式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

106 信長と茶の湯御政道

平蜘蛛の釜を所望した信長は、平蜘蛛ばかりでなく、他の茶道具にも目が無く、これぞと思うものを片端から手に入れようとしました。「名物狩り」と言われるその所業、はなはだ迷惑な行為ですが、信長にとってそれは領地拡大に匹敵する重要な案件でした。

 

信長の出自

織田信長尾張の小さな領主の家に生まれました。尾張守護は斯波氏(しばし)です。斯波氏の家臣の守護代の、そのまた家臣の一人が信長の父・信秀です。

織田信秀が亡くなり、信長は19歳で家督を継ぎましたが、家中の信任極めて薄く、柴田勝家や家老の林秀貞などが弟の信勝(=信行)を担いで謀反を起こす始末でした。そこを何とか切り抜けて織田家の内部統一に力を注いでいる最中、今川義元に攻められてしまいます。

 1560年6月12日(永禄3年5月19日)、彼は桶狭間今川義元を斃しました。尾張の大うつけが今川義元を討ち取ったというニュースは、それまで無名の武将だった信長を一気に世間に押し出しました。

 

恩賞の茶道具

戦国勝ち抜き競争で、信長が勝ち馬になるだろうと予想がつけば、その馬券を買うのがギャンブルの王道です。堺の商人達も公家も旗色を決めかねている武将も、信長の趣味が「茶の湯」とあれば、信長の許に茶道具を献上してその後の誼を宜しくと願うのは、世渡り術のイロハです。

献上品や名物狩りで、茶道具は信長の許に続々と集まりました。そうなると世の中に出回る名物茶器が品薄になり、茶道具バブルが起き、高騰しました。茶入れ一つが一国一城に匹敵するとまで言われる様になりました。

 戦功ある家臣に与える土地に代わるものが、茶道具でした。その茶道具に価値が有ろうが無かろうが、「よくやった!褒美にこれを取らす」となれば、その茶道具は領土代わりに有難く頂戴する様になります。

 

戦の根源は土地問題

源氏、北条、建武親政、足利政権と縦覧してみると、戦の原因の根底にあるのは、土地問題だと言う事が分かります。 

鎌倉時代の戦は、将軍はお飾りで、執権の地位争いと各守護達の土地争いでした。

 建武親政の戦は、公家・寺社と武士の間の土地再配分の争いでした。後醍醐天皇の意向で、公家に手厚く土地が配分されましたので、武士は不満を募らせました。

室町時代の戦は、幕府内の主導権争いと、守護大名家の家督相続争いが全国を巻き込んで行われました。お通夜の席の遺産相続争いと同じです。誰が跡目を継ぐか、跡目即財産継承ですから、それはもう武力を持った者同士、切った張ったの血を見ます。

 

荘園制度の限界

それまで荘園は公家や寺社のもので、それを武家側の守護や地頭と呼ばれる管理人がその荘園を管理し、管理手数料を貰って生活をしていました。守護は荘園の警備係、地頭は年貢徴収係です。管理面積が広ければそれだけ収入も増えました。相模守や摂津守と名乗って広域の国を武士が差配する様になっても、荘園領主にしてみれば荘園を守る犬でしかありません。

ところが、次第に武士達が荘園を押領しはじめ、ここは先祖伝来の土地だと言わんばかりにその土地に根付き始めると、荘園領主と守護達によるそれ迄の二重支配が崩れ出しました。荘園領主達は追い出され、武士達による一重支配に移行して行きました。

 

戦国の農地改革

信長は、幾重にも権利が重なっている土地を正確に実測し、有名無実の所有者を廃し、実際に耕作している農民を登録して一地一作人とした事によって、荘園制度を根本的に崩してしまいました。荘園領主の殆どは土地を失いました。

土地の所有の形を変える事によって、戦の火種を消す・・・それには既得権益を力づくで潰さなければならない・・・潰す作業は、ブルドーザーで全国を地均(じなら)ししてゆく感覚です。彼の天下布武の発想の根源です。

彼の事業は部下の羽柴秀吉に受け継がれ、太閤検地に結実しますが、それにしても、天下布武を実行していくには、先兵になって戦う武将達に与える恩賞が無い。

 

茶器が活躍の場を広げる

 如何に高額な茶器類であっても、それがそこに存在するだけでは意味がありません。信長は茶器類に意味を持たせました。それが、茶の湯を開いてもよろしい、という許可です。

これは利きます。何故なら、人一倍猜疑心の深い信長が、茶会の許しを与える、と言う事は、人と会っても良い、と言う事に他ならないからです。信長の家臣は、主君の猜疑心に絶えず晒されていました。酒席に呼んだ某が怪しい、とあれば追放、領国召し上げ、切腹も強要され兼ねません。

茶器は武辺の働き以上に活躍の場を広げられる道具です。今風に言えば、ゴルフの様なものです。

親交を深める、情報を得る、相手の本心を確かめる、調略する、堺の旦那衆を相手に資金調達をするなどなど、茶の湯を介して非常に多くの活躍の場が得られるのです。それは織田家の外交官になる様なものです。信長から茶道具を賜ると言う事は、そういう事が出来ると言う事です。信長から茶道具が下賜されないと言う事は、茶会が開け無い、と言う事です。手足をもがれた状態の様になる事です。

一国一城に匹敵する茶道具というのは、それを現金化すれば領土と同じ値段になる、と言う事ではありません。美術品として値踏みをすると想像を絶する程の高額になる、と言う意味でも有りません。美術的価値、骨董的希少性で計る値踏み以外の、活躍量と有用性に、その真の値打ちが有ります。

目の肥えた武将や公家・豪商を呼ぶに相応しい茶器を出して茶会をひらく、それこそステイタスです。ヘボ茶道具で茶会を開いても、そういう人達を集められませんもの。

 

余談  九十九髪茄子の運命

 九十九髪茄子(つくもかみなす or つくもがみなす)は唐(から)から渡来した大名物(おおめいぶつ)の茶入です。

本能寺の変の時、信長は多くの茶器類を安土から持って来ていました。本能寺が焼亡した時にそれらの多くは失われてしまいましたが、辛くも助かった茶器類の一つがこの九十九髪茄子です。

九十九髪茄子は初め足利義満が所有していました。それが家臣に下賜されて巡り巡って質屋に入りました。松永久秀がこれを1千貫で買い受け愛玩していましたが、信長の軍門に降る時、九十九髪茄子の茶入れと薬研通吉光(やげんとおしよしみつ)の短刀を献上し、その代りに大和一国を安堵して貰ったと言われております。

信長の手に入ったこの茶入は、本能寺の火を浴びて地肌が荒れ、見る影も無くなってしまいました。焼け跡から発見されて、豊臣秀吉に献上されます。秀吉は見すぼらしくなった九十九髪茄子を好まず、それを家臣の有馬則頼に与えます。則頼没後、再び大坂城に戻されますが、大坂夏の陣で再び戦火を浴びてしまいました。

徳川家康の命により、焼け跡からこの茶入が探し出されましたが、無残に割れていました。破片を集め、漆でつなぎ合わせて元の形に調え、地肌荒れを漆で修復して、見事に蘇りました。家康はこの作業を完璧に行った藤重藤元にこの九十九髪茄子を与えて、以後藤重家に伝来。明治になって岩崎弥之助の手に渡りました。

現在は、静嘉堂美術館が収蔵しています。

 

余談  九十九髪茄子のエピソード

 九十九髪茄子と言う不思議な銘は、伊勢物語から来ています。

女が近頃御無沙汰の男の家へ行き、陰からそっと覗いていると男が歌を詠みました。

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも髪  我を恋うらし面影にみゆ

(百から一引くと白(つまり九十九))。白髪の女が私を恋しいと言って訪ねて来たよ。あれは幻か)

それから男が女の家を訪ねる気配なので、慌てて女は家に戻って寝て待っていました。

さむしろに衣(ころも)片敷(かたしき)今夜(こよい)もや  恋しき人にあわでのみ寝む

 (敷物の上に片方の袖だけ掛けて待っていたけど、今夜も会えずに寝るだけなのかしら)

と女が詠みました。男が哀れに思って、その夜は泊って行きましたとさ・・・

(「伊勢物語  第63段 つくも髪」より抄意訳)

(なお、「茄子」は茶入れの形がナスに似ているから)