式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

53 鎌倉文化(9) 歴史書・他

愚管抄(ぐかんしょう)

愚管抄天台座主慈円が書いた七巻にのぼる歴史書です。神武天皇から仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)(廃帝)までの天皇の歴代の年代記を書き、三巻目からは『物ノ道理ヲノミオモヒツヅケテ』歴史を、漢字とカタカナで書き綴っています。

愚管抄より、壇ノ浦の戦いの場面を抜粋。

『元歴二年三月弐四日二船イクサノ支度ニテ。イヨイヨカクト聞キテ頼朝ガ武士等カサナリ来タリテ西国ニヲモムキテ。長門ノ門司ダンノ浦ト云フ所ニテ船ノイクサシテ。主上[安徳]ヲバムバノ二位宗盛母、イダキマイラセテ。神璽寳剱トリ具シテ海ニ入リケリ・・・(以下略)』

ずいよう超訳:元歴2年3月24日に船戦の支度をした。いよいよこの様にと聞いて、源氏の武士達が押し寄せて来たので平家は西国に赴いた。長門の壇ノ浦と言う所で船戦になった。主上[安徳]天皇をば乳母の二位の宗盛の母がお抱きになり、神璽と宝剣と共に海に入水した。

 

吾妻鑑(東鑑)  (あずまかがみ)

成立年は学者によって諸説あります。凡そは1200年代後半から1304年までと言われ、日記形式で書かれています。但し、『玉葉』や『明月記』の様に日々記録したものでは無く、後世に資料を編纂して日記風に書いたものです。政所などにあった役所の書類、御家人達の家誌、寺社の記録などを集めて整理し、如何にも公式記録らしく体裁を整えています。ただ、都合の悪い所は軽く流し、或いは欠落させ、これぞと言う所は過剰に盛り、誅伐した相手に対しては自分達が良くて相手の方が悪い、と言う書き方をしています。書き手の視点は源氏寄りでは無く北条得宗家寄りです。

漢文で書かれており、作者は鎌倉幕府の中枢にいた者達の手によるものと思われます。

 

四鏡 (しきょう)

大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』を合せて四鏡と言います。いずれも極めて高齢の翁や嫗が歴史を語る、と言う趣向で書かれています。

大鏡は平安後期1025年頃成立。文徳(もんとく)帝850年から後一条帝1025年迄。

『今鏡』は平安後期1170年頃成立。後一条帝1025年から高倉帝迄。

『水鏡』は鎌倉初期(1195年頃)成立。神武天皇から仁明(にんみょう)天皇迄。

『増鏡』は、後鳥羽帝誕生1180年から後醍醐帝の建武親政1333年迄。

 

神皇正統記 (じんのうしょうとうき)

神皇正統記は、南北朝時代南朝方の北畠親房が著した歴史書です。この本は徳川光圀の『大日本史』へ影響を与えたり、国粋主義への傾倒を促したりしました。

冒頭抜粋

『大日者神國也天祖始テ基ヲ開キ日神永続ヲ傳へ給フ我國・・・(以下略)』

 

尊卑文脈 (そんぴぶんみゃく)

『尊卑文脈』は左大臣洞院公定(とういんきんさだ)が著した系図集です。藤原氏平氏、源氏、橘氏などの家系図の集大成です。古い家系を調べる時大いに参考になり、系図書き職人の多くがこれを参考にしました。ただ、左大臣の権力を使ってどの位の規模で編纂したのか、或るいは、個人的に一念発起して家中の協力を得ながら取り掛かったのか、集めた情報は本当に過誤の無い記録ばかりだったのか、疑問があります。

江戸時代、幕府は大名・旗本から系図を提出させ寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)を編纂しました。時が経ち、更に続編を書こうとしたら寛永系図に誤りや盛りを発見。そこで改めて系図を提出させ、間違いを正して編纂し直し、寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)を作ったと言う経緯があります。大名・旗本を全て網羅、出来上がった寛政譜は1.535巻、この作業に学者50人を動員して14年間かかりました。

『尊卑文脈』の場合、洞院公定の死後も書き継ぎが多くなされました。各家に系を繋げ、流を作ろうとした動きもありました。後世、徳川家康は源氏の流れを汲むとされましたが、これも、上手い具合に書き継いだかと思われます。

「古田」の系図を調べてみると源頼茂 に辿り着きます。(このブログのシリーズ「28北条執権物語(2)北条義時」の項参照) 。  が、真偽は分りません。古田系図と土岐系図と尊卑文脈に記載されている人物名に世代のズレがあります。古田織部美濃源氏流と言われていますが、詳しい事は分りません。

なお、尊卑文脈の正式名は『新編纂図本朝尊卑文脈系譜雑類要集』です。

 

元亨釈書(げんこうしゃくしょ) 

日本仏教の歴史と、僧侶の各伝などを漢文で書いたものです。臨済宗の虎関師錬(こかんしれん)が著し、1322年に朝廷に奉呈されました。全30巻です。

 

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 

正法眼蔵』は曹洞宗の開祖・道元が生涯をかけて書いた全87巻の宗教書です。漢字かな交じり文で書かれています。『正法眼蔵随聞記』は道元の弟子・孤雲懐奘(こうんえじょう)が書いた正法眼蔵の解説書です。(「47鎌倉文化(3)仏教・禅宗」の項参照)

 

摧邪輪(さいじゃりん) 

1212年、明恵上人が書いた仏教書です。(「15 栄西禅師と明恵上人」の項を参照」

  

 類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)

 類聚名義抄は11世紀から12世紀にかけて成立した漢字の辞書です。漢字の読み、用い方、アクセント、イントネーションなどが書いてあるそうで、昔の日本語の発音などを知る上で非常に貴重な資料と言われています。

 

余談  仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)廃帝

 仲恭天皇は1221年5月13日に4歳で践祚(天皇の位に着く事)。祖父・後鳥羽上皇承久の乱を起こしたので、鎌倉幕府の手によって同年7月29日で廃帝にさせられました。即位礼(正式に即位の宣言をする儀式)や大嘗祭をしていなかったので、天皇とは認められませんでした。78日間の最短在位です。彼は隠棲し17歳で崩御。明治時代に太政官令で復権し、現在は皇居の皇霊殿に祭られています。