三代執権・北条泰時
1183年、泰時(やすとき)は義時の側室・阿波の局の子として生まれました。庶子でしたが義時の第一子です。泰時の幼名は金剛、元服して頼時と名乗りますが、後に泰時と改めます。
承久の乱の時、泰時は幕府軍の総大将として、叔父・時房と共に東海道方面軍を指揮し、朝廷軍を撃破しています。乱の後、叔父と共に京都に駐留し、六波羅探題で戦後処理をしています。
ところで、嫡嗣子・朝時(ともとき)が将軍実朝の御台所付女官に夜這いをすると言う不祥事を起こし、将軍の勘気を蒙り、父・義時から義絶され失脚してしまいます。
1224年6月、父・義時が62歳で亡くなったので、泰時は京都から鎌倉へ戻ってきました。執権の跡目を誰が継ぐかで、後妻の口出しで揉めますが、政子の指名で三代目の執権は泰時に決まります。そんな経緯もあってか、泰時は自分の地盤が弱い事を自覚、政務を執るに当たり、指針となるべき武士の法律を制定します。
泰時は叔父の時房と、評定衆の太田康連や斎藤浄円などと相談しながら、先例や慣習を参考にして法の整備を進めました。
1232年(貞永元年)8月27日、完成したのが「御成敗式目」です。
大雑把に言うと次の様な事が書かれています。
〇神仏を敬い、神社やお寺を大切にしなさい。
〇地頭は年貢をちゃんと集めて納めなさい。不正をしてはいけません。
〇守護は犯罪を取り締まりなさい。
〇守護の領内での争いには幕府は口出ししません。自分達で解決しなさい。
〇土地争いは道理を以って裁きます。
〇謀反人は厳しく処罰します。
〇殺人や盗みをしてはいけません。
〇叙位希望は鎌倉幕府を通して行いなさい。
その他に、家族の事、後家の相続の事などなど51ヶ条に亘って、守るべき倫理や、禁止事項、罰則事項などが理解し易い言葉で書かれています。
承久の乱以後、公家達は、自分達の荘園に幕府が地頭を送り込んできて徴税作業を始めるのは困る、これでは土地の二重支配ではないか、もともと律令や公家法があるのに侍共が勝手に法律を作ってどうしようとするのかと、戦々恐々としていました。泰時は、そういう公家達に配慮して、六波羅探題にいる弟の重時に手紙を書いています。それは「この法律は公家を取り締まるものでは無く、あくまでも御家人に対してのものですから安心して下さい」と説明しなさい、という内容です。
泰時は、御成敗式目の51条を日本全国の守護・地頭に配りました。コピー機の無い時代、全て書き写して配ったのですから大変だったと思います。そのお蔭で、御成敗式目は雨が大地を潤おす様に滲み渡って行き、公家達にも受け入れられて行きました。
1242年、泰時は、四条天皇崩御の跡に御嵯峨天皇を推戴して即位させます。
同年5月9日出家、翌月の6月15日卒。享年60歳。
余談 「吾妻鏡」の内、高田郷地頭重隆公領妨害の事
1190年(建久元年)4月に美濃国の地頭と堀江禅尼が公領を妨害したとの記述が「吾妻鏡」にあります。
「四日丁亥。美濃国内地頭佐渡前司重隆井堀江禅尼妨公領。為令沙汰其事・・・」の書き出しで始まるそれは、土地争いの訴えが鎌倉にあったので則國という使者を送って調べました。使者の則國は、国の出先機関である庁舎で国家公務員である目代に言上するには、堀江禅尼の地頭職は即時停止、佐渡前司重隆は院分国に居ながら国衙領迄手を伸ばすとは不届きしごく、流罪にでも何でもして下さい、こいつが悪い事をしたなんて頼朝様はご存じないのだから、頼朝様に任命責任は無い、と申し立てます。
朝廷と幕府の二重支配の構造がここに透けて見えます。