式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

2021-01-01から1年間の記事一覧

99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

明応の政変 1493年(明応2年4月)、細川政元が10代将軍・足利義材 (あしかが よしき) を追放して、足利義澄(あしかが よしずみ)を11代将軍にした事件が起きました。これを明応の政変と言います。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変) 「人の世空しい(1…

98 船田の乱 土岐氏と斎藤氏

織田信長が生まれる40年ほど前、美濃の船田で始まった船田の乱は、船田合戦とも言い、土岐氏の家督相続を巡る争いが発端です。この戦いは、美濃一国に留まらず、近隣の尾張、近江、越前を巻き込む広範な地域に及びました。 石丸(=斎藤)利光が居城としていた…

97 山城国一揆

山城国(やましろのくに)はどこ? 山城国と言うのは、山向こうの国と言う意味です。昔、奈良に都があった時、今の京都は山の彼方の国でした。山背(やましろ)の国、山代とも書きました。 794年、桓武天皇が平安京に遷都した時、「山背国」の「背」の文字を忌み…

96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変

足利義尚 (あしかが よしひさ) 9代将軍・足利義尚は母親の愛情を一身に受けて育ちました。 母親はあの日野富子。彼女は子供を完全に自分の支配下に置こうとしました。 子供は親の粘土細工ではありません。親の思い通りになる子供にしようとすればする程、反…

95 応仁の乱(6) 終結への道

全てのものには始まりが有れば終わりが有ります。けれども、何時の世でも、戦争ほど始めるのは易く、終わらせるのが難しいものは他には有りません。 畠山家の家督争いから始まった応仁の乱は、参戦者のそれぞれの思惑が絡んで様々な様相を見せる様になります…

94 応仁の乱(5) 開戦

畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))と弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごり…

93 応仁の乱(4) 乱の前夜

室町幕府の政治体制はピラミッドの様な三角形をした支配体制の形ではありません。言うなれば、頂上がなだらかな丘の様になっていて、三管領四職の大名や重臣達の評議制の上に成り立っていました。将軍は一見その上に君臨している様には見えますが、将軍職と…

92 応仁の乱(3) 序章

汝(な)れや知る都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり) あがるを見ても落つる涙は 飯尾常房(いいお つねふさ) 応仁の乱で焼け野原になった都。婆の目には、終戦直後疎開から帰って来た時の東京の景色が、朧気ながら重なって目に浮かびます。 飯尾常房は細川成之(ほそ…

91 応仁の乱(2) 続・お家騒動

前項で、富樫氏、小笠原氏、六角氏、畠山氏、斯波氏を取り上げました。 ここでは土岐氏、赤松氏、山名氏を取り上げたいと思います。 土岐氏の場合 1342年(康永元年) バサラ大名・土岐頼遠(とき よりとお) が、光厳(こうごん)上皇の牛車に無礼を働いて捕らえ…

90 応仁の乱(1) お家騒動

応仁の乱は複雑過ぎて全体像を理解するのがなかなか難しいです。 そこで、こんがらかった糸を解きほぐす為に、それぞれの各守護大名の家庭の事情を集めたいと思います。その上で、それらがどの様に絡み合って行くのかを、見てみたいと思います。 先ずは富樫(…

89 趣味天下を制す 足利義政

室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、無気力で優柔不断、将軍としての実績を残さなかったばかりか、都を戦火で荒廃させた無能の将軍と誹(そし)られる事が多いのですが、どうしてどうして、彼の創造した「わび」「さび」の世界は、その後の600年…

88 足利義教(2) くじ引き将軍

宗教界の最高位の人が俗的権力を手にした時、往々にして暴走する事があります。まして神託によって選ばれたという自負がある場合、神が憑依(ひょうい)したかのように生死与奪の権を思いのままに振る舞い勝ちです。万人恐怖と言われた足利義教(あしかが よし…

87 足利義教(1) 将軍暗殺さる

嘉吉元年(1441年)6月24日、6代将軍・足利義教(あしかが よしのり) が、赤松家の西洞院二条邸に於いて催された猿楽の席で、暗殺された。義教は即死、随伴の守護大名の中に死傷者多数、現場は混乱を極めた。 [ 続報 ] 元侍所頭人・赤松満祐(あかまつ みつすけ)…

86 足利義持と上杉禅秀の乱

トップの座に据えるべき人物を選ぶのは大変です。最新のニュースでも、或る団体のトップ交代を巡る一騒動がありました。ましてや、帝位や将軍位にまつわる人事では、国を争乱に巻き込むような事態に発展する例が後を絶ちません。 足利義持 室町幕府4代将軍・…

85 元滅亡と朱元璋

日本の文化は、大陸の影響を受けながらも、それらを取り入れつヽ島国と言う器の中で独自に消化し発展してきました。 1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度の蒙古襲来を受けてから、大陸との交易が険悪になっていました。 この辺りで大陸の事情を探って…

84 室町文化(11) 武家礼法

式正織部流の茶の湯は武家の茶です。従って所作は武家礼法が基本になっています。清潔に、折り目正しく美しく、心を込めて敬い持て成すのを旨としています。 人は誰でも、雑な対応をされると不愉快になります。ぞんざいに丼物のご飯をにゅっと出されて、ドン…

83 室町文化(10) 連歌

連歌の始まり 倭建命(やまとたけるのみこと)が東北の遠征から帰る途中、供の者にお訊ねになりました。 『新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』(新治 筑波を過ぎて何日経ったのだろうか?) 御火焼(みひたき=篝火を焚く人)の翁が歌ってこう申し上げました…

82 室町文化(9) 東山御物

東山御物(ひがしやまごもつ)と言うのは、室町幕府八代将軍・足利義政が東山山荘に集めた書画文物の事を言います。これ等の蒐集品は義政が集めた物ばかりでなく、歴代の将軍達が集めた物も入っております。 東山御物の蒐集品群は、宋・元・明との交易によって…

81 室町文化(8) 水墨画

空山不見人 空山人を見ず 但聞人語響 ただ聞く 人語の響き 返景入深林 返景 深林に入り 復照青苔上 また青苔の上を照らす この詩は、王維が作った『鹿柴(ろくさい)』という有名な詩です。教科書か何かで一度は目にした事があるのではないでしょうか。王維は…

80 室町文化(7) 庭園

日本の作庭の基本は、自然の姿を写し取り、違和感なく住いに取り込む事に有ります。 自然信仰 古来の日本人は、八百万(やおよろず)の神が自然のあらゆるものの中に居る、と信じて来ました。神様は磐座(いわくら)や見事な大木を憑代(よりしろ)として降臨する…

79 室町文化(6) 銀閣寺

通称銀閣寺と呼ばれるお寺は、正式には東山(とうざん)慈照寺と言い、相国寺の飛び地にある塔頭(たっちゅう)の一つです。このように飛び地にある塔頭を境外塔頭と呼びます。金閣寺も相国寺の境外塔頭です。 銀閣寺の建っている場所は京都市左京区にあり、大文…

78 室町文化(5) 金閣寺

金閣寺 京都の北山にある金閣寺は、元はと言えば足利義満が建てた別荘でしたが、彼の死後、相国寺(しょうこくじ)に寄贈され、同寺の塔頭(たっちゅう)の一つとなりました。相国寺の境内から離れて、飛び地の様な土地に建っているお寺で、山号は北山(ほくざん)…

77 室町文化(4) 闘茶

お茶は、禅宗寺院内の茶礼が源流と言われています。 栄西禅師が宋から茶の種を日本にもたらし、九州の背振山(せふりやま)で栽培しました。それを明恵上人が分けて貰い、京都の栂尾(とがのお)でも栽培を始めました。栂尾での茶の栽培が成功し、次第に全国に茶…

76 室町文化(3) 婆娑羅(バサラ)

昔々、天竺の国にたくさんの神々がいらっしゃいました。 或る時、神々の王・インドラが、凶暴で邪悪な蛇神を斃そうと ブラフマー(創造神)に相談しました。すると、ブラフマーは、ダディーチャという光り輝く聖人の骨で棍棒を作り、それで打ち砕けば良いと教…