式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

192 古田織部茶書(1) 抜粋解読

古田織部茶の湯を知るには、織部が弟子にどのように教えていたかを知るのが一番の早道です。

そこで、先ず「宗甫公古織へ御尋書」と言う書を取り上げてみたいと思います。

宗甫とは小堀遠州の事。古織とは古田織部の事。つまり、弟子の小堀遠州が、師の古田織部に聞いた事を、メモ書きして残した書が、「宗甫公古織江御尋書」という本です。

メモ書きですので、「一つ書き」という体裁で書かれています。一つ書きと言うのは、一 なになにと言う具合いに書き連ねて行く書き方です。

 

ここでは、国立国会図書館デジタルコレクショ「宗甫公古織江御尋書」を基に思文閣から発行された市野千鶴子氏校訂「茶湯古典叢書」から「宗甫公古織へ御尋書」を大いに参考にしながら取り上げてみたいと思います。

なお、中身がどういう内容なのか、雰囲気だけでも知ろうとするものなので、取り上げるのは全部の条では無く、婆なりに目に止まった条だけに致します。

また、条についている番号は、原文に元々付いている番号では無く、又、市野千鶴子氏が付けた番号でも無く、婆が整理の都合上勝手に付けた通し番号です。

更にまた、原本と市野氏の本では、カタカナ・平仮名(万葉仮名も含めて)の扱い方の違いや漢字の平仮名化などが所々見受けられましたので、ここでは、原本に出来るだけ添うようにしました。

 

       宗甫公古織江御尋書

先ずは最初の1条です。原本1巻目コマ番号 3/27頁出。市野氏本3頁出。

一 墨蹟乃覚風帯左ヲ上

[訳] 一、墨蹟の掛け軸の覚え。風帯の左を上にします。

[解] 墨蹟とは禅僧が書いた書の事。風帯と言うのは、掛け軸に上(天)から下がっている二本の細い帯のことです。織部は墨蹟の掛軸を仕舞う時は、風帯は本紙と一緒に巻き込まずに、風帯の左を上にしなさい、と言っております。

「左を上に」と言う事を図的に説明しますと、こういう事になります。

掛け軸を下から巻いて行って最後に一番上まで達した時、てっぺんから下がっている風帯2本が邪魔になります。邪魔になるからと言ってそれを本紙と一緒に巻き込んでは絶対にいけません。何故なら、巻いてしまうと、取り出して飾ろうとする時、その癖がついた風帯がゼンマいの様にくるくる巻いてしまって蚊取り線香の様になってしまうからです。ではどうするか?

風帯を巻き込まずに、表木(ひょうもく)(一番上にある芯材)に添う様に、横に左右の風帯を折り曲げるのです。その折り曲げた風帯の扱い方ですが、左側が上になる様に折りなさい、という意味です。

(※ 表木(ひょうもく)の事を「半月(はんげつ)」とか「八双(はっそう)」とも呼びます。)

 

4番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号 3/27頁出。市野氏本3頁出。

一 墨蹟畳上ニテ巻候事、横ヨシ

[訳] 一 墨蹟の掛け軸は畳の上で巻きます。横にするのが良い。

[意] 掛け軸を巻く時は、掛け軸を畳の上に広げて巻きます。横にして巻くのが良いです。

[] 現在、表具屋さんなど掛け軸を扱う業者が行っている掛け軸の仕舞い方では、畳に置かずに床に掛けたまま下から巻き上げて行く方法を取っている様です。畳の上に広げると、畳の上の埃(ほこり)や塵(ちり)を巻き込むからだそうです。

掛けている物を仕舞うのではなく、平らな所に広げたものを再び巻いて仕舞う分には、畳の上に横に置いて巻くのが良い、と言うことでしょう。

 

17番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号 4/27頁出。市野氏本4頁出。

一 肩衝盆ニ置時、左之手を右へ添、盆ニ置時指を先付、扨茶入を置

[訳] 一 肩衝(かたつき)をお盆に置く時は、左手を右へ添え、盆に置く時は指先を先に付けて、扨(さて)それからお盆に置きます。

(肩衝とは、抹茶を入れる陶器製の小壺で、肩が角張っている物を言います。)

[意] この文章から、ここでは濃茶のお点前を取り上げている事が分かります。何故なら、茶入れ(→陶器製の小壺)は濃茶点ての時に使うものだからです。薄茶の時には茶入れを使わない代わり、棗(なつめ)(→漆塗りの木製)を使います。そして、お盆を使う事、添え手を指示している事から、これは式正の点て方だと分かります。他流では通常お盆を使いませんし、添え手の仕草もありません。

添え手と言うのは、主茶碗や棗、茶入れなどを扱う時に、それを持った手の反対側の手を添える所作の事を言います。粗相があってはならない為です。

それが「左之手を右へ添え」の表現になっています。例えば、柄杓で一杯のお湯を汲み茶碗に注ぐ時も、右手で柄杓を持って注ぐだけではなく、その時は必ず左手を茶碗に添えます。

添え手の形は「泣き手」と言って、お能で「しおる(=泣く)」時の手の形をします。(式正織部流では武術の形が所々に見られますが、お能の仕草も所作の中に取り入れられております。)

この条では、茶入れを扱う時に、「盆に置く時指先を先に付け」と簡単に書いてあります。茶入れを持つ手と、添え手の両方の手の動きが有りますが、要は、茶入れをお盆にトンといきなり置かずに、軟着陸させるような動きをする訳です。

 

71番目と72番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号 9/27頁出。市野氏本9頁出。

(猪子内匠(いのこたくみ)の数寄屋で行われた織部の雑談の中から抜粋)

慶長12正月12日朝 猪内匠数寄ニテ古織雑談

一 数寄乃振舞に餘り結構わろきよし但くわれさるもわろきと利休物語り候

一 利休にて数寄屋の振舞ニ菜三ツ多く出候事マレ成由

[訳] 慶長12年正月12日の朝、猪内匠(=猪子一時(いのこかずとき))の数寄屋で古田織部が雑談した

一 数寄屋でのご馳走が余りにも結構を尽くしたものは良くない。但し、食べられないのも良くない。利休を物語った時に出た話です。

一 利休での数寄屋振舞いに、菜(さい)(=おかず)が三つより多く出た事は滅多になかった、との事です。

 

98番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号11/27頁出。市野氏本13頁出。

一 数寄やにて、茶巾茶によこ連候時は、取替テも不苦由

[訳] 一 数寄屋で、茶巾が茶で汚れた時は、取り替えても苦しからずとの事。

[意] 一 数寄屋に於いて、茶碗を拭き清めて茶巾が汚れてしまった場合は、茶巾を新しいものに取り替えても構わないと言う事です。

式正織部流では、事前に茶巾を必ず2枚以上用意して点前に臨みます。台子点てになると、時には茶巾4枚を茶巾台に載せて運び入れます。茶巾の枚数が多くなると、茶碗に仕込むと溢れかえってしまいますので、茶巾台と言う陶器製の台に載せます。茶巾台は茶巾と茶筅の両方を載せますので、茶筅台とも呼んでおります。茶巾台と茶筅台は同じものです。

 

113番目に出て来る条です原本1巻目コマ番号13/27頁出。市野氏本15頁出。

一 月さへ候時腰かけに行燈候事、腰廻あたり暗ハヽとほし能く候

[訳] 一 月が冴えている時、腰掛けに行燈(あんどん)の件、腰廻りあたりが暗ければ、灯(とも)しても良いです。

[解] これは「夜咄(よばなし)」の茶会の話です。日暮れ時から始まる茶会です。庭には灯籠に火を灯し、室内では燭台に明かりを入れて行います。なかなか風情のある茶会です。

腰掛と言うのは、茶室の準備が整う迄のあいだ客は庭で待っていますが、その待つ場所を腰掛と言います。字の通りの腰掛で、簡単な屋根と囲いがあり、言うなれば椅子の有る屋根付きバス停の様な形の建物です。

月が冴えている時、腰掛けに行燈を置く件ですが、腰の周囲が暗い時には、行燈に火を灯しても良いです、と織部は言っています。

月が煌々と照らしている時は、草木の葉の一枚一枚に影が出来る程明るく、着物の柄も見える程になります。月の光を愛(め)でて、それを愉(たの)しむ向きには、そういう場所に行燈があるのは些(いささ)か興醒めですが、腰掛けの周りが暗ければ足元が危うく、そうも言っていられません。行燈に火を灯しても良いのではないかと言う事です。

灯籠に火を入れるだけでは無く、室内で使う行燈をわざわざ庭に持ちだして腰掛けに置き、一層の明るさを添えます。

 

139番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号 15/27頁出。市野氏本18頁出

慶長12古織腫物見廻りに宗可上洛之時相尋

一 茶入ノ袋の緒フルクナリ候ハヽ取替能候。

[訳] 慶長12年古田織部の腫物の見舞いに上田宗箇上洛の時尋ねました。

一 茶入れの袋(=仕覆(しふく))の緒が古くなったならば取り替えた方が能(よ)し。

 

下記は市野氏本の18頁の147番目に出て来る条です。この番号は最初に申し上げました様に、市野千鶴子氏校訂の古田織部茶書」内に記載の「宗甫公古織へ御尋書婆が勝手に付けた通し番号です。国立国会図書館所蔵の「宗甫公古織江御尋書」に書かれている条が、市野氏の校訂本と対応していると思っていましたが、実は、市野氏の本に付けた140番から149番までの条が、国会図書館の本にはありませんでした。もし、原本に載っているとすれば、原本のコマ番号15/27頁に有る筈のものです。そこで、この条をパスしようと思いましたが、この147番が、平仮名ばかりで何を言っているのかさっぱり分からず、逆にそれが面白くて嵌ってしまい、クイズ感覚で取組んでみました。

一 くさりの間ひるかきたてヽものヽむかひへなり能々かへむかひへなり候へハ、下のかぎ前元へなりよく候、但座敷によりワきへも替り候ハんや。

[訳] 一 鎖の間の蛭鉤(ひるかぎ)をたてて、釜の正面へ形よく上手に動かして替えたならば、下の鉤は前の通りに形良くなります。但し座敷の状態によっては脇が正面に替わる事も、あるのではありませんか?

言葉が難解で訳に自信がありません。一応次のように解釈してみました。

ひるかき→蛭鈎(ひるかぎ)。 ものヽ→釜の(「もの」が何か分かりませんが、前後関係から釜と解釈しました。) むかひ→正面。 へ→方向。 なり→形。 能々(よくよく)→心を込めて丁寧にor上手に。 かへ→替える。変化させる。動かす。 なりよく→形良く。 ワき→脇。 候ハんや→動詞四段活用「さふらう」の未然形+助動詞「む」の終止形+疑問の「や」

[(くさり)の間について]

鎖の間と言うのは、囲炉裏の様な構造を持った茶室の事です。炉の上に鎖が垂れていて、その鎖の先端に釜を掛ける仕組みになっています。

総じて鎖の間は広く、茶室で濃茶を頂いた後、席を移して鎖の間へ行き、そこで薄茶を頂きながら寛ぐ、と云う様な使われ方をしていたらしいです。茶事で言う、いわゆる中立(なかだち)の様なものですが、露地(庭)に出て気分を新たにして鎖の間へ向う事も有ったでしょう。或いは渡り廊下伝いに鎖の間へ・・・となったかも知れません。更に鎖の間から書院へ座を替えて宴になるのが、大名茶事のおよそのコース。

この条は、その鎖の間についての話題です。

鎖の間には天井に蛭釘(ひるくぎ)が打ってあって、そこに鎖を掛けます。蛭釘と言うのは「?」のような形をした釘の事を言います。よく、ハンガーを掛けたり、絵画を掛けたりする時に用いるあのフック釘の事です。

天井の蛭釘に鎖を掛けてその下に湯を張った鉄釜を下げるので、かなりの重量に耐える様に、蛭釘を打つ天井裏には、しっかりとした材木がさし渡されています。その様にして下げた鎖の先端には蛭鉤(ひるかぎ)又は蛭鈎(ひるかぎ)(→フック)が付いています。蛭鉤も蛭鈎も字が違うだけで同じものです。お釜の鉉(つる)が掛け易いように、先端が丸く曲がっている物です。その形状が蛭(ひる)という環形動物(ミミズなどの仲間)が体を曲げた状態に似ているためにこの名が付いています。

お釜を蛭鈎に掛ける時、鉤(かぎ)の向きに対してお釜の鉉(つる)が十字に交差して掛かりますので、位相が90°ズレます。更に、鉉とお釜に掛けた鐶でも十字交差して90°ズレます。上からぶら下がって固定されていない状態のお釜を、正面に向けるには少し工夫が要ります。蛭鈎の状態によっては、お釜が正面に向かずそっぽを向いたりする事も有りますので、その時の事がここに書かれている、と読み解きました。

 

148番目に出て来る条です。但し、原本にこの条は見えず。市野氏本19頁出。

一 台子の茶、むかしハふたひしゃくにてたて申候、利休時より一ひしゃくにてたて候、是ハ不定候、ツネノ数寄同前。

[訳] 一 台子の茶は、昔は二柄杓で茶を点てていました。利休の時から一柄杓で茶を点てる様になりました。これは不定です。いつもの数寄は前と同様に。

[意] 台子のお茶は、昔は柄杓で2杯のお湯を汲んで点てていました。利休になってからは、柄杓で1杯汲んでお茶を点てる様になりました。これははっきりと定まっていません。定まってはいませんが、いつもお茶を点てる時は、今までやってきた通りにしなさい。

昔は2杯で点てていましたが、今は1杯で点てています。だから、今迄の通りの1杯でやりなさい、と言う事。

 

市野氏の本に付けた通し番号155番目の条の「一 大壺ハ座敷の床には、まん中によく候 (原本:大壺ハ座敷に真中置能候)」と、156番目の条の「一 書院の床に華入大壺なとおき候事、それはしらさる事ニ候、何とおき候ても苦間敷候 (原本:一 書院乃床に花入大壺なと置候事夫ハしらさる事ニ候何を置候ても不苦候)の二条が、原本では合体して書かれているので、市野氏の本と原本とで番号が一つ合わなくなります。このブログでは市野氏の本に付けた番号で通して行きます。

 

161番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号16/27出。市野氏本20頁出。

一 濃茶之跡、すすかすに茶せんを入すすく事置又むさきと古織被申候由。

[訳] 一 濃茶の後、濯(すす)がずに茶筅を入れて濯ぐ事、又むさ苦しいと古織が申されたとの事。

[解] 濃茶を点ててその後、茶碗を濯がずに汚れたままの茶碗に茶筅を入れて濯いで置くのは、又、不潔で不快なことだ、と古織(=古田織部)が申されていたとの事。

 

下記は187番目に出て来る条です。原本1巻目コマ番号19/27出。市野氏本23頁出。

但し、市野氏本の178と179と180の条は、原本では一つの条に纏められて書かれています。更に184と185の条も、原本では一つの条になっています。従って、市野本と原本とで番号の狂いが出てきています。

一 袋棚に中次置合時中次の下に敷紙大小不折定候由

[訳] 袋棚に中次(なかつぎ)を置く時は、中次の下に敷紙を置きます。その敷紙の大小の折りは定まっていません。

[解] 「敷カミ」と言うのは、和紙で作ったコースター状の物を言います。敷紙は既製品では無く、折り紙をする様に紙を折って作ります。折りの大きさは定まっておりません、と言う事です。(婆の意見:敷紙はコースター的役割ですので、中次の底面より小さいのは論外です)

実際にお点前する時、中次を扱う時は必ず敷紙を付けたまま扱うので、敷紙が中次の底面に対してぎりぎりのサイズだったりすると、とてもやり難くなります。中次の底面よりもはみ出すように大き目に作った方が、やり易いです。

中次と言うのは、小さな茶筒の様な形をした抹茶入れです。棗と同じです。棗は、棗の実のように丸みを帯びた形をしていますが、中次はストレートの筒型で、開け方も独特の開け方をします。

 

市野氏本に付けた通し番号195~232、頁にしてP25~P34 (P27の最後の一条を除く)まで、原本の上巻では抜けていますが、その代り、原本下巻の1頁から6頁迄、コマ番号にして3/22 ~ 5/22に当該の条が記載されています。

下記は、市野氏本216番目に出て来る条です。上記の通り原本上巻にはこの条は見当たらず、原本下巻にコマ番号6/22に記載されています。

慶長12年宗ケ伏見へ上られ候時、一書ニテ織部殿尋候へは申来覚

一 台子之時、茶杓ハ盆ニ置合候て能候、なく候ても不苦候。タイ天目・茶入置合候時ハ、茶せん・茶杓・茶巾ヲシコミ候ても置候。

[訳] 慶長12年、宗ケ(上田宗箇)が伏見へ上られた時、一書面にて織部殿へお尋ねなさったので、(織部が宗ケへお返事を)申し寄こした覚え。

一 台子点(だいすだて)の時、茶杓はお盆に置き合わせるのが能(よ)いです。置き合わせなくても構いません。台天目(天目台にのせた天目茶碗)と茶入れを置き合わせる時は、茶筅茶杓・茶巾を茶碗(仕込み茶碗)に仕込んで置きます。

 

217番目に出て来る条です。原本上巻にこの条は見えず、下巻に有り。原本下巻6頁、コマ番号にして6/22。  市野氏本217番28頁出。

一 右勝手の時、台子ニ置合候事。左勝手ノことくニ茶入ヲ右ニをき、たいてんもくニ置候。

[] 右勝手(逆勝手)の時、台子に置き合わせる事。左勝手(本勝手)の如くに茶入れを右に置き、天目茶碗を置いた天目台に置き合わせます。

[] 右勝手と言うのは、亭主が点前座に座った時、亭主の右側に壁が来て、左側が空いている様な配置の茶室の事を言います。この場合、お客様は亭主の左側に座るようになりますので、式正織部流では、お点前をご覧に入れる時には左側からの視線を意識して、お道具の配置も通常の配置では無く、左右逆転します。お点前を始める時の当流での配置は、台子下段は向かって右に風炉、中央に杓立(しゃくたて)と蓋置(ふたおき)、左に水指(みずさし)という並びになります。そして、お点前は殆ど左手を主にして所作をします。左手の柄杓で湯を掬(すく)い、右手を茶碗に添え手する、と言う具合です。

上段の置き合わせは、この条と同じです。右に、盆に載せた茶入を置き、その隣に天目茶碗台に載せた天目茶碗を置きます。

「宗甫公古織江御尋書」では、右勝手の場合の左右逆転した図と、逆転しない図が並記されて記載されています。

まとめると、台子の上段には、左勝手(本勝手)と同じ様に、向かって右側にお盆に載せた茶入を置き、左に天目台に置いた天目茶碗を置きます。

 

 

 

この記事を書くに当たり、下記のような本やネット情報を参考に致しました。

国立国会図書館デジタルコレクション「宗甫公古織江御尋書」  

  検索は「茶道叢書 ウエブ目録 リサーチ・ナビ 国立国会図書館」: 目録通し番号108

「宗甫公古織江御尋書」  古田重然著 市野千鶴子校訂

わび茶と露地(茶庭)の変遷に関する史的考察-OPAC 

       浅野二郎・仲隆裕・藤井栄次郎(環境植栽研究室) 千葉大学

GalleryA4:数寄屋大工-美を創造する匠

初期茶道史に見られる「数寄」の変遷  青山俊董

和風堂全景

上田宗箇流の特徴

角川 新版 古語辞典 久松潜一・佐藤謙三編

学研全訳古語辞典

近世古文書用語検索システム

古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順

茶道体験教室 パート3 生徒さんとの日々のしおりと

古田織部の鎖の間? 茶道体験教室 パート4 生徒さんとの日々のしおりと

茶の湯覚書歳時記

この外に「ウィキペディア」、「コトバンク」などなど多くのサイトを参考にさせていただきました。有難うございました。

191 武士の覚悟 辞世・死のテーマ

武士の死に対する覚悟が、最も分かり易いのが辞世の句ではないでしょうか。そこで、辞世を取り上げてそれを考えると共に、現実に看取った義母の病床から天寿を全うするまでの様子を、重ね合わせて行きたいと思います。

 

かかる時さこそ命の惜しからめ 

     かねて亡き身と 思いしらずば   太田道灌 辞世 享年55

 

道灌(どうかん(=資長(すけなが))のこの歌は、道灌の政治・軍事・文化力などの優れた能力に脅威を感じた主君・上杉定正(=扇谷定正(おおぎがやつ さだまさ))が、彼を罠に嵌めて暗殺した時のものです。

風呂上りの道灌を刺客が槍で刺した時、刺客は道灌の優れた歌の才能を知っていて上の句を詠みました。それが「かかる時さこそ命の惜しからめ(こんな時どんなにか命が惜しいだろうね)」です。道灌はそれに即座に下の句を「かねて亡き身と思い知らずば(もともと命など無いと思っている。もし、そのように悟っていければ、きっと命を惜しいと思ったろうよ)」と詠んだのです。

絶命の時に「当家、滅びたり」と叫んだと言われております。案の定、道灌と言う有能な忠臣を殺した定正は、家臣からの信頼を失って大量の離反を招き、没落していきます。

 

おもひおく言の葉なくてつひに行く 

                  道はまよはじ なるにまかせて   黒田孝高 辞世 享年59

 

黒田孝高(くろだ よしたか)は、言わずと知れた黒田官兵衛、又の名を如水、洗礼名はドン・シメオンです。彼は病死でした。穏やかな最期だったと言われております。仏教徒からキリシタンへと変わり、キリスト教聖堂に埋葬されました。埋葬されてから凡(およ)そ半月後、嫡子長政は仏式での葬儀を行っています。孝高の屋敷は大徳寺に移築され、龍光院(りょうこういん)を建立、特に書院の四畳半台目茶室「密庵席(みったんせき)」は国宝になっています。

道灌の歌には、常に死を覚悟している武人の姿があります。

孝高の歌には、力(りき)みも迷いも無い自然体の姿が有ります。

 

武人達の辞世の句を読む時、何となく義母の姿が思い出されます。

「死」を従容(しょうよう)として受け入れる姿は、武士の「死」に対する態度と同じではないかと、思ってしまうのです。

義母は好むと好まざると武士の妻としての心得を、大姑・舅・姑に囲まれて叩き込まれました。

明治・大正・昭和と時代が変わり、彼女を取り巻いていた人々が鬼籍に入りました。大戦後に大きく世相が変わってもなお、若い時に叩き込まれた「心得」は脈々と彼女の中に生きておりました。

義母が101歳を過ぎてベッドに寝付くようになったある日、枕元に呼ばれて行きますと、頼みが有ると言われました。それは、箪笥の一番下の引き出しの、一番下にある着物をここに持って来て欲しい、という依頼でした。

茶色に変色した畳紙(たとう)(←包み紙)を持っていきますと、懐かしそうに微笑み、

「そう、これよ。中を開けて下さい」

と言いました。何が出て来るかと思って丁寧に開けますと、中から白無地の絹の着物が現れました。心なしか黄色味がかった絹のそれは、死装束だそうです。義父に言われて義母が若い時に自分用に縫ったものだそうです。

「今日は頭が痛くて気分が悪いの。ひょっとしたらお迎えが近いかも知れないから、それを枕元に置いといて下さい。万一の場合は、それを着せてね。」

と言い、更に下着を真新しいものに取り替えたいと言い、シーツ交換も頼まれました。そして、仰臥(ぎょうが)すると、胸の前で合掌して眠りにつきました。

翌朝、ベッドを覗いてみますと、

「また、目が覚めちゃった!」

と、バツが悪そうに、それでいて茶目っ気たっぷりに笑っている義母が、そこにいました。

 確かに100歳を過ぎていれば、何時あの世に旅立ってもおかしくない年齢ですし、そこまで生きれば、ある程度の覚悟は出来上がっているかとは思いますが、彼女は自分の死装束を若い時に縫い上げていたのです。

 

 待てしばし死出山辺の旅の道

                  同じく越えて浮世語らん     北条基時 辞世 享年48

 

この歌は、鎌倉幕府滅亡の東照寺合戦の時に北条基時が詠んだ辞世で、先に討死した嫡男の仲時に呼びかけた歌です。仲時は佐々木道誉に敗れて、父より一足先に討死しておりました。

 

こんな事がありました。

義母は、往診して下さったお医者様をつかまえて「あなたは藪医者だ」と決めつけ、「私は自分の死期が近い事を知っています。それなのに貴方は、まだまだ大丈夫だとおっしゃる。看立て違いですよ」と少々不満げに話しました。

「そんなにあの世に行きたいの? あの世に行くのが嬉しそうで、まるで遠足に行くみたい」と婆が聞くと、

「そりゃぁ、あっちの方が知り合いが多いもの」と答えました。

「私達じゃ駄目?」

「少々物足らない。やっぱりお母さんやお父さんの方がいい」

と答えました。お医者様も笑って「藪医者ですみません」とおっしゃいました

 

梓弓 はりて心は強けれど 

            引手すくなき 身とぞなりぬる       細川澄之 辞世 享年19

 

細川吉兆家の当主の座を争い、戦い勝ってその座に就いたものの、たった40日でライバル細川高国に敗れて殺された澄之の歌です。心細さが滲み出ています。

 

夏草や青野ヶ原に咲く花の 

     身の行衛こそ聞かまほしけれ    足利春王丸 辞世 享年12

身の行衛 定めなければ旅の空 

     命も今日に限ると思へば      足利安王丸 辞世 享年11

 

この2首は、室町幕府将軍・足利義教(あしかが よしのり)に反抗して敗れた足利持氏の二人の子供の歌で、捕らえられて京都護送中に殺された時の辞世です。これからどうなるか分からない運命の行く末に、不安で一杯になっていた胸の内が窺(うかが)えます。

 

死出の旅路の不安を義母も吐露(とろ)していました。

ね、と義母から呼ばれ、枕元に行った時の事でした。

むけいげ、むけいげこって言うでしょ? でもね、むけいげではないの、本当は。死ぬのが怖いの。自分が無くなるってことが怖いの。どういうことか分からないの。寂しいの。そこにいくまでに痛かったり、苦しんだりするが怖い。苦しみたくないなって思う。阿弥陀様におすがりしているのだけど、お坊様が言ってきた事が、今、みんな、嘘に思えてきている」
「大丈夫よ。お義母さんは今迄一所懸命にお経を詠んできたでしょ。写経もいっぱいしてきたでしょ。ご先祖さまの供養も心を込めてやって来た。仏様が見捨てる訳はないよ。」

「違うのよ。写経をすればするほど、おかしなことになる」

お経の中のお経、最高のお経と言われる般若心経(はんにゃしんぎょう)では、全てが無だと説いている、眼も耳も鼻も舌も無く、苦痛も無く何もかも無いと言うならば、火焔地獄だろうが針山地獄だろうが何の痛みも痒(かゆ)みも感じないのだから、地獄なんてあったって意味が無い。なのに、なぜ、お坊様は地獄の話をするのだろう、地獄がそうならば、極楽へ行っても喜びも悲しみも何も感じないのではないかと、重ねて聞いて来ます。

義母は寝た切りになるまでに3千巻の般若心経の写経を成し遂げていました。この問いはとても重く、生半可に応える訳にはいきませんでした。

 

(かばね)をば岩谷の苔に埋(うず)めてぞ 

     雲井の空に名をとどむべき   高橋紹運 辞世 享年39

 

高橋紹運(たかはしじょううん)は、九州の大友宗麟の家臣で、西国無双と言われた立花宗茂の父です。紹運は783名の将兵と共に岩谷城に立て籠り、島津軍2万余(5万とも)の軍勢を迎え打って戦いました。半月持ち堪(こた)えて、全員討死しましたが、その間、島津軍は消耗戦を強いられ戦死者4,500にもなりました。この岩谷城の戦いは、島津の九州制覇の夢を打ち砕く切っ掛けになり、秀吉の九州統一を容易にならしめた一戦でもあります。

幾多(いくた)の戦場を駆け廻(めぐ)って来た歴戦の猛将の脳裏には、山河に累々(るいるい)と打ち捨てられた死体の惨臭を放って朽ち果てて行く有様が、脳裏に浮かんでいたに違いありません。

 

柳沢桂子著「われわれはなぜ死ぬのか」という本の話を、義母の問に答える形で話をしました。内容は科学的で現実的で、九相図(くそうず)のようなかなりショッキングな描写も有ります。般若心経三昧に暮らして紙背に到達している様な義母に、上っ面の極楽浄土を説くなど、出来ませんでした。

九相図の目を覆う様な場面は、今まさに死の床に就いている人に話すべきでは無いと、それとなく避けて話していますと、義母は子供の頃に、村のお寺のお坊様が九相図の絵解きをしながらお説教してくれたことを話し出し、そうやって地獄にいくのだろうか、と聞いて来ました。

婆は不意を突かれてぐっと詰まりました。そして、こう申しました。

「死んで土に返り、植物を育て、虫達や動物達を養い、そうやって巡り巡る形での転生は信じています。死んで畜生に生まれるなどと言うような突飛(とっぴ)な輪廻では無く、周りの自然を潤していくような穏やかな輪廻ならば、信じても良いと思っています。だから、形は変わっても、決して消滅してしまう訳では無い」と。

「でもね、死ぬと焼かれて灰になるでしょ? 骨壺に入れられて墓に納められるでしょ? そうしたら、壺から出られないから草にもお花にもなれない」

「あ、そうか。それは困った。どうしよう」

義母と顔を見合わせて笑いました。

「じゃ、骨壺に入れないでカロートの中に蒔く?」

「実家のお墓は骨壺に入れないでお骨のままカロートの中に蒔くけど、それだって、カロートの中に閉じ込められて外に出られないでしょ? 雑草を生やす力にもなれない」

「鳥辺山? それはちょっとね、お骨が砂埃りになって飛んで行ってしまうから不味いよ」と言った後で、はたと思い付きました。

「分かった。じゃ、お義母さんの悩みは解決できないけど、寂しくない様に三途の川まで付き添うね。でも、一緒に川を渡るのは嫌よ。こっちの岸からお見送りする。だからそれまで何も悩まないで安心して眠ってね。ずっと傍に居るから」

「淀川で千利休を見送った織部もそうだったのかしらね」

「そうかも知れない。あの川は三途の川だったのかも知れない」

一休宗純が遷化(せんげ)(=臨終)の時に「死にとうない」と言ったそうです。

 

人生七十 力囲希訥   (じんせいななじゅう りきいきとつ)  (希訥→気合。エイッヤッ)

吾這宝剣 祖仏共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)

堤我得具足一太刀  (ひっさぐるわがえぐそくのひとたち) (得具足→得意の武器)

今此時天抛      (いまこのときぞてんになげうつ)   千利休  辞世  享年70

 

これは千利休の辞世の遺偈(ゆいげ/いげ)です。辞世には「月」「雲」「夢」や、「澄む」「清らか」「静か」などを詠み込んだ歌が大変多いです。ところが利休の辞世はそれ等とは違って非常にアクティブな詩です。力が漲(みなぎ)り、肩を怒(いか)らせ、まるで東大寺の仁王様の様な形相(ぎょうそう)さえも想像してしまう様な、そういう雰囲気があります。逆に、それが利休の弱さに、婆は見えます。彼は精一杯強がっているのではないかと。つまり、武士は日常的に「死」と隣り合わせなのに対し、利休は町人故に「日常的な死」とは無縁であり、「死」に自ら赴くには余程強い思いで飛び込まなければならなかったのではないかと・・・

彼は武士ではありません。商人です。けれど、武士の礼を以って死を賜りました。それで、武士の覚悟の項に彼の辞世を収めました。

(とが)を受けて淀川を下る千利休を、細川三斎(忠興)古田織部二人が淀川で見送ったという逸話があります。その21年後、今度は古田織部が大坂方内通の嫌疑で切腹させられました。彼は、なんの言い訳もせず、自刃してしまいました。

織部が釈明をしなかったのは武士として潔い態度ではありますが、なぜ辞世すらも詠まずに黙ったまま自刃してしまったのか、どう考えても分かりません。

もしかして、沈黙こそ彼の辞世だったのかもしれません。

「無~~~~ッ」

と。

 

五月雨は露か涙かホトトギス 

    わが名をあげよ雲の上まで    足利義輝 辞世 享年30

 

室町幕府の13代将軍・足利義輝は、足利義栄(あしかがよしひで)を将軍に擁立する三好三人衆の軍勢1万に二条御所を襲われ、奮戦空しく殺害されてしまいました。この歌は、もはやこれまでと最後の酒宴を開き、詠んだものです。

 

朧なる月もほのかに雲かすみ 

     晴れて行衛の西の山の端(は)   武田勝頼 辞世 享年37

 

武田勝頼は、織田・徳川・北条軍の三方から攻められ、甲斐の田野で嫡男・信勝正室と共に自害いしました。

 

何を惜しみ何を恨みん元よりも 

       この有様に定まれる身に    (陶晴賢 辞世 享年35)

 

陶晴賢(すえはるかた)は「厳島(いつくしま)の戦い」で毛利元就(もうり もとなり)と戦い、敗れて自害しました。晴賢の句は自分の運命を俯瞰(ふかん)するような歌です。織部の辞世の「沈黙」も、やはり全てを見切っての沈黙なのでしょうか。

 

よわりける心の闇に迷はねば 

       いで物見せん後の世にこそ   (波多野秀治 辞世)

波多野秀治明智光秀丹波攻略に抵抗、籠城戦の末力尽きて捕らえられました。そして、安土に送られて磔に処せられました。死を目前にした絶望的な状況の中で、死して後もなお働いて一矢報いようとする執念が感じられます。

如何に生き、如何に生き切るかを常に模索しているのが、侍の様な気がします。

 

殺人未遂

義母がまだ足腰が立ち、寝たり起きたりできる頃の話です。寝疲れたと言って、ベッドから起きて居間のソファに座っていた時の事です。その時、家に居たのは婆一人でした。義母は頼みがある、と言って婆を呼び寄せ、

「殺して欲しい」

ととんでもないことを言い出し、手を合わせました。

「なぜ? そんなこと嫌ですよ」と拒否すると、

「死にたい」と言うのです。

「痛いの?」と聞くと首を横に振ります。「苦しくてつらいの? 」と聞いても違うと言います。

帯状疱疹の痛みは残っています。何年経ってもまるで生きている証の様にいつもじわっと疼(うず)いています。でも、それにはもう慣れました。」

「じゃあ何? 私達の介護が至らないから?」

「違う。そうでは無い。みんなの迷惑になるのが嫌なの」

「そんな事で?」

「そんな事って言うけれど、それが苦しいの」

「嫌だ」と断り続けても義母の願いは執拗でした。根負けして、進退極まって、とうとう、婆は義母の首に両手の指を掛けました。義母は静かに首を伸ばし、南無阿弥陀仏と唱えながら合掌しました。

 

義母の首の温かさが手の平に伝わりました。その瞬間、わぁっと両腕で義母を抱き、

「お義母さんのバカ!」と罵(ののし)りました。

「そんな事してご先祖様が喜ぶと思ってるの?  お義母さんが死んであの世に行って、どう、重勝様に申し開きするの? 私だって死んだ時に、この不届き者!  って即刻 磔獄門じゃ、って言われちゃうよ。どうしてくれるの」

と叱りました。義母は首をうなだれ、泣き出しました。

「あのね、役に立たなくてもいい。そこに存在するだけで役に立っているの。おヘソがそうでしょ。用が済めば役に立たなくなるけど、おヘソが無ければ蛙になっちゃうでしょ。」

「蛙?」

「そうよ、蛙よ。おヘソが無ければ蛙になっちゃうよ。役立とうが立つまいが誰でもおヘソを持っているでしょ。おヘソの役目が終わってもおヘソは消えて無くならないでしょ。それはね、おヘソってとっても大切なものだから消えないの。誰でもみんなおヘソなの。お義母さんも古田家のおヘソ。堂々と家の真ん中に黙って座って居ればいいの。そこに居るだけで役に立ってるんだから。」

「そんな事は無い。慰めてくれるのは有難いです。でも、みんなの足手まといになっているのもホントの事。それが辛(つら)い。死ぬほど辛い。」

「あなたの息子さん、見てごらんなさい。退職して何もしないで家でぶらぶらしていたら、忽(たちま)ちボケてしまってます。母親の役に立ちたいと思っているからこそ、彼は今、自分を活かせる場所を知り、一所懸命生き生きと介護しているんですよ。それにね、母親が長生きすれば、それは子供の励みになる。親が若死にすれば、子供は自分もその年齢で死ぬんじゃないかと不安になる。親が長生きしていれば、自分も長生きできると希望が持てる。親の年齢を超えられる様に生きようと励む。節制もする。だから、お義母さんが何もしないでいても、お義母さんらしくそこに居るだけで役に立っている。お義母さんはおヘソなの。」

と。

「それにね、昔、母さんから言われたことがある。人はみんなおぎぁと生まれておむつをして育てられた、そのおむつをしていた年月は、親の下(しも)の世話をしなきゃいけないって。順繰りなんだって」

 

祈るぞよ子の子のすへの末までも 

    まもれあふみの国津神々   (井伊直政 辞世 享年42)

 

この子供達を子々孫々まで末永く守って欲しい、近江(おうみ)の国の神々よ、と祈る直政の歌です。直政は徳川三傑、或いは徳川四天王と称された人物です。関ケ原の戦いの時、島津を猛追中に鉄砲で撃たれ落馬、即死には至らずその後も戦後処理に活躍していましたが、銃創が悪化し、彦根城を築城している最中に傷口からの感染症により死亡しました。

この歌には、わが子のみならず、その子のその子の、又その子までもずーっと恙(つつが)無くあれ、と願う親心が滲み出ています。井伊の赤鬼と言われた猛将も、矢張り人の子でした。

 

旅立ち

1年ばかり寝付いて後の冬、義母の様体が急変しました。

往診して下さったお医者様からあと2週間だと言われました。

夫は兄弟妹達にその事を伝え、お定まりの「母危篤すぐ来い」的な連絡はしないから、何時でも良い、何度でも良いから会いに来いと伝えました。会った日が最後と思って来て欲しいと申しました。幸いにして、夫の兄弟妹達はみな現役を退き悠々自適に暮らしておりましたので、毎日誰かが間断なくやって来ました。孫も曾孫もやってきて賑やかになりました。遠い所からも頻繁にやってきて、昔話をしたり現況報告をしたりして、義母はとても喜んでいました。

 

義母は自然死を望んでおりました。義母は点滴や酸素や胃瘻(いろう)どを拒否、阿弥陀様の御心に任せたいと言っておりました。目を開いている時は訪ねて来てくれた子供達や孫達と話を交わすことが出来ました。何時も、「ありがとう、ありがとう」と言って手を合わせていました。

夫と婆は義母の寝室を開け放し、隣の部屋に寝ました。ちょっとした変化も見逃すまいと臨戦態勢を取って注意していましたが、呼吸が非常に穏やかで、それこそ生きているのか死んでいるか分からない位でした。時々不安になり、夫と二人で代わる代わる義母の胸に直接耳を当てて心音を確認し合いました。

 

食事が摂れなくなりました。重湯(おもゆ)もプリンも呑み込めなくなり、吸い口で水を飲ませるのもやっとになりました。

間も無く、お医者様から、お水を飲ませるのを止めなさいと禁止されました。何故?と伺うと、呑み込む力が無く、無理に飲ませると肺に入ってしまうと言うのです。そこで、脱脂綿に水を湿らせ、喉の渇きを癒(いや)そうとしました。唇も舌もカラカラに渇いてひび割れし始めました。全身の皮膚から水気が失われ、少し黒ずんできました。そのくせ、浮腫が酷くなりました。むくみを解消しようと、手足のマッサージをしましたが、それも、先生から止められました。若ければマッサージは有効ですが、血管がボロボロに弱っているので、マッサージをすると血管が破れてしまう、と言うのです。

どんなに喉が渇いているだろうかと思うと、居ても立っても居られなくなりました。どんなにお腹が空いているだろうかと思っても、どうする事も出来なくなりました。

次第に打つ手が無くなってきました。背中側に褥瘡(じょくそう)(=床擦れ)が出来始めました。

次第に痩せて、骨が出て来ました。皮膚が骨にまとわりつき、皮膚が擦れて血が滲んできました。体位を横にして背中側に座布団を当て、頻繁に寝返りを打たせるのですが、その進行は止められません。看護師さんが背中に軟膏を塗り、ガーゼを当てて下さいます。その都度顔を顰(しか)めて痛そうな表情をします。婆もやり方を教わり、薬を塗り、「ごめんね、ごめんね」を連発しながらガーゼ交換をしました。

ヘルパーさんも週に2回来て体を拭いて下さいました。お医者様、看護師さん、ヘルパーさん達の連係プレーで、なんとか日々持ち堪(こた)え、あと2週間と言われてから更に生きながらえました。

 

夫の兄弟妹達も頻繁にやってきました。義母の意識が朦朧(もうろう)としていても積極的に話しかけて下さい、とお願いしました。他の感覚器官が働いていなくても、耳だけは最後迄聞こえるという話を、聞いた事があります。義兄弟妹達は、あたかも義母が聞いているかのように話しかけてくれました。時には、本当に聞こえていたのか微笑んだりしていました。目が覚めている時もあり、その時は「ありがとう」と聞こえるか聞こえないかの小さな声で言うこともありました。

 

浮腫が酷くなり、そして、排泄の様子も少し変化してきました。排泄すると浮腫が和らぎました。和らぐとまた浮腫が始まりました。それが繰り返されました。

あと2週間と言われてから2ヵ月が経ちました。体はすっかり骨と皮になってしまいました。お医者様に、なんとか痛み止めを打って頂けないでしょうか、とお願いしました。お医者様は、今は殆ど痛覚を感じていませんと仰いました。

 

それから間もなくして、ふっと義母の顔を見た時、異変に気付きました。顔の色に違和感がありました。

死相? 夫も気付いたようです。皮膚の色が何時もと違うのです。何色? と聞かれても具体的に何の色と言えない様な、僅かな変化です。

それから、排便の色が黒い色に変わりました。何も食べていないのに、どうしてこんなに多いのかと思う程でした。黒い便が何回も出ました。尿も頻繁でした。婆は義母の手を握り締めて「傍に居るからね。大丈夫だよ」と何べんも声を掛けました。

死相が表われてから2日後の未明3時ごろ、夜中の世話をする為に夫と共に起きて義母の様子を見ました。どうも呼吸をしていない様でした。胸に耳を当てても心音が聞こえません。鏡を持って来て鼻の前にかざしましたが、鏡は曇りませんでした。体はまだ温かったです。

夫が、未だ柔らかい義母の手を握り、その手を胸の上に組ませて合掌させました。そして、2人で般若心経を唱えてお見送りしました。

義母は静かに旅立って行きました。102歳でした。

その姿は、即身成仏そのままでした。ガンダーラの釈迦苦行像の生き写しでした。

空が明るくなってからお医者様をお呼びしました。

お医者様は仰いました。

「私は2,000人以上の人を看取ってきましたが、この様に亡くなった方は初めてです。」

 

葬儀

葬儀は身内だけで行いました。

義父がまだ健在の頃、先祖のお墓を墓仕舞いして住所地近くの公園墓地に遷墓しておりました関係で、法事がある時などは、菩提寺のご住職様にその都度ご来駕(らいが)をお願いして執り行って頂いておりました。ところが、時代の流れでしょうか、ご住職様がお亡くなりになった後、後継者が居らず、そのまま廃寺になってしまいました。葬儀場の方が、代わりのお坊様を紹介しましょうか、と言って下さいましたが、それを断り、自分達で葬式を執り行いました。

法名は、義父母が結婚した時に生前法名を頂いていましたので、それをそのまま使いました。仏事に篤い家でしたので、門前の小僧よろしく夫が輪袈裟を掛けて導師の代わりを勤めて読経し、最後に皆で般若心経を唱えました。子供達夫婦、孫達夫婦、曾孫達と言う様に、故人を心から愛していた人達だけが集まっての葬式でしたから、それがとても清々しくて義母も喜んだと思います。

なお、家の宗派は、明治時代以前は臨済宗でした。維新の時、江戸から牧之原へ移住して入植しましたが離農、山を下りて西に向かう途中病に倒れてしまい、その土地で世話になったのが浄土宗のお寺でした。以後ずっと浄土宗で続いてきました。

 

 

余談  むけいげ むけいげこ

「むけいげ」とは、般若心経の後半に出て来る一節で、漢字で「無罣礙」と書きます。

「罣」と言う字は、妨げる、邪魔をする、かかるなどの意味があります。

「礙」と云う字は、さえぎる、さまたげる、邪魔をする、ささえる、等の意味があります。

「罣礙」で、邪魔をする、障害物があるなどの意味になり、「無罣礙」で、邪魔をするものが無い状態を表します。ざっくばらんに意訳すれば「なんの障害も無いから心配ご無用」とでもなります。

「こ」は「故」で、それゆえの意味です。

 

余談  鳥辺山(とりべやま)

鳥辺野とも言う。平安の昔からの葬地。ここに遺体を運んで荼毘(だび)(=火葬)に付した。鳥辺山は数々の物語に登場したり、下記のように、歌に詠まれたりしています。

鳥辺山 谷に煙の燃え立たば はかなく見えし 我と知らなむ  

                   拾遺和歌集 よみ人知らず

 (ずいよう意訳) 鳥辺山の谷に煙が見えたなら それは幸せ薄かった私の煙だと思って下さい

 

余談  九相図(くそうず)

九相図とは、死体がどの様に変化して土に帰るかを表わした仏教画です。

1.  腐敗して体にガスがたまり膨らむ。 2.  腐乱し始める。 3.  体液が流れ出す。 4.  溶け始める。 5.  体の色が変わる。 6. 動物に食べられたり蛆がわいたりする。 7. 骨だけになる 8. 散乱する。9. 土になる。

 

余談  カロート

カロートは、お墓の下に作った空間で、そこにお骨を納めて安置する設備です。

 

余談  ガンダーラの釈迦苦行像

ガンダーラパキスタン北部にあるペシャワールを中心とした地域の名前です。インドから仏教が伝わり、アレキサンダー大王の東方遠征によりギリシャ文化が流入、仏教の教えを説いた釈迦の姿が初めて彫刻される様になりました。それまでインドでは釈迦が余りにも尊く、その姿をそのまま表すことが恐れ多くて誰も絵に描いたり、彫刻にしたりしませんでした。その代り、釈迦を車輪(法輪)や仏足の形で表していました。そこにギリシャ人がやって来て、車輪や足で象徴的に表されていた釈迦を、「人間」の姿に彫刻したのです。これが仏像の始まりです。初期の仏像は、お顔がギリシャ彫刻の様な顔をしています。

ガンダーラで発掘された釈迦苦行像はパキスタンの国宝です。ラホール国立美術館に収蔵されています。

 

 

 

 この記事を書くに当たり、下記のようなものを参考に致しました。

摩訶般若波羅蜜多心経

ウィキペディア

戦国武将の名言から学ぶビジネスマンの生き方

歴史専門サイト「レキシル」

西遊旅行 仏陀苦行像-DISCOVER PAKISTAN

ココログ 釈迦苦行像~パキスタンガンダーラ美術展より

パキスタン館~釈迦苦行像-万博を歩こう

ありがとうございました。

 

 

 

190 家父長制度(2) 家系を継ぐ

義父の頑固一徹の根底にあるのは「朝令暮改を戒(いさ)むる」の信念です。将棋の棋譜を読むような塾考熟慮の末に打った一手は、頑として動かさない、それが彼の矜持(きょうじ)でした。

また、こうも申しておりました。「好き嫌いを言ってはならない」とも。その心は次のような理由に依ります。

食べ物の好き嫌いを言えば、材料を調達した者や、調理した者への叱責が及び、場合によっては切腹に至らしめるかも知れない。また、人物に対して好き嫌いを言えば、阿(おもね)る者が出て来る。派閥の種を蒔く事になる。物に対して「これは好い」と言えば、人はそれが上司の好みと思い、そればかりを贈って来る様になる。故に好き嫌いを言ってはならない、と。

切腹云々はまるで時代劇の世界で、パロディーの様な譬(たと)えですが、その奥には殿様教育が潜んでいたように思われます。いわゆる「帝王学」です。自分本位の言動を慎み、周りの者への影響を考えて自身の言動を律する、それが義父の根幹でした。

 

先祖は殿様?

義父が言うには、先祖は殿様だったそうです。

婆はそれを全く信じていませんでした。信じている振りをしました。第一、殿様と言う者は須(すべか)らく禅宗に帰依しているか、その影響を受けていると思っていました。それなのに、義実家は代々他力本願の伝統仏教です。

殿様は、家臣や兵卒を死地に投入する決断を常に迫られます。生死与奪の権を握っている殿様は「電光影裏(でんこうえいり)春風を斬る」覚悟が無ければ、その役は務(つと)まりません。

武将の多くは茶湯を嗜(たしな)んでいます。そして、茶禅一味からでしょうか、禅宗に帰依している人が多いように見受けます。

上杉謙信は幼い時に曹洞宗林泉寺に入り、天室光育から教育を受けています。

武田晴信臨済宗の長禅寺で出家し、信玄と号する様になりました。

徳川家康は人質時代に臨済宗太原雪斎の教えを受けた、と言われています。

古くは、北条時宗無学祖元、兀庵普寧(ごったんふねい)大休正念などの南宋の禅僧から教えを受け、深く禅宗に帰依しており、元との戦いを決断しております。

宗派の違いから、義父の先祖は殿様では無いと考えた婆は、もしかしたら、義父は戦国オタクで、昔物語好きが高じてドン・キホーテになってしまっているのかと考えました。そして、何故殿様でもないのにそんなに義父は威張っているのか、支配的なのか、その正体は何なのかを、知りたくなりました。

義母が気の毒でした。何とか彼女を救いたいと思いました。彼女の人生の最後の最後でもいい、義父の本当の姿が見えたならば、義母も「幽霊の正体見たり枯れ尾花」になって、気持ちが楽になるのではないかと考えたのです。これが義実家のルーツを調べてみようと言う気になった動機の一つです。それに、或る人から「お宅はどういう家なの?」と聞かれた事もその要因の一つでした。

 

獅子身中の虫

婆は義父を疑っておりました。けれど、雷を恐れて黙っていました。そして、義父から家の歴史を聞き出す一方、その陰で図書館に行って色々と裏付けを取り始めたのです。婆も腹黒くて人が悪い。獅子身中の虫かも知れません。

義父はご機嫌で色々と昔話をしてくれました。そんな訳で、婆は義父から気に入られていました。で、分かった事は、義父の話には詳細と曖昧(あいまい)のグラデーションがあり、慶応年間から後の話が多かったのです。つらい時期の話は余りしたがらず、家が盛んな時の話を良くしていました。

明治維新に全てを失い窮乏、その為に売り食いの暮らしになり、太平洋戦争で極貧に沈んだと言う話を義母からそっと聞き出しました。それでも誇り高き過去を捨てなかったそうです。姑は栄養失調で失明したそうです。

 

タブー

義実家は古田織部と同じ美濃出身で古田を名乗っています。古田織部と関係が有るのか無いのかの肝心なところを聞くと、それは分からない、と義父は答えました。その上、織部に触れるのは先祖代々タブーだった、と申しております。代々タブーを守ってきたせいで、家の記憶が抜け落ちてしまい、闇の中に消えてしまった、と言っています。怪しい!!!

徳川の世が続く限り謀叛人「織部」と関わる事は禁忌(きんき)だったそうです。当家はたまたま古田の名前であり、たまたま美濃出身であるというだけであり、それ以上の繋がりは一切無いというのが、歴代が貫いて来たスタンスだそうです。

義父はそれを残念がり、彼自身が色々と調べている、と聞きました。自分の代で家系の全貌を明らかにしたい、と言っていました。

えっ! こりゃぁ不味い、と思いました。何事も「秘せども色に出にけり」です。婆が義父の家系を疑って調べていると分かったら何が起こるか分かりません。彼はプラス思考で調べています。こちらは義父主張の家系を否定する為に調べています。同じ調べるでも、これでは必ず衝突するに違いありません。タグを組むのは危険です。そこで、暫(しばら)く調査を中断する事にしました。再開したのは義父が亡くなってからです。

 

家督のこと

ところで、義父は義兄を勘当した後、次男の夫に「私の亡き後の家督を継ぐ様に」と命じてきました。家督と言っても戦後の法律では消滅してしまった言葉ですので、実効性は全くありません。それに、「武士は食わねど高楊枝」を地で行く義父でしたから、貧乏サラリーマンの典型の様な暮らしぶりでした。家督と言っても何かがある訳ではありません。

婆が夫と結婚した頃の義実家は、住宅街の片隅の、周囲の屋並みに埋もれる様な小さな草屋(そうおく)に過ぎませんでした。これまでの話の展開から、義実家の家の佇まいを、地方にある武家屋敷のような御大層な構えの家を想像なさった方もいらっしゃったでしょう。が、どうしてどうして全く違います。門から玄関までがほんの3歩で済むような、小さな家でした。結局、義実家の家督を継ぐと言うのは、系図の後継者になれという事であり、墓守を受け継ぐ事でした。系図と言っても、義父が亡くなる迄、婆はそれを見せて貰った事がありません。夫が家を継いで初めて目にしました。

 

考えてみれば、次男というのは長男のスペアーなんですね。近頃、そんな名前の書物が出たようですが、昔から武士の家では、次男以下は出家するか、養子に行くか、部屋住みで一生燻(くす)ぶっているかでして、長男が討死か病死した場合の代打要員なのです。

躾も無く、何処の馬の骨とも分からないじゃじゃ馬の身としては、想定外の成り行きに慌てました。御辞退申したき義ではありましたけれど、離婚だなんだも嫌ですし、夫も、スペアーの覚悟を持ち始めた様なので、婆も従う事にしました。今まで通り素のまま飾らず、地金で接して行く事にしました。ま、なるようになるさ、と開き直ったのです。義弟妹達も、この流れを自然に受け入れてくれました。義母は喜んでくれました。

夫は義父に悟られないように義兄と連絡を取り合い、義母と義兄との間が保たれる様にしていました。夫と、格別の瑕疵(かし)も無く勘当された義兄とは共に戦後教育を受けた層です。心情的に理解し合える下地があります。どうやら夫は調整型のタイプの様でして、その辺は上手くやっていました。

 

義実家とわが家は直線距離にして約2㎞離れています。近いので、何かにつけて義実家に足を運びました。人が寄り集まる時などは、ちょいと行って義母と一緒に台所に立ちました。

台所での義母との立ち話、結構楽しかったです。万事アバウトのじゃじゃ馬嫁で、料理の失敗も幾度かありましたが、そんな時、教える出番が出来たと嬉しそうに笑って導いてくれました。彼女に笑顔が増えて行きました。主婦の笑顔はなかなか良いものです。

夫が義兄の代打に立ってから、家風はかなり緩くなりました。

 

家の伝統と伝承問題

話は遡って当方の新婚の頃に戻ります。子供が生まれた時、義両親は祝いの品を持ってやって来ました。祝いの品は「紙・墨・筆」と計算尺です。「?」と見返すと義父は「これが我家の伝統です。文武両道を願って、文房具四宝と守り刀を贈るのが我家の伝統だが、文具四宝の内、硯を除いてある。守り刀は時代にそぐわない。よって、刀を技(わざ)と見立て、現代の技の象徴として計算尺に代替した」との事。へえーと感心して、有難く頂戴いたしました。耳慣れない伝統だと思いながらも由緒が有りそうなので、この「伝統」は婆も引き継ぎました。孫の誕生の時には銀座の鳩居堂で「紙・墨・筆」を整えて贈りました。「技」に相当する物は定規であったり、小さな裁縫セットであったりします。要するに象徴的なお印であればいい訳です。

 

先祖代々伝わって来た家の伝統は他にも色々ありますが、それら全てを次世代に受け継がせて良いものかどうか、考えさせられてしまいます。

時代が違います。家の在り方が違ってきています。家への帰属意識が昔ほどでは無く、御家断絶を恐れる気持ちは殆ど無くなってきています。核家族化が進み、少子高齢化が進み、孤食が増え、孤独死が当たり前になりつつあります。墓仕舞いも盛んにおこなわれる様になりました。2018年には、849万戸の空き家が出ており(国土交通省発表)、現在も勢いよく放置家屋が増え続けています。

日本人の中に脈々と流れてきた子孫繁栄を喜び、家系を尊び、系を繋ぐという形が崩れて来ている現代に、家の伝統を守らせる意義があるのか、否、守らせる術(すべ)があるのか・・・婆には答えが見つかっていません。恐らく、将来的にはこの状況が更に深刻になって行き、「家」では無く「個」の時代になって行くでしょう。

 

余生

義父は退職後毎日写経に励んでいました。一日に何枚も筆で丁寧に書いていました。その為か随分性格が丸くなりました。そんな頃合いを見計らって、式正織部流の家元に娘を入門さてお茶を習わせましたところ、式正織部流に古田の縁を感じたのでしょうか、義父は目を細めて喜び、近所に孫娘を自慢する様になりました。これなら大丈夫そうだと、それよりかなり遅れて婆も習い始めました。

義父は亡くなるまでに般若心経を書きも書いたり3万巻、薄手の仮名用半紙が段ボール7箱分になっていました。棺にそのほんの一部を敷き詰めて上から花で覆い、お別れをしましたが、古武士のような風貌だった義父が好々爺(こうこうや)の顔になっていたのが印象的でした。駆けつけた義兄も心行くまで別れを惜しんでいました。きっと、この時には既に心の中で和解していたのだと思っています。

一周忌の法要の時、それまで書き溜めていたルーツの調査を更に進めて集大成し、義父の墓前に捧げる事が出来ました。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とばかり、真相を暴(あば)こうとした最初の意図とは逆に、証拠固めの結果が出てしまいましたが、義母は「そうだったのか」と納得してくれました。

 

義母は毎朝6時に起きて仏壇にお茶と仏飯(ぶっぱん)を供え、阿弥陀経と般若心経を唱えました。凡そそれが40~50分続きました。仏前に供える仏飯は炊き立ての最初の一掬い、そしておかずは精進料理で昆布だしで作ります。鰹節や煮干しは魚なので一切使いません。ミニトマト位の大きさの里芋一個や人参一片、一茎の菜などの野菜を別鍋で煮て供える訳ですが、そうする為には婆は義母より早く起きて、6時の「お勤め」に間に合わせる様に作り上げます。義母がお勤めしている間に婆は自分達用の朝食を作り、丁度7時くらいに一緒に頂く訳です。義母は仏壇から下げた仏飯と、生身の人間用に作った朝食を取り交ぜて食べていました。人間用の食事は精進の縛りが無いので、鰹節も化学調味料も使いました。勿論、卵・肉なども食卓に上りました。

 

義母が寡婦になった頃には、子供達は巣立ち、夫は定年退職をしていましたので、夫が日曜日から水曜日迄、婆が木曜日から日曜日までと一週間を二分して、交代で義実家に泊まり込み、見守る事にしました。幸いにして夫は家庭科5を自慢にしていましたので、夫担当の日も安心していられました。日曜日は義実家で夫と落ち合い、そこで業務引継ぎをします。義母の体調や変化、食欲の状態や、ご近所の付き合いなどの様子などメモし、報告をします。

義母は若い頃から一度も病気をしたことが無かったのですが、義父の葬儀を終えた頃から体が弱り、帯状疱疹や腸閉塞嵌頓(ちょうへいそくかんとん)などの大病を患い、要介護2になっていました。足腰は弱っていましたが、頭はしっかりしていました。「数独」という数字のパズルを楽しんでおり、難易度の高いものも1時間ぐらいで解くほどでした。

義父亡き後、義母は義父の写経を引き継ぎました。そして、毎日の勤行を怠らず、102歳で見事な大往生を遂げました。

 

 

余談   電光影裏斬春風(でんこうえいり しゅんぷうをきる)

この偈は鎌倉時代北条時宗の時に、南宋からやって来た禅僧・無学祖元(=仏光国師)の詩の一部です。

乾坤(けんこん)、弧(こきょう)を卓(たく)するに地無し

喜び得たり、人空(にんくう)、法も亦(また)

珍重(ちんちよう)す大元三尺の剣

電光影裏に春風を斬る

南宋は元に侵略され、無学祖元の居た能仁寺にも兵卒がやって来ました。他の僧達は皆逃げ出して祖元禅師だけが独りで座禅を組んでおりました。それを見つけた元の兵は、三尺の大剣を振りかざして祖元を斬ろうとします。その時、祖元は「私は空。私を斬ったとて春風を斬る様なものですよ」と句を詠みます。兵卒はその姿に圧倒されて斬らずに去って行きました。

これは「臨剣の頌」とか「臨刃偈(りんじんげ)」と言われています。無学祖元は鎌倉の円覚寺の開山です。

 

 

この記事を書くに当たり、下記のようなネット情報を参考に致しました。

臨黄ネット 禅語「電光影裏斬春風」: 臨済黄檗 禅の公式サイト

臨済宗大本山円覚寺 春風を斬る

ありがとうございました。

 

 

 

189 家父長制度(1) 義母の涙

婆の義父は武士の末裔(まつえい)を誇りにしていた人です。平成になっても、厳格な家父長制度を具現した様な暮らしを守っていましたので、そういう事などを含めて我家を例に取って語って行けば、武士の暮らしの理解の助けになるかと思って筆を執ってみました。

あなたの家庭のことなど聞きたくないよ、と仰せの方もいらっしゃるでしょうが、まぁ、閑話休題、ちょいと寄り道にも付き合って下さいませ。

 

婆は母子家庭に育ちました。母は仕事に忙しく、子供に対する躾も殆ど行わず、「勉強しろ」と言われた事も有りません。その婆が、厳格な家父長制度を守っている古田の家へ嫁ぎました。

家風の違いは想像以上で、えっ! と思う事ばかり。幸いと申しましょうか、婆の相手は次男坊。家風の嵐にまともにぶつかる事は無く、長男家に比べればずいぶん楽でした。とにかく長男第一主義で、次男以下は物の数の内には入らずでした。

聞けば、義父は義兄を立派に育てようと特別に教育を施したようです。義父は、義兄が幼い時から対面で正座させて書見台論語を乗せ「師曰く・・・」と素読をさせていたとか。その話を夫から聞いて、これはエライ所に嫁に来てしまったと思いました。

長男と次男以下との育て方の違いは歴然としていました。正月などの集まりの時には席次が決まっていたそうで、義父の隣に必ず義兄が座ったそうです。次男の夫は、そういう義兄の扱われ方を横目で見ながら育ち、ちゃっかりと論語を覚え、諸々の躾を自分なりに身に着けて行ったようです。

 

義母の出身は北陸の寒村で11人姉妹の4番目。義母は、働き者で勉強熱心、妹達の面倒を見ながら家を助け、よく働き、南無阿弥陀仏の信仰心も篤く、素直で忍耐強く、評判の娘だったそうです。

或る時、義父の親戚の者が北陸の義母の居る村の近くに赴任し、そういう義母に目を止めたそうです。義父は古田一族本家の嫡嗣子でして、将来当主になる立場だったとか。その嫁選びは一族挙げての課題で、多くの条件が付けられていたそうです。

多産系であること、頑健である事、質実である事、忍耐強い事、働き者である事、家には必ず栄枯盛衰が有るからしてどのような浮沈に遭っても動じない根性がある事、聡明である事、一族の反発が起きない様な人柄である事等々です。そこには血筋や家柄などの条件はありませんでした。資産家とか美人の条件も入っていません。そういう眼鏡に叶ったのが義母だったそうです。やがてその人からの懇請で彼女は親から引き離され、京都のお寺へ行儀見習いに行く事になりました。そのお寺の住職と義父とは血筋が繋がっていたそうです。

村では上を下への大騒ぎだったそうです。その村から京都に行儀見習いに行く等と言う事は前代未聞。村を出発する時は集落の人達がこぞって万歳をしてくれたそうです。

高等小学校を卒業しただけの彼女でしたが、京都の寺ではその後の教育を引き受けてくれたそうです。

でもね、と義母は晩年に話してくれた事があります。それがどんなに重荷だった事かと。

ホームシックにかかっても、つらくて一人で泣いていても、目に浮かぶのは村の人達の万歳の姿。おめおめと帰れなかった、と言っていました。それに京都と実家は余りにも遠かった、と。

義母は「あれは親公認の拉致だったのではないか」と言っていました。そして、「私は口減らしだったのかも知れない」とも話していました。

 

行儀見習い先のお寺は、彼女を花嫁学校に入れました。学費は全てお寺で出してくれたそうです。彼女は学ぶことは嫌いではありませんでした。彼女は寂しさをお稽古に集中して、武芸十八般ならぬ花嫁修業十八般を見事な成績で卒業しました。料理裁縫はもとより、お茶・お花・香道・書などをはじめ和歌、古典などなど女の嗜(たしな)みを収め、晴れて義父と結婚する事になりました。花嫁道具はお寺で整えてくれたそうです。

結婚式までに一度義父と会ったそうですが、その時は顔を見ていないので、どういう人だか分からなかった、と言っていました。

オール古田の支援の下で迎えた結婚でしたが、彼女の苦労はこれからが本番でした。

大姑(おおしゅうとめ)、舅(しゅうと)、姑、小姑3人の大所帯の家庭内の仕事一切が彼女の肩にのしかかりました。しかも、その立場は弱く序列で言えば最下位。財布は姑に握られていました。

そればかりではなく、一族との交際も広く、見ず知らずの遠い遠い親戚とも盆暮の付き合いがあったそうです。

大姑が亡くなり、舅が亡くなり、夫が家督を継ぎ、子供が生まれ、小姑達が結婚して家を出て行きと言う様に家庭の営みも変化して行きましたが、彼女の立場は相変わらず最下位に沈んだままだったそうです。

家族の中に厳然たる序列があり、1位は夫。2位我が子の長男。3位姑。4位が義母だったそうで、小姑達が実家に帰って来ると、順位が下がって、小姑達が4位で義母は5位になったそうです。小姑達にも長幼の序がありました。小姑達が遊びに来ると、義母は兄姉妹が仲睦まじく話している部屋の敷居の手前に座り、「お食事は如何いたしましょう」と尋ねるのが習わしだったそうです。すると、一番上の小姑が「宜しきように」と答えるのだそうです。

宜しきようにと言われて宜しく適当に手抜きでもしたら、後で何を言われるか分かりません。

パワーハラスメントなんて生易しいものではありませんでした。

 

義母は家出を考えたようです。けれども、北陸の実家には帰れない、と悩んでいました。故郷を出る時、村人が総出で万歳をしてくれた光景が目に浮かんで、どうしてもできなかったそうです。そして、婆の母に相談しました。

義母と母は生まれも育ちも考え方も違いましたが、どういう訳かウマが合い、友達の様な関係になっていました。

母は義母の事を尊敬していました。よくぞあの状況に耐えていられる、と。母は義母を見て、とてもではないけれど私だったら1日も持たない、と申しておりました。また逆に義母は母の事を、女が独立して生活している事に羨ましさを感じ、尊敬してくれていました。

母は働いていましたが、それはやむを得ぬ事情があったからこそ。どうシャカリキに働いても、女は号俸給の一番下のランクでしたし、出世など望むべくもありませんでした。

働けば「女だてらに」「女のくせに」「女子供に何ができる」「後妻にでもなれ」それが母に浴びせられる言葉でした。母は「働いても家庭にあっても、男に支配されるのは同じだ」と言ったそうです。

 

ある日、義母は義父にお茶を点てて日頃のご苦労を癒してもらおうとしたそうです。ところが、義父はそれを一服した後、こう言ったそうです。

「家庭を治めるべき一家の主婦が、歌舞音曲やお茶などの類(たぐい)にうつつを抜かすとは何事か。家を滅ぼす元である。今後はしないように」

と。

思わぬ夫の言葉に義母はびっくりし、気もそぞろに片付けた後、物陰に行って泣いたと言っておりました。一度言った事は絶対に引っ込めない夫の性質を良く知っていた彼女は、それ以来お茶をすっかり諦めてしまったそうです。茶道具も押し入れの奥深くにしまい込んでしまった、と言っていました。

婆が嫁に行った時には、婚家(こんか)に茶道具は影も形もありませんでした。

 

何故主婦が茶を習う事が家を滅ぼすことに繋がるのか? 婆は義父に直ぐに訊こうとしました。けれど、義母は、それは止めた方が良いと忠告してくれました。義父の逆鱗に触れる、と言うのです。義父は一度言い出した事は絶対引っ込めないそうです。私の言う事に逆らうのか、と怒り心頭に発し、場合によっては勘当も辞さないとか。

そんな事があってしばらく間を置いてから、婆は義父に聞いてみました。

「お義父さんは信念の人と伺いました。一度決めた事は絶対に変えないと。今時そういう気骨のある人は滅多にいません。凄いな、と思います。何か考えがあってそうなのですか? 」

義父は上機嫌でした。そして、こう言いました。

朝令暮改を戒(いまし)むる、です。上に立つ者は一度決めたらそれを変えてはいけない。突撃と命じて途中で撤退を命じたら、総崩れして多くが討死してしまうでしょ、それですよ」

朝令暮改の話からは、何故お茶がいけないのかの理由に結びつきませんでしたが、義父には義父の考えがあり、何事も一時的な感情で物を言っている訳ではないと察しました。そして、義父から茶道を習う許しを得るのは容易ではないと、改めて思い知らされました。無理に習い始めたら、それこそ逆鱗に触れて離縁され兼ねないかも、と思ったのです。というのも、その頃、何が気に喰わなかったのか義父は義兄を遠ざけ始めたのです。

 

義兄は社会的にも成功しており、義兄嫁も義母を支えていました。嫡嗣子として申し分ない人でした。が、昔、嫡嗣子を立派に育てようと論語素読させていた義父と、戦後教育を受けた義兄の考え方が次第にかけ離れて行ったのは止むを得ない事実でした。そういったあれやこれやの路線対立が、父と子の間を切り裂いて行ったのではないかと、婆は観ています。

義兄は殆ど実家に寄り付かなくなりました。義母は夫と息子の間に挟まれてオロオロとするばかりでした。そしてついに不行跡も何もない義兄を勘当してしまったのです。義母の嘆きはどれほど深かったでしょう。

そんな状態でしたから、婆もその様子を見て、茶道を習いたいと言う話を引っ込めてしまったのです。婆が60過ぎてからお茶を習い始めたと、このブログのプロローグで申し上げましたが、それは義父の軟化を待っていたからです。

 

 

 

188 侘茶・式正・桂の茶

式正織部流「茶の湯」の世界を書き始めておよそ3年半になります。

鎌倉幕府が開かれ、武士の世が到来した頃から書き始め、天下分け目の戦いの大坂の陣まで書き通して参りました。そして、武士とは何か、武士の間に広がった茶の湯とは何かを、権力闘争や文化など、余りにも多方面にわたって触れてきたせいで、焦点がぼけてしまった感があります。

古田織部はウニのよう、と書き始め、ウニの棲む海の世界を描き、ウニの正体を暴(あば)こうとして参りました。いやいやどうして、なかなか一筋縄ではいきません。あと、もうひと踏ん張りと意を新たにした今、数寄屋書院の傑作と言われる桂離宮の項に至り、千利休古田織部の生き様とは全く違う別世界の、まるで月に住んでいる様な人達に出会いました。それは貴族という一握りの文化人達です。

 

桂離宮の茶亭に見る喫茶去(きっさこ)

桂離宮に現存する茶亭は四つあります。それらを見てみると、千利休の茶室や織部の茶室とは明らかに違っております。

何が違っているかと言うと、先ず開放的な事です。密室にはなっておりません。と言う事は、狭い空間で膝を突き合わせて、一座建立と言って亭主・客共々心を合わせてその場の雰囲気を盛り上げようとする意図が、その間取りから抜け落ちている様に感じられます。仲間内で結束を固めるとか、交流を図って人脈を広げるとか、謀議を図るとか、そういう目的意識は全くなく、そこには「お茶でも飲んで楽しもう」という気楽な雰囲気があり、誰でもウエルカムの姿勢が伺えます。

勿論、離宮が殿上人の別荘である以上、そこに集(つど)う人達はそれなりの地位か、文化的に高い教養のある方々でありましょう。誰でもウエルカムと言っても、それなりの範囲はあります。それにしても、躙(にじ)り口を備えた茶室は松琴亭一つのみで、その他の茶亭にはありません。茶室のセオリーを無視した造りです。つまり、頭を下げさせなくても良い仲間内の茶室と言う事になります。

 

桂離宮の躙り口と飛び石

ならば、何故松琴亭に躙り口があるのか、というと、多分「庶民がすなる躙り口といふものを、吾もしてみむとて・・・」の遊び心ではないかと、思われます。遊園地のびっくりハウスに入る様なドキドキ感を演出する罠(わな)に、笑い戯(たわむ)れながら自ら引っ掛かってみる、それもまた一興と。

山家の草庵を念頭に造られた侘茶の茶室は、如何にも自然らしいと思わせる為に、茶亭までの露地に自然石の飛び石が配されております。けれど、桂離宮では人工的に手を加えた延段(のべだん)という敷石を敷き、歩きやすくしております。

桂離宮の主人も客もお公家さん。履物は浅沓(あさぐつ)でしょう。草履(ぞうり)ではありますまい。山里を装って自然石を並べるよりも、離宮の庭が山里そのものなのですから、歩きやすさを優先して石を加工し、表面を平に削り、玉石の平らな面を上にしてびっしりと敷き込んだ「あられこぼし」の道の方が、御身を気遣っての最高のお持て成しになります。

 

桂離宮での点前は?

建物の造りや間取りから、婆の妄想は果てしなく膨らみます。開放的な茶室で点てる茶は、自ずと利休の侘び茶や織部の茶とも違って来るかと思われます。

月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒のいずれを見ても、炉が有り、棚がありますので、此処に四方棚(よほうだな)や台子を持ち込まなくても、お茶は点てられそうです。

間取から見て、月波楼では少し人数が増えてもお茶会は出来そうですが、他の茶亭ではお客様をお呼びできる人数は1人~3人ぐらいかと思われます。多分お客様は直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)のゆったりした着物や僧服をお召しでしょうから、余り席を詰め合わせられないでしょう。と、考えると、ここでは本当に気心の知れた方々の和気藹々(わきあいあい)とした茶湯が行われていたのだろうなぁ、と想像してしまいます。

各茶亭の建て方を見ると、権威ぶった重々しさよりも軽(かろ)みが勝(まさ)った造りです。こういう造りは、茶湯に親しみ、連歌に興じ、月を愛でる公達(きんだち)「遊びをせんとや生まれけむ」と集(つど)うに相応しい舞台装置のような気がします。

 

茶湯(ちゃのゆ)の四流

茶湯には大雑把に言って四つの流れがあります。

一、茶礼

先ずは原点の禅林における茶礼です。大陸からもたらされた茶は、健康長寿や二日酔いの薬として、また、座禅の眠気を払う飲み物として大切に扱われました。

二、柳営茶湯

政治に倦(う)んだ足利義政が、無聊(ぶりょう)を慰める為に東山第を造営し、能阿弥はじめ同朋衆(どうぼうしゅう)らと共に茶湯を追求、完成させました。その頃、世の中には闘茶が流行っておりました。

三、侘茶

村田珠光が侘茶を創始します。堺で茶湯が流行り、多くの茶人が現れました。その中の一人・千利休が侘茶を完成させ、侘茶の時代に入ります。力を握った武士達の間に空前のブームが起こり、侘茶が柳営茶湯を席捲(せっけん)、政治に利用されるようになります。

四、式正茶湯

古田織部による式正の茶湯です。式正の茶湯は武家社会の儀式で行う正式の茶湯です。その本歌を柳営茶湯に取り、規矩(きく)を明確にした武士に相応しい茶に改編しました。

儀式の茶湯とは、将軍御成の時などに行われる茶湯です。

 

この様に分類してみましたが、桂離宮を知った今、それに「桂の茶」を加えたいと、婆が勝手に思っております。自由の茶、興趣の茶と申しましょうか、天上の茶と申しましょうか、おおらかな茶湯があっても良いのではないかと考える次第です。

自由で大らかな茶と申しましても、そこは貴人の茶湯。野放図で乱暴に崩した茶道では無く、それなりの心得を持った人達の優雅なものに違いないと、想像しております。

 

侘び茶

茶の湯とは ただ湯をわかし 茶を点てて のむばかりなる ことと知るべし』とは言いながら、躙り口を設け、ソーシャルディスタンスを破る程の狭い空間を造る事から見ても分かる様に、そこには利休の考える理念があり、その理念の枠に客を押し込んで従わせようとする強烈な意思があります。桂離宮の茶亭にはそれが見られません。そういう束縛から解き放されています。

千利休は商人の視座から茶の在り様を発信しました。商業仲間の「座」の考えを基底として平等を解き、武器を持つ侍の恐ろしさを無力化する為に、躙り口で頭を下げさせ、刀を取り上げ、「和敬静寂」「一座建立」を提言して茶の世界を席捲しました。そこに刀の無い平和な空間がありました。密室であり、謀議に都合の良い空間であるという特性は、武将達の心を捉えました。加えて、茶湯(ちゃのゆ)は自分磨きの道でもあるとして、禅宗と共に素養を高める術(すべ)となって行ったのです。

「侘び」「寂び」を唱え、茶室内では平等を皆に求め、自らも実践して行った利休。しかしながら、利休は秀吉の権力の中枢に居て政道の片翼を担う様になり、矛盾を抱えたまま秀吉のブレーンになって行きます。利休が地位にまとわりつく利益に手を染めて巨利を得るようになって、利休の影響力が爆上がりして行くのを見て、秀吉は利休排除に舵を切ります。

秀吉の人の心理を見抜く嗅覚は、動物以上に鋭敏です。頭も明晰です。そして、それを覆い隠す道化の振る舞いも天下一品です。最下層に生きた人間にのみ備わる人間観察力と処世術、それが秀吉の最大の武器です。その武器を、秀吉は利休に向けました。

 

利休の生涯はそこで終わりますが、彼が完成した侘茶はその後も脈々として受け継がれ、今日まで途切れずに続いております。

利休が茶湯に求めた人間社会の階層の変革は成りませんでしたが、求めてやまなかった侘びの世界の美の追求は、その輝きを失わず、日本の美の真髄を世界に発信し続けています。

 

織部の抜かり

古田織部の視座は勿論武士の側に立っています。彼は「左様」「しからば」の武士の属性に生き、体制のピラミッドを構成する一員として生活の基盤を得ながら、心は武士的な発想よりも芸術家の好奇心に支配されていました。その為、山城国の一領主でありながら内政を家臣に任せ、茶の湯一筋にのめり込んでしまいました。

もし、充分に領内の政治に目を行き届かせ、家臣の掌握に努めていたならば、重臣の木村宗喜の京都放火未遂の所業や、息子の動きに足元を掬(すく)われる事なく、天寿を全うしたであろうと思われます。木村宗喜を早期に処断し、関係者を一掃し、謀叛への関与を知らぬ存ぜぬで押し通し切れば、御家安泰を図れたかもしれまません。鎌倉時代から戦国時代迄の武将ならば、当然やったであろう果断なる領内統制を、しかし、彼はそれをしませんでした。監督不行き届の責任と、彼自身の大坂寄りの心情を黙したまま、最後は武士らしく切腹したのです。

この様に彼も武士と芸術家の二束草鞋の矛盾を抱えていました。

 

式正の茶

織部の茶湯は二通りの遣り方に分かれています。師・利休から受け継いだ侘び茶と、式正の茶湯です。式正の茶湯は、武士に相応しい茶湯を創始せよとの秀吉からの命令で創始された茶の湯です。

利休の侘茶全盛の時に求められた武士の茶とは何か? の答えを、織部は過去を遡って東山文化の柳営茶湯に求めました。式正の茶湯は、従って全く新しい茶湯では無く、古風を掘り起こして当世に合わせて改編したもの、と婆は考えています。いわば、伝統の復活です。

室町時代の初期の頃は、水屋に造りつけた棚にお道具を並べ、そこでお茶を点ててから客がいる書院へ運びました。それが、造り付けの棚が台子になり、隣の部屋で陰点てして書院の客に茶を献ずるようになります。更に進化し、台子を書院に運び込んで客の前で点てる様になりました。こうなると、お点前の腕を客の前に晒すようになりますので、所作に一段と磨きが掛かり、見せる茶湯の要素が強くなっていきます。

織部は、侘茶では盛んに創作茶碗を使用しました。水指も「これは」と思う様な変な器などを好んで使っていました。

ところが、式正織部流では、天目形(てんもくなり)や碗形(わんなり)、井戸形(いどなり)などを用います。沓形(くつなり)や楽焼に見られる半筒形(はんづつなり)などは用いません。

侘茶では陶磁器製の水指、蓋置、杓立等を主に使用しますが、式正織部流では唐銅(からかね)製のものを多用しています。風炉は唐銅製で鬼面風炉が決まりです。炉の縁は漆塗りが必須です。木地のままや透き漆の炉縁は使いません。と言う様に、同じ織部が作った茶流であっても、様相が違ってきます。

 

武道と能と

式正織部流の所作(しょさ)は、一つ一つ折り目を付けながらの動作になります。これがなかなか難しい。動きは総じて武士の動きに準じていまして、ちゃんとできれば隙の無い所作になり、見た目も美しくなります。

例えば正座から立ち上がる時を書いてみますと、次の様になります。

先ず、正座の状態の時、丹田に重心を落し、側面から見た場合、頭頂から耳-腰まで下ろした垂線が一直線になる様にします。顎は引きます。両膝は拳一つぐらい開けます(男性の場合。女性はぴったり付けます)。両手は軽く膝の上に置きます。

正座から腰を少し浮かせます。頭を揺らしません。両足の踵を上げて爪立ちし、跪座(きざ)の構えになります。重心を安定させ、いざと言う場合でも即応できる様な構えです。次に上体を足に載せたまま左足を後退させ、右足を後退させ、左足又は軸足ですっと立ちます。立った時、足が前後になっていますので、それを揃えます。揃えてから自然体の姿勢になります。客より遠い足から一歩目を踏み出します。摺り足です。と言う様に、一つの動作を完結してから次の動作に移ります。かといってギクシャクした動きではなく、淀みない流れに乗るようにして、お点前をしていきます。

一事が万事、武道かお能かと思う様な所作で進行していく訳です。日本のお稽古事は形を覚える事から始まる、と言われています。式正茶湯も様式美を大切にしています。それでこそ将軍御成の茶湯が成り立ちます。

 

各服点て

式正の茶は儀式の茶湯ですから、茶室には躙り口はありません。立ったまま入る貴人口の御成書院の茶室になります。帯刀も有りです。亭主と客の上下関係ははっきりしています。何故なら、将軍御成は君臣の結び付きを強くするために行う行事なのですから。

臣下は馬や太刀などを献上して臣従の証(あかし)を示し、将軍はそれなりの物を返礼として御下賜して、本領安堵を約束する、そういう儀式の式次第が数寄屋御成には組み込まれています。

こう言う茶湯ですから、一座建立、人皆平等の考えは無く、茶碗の回し飲みはしません。勿論、根底には清潔を保つ、という大前提があります。上様が口をお付けになった茶盌を回し飲みして、陪席の人物がそれを飲むなど恐れ多くて以(もっ)ての外です。陪席の人物と言えども、それなりの地位のある方ですから、やはり、一人一人独立峰の如く敬い、一客一碗の各服点てになります。

秀吉が織部に「武家に相応しい茶湯を創始せよ」と命じたのは、利休の侘び茶では、このような場面では用が足りないからだったと思われます。

 

武士の素養

数寄屋御成の儀式の茶湯は、織部後を受けた小堀遠州片桐石州、上田宗箇などが出てきて時代に合う様に変化して行きます。太平の世の到来に、鋭い侘びの美意識にもゆとりが生まれます。織部の革新性も影を潜めます。そして、そこに雅(みやび)さや平凡さ、言い替えれば誰でも受け入れやすい普遍性が生まれてきます。

上が行えば下も見習うと申しますが、正にその通りで、将軍-大名だった儀式の茶湯は上層から下士達へと広がって行き、やがて武士の基本素養になって行きます。

武家の男子は、武術はもとより、論語四書五経軍学等の学問、そして、茶湯によって行儀作法と素養を身に着けなければなりませんでした。

八尾嘉男氏小堀遠州武家の茶湯」の研究に依れば、小堀遠州が催した寛永16年2月7日(1630.03.11)の朝の茶会に、松平越前守、織田左衛門佐、道安と共に、数え年6歳の松平万助(忠俱(ただとも))が参会しています。

万助は掛川藩主・松平忠重の嫡嗣子。これが彼の御砂場デビューならぬ外交デビューになりました。が、この5日後、父・忠重は死去、万助は直ちに家督を継ぎます。そして、藩は移封され、幼くして信濃国飯山藩の藩主になりました。

 

桂の茶

侘び茶は「侘び」に捉われた茶、式正の茶は格式と様式に捉われた茶、何にもとらわれずにただ茶を飲んでたのしむ茶湯は桂の茶でしょうか。

桂離宮には茶亭が幾つも有ります。きっとそこで幾多の茶会が開かれたでしょうに、そこで行われた茶会記は後世に伝わっておりません。勉強不足で断定するのも烏滸(おこ)がましいのですが、親王様達は、書くまでもない事として、さらっと流していたのではないかと、勝手に考えております。

茶会記は、用いられた茶碗の銘や、お道具の名前、掛物の作者などなど、その時に出された諸々の物や参加者の名前を記録しております。お蔭様で茶会記によって、当時の茶会の様子などを知る事が出来ます。茶入れや茶碗の銘を知り、凄い茶会だったらしいと後の世の人々が感心したりするのですが・・・物欲が無いと申しましょうか、顕示欲が無いと申しましょうか、茶会記を記さなかった親王様達は、お手持ちのお道具に心を奪われることなく、日常の什器のように何気に使っていらっしゃったのではないかと思われます。羨ましい茶の境地です。

 

 

余談  天目形・井戸形・碗形

茶湯で「形」という漢字が出てきたら、それを「なり」と読みます。「かたち」とは読みません。普通の会話で「あの人は身形(みなり)が良い」と言うのと、同じ感覚です。

天目形は天目茶碗の姿をしている茶碗です。代表的なのは国宝「曜変天目茶碗」です。

井戸形は、朝鮮半島で焼かれた普段使いの茶碗の形で、ご飯茶碗の様な形をしています。

碗形は、味噌汁椀の様な形をしています。

古田織部は、織部焼きと言って歪(ゆが)んだ茶碗などを好んで使っていました。ただ、正式な儀式で用いる茶盌は、神に捧げる器の様に歪みの無い茶碗を吉祥としていましたので、式正織部流茶湯では天目形や碗形などの様に、型崩れしていない茶碗を使う様になっています。尤も、形の歪(いびつ)な茶碗は、茶碗台に安定させて載せる事が出来ないという、物理的な理由もあります。

 

 

 

この記事を書くに当たり、下記のようなネット情報を参考に致しました。

仏教大学 徳川将軍家の茶湯と大名茶人個 小堀遠州武家の茶湯 八尾嘉男

奈良大学リポジトリ 徳川和子の入内と藤堂高虎 久保文武

「第2部 茶道上田流」<上>流祖の美学 剛健な武、風雅さ宿す

「第2部 茶道上田流」<下>上田屋敷再現 武家の風格漂う空間

遠州茶道宗家 十三世家元 不傳庵小堀宋実-大和ハウス工業

日本文化と禅 石州流の成立とその特色 小田守

茶の湯入門 さあさ一服」④茶の湯の歴史  

長野義嗣 茶道家現代美術家 武道茶道上田宗箇流製享受者

月波楼-桂離宮 waseda.ac.jp

京都の四季 桂離宮 その4 書院 月波楼 さすがに美しいです。

笑意軒|京都奈良文化財保護サイト

桂離宮 月波楼  けんちく探訪

この外にウィキペディア」、「コトバンクなどなど多くのサイトを参考にさせていただきました。有難うございました。

 

 

 

187 桂離宮(3) 新御殿と茶屋と庭

山紫水明 白砂青松 の風景は、400年前の日本ではごく当たり前に見られたことでしょう。須磨や住吉の浦、近江八景和歌の浦三保の松原天橋立などと思(おぼ)しき大和絵の、名所を描いた屏風絵に、色紙の和歌を散らして眺めて愉しむばかりでなく、その景色を屋敷の庭に取り込んで、歩いて楽しみ、舟遊びに興じるという風雅に暮らすのは、殿上人のこの上ない喜びだった事と思われます。彼等は噂に聞く風光明媚な景色を絵や庭に写して、そうやって旅行気分を味わっていたのかも知れません。

 

目次

中書院

新御殿

天下の三棚

  桂離宮・桂棚、修学院離宮・霞棚(かすみだな)醍醐寺三宝院・醍醐棚

桂離宮の御寝間(ぎょしんのま)

茶屋

  月波楼(げっぱろう)、松琴亭(しょうきんてい)、賞花亭(しょうかてい)

  園林堂(おんりんどう)、笑意軒(しょういけん)

庭園

  『作庭記』、離宮の作庭、名勝のジオラマ、延段(のべだん)(=敷石)

   庭園の種類、桂垣、

余談

  面皮柱(めんかわばしら)、裙帯(くんたい)、下地窓(したじまど)と連子窓(れんじまど)

 

                                   中  書  院

 

桂の別荘を智仁(としひと)親王から引き継いだ智忠(としただ)親王は、父宮が造営した古書院につなげて中書院を建て増ししました。それは、智忠親王前田利常の娘・富姫(ふうひめ)と結婚した1642(寛永19)年より前の頃だろうと言われております。中書院は、古書院より池から少し引っ込んで雁行して建てられています。

 

古書院の襖は雲母(きら)入りの桐模様の唐紙が使われていましたが、中書院の部屋の襖は狩野3兄弟の筆による水墨画が描かれています。一の間は狩野探幽「山水図」、二の間は狩野尚信「竹林七賢図」、三の間は狩野安信「雪中禽鳥図」です。襖絵が墨絵とあって、落ち着いた部屋の雰囲気になっています。恐らく智忠親王は、父宮が月を愛(め)でる為に特化した別荘に手を加えて、より滞在型の居住性を高めようとしたのかも知れません。雲母の襖の使用を控え、地味な水墨画の襖絵にしたのは、智忠親王の心の趣(おもむき)を表している様に思えます。

 

中書院の一の間は6畳でそれに加えて間口2間幅の大畳床があります。大畳床に対して90度の位置に棚が設えられております。二の間は8畳、三の間も8畳間です。三の間にも1間幅の畳床がありますが、これは後付けのものだそうです。

茶湯所やお湯殿や御厨(みくりや/みくり)が設けられ、多少の並びのズレはあるものの、全体の部屋の配列が田の字に納まっており、部屋数や施設も増え、より居住性が増しています。

写真から見ると、柱は面皮柱(めんかわばしら)の様に見受けます。柱の様子から数寄具合が古書院より増している様です。柱の形を真(しん)・行(ぎょう)・草(そう)で分けるならば、かっちりした角材は真、面皮柱は行、丸太や曲がり材・節有りなどが草に分けられ、草に近い材を使う程、より数寄屋造りに近くなります。

 

中書院の、庭に面した部屋を取り巻くように、半間巾の畳廊下が巡らされております。畳廊下には明障子が引かれており、更に明障子の外側に雨戸が設置されております。普段、雨戸は戸袋に収納されています。ですから、写真などで外観を見ると、白い障子に囲まれた建物の様に見えます。

 

古書院・中書院・御殿の建物が、高床になっているのは、池の水が増水した時の為だそうです。桂離宮の池は、桂川の水を引いておりますので、川の水位と連動しています。増水被害も有ったそうです。それが桂離宮特有の高床の美しいフォルムになっています。

(災害対策は庭園の項で触れます。→桂垣など)

 

                                    新  御  殿

 

新御殿は、智忠親王後水尾上皇をお迎えしようとして建てた御殿です。彼は上皇を持て成そうと色々と工夫を凝(こ)らしていました。

襖の引手に、四季の花の手桶をデザインした金具を使っています。きっとこれは、上皇が華道の流祖である事を受けての、それとない気遣いではないでしょうか。釘隠しの水仙も、緩(ゆる)みの無い見事な曲線を描いて、たおやかに長押(なげし)に咲いております。華道家の目に叶う花の姿がそこに写し取られています。

 

これらの金具を製作したのは金具師の嘉長(かちょう)という職人だそうです。言い伝えによれば、小堀遠州に可愛がられ、秀吉の目に止まり、大徳寺や二条城などの金具を手掛けた人物と言われています。ただ、桂離宮の新御殿に使われている襖の引手や釘隠しなどのデザインは、親王自らが考えた意匠に違いないと、婆は考えております。

嘉長が手掛けたと言われている大徳寺二条城などの金具と、桂離宮修学院離宮の二つの離宮に使われている金具とでは、少し傾向が違います。

桂離宮に見られる花手桶や月の字崩し、鏑矢(かぶらや)水仙などを引手や釘隠しにする様な自由な発想や革新性は、上記寺院などには無いものです。そこに、施主・智忠親王の意思がある、と推測した次第です。

智忠親王と嘉長はデザイナーと職人の関係だったのではないでしょうか。

 

新御殿の襖や壁には唐紙が張られております。雲母を擦り込んだ細かい黄土色の桐紋の柄で、まるで江戸小紋のように一面にあしらわれております。それだけに、古書院の襖の、大柄な桐紋に比べて光を多く反射して、華やかに見えます。

一の間には上皇がお座りになる上段があります。上段にある付け書院の窓は、櫛形の枠に切り取られていています。その明かり障子を開け放すと、眼前の庭に平地が広がっています。宮内庁の解説を読むとそこで蹴鞠が行われていたとか。上皇は、上段の間にお座りになって櫛形窓の外で行われる蹴鞠をご覧になっていたのかもしれません。

 

天下の三棚

桂離宮の新御殿にある「桂棚」は、修学院離宮の「霞棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」と並んで、天下の三棚と呼ばれております。

桂離宮 ・ 桂棚

桂離宮の棚は、黒檀・紫檀・伽羅などの外国産の銘木18種類の木材を使って造られているそうです。それは上皇がお座りになる上段の三畳間の、奥まった畳にL字型に設置されております。横幅は1間幅です。地袋や袋棚を組み合わせた棚造りになっており、造り付けた場所から想像すると、来客者などへの他者に見せる飾り棚では無く、どうやら上皇のプライベートの品々を置くのが主目的の様に見受けられます。

上段の間は最高位の方がお座りになる場所。その背後に棚があるのですから、もし、そこに登って拝見しようものなら、忽(たちま)ちお付きの方に摘み出されてしまうでしょう。誰も近付けない位置の棚なので、婆は棚を私物収納棚と見ました。

修学院離宮 ・ 霞棚(かすみたな)

その点、修学院離宮の霞棚は広間にあり、大きさも2間幅。開放的な造りです。下は全て地袋。そして、たたなずく霞の様に、長さの異なる棚が間隔を違えて左下から右上に上昇する様に造られております。

棚の後ろの壁全面は、金泥か金粉? で暈(ぼか)しの雲が描かれており、色紙が散らされております。色紙は恐らく名筆名蹟。この棚は、美術館の展示棚の様に、素晴らしい美術品などを並べて見せる為の棚の様に見受けられます。

醍醐寺三宝院・醍醐棚

醍醐寺三宝院の中に「奥宸殿」と言う部屋があり、そこに「醍醐棚」があります。

醍醐棚は他には見られない構造をしております。

まず、上部に天袋があります。そして、棚床の中央よりやや右寄りの位置に一本の支柱が下から伸びています。その一本の支柱を軸にして、2枚の棚板が竹トンボの羽のように左右に伸びています。竹トンボと違うのは、左の羽根が長く、右の羽根が短く、しかも段違いに取り付けられている点です。それぞれの羽根(棚板)の片方の先が、左右の壁にくっついています。ところが棚板は奥の壁面には接していません。ですので、棚に物を置いても後ろの隙間から落っこちない様に、棚の奥に透かし彫りの細長いガード板が取り付けられています。棚の背面が全面の金箔押しなので、透かし彫りの向こうに見える金の輝きで豪華に見えます。この棚のデザインは小堀遠州と言われております。

 

桂離宮の御寝間(ぎょしんのま)

お休みになる御寝間は一の間と襖一つ隔てて裏隣りにあります。御寝間は御化粧の間、御手水(みちょうず)の間、御厠、御衣文の間、御納戸、などの部屋で四方を囲まれております。その為、外光が射さないので落ち着いてお休みになれるようになっており、また、警備の面でも心強い造りになっています。朝お目覚めになり身支度を整えて一の間にお出ましになるまでの一連の動きが、そこで完結する様な部屋の配置になっています。

御寝間の隅の角に三角形の棚があります。それは剣璽(けんじ)等を置く場所だそうです。

中書院と新御殿を繋ぐ場所に楽器の間や御湯殿があります。御湯殿は新御殿にもあります。湯殿は屋敷の主(あるじ)用と来客用に分かれていた様です。

新御殿の柱は面皮柱を多用しております。写真を見ると長押はどうやら北山杉の磨き丸太を使っている様に見えますが・・・室内が暗く、漆塗りなのか、時代を経て黒光りしているか、よく分からないのですが、表面の木肌がシボを成しているのが見えます。シボとは、樹木の縦方向に大きい割り箸の様な棒を何本も当てて縛りつけ、成長を阻害し、木の表面に凹凸を付けたもので、これも数寄屋造りにはよく見られる柱材です。

 

残念ながら、御殿の完成を待たず、44歳で智忠親王薨去なさいました。その跡を継いだ養子の穏仁(やすひと)親王がそれを完成させました。穏仁親王は後水尾帝の第11皇子です。

後水尾上皇は1663.04.13(寛文3年3月6日)年に新御殿を訪問なさいました。上皇をお迎えしたのは勿論お子様の穏仁親王です。

宮内庁の栞によれば、当日は大変良く晴れた日だったようで、桜を眺めお庭を散策し、庭園の所々にある御茶屋でお菓子やうどん、冷や麦などの軽食を召し上がったりしたそうです。夜には御膳も出て、御茶や俳諧連歌なども楽しんだとか。招かれた鳳林承章は桂別業を絶賛して漢詩を詠んだそうです。上皇も大変ご満足して過ごされたそうです。

 

          茶  屋

桂離宮には古書院、中書院、新御殿があり、それに付属棟が加わって一塊りの建築群となっております。それらの一塊を中心として、池の周りに月波楼、、松琴亭、賞花亭、笑意軒の四つの茶屋と園林堂があり、その外に外腰掛、四つ腰掛(卍亭)が、池を取り巻くように展開して建っています。

 

月波楼 (げっぱろう)

月波楼の名前は、唐の詩人白楽天漢詩『春題湖上』の中の一節から来ています。

その一節は『月点波心一顆珠』というもので、西湖の美しさを讃えた詩です。

 

春題湖上  白楽天

湖上春来似画図  湖上に春来りて画図(がと)に似る

乱峰囲繞水平舗  乱峰(らんぽう) 囲繞(いじょう) 水は平(たいら)かに舗(し)

松排山面千里翠       松は山面を排し千里の翠(みどり)

月点波心一顆珠  月は波心(はしん)に点じ一顆(いっか)の珠(たま)

碧毯線頭抽早稲    碧毯(へきたん)線頭(せんとう)早稲(そうとう)を抽(ちゅう)す

青羅裙帯展新蒲    青羅(せいら) 裙帯(くんたい)新蒲(しんぽ)を展(の)

未能抛得杭州      未だ杭州を抛(ほう)りて去る能(あた)わず

一半勾留是此湖  一半勾留はこの湖にあり

 

(ずいよう超意訳)

西湖に春が来るとまるで絵に描いたように美しくなる。遠くにうねうねと続く山々は湖を囲み、湖は穏やかに水を湛(たた)えている。松は山肌を覆い千里の翠(みどり)と為し、月は波に光を点じ一粒の真珠のようだ。早苗(さなえ)のみどりは碧(あお)い絨毯の毛先のようであり、新芽の川柳は青い薄絹の帯のようである。それだから、私は未だに杭州を抛(ほう)り捨てて去る事が出来ないでいる。その理由の半分はこの湖の美しさなのだ。

 

月波楼は初代八条宮智仁親王が建てた茶屋です。

中門を入ると直ぐ生垣に導かれる様に左に折れ、そこに月波楼があります。古書院の月見台と並ぶような位置にあり、矢張り南東向きになっています。古書院月見台が無蓋(むがい)の露台ならば、月波楼は屋根付きのお月見特等席です。

 

建物全体の間取りは漢字の 冂 (けい・きょう・ぎょう(意味→境・境界))の形になっており、開口部は踏み込み土間と大炉と板の間があり、板の間には炉と水屋棚があって調理場になっています。つまり台所が月波楼の玄関になっています。茶屋ですが、躙(にじ)り口は無く、立ったまま台所から室内に入れる貴人口になっており、開け放しであり、非常に開放的な造りになっています。

冂 の2画目、横線に当たる所が一の間です。一の間は4畳に1間幅の床がついており、付け書院も有ります。畳を横幅に並べただけの変則的な4畳です。

冂 の2画目縦線に当たる所が7畳半の「中の間」と、4畳の「ロの間」があります。中の間は掃き出し窓のすぐ下に池が迫っております。1尺半の竹の簀子の濡れ縁があり、手摺が設けられています。北東の向きにも1畳半ばかりの竹の簀子の濡れ縁があります。

 

襖の柄は一面の紅葉散らし。そこに雲母で流水が描かれています。引手は杼(ひ)。杼は機織(はたおり)をする時に緯糸(よこいと/ぬきいと))を通す道具です。紅葉と流水と杼の三題噺となれば、これはもう竜田川を思い浮かべるしかありません。竜田川竜田姫は染色と裁縫の女神様です。中秋の名月に合わせて造られた月波楼。正に秋の茶屋です。

 

屋根は寄棟造で杮(こけら)葺き、屋根裏が葭簀(よしず)張り、垂木と母屋(もや)は共に竹で、船底天井を成しています。天井板が張っていないので、屋根を支える骨組みなどがすっかり丸見えです。柱は曲がり木、丸太、節有りの木を使い、材は細く、地震や台風で簡単に壊れそうな華奢な造りです。侘び数寄もここまでくると極まれりと言う感ですが、修行僧を思わせる様な侘びの暗さは無く、周りの景色と相まって明るく朗らかな雰囲気を持っています。

 

松琴亭(しょうきんてい)

松琴亭は、茅葺(かやぶき)の書院と、杮葺(こけらぶき)の茶室と、瓦葺きの水屋(台所)という三つの異なる空間を、破綻なくまとめた茅葺入母屋造りの天井張りの建物です。

茶室へは普通の人は躙(にじ)り口から入る様になっております。茶室は三畳台目(さんじょうだいめ)(台目畳というのは1帖の3/4の大きさの畳の事。三畳台目は三畳+3/4畳)です。窓が八つあり、八相窓と呼んでおります。

茶室には茶道口(亭主の出入り口)と給仕口(給仕人の出入り口)が設けられています。二つとも襖は白い奉書張りの襖です。

茶室にはもう一つ出入り口があります。襖二枚開きのその出入り口は、二の間に通じており、貴人口(きにんぐち)になっています。

(貴人口とは、お客様が腰を屈めて躙(にじ)って入る方式では無く、立ったまま出入りできる口の事を言います。)

つまり、三畳台目の茶室には躙り口、給仕口、茶道口、貴人口の四つの出入り口があります。貴人口の茶室側の襖は藍色一色。それに合わせて二の間の内側の襖も藍色一色。二の間には半間の違い棚があります。

二の間の襖を開けて一の間へ入ると、鮮やかな藍と白の市松模様の書院が現れます。茶室の白、二の間の藍、一の間の藍と白の市松模様と、実に場面転換が見事です。

襖の引手は「結紐(むすびひも)形引手」と「螺貝(らがい)形引手」になっています。「結紐形」は巾着を紐結びしたデザインで富貴を表します。「螺貝」は法螺貝の事で、むかし貝は財貨でしたので宝物を表します。紐結びも螺貝も宝尽くしの縁起の良いデザインです。

書院には一間の床と半間の袋棚。そして、庇の下ではありますが、部屋から外に張り出して水屋があります。バックヤードにしっかりした水屋がありますので、この位置に水屋があるのは不思議です。きっと、御菓子や簡単な酒の肴をそこで用意して、みんなでワイワイと楽しんだのかしら? そんな想像をしてしまいます。そう言えば、一の間に一畳ばかりの石炉があります。

 

賞花亭(しょうかてい)

峠の東屋(あずまや)。賞花亭の写真を見た時、真っ先にそう思いました。

なんとまぁ小さくて軽やかで、まるで野点(のだて)の御座筵(ござむしろ)に屋根を翳(かざ)したような造りです。

賞花亭の造りは、畳4枚を漢字の 冂(けい) の字に並べて、少し高床にして敷き並べており、開口部の真ん中が土間になっています。土間は白っぽい色をしていて、そこに青黒い小石がまばらに埋め込まれています。まるで箔散らしの御料紙のように見えます。土間の右側に竈(かまど)があります。

土間兼正面入り口と思われるそこは、家の内と外を区切る敷居も戸も無く、壁も全くありません。雨風出入り自由の開け放しです。

開口部の一面を除いて残りの3面の内、「壁」らしい壁があるのは2面だけです。しかもその2面は連子窓や下地窓が大きく取られていて、スケスケです。残りの一面は襖1枚分の大下地窓(おおしたじまど)だけで他に何もありません。この大下地窓、驚いた事に襖の縁取りくらいの幅の土壁しか無いのです。土壁の塗り残しの下地窓と言うよりも、竹の格子窓に土の額縁を付けて嵌め込んだと言う様な、そういう格好をしています。余りにスケスケで虫籠の様にも見えてきます。

屋根は切妻(きりづま)の茅葺(かやぶき)、天井裏はへぎ板、垂木は竹。柱は外樹皮(ごつごつした表皮)付の丸太材で、曲がりくねっています。(へぎ板は、木を1㎜前後まで薄く割いて作った板の事。へぎ板は身近では曲げわっばなどに使われています。)

壁面積が少なく、柱も心許ないほど細くて曲がっていて、よくこんなので立っていられるなぁと感心。いや、心配になります。

 

園林堂(おんりんどう)

本瓦葺きの持仏堂で、唐破風の正面を持っています。今は中に何も置いていませんが、かつては仏像と、八条の宮家の位牌、そして、細川幽斎(=細川藤孝=長岡藤孝)の肖像画が一幅祀られていたそうです。細川幽斎は、八条の宮智仁親王に古今伝授を授けた人です。

 

笑意軒(しょういけん)

笑意軒は茅葺寄棟屋根の田舎家風で、深い庇を持っています。そして、すぐ目の前に舟着き場があります。池の畔(ほとり)を巡り歩いても、舟遊びをしながら優雅に舟で着いても良いようになっていますが、今は見学コースが指定されていて、順路を辿って行く様になっています。

建物の前に草(そう)の延段(のべだん)(=敷石)があります。石の敷き方にも真・行・草があり、真は花崗岩表面を平に削った上で、様々な方形に切り整えて真っ直ぐ並べた道を言います。草は、自然石の平らな部分を上にし、石のごつごつした不安定な部分を地面に埋め込んで、歩き易いように敷き並べたもので、行は、切り石と自然石を取り交ぜて作ったものです。(因みに、真の延段は古書院の御輿寄せに通ずる道にあります。)

笑意軒の延段は、道の両側の縁取りにやや大きめの白っぽい石を使用、縁取りの中は青味や赤味を帯びた大小様々な石が敷き並べて埋め込まれています。

さて、その延段の前に、笑意軒の正面があります。客は縁側から入る様になっています。(見学者は建物内に入る事は出来ません。外から眺めるだけです。)

 

正面の上の壁に、六つの丸窓があります。六つとも下地窓です。手前の部屋は「口の間」(入口の間の意味か?)と言って4畳です。その正面奥に「中の間」の6畳があります。「中の間」の襖の引手は、遊び心を舟に託して櫂(かい)形の引手です。庭園内には五つの船着場があります。笑意軒の舟着場はその中でもしっかりした造りになっております。

 

「中の間」にはひじ掛け窓があり、その窓の下の2間幅の腰壁が非常に斬新でユニークなデザインになっております。

腰壁長方形の中央を鋭く平行四辺形に切り裂くように金箔を貼り、残りの左下三角形の空間と右上三角形の空間に、黒とえんじ色の格子窓模様のゴブラン織りを貼っています。ゴブラン織りはビロードだそうです。格子窓の四角い隙間の地色は黄色かオレンジ色? 写真からは色彩が良く分からないのですが、とても華やかです。そういう織物は日本には無いので、舶来物だそうです。豊臣秀吉から贈られたものだとか。

 

ゴブラン織りのある「中の間」の左側が「一の間」です。「一の間」は3畳です。ここには付け書院と床があります。と言う事は、ここが茶室になります。

茶室の裏側が納戸。そして、その外側にトイレ。トイレには縁側廊下で繋がっています。縁側廊下にある杉戸の引手が矢形の引手です。

 

「中の間」の右側が「次の間」で、7畳半です。壁際の下方に袋棚があります。袋棚の襖絵は雲海を表しているそうですが・・?  婆の目には乱高下するグラフの線の様に見えてしまいます。(凡人のドングリ眼(まなこ)、お許しください。)  竹連子窓の内側に、竈(かまど)と長炉があり、そこは板敷きになっています。竈の隅に5重の吊り棚があります。中の間の裏側が勝手口と御膳組の部屋です。

 

笑意軒の柱は面皮柱で、天井板が張られています。外見は何処にでもある様な農家ですが、六つの丸窓と言い、ゴブラン織りの腰壁と言い、意表を突くような内装がいっぱいです。それでいて、ごたごたしていません。スッキリしています。見事と言う他ありません。

 

          庭   園

 『作庭記』

一つ、石をたてん事、まづ大旨をこヽろふべき也

これは、日本最古というより世界最古の造園の秘伝書『作庭記』の出だしです。書かれたのは平安時代の中頃、宇治の平等院が建てられた頃です。著者は橘俊綱(たちばな としつな(=摂政関白藤原頼道の次男))に違いなかろう、というのが定説になっております。

『作庭記』は秘伝として伝わってきましたが、実は書き写しも多くなされ、造園のマニュアル本として活用されてきました。日本の庭園の殆どがこの本の影響下にあります。作庭のバイブルと言っても過言ではありません。

 

離宮の作庭

石組の仕方、泉水の在り様など、施工するその土地の地形をよく見て、施主の意向を汲み取りつつ自分なりのデザインを施して行くように、との『作庭記』の教えは、現代でも十分通じる指南書です。指南の内容も具体的です。

土地を掘り、掘った土を盛り上げて築山に成し、川から水を引き、樹木をあしらう、そう言った土木工事を念頭に、桂離宮の庭園を見ると、非常に手の込んだ作事が行われているのが分かります。その中でも驚くのは、池の複雑な形です。

池と言えば、丸池、心字池、瓢箪池などが思い浮かびます。桂離宮の池は、海岸線ならぬ池岸の線が複雑で、池岸線の長さが、他の類を見ません。何故か?

メインの主殿や各茶屋からの眺めに、常に月を取り入れようとするには、その場所、その角度に水面を配置しなければならず、そうなると単純な池岸線ののっぺらぼうな丸池や瓢箪池では用が足りなくなります。ただ、それだけでは入り江や島、水路、橋などの多用は説明がつかないように思えます。そこには場面転換が仕組まれているように思えてならないのです。

 

名勝のジオラマ

月波楼から月の出の方向を見た場合、脇に天橋立、前に松琴亭が見えます。その構図、雪舟天橋立図』に描かれた風情に重なります。海の向こうの樹々の間に見え隠れする智恩寺や山の上の成相寺(なりあいじ)などを彷彿とさせます。

苑路を歩き、次々と変わっていく景色は、牧谿(もっけい)『瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)長谷川等伯『瀟湘八景図』を思い起こさせます。今の景色から次の景色に移ると、過ぎ去った前の景色が樹々の枝などに遮られて微妙に隠され、新たに表れる亭は一部を植え込みに隠して全身を表すことなく、まるで扇で顔を隠しているかぐや姫の様です。秘すれば花と言います。想像力を掻き立てます。

そう言えば、婆は桂離宮を見学に行っておりません。情けない事に、これ等の話は全てネットの写真や動画で見た景色を心の中で綴り合わせて、書いております。きっと実際はもっともっと素晴らしいものでしょう。

写真に写っている延段を、あたかも歩いているかのように空想の旅をしております。

 

述段(のべだん)(=敷石)

小さな石を縦にびっしりと土に埋め込んで造る「あられこぼし」の延段、1㎡あたり450~500個も敷き詰めるのですって! その「あられこぼし」の敷石面積が286㎡あるそうです。これに使われる石はチャートと言う非常に硬い堆積岩だそうです。延段に使うのは黒色系の石で、その1割くらいに赤系や白系の石を混ぜるそうです。敷石もお洒落です。

ついでに言えば、真・行・草の三種類の延段は、全部合わせて26か所あります。そして、延段や池面を照らす灯籠は24基あります。全部デザインが違います。

 

庭園の種類

2021年(令和3年)1月25日にアップした当ブログ№80 室町文化(7) 庭園」で幾つかの作庭について触れております。

浄土式庭園、寝殿造庭園、神仙蓬莱式庭園、縮景庭園、禅宗寺院庭園などです。これ等の庭園のそれぞれに回遊式庭園もあれば、座敷から一方的に眺める様な庭も有ります。

桂離宮の庭園はそのどれにも当てはまらないのに、全てを包含しております。

桂離宮と言う世界を創り上げた八条宮家の三人の親王智仁親王、智忠親王、穏仁親王の凄さに圧倒される思いです。

 

桂垣

この離宮を400年間も守って来た人達の偉さもさることながら、守り続けた防災の知恵も又学ぶべきものがあります。

桂離宮には「桂垣」という特殊な垣根が存在します。何が特殊かと言うと、その作り方です。生きている竹を腰から折り曲げて、竹の天辺を地面に接地させ、それを密に編みこんで垣根にしているのです。竹は根を張ったままですから枯れることなく、何時も青々と葉を茂らせています。

この桂垣は桂川沿いにあります。川が氾濫した時、離宮に押し寄せた水は竹垣を難無く通り抜けてしまいます。しかし、水流は密に造られた竹垣によって弱められ、しかも、泥水の泥は濾し取られ、流木はそこでストップします。生きている竹ですから弾力もあり、濁流に強いのです。洪水の時には古書院等は畳まで水を被った事があったそうですが、高床のお蔭で被害は少しで済んだそうです。松琴亭は低い位置に在ったので、鴨居ぐらいまで水に浸かったとか。今でもその浸水の跡が壁に残っているそうです。

 

 

余談  面皮柱 (めんかわばしら)

面皮柱:丸い木材を角材に成形する時、円内に納まる様に正方形に切り出すのでは無く、円からはみ出す様に方形に切り出したもので、そのため角になるべき外皮が取り残されて、角が面取りをしたように丸味を帯びている柱の事を言います。皮と言っても、二通りの皮付があります。樹木の表面のゴツゴツした荒々しい表皮を残したものと、そうでは無く、一皮むいた内樹皮の状態のものです。多くは内樹皮のものが用いられています。

 

余談  裙帯 (くんたい)

唐の時代、裙(くん)と言うのは襞(ひだ)の付いたスカートの事。高松塚古墳の貴婦人が付けているスカートと同じ。裳の事。帯(たい)は帯(おび)、或いは領巾(ひれ)の事です。領巾は細長いスカーフのようなもので、観音様が身に纏っていたり、天女が空を舞う時にひらひらとなびかせているあの布を領巾と言います。

日本で裙帯(くんたい)と言うと、十二単(じゅうにひとえ)の極めつけの正装に使う帯を意味します。略式十二単では、裙帯を付けません。紫式部日記に正装した左衛門の内侍が裙帯を付けた姿を「うるはしきすがた」と評しています。(前略)・・・青色の無紋の唐衣、裾濃(すそご)の裳、領巾(ひれ)、裙帯は浮線綾(ふせんりょう(=浮き織))を櫨緂(はぜだん)に染めたり・・・(後略)」とあります。

  

余談  下地窓 (したじまど)連子窓 (れんじまど)

下地窓と言うのは、有り得ない譬(たと)えて言うならば、鉄筋コンクリートの鉄筋を剥(む)き出しにして窓にした様なものです。

普通、土壁を造る時、竹や葭(あし)を藤蔓(ふじづる)で格子に編んだものを土壁の芯材として据(す)え、藁(わら)などを漉(す)き込んだ土をその上から塗り籠めます。茶室などでは採光用に窓が欲しい場所に、わざわざ土を塗らずに塗り残し、そこを窓とする事があります。それを下地窓と言います。竹などの内部の芯材は剥き出しです。

大下地窓と言うのは、そうやって開けた窓が極端に大きいものを言います。

連子窓というのは、細長い木材、或いは竹などを、櫛(くし)の歯の様に並べて窓にしたものを言います。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記のように色々な本やネット情報を参考にしました。(順不同)

宮内庁 これまでの<京都>御所と離宮の栞 

NHKアーカイブス 桂離宮 新御殿

桂離宮松琴亭襖ほか修理工事

国指定文化財関連サイト

京都・奈良文化財保護サイト 笑意軒

楽器の間・新御殿 | 京都・奈良文化財保護サイト さくらインターネット

月と建築  解説ページ 月と桂離宮-INAX 宮元健次(庭園史・庭園デザイン)

桂離宮 月波楼(げっぱろう)-matta

桂離宮 月波楼-けんちく探訪 写真 Observing the Architecture

桂離宮月波楼、「月の桂」の象徴-京都の庭園と伝統

高台寺の傘亭を桂離宮の月波楼と比べてみる-ブログ 株/才本設計アトリエ

桂離宮 松琴亭の茶室と周辺の露地 造形礼賛

桂離宮(松琴亭):岩崎建築研究室・日誌

桂離宮/後編:岩崎建築研究室・日誌

桂離宮 七つのキリシタン灯籠を探し求めて 松琴亭 茶室 母屋 和みの庭

3回 桂離宮 賞花亭 | 茶室の窓 三井嶺 

桂離宮の持仏堂、園林堂と「夏の茶屋」賞花亭-京都の庭園と・・造形礼賛

桂離宮 SHIMAZAKI Lab.

斬新な意匠と三光灯籠、桂離宮の笑意軒-京都の庭園と伝統 造形礼賛

視覚特性から見た桂離宮の建築配置とそのプロセス 谷本あづみ 指導教員 斎藤潮

松風水月 葛野紀行④桂離宮<後編-京都

庭園ランキング2位の『桂離宮』に納得!

吉野中央木材 第7回「木取りの基本」

ごまめのはぎしり 修学院離宮桂離宮 衆議員議員河野太郎公式サイト

桂離宮 訪問記(3) Paper Garden Blog Paper aet works by Sakyo k.

(えり)のはなし~中国編-一寸海溝日記(ver.4-)

鍛冶對馬-武者小路千家卜深庵

漢詩・春題湖上 kanshi.me

作庭記原文 大阪市立大学 中谷ゼミナール

千年前の造園指南書「作庭記」について 島根県技術士会 山村賢治

駒澤大学 『作庭記』について

「作庭記」と平等院|藤はなの窓 平等院

桂離宮とその周辺の水害リスク 京都歴史災害研究 

                論文 川崎一郎・岡田篤正・諏訪 浩・吉越昭久・大窪健之・

                          向坊恭介・ 大邑潤三・高橋昌明

まともに見ようよ川と地域と私達の生活007 京都アイネット

桂離宮あられこぼし苑路の改修  

 

この外にウィキペディア」観光案内、自治体のパンフレット、動画、観光客の皆さまネットにアップした写真や情報等々ここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。

 

186 桂離宮(2) 源氏物語・寛永文化

月のすむ 川のをちなる 里なれば  

          桂の影は のどけかるらむ

これは帝が光源氏へ送った歌。それに対して光源氏はこう返します。

久方の 光に近き 名のみして 

          朝夕霧も 晴れぬ山里

                    源氏物語18帖 松風より

[ずいよう意訳]

帝の御物忌みが明ける日に、源氏の君が宮中に伺候(しこう)しなかったので、帝が「源氏はどうしたのか?」とお尋ねになります。廷臣が「源氏の君は桂へ行っております」と奏上したので、「月のすむ・・」の歌を勅使に持たせて源氏へ遣わします。「月が住むという桂は川向うだから、きっとのどかだろうなぁ」と。 それに対して、源氏は「桂は月の光に近いと言われておりますが、実は朝夕霧が出て光は見えないのです」と歌を返します。

[歌の背景]

光源氏は今迄愛した女性達の中で、今はひっそりと暮らしている方々を一か所に集めて、そこで皆で暮らしてもらうという計画を立てました。旧愛人達の老人ホームですね。場所は二条院の東側です。二条院は源氏の母・桐壺の更衣の実家の館です。母亡き跡、彼はそこを修理して暮らしていました。紫の上も二条院に住んでいます。その二条院の東側に御殿を建てて、そこにそういう人達を住まわせようとの寸法です。

源氏は明石の君を呼び寄せてその二条東院に住まわせようとします。明石の君と言うのは、源氏が左遷されて明石に飛ばされた時、現地で見染めた豪族・明石入道の娘です。彼女との間に姫まで生まれています。明石の君は上洛を拒みますが、姫を田舎に埋もれさせてしまうのも娘の将来の為に良くないと思い、源氏の勧める二条東院では無く、父の明石入道が京都に持っていた大堰(おおい)の別荘に移り住む事にします。大堰の別荘は大堰川の畔(ほとり)にあります。大堰川桂川の事です。源氏が持っている桂の別荘(桂の院)とは目と鼻の先。光源氏は妻の紫の上の目を盗んで、桂の院に用事があると言って外出し、大堰の館に連泊します。

「源氏は桂に行っている」と廷臣が奏上したのは、この事を指しています。

 

桂の別荘の修復と増築

平安時代源氏物語から時代を飛んで江戸の初め、桂別業(=別荘の事=後の桂離宮と呼ばれる邸宅)を造営した智仁(としひと)親王が亡くなられ、その跡を継いだ智忠(としただ)親王。その時、御年11歳でした。桂の別荘を修繕するにも何も、まだ年端が行かなかったので、しばらくそのままになっていました。放置している間に荒れて傷みが進みました。智忠親王が思い立って、父宮の遺した離宮の再生と更なる造営に着手したのは、加賀藩2代藩主・前田利常の娘・富姫(ふうひめ)と結婚した頃になります。宮はその時24歳でした。

宮の御領地に加えて前田家の財力も有り、桂の別荘の修復や増築は、智忠親王の思う様に結構を尽くして造作をしていきます。

その様子が、同じく源氏物語の「松風」に描写されている有様と響き合います。

 

源氏物語18帖「松風」より

繕ふべき所、所の預かり、今加えたる家司などに仰せられる。桂の院に渡りたまふべしとありければ、近き御荘の人びと、参り集まりたりけるも、皆尋ね参りたり。前栽どもの折れ伏したるなど 繕はせたまふ

「ここかしこの立石どもも皆転び失せたるを 情けありてしなさば、をかしかりぬべき所かな・・・(以下略)

 

[ずいよう意訳]
源氏の君は建物が壊れたところは、新しく任じた家司(けいし/いえのつかさ)などに直す様にお命じになりました。光の君が桂の院にお出でになると聞いた近くの荘園の人々が、桂の院に集まって参りましたが、(やがてみんなは源氏の君がそこにはいらっしゃらず大堰(おおい)のお屋敷に居ると知って) 大堰の館を尋ねてやって参りました。源氏の君は、前庭の植え込みの折れたり倒れたりしたものなどを、集まった人々に直させました。「あちらこちらで倒れたり失われたりしている石組も、心を込めて直せば、趣(おもむき)が出てくるでしょう・・・(以下略)」

 

そう言えば、光源氏は桐壺帝の第二皇子。抜きん出た才能と輝くばかりの美しさを兼ね備えていた光源氏は、人々から絶大な人気を博しており、母の身分が高ければ天皇の位に登れたかも知れない程の人でしたのに、母の身分が低かったので天皇に成れませんでした。

智仁親王も学問文芸に秀で、後陽成天皇から次期天皇へと強く推された人物ですが、信長の死・秀吉の都合・家康からの忌避によって運命に翻弄され、天皇になる事が出来ませんでした。天皇になれなかったという点では似たような境遇に思えます。

 

智仁親王は22歳の時、細川幽斎から古今伝授を継承しました。

こういう秘伝を継ぐというのは、凡人はもとより、そんじょそこらの秀才でも叶わない事です。師が伝える事を取りこぼし無く受け継ぐには、茶筒の胴と蓋のように、師と同じレベルに実力が達していてぴったりと合っていないと出来ない相談です。

親王は和歌の道は無論の事、源氏物語の研究も熱心でした。源氏物語と言えば後陽成天皇御自ら『源氏物語』を講義なさっております。智仁親王は、兄後陽成帝の講義を熱心に聴講し、その聞き書きを残しております。智仁親王のその聞き書きは現在宮内庁書陵部に収蔵されているそうです。

その聞き書きは、単に聞いた事を書き記しただけでは無く、他の説も取り上げて比べながら更に研究されているものだとか。趣味「学問」の域を超えて、研究者の姿がそこに見えます。

 

智忠親王と昕叔顕啅(きんしゅく けんたく)

智忠親王は八条宮(桂宮)智仁親王の第一王子です。学問好きだった父宮の影響を強く受け、智忠親王も和歌や書、学問に優れていました。学問の師であった相国寺慈照院昕叔顕啅から「人とも思えない賢さ」と評されるほどでした。智仁・智忠両親王は親子二代にわたって昕叔顕啅と交流が深く、慈照院は代々八条宮家の菩提所となっています。そればかりか、智忠親王は、慈照院内に御学問所を建て、それをお寺に下賜しております。

昕叔顕啅は後水尾天皇の落飾の時に導師を務めた禅僧です。昕叔は参禅しに来る茶人とも交流が深く、利休の孫の千宗旦と一緒に、境内(けいだい)『頤神室(いしんしつ)』という茶室を作っております。

 

八条宮智忠親王の人脈

人は環境に育つと言います。智忠親王を取り囲んでいる人脈は、智忠親王のみの人脈では無く、父宮や父祖から受け継いできた大いなる人的財産でもあります。優れた方達に囲まれて育った智忠親王は、培ってきたその教養を如何(いかん)なく桂別業(桂離宮)の増築・整備に発揮、父宮の跡を継いで稀に見る優れた建築群と庭を造り上げ、令和の時代の私達に遺してくれました。

その人脈の一部に少し触れてみたいと思います。

 

智忠親王の伯父の後陽成天皇は学識が高く『源氏物語』『伊勢物語』『詠歌大概』などを講義する程のお方です。講義する相手が名だたる公卿衆とあれば、なまじの学識では勤まりますまい。余程の博識の御方と拝察申しあげます。

 

同じく伯父で天台座主良恕(りょうじょ)法親王は和歌や書に優れており、『良恕親王厳島参詣記』等を(あらわ)ています。

 

従兄弟の後水尾天皇は、和歌1万2千余首の和歌を集めた勅撰和歌集『類題和歌集』(31巻)の編纂を命じており、叔父の八条宮智仁親王から古今伝授を受け継ぎました。これが御所伝授の始まりです。外にも伊勢物語御抄』『和歌作法』などの本を著しております。華道を極めた方でもあり、池坊専好と双璧を成しています。

後水尾天皇の皇后(中宮)の和子(まさこ)(=東福門院)も大変に教養の高い人でして、幕府と天皇との間の調整に苦労しながら、幕府の財力を背景に後水尾院を援(たす)けます。茶道に熱心で、野々村仁清に水指などを焼かせています。また、小袖を愛用、東福門院自らデザインした小袖を、尾形光琳・乾山の実家の高級呉服店『雁金屋(かりがねや)に、自分に仕える女官達の全ての分の小袖を発注しています。時代の名前を取ってこれ等の小袖を寛文小袖と言います。東福門院はファション界のリーダーでした。それが下々にも伝わり、江戸の富豪達にも寛文小袖は持て囃されました。もう一つ加えれば、後水尾上皇の造営した修学院離宮の資金の大半は、東福門院の実家・徳川家から出ております。

 

従兄弟の近衛信尋(このえ のぶひろ)は関白左大臣で諸芸に通じ、古田重然に茶を習い、書は寛永の三筆である養父・近衛信尹(/のぶただ)三藐院流(さんみゃくいんりゅう→近衛流)を受け継ぎ、同じ寛永の三筆の松花堂昭乗(僧侶・茶人)や、沢庵宗彭(たくあん そうほう)一糸文守(いっし ぶんしゅ)と言う二人の禅僧とも親しく交流していました。沢庵と一糸は後水尾上皇との交流もあります。信尋は連歌も能くしました。信尋には、名妓吉野太夫灰屋昌益と争った艶話があります。

 

烏丸光広(からすまる みつひろ)は正二位権大納言で、細川幽斎から古今伝授を継承し、二条派の歌学を極め、徳川家光の歌の先生でもあります。沢庵や一糸に帰依して禅を修め、能書家でもあります。俵屋宗達の絵に画賛を書いたりしています。著書も歌集や紀行記も数多く、中でも『東行記』などが有名です。

 

智忠親王の付き合っていた文化人の中にはこういう人もいます。

安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は兄に金森長近、甥に金森可重(かなもり ありしげ/よししげ)を持つ浄土宗禅林寺派の僧侶です。説法に笑い話を取り入れ、落語の祖とも言われておりますが、古田織部の高弟でもあります。茶の湯俳諧も一流、公家や武士に広く知人を持ち、小堀遠州連歌師松永貞徳(俳諧の祖)などと深く交流していました。

 

三浦(正木)為春は小田原で生まれた武将で、歌人・文化人として知られています。彼は女子のための仮名草子を書き、それを読んで感じ入った後水尾天皇がその本の奥書を書きました。妹のお万の方は徳川家康の側室となり、家康と彼女との間に生まれた子は、後に徳川頼宣となって紀州藩主となります。

 

石川丈山(いしかわじょうざん)は徳川譜代の武将です。大坂の陣で軍律違反の抜け駆けをして咎められ浪人、藤原惺窩(ふじわら せいか)に学び、相国寺の近くに凹凸窠(おうとつか)(=丈山寺)を建てて隠棲しました。彼は林羅山と共に、日本の三十六歌仙に因んで漢・晋・唐・宋の詩人36人を選んで狩野探幽肖像画を描かせました。それを凸凹窠に掲げたのです。それで、そこを詩仙堂と呼んでいます。サツキと紅葉の名所で、秋には観光客が沢山押し寄せます。彼は作庭の名人でした。詩仙堂の庭は彼が造ったものです。

 

藤原惺窩冷泉為純(れいぜい ためずみ)の三男で、相国寺の禅僧です。彼は相国寺朱子学と禅を学びました。秀吉の朝鮮出兵の時、捕虜になって日本に連れてこられた姜沆(きょうこう/カン・ハン)と親しくなり、姜沆の助けを得て日本の儒学を体系化しました。弟子に林羅山が居ます。

 

智忠親王連歌仲間として、武将の黒田孝高(よしたか)(=官兵衛)が居ます。

また、忘れてはならないのが本阿弥光悦です。

光悦は寛永の三筆の一人であり(近衛信伊・松花堂昭乗本阿弥光悦)、万能の芸術家でした。国宝の白楽茶盌『不二山』『舟橋蒔絵硯箱』等々工芸作品には重文も含めて多数、書でも重要文化財『鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦・宗達合作)などなど多くの作品を残しており、書・陶芸・漆芸・能・茶の湯など各芸術界のリーダー的存在でした。光悦は、尾形光琳尾形乾山(/けんざん)兄弟と遠い親戚関係にあります。光琳琳派を成すほどの絵師、乾山は陶芸と絵に卓越し、今に残る重文の作品群があります。兄弟合作の作品も幾つもあります。更に、光琳と乾山は楽焼の楽家とも親戚関係にあります。親戚などという血脈関係にはありませんが、尾形乾山が一時期仁和寺の近くに住んでいた事があり、その仁和寺の門前に野々村仁清が住んでおりました。乾山は仁清に陶芸を学んでおります。

 

寛永文化

それぞれの人がそれぞれの人脈を持ち、その人脈がそれぞれに広がり、複雑に絡み合って一つの「世界」を形作っている様子が、ここに見られます。

綺羅星の如く一流の文化人が宮廷を中心にして活躍していた時、そういう環境の中に在ってその空気を吸って育った智忠親王。生来のずば抜けて優れた資質がそこで開花し、桂離宮という作品に結実したのだと、思います。

この文化の気運は関東の江戸では見られず、京都を中心に地域的な偏りが見られます。これは禁中公家諸法度(公家諸法度)により、公家達は和歌と学問だけをしていれば良い、他のことはするなと禁止されたので「それでは」と上皇をはじめ公家、京の上層の町衆は、千年にわたって培(つちか)ってきた文化力を磨き上げ、武家政権に対抗しようとした結果なのではないでしょうか。こうして醸成された文化を寛永文化と言い、その期間は寛永年間の前後合わせて約80年間に及びます。それは洗練された雅(みやび)の世界でした。

その80年間とは、およそ、元和(げんな)寛永、正保(しょうほう)、慶安、承応(じょうおう)、明暦(めいれき)、万治(まんじ)、寛文の期間です。政治史で言えば、大坂の陣終わって江戸幕府が産声をあげてから内政が軌道に乗った時期で、島原の乱直前にまで重なります。文化史的に言えば、安土桃山時代の豪華絢爛さや傾奇(かぶき)のまだ余韻が残っている時から、江戸時代の商業隆盛を背景とした元禄文化が生まれる少し前までの区分です。

                                                            次回予告 桂離宮(3) 新御殿と茶屋と庭

                                         

 余談  頤神室(いしんしつ)

茶室「頤神室」には面白い伝説があります。狐が宗旦に化けて、宗旦の留守中に来た客に茶を点てて持て成したと言う話です。頤神室の床には、宗旦狐の掛け軸が掛けられているそうです。

また、慈照院は布袋の姿をした利休像を祀っている寺でもあります。どういうことかというと、首が挿(す)げ替えられる様になっていて、いつもは布袋像ですが、場合に応じて布袋様の首を挿げ替えて利休の顔にするのだとか。利休が秀吉の勘気に触れて切腹した為に、世を憚(はばか)ってそうしたのだそうです。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記のように色々な本やネット情報を参考にしました。

源氏物語紫式部

源氏物語瀬戸内寂聴

源氏物語を読む 松風

源氏物語の住まい・貴族の生活・風俗  風俗博物館

源氏物語の「二条院」の位置  奈良大学リポジトリ 森本 茂

J-Stage 智仁親王源氏物語研究 小高道子

三思一言 徒然に長岡天満宮(8) 智忠親王寛永文化

智忠親王寛永文化 百瀬ちどりの楓宸百景

後水尾院ってどんな人? 特集「後水尾院と江戸初期のやまと絵」 東京国立博物館

特講2. 寛永文化    odn,ne,jp

世界美術全集9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

宮内庁 桂離宮の写真

[京都] 御所と離宮の栞~其の一 其の二十八 宮内庁

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「Weblio 辞書」「漢字検索」「元号一覧」観光案内、自治体のパンフレット、動画、ネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。