式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

118 桃山文化13 焼物(4)・織部焼

織部焼きと言うと、先ず緑色の陶器が思い浮かびます。

以前、お茶を習いたての頃、デパートの茶道具売り場で緑釉の菓子皿を探した事がありました。その時、店員さんが珍しく近寄って来て「織部をお探しですか?」と声を掛けられました。デパートでは、客が何を見ていようと店員さんは放っといて下さるのですが、その時はたまたまそれを切っ掛けに話が弾みまして、その店員さんから色々な知識を得る事が出来ました。

緑色の釉薬織部釉と言って、その織部釉のかかった陶器を「織部焼き」と一般的に言うのだそうです。その後、織部展などに足を運び、織部焼きにも黒い茶碗や茶色い花生けなどが有るのを知り、緑釉=織部焼きと直ぐに断定できない事も知りました。彼のどの作品も、個性的で、野性的で、縄文土器の様な力強さがあります。

 

織部焼きは織部が焼いた?

織部焼きは織部が直接手を出して粘土を捏(こ)ね、窯に火を入れて窯焚きの番をしながら焼いたものではありません。殆どの物が、彼が職人達に「こういう物を・・・」と指導して焼かせたものです。そして、それが評判を呼び、高値で売れるようになったので、それに影響を受けた職人達が織部に続けと、更に自由な発想で作陶する様になりました。

この動きは窯業(ようぎょう)各地に広がりました。釉(うわぐすり)を掛けて作る美濃焼瀬戸焼唐津焼のそれぞれの産地や、釉を使わないで焼き締めて作る伊賀焼信楽焼(しがらきやき)丹波立杭焼(たんば たちくいやき)備前焼などの産地が織部の指導を仰ぎ、各地なりの技術の特性を活かしながら、工夫して新しい創作に挑んで行きました。

戦国時代の陰鬱な空気を払いのけたかの様な、派手好きの秀吉の登場によって、民衆の間にお祭り気分が爆発しました。いざ、狂え! とばかりに傾奇者(かぶきもの)が流行りました。唐物一辺倒だった茶の湯にも風穴があき、侘茶の普及も相まって安価な和物の陶器が躍り出て来ました。それを牽引したのが織部です。彼は次々と新しい意匠の陶器を世に送り出しました。

利休は「侘び」「寂び」の美の世界を求める求道者(ぐどうしゃ)でした。利休の茶は修行僧の茶です。それに対して織部はバサラの美を追い求めました。織部は創造の世界に生きる芸術家でした。

 

織部茶碗の特徴

織部の茶碗はどの茶碗も、「土」の味わいを十二分に引き出している焼物です。そして、真面(まとも)な形で無いのが特徴と言えば特徴です。口縁が円形などと言う事は先ず有り得ません。必ず何処か歪(ゆが)んでいます。展覧会で見ただけなので、偉そうなことは言えませんが、そこに何か織部の意志の様な気配を感じます。

この茶碗でお茶を点てたら点て易いか、手に持ったら手に馴染むか、お茶を服し易いかなどとそんな事を考えながら拝見していると、二つの点に気付きました。

一つは、茶碗の大きさから言って男性向きである事です。茶の湯は男の世界の物だったのだ、と改めて思います。

もう一つは、メインの絵柄がある正面手前を時計の6時に譬(たと)えると、3時か4時ぐらいの位置に、少し外に反り返った歪みが有る事です。

お茶を服する時、茶碗を少し左に回して正面を避けて服します。すると丁度そこに歪みが来ます。口を当て、唇を茶碗の縁に接してお茶を頂こうとする時、飲みやすい形になっています。

緑釉だけでは無く、又、破壊的で力強い形と言うだけでは無く、そこに客への心配りが感じられるのは、婆だけでしょうか。

用の美と造形の面白さを兼ね備えているのが織部茶碗の様な気がします。

 

織部の指導

人の評価は何を以って基準にするかで、全く意見が割れてしまう事があります。古田織部もそう言う人物の一人です。

侘茶の創始者である武野紹鴎(たけの じょうおう)、侘茶の完成者の千利休、侘茶の革新者の古田織部の三人を、天下一の宗匠と呼びます。が、古田織部については異論もあります。織部よりも細川幽斎小堀遠州を推す人も居ます。或いは、武野紹鴎千利休の二人を以って天下一とする人も居ます。ともあれ、織部は秀吉に認められ、利休の後を継いで秀吉や家康の茶頭になり、徳川秀忠の指南役にもなりました。その権威たるや大したもので、織部が良いとした物は忽(たちま)ち値段が上がり、世の中の美の視点が織部の目を借りて判断する様になりました。

 

美濃焼

焼き物が盛んになって来ると、昔から窯業の地として栄えていた日本六古窯の一つ・瀬戸(愛知県)の近くに、美濃(岐阜県)にも陶工が移り住む様になり、窯を構える様になりました。

新興窯業地・美濃は次々と実験的な試みを始めます。

瀬戸黒(鉄釉をかけて焼き、急冷させて真っ黒に発色させたもの)、 黄瀬戸(淡黄色の釉薬を掛けた物)、 志野(白釉を使った焼物で赤志野、鼠志野、志野織部など他にも幾種類かあります)、 織部(緑釉などをかけ、鉄絵などを施し、量産されていながら一つとして全く同じ形・同じ模様の物はありません)、などが生み出されました。

美濃の陶工の中に、加藤景延(かとう かげのぶ)と言う人がおりました。景延は妻木氏に仕え、屋敷を拝領してそこで陶器を焼いていました。彼は名人と言われ、正親町(おおぎまち)上皇後陽成天皇へ茶碗を献上し、筑前守の名を賜りました。

或る時、景延は森善右衛門と言う浪人から唐津の焼き物の事を聞き、唐津焼を学びに唐津へ修行に出かけます。そこで彼は連房式登窯を知ります。美濃に帰ってから、彼はその連房式登窯を築き(元屋敷窯)、織部焼きを始めます。織部焼きの中でも、この元屋敷窯で焼かれたものが最も優れている、と言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

117 桃山文化12 焼物(3)・茶の湯

六古窯で焼かれていた焼き物は、甕(かめ)や擂鉢(すりばち)、瓦が多いようです。

甕が多いというのは不思議な気がしますが、考えてみれば成程と思い至ります。何故なら、生活で何よりも必要な物は「水」だからです。お水を入れる甕が最も重要な生活必需品になります。

水の確保の為に井戸を掘り、個々の家で水甕を用意し、煮炊きに使いました。水甕から柄杓一杯の水を汲み、喉の渇きを癒しました。水甕のみならず、塩や味噌を入れる壺などにも大いに需要があったことでしょう。

古代から室町時代の頃までの焼物は、食器よりも、甕や土鍋、擂鉢、酒器などを作る方に主軸を置いていたようです。絵巻や屏風絵などを見ても、また、古の復活料理の画像を見ても、膳に乗っているのは、陶器では無く漆塗りの椀や丸皿です。

陶器の食器が膳に並ぶのは、室町時代になってからの様です。

 

茶礼 (ちゃれい or されい)

禅寺の茶礼で使う茶碗は、青磁や天目といった唐物の茶碗でした。

建仁寺には栄西の誕生日に行う法要に、四頭茶礼(よつがしらちゃれい)と言うのが有ります。大方丈で行うそれは、栄西頂相(ちんそう(肖像画))を中央に、両脇に竜虎図を飾り、三つ具足を供えて、4人の正客をお呼びして行う茶礼です。4人の正客にそれぞれ8人の相伴客が付きますので、お客様は全部で36人になります。その時に用いられるのが天目茶碗です。前もって抹茶の入った茶碗が配られ、僧が浄瓶(じょうびん)(=水差し)と茶筅を持って、客に順次お湯を注いで回り、茶筅でお茶を点てて行きます。

四頭茶礼と言う様な大きな法要は別にして、修行僧達は日に何度か全員揃ってお茶を飲む時間があります。お茶を飲み、眠気を覚まし、心身爽やかにして座禅三昧に耽(ふけ)るのですが、それらの所作は全て清規(しんぎ)という作法に則(のっと)り、無言で行われます。

今では、茶礼は抹茶とは限らず、煎茶、番茶、焙じ茶などが使われ、茶碗も普通の湯呑で行われるようです。

 

闘茶

やがて茶礼は武士階級にも広がり、南北朝時代にもなると、俗世では姿を変えて闘茶へと移って行きます。闘茶は会所と言う会場で行われました。闘茶はお茶の産地の当てっこ遊びです。豪華な景品を沢山賭けて破産者も出る程でした。ここでの茶碗も唐物の茶碗です。今も昔も、どうも日本人は舶来物を尊ぶ風が有るようで、当時の「偉い人達」は大陸からの輸入ものを持て囃(はや)し、そういうものを持つ事をステイタスとしていたようです。(参照:「77 闘茶」)

 

淋汗茶の湯(りんかんちゃのゆ)

戦国時代、古市澄胤(ふるいち ちょういん(=古市播磨))と言う大和の興福寺衆徒の武将が、「淋汗茶の湯」という茶会を開く様になりました。淋汗茶の湯と言うのは、闘茶の替わりに賭け事をしないお茶会で、その代りにお風呂を振る舞い、宴席を設けて酒盛りをする、という、なんとも派手で賑やかなお茶会でした。お風呂と言っても昔は蒸し風呂です。蒸し風呂部屋の周りに展示物を飾り、松や竹を庭に植え、築山から滝を落して客人の目を楽しませるという大掛かりな物でした。お客様は百人も呼んだそうです。

古市澄胤はそのころ山城国一揆を鎮圧中で、また、筒井順尊(筒井順慶の曽祖父)とも交戦中でしたので、彼は地盤の結束を固める為に、或いは勢力範囲を広げる為に、そういうパーティーを頻繁に開いていたのではないでしょうか。

この古市澄胤が、村田珠光(むらたじゅこう)の弟子になりました。珠光は、澄胤の「お茶」に名を借りた派手な歓待行事を諫め、侘茶を教えます。珠光は「心の文」という手紙の中で、澄胤にお茶の心を諭します。

古市澄胤は、珠光の一番の弟子になります。山上宗二古市澄胤を称して「数寄者、珠光の一の弟子、名物其数所持の人也」として、茶の湯の名人に数えています。残念ながら、後に澄胤は畠山尚順(はたけやま ひさのぶ or ひさより)と戦い敗走、自害してしまいます。

澄胤の弟子に豪商・松屋久幸が居ます。松屋久幸は「松屋三名物」を所有していた茶人として有名です。

(参照:「96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変」の内「余談 茶人・古市澄胤(ふるいちちょういん)」)

 

唐物茶碗

日本に伝わった天目茶碗は、宋の天目山の寺域一帯でごく普通に使われていた茶椀です。鉄分を多く含む土に、これまた鉄分の多い釉薬を掛けて焼いたもので、黒か褐色の茶碗です。口が少し窄(すぼ)まっていて、高台が低く、糸底の直径が小ぶりです。縁が欠けないように口造り全体に金輪を嵌めてあります。

鎌倉時代、日本の禅僧の多くが中国の天目山の禅林に留学しました。彼等は禅の精神はもとより、寺で行われていた規律や生活を日本に移植しようと、現地で使われている仏具など多くを持ち帰りました。その一つが天目の茶碗でした。そして、その天目茶碗を使って宋の様式そのままに日本の茶礼に取り入れました。

 

侘び茶碗

禅寺の茶礼が武士に広まり、闘茶などに変化しても、しばらくは唐物茶碗の出番が続いていましたが、侘茶が始まると、唐物茶碗は次第に影を潜める様になります。

侘茶では、「茶を飲む」よりも、その場の雰囲気を大切にし、空気全体を味わいながら、交わりを深くすることに重きが置かれる様になります。

季節を大切にし、趣向を凝らし、主客一体に楽しめる演出をしながら、禅の境地をその場に作り出す・・・となると、いくら端正で完成度が高い唐物茶碗であっても、春夏秋冬いつでも着た切り雀の様に同じお茶碗でお茶を点てるのは、画一的で興趣が湧きません。春ならば春らしく、秋ならば秋らしく道具を組み合わせ、侘びた土壁の庵に相応しく、或いは一輪挿しに生けた野の花に相応しく、茶碗もそれなりに変化したい・・・侘茶の指向がそうならば、自ずとそれが個性的な茶碗を生む原動力になって行きます。

楽茶碗は、一回に一碗だけ焼きます。個性そのものの茶碗です。井戸茶碗は朝鮮の庶民のご飯茶碗で、土で焼かれた極めて素朴な茶碗です。端正で無い方が良い、画一的でないのが良い、その方が味が有る、という物の見方は、工業製品的な茶碗よりも手作り感がある方を好む傾向を表しています。

侘茶が行われる様になると、懐石料理の器が、朱塗りの丸皿や椀に取って代わって、様々な形の陶器の器に盛られる様になります。侘茶のそういう美意識の延長線上に、織部の歪(ゆが)みを愛(め)でる世界が有る様に、婆は感じます。

古田織部の焼き物のデザインは、突拍子もなく突然生まれたものでは無く、侘茶の必然だったのです。

 

 

余談  松屋三名物

松屋名物には次の三つがあります。

1. 肩衝茶入(かたつきちゃいれ)銘「松屋

南宋時代、福州窯で焼かれたとされている茶入で、重要文化財です。

2. 徐熙(じょき)「白鷺図」

徐熙は南唐の画家で、水墨花鳥画の祖です。「白鷺図」は、初め足利義政が所有。その後  → 村田珠光古市澄胤 → 松谷久幸 → 東大寺 → 2千両で大坂豪商が購入 → 松花堂伝来の絵巻物と「白鷺図」と合わせて1万両で島津氏が購入と持ち主が変遷しましたが、西南戦争で焼失しました。

3. 存星(ぞんせい)の長盆

存星は漆塗りの技法の一種です。明代初期に生まれた漆塗りで、中国では「填漆(てんしつ)」と呼ばれています。存星は日本で付けられた名前です。存清とも書きます。

存星は堆朱(ついしゅ)を作る時の様に漆を塗り重ねて厚くします。厚くなった漆を彫り、文様を描きます。文様を彫った溝に、別の色漆を埋め込みます。輪郭線に沈金を施し、研ぎ出して仕上げます。

 

余録  曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)

曜変天目茶碗は、漆黒の地肌に七色に輝く星を散りばめた様な茶碗で、天目茶碗の中でも最高に美しい茶碗です。龍光院静嘉堂文庫と藤田美術館がそれぞれ1盌(わん)づつ所有しており、世界に3盌しかありません。いずれも国宝です。MIHO  MUSEUMが所有している1盌(重要文化財)を加えれば4盌になります。

天目茶碗には、他に油滴天目(ゆてきてんもく)禾目天目(のぎめてんもく)などがあります。

 

 

参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。

文中、参照として「77 闘茶」と、「96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変」の内「余談 茶人・古市澄胤」を挙げましたが、次の様にクリックすればその項へ飛ぶことが出来ます。

サブタイトルの通し番号の下に(この記事の場合は117)、小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」があります。それをクリックして頂くと、全ての目次が出てきます。そこからお望みの項へ移る事が出来ます。(薄青色の「茶の湯」は見落とし易いほど小さいです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

116 桃山文化10 焼物(1) 歴史

楽、萩、唐津、志野、織部、黄瀬戸・・・桃山の器は茶人の器です。

それまでの焼き物は、古くは祭器、でなければ生活必需品の土鍋や水がめ、穀物入れの甕(かめ)などで、食器は木製でした。庶民は木地のままの椀を、身分の在る役人などは漆塗りの椀を用いました。

家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)草枕 

      旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る   (万葉集 有間皇子)

これは飛鳥時代有間皇子が謀反の罪で護送されて行く途中で詠んだ歌です。

家にいれば笥(食器)にご飯が盛られて出て来るのに、旅の途中だから椎の葉に盛られて出て来る事よ、と嘆いています。

 

焼き物は地球の恵み

焼き物は地球の恵みです。大地の歴史の賜物(たまもの)です。

昔々、今から500万年から300万年くらい前、東海湖と言う湖がありました。その湖はとてつもなく大きく、伊勢湾や木曽川長良川揖斐川(いびがわ)の三つの流域を呑み込むほどの大きさでした。現在琵琶湖は滋賀県にありますが、東海湖があった頃は、古琵琶湖は奈良県にあり、古琵琶湖の西に隣接して奈良湖という湖もありました。その西隣に瀬戸内海になる以前の海がありました。その海は九州まで達していました。日本列島水浸しの状態でした。

火山が噴火します。隆起や褶曲、断層などで、地球内部のマグマが地表に出てきます。花崗岩質の岩石が風雨に晒され、ひび割れ、真砂土(まさど)になり、川に流され、湖に堆積します。何百万年もかけて堆積した湖底の土は粘土となり、その地層が隆起し、瀬戸、多治見、土岐、常滑(とこなめ)、碧南、四日市のなだらかな丘陵地帯を造りました。これ等の地は日本有数の窯業(ようぎょう)地帯です。伊賀、信楽(しがらき)備前、京都、砥部(とべ)唐津、有田など、皆似たような地球史を持っています。(真砂土については「59  鉄と刀」を参照)

 

陶土

陶土と言うのは、極細粒子の真砂土が水中で植物や動物などの遺骸と一緒になって堆積し、何百万年もの間圧力を受け続けて出来上がったものです。正長石や斜長石、石英や黒雲母、角閃岩、カオリナイトなどなどの石が混ざり合っていて、混ざり具合によって、陶土の性質や色などが違ってきます。

石英や長石やその他の鉱物の元素の組成は、珪素(けいそ)、酸素、カリウム、アルミニウム、カルシウム、鉄、マンガンなどですが、断トツに多いのが酸素と珪素です。あらゆる岩石にこの二つが含まれています。二化ケイ素、化鉄、化アルミニウムなどなど、金属でも何でも酸素は何処にでもくっ付いて酸化しています。カオリナイトに至ってはAl₄Si₄O₁₀(OH)₈という化学式で、酸素が18個も付いています。(酸素Oが10個と水酸基(OH)8でOが8個。合わせて18個)

 

酸化焔と還元焔(かんげんえん)

何故、酸素の話をしたかと申しますと、酸化焔と還元焔に関係が有るからです。

まず初めに、粘土を捏ねて成型し、充分に乾かしてから600℃~800℃の温度で素焼(すやき)をします。素焼きした器に絵付けをして釉薬(ゆうやく)を掛けます。

釉薬をかけた器を改めて窯(かま)の中に入れ、薪を燃やして熱していきます。次第に温度を上げて行く内に、粘土の中の水分が蒸発したり、有機物などが燃えたりして、器が痩せてきます。これを焼き締めと言います。このやり方は空気中の酸素をどんどん取り入れて焼くので、酸化焔による焼成です。

窯の中を一旦高温に上げてから、窯の取り入れ口を塞(ふさ)いで酸素を減らして焼くのが、還元焔の焼成です。

酸素の供給量を減らすと、酸素が不足しますから不完全燃焼が起き、窯の中の温度が下がります。不完全燃焼で発生した一酸化炭素は、陶土の中に含まれている鉱物の酸素を引っ張り出して、その酸素と結びつき、二酸化炭素になります。こうして酸化○○として存在していた金属酸化物から酸素を奪います。金属は酸素を失って、酸化していない元の状態に戻る、これが還元作用です。

 

土器

土を焼き、器を作ると言う作業が始まったのは、縄文時代からです。火焔式土器や縄文土器弥生式土器と言われる物です。

この時代の焼き方は、粘土を捏(こ)ねて成形したものを焚火の中に置き、野焼きして作りました。釉薬を使わず、800℃~900℃位の低い温度で焼きましたので、強度が余り無く、吸水性も大でした。こうして焼かれた土器を土師器(はじき)とか須恵器(すえき)と言います。

土師器と須恵器の違いが何処にあるのかよく分かりませんでしたが、最近、奈良文化財研究所、奈良大学京都国立博物館、工業技術総合センターなどの研究で、その差は使われている土の差だと分かったそうです。田圃の粘土で焼いたものが土師器、山の土で焼いたものが須恵器だそうです。

土器は焚火の中で、周りから酸素たっぷりの空気を貰って焼かれました。酸化焔焼成です。

 

炻器(せっき)

古墳時代の頃、高温で焼き締める製造法が朝鮮から伝わりました。これを炻器と言います。

炻器は、それまで野焼きしていたものを、炎の熱が周りの空間に逃げない様に、地下に穴を掘り、或いは半地下にして窖窯(あながま)を造り、その中に器を入れて焼きました。

炻器は土を1100℃~1250℃の温度で長時間焼成します。(ものによっては1200℃~1300℃で焼くものも有るようです)。鉄分を多く含み、大体が茶褐色か黒っぽくなります。美濃の黄土を使った乳白色の炻器も有ります。

炻器は陶器と磁器の中間で、吸水性が少なく、耐熱性があり、丈夫です。釉薬を掛けるものも有りますが、基本は釉薬を掛けません。

常滑(とこなめやき)の茶色い急須とか狸の置物、オーブンに入れて焼いても大丈夫なグラタン皿とか土鍋、タイルなどが炻器です。

 

陶器

陶器は、瀬戸の産地で焼かれたもの以外でも、特に気にする事なく普通名詞的に「瀬戸物」と言っています。それ程瀬戸焼の陶器は普及しています。また、器を作っている材質の区分から「土もの」とも言っています。これに対して磁器は「石もの」と言っています。

「土もの」も「石もの」も、両方とも粘土で作られています。

「土もの」は泥の割合が多く、混ざっている成分によって赤っぽかったり黒っぽかったりと、泥に色味がついています。面白い事に、赤っぽい土が焼きあがると赤い器になるかというとそうでも無く、意外と黒く焼きあがったりします。粘土の中に含まれている鉄分などの成分によって、また、焼成温度によって色が変わってきます。陶器は1200℃以上で焼きます。

陶器の代表的な焼き物に、益子焼萩焼美濃焼などがあります。

 

磁器

「石もの」は泥よりも長石と珪石の割合が多く、その分「石もの」の粘土は白っぽいです。

粘土の中身の違いから焼く時の温度も違ってきます。

磁器は1350℃以上で焼きます。

磁器を焼く時高温にするのは、長石や珪石が熱で溶けだして、ガラス化する事を狙っての事です。ガラス化すると、溶けだしたガラスが土の粒子の隙間を埋めるので、器の中がガラス化します。従って、磁器を光にかざすと、光が透けて見えます。また、指で弾(はじ)くと、ハンドベルの様な澄んだ音がします。

「土もの」の陶器は、光にかざしても光を通しません。指で弾いてみると、鈍い音がします。

磁器の代表的な焼き物は有田焼です。有田には泉山と言う流紋岩(火山岩)で出来た山があります。流紋岩は二酸化ケイ素が70%含まれており、長い間の温泉の作用を受けて白くなっていました。有田ではこの石を粉砕して陶土(磁器用土)を作り、磁器を焼いていました。今では泉山を掘り尽くして、土を天草から取り寄せています。

磁器の代表的な焼き物は、伊万里(有田焼)、九谷焼砥部焼(とべやき)などです。

 

日本六古窯(にほんろくこよう)

古墳時代の頃からすでに焼き物を作っていた所を、日本六古窯と言います。

六古窯は下記の六ケ所です。

越前

須恵器を焼いていました。常滑焼の技術を取り入れ、高温焼成で焼き締め、甕(かめ)や擂鉢(すりばち)などを生産。室町時代には北陸地方最大の焼き物の産地となります。

丹波

平安から鎌倉時代に興った焼き物の産地です。甕や擂鉢などを作っていました。後に小堀遠州の指導を受け茶器や茶碗なども作りました。(小野原焼、丹波焼立杭焼(たちくいやき))

瀬戸

奈良時代から平安時代に壺や皿などと共に瓦を焼く様になります。城の建設などで瓦の生産も盛んでした。古代・幻の東海湖に立地し、周辺一帯の窯業(ようぎょう)の中心的存在です。

常滑(とこなめ)

愛知県にあった猿投窯(さなげかま)は一つでは無く1000基もの窯の集団地区の事を指し、古墳時代から続いていました。それを母体にして常滑窯が有ります。

信楽

滋賀県甲賀市信楽鎌倉時代常滑焼の技術が伝わりました。壺、擂鉢、甕、茶壷、酒器などを生産。徳川将軍家献上のお茶壺道中の壺は、信楽焼です。

備前

古墳時代からの須恵器窯跡が点在しています。鎌倉時代初期に還元焔による焼締が行われ、同時代後期になると酸化焔による焼締が始まり今日に至っています。水甕や擂鉢を生産。室町時代から茶の湯の流行と共に、備前焼の茶碗の人気が出てきました。備前焼釉薬をかけません。

 

 

参考までに

焼き物は地球の恵みの項で、(真砂土については「59 鉄と刀」を参照) と申し上げましたが、次の様にクリックすればその項へたどり着けます。

サブタイトルの通し番号の下に(この場合は116)、小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出てきます。そこからお望みの項へ移る事が出来ます。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易いほど小さいです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

115 桃山文化9 漆工芸

漆器

漆器と言うと思い浮かぶのは、漆塗りのお椀ではないでしょうか。お箸やお盆、茶托や重箱など、日本人にとってはとても馴染みのある工芸品です。

漆は英語でJapanと言います。古代から日本人は漆を生活の中に取り入れて来ました。福井県若狭町の鳥浜貝塚から12,000年前のウルシが出土しました。縄文時代の遺跡から漆で接着した矢じりが見つかっています。

 

ウルシ

ウルシの仲間は60属600種もあるそうです。インドから東南及び東アジア一帯に分布しています。同じウルシと呼ばれる木であっても、木の種類によって樹液の成分が異なります。中でも日本産のウルシは、樹液の中に含まれているウルシオールと言う成分が一番濃く上質ですが、残念ながら現在、日本で生産されているウルシは数を減らし、絶滅に近い状態だそうです。今目にしている漆器は中国産の漆が使われておりす。

日本のウルシは、ウルシオールの濃度が高いだけあって、空気中の酸素と反応して網目構造の巨大な高分子を作るそうです。その状態で固まりますから、熱や湿気、酸やアルカリに強く、王水という金や白金まで溶かしてしまう強烈な酸に対しても耐性があるそうです。油にもアルコールにも強く、腐敗防止、防虫効果があり、防水や接着に優れ、しかも美しいときています。このように良い事尽くめの漆ですが、唯一の欠点は紫外線に弱いと言う事です。

貴重な日本産の漆は市中に出回る事は無く、国宝級の文化財の修復の為にだけ使われているのだとか。

 

金閣寺のエピソード

1950年(昭和25年)7月2日、放火により金閣寺が全焼した事件がありました。復元再建を望む声に、明治の解体修理の時に記録された図面や写真などを基にして、1952年(昭和27年)から再建に着手、3年後に落慶に至りました。ところがその30年後には、金箔が剥がれ落ち、下地に塗られた漆も劣化、漆黒の漆が白色化し、酷い状態になりました。

原因は下地に塗られた漆が外国産だった事と、金箔が薄かった事にありました。金箔が薄くて紫外線を通して下地の漆が劣化、ウルシの接着能力が落ちて金箔が剥がれた、と言う訳です。

1986年(昭和61年)、再度の「昭和大修理」が始まりました。この時に使われた金箔は従来よりも5倍の厚みのある金箔です。5倍箔の金箔をしっかりと接着保持できる漆は外国産の物では無く、色々研究した結果、日本産の、しかも岩手県にある浄法寺漆のみ、ということが分かりました。昭和60年の大修理は、この5倍箔の金箔・総重量20㎏を使い、1.5tの浄法寺漆を使って、今ある金閣寺の姿になっております。

 

建築と漆

 一本のウルシの木から一回に採れる樹液は耳かき一杯、一年で200gほどだそうです。それ程貴重な漆を、桃山時代はふんだんに使いました。それと言うのも、漆は米の年貢と同じ扱いで、ウルシの作付けも、木の管理も藩の命令で行われていた、という背景があったようです。お椀や棗、工芸品に使うばかりでなく、建築の装飾と塗装などにも使われました。

国宝の桃山三唐門と言われる「豊国神社唐門」「西本願寺唐門」「大徳寺唐門」の三門に加えて、二条城の唐門などは、観光や映像などでよく目にする事と思います。烏城と呼ばれる岡山城熊本城、松本城などは外壁に黒漆を塗っております。

秀吉の正室・寧々が晩年暮らした高台寺霊屋(おたまや)には、桃山時代の素晴らしい蒔絵が施されています。それにあやかって、お茶で使う棗にも高台寺と称される絵柄があり、それには必ず菊紋と桐紋が描かれています。

 

漆芸(しつげい)

 御殿建築に見られる豪華さは什器類にも及び、一層美しく漆で加飾される様になりました。伝統的な祥瑞(しょんずい)模様や、古歌に題材を取った蒔絵などの外に、葡萄(ぶどう)や茄子(なす)南蛮人などこれまで絵の題材とされなかった新しい意匠が登場しました。

 

塗る相手の材料別の名前

〇 に漆を塗ったものを木胎(もくたい)と言います。お椀などがこれです。

〇 竹細工に漆を塗ったものを藍胎(らんたい)と言います。

〇 陶器に漆を塗ったものを陶胎(とうたい)と言います。大名物の茶入れ「九十九茄子髪(つくもなすかみ)本能寺の変で焼損してしまい、その破片を集めて漆で継ぎ、色漆を塗って昔の姿に戻したと言われています。これなどは陶胎と言って良いと思います。(参照:106  信長、茶の湯御政道)

〇 に漆を塗ったものを金胎(きんたい)と言います。鉄と漆は仲が悪く上手く塗れません。そこで熱を加えて漆を焼き付けます。(よろい)小札(こざね)の鉄の部分に黒漆を焼きつけたり(黒甲冑)、建物の金具に、事前に焼付漆を施し、その上から金箔を貼って錆止めと美観を増す様にしたりしました。

〇 木や粘土の型に和紙を何枚も張り、その上から漆を塗って、乾いたら型を外して作る方法と、竹などで形を作り和紙を張って漆を塗って作る方法があります。これを紙胎(したい)と言います。高山祭の山車の屋根は紙胎で出来ています。ですから、少しでも雨が降ると山車の巡行は中止になります。棗の一閑張りも紙胎です。

 

漆の加飾の仕方

漆塗   

漆を塗った面に、色漆で絵を描く様に筆で描きます。

平蒔絵(ひらまきえ)

① 塗面に漆で文様を描き、② 漆が乾かない内に金粉や銀粉を蒔き、③ 漆を乾燥させて固着させ、④ その後、固着していない余分な金・銀の粉を筆で払って除き、⑤ 粉が払われて出て来た絵を更に磨いて仕上げます。

研出蒔絵(とぎだしまきえ)

平蒔絵の①~④までの工程は同じです。 ⑤ 金・銀の粉が払われて出て来た絵の上に、更に漆を塗って覆い隠します。⑥ 覆い隠した漆が乾いたら、⑦ 炭で擦(こす)って下に隠れた絵を研(と)ぎ出します。

高蒔絵(たかまきえ)

漆を高く盛り上げたり、炭の粉や錆の粉などを混ぜて使って文様に高さをつけたりして、金銀の粉を蒔きます。漆が乾いたら平蒔絵の④と⑤の工程に入って仕上げます。

沈金(ちんきん)

乾いた漆面に、① 刃物で傷をつけながら文様を彫り、② 彫った溝に漆を擦り込みます。③ 溝からはみ出た漆をふき取り、④ 溝内の漆が乾かない内に金箔や金粉・銀粉を埋め、⑤ 漆が乾いてから余分な箔や粉を払い落します。

螺鈿(らでん)

アワビ、夜光貝、白蝶貝、黒蝶貝などから真珠層を切り出した素材を使います。素材が厚いか薄いかで作り方が少し違います。厚い場合は、① 文様の形を、これから作ろうと思う器などの塗面に彫り、② それと同じ形に貝を切り出し、③ 切り出した②を①に埋め込み、④固着させてから、⑤ 更に上から漆を塗って覆い隠します。⑥ 漆が乾いてから覆っていた漆を炭で研ぎ出します。

素材が薄い場合は、① 素材を文様の形に切った後、上記厚切りの④⑤⑥の手順に移ります。

 平文(ひょうもん)

貝の代わりに金や銀などの金属の板を使います。螺鈿の厚切りの工程と同じです。

卵殻(らんかく)

素材は鶉(うずら)の卵や鶏の卵を細かく砕いたものです。細かく砕いた破片を、思い描く文様に合わせて貼り付けて行きます。作り方は研ぎ出し蒔絵と同じです。

堆朱(ついしゅ)堆黒(ついこく)

堆朱は朱漆を塗っては乾かし、塗っては乾かしと100回以上塗り重ねて厚みを出し(これだけ塗ってもたった3㎜程度の厚みしか出来ません)、それを彫って作ります。朱漆で作るのが堆朱、黒漆で作るのが堆黒です。

彫漆(ちょうしつ)

堆朱・堆黒も含めて、塗り重ねた漆を彫って作る方法を全て彫漆と呼びます。堆朱・堆黒は一色で行いますが、何色かの色漆を重ねて層を作り、後から彫ると、彫った断面に色の重なりが見えて、他には見られない面白さが出てきます。

 

 

余談  式正織部流の道具類

式正織部流の茶の湯で使用するお道具類で木製の物は、全て漆塗りです。

山家(やまが)の侘びた風情を醸(かも)し出す為に、木そのものの材を使って炉縁にする事があります。が、式正織部流ではそれがありません。全て漆塗りを用います。

炉縁に限らず棚や台子(だいす)というお道具類も素地の物は使わず、必ず漆塗りのものを使います。螺鈿の台子や朱塗りを使う時もあります。

式正織部流は書院で茶を点てるのを旨としています。書院でお茶を点てるのに、草庵の侘びた佇(たたず)まいを演出すれば、雰囲気がチグハグになってしまいます。炉が切られていない書院で茶を点てる・・・その場合は風炉を持ち込んで茶を点てます。風炉は「どこでもドアー」ならぬ「どこでも茶室」のアイテムです。その場合、冬でも風炉でお茶を点てます。

茶道では、冬は炉、夏は風炉を使うと決められています。何故なら、炉に炭を熾(おこ)すと、部屋全体が温もり、寒さが和らぎます。夏に風炉で火を使うと、それ程部屋に熱がこもらなくて涼しく感じられます。相手を思いやり、季節感を大切にするお茶ならではの決まり事です。

昔、江戸城で毎年正月に茶事が行われていました。将軍や御三家、大大名達が出席の下、「六天目点て」をしておりました。六つの天目茶碗を用いて点てる、とても格式の高いお点前です。その時には冬にも拘(かか)わらず風炉点てで行っておりました。

 大徳寺塔頭(たっちゅう)孤蓬庵(こほうあん)に、「忘筌(ぼうせん)と言う茶室が有ります。小堀遠州が建て、松平不昧が再建した書院で、書院造の中にも炉が切られており、草庵風の工夫がされております。そういう書院ばかりなら良いのですが、お城や御殿の書院では炉が切られていない部屋も多く、そこで活躍するのが「どこでも茶室」になる風炉のアイテムでした。

 

余談  炉と風炉

お茶の世界で炉と言うのは、ちいさな囲炉裏の事を言います。畳床に1尺4寸(約42.5cm) 四方の穴を開け、そこに囲炉裏を作ります。

風炉とは、火鉢の様なものです。持ち運びができます。

風炉の形には色々なものが有ります。

道安風炉、紅鉢風炉(べにばちぶろ)風炉(まゆぶろ)朝鮮風炉、鬼面風炉などです。

式正織部流では炉点ても風炉点ても有りますが、風炉を使う時は、主に唐銅(からがね)製の鬼面風炉を使います。

 

余談  ウルシの植樹

今、日本産ウルシの復活を目指して、NPO法人などが旗振りをして、ウルシ植樹運動を展開しています。

 

 

参考までに

何時もご愛読ありがとうございます。

陶胎の所で、「九十九茄子髪」について(参照:106  信長、茶の湯御政道)と申し上げましたが、次の様にクリックすればその項へたどり着けます。

サブタイトルの通し番号の下に(この記事の場合は 115)、小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」があります。それをクリックして頂くと、全ての目次が出てきます。そこからお望みの項へ移ることが出来ます。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易いほど小さいです。)

なお、直近の項目については、ブログの右側にある「最新記事」からお選びいただけると、その項に移ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

114 桃山文化8 服飾・染織

服飾

小袖

服装は、その時代の空気を良く表しています。

安土桃山時代に流行ったのは、気楽な下着姿でした。小袖と言う名の下着です。

小袖は、狩衣(かりぎぬ)十二単(じゅうにひとえ)等の下に着るものでした。初め、下着は筒袖でした。やがて筒袖に袂(たもと)がつきました。それを小袖と言います。(この小袖が今の着物の先祖になっています)

男子の狩衣や直垂(ひたたれ)、女性の十二単などは広口と言って袖口が縫い合わされておらず、ひらひらと開きっ放しになっていました。小袖は手首を出す所だけ開いていて、後は縫ってあり、袖口が小さく窄(すぼ)まっています。

 

女性の装い

宮廷文化華やかな頃、宮仕えの女性達は正装の十二単で居る事も多かったのですが、武士の世になると公家達の羽振りも悪くなり、唐衣を着けるのを止め、小袖(うちぎ)何領かと(はかま)と、それに表着と言う簡略化されたものになります。

底辺に生きる貧しい女性は、労働着の脛(すね)の出る様な短い袖無しを着て、細紐で着物を締め、手拭の様な布を腰に巻いて働いていました。

同じ庶民でも少し余裕のある女性は、小袖を着流し、細紐で締め、(しびら)というスカートの様な腰巻を着けました。小袖は表着として華やかになり、絞り染めや刺繍が施される様になりました。

小袖は「おはしょり」無しでそのまま着ます。丈が長ければ引き摺り、短ければツンツルテンで着ます。細かい事は気にせず、おおらかです。半幅帯より細い帯か、或いは細紐などで二巻きして前で蝶結びや片結びなど適当に結びます。現代の着物教室で習う様な、かっちりと固めた様に着る着方はしませんでした。

 

腰巻姿

夏になると大名の奥方は、小袖に腰巻姿になります。腰巻と言っても褶を巻いているのではありません。打ち掛けを巻きます。代表的な腰巻姿と言えば、お市の方肖像画(浅野長政夫人像)があります。

ネット画像でよく見ると、お市の方は白絹の綸子の小袖に、赤地の菊立涌(きくたてわく)の唐織の打ち掛けを巻いている様です。唐織の所々に丸華紋の浮線綾(ふせんりょう)という浮き織りが散らされています。浮線綾と言うのは唐織の上に浮き出る様に織るもので、技術的に大変難しい織り方です。表着の白小袖の内側に覗く、僅(わず)かな重ね襟の模様から、その下には全体が白地で、肩と裾に段を設けて草花と雲紋の肩身代わりを着ている様に見受けます。花や雲は刺繍で縫い取られているのでしょうか。それとも、それらの輪郭線が少しぼやけているので、辻が花染めでしょうか。

当時の染色技術の極致と言ってもいい様な御召し物です。

 

男子の服装

武士の出仕服は直垂(ひたたれ)です。お相撲の行司が着ているあの装束です。袴は上着と共布で仕立てられています。上着の脇は縫い合わされていません。

鎧の下に着る鎧直垂(よろいひたたれ)は戦場に臨む武士の晴れ姿、蜀江錦(しょっこうにしき)や緞子(どんす)などを使用し、豪華な装束(しょうぞくorそうぞく)になります。織田信長は南蛮渡来の鎧にマントを着たりしています。信長と言えば、彼が着用した陣羽織は「茶地唐獅子模様陣羽織」と言って非常に精巧に織られた浮線綾の唐織です。豊臣秀吉の「鳥獣模様綴織陣羽織(ちょうじゅうもよう つづれおり じんばおり)」はペルシャ製の絹の絨毯から仕立てられたものです。

直垂は武士の正装に格上げされ儀式の時に着用し、普段の出仕は小袖に袴、肩衣を着用する様になります。侍烏帽子が廃(すた)れ、茶筅(ちゃせんまげ)が流行ります。傾奇者(かぶきもの)なども現れて、常識を外れた異形な姿を誇示、街を闊歩(かっぽ)していました。

 

能装束

この時代はお能が盛んでした。ですから、能装束もきっと素晴らしいものが数多(あまた)あった筈ですが、残念ながら、あまり良く分かっていません。「白地扇面雪持柳模様肩裾縫箔」「紫地色紙葡萄模様擦箔」「桜模様唐織」などなど幾かが伝わっております。ただ、華やかさ美しさから桃山時代の気分を湛えているとして「桃山」の区分に入れているだけで、明確に時代を特定できていない様です。

(領は着物の数え方です。普通の着物は「枚」で数えます。「領」で数えるのは特別上等の物です。例えば十二単とか、束帯・狩衣・直垂とか、能衣装とか、或いは鎧とかです。十二単も、全体で一領ではなく、唐衣一領、表着一領、袿一領とそれぞれ数えます。)

 

繊維

絹の歴史

魏志倭人伝によると、倭の国から魏の国へ染織物を献上していたと言う記録があるそうです。日本書紀には大陸から技術者がやって来て、日本に綾織りなどの織り方を伝えたそうです。吉野ケ里遺跡の甕棺(かめかん)から絹製品の断片が出土した、と言う話もあります。

462年、雄略天皇の時、天皇、后妃をして、親(みずか)ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」とあります。

(「桑こ」は蚕の成虫。つまりカイコガの事です。「かしめて」はネジなどでしっかり止める事ですが、古代では手放さないで保持するとか、留めるという意味に使っていたのでしょうか。婆の勝手な想像です)

以来、途中長くの中断はあっものの、養蚕は皇后の仕事となっています。美智子上皇后様から養蚕を受け継がれ、雅子皇后様も「お蚕さん」を飼っておいでです。

 

綿の歴史

日本に綿の種が伝来したのは799年(延暦18年)だそうです。が、日本の風土に合わなかったのでしょうか。根付きませんでした。その後、専(もっぱ)ら綿を輸入していましたが、大陸でも生産が少なく、大変貴重で高価でした。それでも何とか工夫して室町時代から日本でも綿花の栽培が始まりました。戦国時代の後半になるとかなり作付面積が広がりました。

綿布は暖かく丈夫なので需要が多く、次第に生産量が増えました。夢の繊維の木綿は、下着や小袖は勿論の事、耐久性があり、仕事着や、侍の兵服に持ってこいでした。

桃山時代になると木綿はかなり普及しました。松坂木綿などが有名です。

 

その他の繊維

麻、苧(からむし)(別名苧麻(ちょま))、(くず)、(こうぞ)などは、植物の茎を細かく裂いて繊維にしたものです。庶民の着るものは大体こういう繊維で織られた布で作られていました。特殊なものに、蹴鞠(けまり)で着る袴が有ります。蹴鞠袴は交織されています。蹴鞠袴は経糸(たていと)に麻や綿や絹、緯糸(よこいと)に葛が使われているそうです。(葛布(くずふorくずぬのorかっぷ))

 

染色

先染め

染色には先染めと後染めが有ります。先染めは布を織る前に糸を染めます。

先染めの糸を使って、平織、綴織(つづれおり)経錦(たてにしき)緯錦(よこにしき)緞子(どんす)、浮線綾など様々な織り方で布を織りあげます。

 

後染め

後染めは、布を織ってから生地を染めます。

後染めには色無地、纈染(けちぞめ)などの手法があります。捺染(なっせん)手描き友禅染は、未だこの頃には有りませんでした。

纈染には、纐纈染(こうけちぞめ)夾纈染(きょうけちぞめ)臈纈染(ろうけちぞめ)、の三つの方法があります。この三つの纈染は奈良時代から用いられた染色方法です。

纐纈染は絞り染めの事です。夾纈は板で強く挟んで染料が染み込まない様にする染め方、そして、臈纈は蠟(ろう)で防染して模様を描く方法です。

 

辻が花染め

辻が花染めは、安土桃山時代に全盛した絞り染めの一種です。本当の作り方は謎に包まれていて、良く分かっていません。絞り染めの代表は、糸で点々と絞って作る鹿の子模様が有名ですが、辻が花染めは、多分描きたい模様の絵の縁に沿って麻糸で縫い、その糸をぎゅっと絞って作ったようです。

 

染料

化学染料の無い時代、当時は主に草木などを煮だした天然染料で染めていました。

藍、茜(あかね)、ウコン、槐(えんじゅ)、苅安(かりやす)、キハダ、クチナシクヌギ、五倍子(ふしorごばいし)、蘇芳(すおう)、紫根、紅花、などなどが染料の元になっています。

絹はタンパク質で出来ているので、タンパク質の分子と染料の分子が電気的に結びつき易いので染色し易く、良く発色します。

麻や苧はセルロースと言う植物繊維で出来ています。セルロースの分子と染料の分子は引きあう力が弱く、なかなか結び付きません。

そこで仲人役の媒染剤が必要になります。媒染剤には灰汁(あく)や鉄や銅、ミョウバン,酢などを使います。

 

余談  十二単(じゅうにひとえ)

十二には「御馳走を十二分に頂きました」と使われる様に、沢山と言う意味があります。十二単という名前は、後世の人が、沢山重ね着をしていた宮廷女性の装束に勝手に名付けた俗称です。正式名称は五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)と言います。

十二単の初めの頃は、単衣(ひとえ)の着物(この場合は袿と言う着物)を何領か重ねていましたが、やがて袷(あわせ)に仕立て、裏地を表地よりはみ出させて縫い、外から裏地が見える様にしました。そうすると、一枚着ても二枚着ている様に見えます。また、引き摺って歩くので、裏生地がはみ出している分、表地が汚れないと言う効果もありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

113 桃山文化 7 文学

長い戦国時代のトンネルの向こうに一筋の光を見た時、押さえつけられていた民衆の感情が、お祭りの様に爆発し、はちゃけたのがこの時代の文化の特徴です。

 

連歌俳諧(れんが・はいかい)

明るく華やかな美術や芸能が新しく興る一方で、何々物語や勅撰和歌集などの公家の手になる文学は衰退し、連歌俳諧が表舞台に出てきました。

連歌の歴史は古く、倭建命(やまと たけるのみこと)と御火焼(みひたきのおきな)が、歌を遣り取りしたのが最初と言われております。万葉集にも連歌が出てきますが、多くの人がやり始めたのが鎌倉時代で、さらに室町時代になると遊びの様に流行り始め、寺社や公家達の屋敷で連歌会が催される様になりました。(83  室町文化(10)  連歌 参照)

 

山崎宗鑑(やまざき そうかん)

俳諧の祖と言われる山崎宗鑑(1465年(寛正6年)-1554年(天文23年)は、信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛する以前に活躍した人です。歴史的区分から言えば安土桃山時代より前の時代になりますが、彼は、それ迄詠まれていた俳諧をたくさん集めて整理し、『新撰犬菟玖波集(しんせんいぬつくばしゅう)を編纂(へんさん)しました。

「新撰犬菟玖波集」は、その後の俳諧のお手本となり、文学とも認められなかった俳諧の地位を向上させました。

彼は瘍(よう)と言うおできを患(わずら)って亡くなりました。

彼の辞世は次の様な歌です。

『宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとようがありてあの世へといへ』

 

荒木田守武(あらきだ もりたけ)

同じ様に連歌俳諧の祖と言われる人物に、荒木田守武と言う人がいます。

荒木田守武(1473年(文明5年)-1549年(天文18年))は伊勢神宮宮司です。

彼は、連歌三条西実隆(さんじょうにし さねたか)に師事し、宗祇(そうぎ)・宗長・宗鑑と親交、俳諧連歌独吟千句』『法楽発句集(ほうらくほっくしゅう)』『世の中百首』などを出しています。

千句の奥書に『さて俳諧とて、猥(みだ)りに笑はせむはかりは奈何、花實を具(そな)へ風流にして、しかも一句正しく、さておかしくあらむようにと、世々の好士の教えなり』とあります。

やたらと面白可笑しくするばかりが俳諧では無い、そこには花も実もある風流が求められる、と俳諧論を述べています。

山崎宗鑑荒木田守武俳諧の基礎を造り文学性を高めた巨匠です。

 

閑吟集(かんぎんしゅう)

 世の人々が歌っていた小歌の歌詞を集大成したもので、編集者は不明です。多分お坊さんか世捨て人ではないかと言われています。

閑吟集が成ったのは1518年です。時は10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね)が将軍になったばかりで細川澄元・三好之長連合軍が、細川高国軍と熾烈な戦いを展開していました。信長が生まれる15年位前の話です。

閑吟集には恋の歌や四季の歌、厭世の歌や卑猥の歌などが載っています。代表的な歌の一つとして下記の様な歌が載っています。

『何せうぞ くすんで一期(いちご)は夢よ ただ狂へ』

 意訳:何をしようって言うの 真面目くさってさ 人生は儚(はかな)い夢なのに 何も考えずにただ遊び惚(ほ)けなよ 

 

運歩色葉集(うんほいろはしゅう)

1548年に成った国語辞書です。イロハ順に編纂し、17,000語を収録。室町時代の語彙を調べるのに重要な資料であり、百科事典の要素も持ちます。

 

天草版イソホ物語 

 1593年、天草版イソホ物語が、イエズス会の宣教師ハビアンによって、ラテン語からローマ字で日本語に翻訳され、天草のコレジオ(キリスト教学校)で、南蛮貿易で輸入された印刷機で印刷され、出版されました。70話が収録されています。

イソップ物語には『アリとキリギリス』や『ウサギとカメ』『北風と太陽』など馴染みのある話がいっぱいあります。日本では江戸時代に入ると子供の教化などに活用され、「ウサギとカメ」等の話はすっかり日本昔話化して、溶け込んでいます。

イソップは、ヘロドトスによれば紀元前600年頃に実在したギリシャに連れてこられた奴隷です。本当の名をアイソポスと言います。彼はいつも主人にこき使われていました。彼は寓話の面白い話を創って皆を笑わせたり、主人に気に入られたり して、ネガティブに陥り易い生活をポジティブに変えて暮らしていました。彼の卓越した話術に感服した主人は、やがて彼を奴隷の身分から解放します。彼は語り手としてギリシャ各地を旅しますが、彼の名声を妬んだ者に殺されてしまいます。

天草のコレジオでは、イソップ寓話集の外に、キリシタン教義の解説書、日葡辞書(日本語-ポルトガル語の辞書)、平家物語などをローマ字で印刷・出版しています。

 

関白・秀次の文化活動

 関白・豊臣秀次は一流の文化人です。彼はあの時代に、文化財の保護に力を入れ、散逸している書籍を集めております。文化財保護の考えは、余程の見識の高い人でなければ考え付かない事です。彼は為政者のトップとしてそれに取り組みました。

彼が蒐集した本は、日本書紀30巻、日本後記40巻、続日本後紀20巻、文徳実録10巻、三代実録50巻、類聚三大格の30巻、実了記、百練抄などなどがあり、源氏物語の書写もしています。

彼は集めた本を朝廷に献上しています。

 

余談  関白秀次事件を思う

太閤秀吉の甥・秀次は、秀吉の後継者に指名されて関白に就任しました。ところがその後、秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉は秀次を謀反の疑いで彼の一族を皆殺しにしてしまいました。1595年(文禄4年)に起こった、いわゆる「関白秀次事件」です。

武家の権力闘争では、殆どの場合「二頭は並び立たず」の原則が貫かれ、二頭の内の一方が殺されます。でなければ、強制的に出家させられてしまいます。

太閤秀吉は、秀頼が将来、秀次によって殺されるかもしれないとの強迫観念に駆られていたのかも知れません。殺(や)るか、殺られるかとなれば、先手を打って秀次を殺した方が勝ちです。殺す理由は謀叛とでも悪行とでも何とでも付けられます。

秀次は、殺生関白の名で後世に伝えられています。が、歴史は勝者が作るもの。それが本当かどうかは怪しいものです。むしろ、それらはとんだ濡れ衣で、彼が優れていたからこそ、優秀さの片鱗が僅かでも漏れ出ない様に、必要以上に悪逆非道の汚名を盛り上げて被せ、山の様な土饅頭の中に葬り去ったのではないかと、逆に婆は勘繰っています。

この事件は、秀次一族の討滅の余りの惨(むご)さと共に、必要以上に処罰の対象が広がりを持ち、根深く、重いものでした。処罰された者は一門・家臣・大名を含めてざっと66名になります。この数字には、秀次に連座して蟄居させられた里村紹巴等の文化人は含まれていません。

 

 

 参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。連歌俳諧の段で、(83  室町文化(10)  連歌 参照)と申し上げましたが、次の様にクリックすればその項へたどり着けます。

サブタイトルの通し番号の下に(この記事の場合は113)、小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出てきます。そこからお望みの項へ移ることが出来ます。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易いほど小さいです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響

日本の文化史を見てみると二つの変革点が有ります。そのいずれも外国に由来しています。

一つは仏教伝来です。仏教が日本に定着する様になって、阿弥陀信仰が起こり、仏教美術が隆盛し、今でもお盆行事等習俗・習慣に深く影響が及んでいます。

もう一つが明治維新です。これも黒船によって西洋文明が一気になだれ込んできました。西洋かぶれが一時的な流行に終わらず、その延長線上に現在の私達の生活が築かれています。

仏教伝来や黒船ほど大規模では無いものの、もう二つの外国絡みの出来事があり、それも見逃してはならないと、婆は考えています。それは禅宗の渡来と、南蛮文化の輸入です。

 

二つの宗教

禅宗は仏教の一つの派ですが、それまでの仏教とは少し毛色が違っております。禅宗禅宗寺院内に納まらず、「侘び」や「寂(さび)」の基底を造りました。これも和の文化として今に続いております。

南蛮人が持って来た文物は、それまで見た事もない様な珍しいものでしたが、日本人は憧れを持って素直に受け入れました。「何これ!」と驚きながらも、それを嫌悪・排除せず、「凄い、素晴らしい!」となって取り込んで行く前向きの精神がありました。信長のマントなど、それ迄の着物の常識から見れば吹き出してしまう程の物ですが、世間はそれを認め、持て囃しました。

ただ、残念ながら南蛮文化は、度重なる禁教令によって短い期間に萎(しぼ)んでしまい、深く日本文化に浸透するには至りませんでした。闇夜に打ちあがった花火の様に華やかに開いて消えてしまいました。

けれど、確かにそれがあったと言う証拠が、祇園祭の山鋒の前懸(まえかけ)や胴懸(どうかけ)、或いは見送り(山鋒の後部に架けられた懸物)に見られます。ペルシャやインドで織られた絨毯(じゅうたん)、ベルギー製のタペストリー、中国で織られたものなどは、海を越えてやってきたものです。また、南蛮図屏風が描かれたり、工芸品などに南蛮人をモチーフにしたデザインが有ったりします。

セミナリオで描かれた聖母子像などは、その後の禁教令によって破棄され、教会などの破却や、信者への弾圧などにより、キリスト教の影響は次第に拭(ぬぐ)われていきました。

 

ジパングの奇跡

スペインやポルトガルが世界各地を侵略して植民地を作った様に、「黄金の国」と称されるジパングを、何故侵攻しなかったのか疑問です。ポルトガル王室艦隊が東シナ海にやって来て、海賊や密貿易を取り締まり、明との信頼関係を築いたと、前項の南蛮貿易(2)で述べましたが、この艦隊派遣に「あわよくば」と日本侵略の下心が有ったとしても不思議ではありません。

日本にとって幸いなことに、侵略も占領も受けずに平和的な交易が行われ、彼等と良好な関係を築く事が出来ましたが、実は・・・と言えば、スペインもポルトガルも他国を侵略する程の余力が無かったのです。植民地の地域が伸び過ぎていて、兵員の配置が間に合わなかったという事情に加えて、ヨーロッパに於ける戦費増大で赤字経営の状態になっていました。

彼等は、宮の前事件(南蛮貿易(1)と(2)参照)で経験して、日本の武士達の強さを実感したに違いありません。色々な条件が重なって、黄金の国ジパングは奇跡的に植民地にならずに済みました。

 

キリシタン浸透

信長は貿易で得られる利益に目を向け、布教活動と商業活動が一体化しているキリスト教を容認しました。信長は、貿易の利益目的だけではなく、キリスト教を入れる事によって、日本の仏教の増長を抑えようともしていました。

 1549年、ザビエルが日本に着いて布教を始めました。この頃の受洗者(洗礼を受けた人=信者)は1400人だったと言われています。この年、日本での出来事と言えば、三好長慶が前将軍・足利義晴と13代将軍・義輝を近江坂本へ追い落しています。

 1565年と1569年に、正親町(おおぎまち)天皇が異教の伴天連を嫌って、追放令を出しました。1565年と言えば、剣豪将軍・足利義輝が暗殺された年です。また、1569年は信長が将軍・足利義昭の為に二条城の造営に着手し、ルイス・フロイスキリスト教の布教を許可した年でもあります。信長は正親町天皇の意志を無視しました。こうして、信長はキリスト教を保護しましたが、

1582年6月21日(天正10年6月2日)、本能寺の変が起こります。この時のキリシタンは15万人いたと言われています。

 

キリシタン禁教令

信長亡き後、その跡を継いだ秀吉は、九州で三つ巴の戦いをしていた島津氏、大友氏、竜造寺氏に停戦命令を出しますが、島津氏は聞き入れません。

1586年(天正14年)、関白秀吉は西国諸大名に島津氏の追討を命令します。
1587年(天正15年)、秀吉は弟・秀長と共におよそ30万の大軍を率いて九州平定に出陣します。余りの大軍に九州の諸将の多くは戦わずして降伏しますが、島津氏は最後迄抵抗します。
同年4月、島津氏を降(くだ)した帰り道に、秀吉は筑前筥崎に寄り、長崎がイエズス会の領地になっていた事を知ります。しかも、その領地が要塞化されていました。医師の薬院全宗(やくいん ぜんしゅう(施は読まない))の言葉によれば、彼等は信者以外の者を奴隷として売っている、と言うのです。

1587年7月24日(天正15年6月19日)、秀吉は長崎で、コエリョとカビタン・モールに、ばてれん追放と貿易の自由を宣告します。

 

サン・フェリペ号事件

1596年8月28日(文禄5年・慶長元年7月5日)、スペインのガレオン船・サンフェリペ号が、フィリピンのマニラからメキシコに行く途中、嵐に流されて土佐に漂着しました。スペインのガレオン船と言うのは、3本マストを備え、500t~600t、砲門が1列から2列あり、軍艦にも商船にもなる船でした。

日本側は取り調べの中で、「お前たちは海賊であろう」と言ったものですから、船員が怒って世界地図を示し、「日本はこんなに小さくて、俺達の国の方がこんなに大きい」と自慢しました。

「なぜそんなに大きいのか?」と日本側が問い質した所、こう言いました。

「スペイン国王は世界中に宣教師を遣わして布教させ、その土地に信者を増やしてから征服しているからだ」と話しました。

長崎のイエズス会の教会領地の件と言い、サン・フェリペ号の話と言い、これはもうキリスト教を排除するしかない、と言う結論に至って、同年の12月18日に秀吉は再び禁教令を出します。

そして、フランシスコ派の宣教師と修道士6人と、日本人信徒の20人が捉えられ、

1597年2月5日(慶長元年12月19日)に処刑されました(26聖人の殉教)。

この時没収した船の積み荷は朝鮮出兵の資金の一部に宛てられ、外の有力者などにも分けられました。船員達はサン・フェリペ号を修繕してマニラに帰りました。

 

 

余談  南蛮関連語句

南蛮人

「南蛮」の語源は、中国の中原に住む漢民族を中心にして、東西南北に住む異民族を蔑称して言う四夷(しい)或いは夷狄(いてき)の一つでした。

四夷は、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)南蛮北狄(ほくてき)の四つです。  

東夷は、大陸東端沿岸部・朝鮮半島・日本列島に住む民族。西戎は西域に住む民族。南蛮は南方の民族。北狄万里の長城以北の遊牧民族です。

日本で南蛮と言う場合は、南欧のスペイン・ポルトガル・イタリア人などを指します。概して髪の毛が黒いです。これに対してイギリス人やオランダ人は茶髪や赤毛が多いことから、紅毛人と呼びました。

 

キリスト教

キリシタンキリスト教カトリック信者の事を言いいます。英語でクリスチャン(Christian)、ポルトガル語キリシタンです。プロテスタントカトリックでは無いのでキリシタンとは呼びません。ですから、プロテスタントを信じているイギリス人やオランダ人は、キリスト教徒であってもキリシタンとは呼ばないのです。吉利支丹,切支丹、耶蘇教、天主教とも書きます。なお、伴天連(ばてれん)は宣教師を表すバードレから転じたものです。

 

カトリックプロテスタント

 カトリックローマ教皇を中心としたキリスト教の一派で、旧教とも言います。

プロテスタントカトリックに異を唱え、新しく起こしたキリスト教の一派です。新教とも言います。

カトリックで使われる聖書はラテン語でしたので人々は読めませんでした。そこで神父はキリストの生涯やマリア像などを見せて絵解きをして説教をしました。

1515年教皇レオ10世がサン・ピエトロ寺院の建築資金調達の為、贖宥符(しょくゆうふ)を販売します。贖宥符と言うのは「これを買ったら罪が許される」というお札の事です。人々は競って買いました。特にドイツは盛んでした。その時、ドイツにマルチン・ルターと言う神学者が現れて「そんな事は聖書に書かれていない」と反論します。彼は聖書をラテン語からドイツ語に翻訳、それを当時グーテンベルクが発明した印刷機で出版します。ルターの聖書はそれから各国語に訳されて行きました。多くの人がその本を読み、聖書の本当の内容を知る事になります。贖宥符の件に限らず、神父の中には自分の都合のいいようにまやかしの説法をしていた者も居て、ここにプロテスタント宗教改革が始まります。

因みにカトリックは神父や司祭と言います。プロテスタントは牧師と言います。又カトリック教会には絵画や彫刻が飾られていますが、プロテスタントの教会は十字架のみです。