式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

18 室礼の歴史(3) 禅の影響

寝殿造と言っても色々あって、太政大臣の大豪邸から地方受領の屋敷まで、規模も配置も形も千差万別だったとか。それが、鎌倉時代に大鋸(おおが)が出来て製材が容易になり、鑿が出来て溝が簡単に彫れるようになると、嵌め殺しの障子(襖・板戸などを含む)だったものが、引き違い戸にする事ができる様になりました。お蔭で居室や客間など役割を持つ部屋が現れてきました。

武士階級は寝殿造りを身の丈に合わせてアレンジし始めました。こうして細部の変化を積み重ねながら、大工道具の改良や建築技術の発達と共に、寝殿造から書院造へと移行して行きました。

公家達が培ってきた文化の厚みは、武士がどう逆立ちしても歯が立ちません。年がら年中戦を続けている武士は、公家達から見れば、腕力だけが取り柄の、教養のない番犬でした。彼等からの蔑みを跳ね返し、「番犬」の座から一目置かれる「主人」になるにはどうしたら良いか? それには、新しい潮流に乗るのが一番です。新興のものならば公家も武士も横一線に並べます。彼等にとって「禅」がそれでした。

平氏の放火によって焼失した東大寺大仏殿の再建を目指して、全国を勧進をしている重源(「8 栄西、第一次渡宋」参照)に、源頼朝は莫大な資金を出します。そこには平氏が焼いたものを源氏が復興させる、という強い意志がありました。

仏教に対する鎌倉の関心は、前述の様な政治的な目的もありましたが、彼等が心から求めていたのは禅宗でした。源頼家は明菴栄西に、北条時頼蘭渓道隆に、北条時宗は無学祖元にそれぞれついて参禅します。弘安の役(元寇)の時、北条時宗は無学祖元の教えの下、腹を据えて未曽有の国難に当たります。

無学祖元は南宋の人です。元が南宋に攻めに来て、兵が祖元を殺そうとしました。兵が刃を振り下ろそうとした時、白刃の下で祖元は座禅を組みながら詩を朗唱します。それを聞いた兵は拝礼して去って行ったそうです。

その時の「臨刃偈(りんじんげ)」又は「臨剣頌」は下記の通りです。

  乾坤無地卓弧笻 喜得人空法亦空 珍重大元三尺剣 電光影裡斬春風

乾坤(けんこん)地無し弧笻(こきょう)の卓(たく)、喜び得たり人空にして法も亦(また)空なり、珍重す大元三尺の剣、電光影裡(でんこうえいり)春風を斬る

婆は勝手に解釈して、「私は空ですよ。空を斬ってどうするの? 春風を斬る様なものなのに」としてみましたが、本当は何のことやら。

武士が禅に向かうのは、生死の刹那への思いからではないでしょうか。

お茶が禅とは切っても切れない縁がある事から、婆には一つ困ったことが有ります。

茶席の床に禅語のお軸があると、??????????・・・で、お手上げなのです。