式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

46 鎌倉文化(2) 仏教・宗派多様

律令制度から封建制度へ、貴族社会から武家社会へと歴史は移って行きます。

『行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・』と「方丈記」の中に書かれている通り、平安時代末期から400年以上に亘って激動の時代が続きます。宗教も又、旧来の仏教に対して、新しい宗派が次々と生まれ、旧来と新興の宗派の間で激しい摩擦が起きてきました。

新しく起こった宗派も含めて、どういう宗派があったのかを、整理しがてら見てみたいと思います。

華厳経

華厳経の基となっている経典は「大方広仏華厳経」です。教えの内容は、仏は全ての衆生を包んでおられる。また、一人の人間の中には全ての衆生との関わりが存在する。この関係性は完璧に融和し合っており、その姿は、美しい花から芳しい香気がたちのぼってくるようである、というもの、だそうです。華厳経の代表的なお寺は東大寺です。本尊は廬舎那仏。聖武天皇の発願で建立されました。

法相宗

法相宗は、自然の有様(相)の理(法)を見極めて人々の救済に役立てようとする学問的宗派です。玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典の中にあったもので、それまでの中国仏教には、こういう傾向のお経はありませんでした。日本には西暦653年にもたらされました。この宗派は自然科学への知識が深く、土木工事や建築、薬学などへの貢献が大です。橋を架けたり灌漑用水を作ったりした行基や良弁(ろうべん)などは法相宗の代表的な僧侶です。興福寺薬師寺法相宗です。

律宗

律宗は鑑真和上によって日本に伝えられました。当時日本では勝手に僧侶になる者が多く、乱れておりました。朝廷は正式な授戒を授ける者が必要であると考え、鑑真和上を招聘しました。律宗の本尊は廬舎那仏です。お寺は唐招提寺です。真言律宗西大寺です。後に比叡山延暦寺も授戒を行う様になり、唐招提寺は次第に衰退していきます。

天台宗

中国の隋の時に、天台大師が仏教を総合的に解釈した教義に端を発しています。『一切の衆生は悉く仏性有り。十界に生くる者皆成仏する』と言い、教義と実践を重んじています。最澄がこれを日本に伝えました。比叡山延暦寺は様々な宗派を生む母胎となって行きます。延暦寺にご本尊はいらっしゃいません。

真言宗

真言宗を伝えたのは空海です。真言宗の本尊は大日如来です。大日如来を中心に描いた曼荼羅で、仏教の全体像を説明しています。真言宗では、護摩を焚いて加持祈祷を盛んに行います。本山は高野山金剛峰寺です。

浄土宗

浄土信仰は法然が浄土宗を始めるよりずっと前から人々に信仰されていました。それを浄土宗として確立したのが法然でした。阿弥陀仏に帰依して南無阿弥陀仏とひたすら念ずる事に依って救われる、と言うのが主眼です。法然の浄土宗は貴族達に受け入れられ、多くの寺院や仏像が造られ、仏教美術の世界を作り上げていきました。

浄土真宗一向宗時宗真宗踊念仏

法然の弟子・親鸞によって浄土宗が更に深化しました。

浄土宗が唱える念仏は「南無阿弥陀仏」です。

浄土真宗が唱える念仏も「南無阿弥陀仏」です。いずれも、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生が出来るという教義です。

何処が違うのかと言いますと、本質的には違いはありません。親鸞は師・法然を心から尊敬していましたし、信じておりました。親鸞は亡くなる迄法然とは違う別派を立てたとは思っていませんでした。後世の弟子達がそう言ったのです。では何が違うのか、と言いますと「行」と「信」です。法然は「南無阿弥陀仏」と唱える行為をすれば往生できる、と説いたのに対して、親鸞のは、阿弥陀様は誰でも救って下さると心から信じた者が「南無阿弥陀仏」と唱えてこそ救われる、という立場です。信仰があっての念仏、という訳です。

法然親鸞の教えは専修念仏と言います。特に親鸞の教えは、親鸞の生前から弟子達の間に異議が生じており、その異議を嘆くと言う本が親鸞入滅後30年経ってから出されています。「嘆異抄」です。著者は弟子の唯円(ゆいえん)と言われています。こと程左様に別派を生じ易い教義ですので、ここでは浄土真宗から派生した一向宗時宗踊念仏浄土真宗に一括りにしました。一向宗は江戸時代に幕府の命により時宗に組み入れられました。いずれもひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える宗派です。

法華宗日蓮宗

法華宗とは、妙法蓮華経を基にした宗派で、天台法華宗日蓮法華宗とがあります。

天台法華宗比叡山延暦寺の方を指し、日蓮法華宗は、日蓮宗と呼び習わしております。また、日蓮宗とは称さないで法華宗と言っているお寺もあります。(本門流)

日蓮宗は専修念仏で「南無妙法蓮華経」を唱えます。本山は久遠寺です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

45 鎌倉文化(1) 運慶・快慶

祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理を表すにしては、なんと多くの人々の血が流れたことか。末法到来の噂に庶民は怯え、兵乱と病と飢餓からの救済を求めて、ひたすら仏に祈る日々。

平安時代、貴族は極楽浄土を求めて盛んに寺院造営を行いました。財力を注げば注ぐほど極楽浄土に近づけると思っていた節があります。やがて写経や仏像造立へと力点が移り、更に仏像への合掌から念仏への信仰に移って行きます。

 

定朝(じょうちょう)

藤原時代の仏像は、体はふくよかでお顔も丸味を帯びて穏やかです。衣文の起伏の彫りは太目で、その流れは平行的です。このような仏像の代表例が、宇治の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像です。この阿弥陀様を彫ったのが大仏師の定朝です。

定朝は京都に工房を構えていました。定朝様式は富貴円満の相があり、貴族達から大いに持て囃されました。

定朝様式は、息子の覚助ー院助ー院覚ーと続く院派と、弟子の長勢ー円勢ー長円ーと続く円派の二つの流派に分かれますが、院派も円派も定朝を手本として作像し、大量の受注に応えていましたので、次第に類型化し、マンネリ化して行きます。

 

慶派(けいは)

一方、南都には興福寺を拠点とする仏師の集団がいました。その中に康慶(こうけい)を中心とした慶派と呼ばれる小さな集団がありました。

1180年、治承の乱の時、平重衡軍の放火によって東大寺興福寺は殆ど灰燼に帰してしまいました。兵乱が治まってから興福寺の仏師達は、まず焼けた仏像群の再刻に取り組みます。慶派の仏師達も一緒です。

 

康慶(こうけい)

慶派の祖・康慶は、定朝の流れを汲む院派の一人の、康朝の弟子だったと言われています。康慶の作と言われる興福寺の行賀(ぎょうが)座像は肖像彫刻です。額に浮き出る血管や瞼の皺、唇から覗く歯、片膝立ての姿勢に流れる衣文の様子など、院派や円派にはない写実的な傾向が見られます。

 

運慶(うんけい)

運慶は康慶の息子です。

 運慶の最も初期の作品は、父・康慶と共作の円成(えんじょう)寺の大日如来があります。静謐で威厳に満ちたお顔と、誇張を極力排した洗練された造形で、東大寺金剛力士像とはまた違った味が有ります。

運慶の代表作は、東大寺南大門にある「阿」「吽」の「金剛力士像」です。

これは運慶一人の作ではなく、運慶はじめ快慶、定覚、湛慶ほか慶派の工房の総力を挙げて造ったものです。運慶はその総監督です。

体の各部位を各仏師達がそれぞれ担当して彫り、それらを寄せ集めて造形して行く、と言う方法で作った寄木造りです。下から見上げた視覚効果を計算に入れつつ、極端に誇張した筋肉質の体躯。腰布も天衣も風を孕んで乱れ、グワァーと見開いた目は参詣者を威圧しています。運慶は人体のリアルさを出す為に、玉眼(水晶の目)を初めて用いた仏師ですが、金剛力士像には玉眼が嵌められていません。鑿一本で彫って、強烈な眼光を表見しています。

運慶の最も技量の充実した時期の作品に、無著(むちゃく)立像と世親(せしん)立像の肖像彫刻があります。無著のこけた頬、世親の柔和な眼差し、自然に垂れた衣の襞、人間味あふれるその造りは、その人物の人生まで余す所なく表しています。

運慶は、やがて京都に進出し、定朝様式一辺倒だった京都の作風を席捲して行きます。

 

湛慶(たんけい)

湛慶は運慶の長男です。運慶には6人の男子がおりますが、皆仏師になっています。

中でも湛慶は作例が多く、代表的なのが蓮華王院本堂(三十三間堂)の中央におわします中尊が湛慶の作です。父・運慶の肉感的な写実性は影を潜め、洗練された造りで、また、お顔も少し丸味を帯び穏やかです。この千手観音菩薩坐像は湛慶82歳の時の作です。

 

快慶(かいけい)

快慶は康慶に師事し、運慶とは兄弟弟子です。

快慶は俊乗房重源の弟子で、熱心な浄土宗の信者です。1m以内の阿弥陀如来像を沢山造っており、広く民衆に支持された様子が伺えます。彼の阿弥陀仏のお顔は真面目です。半眼の目は細くて下を向いており、病臥する人への眼差しを意識して作っている様です。衣の襞は等間隔で単純化されています。写実的な人間に近付ける為に、却って誇張を含んだような運慶の造像に対して、快慶はそれをこそげ取り、平凡な人間像に近い阿弥陀仏を彫っています。快慶の作り出した安阿弥(あんなみ)様式は、それだけに類型化し易かったのですが、人々の心に受け入れられ、長く命脈を保って行きました。

 

 

余談  源頼朝東大寺

東大寺が平家によって焼き討ちに遭い、全焼してしまった時、その再建を誓った重源を全面的に応援したのが源頼朝でした。平家によって焼失した東大寺を源氏が再興してみせる、と頼朝は決心したのです。南都の仏師と武家政権との接触がここに始まります。武士好みの力強い作風がこうして生まれて来たのです。同じく焼失した興福寺藤原氏の寺でしたので、九条家(藤原氏)が再建に関わっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

44 鎌倉幕府滅亡

後醍醐天皇隠岐へ配流

1331年4月29日六波羅探題後醍醐天皇の側近・吉田定房から後醍醐帝に謀反の動き有りと密告がありました。

吉田定房従一位内大臣で、後醍醐天皇を幼い時から養育した乳父です。つまり「爺や」です。帝を諫めても聞く耳を持たなかったので、思い余って届け出たのでしょう(これは婆の推測)

因に、建武の親政後も定房は後醍醐天皇と良好な関係を保っています。

六波羅探題は直ちに「後醍醐天皇謀反」を鎌倉に伝え、御所に追捕使を向けます。後醍醐帝は密かに脱出し、笠置山で挙兵します。その時、天皇の下に集まったのは、悪党や僧兵達など3,000人ばかり。

笠置山は要害の地でなかなか攻め落とせず、六波羅は鎌倉に援軍を求めます。鎌倉は大仏(おさらぎ)貞直、金沢貞冬、足利高氏を大将にして20万余の軍を笠置山に向かわせます。しかし、幕府軍が到着する前に帝側は敗北し、山から逃げる途中後醍醐帝は捕まり、隠岐に流されます。後醍醐帝は廃帝になり、持明院統光厳(こうごん)天皇が即位します。

 

赤坂城落城

後醍醐帝の第三皇子・尊雲法親王(そんうんほっしんのう)は還俗し、護良(もりよし(もりなが))親王と名乗り、父帝に代わって令旨を全国に発し、決起を促します。

河内の楠木正成(まさしげ)が赤坂城で挙兵、護良親王も吉野で挙兵、播磨の赤松則村など各地の悪党や、反幕府勢力が蜂起します。

鎌倉軍は赤坂城に立て籠る楠木正成の奇策に散々手こずり乍らも陥落させ、続いて護良親王のいる吉野を落します。

これで反乱は鎮圧されたと見て、足利高氏等鎌倉軍は関東に引き上げます。

 

千早城の戦い

赤坂城陥落の時に死んだと思われた楠木正成が再起、千早城で挙兵し反撃を開始、幕府軍は大軍をもってしても苦戦を強いられました。幕府軍の苦戦は全国に知れ渡り、討幕の潮流は勢いを増しました。又、吉野で破れた護良親王も潜伏後、吉野で再度挙兵しました。

 

六波羅探題壊滅

1332年閏2月、後醍醐帝は隠岐の島を脱出して伯耆(鳥取県)に上陸、船上山に陣を敷き、綸旨を天下に発しました。

幕府は船上山に足利高氏名越高家を大将として援軍を差し向けましたが、4月名越高家赤松則村に敗れて討死しました。5月7日足利高氏は、鎌倉幕府に叛旗を翻し、赤松則村佐々木道誉と共に 京都の六波羅探題を攻め落とします。

 

東勝寺合戦

幕府主力軍が近畿一帯に展開している最中、5月8日新田義貞が挙兵、鎌倉に侵攻します。

鎌倉は三方山に囲まれていて、もう一方が海、守りに易く攻めるに難しい天然の要害の土地です。

新田軍は極楽寺坂、巨福呂(こぶくろ)坂、化粧(けわい)坂の三つの切通と、稲村ケ崎からの攻撃で鎌倉市街に侵入、激闘が繰り広げられます。

幕府側の諸将が次々と討死、兵の損耗も激しく、ついに北条氏の菩提寺である東勝寺に集結、生き残った者達が自刃、その数800名に及んだそうです。

1333年5月22日、ここに鎌倉幕府は滅びました。

東勝寺で自刃した執権は次の通りです。

13代基時 享年48歳

14代高時 享年31歳

15代貞顕 享年56歳

16代守時は5月18日に洲崎で自刃39歳

 

 

 

余談  基時辞世の歌

北条基時の嫡男・仲時は、六波羅探題足利高氏赤松則村と戦いましたが破れました。仲時は、北条時益と共に光厳天皇後伏見上皇花園上皇を連れて東国へ落ち延びようとしましたが、近江で野武士に襲われて時益が討死してしまい、仲時は近江の番場峠まで来て佐々木道誉に襲われて破れ、蓮華寺に於いて兵数百名と共に自害しました。

光厳天皇後伏見上皇花園上皇の身柄は佐々木道誉に託されました。

東勝寺合戦が起きたのは、その2週間後です。

仲時の父・元13代執権基時は、東勝寺で自害する時、先立った息子を思い、次の様な辞世の歌を詠んでおります。

            待てしばし死出山辺の旅の道

                同じく超えて浮世語らん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

43 後醍醐天皇

 正中の変

1324年10月7日に、「正中の変」と言う討幕未遂事件が起きました。

幕府は事件の真相を調べましたが証拠が出ず、疑われた後醍醐帝は無罪、首謀者と言われる日野資朝日野俊基の内、資朝だけが佐渡流罪、他はお構いなしの判決になりました。

 

首謀説と冤罪説

正中の変には二通りの見方があります。

首謀説 太平記の説です。学校の教科書もこの説です。後醍醐帝は討幕計画を立てたが、露見したので日野資朝と俊基に罪を被せ、自分は無罪になったという説。

冤罪説 後二条の第一皇子・邦良親王側、或いは持明院統側の陰謀説です。後醍醐帝を廃し邦良親王を即位させる為に罠を仕掛け、帝に討幕の動き有と密告させ、失脚を図った、という説です。

太平記では、乱痴気騒ぎの酒宴を隠れ蓑にして討幕を相談したとあります。しかし、実際は無礼講の茶会(闘茶)だったそうです。

研究者によると、花園天皇宸記や他の公家達の日記などを精査し、時系列順に並べて調べてみると、時機が逆転して矛盾していたり、史実とは違っている「盛り」が太平記にはかなりあるそうです。

 

安産祈願

例えば、太平記では、後醍醐帝は中宮禧子(きし)を嫌って触れようともせず子供が出来なかった、それなのに安産祈願の祈祷をしたのは討幕呪詛の為であった、と断じています。

禧子は太政大臣西園寺実兼の娘です。後醍醐は実兼の目を盗んで禧子と逢瀬を重ねた上での出来ちゃった婚です。禧子の恋の歌は「新千載和歌集」「続千載和歌集」に何首も選ばれています。「増鏡」でも後醍醐帝と禧子のアツアツ振りが載っているそうです。

太平記には実録的な態を装いながら様々なフィクションの「盛り」があるので、読み解くのに慎重さが必要です。

西園寺実兼は、幕府との連絡調整をする関東申次と言う役も担っており、実兼と幕府は良好な関係でした。後醍醐帝も「一代限りの中継ぎ」という弱い立場を、幕府の後ろ盾を得て補強したい、と思われていたのか、この頃の両者は対立していません。

 

覇帝へ

1326年3月、ライバルであった邦良親王薨去されます。

同年6月から後醍醐天皇による禧子の安産祈願(懐胎祈願?)が始まります。

因みに後醍醐帝と禧子との間には二人の内親王がおります。外に、後宮の女性達との間に30人位子供達がいます。ただ、母親が高貴な身分でないと、我が子を皇太子に立候補させる事ができません。

後醍醐帝が安産祈願を熱心に始めた裏に、帝は男子の誕生を望み、その子を皇太子にしたいと思い始めた、と見る事が出来ます。つまり「一代限り中継ぎ」を破棄して両統迭立に終止符を打ち、自分の系が帝位を継ぐ様にしたい・・・と。

当時、皇位の継承は幕府の裁可を得て行われていましたので、これを実現するには、幕府を何とかしなければなりません。

幕府の将軍は朕の臣下。臣下の更に下の家臣・執権が何の権限をもって朕に命ずるや?

後醍醐帝の思いはそこに至ったと思われます。

 

悪党の出現 

元寇以後、御家人達は窮乏、ご恩と奉公で成り立っていた鎌倉幕府の屋台骨は、次第に崩れ始めていました。

将軍がお飾り化し、執権・北条氏が実権を握っていました。ところが、今では執権すらも力を失って内管領が幅を利かせる世の中になっています。

その様な時に、荘園からの束縛も、幕府からの締め付けも受け付けない「悪党」達が各地に生まれ始めていました。

悪党の代表格が楠木正成です。

 

 

余談 茶会(闘茶)

この頃行われていた茶会は会所茶会とか闘茶とかいうものです。

美術品などを飾った会場に集まって、お茶を飲み、香りや味から産地を当てる遊びが「闘茶」です。「本茶」は明恵上人が開いた栂尾のお茶の事を言います。それ以外の産地のお茶を「非茶」と言います。やり方は香道に似ています。

初めにその日に出される数種類のお茶を試飲して、与えられた名前(花・鳥・風・月・客)を覚えます。それから、名を隠したお茶を飲んで名を当てる、という趣向です。全問正解は難しいです。婆もお茶の講習会で一度やってみましたが、5つを全部外してしまいました。いやはや難しい! 

鎌倉時代室町時代の闘茶はギャンブル性が高く、銘を当てると賞品が貰えたそうです。中でもバサラ大名・佐々木道誉の茶会では、人々の耳目を驚かす様な唐物の豪華賞品が出たそうで、大変な人気がありました。

室町幕府は闘茶の余りの過熱ぶりに、禁止令を出したほどです。

禅宗寺院の茶礼が茶の湯の黎明期とすれば、闘茶は茶の湯のビックバンと言えましょう。闘茶の弊害が、やがて侘茶誕生の方向へと向かわせていきます。

 (参考:77 室町文化(5) 闘茶)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

42 南北朝への序曲

1297年、貞時が、御家人救済に満を持して発布した永仁の徳政令が失敗に終わり、更に1299年、再び元から朝貢を求める国書が届きます。

国内外に難問を抱えた貞時は、酒浸りの毎日になって行きます。

貞時は引退し出家します。息子がまだ小さいので、中継ぎに師時を執権にします。ところが師時は1年で病死、その後立てた中継ぎは、宗宣1年、熙時3年の内に病死、次の13代基時も1年未満で執権を辞します。

執権4代を経て、貞時の子・高時が14代執権に就きます。彼は病弱でした。

執権が心許ないので、内管領は引き締めを図って益々強権的になり、御家人達の反発を買います。

 

両統迭立(りょうとうてつりつ)

承久の乱の後始末

話は承久の乱(1221年)まで遡ります。

幕府は承久の乱に勝ち、後鳥羽上皇隠岐島へ、順徳天皇佐渡島へ、土御門上皇を土佐に配流し、関係した公卿の多くを処刑、流罪、失脚などにしました。

時の天皇(4歳で践祚在位78日)は廃帝になり、後堀河帝、四条帝と続きますが、四条帝は12歳で崩御します。さて、次の帝に、幕府は土御門帝の皇子を即位させます。後嵯峨天皇です。

 

皇位継承問題

やがて後嵯峨天皇上皇になり、長男を天皇(後深草帝)にします。そして、後深草帝に子供が生まれる前に退位させて上皇にしてしまい、次男を即位させます(亀山帝)。

後嵯峨上皇は次男の亀山帝を可愛がっていました。長幼の序を守って取り敢えず長男を天皇にしたものの、長男家に子供が生まれる前に亀山帝に譲位させたのです。これでは、もし長男家に子供が生まれても、その子は皇太子になれません。

後嵯峨上皇が崩ぜられる時、後白河法皇の遺領(長講堂領)180か所の荘園を後深草帝に与え、八条院の遺領の荘園230か所を亀山帝に与えると遺言され、その上で、将来の皇位は幕府の意向に任せる、と書き残されました。

一連のこれ等の措置は、後深草上皇の不満と亀山帝の不安を増大させて諍いを起こし、双方は幕府に裁定を求めます。

 

持明院統大覚寺統

幕府は妥協案として、長男と次男の流れから交互に皇位を継ぐ様にします。

長男の後深草上皇持明院にお住まいになっていました。ですから、この流れを持明院統と呼びます。

次男の亀山帝が大覚寺にお住いになっていました。こちらを大覚寺統と呼びます。

皇位は次の様に継承されて行きます。(持)は持明院統、(大)は大覚寺統です。

後嵯峨ー後深草(持)ー亀山(大)ー後宇田(大)ー伏見(持)ー後伏見(持)ー後二条(大)ー花園(持)ー後醍醐(大)

とここまで来て、問題が発生します。

後醍醐天皇両統迭立の約束を守らなかったのです。

 

後醍醐天皇

後二条帝の後、持明院統の花園帝が皇位を受け継ぎ、その次は大覚寺統の後二条帝の第一皇子邦良親王天皇になるべきでした。が、邦良親王が幼かったので、後二条帝の異母弟の尊治親王(後醍醐天皇)が、中継ぎで一代限りであるという条件付きで、帝位に就きました。これは後宇田上皇のご意志と幕府の承認によって決められたことです。

ところが、後醍醐天皇は「中継ぎ一代限り」という条件を無視、更には両統迭立も反故にして軍事行動を起こします。

 

 

余談  長講堂領と八条院

長講堂領と言うのは、後白河法皇が所有していた荘園の総称です。

八条院領と言うのは美福門院から八条院へ受け継がれた荘園の総称です。

長講堂領や八条院領の荘園を合せると国家財政に匹敵する程になります。

これら天皇家の荘園や財政の管理は家政として「治天の君」が担い、天皇は国の政と祭祀の担当で財産管理にはノータッチでした。

治天の君」の座に就くと財力をバックに天皇や公家達を思う様に動かす事ができ、旨味も魅力もあるポストでした。「治天の君」は主に上皇がなりました。これを院政と言います。天皇が「治天の君」になった場合、親政と言います。帝位の争奪を裏返して言えば、財産が絡んだ治天の君のポストの争いでした。

ただ、両統迭立の約束は10年毎に天皇位を交替すると言うものでしたから、後二条帝のときには5人もの上皇が溜まっていて、彼等の争いは激しさを増していました。

大覚寺統に伝わる八条院領を後醍醐天皇が手に入れた事に依って、彼は財政基盤を固める事ができ、建武の中興の原資になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

41 永仁の徳政令

侍の本分は一所懸命にあります。一つの土地を命懸けで守るのが仕事でした。

彼等の元々は、国衙領(こくがりょう(国有地))や荘園(私有地)の管理人です。

領内の警察的な仕事をするのが守護と言う役目でした。

領内から租税を徴収する役目が地頭でした。

彼等が管理の手数料として貰うのは賃金では無く、土地でした。

武士政権を確立した源頼朝は、全国に守護地頭を置く許可を朝廷から貰います。武力を背景に、言わば強引に既存領地へ侵出し、土地を確保します。幕府は、守護や地頭に土地を安堵する代わり(ご恩)に、いざ鎌倉と言う時は幕府の為に奉公する、という関係を築きます。

 

分割相続制

御家人は土地の所有の保証(安堵)を得たものの、やがて「分割相続制」という制度に苦しめられるようになります。

分割相続制と言うのは、遺産相続の事で、土地の分配方法を決めたものです。

土地の2を家の跡取り(惣領)が貰い、1を惣領以外の子供達で分ける方法です。女子は0.5が貰えましたが、その様にすると、世代が下がる毎に土地は細分化されてしまいます。御家人は次第に窮乏していきました。

 

元寇

そんな時に二度にわたり元寇が起きました。御家人達はご恩に報いる為に出陣します。旅費、宿泊費などは自費です。費用を捻出する為に借金をします。後で恩賞が得られるつもりで勇猛果敢に戦いますが、戦い終わっても恩賞はありません。借金が膨らみます。土地を売り、質に入れ、何とか暮らしを立てますが、それも限界に来ていました。

 

永仁の徳政令

1297年(永仁7年)、幕府は、御家人達の困窮を救う為に永仁の徳政令を発布しました。主な内容は、御家人に売った土地や質入れした土地は、20年前以内だったら無償で返して貰える、というものでした。相手が金融業者だったら、20年以内という制限無しに、無期限前のものであってもタダで返して貰えました。それから、これ以上土地を失わないようにする為に、土地の売買を禁止しました。

金融業者がこれを承知する訳がありません。それを見越して、幕府は債権債務の訴状を受け付けない事にしました。おまけに、越訴(おっそ)を禁止しました。越訴とは、再審請求の事です。永仁の徳政令の要は、借金は帳消しにします、という政令です。

そうすると今度は、貸したお金が戻らない事を恐れて貸し渋りが起こり、経済が回らなくなりました。永仁の徳政令は1年で失敗しました。

結果、御家人達の生活は更に苦しくなり、幕府への不満が高まり、それが討幕への潮流になって行きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

40 平頼綱(平禅門)の乱

平頼綱(平禅門(へいぜんもん))の乱は、執権北条貞時が、御内人平頼綱を粛清した事件です。

身の程を弁えず権力を望み、それを掌中に収めた時、人は己の足らざるところを補おうと虚勢をはり、殊更に強く見せようとするものです。平頼綱もそうでした。

平頼綱御内人(=内管領)でした。

御家人御内人の違いは、御家人は将軍とご恩と奉公を通じて直接主従関係を結んでいる人です。御内人は北条得宗家(本家)に雇われている家僕です(得宗被官)。

北条家の御内人は、御家人よりも低い身分です。

その御内人の頼綱が、霜月騒動で有力御家人達が一掃されて、表の政治舞台のトップに躍り出ました。が、彼の頭の上には惟康将軍が居座っていました。

彼の周辺には「何を偉そうに! 御内人のくせに」と思う人が沢山いました。そこで、頼綱は自分の地位を人より上にする為に、官位を得る事に力を注ぎました。ただ、主人の貞時の位階を飛び越して上になる事は出来ないので、先ず手始めに貞時の官位を従四位上に押し上げます。父の時宗正五位下でした。そこから数えると正五位上従四位下従四位上正四位下正四位上となり、昇段は5階級特進です。少年執権貞時は、元寇で日本を守った父・時宗に比べてみても、異常な出世です。そして、頼綱自身は左衛門尉という6位の官位に就きます。余程辣腕を振るい、強引だったのではないかと想像してしまいます。

官位は朝廷の役職位です。執権は将軍の家臣であり、その家臣の家僕が朝廷の役職に就くなど前代未聞です。

1287年、頼綱は、惟康将軍を元の皇籍に戻す許可を朝廷に求め、許可されます。

1289年9月29日惟康親王の将軍を解任します。そして、後深草天皇の第六皇子・久明親王を迎えます。

1289年10月9日久明親王(13歳)の将軍宣下がなされます。

久明親王を迎えに行ったのは頼嗣次男の資宗(すけむね)。資宗は衣冠束帯に威儀を正し、美々しく飾った4~500騎の武者を従えて行ったそうです。その立派さに都人は皆一様に驚いた、とか。

資宗はこの時検非違使(位で言えば6位)になり、更に大夫判官の5位に昇進しました。

一方、頼綱の嫡男・宗綱は、父親との間が上手くいかず、冷遇されていました。宗綱は侍所所司で惟康親王に仕えていました。父が惟康親王を粗末に扱って京都へ送り返したのに対して、彼は抗議をしています。

頼綱の専横は次第にエスカレートし、公文書に得宗の花押無しに、執事書状を発する様になりました。目に余る振る舞いに、大人になった貞時(23歳)は危機感を募らせます。

1293年4月21日(旧暦3月14日)、宗綱が貞時の下に来て、「父頼綱が弟資宗を将軍にしようと謀反を企てている」と密告します。

1293年5月19日(旧暦4月12日)、鎌倉をM7.1の地震が襲いました。土砂災害、大津波など発生、推定死者27,000人以上、民家は勿論、建長寺を始め多くの寺が倒壊・損傷、甚大な被害を蒙り鎌倉は大混乱に陥りました。

1293年5月29日(旧暦4月22日)、余震が続く混乱の最中、執権貞時は平頼綱邸に兵を差し向け、どさくさに紛れて頼経を討伐してしまいます。頼綱邸は炎上し、90余名が死亡、貞時の娘二人も亡くなります。密告した宗綱は死罪を免れ佐渡に流されます。宗綱は後に内管領になりますが、また、政争に巻き込まれて左遷されてしまいます。

 

 

余談

平禅門(へいぜんもん)の乱について

平禅門の乱は、平頼綱の乱と同じものです。平頼綱は出家して杲円(こうえん)と称しましたので、それで平禅門の乱と言います。

熱原法難(あつはらほうなん)

静岡県富士市厚原(あつはら)の日蓮宗宗徒が、勝手に他人の田を刈り取る「苅田狼藉」を働いたと訴えられ、弾圧された事件。無実を主張するも、20名が鎌倉に送られます。この時、当時13歳だった頼綱の次男・資宗が捕縛された百姓達を鏑矢で攻め立てて拷問した、と伝わっています。3名が斬首、他は投獄されます。

 惟康親王京都送致について

前項「39霜月騒動」で、『粗末な御輿に逆さまに乗せらて・・』という光景を、婆は輿ではなく駕籠に載せられたのではないかと推測しましたが、調べていたら、進行方向に背を向けて座る事を言う、と出ていました。進行方向に前に向いて座るのは順当な座り方、背を向けて座らせるのは流人の扱いだそうです。

頼綱評価

 正親町三条実躬の記録に『・・・彼の仁(頼綱を指す)、一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候』とあります。当時の人が頼綱をとても恐れていたことが伺えます。

平左衛門地獄(へいざえもんじごく)

 義同周心と言う禅僧が熱海に行った時の事、地元の人から聞いた話として記しています。

平(たいら)左衛門尉頼綱の別荘が熱海にあったそうで、頼綱が亡くなるとその別荘は地面に吸い込まれる様に消えて無くなってしまった、生前殺生をし過ぎたので地獄に落ちたのだろう、と言い伝えられている、と。

婆の身も蓋もない話 。頼綱は鎌倉地震の時に誅されたのだから、同日、地震による地崩れか何かで別荘も埋まったのではないかしら、と。