式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

107 桃山文化 1 城郭建築

 桃山文化の謂(いわ)

安土桃山時代と言うのは、1573年(元亀4年)、織田信長室町幕府を倒してから1603年(慶長8年)、徳川家康豊臣氏を倒すまでを言います。その間、たったの30年です。

信長が築いた安土城、秀吉が築いた伏見城跡地を桃山と呼んだのに因んで、安土桃山時代と言います。が、安土城は完成して4年後に落城したので、文化面では安土桃山文化とは言わず、単に桃山文化と言う様になっています。

 

文化区分

時代区分は割と線引きをし易いのですが、文化と言うものはそうはいきません。そこに至るまでの胎動の時期があり、胎動すれば萌芽の期間があり、花開き、爛熟の時を迎え、やがて衰退して、終焉の道を辿ります。衰退期には次の文化の土壌が出来上がりつつある、と言う具合で、なかなか何年から何年迄を区切る、と言う訳には参りません。

例えば、南北朝時代に活躍した佐々木道誉はバサラ大名の巨魁ですが、約250年後の安土桃山時代こそバサラ全盛だったと言っても過言ではありません。と言う訳で、桃山文化と表題にしたものの、織豊期とは厳密に限らず、時代を行ったり来たりしつつ、考えて参りたいと思います。

 

二階建て以上について

桃山文化と言うと、二条城や姫路城などの豪壮、華麗な城郭建築が先ず思い浮かびます。

天に聳える天守閣や御殿、御殿の金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)や彫刻群。そして、縄張りの複雑さ。それ等の見事さは、図録、観光、映像、美術書、城郭研究、文学などの広い分野で多くの人が語っております。婆はそれ故、別の切り口から考えてみたいと思います。

大体日本では、二階建てと言う建物そのものが発達していませんでした。宮殿、寺社建築など殆どが平屋建てです。木造軸組工法で重層建築を造ると言うのは今でこそ在来工法として一般的ですが、鎌倉・室町時代武家屋敷では、政庁や将軍御所は寝殿造り、プライベート空間は書院造と言う具合で、そこには二階建てを造ると言う発想がありませんでした。

宮殿や寺社建築の建物は屋根が大きいので、屋根裏部屋や二階が造れそうですが、元来そういう大きい家に住む人は、とても「偉い人」か仏様です。その上に人が住む空間を造るなんて、恐れ多くて出来ない相談でした。

それが、安土桃山時代になると、天守閣の様な重層建築が現れてくるのです。

 

高層建築は金閣が初?

民家などでは、遠慮しなければならない様な「偉い人」が居ませんから、二階建てを造っても良さそうですが、いや、そんな事をしなくても当時は土地がいっぱいありましたし、平面的に増殖していけばいい話です。 洛中洛外図屏風を見ても民家らしき家はみんな平屋建てです。

そう言う時代環境に在って、安土城の天主閣の様に、居住階を二層、三層、四層と七層まで階を積み重ねる建造物が現れるのは奇跡で、非常に革新的です。古くは、五重塔や楼門に重層の建造物が見られますが、居住性から言えば、人の住めるようなものではありません。

最初に重層建築が現れたのは、足利義満が作った鹿苑寺金閣です。創建当時の金閣は、一階は客殿的役割を果たす部屋、二層目には観音像を祀り、三層目に阿弥陀如来と25菩薩が安置されていたとか。矢張り、人の上に仏様以外の人を住まわせない様になっていました。(千利休木像事件はこの日本的常識を犯してしまった、と言えます)

 

多門城(たもんじょう)  or  多門山城(たもんやまじょう)

 松永久秀が大和の東大寺近くに建てた多門城は、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも、ルイス・アルメイダの書簡文として紹介されています。(以下抄意訳。原文の翻訳文を見ると20行ぐらいの長文です。)

美しく真っ白に輝く壁、立派な瓦、壁に歴史画や花が描かれ、絵画の地は全て金、まるで天国の様に美しく、世界中の宮殿を比べても、これほど善美なものはない・・・故に、これを見る為に日本全国から見物者が来る、と。

多門山城には、城壁上に土塀替わりにウナギの寝床の様に長く続く建物がありました。そこは武器・武具・兵糧等の倉庫の役割と、武者走りと言って戦闘時に武者が詰めて攻撃する役割を持っていました。その長屋の要所に四層の櫓(やぐら)がありました。これを多門櫓と言います。この構造は、後に他の城でも大いに取り入れられました。

この多門櫓が後の天守閣へと発展して行った、と言われています。桃山時代に見る城郭建築がこのころすでに出現していた、と言えます。

 

築城のコストダウン

征服した城の石垣の石や建物を解体して、自分の城造りに再利用すると言う手法は大いに行われていました。そればかりか、墓石を石垣に転用したり、寺の庭石などを奪ったり、石臼など使える石は何でも使いました。

城の白壁もコストダウンの一つの手法です。塗籠づくりの白壁は、土蔵造りと同じです。柱で骨格を作り、竹を編んで壁にして、そこに藁(わら)などを練り込んだ土を張り、その上から漆喰を塗って丈夫な壁に仕上げます。塗り壁の利点は、火矢にも鉄砲にも風雨にも強いことが挙げられます。それと共に、骨格となる木材に「良材」を選ばなくても良い点があります。城郭の骨格を決める構造材や室内に見える柱などは、樹齢何十年、何百年と言った杉材や檜材、松、栗などを選びに選んで、適材適所に使いますが、塗り壁の中に使用する材木は間伐材などで十分間に合います。

 

解放されたゼネコン

戦争が頻繁に起き、砦造りや築城の需要が非常に多くなり、従来の大和大工、京大工と言った工匠組織・座だけでは手が足りなくなりました。地方の田舎大工も建設に組み込まれ、大いに活用されました。これによって技術も地方へ伝搬して行きました。

信長検地によって荘園を失い、財力が衰えた寺社は、匠達を丸抱え出来なくなっていました。匠達の中には雇い主の束縛を離れて自由になる者も多くいました。人的交流が盛んになり、古くからの約束事から解かれて創意工夫が活発になりました。建築の自由度が増しました。建築界のルネサンスがはじまったのです。重層階の建設も難なく進みます。

初め、天守閣は望楼の為に建てました。そこに籠城や最終決戦の場としての役目が加わると、食糧を溜め、武器庫になり、指令本部として滞在出来る様に多少の居住性も加味され、今ある様な天守閣に発展して行きました。

信長が御殿の様な部屋を七層に積み上げて天主閣を造営したのは、戦争では無く平和の城の在り方、権力の在り方を、仰ぎ見る様な形で示したものかも知れません。

 

私的書院から公的書院への変貌

銀閣寺に東求堂と言う建物があり、そこに同仁斎と言う4畳半の部屋があります。同仁斎は書院造の原形と言われております。

違い棚と出窓の様になった文机(書院)があり、書院に文房具などを置き、読書や書き物などをする部屋として主人は気ままに使っていました。親しい友人などは書院に通し、茶などを点てて持て成し、客人など気を遣う相手は対面所の部屋に通して接客していました。

下剋上が進み、世の秩序が混乱して来ると、上下関係を明確にして相手にそれを思い知らしめる必要が出てきました。そして、部屋の設えを上下の身分が分かる様に対面所を書院化し、豪華な演出をする様になりました。

上段の間の上座に、書院の違い棚や床の間、付け書院を一括してまとめて設置しました。容易に上段に近付けない様に、下段の間から上段の間までに段差を付けたりしました。天井も上段の間は格天井(ごうてんじょう)にしました。金碧障壁画の襖を巡らし、来訪者を圧倒しました。

同仁斎が生まれた時代から、応仁の乱や戦国時代を経て来ると、書院は、個人の書斎から権威を示す謁見の間に変化して行ったのです。

 

 

余談  多門山城 或いは 多門城

1573年(天正元年12月)、織田軍に攻められた松永久秀は和議を申し込み、多門城没収を条件に許されました。松永久秀信貴山城に移ります。

1574年(天正2年3月27日)、信長は多門城に入城、翌28日、正倉院に伝わる蘭奢待(らんじゃたい)を多門城に運ばせ、そこで1尺8寸を切り取りました。

松永久秀信貴山城で織田信忠に攻められて落城と共に自害したのが1577年。15代将軍・足利義昭が信長によって追放され、室町幕府が倒れて4年後の事です。多門城は信長の命で破却されました。城は解体され旧二条城に移築されました。石などは筒井城に運ばれたようです。

なお、旧二条城は本能寺の変の時、信長嫡男・信忠の宿所になった為、焼失してしまいました。

なおなお、多門山城と「山」がついていますが、30mばかりの高さの丘に建つ平城です。