式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

72 室町時代(1) 義詮と義満

足利義詮

室町幕府2代将軍・足利義詮と、その息子の義満は育ち方がまるで違います。

義詮は幼い時から戦争に揉まれ、義満は乳母日傘で育ちました。

義詮は、元弘の乱の時に北条氏の人質として鎌倉に留め置かれました。父の尊氏が鎌倉に謀反すると、命の危険に晒され母と共に危うく脱出します。(異母兄の竹若丸は殺されています。)

そして、4歳にして父尊氏の名代として新田義貞と共に戦場に身を投じます。建武の新政の時は、叔父・直義(ただよし)と一緒に鎌倉に在して政務を行い、中先代の乱では北条時行に敗れた直義と共に鎌倉を脱出、京都から救援に来た父に助けられます。

南朝北朝の騒乱が激しくなり、1337年、陸奥将軍・北畠顕家が10万の大軍を率いて上洛した際には、鎌倉は蹴散らされ、8歳の義詮は重臣達と共に房総方面へ逃げます。

観応の擾乱で直義が失脚すると、行政が不得意な父・尊氏に代わり、20歳で幕府の政務に携わります。が、その後、京都市街戦などでは肝心の上皇天皇南朝に奪われたりして、何回も南朝方に撃破されています。義詮はどうも戦が苦手なようです。

当時の戦い方

当時の戦い方は、先ず騎射戦。それから騎馬戦。馬上で薙刀を振り回して敵との距離を取りつつ薙ぎ倒していく、それから太刀もその長さを利用して辺りを切り払って行きます。脇差や短刀は、相手を落馬させてから、首を取る為の道具。この時代の戦い方は、婆がイメージしているチャンバラとは大分違います。

敵の楠木正儀(まさのり)の戦法は市街戦の時、兵を屋根に配置して上から矢を射かけ、路上では槍衾で相手を追い詰めたとか。正儀は兵站や調略も重視していました。その土地を占領しても兵站に不利と見れば、彼はさっさと退却してしまいます。その戦いぶりに義詮は感心していて、正儀を尊敬していたようです。

義詮は、生まれながらにして戦いの洗礼を受け、生涯戦争に関わり続け、戦に明け暮れましたが、幸いな事に畳の上で死ぬ事が出来ました。38歳でした。

 

足利義満

3代目・足利義満は、初代尊氏没後100日目に生まれた孫で、義詮の庶長子です。

義詮嫡嗣子は夭折。庶子の義満が家督相続者と目されて育ちました。生まれた頃、観応の擾乱で世の中が騒がしく、その後の南北朝の騒乱が打ち続く中、家臣に守られて建仁寺に避難、そこから赤松則祐(そくゆう)の居城・播磨白幡城に移り、そこで養育されました。更に、管領・斯波(しば)義将の手で養育されます。貞治(じょうじ)の乱で斯波氏が失脚すると、次の管領細川頼之に守られて育ちます。

義満9歳の時、後光厳天皇より「義満」の名前を賜り、10歳の時に病床の父・義詮より家督を譲られ、11歳の時元服。12歳の時、征夷大将軍に任じられます。(年齢は数え年で書いております。)

父の義詮が幼少より軍馬を駆って戦争に明け暮れていたのとは大違いで、義満は戦争の実体験をしないまま育ちました。彼は、祖父・尊氏と父・義詮が固めた地盤の上に乗って、管領細川頼之の宜しき補佐を得て、政務をこなして行きました。

帝王学

武家棟梁としての戦場での経験は少ないですが、その代わり、細川頼之やお傍に仕える重臣達によって帝王学を身に着けて行きます。

帝王学」と言っても、中身に拠ります。

仁徳を学び民に思いを致すのも帝王学ならば、唯我独尊の我儘で、権力の上に立って人を支配する方法を学ぶ、それも亜流の帝王学です。(覇王学と呼ぶべきでしょうか)

大内義弘が書いた難太平記に義満を評して、こうあります。

『今御所の御沙汰の様、見及び申す如くは、よはきものは罪少なかれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり』

今の将軍様を見ていると、弱い者が犯した罪は小さくても酷く罰せられ、強いものが犯した罪は、上様のご意志に逆らっても罰せられない、これはみんなが知っている事である。と言う意味です。簡単に言えば、弱きをくじき強を助ける、ですね。

守護の粛清

彼は幕府の権威を高める為、守護内部の家督相続の争いを利用して双方の勢いを削ぎ、弱体化させて行きます。時には、争いの種をわざわざ作って双方の間に投げ入れ、自滅させてしまうと言う方法も使ったりしました。

土岐氏尾張・伊勢・美濃を持っていましたが、内紛によって美濃一国に減らされてしまいました。山名氏は日本66ヵ国の内11ヵ国を持っていましたが、3ヵ国になってしまいました。大内氏もこの策に嵌って衰退してしまいます。

天皇になりたかった?

足利家は平清盛の様に、天皇家にも婚姻によって近づき、公家社会に根を降ろし、枝を張って行きます。

義満の義理の叔父に後光厳上皇がおり、後円融天皇は義理の従兄弟です。

義満は自分の息子・頼嗣を溺愛し、彼の元服式を内裏の清涼殿で行います。加冠役は内大臣二条満基伏見宮貞成親王「椿葉記」には親王元服の準拠』と書かれています。

跡取りの義持はこれを面白く思う筈はありません。衆目は義嗣様こそ次の将軍ではと、早とちりする者も出てきます。

その頃、義満は朝廷に、自分に太政天皇の尊号を贈るように要求しています。それを義持は、恐れ多い事だと、辞退しています。義満と義持の父子は犬猿の中でした。

義満は明国に、自分の事を「日本国王」と認めさせ、勘合貿易を始めます。

義満の建てた北山別荘(鹿苑寺)の金閣について、或る研究者が言っております。

金閣は義満の野望の象徴だと。1階が寝殿造り、2階が武家造り、3階が禅風造りで、屋根に鳳凰。という事は、公家の上に武家があり、武家の上に禅があり、3階の禅堂で座禅する義満の頭上に天皇を象徴する鳳凰が止まるように造られている、と。それは、義満が天皇の位を狙っていた証ではないか、と言う推測です。

1408年(応永15年)5月31日、51歳で義満が薨去しました。

その8年後の1416年、正2位まで上り詰めた義嗣は突然出奔し、出家してしまいます。そして、1418年1月24日、殺害されてしまいます。

4代将軍になった義持は、鹿苑寺を、舎利殿を除いて解体し、南禅寺建仁寺に移築してしまいます。