式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

76 室町文化(3) 婆娑羅(バサラ)

昔々、天竺の国にたくさんの神々がいらっしゃいました。

或る時、神々の王・インドラが、凶暴で邪悪な蛇神を斃そうと ブラフマー(創造神)に相談しました。すると、ブラフマーは、ダディーチャという光り輝く聖人の骨で棍棒を作り、それで打ち砕けば良いと教えてくれました。インドラはその聖人の下に行って訳を話し、あなたの骨が欲しいのですがと申し出ると、聖人は快く引き受けて息を引き取りました。インドラは聖人の骨を工芸の神に託してヴァジュラの杵(金剛杵(こんごうしょ))を作り、それで邪悪な蛇を撃ち殺してしまいました。

この世のあらゆる物の中で最高に硬く、光り輝くというヴァジュラ(婆娑羅(ばさら))は、金剛、つまりダイヤモンドの事です。インドラが手にしている金剛杵は雷撃を発し、あらゆるものを打ち砕きます。仏教ではインドラは帝釈天ブラフマー梵天と置き換えられています。

南北朝時代になると、既成の概念や制度を打ち壊したり、破天荒な振る舞いや身形(みなり)をする者達をバサラと呼ぶようになりました。

 

佐々木道誉(ささきどうよ)

南北朝時代から室町時代にバサラ大名と呼ばれる大名が現れました。その中でも代表的なバサラ大名は、何と言っても佐々木道誉でしょう。道誉は茶道、香道連歌、立花などの達人であり、近江猿楽や芸能の保護を行なった一流の文化人で、しかも室町幕府の陰の立役者でした。

逸話その一 妙法院焼き打ち事件

1340年10月6日佐々木道誉門跡寺院妙法院を焼き打ちにしてしまいます。

事の次第はこうです。妙法院に見事な紅葉を目にした道誉、活花に丁度良いと思い、郎党に命じて紅葉の枝を折らせました。ところが郎党は僧兵に見つかり散々に殴られてしまいます。それを怒った道誉、兵を率いて妙法院を襲撃して寺の伽藍を焼き払ってしまいます。妙法院天台宗比叡山の傘下。宗門が朝廷や幕府に道誉の厳罰を求めます。

幕府は、事態を穏便に済ませる為、道誉を上総の地に流刑にします。さて、道誉は上総の守護職。道誉にとって上総流刑は自宅に帰る様なものです。彼は比叡山の神獣・猿の毛皮を腰に当て、着飾った若衆を数百人も従えて配流地へ向かったとか。宿場に着く度に遊女を総揚げし、そのド派手さに誰もがびっくりしたそうです。

逸話その二 花見争い

道誉は、足利政権実力者・斯波高経(しばたかつね)と花見争いをしました。

発端は佐々木道誉が五条橋の建設を担ったのですが、工事が遅れたので斯波高経が代わりに完成させてしまったのです。道誉の面目丸潰れ。意趣返しに道誉は、将軍邸で高経が仕切って行う花見の宴に出席の返事を出して置きながら、同日、別の場所で花見の会を催します。勿論、将軍邸の花見はドタキャン。道誉は洛中洛外の芸能人を集め、茶会を開き、高価な香木を惜し気もなく炷(た)き、桜の樹の根回りに花瓶に見立てた石を置き、見事な立花を演出。堂上人や有名人をわんさか招いて大賑わいの花見をしたそうです。道誉は高経から見事に一本取りました。その後、道誉は斯波高経をそのポストから追い落としてしまいます。

逸話その三 楠木正儀(くすのきまさのり)とのお持て成し合戦

1361年南北朝の戦いが激しさを増している時、道誉は、南朝方に攻められて京都を退却しました。退却に際して道誉は、自分の館を占領するのは名のある武将に違いないと考え、邸内を立派に整え、花を飾り、酒など宴の用意をしました。そして「敵将が来たらこの酒で持て成す様に」と留守の者に命じました。

その屋敷に入ったのが南朝の大将・楠木正儀でした。正儀は道誉の振る舞いに感じ入って略奪と焼き打ちを禁じ、道誉の持て成しの返礼に、酒と肴を用意し、見事な鎧と太刀一振りを置いて、去って行ったと伝わっています。

 

高師直(こうのもろなお)

高師直の名前は正式には高階師直(たかしなもろなお)と言います。

彼は武名の誉れ高い武将にして優秀な執政官、機を見るに敏であり、急進的な改革者です。彼は、室町幕府を合計15年間に渡って支え、法を整備した名執事です。

逸話その一 好色漢師直

師直は好色漢で、二条兼基の娘を盗み出して子を孕ませました。その子が高師夏です。

師夏は観応の擾乱の時、父・師直と共に殺害されてしまいます。

その他に師直には幾つも浮名が有りますが、塩谷高貞の妻に横恋慕し、吉田兼好(徒然草作者)に恋文を書かせて送った所、拒絶されたとか。師直はこれを恨み、塩谷高貞を謀反人に仕立て上げ、塩谷一族を滅亡に追い込みました。この話は忠臣蔵の話に仮託されています。

逸話その二 神仏無視

1338年7月5日深夜、師直は、南朝方の立て籠もった石清水八幡宮に対して一か月の攻防戦をした後、全堂宇に火を放ち、焼亡させてしまいます。この八幡宮が、清和源氏氏神の八幡様を祀っている聖域で有る事を思えば、あり得ない暴挙です。彼はそれに頓着せず、勝つ為なら何でもしました。

1348年1月26日南朝の吉野にある後醍醐天皇の行宮(あんぐう)を、師直は焼き打ちします。その際、金峰山寺蔵王堂にも火を掛け全焼させてしまいます。

師直が定めた法で「分捕切捨(ぶんどりきりすて)の法」にも合理性が現れています。

それは敵の首を取ったら誰かの証人が居て証明してくれれば、首をその場に討ち捨てても良い、という制度です。これより以前は、取った首を戦奉行に見せて戦功を記録してもらう迄持ち歩いていました。それは全くのお荷物です。肩に背負うか腰にぶら下げるか手に持つか、郎党に持たせるか・・・これでは満足に戦う事など出来ません。これを改善したので戦の効率化が図られました。

高師直は、足利幕府の基礎を築いた功労者ですが、敵も多く、結局観応の擾乱の時に一族皆殺しにされてしまいました。(68南北朝(2) 観応の擾乱 参照)

 

土岐頼遠(ときよりとお)

土岐頼遠北朝方で戦った歴戦の武将で、幕府軍勝利に大いに貢献しました。特に、青野原(関ケ原近く)で北畠顕家と戦って相手にかなりの痛手を与え、戦局の流れを幕府軍有利に変えた事は、特筆されるべきです。

1342年9月6日、頼遠が笠懸に興じた帰り道、光厳上皇の牛車に出会いました。普通ならば君臣の礼を取り、下馬して畏まらなければならないのですが、酔った勢いで彼はそれをしませんでした。上皇の供の者が「無礼者、院の御車であるぞ」と非礼を糺すと、「院と言うたか、犬と言うたか? 犬ならば射落してやろう!」と配下と共に牛車を取り囲み、散々に矢を射かけました。光厳上皇室町幕府成立の寄る辺となった大恩ある上皇様です。幕府は烈火の如く怒り、土岐頼遠を捕縛し、六条河原で斬首してしまいました。

なお幕府は、頼遠一人の罪に留め、土岐家の存続は認めました。

 

余談  佐々木道誉

佐々木道誉の「道誉」は法名です。出家の前は佐々木高氏と名乗っていました。佐々木家は近江に勢力を持ち、高氏は佐々木家の分家の京極家に生まれました。初め京極高氏でしたが、後に、佐々木家に養子に入り、佐々木高氏と名乗る様になりました。

 

余談  バサラの巨魁

バサラ大名の代表的な人物を紹介しましたが、彼等よりもっと巨大なバサラが居ます。巨大過ぎて目に入らない人物、それは後醍醐天皇その人です。と、婆は思います。

武家社会を打ち砕こうとし、体制の改革を志しました。それが旧来に戻す改革であったとしても、日本中を戦乱に巻き込んだ人。諸芸に通じ最高の文化人にして最高の権力者。彼はインドラの金剛杵を握って雷撃を放った人物です。

後醍醐天皇肖像画をよく見ると、右手に真言宗の法具・金剛杵を握り、そのお姿は唐の皇帝の服、冠の上に冠を重ね、空海の袈裟を掛け、まさにバサラのファッション・コーディネートそのものです。

 

 ご挨拶

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨年中はご愛読下さいましてありがとうございました。

今年も牛歩の歩みで参りたいと思いますので

よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

75 室町文化(2) 世阿弥

演劇論

大仰な身振りで、一丁先まで聞こえる様に泣き喚き、如何にも悲劇の真っ只中にあると言わんばかりの、そんな大根役者は願い下げです。また、激情のままに「聞いてくれ!俺の気持ちを」と騒音を撒き散らしながら歌う今時の歌手も、婆は苦手です。

彼等は自分の感情に溺れています。溺れたままの様子を見せれば、観る人はその感動をそっくりそのまま受け取ってくれると勘違いしているようです。演劇や音楽はそういうものではありません。却って、気分が離れて行くものです。勝手に自分自身に溺れていればいいと。

喜劇の場合、華やかな演出や過剰な身振りは祝祭的な彩を添える手段ですが、悲劇性を帯びたものは、出来る限り抑制して演じた方が、より深い悲しみを表出できます。

『秘する花を知ること。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず、となり』

世阿弥の著した『風姿花伝』の言葉です。「秘する」を「隠す」と捉え、隠したものが現れた時の驚きや喜びが「花」である、と解釈する向きがあります。婆は「秘する」は抑制する事だと思います。抑制した感情と抑制した動きが、観客の心の中に真の花を浮かび上がらせるのだと思います。それでなくて、どうして最も感情が現れ易い顔を、面で覆うのでしょう。この世の者ではない「霊」の化身を面で現わすと共に、面は剥き出しの人間の生々しさを押さえる為のものではないかと、思うのですが・・・

能面をよくよく見ると、鼻を中心線にして右側に憂いがあり、左側が晴れやかに見えます。左右非対称に彫られている様に、婆には見えます。気のせいかも知れません。が、それも能の幽玄さを誘う工夫ではないかと、思えてきます。

風姿花伝』は世阿弥が、父・観阿弥の教えをまとめ、自身の考えも述べながら、子孫の為に芸の神髄を伝えようとしたものです。

 

阿弥衆(あみしゅう)・同朋衆(どうぼうしゅう)

世阿弥の「阿弥」は阿弥陀仏の略で、一遍上人の興した時宗の僧侶を意味しています。
「信不信を選ばず、浄不浄を選ばす」南無阿弥陀仏の念仏を唱えれば誰でも極楽往生できると説く一遍上人の教えは、多くの信者を集めました。何時いかなる時もこの一瞬を常に臨終の時と心得て念仏する「臨命終時衆」の時宗は、一遍が言う通り「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなる嬉しさなのだ」と僧も尼僧も踊り狂い、練り歩き、遊行する教団でした。

時宗教団の者は室町幕府から通行自由の許可を受けていましたので、関所などを自由に往来出来ました。また、南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも教団に入れました。有髪でも剃髪でも「阿弥」を名乗れました。通行自由の便から、旅芸人など田楽や猿楽などに携わる人々は「阿弥」を名乗る人が多くいます。芸能ばかりでなく、茶の湯、作庭家、連歌師、鑑定家、能面師、華道家などの中でも、結構「○阿弥」と言っています。

阿弥衆は、時には戦陣に加わる事もありました。戦地慰問の様なものでしょうか。兵士達を慰め、夜伽などにも応じた彼等は、僧侶の側面も持っていましたので、戦死者の弔いなどもしました。足利幕府の執事の細川頼之は、6人の僧形の阿弥衆を将軍に薦め、将軍の身の回りの世話や話し相手、夜伽などをさせました。阿弥衆を同朋衆とも言うのは、将軍のお傍に仕える美少年達の童坊衆から来ていると言われています。

足利義政の代には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥などが出て、唐物・唐絵などの目利きや書院飾りの様式を定めたり、東山御物の制定にも深く関わりました。

 

世阿弥(ぜあみ)

世阿弥の本名は観世三郎元清と言います。世阿弥の生没年ははっきりしていません。多分1363年頃に生まれたと言われています。世阿弥の父・観阿弥は大和猿楽四座の内の結崎座(ゆうざきざ)に所属する猿楽師でした。

世阿弥の幼名は鬼夜叉です。彼は、幼い時から父の英才教育を受けていましたが、やがて、父の観阿弥は大和から京の都に進出し、京都で興行すると大層評判になりました。

熊野神社で開いた猿楽能を将軍・足利義満が見物した時、少年鬼夜叉の類稀な美しさに惚れ、以来観阿弥世阿弥共々、義満の庇護を受ける様になりました。また、時の関白・二条良基からは「藤若」の名を賜りました。

足利義満の寵童になった藤若。義満は夜伽に片時も藤若を手放さず、公式の席にも傍らに侍らせて、公家達の批判を浴びています。芸能を売る阿弥衆は当時、川原乞食として低い地位に見られていました。その者が高貴の席に座るなど以ての外でした。眉をひそめる公家が居る一方で、義満に忖度し、藤若を贔屓にする公家も大勢いました。

世阿弥は上流階級の人達に触れ、彼等の教養に学んでいきます。特に歌人にして連歌の大成者・二条良基に学んだ事が大きかったようです。連歌から言葉の選び方、リズムなどを謡曲に生かし、後世に残る曲を沢山作りました。また、自身の容色や評判に奢る事無く研鑽を積み重ね、その頃一世を風靡していた近江猿楽の犬王道阿弥の優れた所を取り入れたりして、自身の改革を行いました。道阿弥の舞の冷え冷えした幽玄さに対して、観世の猿楽は、物真似が多く面白さを狙う風で、幽玄さに些か欠けている所がありました。それを、物語の演劇性や音楽、舞の要素などを三位一体にして典雅な幽玄さを追求して行ったのです。

父・観阿弥没後、二十歳そこそこの世阿弥は一座を背負い、観世大夫となりました。美少年「藤若」も次第に容色が衰えて行き、他の流派の台頭が目立って来ます。1401年、後小松天皇が義満別邸・北山第に行幸された時に演じられた能も、道阿弥が務めました。世阿弥は排除されてしまったのです。

世阿弥は他者の成功を見て世が求めるものを知り、面白能から夢幻能へと舵を切ります。

此の北山第行幸の直ぐ後、足利義満が病死してしまいます。義満の跡を継いだ義持は、父義満との不仲をそのまま行動に表し、父の遺した建物を破却し、趣味も一掃してしまいます。

不断の努力により世阿弥はその名声を保ったものの、義持は田楽の増阿弥を重んじる様になります。

 

後継者問題

世阿弥にはなかなか子が授からず、弟の子を養子にしました。この甥を観世三郎元重、阿弥名は音阿弥(おんあみorおんなみ)と申します。世阿弥は甥を後継者として育てていました。

ところが、間も無く世阿弥に実子が生まれました。この実子が観世元雅です。

世阿弥は迷った挙句、後継者に嫡男の元雅を指名し、観世大夫の座を実子に譲ります。

一方後継者と目されていた甥の音阿弥は、観世太夫の座を従兄弟の元雅に奪われてしまい、独立志向になります。丁度この頃、世阿弥は義満という最大の庇護者を失い、義持に疎んぜられていた時期でした。

音阿弥は青蓮院(しょうれんいん)門跡・義円の寵愛を受けていました。この義円が還俗して足利6代将軍・義教(よしのり)になりましたので、音阿弥は飛ぶ鳥を落とす勢いになります。

足利義教世阿弥と元雅を冷遇し、圧力を掛けます。世阿弥と元雅が仙洞御所で能を演じようとしも妨害されて中止に追い込まれます。世阿弥醍醐寺の楽頭職を追われ、その代りその職に音阿弥が就任します。様々な嫌がらせを受け、元雅はその活躍の場を大和に移します。

元雅は、大和天河大弁財天社で猿楽能を舞います。元雅はこの後、伊勢安濃津(現津市)で殺されてしまいます。原因や理由は分かっていません。世阿弥は元雅の事を「子ながらも類なき達人」と絶賛し「道の秘伝・奥義ことごとく記しつたへつる」と言っており、彼の突然の死は世阿弥を絶望の淵に落としました。この時の悲しみが能「阿漕(あこぎ)」に投影されているらしいと言う話があります。

息子・元雅の突然の死の2年後、世阿弥佐渡流罪になります。流罪の理由は分かりません。その後、世阿弥がどうなったのか、詳しい事は分かっていません。

世阿弥父子が居なくなった後、音阿弥は足利義教の絶大な庇護を受けて猿楽能の発展と隆盛を牽引して行きます。音阿弥は「希代の名人にして当道無双」と評され70年近い生涯を第一人者として活躍します。彼は世阿弥から『風姿花伝』を相伝されています。

彼は観世大夫を名乗り、観世流の三世となりました。

音阿弥は「阿弥」と名乗っていますが、臨済宗に帰依していました。音阿弥の墓は酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺にあります。

もう一人、世阿弥には義理の息子がおります。娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)です。金春禅竹武田氏信と言い、金春流始祖です。世阿弥は禅竹の将来を嘱望しておりました。

彼は世阿弥から「六義(りくぎ)」と「拾玉得花(しゅうぎょくとっか)」の理論書を受けています。世阿弥佐渡に流されていた時には、禅竹は京都に残された世阿弥の妻・寿椿(じゅちん)を扶養しています。そして、佐渡に居る世阿弥にも送金していたそうです。活躍は地味ですが、理論家で、世阿弥能楽の書を更に深めております。また、能の作者として10数曲を遺しております。

 

余談  泣き手の添え手

式正織部流では「泣き手の添え手」或いは単に「添え手」と言う所作があります。

お能の「泣き手」の仕草をそのまま茶の湯に取り入れたもので、お湯を茶碗に注ぐ時や棗や茶入を扱う時は、必ず片手を泣き手の形にして添えます。

 

余談  男色(なんしょく)、衆道(しゅどう) 

男色とか衆道とかをここで取り上げる事に衝撃を持って受け止められる方がいらっしゃるかも知れません。実は、昔の日本ではそれほど秘め事とは思われておらず、むしろ、おおらかで開けっ広げの世界でした。

有名なのは、織田信長森蘭丸の関係です。信長は他にも相手がいて、前田利家などもその内の一人だったと言われています。徳川家光衆道の人でした。衆道と言うのは男色の事ですが、特に武士の間で行われる事を指します。実は当古田家(古田織部の家と区別する為に、当古田家と言わせて頂きます)の中興の祖も、衆道の人だったようです。なかなか子供が生まれないので家臣が心配した、という記録があります。3代目も衆道に溺れたとか。姫には恵まれましたが、男子に恵まれずお家お取り潰しになってしまいました。身内から養子をとった4代目は、家光の小姓になったと伝わっております。

新井白石の著した「藩翰譜」に当古田家が取り上げられており、きつい批判を戴いております。

上は雲上人から下々に至る迄、そういう話は数えるに暇がありません。特に男ばかりの世界、例えば僧侶の世界などでは常識的に行われております。僧侶と稚児の男色関係について、初夜の灌頂(かんじょう)の儀式なども公然と執り行われた程です。

武将と小姓の男色関係は家臣としての当たり前の忠義だけでは無く、肉体関係を持つ事に依ってより濃密な絆で結ばれ、絶対裏切らない関係、主君の為に死を厭わない関係にまで深められる利点が有ります。

紀元前385年、ギリシャの哲学者プラトンが『饗宴』と言う書を著しました。

『饗宴』は愛について話した対話録です。出席者は、ソクラテス、アガトン、アリストファネス・・・と当時の錚々たる哲学者、知識人達です。ディオティマ(女性哲学者にして巫女)も話題の中に登場します。そこで論じられたのは、プラトニックラブ、男女の愛、男の同性愛、少年愛などについてです。

『饗宴』では様々な愛の形を取り上げて議論が進みます。キリスト教などの道徳がヨーロッパを覆う前に、この様に堂々と議論した時代があった事を申し添えます。因みに饗宴はシンポシオンと言われ、今日のシンポジュウムに当たります。

(『饗宴』翻訳:久保勉、岩波文庫(青帯))

 

お知らせ 年末年始について

いつもご愛読ありがとうございます。

年末年始の間、しばらくお休みさせて頂きます。

コロナ禍の折り、くれぐれもご自愛くださいまして、

どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

皆様のご健勝とご多幸を祈り申し上げております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

74 室町文化(1) 庶民の芸能

『(前略)犬田楽ハ関東ノ ホロブル物ㇳ云イナガラ 田楽ハナホハヤルナリ 茶香十炷ノ寄り合イモ 鎌倉釣リニ有鹿ト(後略)』

犬追いものや田楽は 関東を滅ぼしたものと言いながら 田楽は尚流行っています。お茶やお香の寄り合いも、鎌倉と同じ様な有様です(盛んです)。

上記『 』内の一文は、『此比都二ハヤル物。夜討強盗偽綸旨…』の出だしで有名な二条河原の落首の中頃あたりにある文言です。

ここに書かれている様に、当時「田楽」と言う民間芸能が流行っておりました。

 

田楽

田楽は「田」の字が付く事から分かるように、農耕の際に、田の神様をお招きしたり、喜ばせたり、お慰めしたりする時に行われる耕田儀礼の舞踏と音楽です。これは平安時代よりかなり昔から行われてきましたが、神事や仏教と結びついて次第に格式を整え、芸能として発達してきました。そして、見事に舞ったり音楽を奏でたりする人達の一団が、専門集団を作り、寺社などと結びついて田楽座などと言う一座を形成する様になりました。

華やかな衣装をまとい、化粧をし、飾り立てた笠などを被り踊る姿は、見物人達のやんやの喝さいを浴び、お祭りの花形になりました。

鎌倉時代室町時代になると、笛や太鼓や歌に合わせて踊るだけでは無く、そこに物語の要素が加わる様になりました。

足利義持が田楽一座の増阿弥を贔屓にしましたので、田楽能の深化に繋がって行きます。

 

散楽(さんがく)

散楽と言うのを現代で言うと、大道芸に、決まった旋律などが無い当意即妙の音楽が加わったもので、面白おかしい芸能でした。散楽の起源は中央アジア西アジアギリシャにまで辿り着く事が出来ます。ディオニソス(酒の神(ローマではバッカス))の取り巻きのサティロス達が、酒神を先導して楽器を鳴らして歌って踊って騒いでいました。ディオニソスはインドまで遠征しに行ったとか・・・周や漢の時代に火を吹いたり刀を呑んだり、ジャグリングをしたり、奇抜な芸や音楽や踊りを披露していた芸人も、もしかしてディオニソスの末裔かも知れません。

東大寺大仏開眼供養会には、唐人による唐や新羅の音楽や踊りを聖武天皇がごらんになったと、続日本書紀の記録にあるそうです。天平時代には雅楽寮に散楽戸が置かれましたが、余りにも猥雑なので散楽戸は廃止されました。散楽を演じていた者達は庶民の間に入って行き、田楽や猿楽に吸収されて行きます。

 

猿楽(さるがく)・申学(さるがく)

世阿弥が「風姿花伝」の中で言うには、聖徳太子が「神楽」と言う文字の示す偏を取って「申」という字にしたとの事です。が、どうやらそれは歴史的には誤りの様です。

散楽=猿楽が朝廷の保護から外れた事に依り、演者達は寺社や街角などで芸を披露する様になります。

鎌倉から室町に掛けて、申学の中に翁猿楽が現れます。翁猿楽は寺社などで演じられる申楽の一つで、天下泰平五穀豊穣や延命を願う儀式の舞です。面を付け、舞を舞う人と、歌や音楽を奏でる人が居ます。翁猿楽は能の原形と言われています。

翁猿楽の三番叟(さんばそう)は神事の祝いの舞で、演者は精進潔斎をして臨むそうです。これは三つの構成要素からなっています。

まず面を付けないで舞う千載(露払い)の後、黒い翁の面を付けて天下の安寧と五穀豊穣を祈って舞い、三番は揉みの段と鈴の段を舞います。揉みの段は種蒔き、鈴の段は幾つも付いた鈴を稲の穂に見立てて舞う、と聞いたことがあります。

 

伎楽

推古天皇の時、百済の人が伎楽舞を伝えました。伎楽は儀典楽として、仏教行事や宮廷の外国使節歓迎式などで演じられました。

伎楽の面は木彫か、乾漆で造られています。頭からすっぽり被るので、木製の物はさぞかし重かったことでしょう。現代の獅子舞の中にその片鱗を見る事が出来ます。

やがて伎楽が廃れる様になり、伎楽面が作られない様になりますが、その代り、顔の前だけを覆う面が作られる様になります。能面の始まりです。

東大寺昭和大修理落慶法要に際し、古代の伎楽が復元されました。

呉王、金剛、迦楼羅(かるら)、呉女、崑崙(くろん)、力士、バラモン、大孤(たいこ)、酔胡(すいこ)、等が練り歩き、面白おかしく物語をパントマイムで演技しながら落慶を寿ぐ様子が、テレビで放映されました。

 

念仏踊り

念仏踊り菅原道真が活躍していた頃、讃岐で始まった雨乞いの踊りがその起源とされています。

或る時、法然上人が上皇の怒りを買い、讃岐に流罪になりました。法然上人、この時75歳。彼は四国を布教して回り、雨乞いの踊りに接しました。それにヒントを得て、念仏踊りを始めました。法然念仏踊りは、歌い手と踊り手が別々です。

空也上人はそれを更に工夫して、歌いながら踊る「踊り念仏」を始めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

頼朝は芸術音痴?

源頼朝と言う男は芸術を全く理解しない朴念仁だそうだ、と京雀に嗤われたのは、東大寺大仏殿落慶の後でした。

平氏によって焼亡した大仏殿を、源氏の手によって復興しようと頼朝は決心し、東大寺復興にかなりの資金援助を提供しています。

大旦那である頼朝が大仏復興落慶式の為に上洛した折り、後白河院は頼朝を労って「蓮華王院宝蔵の絵」を下賜しました。頼朝はその賜わり物を開けもしないで、そのまま院にお返ししたそうです。

源氏として当然の事をしたまで、と思ったのか、朝廷の買収を警戒して武家の矜持を示したのか、それとも本当に朴念仁だったのか分かりませんが、院も都人も、頼朝の行動を見て芸術を理解しない奴だと決めつけて、上記の様に蔑んだのです。

都人は坂東武者を未開の野蛮人ぐらいにしか見ておりません。文化度の低さ故に馬鹿にし、武力を持った犬くらいの認識で、公家達が政争の道具に使っていました。

 

京への反発と憧憬

頼朝が武家政権を確立して本拠地を鎌倉に構えたのも、そういう立場を抜け出す為の手段でした。京都には近づくまい、権力の伏魔殿から距離を置く、その上で、彼等を凌駕して行こう、と。

彼は守護・地頭を、公家達の荘園に送り込み、その経済的地盤を侵食して行きます。

武力を養い、経済的基盤を得、組織力を高める、それが鎌倉幕府の基本方針だったように見受けます。

とは言っても、武家政権の政庁や将軍御所の建物は、鎌倉幕府室町幕府寝殿造りで造られていました。当時の侍の住居では武家造りが普及していましたが、立派なものは寝殿造りで、と言う憧れにも似た固定観念があり、そこから抜け出せなかったのでしょう。

 

鎌倉歌壇

歌人将軍・実朝や京都から宮将軍を迎える様になると、次第に公家文化が武士達にも浸透して行き、歌壇が栄えてきます。武将達も勅撰和歌集に入集する様になります。

古今集以後、本歌取や枕詞、掛詞など技巧に走る歌が増えてきますが、侍達の歌は概して率直です。

 

慶派隆盛と造仏活動の低迷

東大寺復興と共に南都の仏師達が京仏師にも増して勢いづきます。武家関与の東大寺の造仏活動は、運慶快慶の様な力強い造形を生み出しました。また、比叡山を中心とした旧来の仏教に対して、新興宗教である禅宗が武士達の心を捉えました。

一方、他の宗派が仏像信仰から念仏信仰に移り変わって行くと、造仏活動は低迷し始めます。仏像造りは僧籍の仏師が担っていましたが、やがて職業彫刻家なども現れてきて型紙を基に作り始め類型化して行きます。

それとは別に、石刻などが始まります。宝篋印塔(ほうきょういんとう)五輪塔、或いは野仏などの素朴な彫刻が生み出されてきます。

石の彫刻などが作られるようになったのは、東大寺大仏殿再建に負うところが大です。

と言うのも、再建に当たって宋から多くの石工が渡ってきました。大仏殿の基壇などを造る為の石を刻む技術などが、供に働く日本人にも伝わり、広がっていたのです。

 

禅宗

鎌倉や室町の時代の武士にとって「死」は観念的な「死」ではなく現実でした。彼等は常に死地に投げ入れられる存在であって、生涯を全うするのが難しい存在でした。

武功があっても疑われれば誅伐の対象になり、権勢は嫉妬を呼んで讒訴の餌食となって一族滅亡の危機に晒されます。剣光一閃の下に生きる彼等は、既存の宗教では救われない何かを、禅宗に求めたのでした。

禅は又、公家衆が誇る文化に対峙し得る新しい世界でもありました。

禅宗寺院での茶礼が茶の湯に発展し、供花が活花に、禅寺での礼法の規則「清規(しんぎ)を範にして武家礼法が編み出されます。弓馬術礼法が生まれたのもこの頃でした。

我等は荒くれ武者ではないぞ、と言うアピールです。

 

京文化への接近

初期の足利政権は独自の軍事力を持ちませんでした。義満の代になって奉公衆と言う将軍直属の軍隊を持つ様になり、強い権力を持つ様になりました。

幕府の本拠地が京都に据えられた事に依って、将軍御所の生活が京風になって行きます。武家棟梁の京風化は、精神的にも物質的にも武家社会に変化をもたらし、公家文化と武家の方式の融合が始まります。

尤も、そうなる前にその兆候は見られました。戦火の京都を避けて地方に下った公家達や、地方から都にやって来た侍達が京都の水に馴染んだりして、文化の攪拌が既に起きていました。

 

美術品への目覚め

南宋貿易や、天竜寺建立の為の資金調達で始まった天龍寺交易船で、大量の宋銭が日本に入って来て、国内に流通し始めます。更に、義満の代に勘合貿易が盛んになると、なお一層明の財物が輸入されるようになります。それまで、美術品などの価値に見向きもしなかった武士達が、美術品の値打ちに気付きます。

佐々木道誉などは、目の玉が飛び出るくらいの高価な宋や明の文物を並べて闘茶の賭け物にした、と伝わっています。

茶の湯の原点はこの頃に在ります。式正織部流は安土桃山時代に創始された茶の湯の流派ですが、侘茶以前の風を残しています。真台子(しんのだいす)の真点てでは唐金皆具(からかねかいぐ)の道具立てで、天目茶碗を使って行います。

 

 

余談  茶の湯の皆具(かいぐ)

 茶の湯に於いて皆具と言う時、水指、杓立、蓋置、建水などの使うお道具がすべて同じ材質、同じ意匠で統一された物を指します。

水指(みずさし)   清潔で綺麗な水を入れて置く器

杓立(しゃくたて)  一輪挿しの様な形をした物で、柄杓を挿し入れて置く物

蓋置(ふたおき)   お釜の蓋を置く物

建水(けんすい)   汚れた水を捨てる器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

72 室町時代(1) 義詮と義満

足利義詮

室町幕府2代将軍・足利義詮と、その息子の義満は育ち方がまるで違います。

義詮は幼い時から戦争に揉まれ、義満は乳母日傘で育ちました。

義詮は、元弘の乱の時に北条氏の人質として鎌倉に留め置かれました。父の尊氏が鎌倉に謀反すると、命の危険に晒され母と共に危うく脱出します。(異母兄の竹若丸は殺されています。)

そして、4歳にして父尊氏の名代として新田義貞と共に戦場に身を投じます。建武の新政の時は、叔父・直義(ただよし)と一緒に鎌倉に在して政務を行い、中先代の乱では北条時行に敗れた直義と共に鎌倉を脱出、京都から救援に来た父に助けられます。

南朝北朝の騒乱が激しくなり、1337年、陸奥将軍・北畠顕家が10万の大軍を率いて上洛した際には、鎌倉は蹴散らされ、8歳の義詮は重臣達と共に房総方面へ逃げます。

観応の擾乱で直義が失脚すると、行政が不得意な父・尊氏に代わり、20歳で幕府の政務に携わります。が、その後、京都市街戦などでは肝心の上皇天皇南朝に奪われたりして、何回も南朝方に撃破されています。義詮はどうも戦が苦手なようです。

当時の戦い方

当時の戦い方は、先ず騎射戦。それから騎馬戦。馬上で薙刀を振り回して敵との距離を取りつつ薙ぎ倒していく、それから太刀もその長さを利用して辺りを切り払って行きます。脇差や短刀は、相手を落馬させてから、首を取る為の道具。この時代の戦い方は、婆がイメージしているチャンバラとは大分違います。

敵の楠木正儀(まさのり)の戦法は市街戦の時、兵を屋根に配置して上から矢を射かけ、路上では槍衾で相手を追い詰めたとか。正儀は兵站や調略も重視していました。その土地を占領しても兵站に不利と見れば、彼はさっさと退却してしまいます。その戦いぶりに義詮は感心していて、正儀を尊敬していたようです。

義詮は、生まれながらにして戦いの洗礼を受け、生涯戦争に関わり続け、戦に明け暮れましたが、幸いな事に畳の上で死ぬ事が出来ました。38歳でした。

 

足利義満

3代目・足利義満は、初代尊氏没後100日目に生まれた孫で、義詮の庶長子です。

義詮嫡嗣子は夭折。庶子の義満が家督相続者と目されて育ちました。生まれた頃、観応の擾乱で世の中が騒がしく、その後の南北朝の騒乱が打ち続く中、家臣に守られて建仁寺に避難、そこから赤松則祐(そくゆう)の居城・播磨白幡城に移り、そこで養育されました。更に、管領・斯波(しば)義将の手で養育されます。貞治(じょうじ)の乱で斯波氏が失脚すると、次の管領細川頼之に守られて育ちます。

義満9歳の時、後光厳天皇より「義満」の名前を賜り、10歳の時に病床の父・義詮より家督を譲られ、11歳の時元服。12歳の時、征夷大将軍に任じられます。(年齢は数え年で書いております。)

父の義詮が幼少より軍馬を駆って戦争に明け暮れていたのとは大違いで、義満は戦争の実体験をしないまま育ちました。彼は、祖父・尊氏と父・義詮が固めた地盤の上に乗って、管領細川頼之の宜しき補佐を得て、政務をこなして行きました。

帝王学

武家棟梁としての戦場での経験は少ないですが、その代わり、細川頼之やお傍に仕える重臣達によって帝王学を身に着けて行きます。

帝王学」と言っても、中身に拠ります。

仁徳を学び民に思いを致すのも帝王学ならば、唯我独尊の我儘で、権力の上に立って人を支配する方法を学ぶ、それも亜流の帝王学です。(覇王学と呼ぶべきでしょうか)

大内義弘が書いた難太平記に義満を評して、こうあります。

『今御所の御沙汰の様、見及び申す如くは、よはきものは罪少なかれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり』

今の将軍様を見ていると、弱い者が犯した罪は小さくても酷く罰せられ、強いものが犯した罪は、上様のご意志に逆らっても罰せられない、これはみんなが知っている事である。と言う意味です。簡単に言えば、弱きをくじき強を助ける、ですね。

守護の粛清

彼は幕府の権威を高める為、守護内部の家督相続の争いを利用して双方の勢いを削ぎ、弱体化させて行きます。時には、争いの種をわざわざ作って双方の間に投げ入れ、自滅させてしまうと言う方法も使ったりしました。

土岐氏尾張・伊勢・美濃を持っていましたが、内紛によって美濃一国に減らされてしまいました。山名氏は日本66ヵ国の内11ヵ国を持っていましたが、3ヵ国になってしまいました。大内氏もこの策に嵌って衰退してしまいます。

天皇になりたかった?

足利家は平清盛の様に、天皇家にも婚姻によって近づき、公家社会に根を降ろし、枝を張って行きます。

義満の義理の叔父に後光厳上皇がおり、後円融天皇は義理の従兄弟です。

義満は自分の息子・頼嗣を溺愛し、彼の元服式を内裏の清涼殿で行います。加冠役は内大臣二条満基伏見宮貞成親王「椿葉記」には親王元服の準拠』と書かれています。

跡取りの義持はこれを面白く思う筈はありません。衆目は義嗣様こそ次の将軍ではと、早とちりする者も出てきます。

その頃、義満は朝廷に、自分に太政天皇の尊号を贈るように要求しています。それを義持は、恐れ多い事だと、辞退しています。義満と義持の父子は犬猿の中でした。

義満は明国に、自分の事を「日本国王」と認めさせ、勘合貿易を始めます。

義満の建てた北山別荘(鹿苑寺)の金閣について、或る研究者が言っております。

金閣は義満の野望の象徴だと。1階が寝殿造り、2階が武家造り、3階が禅風造りで、屋根に鳳凰。という事は、公家の上に武家があり、武家の上に禅があり、3階の禅堂で座禅する義満の頭上に天皇を象徴する鳳凰が止まるように造られている、と。それは、義満が天皇の位を狙っていた証ではないか、と言う推測です。

1408年(応永15年)5月31日、51歳で義満が薨去しました。

その8年後の1416年、正2位まで上り詰めた義嗣は突然出奔し、出家してしまいます。そして、1418年1月24日、殺害されてしまいます。

4代将軍になった義持は、鹿苑寺を、舎利殿を除いて解体し、南禅寺建仁寺に移築してしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

71 南北朝時代の年表

南北朝時代と言うのは、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた事に依り、京都の朝廷と二つに割れた1336年から、明徳の和約で南北合一する1392年までの57年間を指しますが、実際にはそれより3年前の建武の新政から数えた方が、時代区分としては分かり易い様な気がします。と言うのも、南北朝時代の主役の一人・足利尊氏が、次の時代を開いた牽引役でもあるからです。

そこで、これ迄書いて来た南北朝時代の総括を兼ねて、主だった事柄を、取り敢えず足利義満までを年表(西暦年表)にしてみたいと思います。

年表

1331年   元弘の乱後醍醐天皇挙兵

   9月  楠木正成後醍醐天皇に与し、赤坂城で戦うも落城す。

1332年   後醍醐天皇隠岐に配流さる。

       楠木正成、赤坂城奪還。

1333年2月   後醍醐天皇隠岐を脱出。伯耆国船上山に陣を敷く。  

   2月~5月、千早城の戦い楠木正成勝利。

   5月7日、足利連合軍、六波羅探題を攻め落とす。

   5月22日、新田義貞鎌倉幕府を滅ぼす。

           6月   後醍醐天皇、京都に戻る。光厳天皇が廃される。

                       旧領回復令、寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令を発布

   7月  諸国平均安堵令発布。恩賞方と武者所を設置。叙任・除目を行う。

      年内に雑訴決断所拡充。陸奥将軍府鎌倉将軍府を設置。

1334年1月  元号を、元弘から建武改元

1335年7月  中先代の乱。鎌倉、北条時行に襲われ陥落。

   8月  足利尊氏、弟・直義救援の為鎌倉へ出陣し鎌倉奪還。

    11月  後醍醐天皇足利尊氏追討令を新田義貞に下す

       矢作川の合戦と手越河原の合戦で新田軍勝利。

       箱根・竹之下合戦で足利軍勝利。

1336年1月    足利軍京都入り、後醍醐天皇比叡山延暦寺に避難。

         足利軍と南朝軍が京都で激突。足利軍敗北し九州へ逃げる。

   2月29日、光厳上皇元号を延元と改元。   

   3月     九州多々良浜の戦いで足利軍勝利。

   5月     新田義貞後醍醐天皇による足利追討令を受けて、九州へ出動。  

         光厳上皇から足利尊氏に新田軍追討令が届く。

   5月25日、湊川合戦。足利軍勝利。楠木正成自害。

   5月27日、後醍醐天皇三種の神器を持って比叡山に避難。

   5月29日、足利軍、京都占拠。

   6月   尊氏、光厳上皇を奉じて東寺に入る。

   8月   光厳上皇院宣により豊仁(とよひとorゆたひと)親王を即位させる。

          →光明天皇

    10月9日、足利尊氏後醍醐天皇との間に和睦成る

       新田義貞恒良親王尊良親王を奉じて北陸道へ走る。

   11月2日、三種の神器後醍醐天皇より光明天皇に渡る。

          足利尊氏建武式目を制定・

   12月21日、後醍醐天皇、京都から吉野へ脱出。南朝樹立。

1337年 3月 5日、 金ケ崎城陥落。足利軍vs新田軍。新田軍敗北。

1338年 6月      北畠顕家、堺浦石津合戦で討死。

     8月11日、足利尊氏光明天皇より征夷大将軍に任命さる。

1339年     後醍醐天皇崩御南朝後村上天皇即位。

1350年10月   観応の擾乱勃発足利直冬九州で挙兵。足利直義、大和で決起。

        光厳上皇、直義追討令発令。直義、南朝に寝返る。

1351年11月   正平一統足利尊氏南朝と和議し、三種の神器南朝に返還

        南朝後村上天皇足利尊氏征夷大将軍を罷免。

        代わりに宗良親王征夷大将軍に任ず。

1352年     尊氏、直義軍を破って直義を鎌倉に幽閉す。

        南朝宗良親王、鎌倉を攻める。

        南朝方敗北。北条時行処刑。宗良親王など信濃や越後に落ちる。

        第一次、第二次、第三次と南朝北朝、京都で入り乱れて合戦。

1355年2月    神南(こいない)の戦いで尊氏、近江に退却。南朝京都を占拠。

   3月    尊氏、京都攻撃、南朝京都を撤退。

1358年4月   足利尊氏薨去

   12月     足利義詮征夷大将軍になる。

1361年       細川清氏楠木正儀、京都を占拠するも、一か月で退去。

1362年       義詮、斯波義将管領に任命。

1365年       義詮、評定衆引付衆を縮小し、将軍権限の拡大を図る。

1367年         義詮、斯波氏失脚の後、細川頼之管領に任命。

   12月7日、義詮薨去

1368年 4月15日、足利義満元服

1369年12月30日、足利義満征夷大将軍になる。義満この時12歳。

1378年       義満、幕府を室町に移す。

 

南北朝の騒乱は60年も続き、多くの英傑・逸材が斃れました。

時代の濁流は地層の下を削り取り、巻き上げ、新しい活気も生み出しました。

奈良・平安時代を文化の抱卵期とすれば、足利尊氏が開いた室町時代は、日本文化の育雛期でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

70 南北朝(4) 明徳の和約

前項の「南北朝(3)」の「正平一統・和平の兆し」で、楠木正儀北朝に寝返ったと述べましたが、そこに至る迄の間に様々な紆余曲折がありました。

 

南朝後村上天皇即位

延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)後醍醐天皇崩御されました。

後醍醐天皇の跡を、後醍醐天皇の側室・阿野廉子(あのれんしorあのかどこ)が生んだ皇子で第七皇子の義良(よしなが)親王が即位し、後村上天皇となりました。

後村上天皇は、南朝こそ正しい皇統であると主張している主戦派の天皇でした。お上がそうですから、南朝では主戦派が占める様になり、楠木正儀の様に和平を模索する者は次第に孤立して行きました。けれども、南朝の劣勢は隠しようもなく、後村上天皇も次第に柔軟になり、宥和に傾いて行きます。

正平20年/貞治4年(1365年)頃から和平交渉が始まります。この交渉は断続的に続けられ、あともう少しで合意に至ると言うところまでこぎつけました。

正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日)足利義詮薨去します。

正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)後村上天皇崩御されます。

正平23年/応安元年3月南朝長慶天皇が即位します。長慶天皇主戦論者でした。

これ以後、25年間、南朝北朝の間で和平交渉は開かれませんでした。

 

正儀、北朝に降る

長慶天皇は摂津の住吉に行宮を定めますが、河内天野の金剛寺(現大阪府河内長野市)に移ります。正儀は尚も和平の努力をしますが、再び南朝の中で孤立し、冷遇される様になりました。

楠木正儀北朝管領細川頼之の誘いを受け、幕府に帰順しました。幕府は楠木正儀を歓迎し、破格の待遇をしました。

建徳元年/応安3年(1370年)楠木正儀の居城・河内国瓜破(うりわり)城が南朝に攻撃されます。幕府は正義に援軍を送り、南軍を打ち破り勝利します。

文中元年/応安5年(1372年)8月、九州に居た南朝勢が幕府軍に攻められ太宰府が陥落し、懐良(かねよし)親王が落ち延びます。

文中2年/応安6年(1373年)幕府軍は正儀はじめ細川氏、赤松氏などが南朝方の河内天野の金剛寺を攻め、陥落させます。南朝方は敗退し、吉野へ逃れます。

この様に、南朝方は次々と敗北を重ね、ついには反撃の力さえ失ってしまいました。

 

正儀、南朝に帰る

管領細川頼之の配慮で破格の厚遇を受けた正儀でしたが、幕府内にはそれを面白く思わない者もいました。また、橋本正督と言う者が南朝北朝を何度もクルクルと寝返りをして幕府を手古摺らせていたのですが、それの対処で細川頼之が失脚してしまい(暦応の政変)、正儀も幕府内に居難くなりました。正儀は南朝に戻る事にしました。

 

和平交渉本格化

南朝強硬派の長慶天皇にすっかり勢いがなくなり、和平への機運が高まってきました。

長慶天皇は穏健派の弟へ皇位を譲りました。この方が後亀山天皇です。

ここ迄根回しをしてきた正義は、和約を見届ける事無く亡くなりました。

 

明徳の和約

さて、この様にして和議に至ったのですが、問題がありました。

実は、この交渉は南朝足利義満との間で行われていて、北朝方は蚊帳の外だったのです。

和約の条件は

1, 三種の神器の引き渡し  2, 両統迭立(てつりつ)  3, 国衙領(こくがりょう)を大覚寺統の領地にする(国衙領とは国有地の事)  4, 長講堂領を持明院統の領地にする

と言うものでした。

すったもんだの末に、幕府が無理矢理に形を整え、三種の神器の受け渡しを大覚寺で行いました。

明徳3年/元中9年閏10月2日(1392年11月19日)後亀山天皇大覚寺に着き、その3日後に、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種の神器が、北朝後小松天皇に渡されました。

 

 

余談  皇統

皇統は万世一系と言う考え方が有ります。これは正嫡正流という考え方です。

もう一つ、人徳が優れている者が天皇になる、という考え方が有ります。

更に、三種の神器を持った者が天皇である、と言う考え方も有ります。

後醍醐天皇は正嫡正流ではありません。彼は後二条天皇異母弟で、庶子です。

後二条天皇の第一皇子・邦良(くによし or くになが)親王がまだ9歳で、しかも病弱でしたので、邦良親王の代わりに、後二条天皇の異母弟・尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)が条件付きで即位します。その条件とは、後醍醐の皇位は一代限りの中継ぎで、後醍醐の息子には皇位は渡さないと言う条件でした。ところが、後醍醐天皇は一代限りと言う約束を反故にしてしまいます。結果、本来皇位を継ぐべき後二条の皇子には皇位が渡りませんでした。南北朝の騒乱が始まりました。

後醍醐天皇三種の神器を携えて吉野に遷幸し、南朝を打ち立てます。

北朝の京都では持明院統後伏見天皇の第三皇子・量仁(かずひと)親王が、三種の神器が無いまま即位し、光厳天皇になります。

光厳天皇の跡は光厳天皇第九皇子・豊仁(とよひと)親王が即位し、光明天皇となります。

こうして見ると、正嫡正流の考え方からすれば、後醍醐天皇が正統を主張するには自己矛盾していますし、約定を破った点からも非難されます。また一方、三種の神器の有無から見れば、北朝光厳天皇は即位の資格を問われるかも知れません。

三種の神器ってなんでしょうね。平成上皇様も今上天皇様も実物をまだ誰も見ていないそうです。