日本の絵画史上で巨大な鉱脈の様に太く長く続いて来た狩野派ですが、その長い歴史の中にはマンネリ化などで衰退の気配などを見せたりして、結構山や坂がありました。伝統継承が得手の者は継承に力を注ぎ、飛躍を追求する者は受け継がれてきた伝統に革新をも…
日本史の教科書に必ずと言っていい程載っている大政奉還の場面、その時使われたあの部屋は、二条城の大書院です。大書院は、襖・長押(なげし)の上の壁、天井、床の間など全てに絵が描かれており、とても豪華な部屋です。あのような絵を障屏画(しょうへいが o…
桃山文化の謂(いわ)れ 安土桃山時代と言うのは、1573年(元亀4年)、織田信長が室町幕府を倒してから1603年(慶長8年)、徳川家康が豊臣氏を倒すまでを言います。その間、たったの30年です。 信長が築いた安土城、秀吉が築いた伏見城跡地を桃山と呼んだのに因ん…
平蜘蛛の釜を所望した信長は、平蜘蛛ばかりでなく、他の茶道具にも目が無く、これぞと思うものを片端から手に入れようとしました。「名物狩り」と言われるその所業、はなはだ迷惑な行為ですが、信長にとってそれは領地拡大に匹敵する重要な案件でした。 信長…
「平蜘蛛の釜」と言うのは茶釜の銘です。その姿が蜘蛛が這いつくばった形に似ていた事から、「平蜘蛛」と名付けられたと言われています。 織田信長は「平蜘蛛の釜」の所有者・松永久秀に、その釜が是非とも欲しいと幾度も懇願したそうですが、彼は絶対に信長…
三好三人衆 三好三人衆と言うのは、三好長逸(みよしながやす)、三好宗渭(みよしそうい)、岩成友通(しわなりともみち)の三人を指します。いずれも三好長慶(みよしながよし or みよしちょうけい)の家臣でした。三人衆は、三羽ガラスとかトリオとかの同類の意味…
木沢長政 三好元長は希代の戦の巧者でした。主君・細川晴元の命ずるままに、何時も命懸けで戦ってきました。晴元の強敵・細川高国を大物崩れで討滅し、戦功大いにあった元長。ところが彼に対抗する人物が現れます。木沢長政です。 木沢長政は、守護・畠山義…
乱世は無頼無道の野蛮人の世界です。家督を巡る争奪戦や権力闘争は規模の大小を越えて、無限相似形のフラクタルを描いています。 嘉吉の乱、応仁の乱、明応の政変、永正の錯乱・・・そして、将軍・義輝の悲劇、永禄の変へと繋がって行きます。 幕府滅亡への…
大物崩れ(だいもつくずれ) 大物崩れの大物は「だいもつ」と読みます。大物(だいもつ)という地名に由来しています。大物町は兵庫県尼崎市に在ります。昔は海に面した大物浦(だいもつうら)と言う港でした。ここは細川高国が壊滅的敗北を喫して自刃した地でもあ…
細川澄之(ほそかわ すみゆき)は、永正(えいしょう)の錯乱で暗殺された細川政元の葬儀を手際よく行い、家督者たる立場を示しました。将軍・義澄も澄之を細川家の跡取りと認めました。ところが、それも束の間、事件の揺り戻しが大きく津波の様に伸(の)し掛かっ…
明応の政変 1493年(明応2年4月)、細川政元が10代将軍・足利義材 (あしかが よしき) を追放して、足利義澄(あしかが よしずみ)を11代将軍にした事件が起きました。これを明応の政変と言います。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変) 「人の世空しい(1…
織田信長が生まれる40年ほど前、美濃の船田で始まった船田の乱は、船田合戦とも言い、土岐氏の家督相続を巡る争いが発端です。この戦いは、美濃一国に留まらず、近隣の尾張、近江、越前を巻き込む広範な地域に及びました。 石丸(=斎藤)利光が居城としていた…
山城国(やましろのくに)はどこ? 山城国と言うのは、山向こうの国と言う意味です。昔、奈良に都があった時、今の京都は山の彼方の国でした。山背(やましろ)の国、山代とも書きました。 794年、桓武天皇が平安京に遷都した時、「山背国」の「背」の文字を忌み…
足利義尚 (あしかが よしひさ) 9代将軍・足利義尚は母親の愛情を一身に受けて育ちました。 母親はあの日野富子。彼女は子供を完全に自分の支配下に置こうとしました。 子供は親の粘土細工ではありません。親の思い通りになる子供にしようとすればする程、反…
全てのものには始まりが有れば終わりが有ります。けれども、何時の世でも、戦争ほど始めるのは易く、終わらせるのが難しいものは他には有りません。 畠山家の家督争いから始まった応仁の乱は、参戦者のそれぞれの思惑が絡んで様々な様相を見せる様になります…
畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))と弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごり…
室町幕府の政治体制はピラミッドの様な三角形をした支配体制の形ではありません。言うなれば、頂上がなだらかな丘の様になっていて、三管領四職の大名や重臣達の評議制の上に成り立っていました。将軍は一見その上に君臨している様には見えますが、将軍職と…
汝(な)れや知る都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり) あがるを見ても落つる涙は 飯尾常房(いいお つねふさ) 応仁の乱で焼け野原になった都。婆の目には、終戦直後疎開から帰って来た時の東京の景色が、朧気ながら重なって目に浮かびます。 飯尾常房は細川成之(ほそ…
前項で、富樫氏、小笠原氏、六角氏、畠山氏、斯波氏を取り上げました。 ここでは土岐氏、赤松氏、山名氏を取り上げたいと思います。 土岐氏の場合 1342年(康永元年) バサラ大名・土岐頼遠(とき よりとお) が、光厳(こうごん)上皇の牛車に無礼を働いて捕らえ…
応仁の乱は複雑過ぎて全体像を理解するのがなかなか難しいです。 そこで、こんがらかった糸を解きほぐす為に、それぞれの各守護大名の家庭の事情を集めたいと思います。その上で、それらがどの様に絡み合って行くのかを、見てみたいと思います。 先ずは富樫(…
室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、無気力で優柔不断、将軍としての実績を残さなかったばかりか、都を戦火で荒廃させた無能の将軍と誹(そし)られる事が多いのですが、どうしてどうして、彼の創造した「わび」「さび」の世界は、その後の600年…
宗教界の最高位の人が俗的権力を手にした時、往々にして暴走する事があります。まして神託によって選ばれたという自負がある場合、神が憑依(ひょうい)したかのように生死与奪の権を思いのままに振る舞い勝ちです。万人恐怖と言われた足利義教(あしかが よし…
嘉吉元年(1441年)6月24日、6代将軍・足利義教(あしかが よしのり) が、赤松家の西洞院二条邸に於いて催された猿楽の席で、暗殺された。義教は即死、随伴の守護大名の中に死傷者多数、現場は混乱を極めた。 [ 続報 ] 元侍所頭人・赤松満祐(あかまつ みつすけ)…
トップの座に据えるべき人物を選ぶのは大変です。最新のニュースでも、或る団体のトップ交代を巡る一騒動がありました。ましてや、帝位や将軍位にまつわる人事では、国を争乱に巻き込むような事態に発展する例が後を絶ちません。 足利義持 室町幕府4代将軍・…
日本の文化は、大陸の影響を受けながらも、それらを取り入れつヽ島国と言う器の中で独自に消化し発展してきました。 1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度の蒙古襲来を受けてから、大陸との交易が険悪になっていました。 この辺りで大陸の事情を探って…
式正織部流の茶の湯は武家の茶です。従って所作は武家礼法が基本になっています。清潔に、折り目正しく美しく、心を込めて敬い持て成すのを旨としています。 人は誰でも、雑な対応をされると不愉快になります。ぞんざいに丼物のご飯をにゅっと出されて、ドン…
連歌の始まり 倭建命(やまとたけるのみこと)が東北の遠征から帰る途中、供の者にお訊ねになりました。 『新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』(新治 筑波を過ぎて何日経ったのだろうか?) 御火焼(みひたき=篝火を焚く人)の翁が歌ってこう申し上げました…
東山御物(ひがしやまごもつ)と言うのは、室町幕府八代将軍・足利義政が東山山荘に集めた書画文物の事を言います。これ等の蒐集品は義政が集めた物ばかりでなく、歴代の将軍達が集めた物も入っております。 東山御物の蒐集品群は、宋・元・明との交易によって…
空山不見人 空山人を見ず 但聞人語響 ただ聞く 人語の響き 返景入深林 返景 深林に入り 復照青苔上 また青苔の上を照らす この詩は、王維が作った『鹿柴(ろくさい)』という有名な詩です。教科書か何かで一度は目にした事があるのではないでしょうか。王維は…
日本の作庭の基本は、自然の姿を写し取り、違和感なく住いに取り込む事に有ります。 自然信仰 古来の日本人は、八百万(やおよろず)の神が自然のあらゆるものの中に居る、と信じて来ました。神様は磐座(いわくら)や見事な大木を憑代(よりしろ)として降臨する…