攻めで、城内は馬も木も草もことごとく食べ尽くした。1581年(天正9年8月)には餓死者が出るようになった。しまいに死者の人肉も食する様になり、更に衰弱した者を殺して食べるまでになり、城内は凄惨を極めた。

吉川経家は、この状態を見て降伏を決断。自分の命と引き換えに、兵と領民を救う様に懇願した。秀吉は。経家の将としての器を惜しみ、生きる道を選ぶように説得したが、経家は承知せず、覚悟の切腹を果たした。

開城後、秀吉は生き残った者に粥を与えたが、空腹に駆られてガツガツと食べた者は、胃が受け付けず、却って体が拒否反応を起こして多くの者が死んで行ったと言う。

この鳥取の渇え殺し」は、「三木の干殺し」高松城の水攻め」と共に、秀吉の攻城戦の中で最も有名な三つの戦いである。

 

吉川経家辞世

  武夫(もののふ)の取り伝へたる梓弓 かへるやもとの栖(すみか)なるらん

 

1581(天正9.11) 羽柴秀吉、淡路島を平定。

1581.12.29(天正9.12.04)  光秀、「明智家中法度」五か条を制定。

儀礼、武人の公論禁止、喧嘩の厳禁。違反者即時成敗・自害を命ずる掟。

1582(天正10) 天正遣欧少年使節マドリードフェリペ2世に謁見

1582(天正10) 信長、長曾我部元親と断交

1582(天正10.01) 光秀、正月の茶会で信長の自筆の書を床の間に掛ける。

1582(天正10.01) 追放された佐久間信盛病死。息子信栄を赦免し、安堵す。

1582(天正10.01) 信長、伊勢神宮の修築に3千貫寄進

1582(天正10.02) 四国遠征軍・神戸信孝(かんべのぶたか or のぶのり)の先陣として、三好康長が阿波に侵攻。(※ 神戸信孝織田信孝(信長三男))

1582.02.01(天正10.01.09) 宇喜多直家の死亡を公式に発表。

1582(天正10.02) 信長・家康、本格的に武田領を侵攻。

1582(天正10.02) 毛利軍と宇喜多軍、備前八浜城で合戦する。

毛利氏、宇喜多直家病没後、その隙を突いて侵攻。毛利氏勝利、宇喜多氏大敗。宇喜多氏、毛利の侵攻を秀吉に報告。秀吉、この報告を受けて、中国地方への出陣を決意。

1582(天正10.03) 織田信忠信濃高遠城を落す。

信長、信忠の高遠城攻略の褒美として、刀を譲り、天下の支配権を信忠に譲る。

1582(天正10.03) 武田勝頼、信長や家康に攻められて自害。(甲州征伐)

 

武田勝頼辞世

  おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端(は)

 

1582.04.25(天正10.04.03) 甲斐の恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)、火中に滅す。

快川和尚、織田に敵対した佐々木次郎(=六角義定)、義昭家臣、三井寺の上福院を匿い、織田からの引き渡しを拒否。寺が焼き打ちにあった。快川和尚、は臨済宗妙心寺派の禅僧。和尚が美濃に在る時、稲葉一鉄、その膝下に学ぶ。

1582(天正10.03.08) 秀吉、信長の命により、中国征伐に出征して備中を攻める。

1582(天正10.03.17) 於次丸秀勝(=信長四男・秀吉養子・羽柴秀勝)、初陣を果たす。

初陣は備前児島の常山城(つねやまじょう)攻めで、高松城攻めにも参加。

1582(天正10.04) 秀吉、備中高松城攻略。水攻め

1582(天正10.05) 信長、神戸信孝を総大将にして四国攻撃軍が編成される。四国攻撃の為の渡海は6月2日予定。

長曾我部元親、事前に斎藤利三宛に信長への恭順を示した書状を出している。(元親の正室斎藤利三(さいとうとしみつ)の異父妹。斎藤利三稲葉一鉄(信長家臣)の家臣であった。明智光秀が一鉄から無断で利三を引き抜いたので問題を起こしていた。)

1582(天正10.05) 羽柴秀吉高松城水攻め。毛利元就吉川元春小早川隆景救援に駆けつけるも、手も足も出ず。(船の調達が出来なかった)

1582(天正10.05) 信長、阿波国織田信孝(=神戸信孝)に与える。

1582(天正10.05.12) 光秀、家康饗応の為の調度を奈良興福寺から借り、安土城に運び込んだ。

1582.06.05~1582.06.07(天正10.05.15~05.17) 信長、徳川家康穴山梅雪(=武田信君(たけだ のぶただ))安土城で接待。明智光秀饗応役を務める。

信長と光秀の間に饗応に対する意見の食い違いがあったようだが(フロイス記)、料理が腐っていたという「川角太閤記」の話は伝聞・風説を基にしたものと思われ、「信長公記」にも一次資料にも載っていないそうである。

穴山梅雪武田勝頼の従兄弟。甲州攻めの時、信長側に寝返る。よって許される。家康は駿河国拝領の御礼、梅雪は赦された御礼で二人揃って安土に参上。なお、梅雪、この時金2千枚(現時価200億円)を献上)

1582.06.09(天正10.05.19)  信長、家康らと能を観る

1582.06.11(天正10.05.21)  家康一行、安土より上洛。28日まで京都見物。

織田側から案内人として長谷川秀一(はせがわ ひでかず)がつく。

1582(天正10.05下旬) 斎藤利三(さいとう としみつ)、信長より切腹を仰せ付けられる。

明智光秀斎藤利三稲葉一鉄から引き抜き、自分の家臣とした。更に、光秀は斎藤利三以外にも引き抜こうとしたので、それに抗議した稲葉一鉄が光秀の所業を信長に訴えた。信長は利三を稲葉一鉄に返す様に命じたが、光秀はそれを拒否。この事で信長の逆鱗に触れ、信長は利三に切腹を命じた。

1582(天正10.05.26) 明智光秀中国出陣の為坂本を出発。

1582(天正10.05.27) 明智光秀愛宕山へ参詣。

1582.06.19(天正10.05.29) 信長、上洛。

1582(天正10.05.29) 家康一行、堺見物。6月1日には堺の豪商の茶会に招待される。

1582(天正10.06.) 丹羽長秀、三好康長、蜂谷頼隆と共に、織田信孝6月2日に予告された四国派遣軍の副将を命ぜらる。

1582(天正10.05.30) 信長が滞在する本能寺に、多くの人々が表敬訪問してきた。信長は、進物を受け取らない旨を事前に知らせていた。

1582.06.21(天正10.06.02) 光秀、早朝に出陣する。

その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐を告げる。

1582.06.21(天正10.06.02) 本能寺の変 信長享年49

1582.06.21(天正10.06.02) 家康一行総勢34名、京都に戻る途中、茶屋四郎次郎から本能寺の変を知らされる。家康、帰途ルートを変更する。

「神君伊賀越え」の決死の脱出行がここから始まるが、実は伊賀越えルートは諸説あり、中には甲賀越え、或いは大和越えと言う説も有り、実際に辿ったルートは分っていない。

家康と共に安土に招かれた穴山梅雪は、家康一行と離れて別行動を取り、途中、宇治田原で一揆勢に襲撃され殺害された。

1582.06.21(天正10.06.02) 瀬田城主・山岡景隆、瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転する。

これにより、光秀、仮設橋の設置に3日間取られる。

1582.06.21(天正10.06.02)およそ午後10時頃(亥の刻四つ半) 細川藤孝より姫路の前野長康本能寺の変を知らせる急使有り。

前野長康、秀吉の命にて姫路城下に駐屯し、信長の西国動座に備えて準備をしていた。将と侍53名、足軽鉄砲隊60余人、外にも多数。動座に伴う路次の宿駅、兵糧の手配などの任務に当たっていた。これが中国大返しの時に役に立つ。

1582.06.23(天正10.06.04) 備中高松城は講和により開城。清水宗治切腹

 

清水宗治辞世  

浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して

 

 中国大返し

 

1582(天正10.06.02) 神戸信孝(=織田信孝)、摂津にて四国征伐出航間際に本能寺の報せが入る。手元の軍隊から逃亡者が相次ぐ。

1582(天正10.06.03) 柴田勝家越中国を攻撃中、3日に魚津城を陥落させた。

1582.06.23(天正10.06.04) 光秀、坂本城に入り、4日までに近江をほぼ平定する。

1582.06.24(天正10.06.05) 毛利、本能寺の変を知る。

1582.06.24(天正10.06.05) 光秀、安土城に入る。信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与える。

1582.06.26(天正10.06.07) 誠仁親王(さねひとしんのう)吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を光秀に任せる。

1582.06.28(天正10.06.09) 義昭、帰京の為、備前、播磨に出兵する様に輝元に命ずるも、輝元動かず。

1582.06.28(天正10.06.09) 光秀、宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上。京都五山大徳寺にも銀100枚献納、勅旨の兼見にも銀50枚を贈った。

1583(天正10.06.11) 秀吉、中国大返しで戻ると、摂津尼崎に着陣。信孝、秀吉と会い、弔い合戦の総大将に就く。実際の采配は秀吉。

1582.07.02(天正10.06.13) 山崎合戦 羽柴軍27,000 vs 光秀軍17,000

秀吉、山崎の戦いで光秀を破ると、輝元、戦勝祝いに安国寺恵瓊を使者として派遣した。

1582.07.02(天正10.06.13) 光秀敗戦。戦場を落ち延びる時に地元民に襲撃されて横死。

1582.07.16(天正10.06.27) 清須会議

柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推す。

羽柴秀吉は信長の嫡男・三法師(織田秀信)を推す。

妥協案で、三法師の後見人を織田信孝にする、と言う案で決着。

 

 

 

長文を読んで下さって有難うございます。もっと短くする積りでしたが力不足で叶わず、申し訳ございません。

この年表を書くに当たり、下記の様に色々な本やネット情報を参考に致しました。

『戦国合戦大辞典(6)  京都・兵庫・岡山』『前野家文書・武功夜話』「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「年表」「地形図」「古地図」『和暦から西暦変換(年月日)高精度計算サイト-Keisan」「地域の出している情報」「観光案内」等々、その他に沢山の資料を参考にさせていただきました。有難うございます。