式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

132 武家茶人 略列伝(2) か行 さ行

大学入学共通テストの初日、東大前の路上で刺傷事件が起きました。東京大学の医学部に入りたいと言う高校2年生が、成績不振を苦に、テスト受験生を無差別に刺したそうです。成績不振から、どのように考えたら他人を傷つける行動へと結びつくのか、何とも理解しがたい事件です。

よく、勝ち組・負け組と人生を色分けし、他人をも自分をも叱咤激励する人を見かけますが、そのような二者択一でしか人間を見る事が出来ない人は、なんと色彩の乏しい人生を送っているのでしょう。一次元か二次元の世界に閉じ込められて、視界が平べったくなっているとしか思えません。

このブログで取り上げている武家茶人列伝に登場している人物達は、殆どが武将と言われる人達です。大名となり、万石の領地を得、大勢の家臣を従えて一見成功者に見えても、それが真に幸せかどうかは分かりません。

「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」で「人間万事 塞翁(さいおう)が馬」と言います。高望みせず、平凡に生きるのが良いです。中には平凡を是とする人を、負け犬と呼ぶ人も居ます。負け犬と呼ぶなら呼べば宜しい。負け犬も善き哉です。平凡に徹し切るのは、大悟に通じるほどに難しいのですよ。

「ボーイズ ビィ アンビシャス」「少年よ、大志を抱け」の、本当の意味を知って欲しいです。

Boys, be Ambitious. Be Ambitious not for money or, for Selfish Aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.

Be Ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”   Dr.Clark

「少年よ、大志を抱け。それは金銭や我欲のためではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってもならない。人間として当然備えていなければならないあらゆることを、成し遂げる為に大志を持て」   クラーク博士

さて、話題が脱線してしまいました。本線に戻しましょう。織部が生きていた時代の人間群像を、鈍行列車でトコトコと描いて参りましょう。

 

か行

片桐貞昌(石州)(1605-1673) 桑山宋仙の弟子

片桐且元の甥。且元の人質として板倉勝重に預けられる。1624年従五位下・石見守に叙任。故に石州と呼ばれる。河川の土木建設などで功績を挙げた。知恩院普請の際、金森宗和、小堀遠州松花堂昭乗松平忠明、奈良衆などと茶の交流を重ねる。桑山宋仙に茶の湯を習う。慈光院創立。慈光院は書院と茶室が一体となった造りである。徳川家綱の茶道師範になる。石州流確立。享年69歳

※ 桑山宗仙は千道安の弟子。千道安千利休の先妻との間に生まれた嫡男。

 

加藤嘉明(かとう よしあきら)(1563‐1631)) 古田織部の弟子

三河国の生まれ。秀吉の子飼いの家臣。賤ケ岳の七本槍の一人。三木城攻め、山崎の戦、賤ケ岳、小牧長久手、雑賀攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めなど歴戦。文禄・慶長の役では水軍を率いて参陣。秀吉薨去後、朝鮮より撤収する。家康の会津攻めに参陣、関ケ原で東軍所属。伊予松山藩藩主。大坂夏の陣では秀忠軍に従う。後、会津藩へ移封。享年69歳。

紛らわしい人物に加藤清正(1562-1611)がいる。清正は尾張国中村の出身。清正も賤ヶ岳の七本槍の一人で、文禄・慶長の役朝鮮出兵している。清正は熊本藩藩主。

 

金森長近(1524‐1608) 千利休千道安の弟子。古田織部と親交

土岐氏内紛の頃、長近の父・大畑定近が美濃を離れて近江の金森に移住。以降金森姓を名乗る。長近はやがて近江を離れ尾張織田家に仕える。長篠の戦で軍功を上げ、越前一向一揆の鎮圧の一翼を担う。信長より越前大野郡を与えられ、「長」の字を賜い、長近と名乗る。信長没後秀吉と柴田勝家の対立の中、長親は勝家側に立つ。勝家滅亡後、秀吉傘下に入り、以後、秀吉の天下統一の戦いに従って歴戦を重ねていく。飛騨高山城主。伏見で没。享年85歳。

千利休七哲の一人に数える人も居る。

 

金森可重(かなもり ありしげ or よししげ) (雲州) (1558‐1615)千道安の弟子、古田織部の高弟。

美濃出身。父は長屋景重。越前大野城主・金森長近の養子になる。本能寺の変の時、義兄・金森長則が討死、養父・長親は剃髪。織田家の主導権争いの時、可重は柴田勝家側に立つ。賤ケ岳の戦いで寝返り秀吉側に就く。九州征伐小田原征伐など歴戦。関ケ原では東軍側で戦う。飛騨高山藩藩主。利休切腹後、その長男千道安を高山に保護。道安にも師事する。可重は藩の茶堂に岡部(大野)道可を召した。大坂夏の陣でも東軍に立ち、息子・重近と意見が対立。即刻重近を勘当する。大坂城落城の1年後、京都伏見で急死。毒殺説、切腹説など死因に不審な点が取沙汰されている。享年58歳。

 

金森重近(宗和)(1584‐1657) 千道安の弟子

飛騨高山藩主・金森可重の長男。大坂夏の陣で、どちらの陣営に就くかで父と対立。徳川方につく父・可重を批判した為、即刻廃嫡された。重近は戦列を離れ宇治の茶師の家に滞在、大徳寺に参禅する。剃髪して宗和と号す。古田織部小堀遠州の影響を受け乍ら独自の茶風を確立。茶道の宗和流の祖となる。

 

蒲生氏郷(がもう うじさと)(1556‐1595) 千利休の弟子。利休七哲の一人

近江国蒲生郡に生まれる。人質として織田信長に送られたが、信長は、彼の優れた資質を気に入り、将来次女を嫁がせる約束をした。元服は信長の手によって行われた。氏郷と父・賢秀(かたひで)は信長に仕え、柴田勝家の与力になる。14歳で初陣。信長の娘を娶り、以降、信長の天下統一に向けての各地の戦に参陣する。本能寺の変の時、父と共に安土城の信長一族を保護・退避させる。柴田vs羽柴の賤ケ岳の戦いでは秀吉側に就く。小牧・長久手の戦いで戦功を挙げ、伊勢松ヶ島に転封。海岸近くの松ヶ島に城を築くが、場所を内陸の四五百森(よいほのもり)に移し、改めて築城する。築城2年後、会津に転封される。文禄の役では名護屋城に参陣しているが、陣中で病を得て次第に衰え、会津に帰国。翌年春に上洛し養生に努めた。秀吉の命により前田家や徳川家の名医が派遣されたが、薬効験なく3年後死亡。享年40歳。

毒殺説があるが否定されており、病状の進行や症状の記述から癌が疑われている。キリシタンで洗礼名はレオン。利休切腹の時、利休の婿養子・千少庵会津で保護している。

木村宗喜(きむら むねよし or そうき)(生年不詳-1615) 古田織部の茶堂

古田織部重臣大坂夏の陣豊臣氏に内通、京都の町を放火する計画を立てたとの罪で徳川方の板倉勝重に捕えられ、処刑された。

古田織部もこれに連座織部は一切弁明せず、切腹する。享年73歳。

桑山貞晴(小傳次)(宋仙)(1560-1632) 千道安の弟子 古田織部の高弟 

甥に同姓同名の人物がいる。甥の桑山貞晴は加賀守だったが、夭折する。

茶人の貞晴は通称小傳次、又は桑山左近大夫と言う。大和国主・豊臣秀長に仕える。秀長没後、秀長の婿養子・秀保(ひでやす)に仕え、秀保没後秀吉に仕える。文禄・慶長の役では水軍を率いる。関ケ原や大坂両度の戦いでは東軍に属する。千道安(利休長男)と古田織部から茶の湯を学ぶ。通称小傳次。茶名宋仙、号道雲。片桐石州の師である。享年73歳。

 

桑山元晴(直晴)(1563-1620) 古田織部の弟子

桑山貞晴(小傳次・宗仙)の兄。大和国御所藩初代藩主。豊臣秀長→秀保→秀吉に仕える。朝鮮渡海。秀吉薨去後、関ケ原大坂冬の陣では東軍・藤堂高虎の配下、夏の陣では水野勝成に従って戦い、戦功を挙げる。徳川秀忠の前で茶を点てる。享年58歳。

 

黒田孝高(くろだ よしたか)(官兵衛)(如水)(1546-1604) 千利休の弟子

黒田官兵衛、又は如水がよく知られている名前で、その外に祐隆(すけたか)・孝隆(よしたか)・シメオン(洗礼名)がある。名軍師。秀吉の参謀となり、秀吉の天下統一事業を支える。

黒田官兵衛茶の湯に関心を示さなかったが、秀吉に「武士が他の場所で密談をすれば人の耳目を集めるが、茶室ならば人に疑われる事もない」と言われ茶に興味を示す様になり、利休の弟子になった。茶人、教養人、風流を好み、人脈は広く深い。病没。享年59歳。

小早川秀秋(1582-1602) 古田織部の弟子

秀吉正室・寧々(高台院)の兄・木下家定の子。寧々にとっての甥。秀吉の養子になり、羽柴秀俊と名乗る。7歳で元服し、丹波亀山城の10万石取りになる。秀吉後継者の一人として目(もく)され、阿(おもね)る者数知れず、供応により幼少期より酒浸りになり、12歳ですでにアルコール依存症発症。秀吉に秀頼が誕生したので、秀俊は小早川家に養子に出され、筑前国30万7千石の国主になる。慶長の役で渡海、その時、秀秋に改名する。朝鮮より帰国後、減封され越前国に転封、秀吉薨去後、徳川家康など五大老から筑前筑後に復帰、59万石になる。関ケ原では西軍から東軍に寝返って西軍の大谷吉嗣を攻撃し、戦況の趨勢を決した。関ケ原合戦の2年後、急死。アルコール中毒による肝臓病が死因と言われている。享年21歳。

 

小堀政一(まさかず))(遠州)(1579‐1647) 古田織部の高弟

大和郡山城主豊臣秀長家臣・小堀正次の長男。秀長→秀保(ひでやす(秀長の婿養子・関白秀次の実弟))の二代に仕えた。秀長は茶の湯に熱心で、千利休に師事、又、山上宗二を招いたり、茶会も多く開いた。秀保病没後(横死の説も有り)、政一は秀吉に仕え、伏見に移る。古田織部茶の湯を師事。秀吉薨去後、関ケ原の合戦の時、東軍側につく。父・正次、戦功により備中松山城番になる。父没後、政一もそれを継ぐ。政一、駿府城普請し、功により遠江(とおとうみ)守に叙任され、以後、小堀遠州と呼ばれる様になる。侘茶に「きれい寂び」の世界を開く。城の再建、修復、御所造営などの作事に秀で、又、優れた作庭家でもあった。近江国奉行、伏見奉行を歴任。茶の湯に余生をかける。伏見で没。享年69歳。

さ行

斎藤道三(利政) (1494‐1556) 不住庵梅雪の弟子。梅雪は足利家の書院茶を伝える

室町幕府美濃国守護代。父は長井新左衛門尉。父は出家した後、還俗して美濃の長井弥二郎に仕え、息子(後の道三)が長井の姓を名乗る様になる。息子は、才覚と謀略で美濃守護代の斎藤氏の名跡を継ぎ、更に土岐頼滿を毒殺、美濃の国主・土岐 頼芸(とき よりあき or よりなり or よりのり or よりよし)とその子・頼次を尾張へ追放。美濃国主に成る。娘を織田信長へ嫁がせる。不住庵梅雪から書院茶の茶室の置き合わせを伝授される。茶の湯は陣中でも行っていた程熱心であった。嫡子・龍興と対立し、長良川河畔で交戦し、討死。享年63歳。

 

榊原康勝 (1590‐1615) 古田織部の弟子

上野(こうずけ)舘林藩2代藩主。徳川四天王榊原康政の三男。大坂の陣では東軍方に就く。大坂冬の陣の時に痔を患う。夏の陣の時、若江の戦い、天王寺・岡山の戦いで豊臣方に押される。病を悪化させ、大量出血しながら激戦を続け、京都に引いて、病没。享年26歳。

 

佐久間実勝(真勝(さねかつ)・直勝・将監(しょうげん)) (1570-1642) 古田織部の高弟

茶道・宗可流の開祖。豊臣秀吉の小姓。徳川家康、秀忠、家光に仕える。名古屋城築城の普請奉行を務める。晩年、大徳寺龍光院内に寸少庵を造り、隠居。烏丸光広から伝紀貫之の色紙12枚を入手、帳に仕立て直した。『寸少庵色紙』として有名。号・山隠宗可、

 

佐久間勝之 (1568-1634) 古田織部の弟子

常陸北条藩藩主。叔父・柴田勝家の養子になり、佐々成政の婿養子になる。更に、佐々成政が秀吉に敗れると、佐々の娘を離縁し、小田原の北条氏に仕えた。秀吉の小田原攻めて北条氏が滅びると身を隠した。後、秀吉の命により、蒲生氏郷に仕える。氏郷死後、関ケ原で東軍に所属、戦功により信濃長沼藩の初代藩主となる。姓を佐久間に戻す。京都南禅寺へ6m、熱田神宮へ8m、江戸の寛永寺へ6mの大灯篭を寄進。日本三大灯篭と呼ばれている。享年67歳。

 

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)(1570-1633) 古田織部の弟子

出羽久保田藩藩主。伊達氏と睨み合っていた為、秀吉からの小田原征伐動員令に遅参。以後秀吉に従い、秀吉から常陸国・下野(しもつけ)国・南奥羽を安堵される。秀吉の力を背景にして伊達氏を抑え、居城を太田城から水戸城に移し、領主の支配を強化、安定化を図る。朝鮮出兵の時は名護屋詰めになる。石田三成が、武断派の面々によって襲撃を受けた時、義宣は三成を救出、宇喜多秀家の家に避難させる。家康の会津・上杉征伐軍に消極的であり、秀忠軍に300騎を送っただけだった。関ケ原の合戦には不参加。戦後、50万石から出羽国秋田郡20万石に減転封。大坂の陣では東軍側に立ち、戦功を挙げる。江戸で没。享年64歳。

芝山監物(しばやま けんもつ) (生年不詳-没年不詳) 利休七哲の一人 

初め荒木村重の下に居たが、村重が信長に対して謀反を起こすと、村重を離れ信長に帰順した。

信長の馬回り役(親衛隊)を務め、後に秀吉の馬回りになる。小田原攻め参陣。後、1万石のお伽衆となる。千利休と近しく接し、監物と利休間の書簡が、弟子の中では一番多い。

 

島津義弘 (1535-1619) 千利休古田織部の弟子

薩摩国の武将。島津本家・15代島津貴久の次男として生まれる。生涯にわたり50数度の合戦を歴戦、猛将で知られ、朝鮮の役では「鬼石曼子(グイ シーマンズ)(鬼島津)」と、朝鮮軍や明軍に呼ばれて恐れられた。中でも関ケ原の戦いで東軍の敵中突破を敢行した戦いは、「島津の退(の)き口」として有名。この時、義弘300人の手勢の内生還できたのは80数名だったと言う。医術を学び、学問を好み、情に厚く、茶の湯にも関心を持っていた。

朝鮮の陶工を連れて来て、薩摩焼の礎となした。島津義弘古田織部宛に薩摩で焼いた茶入れを送り、指導を仰いだのに対し、織部から釉薬の使い方や形を指導した書状が現存している。義弘から利休への茶の湯についての質問状「惟新(いしん(義弘))様より利休へ御尋之條書」もある。享年85歳。

瀬田正忠(掃部(はけべ)) (1548-1595) 利休七哲の一人

豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いに従軍。九州平定、小田原征伐にも従軍。古田織部と共に相模国玉縄城の守備に就く。関白秀次事件に連座し処刑される。享年47歳。