式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

8 栄西、第一次渡宋

栄西(1141~1215年)は天台宗真言宗臨済宗を修めた高僧で、建仁寺の開山です。彼は南宋へ二度渡りました。

一度目は1168年です。そこで丁度在宋していた重源(ちょうげん)に出会いました。二人は共に天台山へ登り、廬山、阿育王山を巡りました。

天台山は標高1138mの山ですが、お坊さんの事です。山と言うのはお寺を指します。比叡山延暦寺のように、お寺には必ず「山」と言う山号が付きます。

天台山には沢山のお寺があります。重源と栄西はその中の国清寺(こくせいじ)に学びました。

廬山(1474m)は中国きっての風光明媚な景勝地で、水墨画の発祥地とも言われています。ここに東林寺をはじめ、他に300余りの寺が建っております。李白白居易(=白楽天)、陶淵明などの多くの文人墨客が廬山を詠んでおります。

 阿育王山を調べたら、あいくおうざんとフリガナが振られておりました。阿育王山にある阿育王寺は「アショーカ王寺」です。漢訳音写した名前です。アショーカ王はインドで仏教を保護した大王です。アショーカ王寺には釈迦牟尼仏の本物のお骨を祀っている舎利殿があります。鑑真が日本に渡航する時、ここで体を休めたというエピソードがあります。

栄西と重源の二人はこの三つの山で学び、そして一緒に日本に帰国しました。

栄西は帰国に際して天台章疎60巻余りを日本に持って帰りました。

彼は帰ると早速比叡山に登り、そこにしばらく滞在していましたが、比叡山の旧態依然とした空気に嫌気がさし、やがて筑前(福岡県)に移り、誓願寺に入りました。

栄西はインドへの憧れを抑えがたく、再び宋を目指して海を渡ります。

最初の渡宋の時は平家から資金の援助があり恙なく入宋出来ましたが、二度目の渡海の時は平家が滅亡した後でしたので、実現するまでには様々な困難があったようです。

 

 ちょっと一服・余談2つ

国清寺は寒山(かんざん)と拾得(じっとく)という二人の高僧がいたことで知られています。お坊さんと言うか風来坊と言うか、とにかく変わったお坊さんで、何時も乞食のような恰好をしていました。寒山拾得は禅画によく登場する人物です。代表的なものに伝周文筆・春屋宗園賛の「寒山拾得図」があります。重要文化財国立博物館所蔵です。

 

廬山山地の中の一つに香炉峰があります。白居易漢詩に「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は簾をかかげて看る」と言うのがあります。これは白居易が左遷されて地方の司馬職になった時に詠んだもので「香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁」という詩の中の一節です。

婆の遊び心 ちょっと悪戯してずいよう流ぶっ飛び意訳を試みました。

白居易          ずいよう意訳

 香炉峰下新卜山居     占いをして香炉峰の麓に新たに家を定めた

 草堂初成偶題東壁     草堂が初めて成ったので たまたま東壁を題にして

日高睡足猶慵起    日が高くまで寝て眠り足りても なお物憂いことよ  

小閣重衾不怕寒    小部屋で布団を重ねて寝ていると 寒くは無い

遺愛寺鐘欹枕聴    遺愛寺の鐘の音を あゝ 枕をしながら聴いている

香炉峰雪撥簾看    香炉峰の雪を 御簾をかかげて看てみた

匡廬便是逃名處    匡廬(きょうろ)の地は世俗の名前を逃れて来る所

司馬仍為送老官    司馬の役職は老いた私には丁度良い

心泰身寧是帰處    心安らかで身も安らか ここぞ私の居場所だわい

故郷何獨在長安    何も都の長安だけが故郷でもあるまいし

 

 清少納言枕草子でこれを取り上げ、エスプリの効いたエピソードを綴っています。