式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

2020-01-01から1年間の記事一覧

45 鎌倉文化(1) 運慶・快慶

祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理を表すにしては、なんと多くの人々の血が流れたことか。末法到来の噂に庶民は怯え、兵乱と病と飢餓からの救済を求めて、ひたすら仏に祈る日々。 平安時代、貴族は極楽浄土を求めて盛んに寺院造営を行いました。財力を注げば注…

44 鎌倉幕府滅亡

後醍醐天皇隠岐へ配流 1331年4月29日、六波羅探題に後醍醐天皇の側近・吉田定房から後醍醐帝に謀反の動き有りと密告がありました。 吉田定房は従一位の内大臣で、後醍醐天皇を幼い時から養育した乳父です。つまり「爺や」です。帝を諫めても聞く耳を持たなか…

43 後醍醐天皇

正中の変 1324年10月7日に、「正中の変」と言う討幕未遂事件が起きました。 幕府は事件の真相を調べましたが証拠が出ず、疑われた後醍醐帝は無罪、首謀者と言われる日野資朝と日野俊基の内、資朝だけが佐渡へ流罪、他はお構いなしの判決になりました。 首謀…

42 南北朝への序曲

1297年、貞時が、御家人救済に満を持して発布した永仁の徳政令が失敗に終わり、更に1299年、再び元から朝貢を求める国書が届きます。 国内外に難問を抱えた貞時は、酒浸りの毎日になって行きます。 貞時は引退し出家します。息子がまだ小さいので、中継ぎに…

41 永仁の徳政令

侍の本分は一所懸命にあります。一つの土地を命懸けで守るのが仕事でした。 彼等の元々は、国衙領(こくがりょう(国有地))や荘園(私有地)の管理人です。 領内の警察的な仕事をするのが守護と言う役目でした。 領内から租税を徴収する役目が地頭でした。 彼等…

40 平頼綱(平禅門)の乱

平頼綱(平禅門(へいぜんもん))の乱は、執権北条貞時が、御内人の平頼綱を粛清した事件です。 身の程を弁えず権力を望み、それを掌中に収めた時、人は己の足らざるところを補おうと虚勢をはり、殊更に強く見せようとするものです。平頼綱もそうでした。 平頼…

39 霜月騒動(しもつきそうどう)

霜月騒動とは、鎌倉時代後半に起きた騒動で、幕府を二分する大規模な内乱を指します。11月に起きたから霜月騒動と呼んでおります。 1284年4月、第8代執権・北条時宗が亡くなり、その子の貞時が13歳で執権職を継ぎました。貞時を支えたのは乳母の夫(乳母父)平…

38 鎌倉暗雲

歴史は、ここぞと言う大変な時にそれに相応しい人を遣わすのでしょうか。 北条時宗が執権に就いたのが18歳、文永の役の時は23歳、弘安の役が30歳、そして、 1284年4月4日、死期を悟ったのか、出家したその日に34歳(満32歳)でこの世を去ります。 不動の精神で…

37 元寇(5) 弘安の役(後編)

1281年、元はいよいよ第二次日本征討を始めます。 彼等は二手に分かれて日本に向かいます。一つは朝鮮半島から出発する東路軍です。もう一つは中国大陸の寧波から出発する江南軍です。この二つの軍は6月15日壱岐で合流する約束をしました。 東路軍は、高麗人…

36 元寇(4) 弘安の役(前編)

『煩(わずら)い悩む莫(な)かれ』 一国の運命を背負う孤独な若きリーダー北条時宗。苦悩する彼に無学祖元は『莫煩悩(まくぼんのう)』と書き与えました。祖元は更に 『海虜百万、鎮西に寇す。風浪俄かに来たって一時に破没す。』(海から百万の蒙古軍が来て鎮西…

35 元寇(3) 文永の役

1268年、高麗の使者が蒙古の国書を携えて太宰府にやって来てから後、何回も日本へ使者を送り「友好か、さもなくば・・・」の瀬戸際外交を元は試みますが、日本は相変わらず無視。いよいよもってフビライは日本侵攻を決意します。 対馬の戦い 1274年(文永11年…

34 執権北条氏(8) 元寇(2) 時宗

時宗誕生 宋が金に滅ぼされて南宋が生まれ、金はやがて元に滅ぼされてしまいました。元は金を呑み込んだ後に高句麗を隷属させ、南宋を滅亡させます。 その頃日本では、執権北条時頼の正室から一人の男児が生まれました。正寿丸と言います。後の時宗です。 正…

33 執権北条氏(7) 元寇(1) 南宋滅亡

遊牧騎馬民族モンゴルの人々の視界には国境線が無く、有るのは無窮の天地でした。彼等の中からジンギスカン(太祖)が現れてからモンゴルは瞬く間に版図を広げ、広大な帝国を築きます。 蒙古は道や通信網を発達させ、欧州から中国までの東西交流を以前よりも活…

32 執権北条氏(6) トップとナンバー2

執権北条氏の四代、五代と進み、更に六代、七代と延々とブログにアップして行く事に、一体何の意味があるのかと、我ながら呆れつつ自問しております。 メインテーマの「式正織部流「茶の湯」の世界」へどう繋げて行くのか、一話一話を地層の様に積み重ねなが…

31 執権北条氏(5) 北条時頼 鉢の木

5代執権 北条時頼 5代執権北条時頼は4代経時の弟です。 ここで一つ押さえておきたい血筋の問題があります。 経時と時頼兄弟の父時氏は3代執権・泰時の長子ですが、庶子です。 泰時の本来の嫡嗣子は朝時(ともとき)です。朝時が不祥事で失脚した為に、庶子の時…

30 執権北条氏(4) 北条経時 松下禅尼

4代執権 北条経時 経時(つねとき)は、3代執権・北条泰時の長男・時氏の嫡嗣子、つまり泰時の嫡孫です。 泰時には3人の男子がおりましたが、執権職は子供を通り越して孫に受け継がれました。 事情はこうです。 泰時の三人の男の子は、不運にも長男は28歳で病…

29 執権北条氏(3) 北条泰時と御成敗式目

三代執権・北条泰時 1183年、泰時(やすとき)は義時の側室・阿波の局の子として生まれました。庶子でしたが義時の第一子です。泰時の幼名は金剛、元服して頼時と名乗りますが、後に泰時と改めます。 承久の乱の時、泰時は幕府軍の総大将として、叔父・時房と…

28 執権北条氏(2) 北条義時

二代執権・北条義時 義時は北条時政の次男で、頼朝の正室・政子の弟です。 嫡嗣子の兄・宗時が石橋山の戦いで討死したので、義時が嫡嗣子に繰り上がりました。彼は父・時政の命ずるままに父の手足となって働きました。 頼朝挙兵の時は勿論の事、義経追討軍を…

27 執権北条氏(1) 北条時政

初代執権・北条時政 北条時政を語る時、彼の異常な権力欲には嫌悪さえ覚えます。 曽我兄弟事件の戯作者は、恐らく時政ではないかと、婆は邪推しています。 時政は曽我兄弟に仇討を勧め、祐経の居場所を教える代わりに頼朝の暗殺を教唆、そして、仇討の成否に…

26 曽我兄弟仇討事件

1193年に起きた曽我兄弟仇討事件は、曽我祐成(すけなり)と曽我祐致(すけまさ)の兄弟が、「富士の巻狩り」の場で、父の仇・工藤祐経(すけつね)を討ったという実在の事件です。 原因は領地の相続争いです。歌舞伎では曽我兄弟が仇討すると拍手喝采ですが、そう…

25 源 頼朝

1160年、平治の乱が勃発します。 この乱で後白河上皇方についた藤原信頼と源義朝(河内源氏)は負け、二条天皇方の平清盛が勝ちました。負けた信頼は死罪、義朝も殺されました。武門では、勝者は敗者を皆殺しにする習慣がありました。しかし、ここに一つだけ例…

24 血で血を洗う 源氏三代 

鎌倉に幕府を開き、征夷大将軍になった源頼朝は、武家政権の樹立という大事業を成し遂げました。武家を取り纏め、政権としての形を整え、守護・地頭を置いて勢力拡大の足掛かりを作りました。そこに至る迄には、敵対した身内も、敵対しなかった身内も、頼朝…

23 お山の大将 いじめの構図

昔、昔と言ってもそう遠くない昔、婆が子供のころ色々な遊びがありました。 鬼ごっこ、ままごと、缶蹴り、馬跳び、だるまさんが転んだ、おはじき、8の字・・・・そんな中に「お山の大将」という極めて危険で乱暴な遊びがありました。 建設残土を積み上げた小…

22 源氏の諸流

いづれの御時にか 女御更衣あまた侍ひ給ひける中に・・・・・侍がおりました。 まぁ! ご冗談を、と言いたいのですが、「侍(さぶら)ひ給ひける」の「侍ひ」が「侍」の語源になっていますので、単語的には当たっています。 天皇の皇子が臣籍降下して源氏の姓を…

21 室礼(6) 床の間

床の間の室礼の原形は寺院にあります。 例えば,釈迦三尊像の場合、釈迦牟尼仏を中尊にして両側に脇侍(わきじ)を置きます。 何々会館などで二間幅くらいの広い床の間でよく見かけますが、三基の活花を飾ったり、三幅の掛物を掛けたしますが、それは中尊・脇…

20 室礼の歴史(5) 同仁斎

銀閣寺境内(正式には東山(とうざん)慈照禅寺) に東求堂と言うお堂があり、そこに同仁斎と言う部屋があります。同仁斎は四畳半の小さな部屋ですが、お茶を語る時、書院を語る時、日本の住宅建築を語る時、どうしても外せない重要な場所です。 室町幕府の将軍…

19 室礼の歴史(4) 武家文化

平安末期から鎌倉時代、更に南北朝時代から室町時代へと時代は推移して行きます。 鎌倉に武家政権が誕生しましたが、わずか3代で源氏の血筋は絶え、代わりに北条氏が執権になります。北条氏は執権政治で武家の頂点に立ちますが、苦難の連続でした。 それは、…

18 室礼の歴史(3) 禅の影響

寝殿造と言っても色々あって、太政大臣の大豪邸から地方受領の屋敷まで、規模も配置も形も千差万別だったとか。それが、鎌倉時代に大鋸(おおが)が出来て製材が容易になり、鑿が出来て溝が簡単に彫れるようになると、嵌め殺しの障子(襖・板戸などを含む)だっ…

17 室礼の歴史(2)  生活と荘厳

寝殿造りの建物は、その後の幾多の兵乱で失われてしまい、残念ながら現存しているものは一つも有りません。わずかに焼失を免れた調度類と、絵巻物や文学などと合わせて見て、その頃の貴族達の暮らし振りが偲ばれるのみです。 この時代は日本文化の揺り籠です…

16 室礼(しつらい)の歴史(1) 寝殿造

お茶席には、風炉や風炉先屏風や棚物などが配置され、床の間に掛物や花生け、或いは香合などが飾られています。これを室礼(しつらい)と言います。 室礼は茶の湯の歴史が始まるずっと前からありました。それは、寺院の荘厳の仕方で有り、寝殿造りの間仕切りの…